新たな歴史的スタートの日、2008.12.1

Posted by 秋山孝二
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 先日東京で、         「公益法人制度改革と市民社会の新たな展望

                  ー新公益法人制度施行と特定非営利活動促進法10周年を迎えてー」

             http://www.kohokyo.or.jp/kohokyo-weblog/topics/images/sympo_pamph.pdf

と題してのシンポジウムが、(財)公益法人協会http://www.kohokyo.or.jp/主催で、300名を越える出席者を集めて開催されました。

2008年12月1日からは、民法第34条が110年ぶりに改定されて、新しい三法による公益法人制度が施行されます。またこの日は、特定非営利活動促進法施行10周年にもあたり、二重の意味で新しい時代のスタートとなります。シンポジウムは本当に素晴らしい講師の方々のご登壇と、集中した300名の参加者の熱気で時には過激な言葉も飛び出したりで、皆さんが当事者としての迫力もあり、大盛況でした。日本にも、本格的な民による公益活動の展開が期待されるのでしょう。

3年前になりますが、「民が担う公共」について、私は(財)公益法人協会の会報(2005.11.10)巻頭言に下記のように書きました。

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             「北のいのちとともに――民間の公的こころざし」

 

財団法人 秋山記念生命科学振興財団 理事長  秋山孝二

 

7月の御殿場でのセミナーは、この間の「公益法人改革」の議論を臨場感に満ちて聴くことが出来た貴重なひと時であり、とりわけ「寄付金」を巡っての税制改革の方向性は、今回大きな一歩を踏み出した感があった。

9年前に当財団の初代理事長が逝去した直後、生前、役員に就任していた10数箇所の諸団体・大学等へお礼の意味合いもあり、私はささやかな寄付を行った。ある地元美術館からは「感謝状をお渡ししたいので、総会時に受け取りに来て頂きたい」とのご連絡だったが、私はどうしても都合が付かず欠席し、代理の者をやむなく出席させた。また郵送で幾つかの団体からも「感謝状」が相次いで送られて来た。そんな中、アメリカ・ハーバード大学の研究所からは所長名の手紙が届き、「生前の秋山喜代さんの当研究所に対するご尽力に感謝して、今回の寄付金を原資として『Kiyo Akiyama Award』を創設し、毎年大学院留学生を対象に日本への渡航費用の一部に当てるべく計画中であるが、賛否をお尋ねしたい」旨の内容であった。勿論、感謝状に価値が無いとは言わないが、正直に申し上げて受け取った複数の感謝状の扱いには大いに苦労した。一方「一民間人のこころざし」の価値に対する表現として記念の賞を創設し、名前を刻んで永く後世に残すアイディアに、寄付する者への配慮・奥深さ・裾野の広さを感じた次第である。

19年前に当財団は、医薬品卸売業(株)秋山愛生舘の創業100周年を前にして、当時の四代目社長が私財を投じて北海道地域・民間・助成財団として誕生した。当時巷では「売名的」、「税金逃れ」等、出捐者の「高く強い志」を理解するどころか、むしろ的外れ・誤解による批判的な評論が多く、設立に携わった私には不本意であり、公的補助金頼みの財団が殊の外多い北海道での「財団法人」のイメージを知らされた思いだった。

一連の公益法人改革で、寄付金を巡ってこれまでの積み重ねた議論の成果として大きく前進した法案に改訂されたとしても、日本の中で「民間の公共を思うこころざし」を正しく理解・評価する雰囲気が醸し出されない限り、本当の意味の「寄付文化」が根ざす事は難しいのではないか。

とは言え19年間私達は研究助成を続け、昨年からはNPO等への社会貢献活動助成も開始した。どの様な環境の中でも、21世紀の「生命科学」を心から慈しむ民間の志に最高の価値を見出して、「北のいのちとともに」愚直に自主・自立・持続可能な活動を続ける気持には何の迷いも無い。

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先日のシンポでは、今回の三法についてかなり批判的意見も出はしましたが、何せ110年目の改革ですから、今後はこの間の理念をしっかり軸に据え、継続した議論を続けて改革の連鎖を創り出していく事が重要だと思います。私の企業経営者としての経験から言えば、「改革」はそう鮮やかに、瞬時に、劇的には参りません。勿論ある限られた時間幅との戦いではありますが、何回かの微修正と改革の連鎖により、迅速に新しい時代を創っていくのだと確信しています。そう言う意味では、これまで公益法人活動に関わってきた方々、これから担っていく方々の心意気が試されているに違いありません。あとは、それぞれの財団が、これまでの活動にプライドと自信を持って、新しい「民が担う公共」を押し拡げていくこと以外ないと思うのです。

 

以前から私は、学生とか若い世代の方々には、「『出る杭(くい)』ではなく『出過ぎた杭』に成れ!」とハッパをかけています。そして新しい時代は、辺境から蛮族によって創られる、そう信じています。

演劇Part2

Posted by 秋山孝二
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 少し忙しい日が続き、自分と向き合う時間が減ると、途端にこのコラムの文面も上滑りになってしまいます。「上滑り」というのは、書きたい事は山ほどあるのに、まあこの辺でいいかと、早々に「公開」ボタンを押してしまうみたいな心理状態です。そうではいけないと思う自分とのしばしの葛藤? 時々後戻りしての「追伸・補足」を許して下さい。 

演劇Part2です。先日は、中島公園横にある「シアターZoo」で、劇団TPSの「秋のソナチネ」のゲネプロを観ました。普段から沢山芝居を見ている方々と、終了後に一緒に、飲みながら、食べながら、しばし歓談しましたが、面白かったですね。それぞれの方が同じ芝居を見ても、かなり違った感想を持っていて、その理由が実にふところが深く、「そういう見方もあったのか」と、新たに見終わった芝居を楽しめるのですよ。特にゲネプロでは、公演に向けた願いも上乗せして、ピアノの上の日本酒がこぼれるのではと心配だったとか、割りばしの床に落ちた袋はすぐに片付けなきゃとか、ほんのちょっとの動作を見逃さない、少しのセリフの言い回しに納得がいかない等、自分の気がつかなかった箇所を指摘する皆さんの意見は、それを肴(さかな)に何時間でも飲めるからやめられないです。

芝居の最後は大事だと思いますね。言葉できっちり決めて貰いたい、終了した後思わず拍手をしてしまう、そんな芝居が理想的です。それと演出家の解説にも興味があります。観る前に解説は興ざめでしょうが、見終わった後の製作者のお話は面白いです。

昨年の光州市でのTPS公演でのこと。札幌では仕込み・ゲネプロ等は、まず見学する時間もないし、それ程興味もないのですが、海外公演では自分には時間もあるし、外国での舞台づくりにも好奇心から全く最初から「見学」していました。電動で移動させて観客席を作り、舞台の床から整えて、スピーカー・マイクの配置等、音響・照明が活躍していました。

「冬のバイエル」の最終場面、ピアノ上の祭壇のロウソクの炎に、演出の斉藤歩さんはこだわりを持ちました。ゲネプロ終了後、「あの炎は、やっぱり作ってきた豆球の光ではなくて、生のロウソクの火にしようや。作った火だと動きがないし、吹き消した時の余韻もない」と方針変更の弁。私は、ここにきて随分演出家というのも勝手な事を言うのだな、と思ってその場では聴いていました。案の定、その劇場では日本と一緒で、舞台上での火の取り扱いは規則上厳禁とか。ところがそれからがすごかったのですよ。その時の受け入れ責任者の光州演劇協会パク会長は、斉藤歩の意図を知り、直ぐに日曜日でお休みだった劇場責任者に電話をして説得し、許可を得たとの事でした。ちなみにその会場責任者の方は、2日間の本番の最中、ずっと舞台の裾で「監視」していましたが、パクさんの迅速な対応に恐れ入りました。劇場管理については、まあここでの本題ではなく、問題はそのロウソクの生の炎です。1日目公演の最終部分、ピアノの上に祭壇が用意されているのを見ると、確かに炎がかすかな空気の流れを感じてゆらゆら揺れて、それに連れて影の動きも出ていたのです。ただ、役者が吹き消した場面の後の白い煙は、注視していた私には殆ど見えなかったのですよ。やっぱり演出家がいくら拘ってみたところで、大きな舞台では何ぼのものか、と正直そう思ってその日の公演は終了しました。

翌日に再度ほぼ同じ席で観ていました。この日の終わりのその場面で驚いたのです。吹き消した炎の白い煙が、見事に上に立ち昇るではありませんか。明らかに昨日とは違うな、と不思議に思って、公演終了後に斉藤歩に聞きました。するとどうでしょう、彼は「昨日、生の炎を使ってみたけれど煙が見えなかったので、終了後に照明と相談して角度を変えてみたんです」と話してくれました。

「舞台を創る」、そんな心意気と執念をその時以来感じて、私は時間があれば、同じ芝居を何回も見るようになりました。その時の客席と創る芝居、日々進化していく芝居、簡単に「感動した」などと書いては申し訳ないくらい、「創作活動」というのは奥が深いのでしょうね。その辺が、映画よりも面白い所であり、観客へのインパクトが強いのだと思います。ある時はエネルギーを貰い、ある時はどっと疲れも出る、そんな意味合いでですね。

姉妹都市交流からの財産を活かしたい!

Posted by 秋山孝二
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 最近、札幌市の国際化について、長年携わって来ている方々と意見交換する機会がありました。札幌市は地方としては、大変国際交流活動の進んだまちでしたが、昨今何故かグローバルな時代にも関わらず、以前より海外との交流が停滞している感じがしているとの事です。

 

 札幌で生まれ18歳まで育った私は、その後日本の幾つかのまちで暮らし、世界の沢山のまちを訪れました。とりわけ「姉妹都市交流」は私にとって貴重な体験で、其の中で1)80年代の米国オレゴン州ポートランド市、2)90年代前半のロシア・ノボシビルスク市への訪問は忘れられない想い出です。

 

オレゴン州ポートランド市: 昨今、「インターンシップ・プログラム(単位認定企業研修)」の役割と効用が新聞紙上でよく見かけます。教育実習の企業版とでも言えるのでしょうか、正式な単位認定となる企業実習です。今から20年前に、私達はポ市州立大学(PSU)の学部長他関係者の方々と、札幌の地場企業でのプログラムを提案・構築しました。まさに「手作り」のプログラムでした。

 

それに先立つ1985年11月、札幌市の要請を受けて若手経営者5名でポ市を訪問した際にそのきっかけは出来ました。ポ市の窓口はバド・クラーク市長(当時)直属の秘書室ジャン・ヴァン・ドメレンと市経済局でした。この訪問で他に「都市マッピングシステム」、「交通網データベース」の技術に接した私達は、将来の札幌を想像し目から鱗が落ちる思いでした。

 

翌1986年6月に地元法人会員14社が集まり、任意団体「IBEC:国際企業交流会・札幌」を設立しました。以来このプログラムでの受け入れ学生は15名、就職した学生は5名、留学生の交換プログラムでは127名、受け入れ企業は53社に及びました。ビザ取得・滞在施設の交渉・企業への依頼はじめ、人材育成の枠組み創りで貴重な体験の数々でした。

 

数年前に、市内で開催された「都心の交通連続フォーラム」でも、ポ市の「Metro:メトロ」を軸とした新しいマチづくりの報告を聞き、進化し続けてきたポ市の軌跡を改めて知りました。一方で、20年近くも前に私たちが札幌市長を訪問し、報告・提言した「Metro:メトロ」等の先進的まちづくりプランは、環境重視の今、市役所でどう政策に反映されたのか、忸怩たる思いもあります。ただの「交流」だけで、先進的試みから学ぶ姿勢が無ければ、イベントの連続で、蓄積するノウハウとはならないか、あるいは財産の持ち腐れでしょう。

 

ノボシビルスク市: 英語の「ニュー・シベリア」を意味する西シベリアの中心都市は、特に印象深い訪問でした。1990年8月に、「ノボシビルスク100年基金財団」と「札幌国際交流プラザ」とがノ市において盟約を交わし、ノ市は札幌の4番目の姉妹都市になりました。其の直後に12名からなる「第一回札幌国際交流プラザ経済・文化使節団」が初めて派遣される事になったのです。

 

1990年10月20日夕方、私は使節団の団長としてハバロフスクからイルクーツク経由で、緊張と期待のうちに、雪降るノボシビルスク空港に到着しました。空港では真紅のバラの花束が贈られ、地元ラジオ放送局の取材もありました。私自身、ロシアの大地に立った感動は今も忘れられません。使節団のメンバーは、日本語教育・音楽・演劇・美容・出版界等幅広く、夫々その後の交流に繋がる有意義な訪問だったようです。私はビジネススクールで4日間、延べ15時間の講義でした。英語からロシア語への通訳を介して、日本のビジネス環境・習慣・教育システム等を説明しました。参加者の方々の真剣な眼差しは忘れられません。

 

それから4年を経て、モスクワ・サンクトペテルブルク経由で再びノ市を訪問する機会が有り、急速に変貌するロシアの一端を実感しました。

 

 「あの時のあの人は、今元気だろうか」と懐かしく思い出しながら、「このまちは最高さ!」と笑顔で語る姿も眼に浮かびます。限りない可能性を秘めた「札幌」のまちで、これからを担う若い世代が伸び伸び暮らせる環境を創る一助として、「いのちを育むまちづくり」の私の新しいチャレンジは、ささやかではありますが始まっているのです。

今年見た映画に思う

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 演劇はエネルギーを貰えるとは言うものの、ハズレの確率は映画よりも高いのではと思う時があります。映画は事前に評判等を知る術(すべ)があるのですが、演劇はあらすじは分かっても劇団のセンスとか役者の雰囲気は一発勝負の感じです。時々開始5分くらいして、「えーっ、これに2時間もつきあわされるの」と絶望的になる芝居もありますね。途中で退場する勇気もなく、前後左右のお客さんは結構楽しんでいる場合は、なお一人孤独と閉塞の空間の中で沈みこみます。でも、どんなに仕事で疲れていても、芸術で刺激される脳の部位は別のようで、かえってすっきりして会場を後にする状態が多いです。ですから、やめられませんね。

 

5年前に上場企業経営の修羅場から離れて、再度軸足をふるさとに置いてみると、日々の時の経過が新鮮で、周りの景色も人の表情も大きく変わって感じるから不思議です。ウイークデイに演劇・映画・ライブコンサートなど、想像も出来なかったライフスタイルの大転換を通じて、これまで忘れてきた「熟慮する時間」を、取り戻しつつある自分に気がつきます。

  

今年に入って足を運んだ映画の中に、印象に残る幾つかの作品があります。酪農学園大学で開催された有機農業全国会議での映画「赤貧洗うがごとき~田中正造と野に叫ぶ人々」、シアターキノでの映画「君の涙、ドナウに流れ」、「連合赤軍」、スガイでの映画「光州518」は、それぞれ思い出深い出来事であり、強いメッセージを感じました。そこに共通するキーワードは「勇気」と言えましょうか。

 

あさま山荘事件の時首都圏の大学生だった私は、友達の引越を手伝う為にJR駅周辺でレンタカーの軽四輪トラックを運転していました。映画の終盤で加藤少年が絶叫する「ただ、勇気がなかっただけじゃないか!」の言葉は、同時代を生きた自分に強烈に突き刺さり、繰り返し頭を駆け巡ります。

 

昨年、韓国光州市を訪問した時に、現地で全行程お世話になったパクさんは、1980518光州抗争で立ち上がったあの高校生達と同世代で、友人も犠牲になった話をしてくれました。「光州は民主化の聖地」とふるさとを誇りに語るその姿に、スクリーンに登場する多様な2者関係とが重なり、一層のリアリティを映し出しました。民衆のリーダーに扮するアン・ソンギは、冷静な現状認識を表現し、韓国の「国民俳優」の風格を感じましたね。

 

いずれの映画にも共通する事、「事件」は「闘争」「抗争」であり、「動乱」は「革命」であり、人々のいのちを賭けた戦いの軌跡だったのでしょう。歴史はその意味を後に正しく理解する為にも、正確に記録されなければなりません。歴史的事実が歪曲されたり、無かった事になったりするのを、許すことは出来ません。逆に、歴史の因縁で不当に扱われた人物・作品については、きっちり再評価が必要だと思うのです。

 

戦う者の歌が聞こえるか、鼓動があのドラムと響き合えば

新たに熱いいのちが始まる、明日が来た時、そうさ明日が

列に入れよ我らの味方に、砦の向こうに世界がある

戦え、それが自由への道 

(ミュージカル「レ・ミゼラブル」、「民衆の歌」の一部)

 

昨今の日本社会は、責任ある立場の人々がまるで傍観者のような立ち振る舞い。そして国民は無関心・無反応で思考停止です。少子化社会による人口減といった量的な問題以上に、「怒り」を忘れた国民は、質的劣化をきたしていて深刻だと思います。こんな構造の中で組織社会が腐敗します。今年、数多くあった様々な「告発」は、社会への問題提起であり、「偽装」を打ち破る出発点なのでしょう。告発する勇気ある人々と、それを支援する幅広い人々の集まりは、大きなうねりとなって世の中の改革の原動力だと信じています。

昨日の雪の朝、感じたこと

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 大雪との予報でしたが、10センチ以上積もると「あー、冬だ」という気がします。

昨日は早朝7時から、もう20年続く民間病院の理事長(院長)の皆様方との月一回の早朝勉強会でした。遅れてはいけないと朝6時過ぎには家を出ましたが、新雪で車も少なく、いつもとほとんど変わらない時間でかえって早めに到着しました。JR北海道が開発したDMV(http://www.jrhokkaido.co.jp/new/dmv/index.html)の貴重なお話に、予定の参加者も集まり、興味を持って皆さん聴きました。技術開発そのものの問題というより、今の日本の法体系の縦割り弊害が、一番の阻害要因だという印象でした。北海道の土地柄にあった鉄道・道路インフラの有効活用とまちづくりの視点から、是非実用化に漕ぎ着けて貰いたいです。全国からの問い合わせも多く、北海道での展開も一緒に考えたいものです。地域住民の応援も、実用化に向けた大きな力になる気がしました。

いったん家に戻り、それからまち中に行くのに、いつものように北海道神宮境内を地下鉄駅まで歩いていました。新雪の歩道は一本道になりますが、時々逆方向から人が歩いてくると、どちらからともなく脇に寄って歩き始めて、相手を通そうとします。長靴を履いている訳でもないので、脇に避けると靴が雪に埋まりながら歩いているのですが、それでも100%そうするのですよ。時々は「おはようございます」と挨拶もしますが、ほとんどの場合は無言で軽く会釈をしながらといった感じで。その時に、私は新渡戸稲造の「武士道」の一節が頭に浮かびました。

第6章「礼」--人とともに喜び、人とともに泣けるか:礼とは他人に対する思いやりを表現すること、で始まる一節。「礼義は優美な感受性として表れる」の項目で、日陰のない炎天下にいる所に、顔見知りの日傘を差した日本人が通りかかる場面の記述です。

時々、新渡戸稲造の「武士道」を、武士の心得と言ったふうに解説している方がいますが、本当に読んだことがあるのでしょうかね。英語で書かれたこの本は、日本文化を欧米に紹介するエッセーみたいな内容であり、これ程几帳面に日本人の風習を説明した文章をみた事がありません。日傘を取って同じ炎天下で語る姿、それにつづく文面では、「つまらないものですが・・・」と言って贈り物をする日本人の心等、実に繊細に、正確に説明している新渡戸稲造の眼差しを感じます。

寒い朝の雪道で、ふとそんな事を思い出しました。

進む札幌と韓国との演劇交流~これからも楽しみ

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 私は、北海道演劇財団http://www.h-paf.ne.jp/の副理事長を務めています。昔、演劇に携わった訳でも何でもないのですが、東京で生活していたときから時々舞台を観に足を運んではいました。TPSはこの演劇財団のファンクラブで、毎月一回、「サロンの会」が催されて、役者とか演出家とか、その時々のゲストをお招きして交流を深めています。舞台で見る姿とはまた別の側面を垣間見て、芝居の楽しみは倍加します。

数年前から、この演劇財団活動は海外との交流が活発になっていて、私も時間の都合がつく限り、劇団と同行しては楽しんでいます。札幌で見る芝居と同じものでも、外国での公演では観客の反応がかなり違って、それ故に役者の演技も微妙に変化し、まるで別の雰囲気の芝居へと変身します。3年前にハンガリー・ブダペスト公演「亀、もしくは・・・」は、そんな変化を実感しましたね。毎回、劇場客席後方の端の席から、舞台と観客の両方を観察していました。札幌よりもよりはっきりした笑いに、役者も乗ってくる様子がよく分かりました。後日、出演したある役者に「最初は緊張していたようだけど、次第に乗ってきたのではないの?」と聞くと、彼は「いえ、いつもと何も変わりませんでしたよ」と、平静を装っていました。これが役者のプライドと言うのでしょうか。海外公演の後、再度札幌で同じ芝居を見ると、大きく成長した姿を確認出来て、本当に嬉しかったものです。進化する芝居を目の当たりにした時、たまらない魅力を感じます。有名な役者を観に行くというのも足を運ぶ大きな動機だとは思いますが、若い役者が経験を積むごとに成長して育つ姿を追うのも、また楽しみです。

昨年は、北海道文化財団と韓国光州市との交流プログラムの初回として、北海道演劇財団TPSが光州市で「冬のバイエル」の公演を行いました。その時の様子を演劇財団会報に寄稿しました。

1012日から18日まで、韓国光州公演、ソウル演劇協会との交流協定調印の二つを目的に、TPSのカンパニーとともに参加しました。

光州市は1980518光州民主化運動でも世界的に有名で、地元の方々も「民主化運動の聖地」として、誇りを持ってこの地を語っていたのが印象的でした。公演の合間のわずかに見つけた時間に、TPSのメンバーとともに、この時亡くなった10代の方々が数多く埋葬される共同墓地・記念館も訪問しました。

今年の「2007光州平和演劇祭」のテーマは「疎通」で、多様な方々とのコミュニケーションといった意味と理解いたしました。TPSの公演は、北海道文化財団様の推薦により今回実現し、9日間の演劇祭の一環として、二日間二公演で、合計400名のお客様が会場に足を運び、唯一の外国劇団でもあり、大変大きなインパクトを与えました。

初日公演の冒頭、光州演劇協会パク会長がお客様にご挨拶をしました。その時は言葉も判らずに過ごしましたが、終了後に木村さんからその趣旨を聞くと、「今日は子供さんも多くいらっしゃっています。万が一騒いだり、ぐずったりしたとしても、決して叩いたり叱ったりはしないで下さい。なぜなら、将来の韓国の演劇を創っていくのは彼らなのですから。」と語ったそうです。

もう一つの目的は、ソウル演劇協会との交流協定調印でした。毎年11月開催の「札幌劇場祭」と、5月開催の「ソウル演劇祭」をベースに、毎年交互に公演を行う事他、今後交流を深めて行く枠組みで合意しました。「札幌劇場祭」に参加の団体を代表して、北海道演劇財団の上澤理事長の代理として署名して参りました。早速11月末から12月上旬に、今年のソウル演劇祭で最優秀賞受賞の劇団「青羽」の公演が、シアターZooで予定されています。この間、現地で粉骨砕身ご努力頂いたKさんのご活躍に、心から感謝申し上げます。大きな事業のスタートには、必ずキーになる方々のご努力がある事を、あらためて認識し、感動致しました。

こうして、韓国の若い世代と札幌の演劇人の交流がスタートしています。先日16日、光州市からの「青い演劇村」による「音楽詩劇:阿娘別曲」を、琴似のコンカリーニョで見ました。満席の熱気の中で、韓国伝統音楽と旋律、身振り、オブジェ等を盛り込みつつも、ストーリーは懐かしさを感じる悲しい愛の物語。代表のオ・ソンワンさんは、昨年私たちが韓国を訪問した際に、空港まで出迎えてくれた方です。彼らの伝統の再解釈、現代化、大衆化への挑戦意欲を強く感じました。昨年11月のソウルからの劇団「青羽」の芝居でもそうだったのですが、独特の身振り・ステップ等で、どういう意味なのかを質問すると、その背景に韓国文化の奥深い伝統芸能がある事の説明を聴いて、一層作品を楽しむ事が出来ました。まさに演劇を窓口として、「交流」の真骨頂だと思います。今回は交流会には参加出来なかったのですが、昨年秋は公演直後の役者・演出家との交流会に出席して、舞台で見せる姿とは違った役者の美しさが魅力的でした。

先日の琴似では、終了後会場外で私が誘った若い経営者が言っていました。「何か元気を貰いました。映画とは違う同じ空間のすぐ近くで熱演する生身の姿から、エネルギーを感じました」と。

いつか近いうちに、発祥の地と言われる光州の「パンソリ」を生で聴きたいと思っています。

連続しての興味深いフォーラム・シンポ

Posted by 秋山孝二
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 15日に世界平和アピール七人委員会http://worldpeace7.jp/:札幌大学講演会「洞爺湖サミット後の日本と世界」が開催されました。実行委員会の一人として関わり、武者小路公秀、土山秀夫、小沼通二、池田香代子、池内了の五人の講師の先生ともお話する事が出来て、大変内容の濃い数日でした。内容に関しては、いずれ後援していた北海道新聞紙上で紹介されると思いますので省略しますが、それぞれの講師の方々が、ご自身の確固たるフィールドに基づく、広い視野からのご意見・提言に、久しぶりの納得感を得た時間でした。

これに先立ち、14日午後には池田香代子さんが札幌西高を訪問して、40名程の高校生と交流会の企画があり、私も出席しました。池田香代子さんは、ご存知のように「世界がもし100人の村だったら」の著者です。都立西高出身の池田さんは、冒頭「私も西高出身です」と切り出して、一挙に生徒と接近して、その後もとても初めての出会いとは思えない自然なコミュニケーションに、彼女の眼差しの優しさを感じました。生徒からも「国際貢献で自分たちに何が出来るのか」といった率直な前向きな発言も多く、それに丁寧に答える姿にお人柄を再認識しました。

14日の夜は、武者小路公秀さんがミニフォーラム「国連・先住民族宣言の意義~反植民地主義の視点から」のテーマで講演されて、私も参加しました。国連大学副学長のご経験から、この宣言に至る長い道のり、「自己決定権」が認められた意義、文明の名の下の植民地化等、示唆に富むお話の数々に、時間軸の重みを強く感じました。翌日、グランドホテルにお迎えに行き、会場の札幌大学までタクシーでご案内の車中で、「G8サミット市民フォーラム北海道http://www.kitay-hokkaido.net/」の活動の数々を説明すると、所々で、「それは、素晴らしい活動でしたね」と、少し間合いを置いておっしゃられるお言葉に、独特の雰囲気があり、大変印象的でした。15日のお話の中で、国際課題解決の重要な担い手としてNGOの存在感が大変大きくなっている旨のご評価がありました。

15日には、また「第5回禁煙フォーラム」が北海道医師会、日本禁煙学会北海道支部他の主催で開催されて、その基調講演として、私が「G8サミット市民フォーラム北海道の取り組み」と題して、1時間のお話を致しました。禁煙とは直接関係は無かったのですが、今回のサミットに向けたNGOからの保健・医療分野での提言と、サミットの議長総括の内容とを比較して、MDGshttp://www.mofa.go.jp/Mofaj/gaiko/oda/doukou/mdgs.html の中で、保健・医療のテーマを日本が最も力を入れた分野であり、「洞爺湖国際保健行動指針」を策定した事等を説明しました。道医師会長他、幹部の先生もご出席されており、この分野での日本の貢献が、今後国際社会で一層期待されることを強調したつもりです。

17日には、グリーン九条の会発足記念~経済の視点から平和を考える「朗読劇と講演の集い」を開催しました。http://kitay-hokkaido.net/modules/piCal/index.php?action=View&event_id=0000000161 世話人の一人に私はなっていたのでいろいろな方にご参加を呼びかけました。米騒動から90年の今年、物語「浜に立つ女たち」(桂書房)を書かれた大成勝代さんと、朗読の女優岩倉高子さん、それに大成さんのご主人で南砺市立福光美術館長の奥野達夫さんに札幌までお越し頂きました。生きる為に立ちあがった浜の女性達とその後の運動の連鎖等、一貫して女性の強さにあらためて感動致しました。阻止した船の目的地が北海道だったことも少なからずの因縁であり、同時に日本における「米」の持つ意味が、ただの食糧だけではなく、生活・文化の基軸といった意味あいも感じました。

以上、この数日間、歴史から学ぶ数々の教訓の重みを感じながら、これらをじっくり咀嚼して、これからの活動の糧にして行きたいと思っています。素晴らしい活動をされている方々と、時間・空間を同じくして一緒に呼吸するひと時は、本当に何にも代えがたい貴重な体験ですね。

今、教育現場では

Posted by 秋山孝二
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 秋は、何故か同窓会の会合が続いています。先日は高校同窓会の総会・懇親会、昨日は中学校同窓会の役員会でした。私はまた、現在ある高校の評議員もやっていますが、年数回校長室で意見交換の機会もあり、今の高校での授業・生活がどんなものかを知る事が出来る貴重な機会となっています。

先日は、羽田空港でばったりその高校の校長とお会いしました。修学旅行で、これから長崎・広島に行かれるとか。昨日の中学校同窓会の会合にいらっしゃった現役の先生からも、修学旅行は長崎に行っていると聞きました。中学生・高校生への平和教育の重要性を現場も強く感じて、長崎では被爆体験の方々の実際のお話を聴く時間等もスケジュールに入れて、大変子供たちにも好評であるとのお話も伺いました。そう言えば少し昔の話になりますが、私の娘の高校修学旅行は沖縄で、ひめゆりの塔他の感想を熱く語っていたのを思い出します。

昨今、教育を巡っては様々な意見がメディアにも出ますが、誰にでも「教育」は語る事が容易なせいか、意見が散らかってしまう場面が多いと思いますね。ある方は学校教育を親の立場から教師の批判、ある方は家庭教育の親の批判です。それぞれの立ち位置が不明確で、言いっ放しの雰囲気も多く、どんな場合でも欲求不満で終わります。ただ、子どもたちは待ったなしで育っていく中、現場の先生方の苦労も多いと想像します。私自身、子どもたちの卒業した地元の小学校・中学校に対して、地域と断絶した今の学校現場、先生方には、大いに不満もあります。地域・まちづくりと学校が一体となっていない、内と外と言った教育現場の閉鎖性を最近特に強く感じています。どうしてそんな「タコつぼ」になってしまったのか、と。

そんな昨今、日本の近い歴史を真摯に掘り起こす修学旅行の話題に、私は少しの光を見出します。日本の未来は、今の私たちを含む社会の現役が、邪魔さえしなければ希望が持てると。邪魔さえしなければというのは、消極的なのではなく、今占有しているポストを若い世代に明け渡す、財政的負債を先送りしない等、それは今私たちがやらなければならない事を、責任を持って世代として実施する事以外にありません。

人のいのちに触れながら・・・

Posted by 秋山孝二
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 先日、暫くぶりにメールを送信した方から、思いがけない返信が届きました。2か月ほど入院して、無事退院したというのです。早速お会いしてお話を伺った所、何と海外旅行中にホテルで突然倒れ、意識不明で緊急入院し、10日間昏睡状態を経て意識を回復、その後ベッドに寝た状態で飛行機で札幌に戻り入院し、1か月で退院して奇跡的に仕事に復活しているとの事でした。家族・友人・医療関係者の懸命の努力と見守りで、本当に信じられないいのちの復活でした。目の前のその姿を見て、いのちのとてつもない強さに感動しました。

 そう言えば、今年は中学校の同級生、高校の同級生がそれぞれ亡くなりました。一人は札幌のまち中で突然倒れ、大学病院の救急部に運ばれましたが、ほぼ即死状態だったそうです。家の留守電に病院から、「携帯電話番号に登録のある方皆さんに取り敢えず連絡をしています」との電話が入っていました。葬儀では奥様は気丈に振る舞われていましたが、お気の毒でした。もう一人は、暫くガンを患っていて亡くなりました。残念ながら葬儀には参列できず、最後のお別れも出来ませんでしたが、元気な時のイメージを思い出し、何とも言いようのない心境でした。

 一昨年は、やはり中学校時代の同級生が奥様と二人のお子様を残して、軽井沢の森で自死されました。企業の社長でしたが、大変厳しい時期に、それを承知で社長に就任し、奮闘して解決の道筋をつけてと後で話を伺い、彼らしいなと思いながらも残念でした。お墓参りにいらっしゃったご遺族と暫しお話をしました。私は、彼が生徒会長だったこと等、中学校時代の秀でた活躍を紹介し、生徒会誌の彼の巻頭言と、体育大会時のスターターを務める写真をコピーしてお渡ししました。巻頭言の格調の高さと深い時代への考察を、是非お子様たちにも知って頂きたかったのです。息子さんの顔に、彼の中学校時代の面影を見つけて、思わず涙が出てきました。
 
先日の「セミナー:表参道の燃えた日」の体験者のお話にもあったのですが、死んでもおかしくない状況の中で生き残った自分の命を今思うに、亡くなっていった人たちの思いも含めた「使命」が自分にはあるのでは、と思うようになったというのです。

 私はこれまでその様なぎりぎりの体験はありませんが、年齢のせいでしょうか、「やらねばならぬこと」をこの数年強く意識するようになりました。

「平和」に対して、経営者はもっと積極的に活動をすべきなのではないか

Posted by 秋山孝二
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 経済同友会の品川正治さんは、私の尊敬する経営者です。彼は、数多くの場で、自らの戦争体験と憲法9条との関係、平和であるが故の経済発展について、経営者の責任を下記のようにも語っています。

 

「 ・・・・私は財界に身を置いている人間です。しかし、財界で仕事をする場合に、平和憲法をもっている日本の経済はどうあるべきかが、ずうっと私の基本問題だったわけです。何を無視しても成長を追う、それはやってはいけないことです。「経済は人間に従属するものだ。そうあらねばならないんだ」。そういう考えでずうっと続けてきたわけです。

・・・国家が起こした戦争、そのなかで国民がどう生きていくべきかをわれわれはずうっとたずねていたのですが、「戦争を起こすのも人間、しかしそれを許さないで、止めることができるのも人間ではないか。天災ではない。なぜそれに気がつかなかったのか」。 それが、私が戦争で得た基本的な姿勢です。

これはその後、政治や経済、外交、そういうものを見る目に関しても私の基本的な座標軸になっております。「市場が決める」「市場にまかせれば大丈夫だ」とか、私は経済においてもそういう考え方はとれません。人間がやる経済ではないか。誰が誰のためにしているのかを見分けられないで、いったいそれで経済人なのか。それが私の経済を見る目でもあるわけです。・・・・」

 

 

 

以前、私が上場会社の経営者であった時に、率直に言って「平和」とか、「戦争反対」とかについて、かなり政治的色彩と直結しているという思い込みから、言葉を濁していました。市民運動の方々からは、企業経営者は「利益追求しか考えていない」と言われ、それにも違和感を感じていて、大変微妙な立ち位置を実感し、公の場ではある意味で私にとっては「触れない話題」の一つだったのです。

 

今、私はふるさとに再度軸足を据えて考えていますと、平和であるが故に出来ること、平和でなければ育ちえない命の存在を認識致します。平和な社会、すなわち命の健康・地球の健康な状態だと思います。経済を支える企業経営者は、社会への貢献と同時に、平和な状態の創造、それが「持続可能な企業」としての、最低限の仕事のような気がしています。

 

日本に帰化したハンガリー人芸術家、ワグナー・ナンドール

Posted by 秋山孝二
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ワグナー・ナンドールという人物をご存知でしょうか。

ナジュバラドというハンガリー(現在はルーマニア領)の小さな町に生まれ、1956年ハンガリー動乱(革命)での学生指導者・芸術家のひとり。その後スウェーデンに亡命して、そこで私の叔母ちよと出会い、結婚し、やがて日本に帰化して栃木県益子町にアトリエを構えて活躍しました。11年前に亡くなり、現在はそのアトリエを保存・発展し、財団法人タオ世界文化発展研究所http://wagnernandor.com/indexj.htm として春・秋の展示会他の活動を行っています。

彼は東洋と西洋のクロスする価値に魅せられ、多くのメッセージ性の強い彫刻を残しました。しかしながら、母国ハンガリーでは不遇の時代を過ごし、彼の作品の再評価が、この10数年始まって今日に至っています。日本では、町の広場、公園等にある芸術作品は、何か強い時代のメッセージを感じません。公共投資の一環として、ある意味では意図的にそういった作者の主張を除いている風にも見受けられもします。

ヨーロッパの町の広場は、そこの住民の集会の場であり、歴史的にはある時は革命広場、ある時は虐殺の現場でもあります。従ってそこに設置される芸術作品は、明確にメッセージのシンボルであり、それ故に体制が変わるときには引き倒されるといった光景につながってくるのだと私は以前から感じていました。

私の叔父ワグナー・ナンドールの作品には、力強さとそんな心の底からの叫びを感じます。そして20世紀の歴史に翻弄されながらも、力強く生き抜き、東洋・日本の哲学に行き着き、安らぎを得た生涯に感動します。先日の穏やかな秋の日差しの中、益子町の小高い土地に展示されている彫刻作品を見ながら、しばし物思いにふけるひと時でした。

セミナー「表参道が燃えた日」は、すごかった

Posted by 秋山孝二
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第12回「シニア・エージ」セミナー             司会・宇田川清江、構成・小栗謙一

山の手大空襲を語る「表参道が燃えた日」に出席しました。プログラムは下記の通りです。

第一部:プロローグ:米軍による日本空襲計画の映像映写(日本初公開)   体験談朗読「表参道が燃えた日」より

第二部:座談「体験エピソードを語り合う」

親戚が「表参道が燃えた日」の出版に関わり、このフォーラムの案内が来ましたので、出席しました。大変内容の充実した素晴らしいフォーラムでした。チラシからの抜粋です。

・・・63年前の5月25日夜、米軍機B29により、東京、山の手地域が焼夷弾の無差別爆撃を受けました。今華やかなファッションの街表参道も、一夜にして灰に帰したことをご存じですか?多くの方々が犠牲になりました。戦災の惨禍を語り継ぎたいと有志の人たちが体験記をまとめました。戦争のない世界と人間の尊厳を願って、是非ご一読下さい。http://stuttgart.exblog.jp/8771764/

周辺で、「あなたはあの時、どちらの方向に逃げたのですか」とのやり取りが休憩時間に聞こえてきました。~渋谷・明治神宮・青山・赤坂・・・・~。檀上の方の、特に印象に残った言葉は、「テレビでアフガニスタン、イラク他の爆撃のニュースを見ていますが、それらは全て爆撃をする側の映像です。その向こうの地面に逃げ惑う市民たち、それこそが60数年前のまさに自分たちそのものだったはずです。自分たちの悲惨な体験を、しっかり伝えていく事の大切さを痛感する毎日です。」と絞り出す声でした。

思いついたままのメモより・・・・

*焼夷弾、爆撃機の操縦士の顔が見える高さだった

*戦争のない世界、戦争の愚かさ、それを若い世代に伝えたい

*忌まわしい光景、しかし忘れてはならない事実

*恐怖というより、本能的に逃げた

*火の中を逃げ回った

*桜の花の様に、パッと咲いて、パッと散るのが最高の人生だと信じていた。でもパッと散る事は難しい。黒こげの煙の出る死体の数々を見ながら、教育の怖さを感じた

*自分の体験(戦争の話)はしたくなかった、でもこの数年前から伝えなくてはと思うようになった

*生き残る人たちは、「星に、碇に、顔に、ヤミ」

*東洋英和高等女学校の名前を「英国」との「和」だから変えろと言った人がいる、自分の名前こそ変えろ!「英国製飛行機だろ、英機!」

今、7月のG8サミットをどう評価するか

Posted by 秋山孝二
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私は異業種交流会「北を語る会」の会員です。先日会報担当の方から連絡があり、今年7月のG8サミットを市民はどう考えるかについて、この間私なりに活動した視点から、下記のように報告をまとめてみました。また、それとは別に下記のサイトでも様子を知る事が出来ます。

http://kamuimintara.net/detail.php?rskey=143200809t01

 

 

世界は、きっと、変えられる 」

 

G8サミット市民フォーラム北海道 共同代表

http://www.kitay-hokkaido.net/

(財)秋山記念生命科学振興財団  理事長    秋山孝二

http://www.akiyama-foundation.org/

2008年7月6日から3日間、札幌コンベンションセンター他で開催されたオルタナティブな「市民サミット」は、国内140のNGO会員からなる「2008G8サミットNGOフォーラム」(星野昌子代表 以降 NGOフォーラム)http://www.g8ngoforum.org/forum/と、北海道の80NGO会員からなるG8サミット市民フォーラム北海道」(以降フォーラム北海道)の共催でした。「市民サミット」は札幌市の後援と、18の資金助成団体、43の協賛団体・企業からの支援を頂いて、40を越えるワークショップ・フォーラムの数々に、延べ2000人を越える参加者で盛況でした。 3日間の議論では、「気候変動」「生物多様性」「人権・平和」「貧困・開発」の大きな枠組みで、問題提起と意見交換が活発に為されました。

                                                         この「市民サミット」の意義は、ただG8サミット期間中に企画したという意味合いだけではありません。この市民フォーラムの一連の活動と有機的に結びついている所に更なる価値があります。 たとえばその一つとして、G8と日本政府、そして北海道庁に対して今年6月に政策提言を行いました。それは活動する市民たちがお互いの違いを尊重しながらも、市民の目から政策に反映させていくという、新たな時代の到来を期待させるものでした。

振り返ると、2007921日に「フォーラム北海道」を設立して以来、もうお二人の代表世話人他皆さんとともに、大変密度の濃い活動をして参りました。設立時の挨拶の中でもお話しましたが、私自身は二つの意味合いから、今回の関わりでの自分の使命を感じていました。1)世代としての使命:20世紀半ばに生まれた者として、これからの若い世代が夢を持ち続けられる社会・自然環境への努力を惜しまないこと、2)北海道に育った者としての使命:行政・企業とは異なった、本来の「市民セクター」として、北海道においてプラットホームの構築、そして世界との直接的なネットワークづくりの実践です。市民活動的課題と企業的課題は相対立するのではなく、担い手こそ違うとは言え、その理念はかなり共通していると信じています。永く企業セクターに身を置いた私は、少しでもこの「市民活動への支援」に、メディアを含めた地元民間企業が興味を持つべく、出来る限りの努力をするつもりでこの任をお引き受けしました。

 

手始めの活動として、昨年1029日に、内閣総理大臣、外務大臣、北海道知事宛に、「サミットに対する要望書」を提出しました。いわゆる「開催のあり方」に対する要望書です。具体的内容としては、1)市民に開かれたサミットの開催:政策提言の事前打合せ、CivilG8の開催、イベント・デモ等の市民活動への理解、市民メディアセンター設立への協力等、2)環境と人権に配慮したサミットの開催:会場周辺の環境保全、過剰警備・過剰交通規制反対、無駄な税金投入反対等、です。

 

次は今年1月に札幌市に提出した「公園使用に関する要請書」です。活動自粛を促すとも受け取れる市役所の姿勢に対して、普段と変わらない公的空間での活動を強く要請しました。

 

そして66日に、市民フォーラムは北海道知事へ「政策提言」を提出し、更に北海道的課題への意見交換の場を要望致しました。618日にはNGOフォーラムと共同で、首相官邸において「政策提言」を提出し、その後約1時間半に渡ってそれに基づいた意見交換を首相官邸会議室で行いました。私は市民フォーラムの代表として出席しましたが、30数名出席した政府関係者、海外・国内NGO関係者との緊張感のある意見交換は、大変貴重な経験でした。

 

200877日から3日間開催された「北海道洞爺湖サミット」。いつものように、北海道内ではそれに合わせてさまざまなイベントが繰り広げられました。北海道知事を会長とする「サミット道民会議」は、行政、経済団体などで構成され、サミット1年前の昨年6月に発足、「みんなでサミットを成功させよう」のスローガンのもと、3億円近い予算を立てて、その費用の大半は民間企業からの寄付でまかないました。それに対して私たちは、「おもてなしのこころ」と称して相変わらずの中央依存のこのようなお祭り騒ぎとは明確に立ち位置を異にして、コンパクトな予算の中、しっかり世界に向かって、北海道的課題を共有し発信していく強い決意を表明しました。

 

もろ手を挙げたサミット応援とは一線を画して開催されたのが、「市民サミット」や「オルタナティブ(既存のものとは別な・もう1つの)サミット」と呼ばれる市民参加の集いです。北海道では、環境、平和・人権、開発・貧困問題など多様な分野で活動している道内の団体・個人が一堂に集結し、その中心を担ったのが市民フォーラムでした。東京では昨年1月、NGOフォーラムが結成され、昨年6月初旬にドイツで開かれたハイリゲンダム・サミットに人を派遣し、現地で開催されたオルタナティブサミットに参加していました。近年のサミットでは市民活動団体からの働きかけが活発になり、諸団体が連携して声を上げ、途上国の債務や貧困問題などがサミットの議題に反映し始めています。NGOフォーラムはそんな世界的な動きの中で生まれました。

 

沢山の取り組みをご紹介したいのですが、紙面の都合も限られているので、幾つかだけを紹介致します。

一つは、市民ウイークスとして、補助金なしで成し遂げた「先住民族サミット」です。71日から4日まで二風谷・札幌で開催されて、海外・国内の多数の先住民族・市民の方々が参加し、最終日には「二風谷(にぶたに)宣言」と「日本政府への提言」が発表されました。「宣言」の序文は「イランカレプテ-アイヌ語で『あなたの心にそっと触れさせていただきます』」で始まり、内容は環境、食料、教育など多岐にわたりました。

 

次は、フォーラム北海道とNGOフォーラムが主催する市民サミットです。キャッチコピーは「世界は、きっと、変えられる」、英語で「We can change the world」。各国首脳が続々と来日した76日、オープニングシンポジウム「人々の声を世界に響かせる」が開かれました。冒頭にも書きましたが、3日間で40をえるワークショップを通して、湧き上がるG8サミットへの疑問、地域と世界の課題の共通性、行政とNGOとの新しい関係性等に関して、大変貴重な情報共有と共感を経験しました。たとえば、「夕張から考えるー債務と貸し手の責任を問う」の企画では、フィリピン・インドの方々から貴重な提起があり、別の企画でも北海道の自立と農業・エネルギーを巡るグローバルな課題との関連性を知ることが出来ました。この間主体的に関わった市民には、新たな気づきと連帯感により、確かな手ごたえを得たに違いありません。

 

 最終日のクロージング・セッションでは、参加した中から次の14団体/個人によって、3日間を締め括るレビュースピーチが行われました。G8を問う連絡会(小倉利丸)、市民外交センター(上村英明)、先住民族サミット(木幡カムイサニヒ)、ゆうばり再生市民会議(熊谷桂子)、Japan Volunteer Center (熊岡路矢)、日本自然保護協会(道家哲平)、生物多様性フォーラム(山下洋)、SANSAD/インド(Anil Singh)、日生協保健部会(北嶋信雅)、Africa Jubilee SouthNoel)、毎日新聞(横田愛)、Youth G8 Project(林雄太)、ezorock(草野竹史)、ACE(岩附由香)。

 

そして総括挨拶として、NGOフォーラム代表の星野昌子さんが、「政府に取り込まれることなく、緊張感と距離感を持ち続ける一方、大組織主体ではなく、多様なNGOの声に耳を傾け続ける姿勢を大切にしたい」と、含蓄のあるお言葉で締めくくられました。

別の活動として、どうしてもご紹介したいのが日本初とされる「市民メディアセンター」が札幌市内の3カ所に設置された事です。デモでの逮捕報道だけでなく、シンポジウムの内容の詳しい報道や、市民活動の記者会見などで大きな力を発揮したのが独立メディアや市民メディアと呼ばれる新しいジャーナリズムでした。動画・音声・活字をフルに活用し、近年のG8サミットやWTOなどの国際会議では、こうした草の根的なメディアの活動を支援するための組織が現地に設置されており、今回は「G8市民メディアセンター札幌実行委員会」が結成され、中心的活動を担いました。

この間主体的に関わった幅広い市民には、新たな気づきと連帯感により、確かな手ごたえを得た一連の活動だったに違いありません。そして単に思い出に留めるのではなく、今後のNGO活動へのステップとして役立てたいと今思っています。

同窓会の価値、それは結局、人の繋がり

Posted by 秋山孝二
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 昨日は、私の卒業した高校の同窓会総会・懇親会が開催されました。昨年から幹事長という大役を仰せつかっているもので、総会では事業報告・計画、収支決算書・計画書の報告等を行いました。また同窓会誌にも、下記のような文章を寄稿しました。

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 2008年六華同窓会総会・懇親会の開催おめでとうございます。これまで幹事当番期としてご準備にあたった南33期の実行委員長はじめ同期の皆様に、心から感謝申し上げます。

 今年度のチラシの写真を見た時、思わず懐かしさがこみ上げてきたと同時に、制服だった14期前の私達と比べて華やかな雰囲気に、多少の時の経過も感じました。

 今年3月、私は南高の全日制卒業式に出席する機会を得ました。自分の高校時代は、本州の大学受験と発表日との関係で出席できなかったので、私にとっては40年遅れの卒業式でした。噂に聞いていたパフォーマンスを期待しながら入場して、まずは会場を埋めた保護者の方々の多さとビデオカメラの列に驚きました。そして体育館に響く南高校歌には、納得の行かない南高時代を送った私でも、思い出が一挙に充満し胸が熱くなりました。そう言えば8年前の甲子園球場で聞いた校歌は大変良かったと、あの場に足を運んだ同窓生は口々に言っていました。私はあの日、同期の友人と「2回戦は一緒に応援に行こう」と電話で約束しながら、伊豆高原のセミナー会場に張り付いていて、幻の校歌となっています。

 クラス毎の卒業証書授与では、現役卒業生の各クラス代表が率直に繰り出す言葉の数々に、心から感動しました。奇をてらう訳でもなく、妙に気負うことなく、しかしながら短い言葉で躍動するメッセージ、本当に自分自身で丁寧に語る生徒たちの姿を目の当たりにして、たまらない期待と希望を抱きました。六華同窓会のエネルギーは、まさに毎年輩出される優れた現役卒業生によって為せるものだと、その時あらためて確信致しました。

 更に式後に、私は卒業生が各クラスに戻って振り返る南高生活最後のひと時を垣間見ることが出来ました。一人ひとりの沢山の固有の思い出とクラスメートへの感謝の言葉、4月以降の新しい環境への抱負、地球規模の問題への認識等をしっかり語っていました。「日本の将来は捨てたものではない」と、私は久しぶりに元気をもらって学校を後にしました。一中の大先輩はじめ4万人の同窓生は、変わらずいつも温かく、札幌南高を見守っている事を是非お伝えしたいのです。

 母校の現役高校生のブラスバンド演奏を間近に見て、そのエネルギーに感動しました。

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