阿寒ほか、道東の今

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  阿寒湖畔はもう冬への準備となっています。来年度に向けて、地元の阿寒観光協会まちづくり推進機構も、阿寒湖温泉のグランドデザイン推進を一層積極的に 進めていくようですね。アイヌ文化のブランド化、外国人観光客の誘致策、環境との共生を軸とした計画もステップアップしてきています。
丹頂の里で(中央に一つがい)
丹頂の里で(中央に一つがい)

 自然と人間とが大変近い距離にあるというのでしょうか。先日も阿寒湖畔から釧路空港までの道筋に、エゾシカ5・6頭、丹頂ツル10数羽を目撃しました。一方釧路空港にはシマフクロウと丹頂ツルの大きな彫刻が雪に薄っすら包まれて、歓迎していました。

釧路空港ビル玄関前1

釧路空港ビル玄関前1

釧路空港玄関前2

釧路空港玄関前2

 阿寒湖畔には新しいシアターも建設されて、アイヌ文化伝承の一層のレベルアップの拠点ともなりそうです。単なる伝承から更に進化して、新しい文化創造へと発展していくことを祈っています。

愛生舘の「こころ」 (8)

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 <資料編> ポンぺ、松本良順に関する資料は、良順会館展示室と医学部図書館にかなりありました。

 良順会館の入口すぐには、レリーフと彼の書・絵も展示されていました。

松本良順レリーフ

松本良順レリーフ

  

書

 

絵

 開所時の長崎医学伝習所のスケッチです。

 

もう一つ、「愛生舘」の出版物としてあらたに「国家幸福之種蒔」も見つかりました。

「通俗民間治療法」とあらたに見つかった「国家幸福之種蒔」

「通俗民間治療法」とあらたに見つかった「国家幸福之種蒔」

  この辺りの歴史は、歴史小説で名高い吉村昭の著「暁の旅人」http://shop.kodansha.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=276139 で詳細を知ることが出来ます。吉村さんは今から4年程前に、この本を携えて札幌の私の所を訪問されました。埼玉県の公文書館で調べて、愛生舘北海道支部の発祥の地を訪ねての調査だったようです。松本良順と新撰組近藤勇との交遊他、良順の情に熱い人柄がきめ細かく表現されています。

愛生舘の「こころ」 (7)

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<外回り編 > 

行ってきました長崎は、その日も雨でした。

 ポンぺ・松本良順の医学伝習を追いかけて、いつか長崎と思っていましたが、早い時期に実現致しました。長崎大学医学部キャンパスの図書館で、特別展示室を係の方にご案内して頂き、貴重な資料の数々に出会うことが出来ました。

まずは外回りから:現在の医学部キャンパスの正門右に、2年前の150周年記念で立てられた「良順会館」です。当日は学会が開催されていて、沢山の研究者の方々の往来があり、メーカーの展示ブースも設営されていました。

医学部正門横・良順会館

医学部正門横・良順会館

良順会館・前庭

良順会館・前庭

 現在は裏になっていますが、原爆投下当時の正門がそのままの状態で今も残っています。

旧医学部正門

旧医学部正門

爆風で傾いたままの左門石

爆風で傾いたままの左門石

  医学部から程近い場所に、「爆心地記念塔」がありました。この地点の真上でプルトニウム型原子爆弾が炸裂したのです。この周辺一帯が平和公園http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/kouen/heiwa/heiwatop.htmlとなっています。

爆心地・大学から200メートルの地点

爆心地(左黒柱)・大学から200メートルの地点

平和祈念像

平和祈念像

日ハム優勝パレード、すごい人波!

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 先ほど、札幌市内で日本ハムファイターズの優勝パレードが開催されました。これまで毎回行っている私は、今回もかなり前から4丁目付近で外の大画面も見ながら待っていました。近くの方は室蘭から早朝にバスで来たとか。

事前に紙吹雪の練習?

事前に紙吹雪の練習?

現場はこんな感じ!

現場はこんな感じ!

垣間見た?

垣間見た?

勢ぞろい

勢ぞろい

  3回目の紙吹雪、年毎に技術も進化するのか、素晴らしかったですね。中には新聞チラシを切ったものもあったりです。ビル風でかなり西の方まで、北1条通りにも沢山残っていました。ボランティアの方々がお掃除なのでしょう。記念に持ち帰っている姿もみました。

祭りのあと

祭りのあと

 臨場感とドキドキ感は現場が最高ですが、選手の顔・表情は、結局はテレビで見るのが一番かもしれません。 

 何はともあれ3回もこんな素晴らしい体験を、日本ハムファイターズ、ありがとう!!

‘71 北アメリカへの一人旅 (2)

Posted by 秋山孝二
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 第一回目で、「いつまでという予めの計画もなく、2・3人のアメリカに住む方々の連絡先と、ただ一人だけに訪問する旨を伝えていた以外は全くの行き当たりばったりで、・・・」と書きました。計画は無かったのですが、別に漂流していた訳ではありません、目的は持っていました。連絡先を貰ったアメリカに住む方のお一人は、ロスアンゼルスの日系二世Nさん。私は直接お会いしたことはなく、日本でお世話になっていた方の遠縁にあたる方でした。沢山の貴重なお話を伺った記憶があります。アメリカの日系人の方々のご苦労は、別の機会にしっかり書き留めたいと思っています。

 「ただ一人だけに」というのが、写真の女性M.Lです。日本に留学している時に札幌で会い、彼女とのやり取りで英会話の魅力を初めて知りました。違う世界が一気に拡がるというのか、「活きた英語」というのか、思いっきり表現出来ない苛立ちも同時にありながら、新しい世界に入るきっかけを貰いましたね。1年間の留学の後にアメリカに戻り、当時彼女はニューヨーク州オスウェゴ市にある州立大学の学生でしたhttp://www.oswego.edu/about/index.html。キャンパスの裏には五大湖の一つ、オンタリオ湖畔が広がっている素晴らしい景観の大学でした。ご承知のように、「ニューヨーク」と言った場合、「State」と「City」で場所が違います。いわゆる「9.11」のあったのは「New York City:NYC」です。

40年前、州立大学キャンパスで

40年前、州立大学キャンパスで

 この旅では、大学キャンパスで3日間程、一か月後に彼女の自宅のある小さな町で3日間程それぞれ滞在しました。現在二人の男の子の母で、今はバーモント州で暮らしていて、プロの画家・教室・ユニークな芸術品作成を続けていますhttp://www.meryllebowitz.com./bio.html。、数年前に上の子・ベンジャミンがガールフレンドと共に東京に来た時、私の長男を含めて昼食を一緒にしました。ガールフレンドが根っからの「ベジタリアン」で、日本食の「鰹だし」もダメとのことで苦労しました。お店の方によると、その様な場合は前の日までに言うと「昆布だし」に代えて出せますとのことでした、昨今のお店も対応力が問われているのですね。

 今、思い出しました。当時大陸をバスで移動していた時、宿泊先のYMCA館内でも、ラジオから流れていたのが’Mamy Blue (http://www.youtube.com/watch?v=nwVfci-YtMM&feature=related)’ でした。当初は曲の題名も分からず、その名を知ったのはずっと後ではありました。

 

企業・組織と経営者の役割

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  10月に札幌学院大学(SGU:http://www.sgu.ac.jp/)で、今年度2回目の広域講義を行いました。前回は5月でしたので、それから5ヶ月間で政権交代も行われたり、今学生が生きてる時代はまさに「激変期」であることを冒頭に強調しました。

 SGUでは今年の4月から商学部が「経営学部」に発展改組され、新たなスタートを切っています。その記念論文集に、私は「企業・組織と経営者の役割」という題で、短い論文を書きました。今回はそのエッセンスからも少々メッセージを織り込んだつもりです。

SGUキャンパスの秋

SGUキャンパスの秋

 その論文の中から終わりの部分を引用します。特に太字の部分が、今回執筆の最も強い動機となっています。

 

 

“6  若い経営者への期待

 企業・組織にとって継続的な人材の新規採用は大変重要である。と同時に、社会にとって、若い世代の経営者は宝物に違いない。新しい価値の導入は新しい担い手によって成し遂げられ、経営におけるイノベーションの原動力を、これらの人材に求めるのである。新しい人材は、人的資源の補充という数の意味以上に、当該集団の「価値の革新・移転」を早期に促す意味が本来的に大きい。しかしながら、日本の伝統的経営だった「終身雇用」はごく限られた人材にだけの適用となり、昨今の見識のない経営者は、グローバル競争の中で本来の価値をかなぐり捨てて、当面の利益追求に終始し、貴重な財産を放棄して、人的資源を単なる人件費の削減の手法に落としめてしまった。日本のレベルの高い労働者に依拠して創り上げてきたこれまでの実績を、何と心得ているのだろうか。再度原点に戻って、経営者は、イノベーションの最も有効な手段として、時代のセンス、将来を読み取る新鮮な感性を期待して、定期的新規採用を行い、同時に自らのポストの明け渡しを含めて、若い世代の台頭、世代交代を積極的に促すべきである。激動の今、過去の経験・実績が必ずしも役に立たない時代は、冷静に考えるとまさに絶好の機会に違いない。

 

 7  結びにかえて

第二次世界大戦終了後、日本は直後の混乱を乗り越えて、30年を越える高度成長期を謳歌した。その後バブル経済が崩壊し、暫く調整期が続き、ようやく新しい方向性の兆しが見えてきた時、今度は国際金融恐慌の嵐で、今大きな試練に立っている。

確かに100年に一度の事態なのかもしれないが、私は本来の経済構造への回帰の過程と受け止めたい。この数年間、世界経済の異常な伸長を警告していた識者は何人も居たし、身近で尊敬する経営者も繰り返し指摘していた。

 

経営者の最も重要でかつ究極の役割は人材の育成である。長期的視点に立った教育プログラムは、理念に裏打ちされていなければならず、職域階層毎、世代毎との縦軸横軸で、同時に次世代の経営者の育成プログラムも構築する事が大切である。高度成長期には次々と育ってきた人材が、競争力に富んだ技術を継承してきた。座学としての教育プログラムばかりではなく、日本の労働力としてのレベルの高さに自信を持って、現場に思い切って権限を委譲し、機会を与えて育成していく事(OJT)が今必要なのではないのか。一般的に言って、これまでの日本企業の競争力は、経営者の優秀性というより、この現場の優れた人材に依るところが大きかったはずである。

 

更に自らへの戒めとして、私はこのような時代に、持ち続けている問題意識がある。それは日本の組織におけるリーダーの「責任の取り方」、「責任の取らせ方」だ。戦争責任、不祥事の責任、みな明確ではなく、当事者は言い逃れに終始し、責任を論じる「装置」が不明確、或いは不在で、そしてそれを裁く司法も明解ではない。ほとぼりがさめると何食わぬ顔でまた表舞台に登場する一方で、本来は責任を負うべき立場にない者が、その身代わりの如く責任を取らされている事例もあるのではないか。誰に責任があり、誰が一体責任を取るべきか、この曖昧さを容認してしまう日本社会を私は危惧する。次世代の育成の為にも、現役世代が理屈の通る見本を示してこそ、明るい未来を描く事ができるのだと思う。

 

折りしもアメリカでは現在、公的資金注入を受けた大手保険会社が、その後、多額の役員賞与を支払っている事案が議会で問題視されている。このような現実を目の当たりにすると、「アメリカ型」経営・倫理に対する違和感を強く持つ。私は、社会の価値観、企業経営の価値観等を通して、この数十年に粗末にしてきた「日本型経営モデル」の再評価を、企業のCSR、そして新しい起業の中で見出したいし、実労働人口が減少していく中で、若年層の価値増大への道も切り拓きたいと思っている。”

                    

新たな「地域医療支援」に向けて

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  札幌医科大学で、文部科学省採択助成金による「地域医療支援5大学連携シンポジウム」が開催されました。

 小樽商科大学、千歳科学技術大学、北海道医療大学、室蘭工業大学、札幌医科大学の5校が、地域医療ニーズに応えることができる医療人育成を目指して連携し、取り組みを展開するそうです。それぞれの大学の第一線の方々が、各大学の活動概略を説明され、その後4名の先生による異なる視点からのプレゼンテーションが行われました。まだスタートしたばかりで手探りの状態とも思われますが、確実に新しい時代が始まっていますね。

5大学連携で

5大学連携で

 特に後半のプレゼンでは、佐藤二美(東邦大学医学部解剖学講座・教授)さんの「医学部以外の学生を対象としたe-learningによる解剖学教育」、徳田禎久(北海道病院協会・会長)さんの「北海道地域医療の現状と課題」は説得力があり、素晴らしい内容でした。行政の縦割りの資料ではなく、現場から見る率直な現在の北海道地域の医療の問題点を、将来の産業政策にも言及して、地域生活の「インフラとしての医療」を説明されました。

 今後の幅広い関係者の議論に供されるべき内容でした。一律の国の政策ではなく、北海道の特性と課題を踏まえた地域主権の取り組みが一層必要な時代を感じました。課題をどう認識するか、徳田先生の現状認識に基づいて、直ぐにでも解決策を模索できる環境にあると思います。

「今、どう動くか」、新渡戸国際塾・公開シンポ

Posted by 秋山孝二
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 (財)国際文化会館のプログラム、「新渡戸国際塾 公開シンポジウムhttp://www.i-house.or.jp/jp/ProgramActivities/nitobejuku/2009sympo.htm」が開催されました。テーマは、「今、どう動くか~現代日本の突破口を探る」です。パネリストのプロフィール等はHPにアクセスすると詳しく紹介されています。

 開催の数日前に、パネリストから私を含めたこのフォーラムの参加者に、事前準備のためのパネリストの問題意識が送信されて参りましたhttp://www.i-house.or.jp/jp/ProgramActivities/nitobejuku/2009sympo_reading.htm。 それぞれの方々は個別にもブログ等で多様なメッセージの発信を、日常的にされています。フォーラム当日もそれぞれの持ち時間で、大変個性的なプレゼンテーションで面白かったですね。インターネット時代では、こうやって事前・当日・事後のコミュニケーションが自由自在、企画と意欲ではひと時の集いの価値が倍加します。当日はキャンセル待ちの方も多く、私の隣の席の方もキャンセル待ちでやっと参加出来たとお話されていました。

個性派パネラー揃い

個性派パネラー揃い

 いくつか印象的なフレーズです。

* 日本は世界第二の経済大国にも関わらず、国際社会でのメッセージ発信が殆どない「異様な国」

   中国における英語放送、中東におけるアルジャジーラ・英語放送等

* リーダーシップは結局は「Taking Lisk(リスクを取る)」勇気をもつこと、そして民主主義は「一人一人が責任を持つ」こと

* 「自己の確立」とは「芯を持つこと」、それは同時に「他者への思いやり」を持つこと

* 自分の仕事に尊厳を持たせるのは自分

 今回のフォーラムにはこの新渡戸国際塾の一期生の方々も参加されていました。仕事を持ちながら世界の中の日本の役割を徹底的に議論されて、聴衆に若い世代も多く、今後の活躍が楽しみですね。

‘71 北アメリカへの一人旅 (1)

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 先日の早稲田大学での上映会、後日掲載予定の「新渡戸国際塾」のフォーラムで、それぞれ若い方々がご自身の学生時代にヨーロッパ、アメリカに一人旅をされた経験を語り、その時の体験が後に大きな糧になったお話を聴いていて、私は永い間思い出すことのなかった19歳の時の「北アメリカ一人旅」を振り返るきっかけを得たような気がします。

 今からほぼ40年前、1971年9月10日、私は横浜港大桟橋からAPL(アメリカン・プレジデント・ライン)の貨客船プレジデント・クリーブランド号で、ハワイ経由で取り敢えずサンフランシスコを目指しました。大学の2年間(教養課程)を終了して休学届を出し、それ以前からホテル等でのアルバイトで貯めたお金を持っての出発でした。いつまでという予めの計画もなく、2・3人のアメリカに住む方々の連絡先と、ただ一人だけに訪問する旨を伝えていた以外は全くの行き当たりばったりで、不安でいっぱいでした。今考えると「勢い」というか、当時のしがらみのなさが自分の背中を押してくれた、それまでの19年間に何か区切りをつけたいみたいな、そんな気持ちだったのかもしれないですね。

 これから何回掛かるか分かりません。時間のある時にこの旅を思い起こしてみようかと、展望もなく初回をスタート致します。この旅ではほぼ毎日日記をつけていたのですが、今どこを探してもそれが見当たりません。ただほんの少しの写真はアルバムに残っていますので、それを手立てに思い出せれば良いのですが・・・。

APL:貨客船プレジデント・クリーブランド号

APL:貨客船プレジデント・クリーブランド号

 なんだかんだで結局はこの旅行、私は12月20日に日本に戻って来たのです。北アメリカ大陸(アメリカ・カナダ)では全て当時人気のあったグレイハウンド・バス(Greyhound Bus:http://www.greyhound.com/home/en/NewBuses.aspx)を使ってで、辿った道筋は大陸横断2回を含めて、下の地図の黒線となりました。

「降りてゆく生き方」、汐留のイネ

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  今年の早稲田祭で、映画「降りてゆく生き方http://www.nippon-p.org/concept.html」の上映会が開催されました。主催は「早稲田の米プロジェクト(代表・松橋拓郎)http://www.wasedasai.net/2009/wasepedia/profile/wasekome/で、当日定員800名の会場がいっぱいになっていました。この映画会に関しては、歌手の加藤登紀子http://www.k-sizenohkoku.com/index_top.htmlさんのメーリング、環境活動の枝廣淳子http://www.es-inc.jp/edablog/index.htmlさんのメーリングでもご案内を頂きました。

 代表の松橋くんは冒頭の挨拶で、「ただ映画を観るだけでなく、映画を中心に私たちと皆さまが繋がり、共に考え、行動していくような会にしたいと思います」と語っていました。彼自身、大学を1年間休学してヨーロッパに農業を学ぶ旅に出かけました。その後、この映画のプロデューサー森田貴英さんとお会いして、大学院への進学から地元秋田での就農へと進路を変えたそうです。森田貴英さんも当日駆けつけて、制作に絡む裏話も聞く事が出来ました。

 この欄、「08.12.31付」で、私は次のようなコメントを書きました。

・・・・一方自分たち自身は、五木寛之著「人間の覚悟」http://www.shinchosha.co.jp/book/610287/にある様に、覚悟を決める時期かと感じています。「下山の哲学を持つ」必要性を、私も強く意識した今年2008年でした。「林住期」を生きる、あるいは、「そもそもボランティアというのは、最後は『石もて追われる』存在であるべきなのだから」と五木寛之が語る言葉に、大変納得のいく感動を覚えます。・・・・・

 今回の上映会では、私の世代ではなく若い世代の方々が多数参画していて、意識の変化・時代の変化を実感しました。

 

 一方早稲田大学に向かう途中、汐留の地下広場では、「水土里(みどり)の体験展’09:http://www.inakajin.or.jp/」が開催されていました。「ふるさとの田んぼ」を都会に再現です。無機質なコンクリート空間に突然現れた稲穂の一群は、存在感抜群でしたね。

汐留のイベント

汐留のイベント

都会の中のイネ

イネの神様も現れて

 そして、札幌では雪の朝を迎えました。

いよいよ冬の到来でしょうか

いよいよ冬の到来でしょうか

日本にノーベル賞が来る理由

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 12月10日は、ノーベル賞受賞式が行われます。「日本にノーベル賞が来る理由http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4022732520.html」を読みましたが、時の歴史と受賞者との間に密接な関連のあることが良く分かります。著者の伊東乾(いとう・けんhttp://business.nikkeibp.co.jp/article/person/20070619/127758/)さんは、この欄の「09.7.30付」でもご紹介していました。直接パネラーとしてお話をお聞きして以来、ずっとその着眼点に興味を持っていて、日経BPのウウェッブ版「常識の源流探訪」も続けて読んでいました。

 
AlfredNobel adjusted.jpg
アルフレッド・ノーベル

 ノーベル賞はノーベル財団http://nobelprize.org/nobelfoundation/index.htmlが100年以上も前から実施している褒章事業であることは大変有名です。私がいわゆる「財団活動」を知ったのも、ノーベル賞がその始まりでした。小学校の担任の先生が、基本財産を運用して(その時こういった言葉を使ったかどうかは定かではありませんが)毎年の利息で事業を続けている、と教えてくれました。それ以来「財団法人」に関しては特に興味もありませんでしたが、実際秋山財団を設立する25年程前、「褒賞事業」、「助成事業」の選考方法を決める際に、欧米各国の民間財団法人を研究しました。

 ノーベル財団の選考は、「物理学賞」、「化学賞」、「経済学賞」の3部門についてはスウェーデン科学アカデミーが、「生理学・医学賞」はカロリンスカ研究所が、「平和賞」はノルウェー・ノーベル委員会が、「文学賞」はスウェーデンアカデミーがそれぞれ行っています。そしてご承知のように、ノーベル賞の選考過程は秘密裏に行われていて、選考過程は受賞後50年経過してから初めて公表されています。

 私がこの本を読んで新しい発見をしたのは、ノーベル財団には大変明確な「戦略」と「理念」がある事です。「メッセージ性」、「個性」とでもいうのでしょうか。それは「人類の平和」であり、「豊かなくらし」であったりです。それに忠実な活動が、「差別の非対称性」を克服するバランスのとれた国際間の「対称性」ある配慮への信頼感を生み出しているのでしょう。

 伊東さんは、第二次世界大戦での原子爆弾とノーベル賞受賞との密接な関連性を分かりやすく説明しています。湯川秀樹博士の受賞もこの脈絡の中で語られていますし、日本におけるノーベル賞の紹介が、終戦直後の占領軍政策の中で、メディアに大きく制約があり、今もって歪に説明されているのです。受賞者のその後の世界平和に向けた活動にも注目です。湯川秀樹博士は、1955年に「世界平和アピール7人委員会http://worldpeace7.jp/」を創設メンバーのお一人として立ち上げました。現在のメンバーのお一人、土山秀夫先生との対談でも、長崎に投下された原子爆弾について貴重なお話が記載されており、この本の中でも語られています。この対談については、この欄の「09.10.15付」でご紹介しています。

 伊東さんは、またバーンスタインとの出会いが、札幌でのPMFサマースクールhttp://www.pmf.or.jp/で実現した事を語っています。欧州からアメリカに渡ってきた先達から学んだ「三つの伝統」についてです。1)活動・研究それ自体、2)それを支える仕掛け、研究施設から出版社まで等、3)担い手としての次世代、すなわち人材育成。

 結論として、このノーベル財団の崇高な理念の実現に、日本は国際社会の中で大変「期待される国」としてのポジショニングを十分持っていること、言い換えるなら21世紀の地球規模の課題解決に世界第二の経済大国としてだけではなく、国際平和・環境等の分野においても、勇気を持ってメッセージを発信していく人材の輩出を促したい、そう私は理解しました。

 

孫文、沈まぬ太陽

Posted by 秋山孝二
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 映画「孫文:http://www.sonbun.jp/」が公開中です。 革命の英雄としてよりも、その前の苦難の時代をテーマにした所に魅かれます。失敗の連続の中の失意、それを励まし続ける人々の心の動き他が良く、映像からも理解出来て面白かったです。

映画「孫文」

映画「孫文」

HPには下記のように書かれています。 

 ・・・孫文が唱えた「三民主義」(民族・民権・民主) は、彼の思想の根幹を成し、その真髄は、「覇道ではなく、王道を歩む」という孫文の残した一言に集約されます。力で相手に接するのではなく、それぞれの民族が自国の歴史と文化に誇りを持ち、他国を思いやることが世界に調和をもたらす、というこの思想こそが、辛亥革命を成功に導き、あまつさえ100年後の今、世界が実現させなければならぬ急務であると我々に問いかけてきます。しかし、それは決して国家レベルの考え方だけではない。苦しいときこそ、煌めきを失わず、自己だけでなく他者を思いやる気持ち、調和のこころをひとりひとりのレベルでも持つ大切さを孫文は訴えているのです。先の見えない混迷の時代を生きる私たちに、彼の生き様は大きな勇気と希望を与えてやみません。
 孫文は、死を前にしてこう洩らしました―「革命、いまだならず…」と。理想の世界の実現には、まだ遠い未来への道のりが残されていたのです。 ・・・・・

 

 もう一つ、今上映中の話題作「沈まぬ太陽」http://shizumanu-taiyo.jp/です。劇場内はスーツ姿の男性が多いのにまず驚きでした。年齢層はやや高め、3時間を越える大作で途中10分間の休憩もありましたが、それでは間に合わず途中トイレに立つ方も数人いらっしゃいました。

 本も面白かったのですが、映像の迫力というか説得力というか、事故関連の場面、沈まぬ太陽と地平線の場面は印象的でした。政府系企業の経営幹部達の様子、政・官との関係性が大変リアルで、まるで現実を覗き見るような感じでした。それ故でしょうか、日本航空の方が告訴も辞さずとの新聞記事を最近読みました。当時の企業経営者にとって、何が最優先課題だったのかの問題提起と受け止めれば、製作者等への抗議は当たっていないと思うのですが。まだ気がついていないというか、その後の日本航空の経営実績を見れば、大胆な経営改革に踏み込めなかった経営陣の勇気のなさを指摘せざるを得ません。三菱自動車の「リコール隠し」でもそうですが、とにかく上場企業と言えども日本企業は透明性がなく、経営陣が誰に対する責任を負っているのかを間違えているし、日本社会もそれを強く求める自立した株主・市民が少な過ぎます。「隠していた方が得をする」、逆に「情報を適時開示した方が損をする、バッシングを受ける」、これらの体質はメディアを含めて大改革をしていかないと、本質的に競争力のある企業づくりは出来ませんよ。

 映画製作では、最後のクレジットを見ても膨大な方々のお力による作品と分かりますし、HPでロケ現場の様子を後から読んで、その御苦労に頭が下がります。一つのカットを取るためにその瞬間に賭けるプロの仕事、素晴らしい領域です。

エズラ・ヴォーゲル、鄧小平訪日(1978)を語る

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 東京六本木にある国際文化会館http://www.i-house.or.jp/jp/の「アイハウス・アカデミー」プログラムで、エズラ・ヴォーゲル先生による「鄧小平中国副総理の歴史的訪日(1978)と日中関係の未来」という講演が開催されました。会館ホールには120名を越える内外の聴衆でかなり専門的なやり取りも交わされました。

元気に語るヴォーゲル先生

元気に語るヴォーゲル先生

 先生とは1990年代に、当時の(株)秋山愛生舘社長室でお会いして以来、ボストンでも何回かお話をしています。

 Ezra Vogelhttp://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A8%A5%BA%A5%E9%A1%A6%A5%F4%A5%A9%A1%BC%A5%B2%A5%EB先生は、1930年アメリカ・オハイオ州生まれ、ハーバード大学卒業後、1967年から2000年にかけて、ハーバード大学にて教鞭を執られました。1979年の著書『ジャパン・アズ・ナンバーワン』は、戦後日本経済の成功の秘訣を世界に紹介するとともに、当時停滞していたアメリカ復活の教訓として、日本から学ぶことの重要性を説いて大きな話題となり、書名は今日でも80年代に隆盛を極めた日本経済を象徴する言葉としてしばしば用いられています。中国語、日本語に堪能なヴォーゲル先生は、ハーバード大学の看板教授であり、1973年から1977年までは同大学の東アジア研究所長をつとめ、1993年9月、CIA国家情報会議(CIAの分析部門)のアジア担当の分析官にも就任されています。現在の所属はハーバード大学ヘンリー・フォード二世社会科学研究講座名誉教授となっていました。

 講演の中でもご紹介されていましたが、ご子息のスティーヴン・ヴォーゲル氏も、比較政治を専門とする日本研究者であり、現在はカリフォルニア大バークレー校の教授をされています。

 先日のご講演では、鄧小平は日本でも大変幅広い人脈を持っていて、来日時も精力的に工場他の見学、要人との面談をこなしていたとのこと。当時としてはより深い意味で日中の「和解」を理解していた人物。そして中国では「方向性は正しいにも関わらず、継続出来なかった」という評価が今定着しているとの見解でした。当時は中国国内にはテレビもあまり普及していなく、更に92年の天安門事件以降は愛国主義キャンペーンの一環で反日プロパガンダも盛んになり、今の若い世代は日本の謝罪を知らないという現実も言及されました。そんな時代の変化を踏まえて、今両国で行う必要があるのは、少なくとも近い過去に何が起きたかは日中間で共有すべきではないか、と指摘されていました。また鳩山新政権の「東アジア共同体」構想には、かなり消極的なご意見でした。

 ハーバード大学といえば、どうしても紹介しておきたいもう一人の先生と研究機関があります。お一人の先生はSusan Pharr教授(http://www.wcfia.harvard.edu/node/4387)で、ジョージア州アトランタ生まれ、その所属はハーバード大学日米関係研究所・所長(Program on U.S.-Japan Relations,Weatherhead Center for International Affairs:http://www.wcfia.harvard.edu/us-japan/index.htm)です。

 1990年代に北海道に「北海道フレッチャースクール」を誘致しようという運動があり、当時の(株)秋山愛生舘秋山喜代会長と社長だった私も少なからず関わっていました。ボストンからの最初の訪問団でいらっしゃっていたのがファー先生でした。91年の(株)秋山愛生舘100周年の年には、ケント・カルダー教授とともにご招待をし、「国際社会で果たす日本の役割」について100周年フォーラムを開催し、示唆に富む議論を展開されました。前日夜にお二人の先生と日本食でのひと時は忘れられません。ファー先生は、何と「生のウニ」が大好物でした。

100周年記念セミナー

100周年記念セミナー

 ケント・E・カルダー(Kent E. Calder )教授は1948年生まれ、専門は日本政治、日韓の比較政治、東アジアの国際関係等です。現在はジョンズホプキンス大学http://www.thepath.jp/archives/2006/04/11/johns_hopkins_university.html教授、同高等国際問題研究大学院(SAIS)付属エドウィン・ライシャワー東アジア研究センター長を務めています。政権交代後も日米関係の現状と将来に対して率直な提言をされています。

100年誌から(18年前ですが)

100年誌から(18年前ですが)

 ファー先生とはその後ボストンに行くたびにお会いして頂き、その時の日本の首相はじめ政治家の評価を伺っていました。大変冷静に個々の資質を見極めていらっしゃって、本当に勉強になりました。91年に(株)秋山愛生舘がボストンに設立したアメリカ子会社「Autumn Hills International Corp.(AHIC)」の名付け親でもあります。相談をした時に先生から、「どうしてもアキヤマという名前を会社名につけたいですか?」と質問され、「どうしてでしょうか?」と逆に聞き返しました。すると「『000 U.S.A.』という名称は如何にも子会社というイメージで、出来れば英語名の方がプライドの高いボストンでは好印象だと思いますが」とのお答。いろいろ知恵を出して、日本語の「秋山」をニューイングランド・サウンドで「Autumn Hills」とした次第です。その後登記にあたり同じ名称が無いかどうかを確認しましたら、何と「Spring Hills」、「Summer Hills」、「Winter Hills」はすでに存在していましたが、マサチューセッツ州には「Autumn Hills」だけはまだ登録がなく、この名称を弁護士に伝えて登記をしたことを思い出しました。

 働く女性同士ということか秋山喜代と大変気が合い、私もその後も親しくさせて頂きました。そんな関係性があり96年に秋山喜代が亡くなった時、生前の感謝の意味も込めて香典の一部をファー先生が所長を務める研究所に寄付をしました。するとすぐにお手紙が先生から届きました。「生前の秋山喜代さんの当研究所に対するご尽力に感謝して、今回の寄付金を原資として『Kiyo Akiyama Award』を創設し、毎年大学院留学生を対象に日本への渡航費用の一部に充てるべく計画中だが、賛否をお尋ねしたい」旨の内容でした。「一民間人のこころざし」の価値に対する表現として記念の賞を創設し、名前を刻んで永く後世に残すアイディアに、寄付する者への配慮・奥深さ・裾野の広さを感じた次第です。その後2回目の寄付を行い、現在も毎年この賞の選考・授与は続いています。この辺りのことについては、「08.12.1」の欄にも書きました。

 姉妹都市交流もそうですが、ボストンを中心とするアメリカ・マサチューセッツ州の方々とのネットワークでも、こうやって書き綴っていると止めどもなく次から次へと顔が蘇ります。子ブッシュ時代のアメリカは全く好きになれず、私はあの国とは意図的に距離を置いて参りましたが、昨今はまた昔のネットワークと連絡を取って活動を再開したい気になってきています。

鈴木大拙、生誕の地ほか

Posted by 秋山孝二
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  金沢大学医学部を訪問する機会があり、短い時間でしたが「石川四高記念文化交流館http://www.pref.ishikawa.jp/shiko-kinbun/」と「鈴木大拙・生誕の地」にも足を運びました。

 記念館の一つ「石川四高記念館」には、四高(しこう)と四高生を育んだ風土と時代の展示があり、自治精神に貫かれた寮生活の様子も知ることが出来ます。四高が生んだ多彩な才能として、鈴木大拙、中谷宇吉郎、中野重治、井上靖等も紹介されていました。もう一方の「石川近代文学館」では、「三文豪」の泉鏡花、徳田秋声、室生犀星の展示に加えて、今年の生誕100周年を記念して鶴彬(つる・あきらhttp://tsuruakira.jp/modules/tinyd03/)の特別展示も開催中でした。ドキュメンタリー映画の上映も全国各地で開催中です。生きていた時間が長くなかったせいか豊富な展示ではありませんでしたが、吟味された言葉から蘇る情景には重たいメッセージが込められています。 

旧制四高校舎・現在は石川記念文化交流館

旧制四高校舎・現在は石川記念文化交流館

  そこからゆっくり市内を散策しながら、鈴木大拙の生誕の地に向かいました。本多町の学校向かいの角、ひっそりした場に胸像と記念碑とパネルが設置されていました。

生誕の地に建つ碑・銅像

生誕の地に建つ碑・銅像

 

パネル

パネル

 彼の著書「禅と日本文化http://kindai.bungaku1.com/showa01/zen.html」については、この欄09.3.13」にも記載しました。あの時代に英文で書かれた文章から彼の生い立ちに興味を持っていたので、今回生誕の地を訪れることができて嬉しかったです。

 文化の香りが輝く奥行きのある金沢のまち中でした。

ダルビッシュと円楽に思う

Posted by 秋山孝二
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 昨晩の日本シリーズ、ダルビッシュhttp://ameblo.jp/darvish-yu-blog/の熱投にエースとしての「覚悟」を感じました。また今朝のニュースで、三遊亭円楽師匠がご逝去されたことを知りました。

 ダルビッシュの先発には、エースとしての自覚を持った彼の信念を強く感じました。試合終了後のヒーローインタビューで、「この場を与えてくれたファンの皆さん、チームメイトに感謝します」と。そして「ファン・家族・パリーグの他の5球団の皆様の為にも今日は頑張りました」と冷静に語り、23歳の男とは思えない熟成した素晴らしいコメントでした。今年6月に東京から札幌へ帰る飛行機で彼と一緒でした。1時間少々の機内で、彼の客室乗務員への態度も終始実に礼儀正しく、あの雰囲気に魅せられるファンも多いのでしょう、人気の高さも理解できます。

 テレビで清原と新庄の解説を聴いていましたが、なかなか面白かったですよ。エースとして育ててきたこれまでのコーチ他のご努力にも頭が下がります。仮に昨晩の試合で打たれていたとしても、ファイターズを応援する全ての方々が納得したと思います。彼が故障をおして登板して打たれたのであれば、しょうがないと思える存在感を持っていることが重要です。彼のその責任感と使命感に全てを許す気持になります。

 一方円楽師匠は、高座を終えた後一人そのまま舞台に残り、「引退」を決断した様です。自分で自分の引退を決断する、それは大変簡単なようで実に難しいことだと思います。落語協会を脱退してから、ご自分の資金で寄席を創設して後輩を育てたその心意気に感動します。

 ダルビッシュと円楽師匠から、プロのプロたる真髄を教えられた気がします。

「減税自治体」実現への道

Posted by 秋山孝二
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  東京都の「杉並No.1の会」が主催するフォーラムが開催されました。現在杉並区長の山田宏さんが、最近「ぎょうせい」から出版した著書「住民税が安くなる!?~『減税自治体』への道」を記念しての講演会でした。

山田杉並区長の挑戦

杉並区長・山田宏の挑戦

 1300億円の収入の区の予算規模で、就任当初は950億円の借金があったとのこと、10年間で1000人職員削減他区民にも自立を呼びかけて、現在の借入残高は179億円まで削減でき、あと2年で借入金はゼロになると胸を張っていました。「税」は地域間競争の重要な要因であり、「減税自治体構想」は競争力強化の基本であることを分かりやすく解説されていました。納税者に利益が出るスキーム、それは減税から生まれてくるとの信念は、大変説得力がありましたね。そして今後の展望として、仮に借入金残高がゼロになっても歳出を増やすのではなく、それ以降今度は貯金を継続して、いずれはその利息で行政サービスが出来る体質、それが無税社会の実現に結びつくことも。松下政経塾出身の山田宏さんは、松下幸之助の理念の実践者のお一人かと思っています。

 先月末に「よい国つくろう!日本志民会議」を立ち上げて、山田宏さんたちは本格的に政治の場で新しい磁場の創出を開始しました。http://www.yoikuni-shimin.jp/message.shtml

 現在の混迷する日本国で、市民に自立心と誇りを取り戻す運動、その担い手になる志を語ったひと時でした。