私の【戦後80年談話】(3)

Posted By 秋山孝二
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 私の人生の中でアメリカという国・アメリカ人との関係は、客観的に見ると戦後生まれのアメリカ感としてその変遷を表現しているのかもしれないと昨今思うのです。

 私がまだ幼い頃、札幌の大家族の自宅に在札アメリカ領事館のアメリカ人がご家族でいらっしゃっていました。その中で同じ歳くらいの女の子に私はオモチャのアコーディオンで頭を殴られて泣いたのを不思議に覚えています、古いアルバムにもそのご家族の写真があります。なぜ、昭和30年代前半に領事館の方が訪問されていたのかはよく分かりません。

 その次の思い出は、同じく昭和30年代、千歳空港、現在は航空自衛隊千歳基地になっていますが、今の空港の向かいにターミナルがあり、祖母とかを当時の車で迎えに行った時、「MP」と書いた白いヘルメット姿の米兵がゲートに立っていて、パスを受け取って入場したことですね。進駐軍の確か「くま基地」と言っていて、熊のアイコンが印象的でした。

* 新千歳空港の歴史〈第3回 戦後の空港編〉 - 北海道千歳市公式ホームページ - City of Chitose

 家の中では、当時まだ珍しかったテレビですが、放映始まりのころはNHKテレビのテストパターン、BGM入りで放送開始前のバラの花を真上から撮って花が咲いていく様子までかじりついて観ていました。その後、テレビドラマ「アイ・ラブ・ルーシー」、「パパは何でもしっている」、「アニーよ銃を取れ」等、アメリカからの番組が多かったのですが、それ程意識もせず観てましたね。

関東地方テストパターン消滅 - 放送まにあ 試験電波発射中!!

 それから時が過ぎて、10代後半にロータリー交換留学生がホームステイして、初めて身近に英語に接してコミュニケーションの面白さを感じました。英語だと思っていた言葉が実は和製英語で全く通じなかったりとか。そして、それがきっかけで私は大学2年を終了した時に休学して、在学中からアルバイトで働いていた赤坂のホテルでも英語での会話に近く、秋にアメリカへ横浜大桟橋からハワイ経由サンフランシスコ行きの「APL(アメリカン・プレジデント・ラインズ)」の貨客船「プレジデント・クリーブランド」で太平洋を2週間で横断し(途中ハワイに一日停泊)、その後、北アメリカ大陸をグレイハウンドバスで移動を続けました、まだ日本とは格差がある豊かなアメリカの時代、当時深夜バスの中で聴いていた曲が「Mamy Blue:マミーブルー」でした。

*  APL | APL | Company Overview: American President Lines

* マミー・ブルー/ポップ・トップス Mamy Blue/Pop Tops - YouTube

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 以下、(4)に続きます。

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