作田くん、頑張ってるね!

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 先日の道新朝刊札幌圏版の活字が目に飛び込んできました。

「W杯100キロマラソン日本代表 札幌チームの男女健闘、団体・作田さん金、太田さん銅」の見出しと、ジャパンの活字入りユニホームに金メダルを掲げる写真も一緒でした。「マラソン・作田」の文字に、私は瞬時に記憶が蘇りました。

彼は大学卒業後に、医薬品卸業の(株)秋山愛生舘に入社しました。面接時の様子を今でもはっきり覚えています。透明感のある前向きな雰囲気に、当時面接・採用担当の一員として是非採用したいと決めました。入社後に順調に育って営業職へと転身し、市内の支店で実績をあげていたある時に、「マラソンをもっと続けたいので、退社して大学時代からお世話になっている指導者のいるM百貨店に移りたい」旨の意思を採用担当課長経由で聞き、大きな衝撃を受けました。通勤の行き帰りもリュックサックを背負いランニングの毎日だっと聞いていました。まだ若い人間が前向きな動機で自分の人生を転進しようとする時、私自身の辿ってきた道からも、立場としては気持ちよく送り出してあげるのがベストなのだと自分に言いきかせて承諾致しました。

数年たった夏の暑い日、北海道マラソンでした。自宅から10分程度の場所が当時35キロ前後のコースになっていて、私の子どもを連れて何年か続けて応援に行っていました。そう言えば有森裕子さんがオリンピックで復活したきっかけをつくった時も同じ場で応援して、少年のような彼女のリズム感あふれる走りを見ていました。事前に作田くんが走るのを新聞か何かで分かっていたと思うのですね、地元ではかなり期待の選手との報道だったと思います。本当に暑い日差しの中で、自転車の先導部隊の後、彼が先頭の比較的早い集団の中で走る姿を見つけました。思わず大きな声で「作田、ガンバレ!」と辺りも気にせず私は連呼しました。彼の視線も気のせいかこちらに少し向いたようにも見えたのですが、汗をかいて光る黒褐色の肌としっかりした目線で前を向いて走るその姿に、涙が出てくるほど感動したのを今でも忘れられません。

翌日の新聞で結果を見ると20位との事でした。早速会社の本人宛に祝電を打ちました、35キロ付近で走る姿を見て感動したことも含めてです。初心を貫徹して走り続ける彼の生き方にも拍手を送ったつもりでした。数日後に、移ったM社の当時のI社長にある会合で会う機会があり、「先日の北海道マラソンで作田くんが頑張りましたね」とお祝いの気持で話しかけた所、その社長は「20位じゃ宣伝にも何にもなりやしないよ」との返事。私は怒りを堪えきれずにその場を離れました、「お前なんかに作田の努力が分かるはずないじゃないか!」。

彼の妹さんも確か(株)秋山愛生舘に勤めていらっしゃって、その同僚から後日何かの時に、彼が私からの祝電を自分の部屋の壁に貼っているとの情報を得ました。私の気持が伝わったと再度感激した次第です。

今回の100キロマラソンでは28カ国から180人以上の参加があったとか。記事によると「世界にはまだまだ年上の代表選手がいました。今回の経験を次に生かしたい」と抱負をの述べています。本当にコツコツと地道な努力の積み重ねで、よく20年以上も過酷なマラソンを走り続けているものだと、頭の下がる思いです。

作田くん、これからもあなたらしい人生を歩み続けて下さいね、この度は本当におめでとうございます!

「世襲」論議に思う

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 相変わらず政治を中心に「世襲」論議が騒がしいですね。どうも良く理解できないメディア記事の原因は、メディアの扱いに強い先入観念があるのと同時に、当事者である親・子どもが明解にモノを語っていないことによるものだと思います。政治の舞台は国のリーダーを視野に入れた議論でなければならないにもかかわらず、一般論としての「世襲」を扱おうとする姿勢にも疑問があります。私も企業経営に関しては「世襲」の一人なので一連の論議には興味はありますが、強い違和感を持つものです。

6月14日(日)の北海道新聞生活欄「香山リカのひとつ言わせて」で、「世襲議員、パパに反発したら?」と題してコラムが掲載されていました。「親の仕事を受け継ぐ子ども側は、抵抗を感じないのだろうか」と、エディプス・コンプレックスの気概を訴えています。

政治の世界はさておき、私も受け継ぐ側がもっと積極的に自分の意思を発信すべきだと思うのです。親側にはいろいろな思いがあるのでしょうね。出来の悪い子供と分かっていれば、何とか苦労しないように自分の築いた財産を与えたいとか。或いは自分は仕事一筋で家族を顧みなかった人生のせめてもの罪滅ぼしみたいな気持で、得た地位・名誉等の財産を譲ろうとするとかですね。いずれにせよ、子供を持つ親は、子どもがいくつになってもどんなに離れて暮らしていても、心配の種は尽きないという構図は容易に理解出来ます。それとは正反対に、親子が様々な理由により反発し合っている方が、この種の問題においてはかえって分かりやすいのかもしれません。

問題は親の気持ちに対して、これからを間違いなく担う子ども側がどう受け止めてどう自分の人生を方向づけるのかを、しっかり語る事なのだと思います。私の場合、大学進学時は自らの意思で教師を志し、しかしながら希望の大学の入試は直前で中止となり、思ってもみなかった大学に入学。そして地元に就職するのが常識的だったにもかかわらず、隣の東京都で公立中学校の新卒教師としてスタートしました。しばらくして実家の札幌から、「札幌に来て会社経営に携わって貰えないか」との話があり、約1年間自分なりに模索して、結局小学校教員だった妻と子供一人(当時)ともども札幌に行く事になりました。妻にとっては必ずしも納得のいく転進ではなかったはずです。

幼いころから実家の仕事を継ぐ事は全く告げられていなかったので、私はその話があった時には戸惑いましたが、経営者の家庭として24時間365日会社の仕事に没頭する祖母・伯父・伯母・父の姿は焼き付いてました。会社に入ってからは、当時の経営トップ(身内)の理解もあり、私の希望に沿って現場を幅広く見て各部署の各年齢層の社員・取引先他と接しながら、2年間ほど時間を掛けての日々を送りました。

入社時は勿論「将来の社長」を約束されていた訳ではありませんが、800人規模の同族会社で働く人々の私を見る眼は、普通の社員とは違っていましたね。私自身はその視線を自分への期待と独りよがりに解釈してはいました。どこの部署に行っても暖かく迎えられたと今でも思っていますし、その時に新米の私に話してくれた沢山の会社に対する注文は、その後経営トップになった時にも大いに役に立ちました。準備の期間或いは見極めの時間が必要ですね、双方にです。そこで将来の「覚悟」が難しければ、世襲で引き受けるのを辞退する選択肢も用意すべきです。お互いの不幸を避ける意味でも。

もう一つ日本的ともいえるのでしょうか、「よそ者排除」の社会の雰囲気もこの世襲論議に影響していると思います。「経験がない」、「どこの馬の骨か分からない」みたいな排除の論理が強い世界ほど、世襲が多いですね。今のように変革が待ったなしで必要な時代には、まさにこの「よそ者」が担い手となって新しい価値観と問題意識で改革の実行を期待されているのだと確信しています。

政治やビジネスの世界には時代時代の課題があり、それに立ち向かう担い手もその解決の最適者でなければ上手くいきません。遺伝子を共有していることは間違いないですが、舞台としての時代が同じではないのですね。どんな世界でも、従ってあくまでも候補者の一人としての存在と位置づけるべきであって、それしかないとの思い込みは当該組織の弱体化を意味すると思います。土壇場で「問題解決」という最優先課題を見失う、覚悟もないまま自分自身を見失う、根拠もなく過信するこども側も不幸です。その辺りが歌舞伎等の芸術分野での世襲との大きな違いではないでしょうか。

ところで今年の秋山財団の贈呈式に先立つ特別講演会では、香山リカさんをお招き致します。9月10日(木)午後2時から札幌プリンスホテルパミール館の予定です。また近づきましたらご案内もします。

戻っても、なお続きます

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 21日にワルシャワから飛行機を乗り換えて札幌に到着しました。旅行中のこのコラムに対して、多くの方から直接メールも頂きまして心から感謝致します。こちらに戻るやいなや、折からの総会シーズンで会議・会議の連続により時差をぼやく暇もありません。メールへのお答えという意味で、また幾つかエピローグの意味合いからも追加メッセージを。

* 今回の旅行は、誰の企画でどいうったメンバーだったのか、というご質問が届きました。札幌の旅行会社「旅システム: http://www.tabisystem.com/」から企画旅行のお誘いがあり、直ぐに参加を決めました。メンバー総勢13名(女性7名、男性6名)、年齢・職業・主義・主張も大変多様な、皆さん旅慣れた方々ばかりでした。永年の実績から現地ガイドの方々も選りすぐりで、深い背景の説明も多く、大学の講義を何コマも受けてきた印象でしたね。

* 現地ガイドの中谷さんの説明は、もっともっと沢山の凝縮した内容でしたが、今振り返ると私のメモはあまりに総括的でした。質疑応答の中で、アウシュヴィッツのアジアからの訪問者数のお話がありました。中国からが最も多く、次が韓国、日本は3番目で年間7000人程度とか(当初400人と書きましたが私の聞き間違いでした)。出発前に私とお会いした何人かの方からは、「知人で行った人がいる」と聞いていましたので、かなり多いのかと思っていました。そして、日本の通常の観光旅行プログラムでは、2か所合わせて移動時間も含めてせいぜい2時間程度とか。今回の私達の訪問は、意見交換を含めて約7時間でした。

* ある方からは、関係する幾つかのサイトをご紹介して頂きました。その中からリディツェ村の子供たちの像の詳細の映像と音楽です。http://www.youtube.com/watch?v=hvnEXPJG2To&feature=related こんな編集も出来るのかと感動いたしました。さらにこれに付随してリストにある多くのサイトも見る事が出来て、あらためてインターネットの機能の凄さを感じますね。ご連絡を頂いたMさんに感謝致します。

* クラクフからその後ワルシャワに向かいました。そこの「ワルシャワ蜂起博物館」、「コルチャックの墓」、「キューリー博物館」、「ゲットー跡地」も興味深かったですね。特にワルシャワ蜂起のソ連に対する評価は、ポーランドにおいても劇的に変わっているのを知りました。

* 途中経由した韓国インチョン空港は、以前にも何回か降り立ってはいますが「アジアのハブ空港」を目指すスケールを感じます。また大韓航空機内で出たエコノミー機内食「ビビンバ」は素晴らしかったです。何かの大賞を獲得したとか。

仁川空港ロビーコンコース
仁川空港ロビーコンコース

* 家に戻ってかなりの時間を費やして留守の間の新聞を読みました。何だか国内のチマチマした目先の記事ばかりで辟易しましたね。天気予報で例えていえば、「今日・明日が、雨か晴れか曇りか、」の予測、或いは「雨は午前9時からか、午前9時半からか、を延々と議論している風」ばかりで、何とも超ドメスティックで些細なその事が鬱陶しく感じました。

* メール環境は、この数年で随分良くはなりました。ただ、プラハの旧市街にあったホテルでは、ロビーに2台パソコンがあるだけで、いつも誰かが占有していました。朝時差もあって午前4時頃起きてロビーに駆けつけ、やっとラインを使う事が出来ましたが、暫くして後ろを振り向くと数人が待っている様子、ゆっくりも出来ずに切り上げました。クラクフは無線で無料で実に簡単、ワルシャワは一日はタダでしたが、二日目からは有料でした。韓国のインチョン空港では、普通の搭乗待合ロビーでも無料無線ラインが使用出来て便利でした。

 

上場会社はこれからが株主総会シーズンでしょうね。以前の上場会社代表取締役時代では、株主総会の準備でこの時期の海外旅行などは考えられもしませんでした。あらためて貴重な時間の獲得に感謝したい気持です。

アウシュヴィッツ、・・・・ (5)

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入口で

入口で

アウシュヴィッツに関して、まだまだ沢山の生々しいお話を今回聴きましたが、取り急ぎまとめたつもりです。

ナチスの隔離・大量殺りく計画では、当初は逮捕後の収容が困難という理由で収容所建設が始まりました。施設的には収容所・ガス室・焼却所等を作りましたが、次第にその順番ではなく移送後すぐにガス室といった場合がほとんどだったようです。

また死因も「病死」という場合は、実際は薬殺だったようです。病院の機能は治療の場ではなく、フェノールで殺されたりガス室の一歩手前の場所だったとの貴重な証言もあります。

収容所には130万人を越えるユダヤ人、ロシア軍の捕虜が5万人、12カ国からのロマ・シンティ(Roma・Sinti:最初はジブシーと書きましたが差別用語と知り、ドイツ語圏のジプシーの意味で変えました)もかなりの数でした。隔離から大量虐殺へと一気に進んでいったナチスドイツの政策から、私たちは多くの教訓を学ばなければならないと思います。

今回苦難の体験を経た方々のお話を真近で聴く機会を得て、私はあらたな課題を背負った気がしています。皆さん「運が良かっただけですよ」とおっしゃっていましたが、生き残った者の果たさなければならない課題も明確に自覚されているのでしょう。

生きて伝える価値と、映像をはじめとした記録の意義も再認識致しました。取り敢えずこの関連は終了致します。

アウシュヴィッツ、・・・・ (4)

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 アウシュヴィッツに拘束された元ポーランド・パルチザン(秘密抵抗組織)、後に初代博物館館長のスモーレンさんの2時間近くのお話からいくつかを書き留めます。彼はユダヤ人ではありませんでしたが、ポーランド政治犯として突然拘束されました。

*秘密抵抗組織は結成したがメンバーに実践歴がなく、ヒットラーのテロで多くの犠牲者を出した

*1940年4月15日、自宅に突然ゲシュタポが来訪し、連行された。2・3時間のつもりが、戻って来れたのは5年後だった

*1940年6月14日にポーランド政治犯728人がアウシュヴィッツ強制収容所に入れられたのが最初

*1941年ナチス司令官ヒムラーが来訪。増設命令により、10万人規模の第二(ビルケナウ)、4000人規模の第三(化学工場)収容所の建設に従事

*最も大切なことは、目と耳を使って「働いた振りをすること」だった

*1942年後半以降は、囚人番号は実際の入所者の半分程度、残りは「収容所」ではなく直接「ガス室」送りだった

*ポーランド人の村人は、5・6キロ離れた所に疎開させられた。収監されている人と一般ポーランド人が、抵抗行動で連帯していた。「収容所の様子を外へ伝える事」が最も価値のある活動だった。脱走して伝えるのが一番効果的ではあったが、見つかると銃殺刑だった。ナチス軍人は射殺すると3日間の休暇が与えられていた。「生きてこの現実を世界に伝える」ことこそ、最大のレジスタンス

*ビルケナウは湿地で、脱走しても臭いをけしてくれるので、ナチスの犬を使った追跡をかわす事だ可能だった

*ロシア軍が東から迫り、不安になったナチス親衛隊は、戦争責任を隠そうと「モーラ計画」を策定し、ビルケナウに収監した人々の皆殺しと施設の破壊を企てた

*1945年1月18日に死の行進が始まり、アルプスの近くまで移送された。5月6日にアメリカ軍により解放されて、5年ぶりに故郷に戻り、法学部学生となった。戦後はニュールンベルグ裁判で証人として出廷したが、ナチスの被告たちはウソをつくか押し黙っていて、謝罪の言葉は全くなかった。

*ビルケナウに到着間もない200枚の写真には、死体は写ってなく静かではあるが、現実は家族を探す絶叫が2・3時間は続いたはずである

*100万人以上の人が殺された事実を想像することは難しい

列車の引き込み線

列車の引き込み線

ビルケナウ収容所外から

ビルケナウ収容所外から

アウシュヴィッツ、・・・・ (3)

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 中谷さんの1時間半を越える説明から、幾つか印象に残ったフレーズを書き留めておきます。

*「よそ者」の自分には、このアウシュヴィッツの意義が一層理解できるhttp://www.hanmoto.com/bd/isbn978-4-7736-2907-1.html

*人道的に許せない、という視点ばかりではなく、20世紀のある時期に「国策として」実行された歴史的事実と認識して頂きたい

*一時の、或いは積年の「感情」だけではなく、ホロコーストには「仕組み・システム」が存在していた。自分たちと無縁の事ではない

*経済的インセンティブがシステムとして組み込まれていた事実、これは再び起こる可能性を暗示してもいる

*元所長ルドルフ・ヘスは家族とともにガス室近くの官舎に住んでいた。冷酷な人間という訳でもなかったらしく、官舎横には家庭菜園もつくっており、ナチス司令官ヒムラーと一緒に農業談義もよくしていたとの話もある。二人とも植物を愛でるタイプの人間でもあったのだ。一連の虐殺を個人的属性に帰するのは誤解のもとになるだけ。当事者は「職務」として実行しており、家に帰れば「良きパパ」だったに違いない 

*日本の平均的教育レベルの高さに期待している。ただ極限状態に追い込まれた時に、どの程度理性的に行動し得るのか、人間の本生の赴くままになってしまうのか、それが今もこれからも問われるのだろう

ガス室入口

ガス室入口

ヘス所長の官舎(右奥の建物)

ヘス所長の官舎(左奥の建物)

アウシュヴィッツ、・・・・ (2)

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 スモーレンさんのお話の後、アウシュヴィッツのもう一つの収容所ビルケナウにも行き、約2時間、一番奥まで熱心に歩いて見学をしました。ここはホロコースト終盤の「大量殺りく」を目的とした場をうかがい知るに十分な広大な敷地でした。「シャワー室」、「ガス室」、「焼却所」が一体化した建物にその意図を感じますし、人々が収容されていた施設もかなり劣悪です。また同時に、この活動の責任追及を恐れたナチスが、証拠隠滅を図るべく爆破した残骸が復元されるでもなくそのまま目の前に存在していることが、より一層ナチスの追い込まれた歴史的立場を象徴しています。

ビルケナウの鉄道と門
ビルケナウの鉄道と門

恥ずかしながらこれまでの私のイメージの中には、二つの場所が一つになっていることをビルケナウに来て初めて分かりました。

爆破されてもなお残る焼却炉他
爆破されてもなお残る焼却炉他

アウシュヴィッツ展示の説得力は、「そのまま」であることなのかもしれません。「復元」は本当に少なく、施設等の建物は当時のままであり、偶然に残った、或いはポーランド・レジスタンスがクラクフ経由でロンドンの臨時亡命政府に秘密裏に伝えた写真・メモ等の展示となっています。目の前の施設は全く無言の施設・展示物、人々の存在は白黒のやや色あせた写真の中だけです。それ故に、見学者個々の思考と想像力に依拠した問題提起となるのでしょう。「伝える」活動の重要性、「無かった」事にしようとする危険性、ふと世界共通の課題だと納得しました。

そして更に、量的な意味では、目の前には常識的には「大量の」施設、靴・髪の毛等の遺留品展示なのですが、それが極々一部であるという気の遠くなる犠牲者の数の多さを想像すると、一層今を生きる私たちにも恐怖が伝わってきます。
地元・近隣と思われる沢山の高校生の見学者の表情も真剣でした。

アウシュヴィッツ、・・・・ (1)

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 クラクフからバスで1時間半、アウシュヴィッツ強制収容所(国立オシヴィエンチム博物館)に到着しました。構内に一歩入って驚きました、何とも整然とした大学キャンパスを思い出させる光景だったからです。わずか60数年前に、本当にこの場所でホロコーストが起きたのか、とにわかには信じがたい静寂でした。

収容所構内

収容所構内

ここで唯一の外国人ガイド中谷剛さんの説明により約1時間半のツアーでした。内容は下記のアドレスにありますので、省略致します。http://www1.linkclub.or.jp/~ttakeshi/porhtml/pora01.html

「あとがき」からの引用です**************************

映画「夜と霧」の最後の字幕を紹介しておこう。

   遠ざかる映像の前で
   希望が回復したふりをする
   ある国のある時期の話と言い聞かせ
   絶え間ない悲鳴に 耳を貸さぬ我々がいる

 実際にアウシュビッツを訪れてみると、たぶんここで何も考えない人はいないと思う。しかし、ここで起こった出来事を、ある国のある時期の話なんだと、僕を含めてみんな少しは思ってしまっているだろう。
 ヒトラーがユダヤ人を迫害しようと考えたのは、歴史の中で急に現れた狂気的な発想というわけではない。ヒトラーがそれまでの人生の中で学んできたことの集大成で、そのような発想に至ったのだ。これは、それまでのヨーロッパの人々のユダヤ人に対する考え方というものとは絶対切り離すことはできないと思う。
 個人が持つちょっとした差別的な思いが、一気に突き進んでしまうと、こんな悲惨な歴史を作り出してしまうことになるのだ。そのことを意識して、個人それぞれが自分の中のそのような思いについて、もう一度振り返っておくということが、非常に大切なことだと感じた。

最後に、アウシュビッツに行く前に見るべき映画を書いておきます。「シンドラーのリスト」、「夜と霧」、「ライフ イズ ビューティフル」。特に「夜と霧」はアウシュビッツで撮影された映画です。映画というよりもドキュメンタリーみたいなものですが、DVDも発売されていますので、ぜひ行く前に見てください。

******************************引用おわり

彼の著書は読み応えがあります。http://www.hanmoto.com/bd/isbn978-4-7736-2907-1.html

 

午後は、ここで約5年間拘束されていた元ポーランド・レジスタンス(秘密抵抗組織)のスモーレン(88歳)さんが、約1時間半の講演でしたhttp://sanmarie.org/auschwitz。彼はこの博物館の初代館長も務めました。

ポーランド・レジスタンス:スモーレンさん

ポーランド・レジスタンス:スモーレンさん

ゲットー&オスカー・シンドラー

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  チェコのプラハから夜行列車で9時間半、ポーランドのクラクフに到着しました。マチの歴史はさて置き、市内にはユダヤ人ゲットー跡地の建物も保存されていて、広場には当時の住民を象徴する椅子のモニュメントもありました。 

クラクフ・ゲットー跡地のモニュメント

クラクフ・ゲットー跡地のモニュメント

映画「シンドラーのリスト:http://info.movies.yahoo.co.jp/detail/tymv/id11457」は、その真実性に批判もかなりあるようです。印象的なテーマ曲でした。映画に出てくるオスカー・シンドラーの工場も、このゲットーに程近い所です。現在は比較的小規模の展示ですが、映画公開の後に博物館建設に向けた活動のポスターも見ました。

シンドラー構内

シンドラー構内

シンドラー事務所窓から
シンドラー事務所窓から

映画の場面にも登場した入口から続く昇り階段を上がった右手に、シンドラーの事務室がありました。そこの窓から工場を望むことができます。

ナチスとの関わりが深かった故に、限られた自分の立場で命の救出が出来たのでしょう。
二度と戦争を起こさないためにも、世界規模の戦争の歴史を検証する場合、後で構図を確認すると同時に個別局面での多様な事実も見逃してはならないと思います、その動機はともかくとして。
「戦争を起こすのも人間なら、戦争に反対してそれを止める事が出来るのも人間である」、そこまでいう自信はなくても、立場にいるものにとっては「いのちを守る事ができるのも人間」とはいえるのではないでしょうか。
何が良くて何が悪いのか、そういった議論が意味を持つのかも含めて、なかなか一筋縄ではいきません。現場は沢山の問題提起を自分にしてくれます。

リディツェ村、さらにつづく

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 67年経た今、リディツェ村の悲劇を振り返る現場の光景です。日本であればゴルフ場と見間違いそうな美しい芝生と大きな木々ですが、この大地の下からは「いのち」の叫びが聞こえてきます。詳細はHPでも知ることができます。(日本語版はありません)http://www.lidice-memorial.cz/ 、http://www.obec-lidice.cz/

町の中心の教会から町のあった場所を望む

町の中心の教会から町のあった場所を望む

 村の中心にあった教会の場所から、昔の村を望みますとこんな感じです。一面芝生で保存されていて、所々に忘れ得ぬ悲劇の現場とモニュメントがメッセージを私たちに発信しています。

村の男性全員が虐殺され埋められた場所で

村の男性全員が虐殺され埋められた場所で

遠くに見える復興した「リディツェ村」
遠くに見える復興した「リディツェ村」

もう一つ、戦後間もなく復興されて新しく隣地に建設された「リディツェ村」を、昔の教会敷地を通しての眺望です。「復興する」活動により、過去の歴史を踏まえて生きようとする人たちの世界へのメッセージと受け止めました。

そして私たちは、次の訪問地ポーランド・クラクフへ移動しました。

リディツェ村で何が起きたのか

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 チェコの首都プラハから約30分の所に「リディツェ村http://www.geocities.jp/lenhartzstrasse/lidice.htm」があります。第二次世界大戦中に、ナチスドイツにより村の住民が老若男女多数処刑されて、或いは強制収容所に連行されました。広大なゆったりした平原で、以前村があったその場所には、今沢山の慰霊の像と当時の場所の説明、記念博物館等、辛くも生き残った方々の証言をもとに、二度と戦争を起こさないとういう強いメッセージを発信し続けています。

昨日ちょうど記念館の職員の方から説明を受けている時に、当時19歳で連行されて強制収容所に連行されつつも生き残った87歳の女性が私たちのそばを通り、しばし自らの体験を生々しく語って頂きました。

また、当時幼かった男性で、その後ドイツ人の家庭で育てられて、戦後故郷に戻り村長を務められた方からは、当時の様子とその後の人生、リディツェ村の復興他、今の私たちにも大変貴重なお話の数々を聴くことが出来ました。

リジッツェ村の犠牲
リジッツェ村の犠牲                        犠牲者であり、戦後村長に

戦後、連れ去られて殺された子供たちの記録をもとに、広く寄付を集めてその「像」が設置されていました。中央やや右の一番年少の男の子が三角形の最先端で、村の中心の教会の方を向き、目線をやや下にしていて、私達の胸を強く打ちます。また、後方中央やや左には、日本からの寄付を記念して、日本で鋳造されたおかっぱ頭の女の子もシンボルとして一群の一人として存在していました。

地元の親子が、子どもにしっかりこの悲劇を伝えておきたいとの願いでしばし像の前で語らっていました。ただ黙祷でした。
リジッツエ村の犠牲者、奇跡的に生き残り後の村長
リジッツエ村の犠牲者、奇跡的に生き残り後の村長

彼は静かに語り続けて、「自分は運が良かった。この悲劇を二度と起こしてはならなく、自分の辛い体験を若い次の世代に伝えなくてはならない」と、語気を強めてお話になりました。

メール環境が十分でないために、沢山のご紹介したい写真も掲載出来ません。訪問旅行終了後に、まとめて「特集」と致します。

今、プラハです

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 先ほど、プラハに着きました。今回、チェコ・ポーランドの訪問です。インターネット環境が良ければ、随時メッセージを送りたいと思っています。こちらの日没は今頃は午後11時過ぎとの事です。今午後9時過ぎですが、まだまだ明るいですね。

取りあえず、プラハに無事着きました。

加藤周一さんの志、品川正治さんの肉声に触れて

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多様な各地の活動

多様な各地の活動

  6月2日、東京の日比谷公会堂で講演会が開催されました。タイトルには「加藤周一さんの志を受けついで」とありました。開始1時間少し前に日比谷公園に行きましたが、何と500人を越える程の長蛇の列、入口が開いてから私が入るまでに15分位掛かりましたでしょうか。これまで何回も日比谷公会堂には行っていますが、こんなことは初めてでした。2階席の前から3番目に座りました。ご存知のようにここは2階席と1階席の数がそれぞれ1000席強で、ほぼ同数です。それだけ2階席がせり出している造りになっています。開会前には超満員、舞台右手に加藤周一さんの生前の笑顔の大きな写真が掲示され、ビデオ上映も開会前に放映されていました。

井上ひさし、大江健三郎、奥平康弘、澤地久枝のご講演、パートナーだった矢島翠さんのあいさつ、「さくら横ちょう」のうた等、盛沢山でした。http://www.eizoudocument.com/0106katou.html 

翌日の新聞では、大江健三郎の講演趣旨が主でしたが、私は澤地久枝さんのお話が印象的でした。ご自分がまだ学生時代、加藤周一の「ある晴れた日に」を読んでも、その青年医師のメッセージを読み取れなかった事、数十年後にやっと理解出来た事を恥じたと告白し、「今どきの若いものは・・、というのはやめよう!」と聴衆に向けて訴えました。若い人たちが立ち上がらなくて誰がやれるのか、とも。

事務局長の小森陽一さんは現在は東大教授ですが、北大のご出身ですね。

札幌での講演会
札幌での講演会

  一方札幌では、財団法人国際開発センターhttp://www.idcj.or.jp/top/aboutus_f.htm 会長、経済同友会終身幹事の品川正治さんの講演会が開催され、こちらも大変熱心な聴衆でいっぱいでした。ご自分の中国最前線での戦闘体験から、戦後を生きる人間として、「二度と戦争を起こさない国にすること」を信念とされて活動されています。

昨年のリーマン・ブラザーズの破綻、年末・年始の日比谷公園の派遣村についての前向きなご意見も印象的でした。最後に、「日本型資本主義の模索」について、困難な道ではあるけれど、暫くの間どう耐えていくかを真剣に考えれば、必ず確立できるはずとの信念も語られました。

私達へのメッセージは、「自分が主権者であること」を自覚して、選挙の一票の重みの再認識。そして今、「アメリカと日本は違う」ということにより、世界史を変える好機であり、それを決められるのは「主権者としての権利行使」以外あり得ないこと、子供・孫の世代の為にも、と力強くお話を結ばれました。

背筋の伸びた姿勢で2時間淡々とお話になるその姿に、品川さんのこれまでの生き方を見る思いでした。そして何よりも、経済界には殊のほか同じ志を持つ経営者が多い事も知り、経営者の立場から、国際社会における日本の主張の方向性を見つけた気がしました。奥様も札幌市立高女(現在の札幌東高)ご卒業とのことで、札幌との少なからずのご縁も感じた次第です。                              

愛生舘の「こころ」 (5)

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 松本良順先生が晩年大磯に住んでいた事は、前に書き記しましたが、先日仕事の合間に時間をつくって大磯に行ってきました。東京駅からJR東海道線で約70分、大磯駅から徒歩5分の所に妙大寺があり、その境内に松本順先生(後年に良順から順と名を変えている)のひと際背の高いお墓を見つけました。

大磯・妙大寺 松本順 墓

大磯・妙大寺 松本順 墓

 地元の観光協会の方に伺うと、ご自宅はこのお墓のある妙大寺の右隣だったそうです。海が見えて裏は山、閑静な住宅地でした。そこから海側に下って歩いて10分程度で照ヶ崎海岸です。1885年(明治18年)、大磯町のこの海岸を日本最初の海水浴場と定め、海水浴の振興による健康増進と大磯町の開発に尽力しました。実は私の勝手な思い込みで、「照ヶ崎海岸」というものですから、松を背景として砂浜に記念碑が建っていると信じていたのですが、現在はバイパス道路と防波堤で固められたその間に碑がありました。イメージとは違う雰囲気で残念でしたが、ある意味ではこの間の時代の変遷を象徴する光景かとも思ったりして、です。

松本順先生の他にも、この大磯町にはこれまで著名な方々が250人程も住まわれていたとか、地元の方も誇らしげに語っておられました。こんな絵ハガキもあったので、1枚100円で買って帰りました。正直に申し上げて、「松本順と愛生舘」を追いかけている私にとって、観光ギャラリーの中で「展示されている彼」には違和感を持ちましたね。地元大磯にとっては、「250人以上の著名人(?)」に価値を置いているのかと思ったりしてです。

大磯・観光絵はがき

大磯・観光絵はがき

先日、「幕末史」(半藤一利著)http://books.yahoo.co.jp/book_detail/AAT85730/ を読みました。本来であれば江戸幕府十四代将軍家茂を看取った松本順先生も、当然この中に記載されていなければならないのでしょう。

著者が、攘夷を唱えた時代に対して「熱狂的になってはいけない」と警告をしています。また「皇国」の本来の意味は、幕府が支配している日本に対する、朝廷が支配する日本、というくらいの意味であって、私たちが意識している天皇というほど、この時代の人たちは天皇を意識していなかったのではないでしょうか、とも語っています。

このような本を携えながら、歴史認識の新たな発見を多少期待して松本順先生の晩年の地を訪れましたが、少し掘り下げ不足でした。何かの機会に再度やり直します。

家族の絆、「浦崎信子をめぐる人たち」

Posted by 秋山孝二
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 昔、テレビドラマで「ルーツ」http://www.superdramatv.com/line/roots/という番組がありましたね、そうです、クンタ・キンテの物語です。家族のよって来たる所以を明らかにする事は、今を生きる人間の立ち位置を明確にします。経営者の最大の喜びは、ビジネスを通して沢山の素晴らしい方々とお会い出来る事であり、ここでご紹介する浦崎さんも私の尊敬する経営者のお一人です。

ご親族がそのルーツを丹念に時間を掛けて調査し、部外者の私にも、たくましく生きた時代、とりわけ沖縄・与那国・鹿児島・福岡のあらたな歴史の軌跡を知りました。まさに激動の中を、地域社会での確かな担い手としての証し、それぞれの「家系図」を根気よく追跡する事により、脈々と続く家族の絆に感動致します。そう子供たちを育てた親たちの世代のしっかりした教育にも敬意を表します。

平成17年4月1日発行

平成17年4月1日発行

この本の表紙を飾る与那国富士と呼ばれる「宇良部岳」、そして浦崎さんのあとがきも印象的でした。「母・信子のルーツ尋ねに始まるこの作業を経て、祖父と母、そしてふたりをめぐる人たちについて書いたが、いつの日か、父の足跡や私どもに大きな影響を与えた兄の足跡についても書き残せたら、と密かに念じている。また、若い親族の皆さんが、この小冊子に接して、自分の生まれ、育ちについて思いを深め、さらに自分と先祖について究めることができたら、望外の喜びである。・・・」

これを読まれる次の世代への期待も膨らみますね。起業してから短期間で株式公開を成し遂げて経営を担ってきた方と、こういうテーマでお話が出来る事、それ自体が私にとっては大変幸せでした。ほぼ同時代をこれまで生きながら、かなり違った人生の歩みにも大変興味いものがありました。貴重な本をお送り頂き、心から感謝申し上げます。

岡林信康の魅力は、今もなお!

Posted by 秋山孝二
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 「山谷ブルース」、「チューリップのアップリケ」、「がいこつの唄」、「私達の望むものは」等、思い出せば懐かしい歌の数々。どこかで目に飛び込んできた「岡林信康」の文字、そして先日のライブで久しぶりの姿でした。

60年代後半、騒然とする大都会の中で、一番口ずさむ回数の多かったのが彼の歌でしたね。歌詞は社会に対してのレジスタンス・強いメッセージなのですが、何となく危うく壊れそうな彼の歌声と雰囲気に共感しました。日比谷野外音楽堂でしたか、一度だけライブを聴きに行ったよな気がするのですが、定かではありません。http://www.youtube.com/watch?v=5hjOjJfTGko&feature=relatedhttp://www.youtube.com/watch?v=Pw4uN52SytE&feature=related、 http://www.youtube.com/watch?v=kjAI9V1G6bA&feature=related

「岡林信康ライブ」チラシより
「岡林信康ライブ」チラシより

40年ぶり位の彼の雰囲気は、何も変わっていませんでした。この間、突然雲隠れしたり、演歌に寄り添ったりの人生ではあったものの、私の人生の変遷と相俟って、ほぼ同じ時代を生きてきたという意味で、「何も変わっていなかった」と感じるのかもしれません。日本型「手拍子:前打ち」と外国型「ビート:後打ち」との違いとか、尺八・三味線・太鼓とのコラボとか、新鮮な試みも面白かったです。「俺、いち抜けた」も懐かしかったですね。

隣に70歳を越えるおばあさんが独りで私たちより前から座っていました。岡林ファンというのには何か違和感があったのですが、手拍子をするでもなく最初から最後までただじっと聴いていました。幅広い人気というのでしょうか。この秋に登別でライブがあるようで、いつまでも変わらぬうた声でいてほしい、そんな気になりました。

田舎の路線バスでは

Posted by 秋山孝二
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 札幌市内の公共交通の中で路線バスが民営化されましたが、路線の採算等で利用者側の使い勝手と運営企業側とのギャップが取りざたされている昨今です。

先日栃木県益子町で、定例のワグナー・ナンドール財団(タオ財団:http://wagnernandor.com/indexj.htm)の会合に出席する為にいつものようにJR宇都宮駅から路線バスに乗りました。1時間に一本程度のバスで、出発して10分程もすると乗客は数人となる路線、50分程で益子町に入ると、運転手さんに言うと路線上のどこでも降ろして貰えます。以前、1万円札しか持ち合わせがなく困ったなと思って相談したら、コンビニ前で臨時停車してくれて、80円のガムを買って小銭を作って再度乗ったこともあります。地元の方には、次に乗る時で良いよと言う場合もあると後で聞きました。

先日は、こんな光景がありました。宇都宮から益子行きのバスでしたが、走っていると反対側で手を振るおばあさんがいました。私はご挨拶がわりと窓から手を振り返すと、運転手さんも気がついたのでしょう、バスを止めました。すると道をゆっくり渡ってその方がバスに乗ろうとするではありませんか。「○○まで行くか?」との問いに、運転手さんは「行きますよ」と答えました。するとその方が安心したのか乗る前に靴のひもを地面で結び直そうとしました。すかさず運転手さんが「乗ってから車の中でやってよ」とまず乗る事を優しく促すのです。私と一緒だった友人とは顔を見合せて、「都会だったら知らんふりで間違いなく通り過ぎるよね」と。運転手さんの田舎道を走る余裕も感じた1コマでした。次に私たちが降りる段になり、一つ前の停留所を通過したので降車ボタンを押した途端、本当にその場に止まったのです、「ここで宜しいですか?」と言って。まさに「マイ・バス」感覚でした。

更に会議が終わっての帰り道、何せ1時間に一本ですから逃すわけにもいかずぎりぎりで通る到着時刻に間に合い、乗り込みました。暫くすると、小雨の中今度は通っている道沿いで女の子が楽器みたいな大きなケースを背負いながら手を振っていました。バスは一度は通り過ぎたのですが、直ぐに停車しました。私は押しボタン信号が赤にでもなったかと思っていましたら、隣の友人が後を振り向きながら、「今通り過ぎた女の子を待っているみたい」と教えてくれました。最後部座席だったので後を眺めると、その女の子が30メートル位先で何かを待ちながらしきりにバスの方も見ているのです。そして片側1車線の田舎道は、突然のバスの停車で後方にはあっという間に50メートル程の車の列、ただどの車もクラクションを鳴らすでもなく、追い抜く訳でもありません。そうこうしているうちに、やっと女の子が走ってバスに向かって来ました。同時にその後に妹のような更に小さい子がポーチのようなものを手にしながら追いかけて来ます。勘の良い私の友人は、「あの子は楽器の習い事に行こうとしたけれど、お財布を忘れて妹に家に取りに行かせていたのだ」と状況を即座に把握していました。その女の子はバスに、妹はお姉さんに、それぞれ無事間に合いました。息を切らして乗り込んだ女の子は、JR宇都宮駅手前の停留所で雨の中降りて行きました。しっかり荷物の中から折りたたみ傘を出してです。行きも帰りも、バスの乗客は勿論誰も停車に文句をいう人はいませんでした。

私は4歳の頃から札幌の市電に定期券で乗っていました。小さい頃は電車に待って貰うなどという事も出来ず、何回も停留所まで走ったりしていましたが、先日の光景に出合って何かたまらない懐かしさを感じました。今でも残っているのですね、あの当時のような運転手さんとお客さんの関係が。担い手が官でも民でも、公共交通のサービスの原点は、運転手さんの気持と余裕ある環境づくりでしょうか。

蛇足ですが、週末の羽田空港から浜松町のモノレール内です。まさに「マイ・モノレール」でした。全ての時間帯に車両を満席には出来ません。どう乗客を公共交通に誘導するか、その辺がまさに経営努力だと思うのです・・・。乗客の勝手を言わせてもらえば、空いている乗り物は「最高」です。

マイ・モノレール:週末の朝

マイ・モノレール:週末の朝