少し忙しい日が続き、自分と向き合う時間が減ると、途端にこのコラムの文面も上滑りになってしまいます。「上滑り」というのは、書きたい事は山ほどあるのに、まあこの辺でいいかと、早々に「公開」ボタンを押してしまうみたいな心理状態です。そうではいけないと思う自分とのしばしの葛藤? 時々後戻りしての「追伸・補足」を許して下さい。
演劇Part2です。先日は、中島公園横にある「シアターZoo」で、劇団TPSの「秋のソナチネ」のゲネプロを観ました。普段から沢山芝居を見ている方々と、終了後に一緒に、飲みながら、食べながら、しばし歓談しましたが、面白かったですね。それぞれの方が同じ芝居を見ても、かなり違った感想を持っていて、その理由が実にふところが深く、「そういう見方もあったのか」と、新たに見終わった芝居を楽しめるのですよ。特にゲネプロでは、公演に向けた願いも上乗せして、ピアノの上の日本酒がこぼれるのではと心配だったとか、割りばしの床に落ちた袋はすぐに片付けなきゃとか、ほんのちょっとの動作を見逃さない、少しのセリフの言い回しに納得がいかない等、自分の気がつかなかった箇所を指摘する皆さんの意見は、それを肴(さかな)に何時間でも飲めるからやめられないです。
芝居の最後は大事だと思いますね。言葉できっちり決めて貰いたい、終了した後思わず拍手をしてしまう、そんな芝居が理想的です。それと演出家の解説にも興味があります。観る前に解説は興ざめでしょうが、見終わった後の製作者のお話は面白いです。
昨年の光州市でのTPS公演でのこと。札幌では仕込み・ゲネプロ等は、まず見学する時間もないし、それ程興味もないのですが、海外公演では自分には時間もあるし、外国での舞台づくりにも好奇心から全く最初から「見学」していました。電動で移動させて観客席を作り、舞台の床から整えて、スピーカー・マイクの配置等、音響・照明が活躍していました。
「冬のバイエル」の最終場面、ピアノ上の祭壇のロウソクの炎に、演出の斉藤歩さんはこだわりを持ちました。ゲネプロ終了後、「あの炎は、やっぱり作ってきた豆球の光ではなくて、生のロウソクの火にしようや。作った火だと動きがないし、吹き消した時の余韻もない」と方針変更の弁。私は、ここにきて随分演出家というのも勝手な事を言うのだな、と思ってその場では聴いていました。案の定、その劇場では日本と一緒で、舞台上での火の取り扱いは規則上厳禁とか。ところがそれからがすごかったのですよ。その時の受け入れ責任者の光州演劇協会パク会長は、斉藤歩の意図を知り、直ぐに日曜日でお休みだった劇場責任者に電話をして説得し、許可を得たとの事でした。ちなみにその会場責任者の方は、2日間の本番の最中、ずっと舞台の裾で「監視」していましたが、パクさんの迅速な対応に恐れ入りました。劇場管理については、まあここでの本題ではなく、問題はそのロウソクの生の炎です。1日目公演の最終部分、ピアノの上に祭壇が用意されているのを見ると、確かに炎がかすかな空気の流れを感じてゆらゆら揺れて、それに連れて影の動きも出ていたのです。ただ、役者が吹き消した場面の後の白い煙は、注視していた私には殆ど見えなかったのですよ。やっぱり演出家がいくら拘ってみたところで、大きな舞台では何ぼのものか、と正直そう思ってその日の公演は終了しました。
翌日に再度ほぼ同じ席で観ていました。この日の終わりのその場面で驚いたのです。吹き消した炎の白い煙が、見事に上に立ち昇るではありませんか。明らかに昨日とは違うな、と不思議に思って、公演終了後に斉藤歩に聞きました。するとどうでしょう、彼は「昨日、生の炎を使ってみたけれど煙が見えなかったので、終了後に照明と相談して角度を変えてみたんです」と話してくれました。
「舞台を創る」、そんな心意気と執念をその時以来感じて、私は時間があれば、同じ芝居を何回も見るようになりました。その時の客席と創る芝居、日々進化していく芝居、簡単に「感動した」などと書いては申し訳ないくらい、「創作活動」というのは奥が深いのでしょうね。その辺が、映画よりも面白い所であり、観客へのインパクトが強いのだと思います。ある時はエネルギーを貰い、ある時はどっと疲れも出る、そんな意味合いでですね。