アウシュヴィッツ、・・・・ (5)

Posted by 秋山孝二
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入口で

入口で

アウシュヴィッツに関して、まだまだ沢山の生々しいお話を今回聴きましたが、取り急ぎまとめたつもりです。

ナチスの隔離・大量殺りく計画では、当初は逮捕後の収容が困難という理由で収容所建設が始まりました。施設的には収容所・ガス室・焼却所等を作りましたが、次第にその順番ではなく移送後すぐにガス室といった場合がほとんどだったようです。

また死因も「病死」という場合は、実際は薬殺だったようです。病院の機能は治療の場ではなく、フェノールで殺されたりガス室の一歩手前の場所だったとの貴重な証言もあります。

収容所には130万人を越えるユダヤ人、ロシア軍の捕虜が5万人、12カ国からのロマ・シンティ(Roma・Sinti:最初はジブシーと書きましたが差別用語と知り、ドイツ語圏のジプシーの意味で変えました)もかなりの数でした。隔離から大量虐殺へと一気に進んでいったナチスドイツの政策から、私たちは多くの教訓を学ばなければならないと思います。

今回苦難の体験を経た方々のお話を真近で聴く機会を得て、私はあらたな課題を背負った気がしています。皆さん「運が良かっただけですよ」とおっしゃっていましたが、生き残った者の果たさなければならない課題も明確に自覚されているのでしょう。

生きて伝える価値と、映像をはじめとした記録の意義も再認識致しました。取り敢えずこの関連は終了致します。

アウシュヴィッツ、・・・・ (4)

Posted by 秋山孝二
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 アウシュヴィッツに拘束された元ポーランド・パルチザン(秘密抵抗組織)、後に初代博物館館長のスモーレンさんの2時間近くのお話からいくつかを書き留めます。彼はユダヤ人ではありませんでしたが、ポーランド政治犯として突然拘束されました。

*秘密抵抗組織は結成したがメンバーに実践歴がなく、ヒットラーのテロで多くの犠牲者を出した

*1940年4月15日、自宅に突然ゲシュタポが来訪し、連行された。2・3時間のつもりが、戻って来れたのは5年後だった

*1940年6月14日にポーランド政治犯728人がアウシュヴィッツ強制収容所に入れられたのが最初

*1941年ナチス司令官ヒムラーが来訪。増設命令により、10万人規模の第二(ビルケナウ)、4000人規模の第三(化学工場)収容所の建設に従事

*最も大切なことは、目と耳を使って「働いた振りをすること」だった

*1942年後半以降は、囚人番号は実際の入所者の半分程度、残りは「収容所」ではなく直接「ガス室」送りだった

*ポーランド人の村人は、5・6キロ離れた所に疎開させられた。収監されている人と一般ポーランド人が、抵抗行動で連帯していた。「収容所の様子を外へ伝える事」が最も価値のある活動だった。脱走して伝えるのが一番効果的ではあったが、見つかると銃殺刑だった。ナチス軍人は射殺すると3日間の休暇が与えられていた。「生きてこの現実を世界に伝える」ことこそ、最大のレジスタンス

*ビルケナウは湿地で、脱走しても臭いをけしてくれるので、ナチスの犬を使った追跡をかわす事だ可能だった

*ロシア軍が東から迫り、不安になったナチス親衛隊は、戦争責任を隠そうと「モーラ計画」を策定し、ビルケナウに収監した人々の皆殺しと施設の破壊を企てた

*1945年1月18日に死の行進が始まり、アルプスの近くまで移送された。5月6日にアメリカ軍により解放されて、5年ぶりに故郷に戻り、法学部学生となった。戦後はニュールンベルグ裁判で証人として出廷したが、ナチスの被告たちはウソをつくか押し黙っていて、謝罪の言葉は全くなかった。

*ビルケナウに到着間もない200枚の写真には、死体は写ってなく静かではあるが、現実は家族を探す絶叫が2・3時間は続いたはずである

*100万人以上の人が殺された事実を想像することは難しい

列車の引き込み線

列車の引き込み線

ビルケナウ収容所外から

ビルケナウ収容所外から