出版された、「ドナウの叫び」

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 下村徹著「ドナウの叫びhttp://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4344015908.html」 が昨年11月25日に出版されました。

2008年11月8日のこの欄に、「日本に帰化した芸術家、ワグナー・ナンドール」と題して私の叔父を紹介致しましたが、昨年末に彼の人生をたどったワグナー・ナンドール物語が出版されました。芸術家というと日本では、社会的には芸術・文化の世界を担う、或いは教育界で活躍する人々というような、ある限定されたイメージを持つのは私一人ではないと思います。しかしながら、ワグナー・ナンドールは、二度の敗戦、冷戦、動乱(革命)、政治犯としての指名手配等、時代の荒波に翻弄されながらも、希望を捨てず主体的にたくましく生きました。そして日本の武士道精神と出会い、日本人ちよと巡り合い、日本に帰化して、栃木県益子町でアトリエを構えて創作活動を続けた波乱万丈の人でした。

http://wagnernandor.com/indexj.htm  、http://kankou.4-seasons.jp/asobu/509.shtml

私はこれまでハンガリーには2回程行った事があります。最初は、この本にも登場するテーケシュ氏が中心となって、ナンドールの生まれ故郷ナジュバラド(現在はルーマニア領で名称もオラディア)で開催されたシンポジウムに参加の為に、もう一回は北海道演劇財団のハンガリー公演の同行でした。http://www.h-paf.ne.jp/ 今年の秋、3回目が実現するかもしれません。

ある時に、現在ハンガリーに設立されているワグナー・ナンドール財団の理事長から、日本ではどうしてハンガリー「動乱」と言うのでしょうね、と問われました。「動乱」とは辞書によると、世の中が騒がしく乱れること、と何の事かよく分かりませんね。彼は、1956年の出来事は明確にハンガリー「革命」ではないか、との主張でした。私は、日本の教科書では昔も今も確かに「ハンガリー動乱」であり、ハンガリー政府への配慮のつもりなのではありませんか、と曖昧に答えました。そうすると、「ハンガリー共産党政権は、1989年に崩壊しているのですよ」と更なる言及でした。

日本の教科書の歴史記述には、幾つか意図的な言い換えがありますね。最近では沖縄戦における日本軍の関与について、無かった事にさえなってしまいますので、要注意です。特に立場の違いによる戦いの歴史の記述では、「闘争」が「紛争」になったり、「革命」が「事件」となったりです。在った歴史事実を削除するのは論外としても、事実に基づいて時代とともに表現が変わる事(再評価)はあってもよいのではないか、と思います。

芸術分野も同じかも知れません。周辺諸国も含めたハンガリーにおいて、この10数年来ワグナー・ナンドールとその作品の再評価のうねりが高まっていて、実際に幾つかの街で彼の作品が広場・公園に新たな設置が始まっています。ブダペスト市内のゲレルトの丘に建てられた「哲学の庭」も、その一つです。ヨーロッパにおいては、日本に比べて彫刻作品は強いメッセージ性を持っていて、時代の評価も実に激しいものがあります。4年前のナジュバラドでのシンポも、ルーマニアの政変後に実現したイベントでしたし、開催前日にブダペストからマイクロバスでの5時間程の陸路で、途中途中で昔の同志をピックアップして乗せていく様子、ルーマニア国境を越える時の緊張感は、まるで映画の雰囲気でした。ソビエト崩壊による東欧の激変を実感しました。

広場に建つ彫刻作品は、民衆の心の支えだったり、運動のシンボルだったりする場合が多いですね。芸術家がそれだけ社会との関わりの中で重要な位置づけであり、それ故に迫害とか追放といった権力からの攻撃の的にもなってきたのでしょう。この本にも記述されていますが、ハンガリー動乱のリーダー達のその後の人生で、交通事故等の不慮の事故で亡くなる確率が異常に高いとか、何か言い知れない闇の世界を感じさせます。日本では、直近の戦争といえば第2次世界大戦ですが、そんな国は世界の中で実に数少ない恵まれた国なのかも知れません。

企業の温暖化リスク

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 先日東京で、「企業の温暖化リスク」に関するセミナーが開催され、日刊温暖化新聞http://daily-ondanka.com/のパートナー企業の方々が集まってのワークショップは、大変面白いものでした。

秋山財団http://www.akiyama-foundation.org/ も微力ながら活動の一環として、昨年パートナーの一員になりました。財団活動として、「生命科学の基本目標は、人類、そして地球の『健康』を確保する点にあると言えましょう。『健康』とは、人類が、世界が、平和を保つ状態だと思うのです。それは人間のコモンセンスに属すべきものであり、秋山財団の地味ではあっても着実な助成・育成活動が、北海道から日本へ、そして世界へ向けて、人類のそうしたコモンセンスの確立へと発展し、貢献する事を期待して止みません。」とメッセージを発信しています。

ワークショップでの意見交換・懇親会でのやりとりは、多様な参加者の世代・所属等により、終了してから反すうしてみても、大変奥深い内容でした。例えば、温暖化の因果関係は不確実性の中でどの程度説得力を持つのか、10年後の影響については偶然性が大きいが、10年単位での変動という時間軸ではかなりの裏付けを持つ事が出来るのではないか、合意形成の難しさ、危機の「見える化」の重要性、多様な要因の体系化等、キーワードの数々が次々に出されました。

温暖化というのは、平均値の上昇と言う以上に、変動幅の増大にそのリスクが潜んでいることもあらためて確認しました。また、科学的数字に過剰に依存しない事、変化への最適化だけではなく「しなやかさ」の必要性、頭の中に「未来の記憶」を蓄積しておく、と言った新鮮なフレーズに、当日集まった中では最高齢世代の私の頭も覚醒されましたね。

変動幅の増大に対して、「しなやかな強さ」での対応、それは時として効率化とか生産性向上とは相反する活動ともなること、そして「ムダ学」のススメ、すなわち一見ムダに見える事と本当にムダな事との違いを見極めること、の大切さも学んだつもりです。

会が終了した時に主催者の枝廣淳子さんが窓の暗幕を開けると、素晴らしい「夕日」が見えました。「ここは夕日が見える会議室で大好きです」と語りながら・・・。これまで会の終了時にこんな主催者の発言を聞いた事がありません。これが「しなやかな強さ」というのでしょうね、恐れ入りました。

津軽三味線白田くん、新春ライブ

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 津軽三味線の若手ホープ白田路明くんhttp://con-sent.net/peace/shirata_michiaki/が、若手3人とのコラボレーションで新春ライブ「和の世界」を行いました。「線の音」と題して、“・・・三味線、パーカッション、ベース、ピアノによるジャンルを越えた異色のコラボレーション。日本の伝統に創造と可能性を感じる音楽を、世代を越えた全ての皆様にお届けします・・・”とチラシには記されていました。

会場は、昨年からオープンした豊平区中の島のカムオンホール で、会場いっぱいのお客さんでした。http://cosmomaris-piano.com/concert/ooharae.img/map-sap.gif 津軽三味線のライブの時にいつも感じるのですが、聴きにくる比較的年配のお客さんは、高橋竹山に代表される津軽三味線のイメージを期待して会場に座っていて、若い方々は、まさに若いプレーヤーのパフォーマンスを「観に来る」風で席に着いています。昨年の登別の時も広い会場を見渡してみてもそんな雰囲気でした。何を言いたいかというと、1時間少々のライブ中に、時々お客さんが追いかけてもついていけない状態を見る気がしたのです。演奏がまずいのでは全然なく、新しい領域へのチャレンジが斬新で、大変不思議なコラボレイトに感動する一方、その挑戦に従来のイメージが強くて一緒に乗っていけないもどかしさみたいな、そんな場の空気を私は感じました。かえって白田くんが以前行ったヨーロッパ公演での若い観客の方が、そういったこだわりもなく、表に出した感動の表現が素直なのかなと思ったりします。

パーカッションと三味線は大変面白い境地を表現しますね。またピアノとのコラボレイトも新鮮でした。丁度ピアノの楽譜が見える角度でしたので、演奏とピアノの楽譜との関係も知る事が出来ました。あの簡単な楽譜でどうして沢山の音が紡ぎだせるのかと、驚きでした。

とにかく若い4人の前向きのエネルギーを受け止めて、帰り道は元気になりました。回を重ねる毎に進化していくプレーヤーを見るのは、ライブの醍醐味ですね、早速3月のライブも予約しました。

医療崩壊への処方箋

Posted by 秋山孝二
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 私は、医療経済研究機構http://www.ihep.jp/の個人会員になっています。なかなか時間がなく、講演会にも欠席が多いのですが、毎年、新春特別講座には出席しています。頭の整理に効果的で今年も面白かったです。

「医療へのアクセスと資源配分ー医療崩壊への処方箋を考えるー」との演題で、医師のきめ細かい分野別での養成、地域における医療の重要性と具体的方策等、示唆に富む提言の数々でした。

日本の医療というのは、これまでいろいろ言われてきていますが、相対的に世界の先進国と比べてみて、大変コストパフォーマンスの良い皆保険制度だと思っています。勿論、社会の高齢化の進行他、長い間の変化に適応した改革は日々必要であるのは間違いありませんので、設立当初のままの制度で良いという訳ではありません。ただ、基本的認識として、日本の良い所はきっちり守る姿勢とういのは、大切な事だと思うのです。昨今の議論を聴いていると、何もかにも悪いみたいな議論が多く、またまた危機感を持ってしまいますね。個別の不満・不安と制度の良し悪しの議論が、ぐちゃぐちゃになっている様な気がします。

夕張などでもそうですが、北海道の医療現場は、今危機的です。地方は病院がどんどん撤退して、広域連合としての基幹病院も残らず、結局は札幌圏の大病院までの搬送を前提とした仕組みへと移行しています。先日の講座でも、「医師不足が医療の崩壊の原因であると言われているけれど、本当にそうなのか」との問いかけが、パネラーの臨床医からありました。イタリア・ギリシアなどは人口千人当たりの医師数は日本の倍くらいいますが、医療の質が高いとは決して思えません。どうも医療の荒廃の原因を誤った認識から始めている気がします。もう一つしばしば語られる財源論です。「他の予算をもっと社会保障に回せ!」というものですよ。これも当日の報告の中でもありましたが、02年から08年だけを見ても、公共事業は大幅に減っていて、防衛・文教科学費も数字上は削減です。ただ社会保障費が18兆3000億円から21兆8000億円と、大幅に増加しているのが現状です。言いたい事は、これまでの政策では「偏在」という概念が欠落しているのだと思います。医療へのアクセスと資源配分のミスマッチというのでしょうか。今、まさに政治の出番なのですが・・・。

今後の医療政策として、幾つか印象に残った言葉を列挙致します。

*急性期病院の外来について、他の社会資源による代替を考えては――開業医が施設としての病院を支える、或いは勤務医が地域医療を支える、といった施設と担い手の流動化を図る事により、資源配分の適正化を図る

*在宅医療は4輪駆動――医師・看護師・薬剤師・歯科医師とのコラボレイト

*政策は理想ではなく、実現可能性が最も重要

*新しい法律、新しい政策、新しい制度導入には、世の中に理解されるような一体感づくりが必要。介護保険導入時の粘り強いシンポジウム・国民との対話の経過に比べて、「後期高齢者」問題で批判を浴びた一件の唐突さ。

*まずは「救急医療」を軸にあるべき地域医療体制を構築していく事が大切。

私は以前から主張しているのですが、医療問題を「医療費からの視点」だけから語るのは、地域住民にとっては大変迷惑な話です。偏在があるので、特に北海道のような過疎(札幌圏以外)と過密(札幌)が同居する都道府県では、「北海道」として出てくる数字ではどのまちの実態も示してはいません。費用としてだけ認識してしまうと、「削減」という発想しか出て来ません。社会に「必須の機能」とか、「まちづくりの要」という認識を持つと、もっと幅広い議論が出来ると思います。逆に言えば、「充実した医療体制のまち」で、沢山の人が安心を求めて移住してくるに十分な動機があるに違いありません。自治体の方々にはそう提案しています。

「まじめの崩壊」、同感ですね

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 東京の地下鉄駅構内にある立ち読みしやすい書店で、和田秀樹著「まじめの崩壊」(ちくま新書)を見つけました。http://www.junkudo.co.jp/detail2.jsp?ID=0109681990 「・・・世界からまじめな国民と評価されていた日本人は、いつからこのようにふまじめな国民になってしまったのでしょうか・・・」。この所私が感じている気持とぴったりのフレーズに、しばし(と言うにはかなり長い時間でしたが)立ち読みをしました。

企業でも、教育機関でも、警察・役所等の公務員集団でも、何か昔と違った雰囲気を日頃感じていた私です。社会の前提条件がこの数十年で実は大きく変わって来ているのではないか、若い世代の価値観が自分の時代とは大きく違っているのでは等、自分だけがそう感じているのか、潜在的な疑問がこの間どんどん自分の中に湧き上がり、挙句の果てには、この所の各セクターのていたらくを見るにつけて、本来戦後の時代を担う有能な人材を、第二次世界大戦で日本は大量に失ってしまったのではないか、とも思うに至ったりしました。戦争で失った資産は、その時の直接的損害ばかりではなく、それ以降の歴史にも強い影響を与えるのだという自分なりの確信でした。

昔は「暗黙の信頼」があった人々・組織が、今の時代は確認、或いは無い状態として事に臨まなければ、大変な間違いを起こしてしまう、そんな危機感を持つのです。以前外国に出張した時に、ホテルの支払い、お釣りの金額、品物の値段、乗物の時間・予約、レストランの注文等、日本で生活している時には「確認」作業など殆どしていなかった自分としては、確認の連続で慣れるまで随分と疲れたのを思い出します。それだけ忘れ・間違いが多いというか、携わっている人たちのレベルが低かったというか、とにかく日本国内程スムーズに正確には事が進みませんでした。仮にそれを自分が怠ってクレームをつけると、逆に確認をしなかったお前が悪い、に近い反撃にあったものです。帰国する度に、「日本の業務レベルは本当に安心で、いちいち確認という余計な手間がいらない、素晴らしい社会だ」と思ったりしていました。

ところがこの所の日本で感じる総体のレベルの低下と言うのでしょうか、いい加減な対応というのでしょうか、金融機関窓口業務での信じられないミスとその後のあきれる対応、経営レベルのモラルの低さ等を目の当たりにすると、どうも日本も世界なみに落ちてきていると強く思っていました。そしてその大きな要因が、個々の日本人の価値観・哲学の変化だと気が付き始めています。この本を読んで、メランコ人間とシゾフレ人間の比率が、劇的に変化してきている日本社会を知り、現状認識としては納得のいくヒントを得たような気がします。どちらが良いか悪いかというよりも、大きな変化を認識する必要がありそうです。

著者のメディアの批判にも共感します。最近の「お笑い系番組」の氾濫は一体何なのでしょうか。いえ、もっと正確に言うと「全てのニュースをお笑い系にしてしまっている」という方が正確かも知れません。視聴者が求めるからとはとても思えない、話題を「お笑い系」でお茶を濁し、思考停止に誘導しているようです。「世論形成」などという高邁な理念がある訳でもなく、野次馬以下でしょう。マスメディアは何かと言うと「公共的な報道という活動に従事している」とよく言いますが、くだらない電波の無駄遣い的番組を量産しておいて、それはないでしょうと私は思いますね。

こういった変化している日本社会で、旧来型の「きまじめさ」を信条として生きていくのは、信じられない程ストレスが溜まるのですが、「異端児」、「頑固者」と言われようが、保守本流の日本国民(?)としてと、少々力んで声を発していきたい気持です。

「課外授業~ようこそ先輩~」、長淵剛編

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 NHKテレビの「課外授業~ようこそ先輩」は、数日間の授業で生徒たちが変わっていく様子を目の当たりに出来て大変感動的です。正月早々この番組では、長淵剛が母校鹿児島南高の3年7組で授業を行いました。http://www.nhk.or.jp/kagaijugyou/archives/archives281.html

秋葉原事件について生徒たちに感想を求めた彼は、その答えを聞きながら明らかにいらだっている様子でした。そして丁寧に語りつつ、当時現場で周りを囲んでいた群衆が傍観者を決め込んでいる姿を指摘して、今回の授業のテーマ「叫び」へと導く場面は素晴らしかったですね。卒業を数か月に控える高校3年生にとって、小学校・中学校の義務教育年限の卒業とは一味違う不安が心をよぎるのでしょうか。「社会」への旅立ちとも受け取れる時期に、長淵剛に出会えた生徒たちは幸せです。この授業を受けてどんどんと引き込まれて変わっていく様子が、それぞれの生徒たちの表情から読み取れました。

納得のいかない高校時代を過ごした私にとって、長淵剛のようなメロディと詩で思いを表現できる人は大変うらやましいです。番組の中で、生徒たちからの言葉・詩をもとに曲「卒業」を作り上げていく一連の作業は、あれもこれも盛り込むのではなく、むしろ限りなく無駄な言葉を削ぎ落とし、出来るだけシンプルな表現へと仕上げていく活動だと受け止めました。

私も彼のCDは何枚か持っています。一番新しいものは、アルバム「KEEP ON FIGHTING」ですが、もう5年前のものとなりました。その中の曲「傷ついた鳥」http://music.yahoo.co.jp/shop/p/53/237438/Y018417

「しあわせになろうよ」http://bestcd2.blog97.fc2.com/blog-entry-1010.htmlは、特に印象的です。

傷ついた鳥 ・・・青く広がるのはいったい誰の空、よせてかえすはいったい誰の海、翔べないこの鳥を私は抱きしめて、朝の光をにらみつけてみた、自由に翔べるさ、きっと自由に翔べるさ、そう信じてまた、生きていくのでしょう・・・

「ずぶぬれ」とか、「どしゃぶり」と言った表現を好む一方で、詩ににじみ出るすべての「いのち」への眼差しの優しさに強く惹かれます。ライブはエネルギーにあふれていますが、先日の授業でも見られたように、個々人へ迫るストレートさというか透明感を、先日のテレビで、埠頭での女生徒たちとの会話、大風呂での男生徒たちとの語らいを通しても感じました。魅力的な優しさですね。

長淵剛にとっては、桜島・錦江湾が原風景なのでしょう。私にとっては、藻岩山・豊平川・大通り公園等が原点です。ふるさと札幌を離れて活躍している多くの方々も、恐らくそれらが心の原風景となっているに違いありません。

長淵剛の魅力を再認識致しました。http://www.nagabuchi.or.jp/live/sakurajima/interview_01.html

オレゴン・ポートランドの知人から

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 アメリカ・オレゴン州ポートランド市のヘンリー上野夫妻とは、もう20年以上のお付き合いになります。年始のご挨拶状で

「・・・ポートランドにも何年ぶりに本格的な冬がやって来ました。4・5日雪が降り続いています。全く久しぶりの寒さなので、一般の人はもとより若者たちは戸惑っています。・・・私どもはお陰様で元気です。二人とも80歳を過ぎました。凄いことです。幸せです。これからも数々の社会奉仕に頑張ります。」

数年前に札幌にいらっしゃった時、昼食をご一緒にしました。その時は奥様が空港で足を捻挫されて、歩くのにも不自由だったので心配していましたが、その後回復されてお元気な様子で安心しました。それ以上に「幸せです!」と80歳を超えたご夫婦がきっぱり宣言される所に、私は心温まる思いです。

札幌で食事をした時に、ブッシュ政権に話が及びました。私が「私の知っているアメリカ人、日本人で、ブッシュを支持する人は一人もいないですよ」と、事の弾みに口にしましたら、猛烈な反論にあいました。政権或いは政治の話題に対する真剣味の違いに少し戸惑った事を覚えています。食事後、「お食事中にあまり適当な話題ではなかったですね」と上野さんにお詫びを言われ、私こそ恐縮してしまいました。

20数年前に、ポートランド日系人会が企画する高齢者ホーム「憩荘(いこいそう)テラス」へ、札幌の経済人も寄付をしました。完成後数年経って見学に行きましたが、その時にも入居している多くの高齢の方々からお礼を言われました。「決して現地の日系人だけの為の施設ではありません。人種・民族を問わず、地域で高齢者を見守ることは大切だと思います。なぜならこの地域に大きな貢献をされた方々ですから・・・」と、中心になっていた方の言葉は印象的でした。月並みな表現ですが、「感謝の気持」を持ち続けることの美しさ、なのでしょう。

書き込みテスト

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7日よりシステム不調により、メッセージが送信できない状態です。この間、「課外授業~ようこそ先輩~、長淵剛編」、と「オレゴン・ポートランド市の知人から」を公開したつもりでしたが、何処かに消えました。しばしの間、中断致します。

変わりつつある時代を感じて

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 正月は、普段あまり見ないCMもテレビで目にすると、時代の変化を感じます。

“油田から太陽光の時代”、“省エネ30%”、“すべてのいのちの為の環境づくりに・・・”、“水と土と空と、人のために”等、数日間で繰り返し放映されていたCMです。CSR(コーポレート・ソーシャル・レスポンスビリティ:企業の社会貢献)の一環として、宣伝広告が位置づけられ始めて時間が経っているからなのでしょうか。これまでと比べて、環境保全への貢献とか、いのちの大切さといったフレーズの頻度が格段に増えているような気がします。勿論番組のスポンサーを出来る企業は大企業なのだとは思いますが、商品とか企業のダイレクトな宣伝から、地球を大切にする企業姿勢の広報へと大きくシフトしていると実感します。ある人は、「単に商品・企業を売らんかなの目敏い商売根性さ」とバッサリ言い放つのかもしれませんが、私から見ると、リスクをしょっている企業の、時代を読む先見性と受け止めましたが・・・・。

私は、この「リスクを取っている」という立ち位置が、大変重要だと思うのです。誰も助けはしてくれない、自分たちで状況変化に適応していく以外に、生き残る術はない、そんな緊張感を持ち続けている姿勢です。今の日本の政治家・官僚には、この立ち位置を感じません。公務員一般にも感じる危機感の欠如と言ってもいいのかもしれません。自分の給与・暮らしと世の中の景気とか経済状況とが全く連動していない連中、彼らが語る言葉の軽さと現実とのズレ、眼差しの冷たさは、しかしながら近いうちに必ず反撃を食らうに違いありません。

新しい年2009

Posted by 秋山孝二
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 1月1日は、毎年新鮮な気持になりますね。静かに家でこの日を迎えられる事に、まず感謝でしょうか。

私にとって、今年は自分のフィールドで再度しっかり結果を出していきたいと思っています。公益法人改革の方向性に沿って、秋山財団http://www.akiyama-foundation.org/ を新しいステージにのせて、一層の貢献が出来ればと気持を新たにしています。