二つのフォーラムで

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朝日・HTB北海道フォーラム2012 「3・11からエネルギー問題を考える」が開催されました(http://mytown.asahi.com/hokkaido/news.php?k_id=01000831205280001)。

 基調講演は、北海道大学の吉田文和(http://www.econ.hokudai.ac.jp/~yoshida/j_index.htm)教授が 「原発ゼロのシナリオ~原発なしでも電力を供給できるか~」と題して、大変分かりやすいお話でした。先生の新著、「脱原発時代の北海道:http://shop.hokkaido-np.co.jp/book/products/detail.php?product_id=418」には、これからのエネルギーの展望が示されています。それにしても、日本のエネルギーバランスで、最終消費段階では「ロス」が30%にも及ぶ事実は、衝撃でもありました。まさに「省エネ」は、最大の「創エネ」ですね。

 また、いち早く福島原発事故から学んでいるスイス等の外国当局の例を引用して、日本のその後の対応・対策の遅れも指摘されていました。

基調講演・吉田文和先生

基調講演・吉田文和先生

  第二部のパネルディスカッションは、北海道グリーンファンド(http://www.h-greenfund.jp/)・鈴木亨理事長、民間事故調「福島原発事故独立検証委員会:http://scienceportal.jp/news/daily/1203/1203022.html」のメンバーを務めた鈴木一人(http://www.juris.hokudai.ac.jp/~kazutos/)先生・北大大学院教授(国際政治経済学)、吉田文和教授がパネラーで登壇し、竹内敬二・朝日新聞編集委員がコーディネーターで、内容の濃い意見交換でした。

3人のパネラーによる意見交換

3人のパネラーによる意見交換

 鈴木亨さんのお話では、電力会社の経営体質等、これまで風力発電事業で長く電力会社と付き合ってこられた経験に裏付けられたお話が興味深かったです。

 鈴木一人さんは「「安全神話」にまつわる「深層防護:http://yaplog.jp/defend_japan/archive/260」の言及に、説得力がありました。世界標準では、原子力の「深層防護」は、5段階、「第一層:逸脱防止、システム故障防止」、「第二層:事故への拡大防止(スクラム等)」、「第三層:安全停止、閉じ込め機能」、「第四層:シビアアクシデント対策」、「第五層:防災対策」、です。鈴木一人先生のブログはお薦めです(http://kazutosuzuki.blogspot.jp/)。

 ところが、すでにお気づきでしょうが、日本ではメディア等でも、これまでの責任ある人・機関の方々が、繰り返し繰り返し「多重防護」と称して、「第三層」までのリスクしか想定せずに済ませてきていたのです。国際標準に明記されている「第四層」、「第五層」を検討しない(想定しない)で、「原子力は安全」と言い続けてきた責任を問わずして、3・11以降、何を検証し、学んだと言うのでしょうか、これは「犯罪」でしょう。インターネットで、「多重防護」を検索しても、電気事業連合会のこの説明(http://www.fepc.or.jp/present/safety/shikumi/bougo/index.html)が象徴的です。

 

 もう一つ、東京での講演会 石原信雄さん(財団法人 地方自治研究機構:http://www.rilg.or.jp/001.htm)「日本人への遺言」も含蓄がありました。石原さんは、1926年生まれ。地方自治庁(現総務省)に入庁し、84年事務次官、87年(~95年)内閣官房副長官(竹下、宇野、海部、宮澤、細川、羽田、村山の7代内閣)を務められた方です(http://www.koho.or.jp/columns/ishihara/index.html)。阪神・淡路大震災で陣頭指揮をされた経験等、「危機管理」、特に「安全保障」のお話は良かったです。「最悪の事態を常日頃から考えておく必要があり、それは国民に多くの負担を強いることゆえに、避けた結果の不幸も議論することが重要」と。

 原発の再稼働については、事故の徹底的究明・検証が必須であり、その後に再稼働かどうかの決定を行うべき。同じ事故は二度と起こさないことが最も重要である、そう明言されていました。

 外交分野はじめ、どんな場合でも、「セカンド・トラックづくり」は必要であり、自由に物を言う場、対話の場が、課題を解決する道であること。そして、「対話」は、自分たちの主張をしっかり言う・伝えることであり、同時に、相手の主張を聴くこと、そうおっしゃっていました。ごく当たり前のことを、今、この時期に壇上から発せなければならない日本の実情、ここでも政治の混迷が浮き彫りになってきます。

 

 短期間に濃密なフォーラムに参加して、日本の「良心」を感じ取り、勇気も湧いてきました。まだまだ日本は立ち直れる、そんな一筋の光明とでも言いましょうか。

中田翔、大きく育って!

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 北海道日本ハムファイターズ(http://www.fighters.co.jp/index2.php)の四番・中田翔は、大きく育って貰いたいですね(http://www.hokkaido-np.co.jp/news/fighters/376021.html)。栗山監督はきっちり育ててくれるでしょう(http://www.nikkei.com/article/DGXZZO41916820Y2A520C1000000/?n_cid=DSTPCS005)。

歩く速さは何の違い?

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 東京と札幌、人の密度は別として、街なかの雰囲気で何か違うと以前から感じていましたが、歩いている人々のスピードではないかと思うのです。

 東京では、汐留から地下通路(http://www.sio-site.or.jp/)でJR新橋駅まで、よく歩くことがあります。朝などは、多くの人たちは逆方向の新橋駅から汐留に向かって、もの凄い勢いで歩いてきます、歩くといよりも走るに近い、時々は突進してくるのではないかと思われる程の押し寄せる「人の波」です。東京駅丸の内から大手町までの地下通路でも同じような人々の流れです、そのスピードに乗って行かないと前にも後ろにもぶつかりそう。

 一方札幌では、昨年(2011)3月13日から、「駅前通地下歩行空間:http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=7828」がオープンしました。かなりの頻度でここを通りますが、流れているクラシック音楽のゆったりしたテンポのせいか、ここを歩く市民のスピードが、明らかに東京のそれとは比べものにならない程ゆっくりで静か。何と表現していいのか、穏やかなうねりみたいな感じです。信号でそのリズムが途切れないのも気分がいいですね、札幌駅北口とススキノの長い地下空間を、時々進路変更しながら歩く、心地良いひと時です。

 同じように、違いは地下鉄の中でも感じます。東京の都営地下鉄大江戸線(http://www.7mansion.com/subway/e_line.html)、地下6階あたりの深さを細い電車で走っていて、最深部は地下42mだそうです。日本の地下鉄では最深部を走行し、耐震性に富んで、災害時には救助作業の大動脈として利用される「防災」目的も。そのため、非常用の「備蓄倉庫」が、麻布十番と清澄白河の両方の駅に設置されていると、何かで読みました。混雑している車内では、中央を通り抜けるのが難しいくらいの幅の狭さ、天井も低く、まさに「地下鉄」を実感する緊張感ですね。

 それに比べると札幌の市営地下鉄(http://www.city.sapporo.jp/st/)は、何ともおおらか(?)、車両数は少なく、幅は広く、車内扉は透明で見通しがいいです。「混雑」と言っても、満員電車でも、隣の人との距離が東京よりも余裕があります。この人と人との許容できる「距離感」の違いでしょうか、浜松町から羽田空港のモノレール車内でも、乗り込んで来た人が自分の隣に立つ距離の近さに何とも違和感を抱く時も多いです。

 もう30年以上前になります、首都圏のラッシュアワーのただ中いた私も、すっかり「地方」の人になりました。

2012、札幌の5月は過ぎていく

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 日本の春は、やはりサクラと共に訪れて、サクラと共に去っていく?札幌の5月も下旬を迎え、ライラックほか、一斉に咲き始めています。思い返せば、札幌市内のサクラがどうこうというのも、自分にとっては10年くらい前までは考えられなかったです、とにかく仕事で動き回っていて目に入りませんでした。

札幌市中央区の住宅地で(5月10日)

札幌市中央区の住宅地で(5月10日)

大通公園西12丁目(5月19日):終りかけのサクラとライラック(右)

大通公園西12丁目(5月19日):終り頃のサクラとライラック(右)

 大通西13丁目の「札幌市資料館:http://www.s-shiryokan.jp/」は、私の幼い頃は裁判所でしたが、札幌軟石を使った建物としては全国的にも貴重なもので、裁判所の移転に伴い、1973(昭和48)年11月3日に札幌市資料館として開館しました。さらに、以前、この欄でもご紹介した新渡戸稲造が創設した「遠友夜学校」の「記念室:http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=5980」も、2011(平成23)年10月4日から、この建物に移転して加わりました。

 一方、その隣の「札幌市教育文化会館:http://www.kyobun.org/」では、先日、「NPO法人 北海道市民環境ネットワーク(きたネット):http://www.kitanet.org/index.html」の「2012通常総会」が開催されました。18日付で、「認定NPO」の法人資格を取得することができて、今年設立10周年、寄付しやすい環境が整いました。

 大通公園では、今日から「第54回さっぽろライラック祭:http://www.sweb.co.jp/kanko/lilac/」が始まります!

札幌市教育文化会館(5月19日)

札幌市教育文化会館(5月19日)

 円山公園では、親子連れがのんびりと春の日差しの下、ピクニックです、まさにこの像のメッセージを絵に描いたような光景に感動します。

円山公園北一条側:「ふるさと母子像」周辺

円山公園北一条側:「母子像・ふるさと」周辺

2012「学校林」、春の散策会

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 札幌南高校の「学校林:http://www.sapporominami.hokkaido-c.ed.jp/hp/a/gakorin.html」で行われる「春の散策会」に参加しました、今年は120名を越える参加者で、天気にも恵まれて、気持のよい時間を過ごしました。この学校林は、一般財団法人 札幌南高等学校林(http://www.rikka.net/officer/が所有・管理してきて、今年で100周年の節目を迎えます(http://www.sapporominami.hokkaido-c.ed.jp/hp/a/kankyo.pdf)。

 エゾエノキ(http://moiwashita.blog95.fc2.com/blog-entry-109.html)の植林とそこに繁殖する国蝶・オオムラサキ(http://www.pteron-world.com/topics/world/oomurasaki.html)の観察・研究で有名で、定時制教諭の箱崎先生は、その中心的役割を担っています(http://blogs.yahoo.co.jp/sinrin81024/61351441.html)。

箱崎先生によるエゾエノキ・オオムラサキの説明

箱崎先生によるエゾエノキ・オオムラサキの説明

植林したエゾエノキに生育するオオムラサキの幼虫(こげ茶色)

植林したエゾエノキに生育するオオムラサキの幼虫(こげ茶色)

  山林の中にある記念碑ですが、その土台が数年前の地震で大きくずれたようです、石碑は歴史を刻む?

山林の中にある記念碑、数年前の地震で土台が大きくずれていました

大きくずれた記念碑の土台

 

 毎年、秋の散策会(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=6209)では、きのこの観察と採集、そして有明小学校校庭で「キノコ汁」での懇親を深め、春の散策会は、季節の山菜の観察と採取、そして美味しい「山菜天ぷら」です。

春は「山菜天ぷら」で

春は「山菜天ぷら」で:南37期の方々、ありがとうございます

 毎年、卒業25年目に受け持つ同窓会「幹事当番期」、今年は南37期の皆さん、実行委員長は野地秀一さんです。この散策会の準備を担って、これから秋の同窓会総会・懇親会ほかのお世話をしてくれます。当日は早くから同期の皆さんが大勢駆けつけて、天ぷら、焼きそば、うどん等を提供して頂き、お疲れさまでした。

今年度の実行委員長・南37期の野地秀一さん

今年度の実行委員長・南37期の野地秀一さん

 今年は、私も、いつになく山菜採りに熱中してしまい、山から下りてきて、首に掛けていたタオルをどこかに置き忘れたことに気がつきました。100周年を迎えて、これまでの先人の森林保全のご尽力に感謝するとともに、これからは、教育林、環境林として、その価値を幅広く共有していきたいものです、楽しみですね。

外岡秀俊さんの志

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 メディア・アンビシャス(http://media-am.org/)5月例会で、外岡秀俊(http://1994-4991.at.webry.info/)さんのお話と意見交換を行いました。永年、朝日新聞社(http://www.asahi.com/shimbun/)の中で豊富な経験を積み、昨年4月以降は、一人のジャーナリストとして、ふるさと札幌に拠点を構えての活動に、一層の飛躍を期待したいですね。最初にお願いの電話をした時に、「北海道新聞から朝日新聞に移った青木美希さんから、この会のことは聞いていました」とおっしゃっていて、企業を越えた「北海道つながり」に感謝でした。

 朝日を退職してゆっくり札幌で活動と思っていた矢先の3・11、以前の阪神淡路大震災、中国の四川大震災等の取材経験を踏まえて、今年になって出版した2冊の本(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=12747)も大変読み応えのある内容でした。

 経歴: 1953年札幌市に生まれる。1977年東京大学法学部卒業。同年朝日新聞社入社。社会部、外報部、ヨーロッパ総局長、東京本社編集局長、編集委員などを歴任。著書『北帰行』(河出書房新社、1976)、『アメリカの肖像』(朝日新聞社、1994)、『国連新時代』(ちくま新書、1994)、『地震と社会』上下(みすず書房、1998)、『日米同盟半世紀――安保と密約』(共著、朝日新聞社、2001)、『傍観者からの手紙 FROM LONDON 2003-2005』(みすず書房、2005)、『情報のさばき方――新聞記者の実戦ヒント』(朝日新書、2006)、『アジアへ――傍観者からの手紙2』(みすず書房、2010)。

 

 お話の中から幾つか~~~~~~~~~~~~~~~~

<3・11を経て、メディアの課題>

* 20㎞圏内にメディアのいない状態: 残っている住民が居るにもかかわらず・・・・、取材は外国メディアばかり――>非常時に、業界・組合等での「約束ごとに従う」は、本来のジャーナリズムとしてあるべき姿なのだろうか、紛争地にメディアは飛び込んでいくもの

* SPEEDI(文部科学省管轄:http://www.bousai.ne.jp/vis/torikumi/030101.html)発表の大幅遅れ: アメリカ軍には連絡していた現実

* 低線量、内部被曝への言及がほとんどなし: これまでの「専門家」は、「この時、この場」で何をしていたのか

* 「9・11」と「3・11」: どの国でも、ある種の興奮状態: 批判等には「非国民」のレッテル、それ故の躊躇

* アクセス・ジャーナリズム(ファクラー氏の発言より)――役所・企業等の取材源に批判的記事を書けない

 

<支援の在り方> 

* 四川地震の「対口(たいこう)支援:http://www.drs.dpri.kyoto-u.ac.jp/projects/saigaitaioken/shiryo/0910_03_06S.pdf」を参考にしては:  (例) 関西広域連合、国境を越えた知恵の連鎖

 

<今後の問題点>

* 沖縄、水俣、原爆症: 沖縄の基地と原発は同じ「構図」――>全国紙の4支局体制の下、地方の出来事はどうしても「ローカル扱い」となる、東京での扱いが全て小さい

* 事故原因の解明と責任追及

* 健康被害の長期化

* 災害時のメディア連携――> 会社単位での限界

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ふだん、メディアを語る場合、掲載された記事・放映された番組の批評等が話題になりますが、今回ではそれ以前の、そこに人々が生きている、倒れているにもかかわらず、その事実を伝える使命よりも、「きまり」、「常識」を打ち破ることなく退避した日本のマスメディアへの外岡さんの言及が印象的でした。「メディア空白の世界」の恐ろしさ、今一度、原点を思い出しました、以前、この会で、独裁政治・恐怖政治は、まずメディアの奪取から始まるとも、どなたかの発言がありました。

 外岡さんが、なぜ大震災等を追いかけ続けるのかを聞いたところ、ワシントン勤務時代の戦争報道を、途中で帰国したことがトラウマのようになっていて、その後の阪神淡路大震災では、1年以上現地に入り取材をし続けたとか。被害の実態、被害者のその後等、多角的な寄り添う視座で、持ち前の優れた表現力を駆使して、ジャーナリストの存在感を示していますね。

 「朝日という大企業を辞めて、今回、一人の人間として現地を取材して、その違いは感じませんでしたか?」と、やや意地悪な質問もしました。彼は、「現地で、自分の書いた『アエラ』の記事を持参しながら、個人の名刺を渡して取材をしましたが、被害にあった方々は、誰ひとり差し出した名刺を見ることなく語り始めたのです。そんな体験の中で、取材という活動には、企業とか個人とかはほとんど関係ない、そう思いました」と。勿論、その取材を支えるロジスティクスでは大きな差があるのでしょうが、「取材」そのものについては、まさにジャーナリストとしての「誠実さ」、「寄り添う眼差し」が、メッセージを引き出す力となるのでしょう。

 今回、私なりの大きな目的は、地元北海道新聞(http://www.hokkaido-np.co.jp/)の方々と元朝日新聞の外岡秀俊さんとが、近距離で意見交換する場を実現したい、そんな目論みもあり、これは大成功だったように思います。沖縄問題における琉球新報(http://ryukyushimpo.jp/)、沖縄タイムス(http://www.okinawatimes.co.jp/top/)の存在、3・11とりわけ原発報道でひと際輝く首都圏の東京新聞(http://www.tokyo-np.co.jp/)等、地域に根差して地道な取材を積み重ねて検証していく、それを応援する人々が語り合う、そんな場にしたいという思い、それがメディア・アンビシャスの「大志」です。

 余計なことですが、外岡秀俊さんは私の小・中・高校の3年後輩、小学校の時に学級委員の会議で、何故か3年生で初めて出席した彼の姿を今も覚えているのです、不思議ですね。1976年の著書「北帰行」もすぐに買いましたが途中で挫折、私の片思いではあります、彼には札幌を拠点に世界を舞台に活躍して頂きたいですね、今後のご活躍を祈念しています!

沖縄復帰40周年

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 沖縄復帰40周年の今年、15日に、「沖縄復帰40周年記念式典:http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120515-00000096-mai-soci」が開催されました。上原康助さんの絞り出すメッセージは、通り一遍の「記念式典」では、ひと際届くものだったようです。

 

 毎日新聞の記事によると、~~~~~引用 はじまり

 宜野湾市で開催された政府と沖縄県共催の記念式典で、元沖縄開発庁長官の上原康助さん(79)は、日米のはざまで翻弄(ほんろう)され続けてきた沖縄の苦難の歴史をとうとうと語った。

 「沖縄戦で、沖縄は本土防衛の捨て石扱いで苦難と犠牲を強いられた。日本は敗戦から立ち直ったが、沖縄は日本から分断され、27年の長期にわたって米軍の占領下で呻吟(しんぎん)させられた」。米軍基地を残したままで実現した40年前の本土復帰は「県民の思いとかけ離れたものでしかなかった」と指摘し、「戦前、戦中、戦後の苦難の歴史を決して忘れてはいけない。その根源は残念ながら今も続いている」と厳しい表情で続けた。

 70年の戦後沖縄初の国政選挙で旧社会党から衆院議員に初当選し、10期務めた反基地運動の闘士。97年2月の衆院予算委員会では「もし沖縄が独立する場合、どういう法的措置が必要か」と、基地縮小に本腰が入らない政府の姿勢に、沖縄独立論をぶつけた。

 この日、式典の同じ壇上に野田佳彦首相、ルース駐日米大使が並んだ。2人の前で「民主主義社会は世論を尊重することが基本。なぜ、両政府は沖縄県民の切実な声をもっと尊重しないのか」と、国会質問さながらの熱を帯びた言葉で迫った。あいさつは約8分40秒に及び、会場から盛んな拍手が送られた。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 引用 おわり

 

 私にとっての「沖縄」は、その言葉は随分長いのですが、本当の意味の理解とか歴史認識は恥ずかしい程浅く、これまで私なりに沖縄に関する記載は3年半で以下の程度です。

* 沖縄密約判決: http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=3888

* 沖縄密約: http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=4045

* 検証報道: http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=4386

* 沖縄「慰霊の日」: http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=4402

   http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=4575

   http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=9113

* メディア大賞: http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=7303

* 海戦からみた「戦争」: http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=9991

* 「基地」: http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=12906

* 浦崎信子さん: http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=1152

 

 上原康助さんのおっしゃる通り、、「戦前、戦中、戦後の苦難の歴史を決して忘れてはいけない。その根源は残念ながら今も続いている」のでしょうね。「忘れない」に止まることなく、私たちの世代としてはさらに一歩踏み込んでの行動が必要なのだと思います。

 「沖縄」の構図は、「原発」を巡る構図と同じです。「3・11、及びそれ以降」を経験している私は、新しい歴史を創る気概をもって自分のフィールドで成果を出したいと決意をあらたにしました。「今、ここ」を外して、どこで生きるのかです、ね。

キッシュさん親子、日本に寄せる心

Posted by 秋山孝二
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 この欄に、何回も登場しているキッシュ・シャンドールさんは、15年以上も駐日ハンガリー大使館(http://www.mfa.gov.hu/kulkepviselet/JP/jp/)に勤務されていた元外交官です。奥さまは学校で日本語の教師をつとめられると同時に、ハンガリーで日本語の国家試験の問題作成にも当たられています。お嬢様のレイカさんは、完璧な日本語を駆使してプロの通訳としてご活躍中、10年前の7月に天皇・皇后両陛下がハンガリー・ブダペストをご訪問された時(http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/speech/speech-h14e-easterneurope.html#HUNGARY)には、美智子妃殿下の公式通訳をされました。とにかく敬語の使い方ほか、正確で優しい彼女の日本語に接して、あらためて日本語の美しさを感じ取ります。ブダペストでご活躍の息子さんは、コンピューターのエンジニア、やはり日本語に堪能で、とにかくキッシュさん一家の日本に寄せる熱い気持には、こちらが感動します。

レイカさん、シャンドールさん、堅田さん、お疲れ様でした

レイカさん、シャンドールさん、堅田さん、お疲れ様でした

 これまで、いくつか書きました:

* 2年前に札幌で開催されたフォーラム(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=6371

* 同じ年、東京中野区の哲学堂公園に建立された「哲学の庭」一周年記念フォーラム(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=6768

* 昨年のルーマニア・ハンガリー訪問での式典&フォーラム(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=10355、 http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=10423

 毎回、キッシュさんは中心になってご準備をされて、お世話になっています。札幌の劇団がハンガリーを訪問した時も、ワグナー・ナンドール関係の訪問でも、笑顔を絶やさず、そのホスピタリティには学ぶことばかりです。

 「外交官」と言えば、私はこれまでたくさんの「外交官」にお会いしてきましたが、正直に言って、どこか「尊大な」方が多く、親しみを感じることが難しかったですね。外国でお仕事をされていると、数々の外交特権があり、仕事を終えられた後も何かその「特権から抜けられない人格」となってしまうのでしょうか。特に、戦後の経済成長を成し遂げた日本国の経済力を背景に仕事をされたきたゆえなのかもしれません。

 ある北欧の国の日本大使館の外交官(ある省から大使館に出向中)は、夕食をご一緒中に突然パスポートか身分証明書を私に見せて、「この番号があると、レストランで代金を踏み倒すこともできるんだ!」と。私は思わず、「はぁ、それで?」と言ってしまいました。

 また、アメリカのある都市に駐在の総領事は、企業訪問を続けていた私に、「最近の民間外交も御熱心ですな~」と、冷やかな笑いで言い放ちました、真剣な企業訪問を薄っぺらな「外交」と一緒にされてはたまりません、第一に「民間外交」という言葉自体、何と侮蔑した表現ではありませんか。一方、ヨーロッパで大使館勤務を経験されてワインにお詳しい方は、「私は大使館勤務で、ヨーロッパのワインを殆ど試してみました」と誇らしげ。「ワイン通」を自称する方で、ご自分のお金で飲んで経験を積んだ方は数少ないですね、特に外交官の場合は、「国民の税金」でしょう、その国民への感謝の気持も全く感じていない、何がワインの味ですか。これまでの「くそ~っ」と思った体験を書き始めたら止まらないので、この辺にしておきましょう。

 そんな中で、キッシュ・シャンドールさんは、トランシルバニアと日本の関係では際立った造詣の深さです。その成り立ち、歴史認識、人への思い等です。知識と人柄が調和した「品格」をお持ちと言えば宜しいのでしょう。

キッシュさん(左)に感謝です

キッシュさん(左)に感謝です:成田ビューホテル前庭の「道祖神」像で

 キッシュ・シャンドールさん、レイカさん、これからも宜しくお願い致します!

映画「誰も知らない基地のこと」

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 映画「誰も知らない基地のこと(Standing Army):http://kichimondai.com/」は、「日本人が知らない米軍基地問題の常識」を突き付けて、東京を皮切りに、全国で上映される予定です。

 イタリア人の若手、エンリコ・パレンティとトーマス・ファツィが監督で、2人から日本人へのメッセージ(http://kichimondai.com/message/)です。果敢な取材を通して、彼らは映画での「沖縄」の存在の大きさに気がつきました。「不平等な力関係に直面しながらも、決して希望を捨てない人々がいます。その姿は、日本人の精神性の高さと心の強さを見せてくれました。彼らの姿に続こうと、日本の、そして世界の人々がこの映画によって勇気づけられることを願っています」と、結ばれています。

Standing Army:駐屯地

Standing Army:駐留軍

 HPにも掲載されていますが(http://kichimondai.com/news/)、その中から座談会の引用です、かなり突っ込んだやり取りが注目です。昨年3月の大震災までも予算獲得の材料に使う、そんなハゲタカのような姿も浮き彫りになってきます。「トモダチ作戦」もその目的をしっかり検証すべきですし、アメリカの冷戦後の戦略転換、当然日本への要求も変わってきていることに、我々が気がつかなければならないのです。北海道日米協会の会員で、理事になっている私ではありますが、「『アメリカ合衆国』と言っても、広うござんす」、ね。

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~引用はじまり

 * 「軍産複合体」という言葉を作ったのがアイゼンハワー、それが1961年で、そこからどんどんとその警告を踏みにじるように肥大化してきている、ということがこの映画の主張ですね。130カ国以上、730か所以上の基地があり、オバマ大統領になってからも軍事予算が300憶ドル多くなってるんです。なぜ、止まらないのかというのが不思議。

* 基地の問題は2つ大きな切り口があります。ひとつはアメリカの戦略上、どれだけ重要かということ、もうひとつは受け入れ国にとってどれだけ基地が安全保障に役立っているかということ。

* 受け入れ国がどれくらいの経済負担をしているか、なんです。日本は米軍基地の費用の半分以上を払っているんです。他の国と比べて日本が圧倒的にお金を出しているから、日本から出ていかないんですよね。

* 全部を合わせたら6000億円くらいになりますね。思いやり予算が米軍基地を支えているのは確かだと思うんです。震災があって日本の財政力が問われてるときに、震災直後、間髪入れずに、毎年1800億円ずつの思いやり予算を5年間を出し続けますという協定が結ばれたんです。何の議論もなしに。

* この映画の中で”兵士が来ると戦争になる”という警句を言ってますよね。戦争があったから基地が増えているんだ、と思っていたのですが、この映画では「基地を増やすために戦争をしてる」、と、そこまで主張をしている。

* かつては軍備を高度化することによって産業が成り立っていたんです。今は、米国の中では補給をする部隊が民間の企業となっていて、戦争をしてもらわないと成り立たない企業が出ている。これが戦争継続する理由になっているんです。

* 議会、ホワイトハウス、ペンタゴンの動きが微妙に違うわけです。まさに、ジョージ・ワシントンの言葉がこの映画にも出てきますが、共和国の一番の脅威は常備軍であると。映画の原題が“Standing Army=常備軍”なんですけど、この常備軍を一番大事にしたいんだと思うんですよ。本来は、農民が闘ってイギリスに勝った国がいつのまにか軍隊だけが肥大して、その利益を享受するようになった。それはアメリカの原理とちょっと違うんじゃない?っていうことだと思うんですよね

* 安全保障の理念は「できるだけ軍事を使わないことを尊重する」、というのが第二次世界大戦に作られました。ところが今、何が起こってきているかというとアメリカの勢力の拡大のためには軍を使っていいというグループがあり、もうひとつ、リベラルと言われる層は基本的には戦争に反対なんですが、世界に民主化を広げるためには、軍隊を使ってもいいということになっている。サダム・フセインを外すことは民主化なんだ、と。人権を普及するために軍隊を使ってもいい、と。このふたつが合体し始めたんです。

* 1951年に最初の安保条約があったけど、その時には吉田茂一人がサインしているんです。むこうは4人もサインしてるのに。なぜそんな異例なことが起きているかというとその当時の外務省は安保条約に反対しているからなんです。占領軍からそのまま安保条約に繋がるというのはいけない。一回切って、国連の委託だとかにワンクッション置くべきだと。

* 映画でも出てきましたけど、冷戦以降アメリカの戦略が変わったんですよ同時に対日戦略も変わるんです。日本に無理な戦略をするんです。そうすると財政的に日・独に抜かれてしまう。だから無理な戦略の中に日本、ドイツを入れるんです。90年代くらいは日本に対しての拘束が増えました。当時のCIA長官のゲイツが“これからは軍事だけでなく経済的な分野で活動しなければいけない”と言っているんです。経済的な分野というのは日本なんです。日本に対してCIA的な工作をして、米軍に追随する人が増えるようになったんです

~~~~~~~~~~~~~~~~~引用 おわり 全文は是非、こちら(http://kichimondai.com/news/)を

 

多彩な皆さんからの応援メッセージ

多彩な皆さんからの応援メッセージ

 「駐留軍」のことを「standing army」 と言うなんて知ってた?沖縄だけじゃないんだね。
 世界遺産のあるイタリア・ヴィチェンツァにアメリカ軍の基地がつくられようとしているなんて、知ってた? 
 ドイツやイタリア、日本、第二次世界大戦で負けた国に米軍基地が多いなんて知ってた?

 インド洋のディエゴ・ガルシア島の基地ですぐに思い出しました、、ついこの3月に鹿児島県種子島に行った時の「馬毛島」の話です(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=12375)。

 先日は東京渋谷で観ましたが、出口で田中優(http://tanakayu.blogspot.jp/)さんとマネージャーの方にばったりお会いしました。実は今回、facebookの田中優さんの呼びかけがきっかけでした。

 この映画は、まず観に行って、それからHPで復習をし、もう一度観ると、その奥行きの深さが格段に理解できると思いますね、乞う、ご期待です!

「Independent」企画、一人芝居

Posted by 秋山孝二
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 最強の一人芝居フェスティバル「INDEPENDENT:SPR」が、札幌西区琴似・コンカリーニョ(http://www.concarino.or.jp/)で開催、とにかく面白かったですね、6名の熱演に感謝です!

開演前の満席のコンカリーニョで

開演前の満席のコンカリーニョで

<Aブロック>
桜待ち」  作・演出・出演:亀井健

α−β motif」  出演:小林なるみ劇団回帰線) 作・演出:渡辺豪

マラソロ」  出演:加藤智之France_pan
          脚本:山崎彬(悪い芝居) 演出:伊藤拓(France_pan

<Bブロック>
次の場所までさようなら」  出演:中嶋久美子ムーンビームマシン
                    脚本:二朗松田(はちきれることのないブラウスの会) 演出:泉寛介(baghdad cafe’

駆込み訴え」  出演:小林エレキyhs
            原作:太宰治 脚色・演出:南参(yhs

ひな菊と財布」  出演:坂本祐以劇団千年王國
             作・演出:橋口幸絵(劇団千年王國

北の春を熱くする、一人芝居の祭典始まる・・・

北の春を熱くする、一人芝居の祭典始まる・・・

 一つ一つ、一人一人がオリジナリティが高く、記憶にも鮮明です。加藤智之「マラソロ」、中嶋久美子「次の場所までさようなら」は大阪の「INDEPENDENT」の参加作品でもあり、迫力抜群、理屈抜きの面白さでした。地元からの4作品も熱演でしたよ。ラストの坂本祐以「ひな菊と財布」では、客席に現れた彼女が近づいてきて、私の前に立ちはだかり財布も取り上げられるかと、ハラハラドキドキ(嬉しいのではなくどうしよう、という冷や汗モノ)、幸い(?)目の前を通り過ぎて斜め前のお客さんの所に行きました。

 冒頭からの緊張感、これがまた「非日常」で新鮮でした。飛行機で大きく揺れて汗びっしょりになるのと同じような快感(?)、少々倒錯していますかね?

 白石加代子(http://www.doudou.co.jp/shiraishikayoko/)「百物語:http://www.doudou.co.jp/shiraishikayoko/sch.html」も素晴らしいですが、今回のこの企画、是非さらにパワーアップしての再演を期待したいです。皆さん、頑張って!!

テーケシュ・ラズロー氏は語る

Posted by 秋山孝二
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 日本を初めて訪問したテーケシュ・ラズロー氏(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=12758)は、私の一つ年下で、同時代を生きてきています。

 成田空港到着後、まずは成田ビューホテル(http://www.viewhotels.co.jp/narita/)前庭に建立されているワグナー・ナンドール作のステンレス像「道祖神」の見学、そこから益子に直行して除幕式に出席しました。次の日に東京に移動して外務省を訪問、在日ルーマニア大使、ハンガリー大使等とも面談し、翌日には、広島、京都を相次いで訪れて、先日、東京経由で日本を離れました。お帰りになる前日の晩に、「SAYONARA晩餐」で今回の旅の感想等を聴くことができました。

ハンガリー民謡を歌うテーケシュ・ラズロー氏(右)とキッシュ・シャンドール氏

ハンガリー民謡を歌うテーケシュ・ラズロー氏(右)とキッシュ・シャンドール氏

 初めての日本訪問、最初の見学が成田ビューホテルの「道祖神」だったことには大きな意義がある、とお話を始めました。日本の外務省では高官との面談もあったとか。かなり遠慮しながらもその時のやり取りの概略を伺いましたが、何とも恥ずかしくなるような気がしました。

 テーケシュさんは、ティミショアラの集いの前に、奥さま・お子さまを含めて、当時のチャウセスク政権、直接的には秘密警察に命を狙われ続けた聖職者です。彼の逮捕を予測してルーマニアの西部・ティミショアラに集まった数万の民衆のエネルギーが、1週間後のチャウシェスク政権崩壊の引き金になったのです。

 その彼を前に、先日、「チャウシェスク大統領自身は良い人物で、夫人がひどかったと聞いている」と、日本の外務省高官の政治家は言ったそうです。テーケシュさんは苦笑しながら私たちにお話をされていましたが、何という井戸端会議以下の情報レベルに、歴史観も見識も無く、「恥を知れ!」と残念ながら言わなければなりません。どこに行ってもこのレベルの情報で各国の代表と会っているとすれば、何とも「日本の品格」を疑われても仕方ないですね。

 ティミショアラの集会から20周年、2009年にはこのサイトも創設(http://timisoara1989.ro/en/)、実に興味深い真実の数々です、最初の画面にある動画には、若かりし日のテーケシュさん、父ブッシュ・アメリカ大統領と会談する姿等も見られます、是非アクセスしてみて下さい。遠い昔ではなく、つい20数年前の出来事で、日本はバブルの頂点、まさに歴史の転換点で、ルーマニア国民の声が聞こえてきそうです。

ティミショアラ1989年から20周年を記念したパンフ

ティミショアラ1989年から20周年を記念したパンフ裏表紙 & サイン(左中央)

 広島では、広島平和記念資料館(http://www.pcf.city.hiroshima.jp/)の副館長が丁寧に説明をされたとか。ルーマニアでもハンガリーでも、8月6日の原爆投下日は、祈りの式典を今でも続けているそうです。ただ、彼は聖地と思っていた広島の平和公園では、ゴールデンウィークの最中でもあり、ジャズ等のかなりの音量のイベントも開催中で、少々意外で、がっかりしたとも。難しいですね、広島といえども365日追悼の日々でもないのでしょうから。

 京都・祇園のお茶屋では、三味線・舞子さんの演奏も堪能されて、「比較的哀しい曲風が多く、トランシルバニアと同じ心情」と喜ばれて、お話の途中途中でハンガリー民謡を数曲大きな声で唄っていました。また、新幹線の時間の正確な運行には感動し、駅に到着した時に、自分の腕時計をその時刻に合わせた程正確だ!との冗談も。

 

 と、ここまで書き続けたのですが、今回、成田空港でお出迎えをして以来、彼の周辺の方々への立ち振る舞いで少々気なることもありました。「上から目線」と言うか、「強者」を感じさせるやや傲慢な言動を見てしまったのですね。以前ナジュバラドでお会いした時より少し違った印象なのですが、と、ある方に私はつぶやいた所、「いや、もともとそうだったのかもしれない」と、苦渋の表情で返答をされました。民衆の絶大な人気を集めて独裁政権打倒の先頭で戦った闘士・聖職者が、その後の立場の昇格により変質したとすれば、私は残念であり、何とも失望する今の彼の姿です。

原発「稼働」ゼロの世界

Posted by 秋山孝二
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 「42年ぶり国内全原発停止 泊3号機の定検開始http://www.hokkaido-np.co.jp/news/economic/370156.html」との新聞の見出し、3・11を経て、「全原発停止」状態が実現しましたが、あくまでも「稼働ゼロ」、「停止」であり、「脱原発」に向けてはしっかりしたデータとロジックに基づく必要があり、予断を許さない状況と見るべきでしょう。

 田中優さんは、ご自身のブログ(http://tanakayu.blogspot.jp/2012/05/blog-post_2393.html)で、鋭く「偽装停電」を指摘されています。どんな社会的課題の解決でも同じですが、一見追い風に見える状況というのが最も警戒すべき時とわきまえるべきです、からめ捕られない地に着いた活動を展開しなくては。なぜなら、再稼働を急ぎたい輩の恐れることは、「電力不足」ではなく、「節電等によって原発ゼロ状態で乗り越えてしまう」ことなのでしょうから。

 「電力不足は正しい情報に基づいているのか」、「不足の前提にしている条件に恣意的な誘導はないのか」、「昨年の『計画停電』の過ちをどう乗り越えているのか」、全原発停止状態を喜んでいる暇はありません。政府・電力会社は行動で改善・改革を成し遂げているのかどうか、国民は実績をしっかり見極め、データの適時開示を求め続けて、なし崩し的再稼働を許さない見識が必要です。

 メディアの誘導に対しても監視を続けなければなりません、電力会社の記者会見での毎回の生ぬるいやり取りでは、国民の前に「真実」を知らしめることはできないではありませんか。今こそ、「メディア」の本来の機能に立ち返ってもらいたいものです、独自のコメントの前に、当事者たちに正しい情報の公開を要求をして明らかにする、そんな原点です。

 「原発再稼働」については、3月に私はコメントしました(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=12331)。とにかく、昨年3・11以降、東電福島第一原発は未だ終息せずに事故は継続中、使用済み核燃料の状態は全く変わらず不透明、泊3号機に溜められている使用済み核燃料についての言及も見つけることは出来ない現状です。複数の事故調査報告に真摯に向き合い、その答えを国民に明示すること、民間企業としてのイロハであり、いやしくも企業経営者の立場に居て報酬を得ている人間の基本です。

 先月の富山での経済同友会全国セミナーでは、電力会社の不適切な情報開示に対して、私の想像以上に全国の多くの経営者が憤っていました。そして、原材料の値上がりを理由に電気料金値上げを言いだす電力会社の経営体質に対してもです。日ごろ、コスト削減に真剣に向き合っている経営者の生の声だと感じました。

 今回の「停止状態」を契機に、本格的に自然エネルギーを軸とした「代替エネルギーへのシフト」を、新たな技術革新、エネルギー・イノベーションに着手する、それが国際社会の日本復活への道です。

薩摩と会津への訪問、因縁ですね

Posted by 秋山孝二
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 何も意識していなかったのに、後で振り返ると「そうだったんだ!」と妙に因縁を感じる時があります。 3月・4月と私自身が全く別の目的で訪問した土地、鹿児島と福島、そう言えば幕末から明治に掛けて以来の「薩摩」・「会津」の微妙な関係でした。

薩摩:http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E8%96%A9%E6%91%A9

会津:http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E4%BC%9A%E6%B4%A5

 会津若松の訪問で、掲載し忘れた1枚の写真です、「フクシマ」を実感しました。

中学校の校庭の一角に大熊町、双葉町の木造仮設住宅

鶴ヶ城よこ、中学校の校庭の一角に、大熊町、双葉町の一時避難所・木造仮設住宅

 

 そんな折、外岡秀俊(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=12165)さんの最近の著書、「複合震災」と「震災と原発 国家の過ち」はメッセージ満載です。たまたま「震災と原発 国家の過ち」を読み直していると、「第4章 東北とは何か」に、実に興味深いことが書かれています。少々長い引用になりますがお許し下さい。放言で辞任に追い込まれた松本龍復興担当相のやり取りに絡んでです。

 

~~~~~~~~~~ここから引用

 中央の権力を笠に着て、被災地の首長を見下し、威嚇する。果てはマスコミを恫喝する。こうした人物が、復興基本法でできた重要ポストに就いたこと自体が驚きだった。

 だが数ある放言のなかで、私がもっとも気になったのは、「九州の人間だから、東北の何市がどこの県とかわからんのだ」という発言だった。これには訳がある。

 学生のころ、仙台市に拠点を置く『河北新報』の社長に、話をうかがったことがある。社長は、東北ブロック紙の現状について語る前に、新聞の紙名の由来を説明した。「東北には、『白河以北一山(ひとやま)百文(もん)』という言い伝えがあります。戊辰戦争で負けてのち、薩長は東北を蔑み、福島県の白河の関から北には、何の価値も無いといった。意地でもその逆境を撥ね返してやる、とつけたのが、『河北新報』の名前です」

 この「白河以北一山百文」の出典は定かではない。東北をめぐる近代の言説をつぶさにたどった河西英通氏の『東北』『続・東北』(中公新書)によれば、1878年8月23日の『近時評論』誌の記事が、最初の記述だろうという。

 一般には、戊辰戦争の際に、官軍の将校が発した言葉という説が流布している。しかし河西氏の文献考証から、この言葉は、「一山:いちざん」と号した岩手出身の原敬が、1918年に首相に就任した前後、それまで「賊軍」「朝敵」とされてきた東北の名誉回復の機運が高まって、「官軍スローガン」説がつくられた、と推測している。

 いずれにせよ、東北では、「白河以北」という言葉は、西南日本による、いわれなき蔑視と差別を象徴する言葉なのである。

・・・・・・・・高橋富雄氏は『地方からの日本学 地方(じかた)日本学――方法と実践』(歴史春秋出版)の中で、一章を設け、「東北呪詛(じゅそ)」の響きをもつ「白河以北」の言葉がうまれる3つの要因を分析している。

 第一は、自然の要因である。弥生型生産様式としての稲作農耕は、暖国西南には適合しても、寒冷な東北には不向きだった。縄文時代には日本の中心だった東北も、その後は冷害、凶作、飢饉の常襲地帯になり、その運命は人為を超えていた。

 第二は歴史の要因だ。これは第一の要因が18・19世紀に長期的な天災となって顕在化したことを指す。宝暦、天明、天保と続いた凶作は未曽有の飢饉となって東北を襲い、「東北一円無一物」が常態化した。戊申戦争が惨憺たる敗戦に終わったのも、その経済的基盤に弱点があったからだ。

 しかし、「白河以北」が明治維新による「東北断罪」の言葉になったのは、直接には第三の政治の要因による。会津、仙台、南部をはじめとする「皆敵奥州」は、賊国として一切の政治的な特権を停止、剥奪され、その後も、政治的には「軟禁状態」、経済的には「禁治産者状態」に置かれた。

 高橋氏は、後に原敬がいうように、「戊辰戦争は政見の異同のみ」であった、という。それは原理的には五分と五分のたたかいで、「勝者」が「敗者」を断罪する覇道ではなく、結果に優劣を求めることをしないフェアな武士道によって遇するべきだった、という。

 だが、こうして「白河以北」に結晶化した「遅れた東北」のイメージは、歴史的には、より深い古代の地層から長い時間をかけて析出されたものだった。・・・・・・・・・・・・・・ 

 このように歴史をたどったうえで、高橋氏は、「東北的なもの」とは、「日本文化、あるいは日本史における未知なるものを典型的に代表するもの」だと定義する。

 縄文以来、東北の根に生き続けている元始的なもの、変わらないものは、「近代」のモノサシから見れば「遅れた」存在に映るかもしれない。しかし、文明が行き詰ったときに、新しい文明や文化を創造するエネルギーをもたらすものは、つねに旧来の「歴史」を超える超近代の「元始」であった、「東北的なもの」には、近代が行き詰ったときに、「もうひとつの日本」を構想する重要なカギが隠されているのではないか。

 高橋氏の基調講演は、「東北的なもの」の可能性を問いかけて終わっている。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~引用 おわり

 

 最後のフレーズに力がありますね。外岡氏は、「文学が被災者に希望を与えるのではなく、被災者が希望であることを教えるのが文学であることを知った」とまえがきで語っています、豊富な読書と知識、高い見識に裏付けられた、実に鋭い考察だと思いました。3年前の9月に、私も友人たちと青森・弘前・大間を旅行し、確かな東北の歴史は目に焼き付いています。

http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=2170

http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=2172

http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=2203

http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=2175

http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=2250

 

 5月の「メディアアンビシャス:http://media-am.org/」例会で、外岡秀俊さんをゲストスピーカーにお招きしています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

日時 5月15日(火)午後7時から(午後6時には開場しています)

場所 愛生舘ビル (札幌市中央区南1西5北西角、市電沿いビル:入
口は二つありますが、南側入り口から入った右手奥、 1階会議室)

講師 元朝日新聞 外岡秀俊さん(昨年3月末で朝日新聞を退社し、
ふるさと札幌に拠点を移して活動中)

テーマ 「大災害とメディア」、「マスコミとフリーの違い」等について
     ~~朝日を退職してゆっくり札幌で活動と思っていた矢先の
3・11、以前の阪神淡路大震災、中国の四川大震災等の取材経験を
踏まえて、今年になって出版した2冊の本も大変読み応えのある内容
でした。 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 例会の場で、彼の捉える今回の大震災・津波・原発被害について、さらに突っ込んだメッセージを期待したいですね。

「アザリア」の仲間たち

Posted by 秋山孝二
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 この数日、札幌では急に気温も上がり、昨日5月1日、札幌の「サクラ開花宣言」だそうです。今年は遅いだろうとの予想でしたが、このところの天候で何とかゴールデン・ウィークに間に合わせた?何とも愛おしいサクラです!

 栃木県さくら市ミュージアム(http://www.city.tochigi-sakura.lg.jp/site/sakura-museum/では、3年前にワグナーナンドール展を開催し(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=2491)、今年は、「『アザリア』の仲間たちhttp://www.city.tochigi-sakura.lg.jp/site/sakura-museum/exhibition1.html」と題した展示が開催されています。

正面玄関前の大きな表示板

正面玄関前の大きな表示板

  1917(大正6)年7月、盛岡高等農林学校(http://www.iwatabi.net/morioka/morioka/morinourin.html)で1冊の同人誌「アザリア」が生まれました。その中心となった宮沢賢治、保阪嘉内、河本義行、そしてさくら市出身の小菅健吉の文芸活動を通して育まれた友情にスポットをあてた今回の企画展です。何ともレトロな学生服姿の男子4人、金沢の「四高」、札幌農学校の学生と同様のかもし出す雰囲気です。

 小菅健吉の息子さんは栃木県の小菅充・元副知事で、現在、ワグナー・ナンドール財団の理事も務められています。小菅健吉は、宮沢賢治と同級生、卒業後に大正7年から15年までの8年間アメリカに渡り、苦労しながら農学(土壌細菌学)研究に励み、日本の友人に宛てた貴重な「アメリカ通信」の書簡も展示されていました。時代に翻弄されながらも力強く生き、時々の心情、望郷の念、社会の変化が手紙に認められていました。

 それにしても、1920年前後に8年間も苦労しながらアメリカの滞在を選択した彼の情熱に感動するとともに、大正デモクラシーの時代を感じます、「杜稜(盛岡)で学び」というフレーズもいいですね。ただ、その後の日本の戦争への歴史を振り返りながら、第二次世界大戦後の高度成長期を経た今の時代と重ね合わせると、危機感も抱きます。

 

 帰り路、ミュージアムの玄関を出ると、道路がサクラの花びらでいっぱい、素晴らしい4月下旬の北関東でした。

サクラのじゅうたん

サクラのじゅうたん