アウシュヴィッツに関して、まだまだ沢山の生々しいお話を今回聴きましたが、取り急ぎまとめたつもりです。
ナチスの隔離・大量殺りく計画では、当初は逮捕後の収容が困難という理由で収容所建設が始まりました。施設的には収容所・ガス室・焼却所等を作りましたが、次第にその順番ではなく移送後すぐにガス室といった場合がほとんどだったようです。
また死因も「病死」という場合は、実際は薬殺だったようです。病院の機能は治療の場ではなく、フェノールで殺されたりガス室の一歩手前の場所だったとの貴重な証言もあります。
収容所には130万人を越えるユダヤ人、ロシア軍の捕虜が5万人、12カ国からのロマ・シンティ(Roma・Sinti:最初はジブシーと書きましたが差別用語と知り、ドイツ語圏のジプシーの意味で変えました)もかなりの数でした。隔離から大量虐殺へと一気に進んでいったナチスドイツの政策から、私たちは多くの教訓を学ばなければならないと思います。
今回苦難の体験を経た方々のお話を真近で聴く機会を得て、私はあらたな課題を背負った気がしています。皆さん「運が良かっただけですよ」とおっしゃっていましたが、生き残った者の果たさなければならない課題も明確に自覚されているのでしょう。
生きて伝える価値と、映像をはじめとした記録の意義も再認識致しました。取り敢えずこの関連は終了致します。