今年見た映画に思う

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comment: 1

 演劇はエネルギーを貰えるとは言うものの、ハズレの確率は映画よりも高いのではと思う時があります。映画は事前に評判等を知る術(すべ)があるのですが、演劇はあらすじは分かっても劇団のセンスとか役者の雰囲気は一発勝負の感じです。時々開始5分くらいして、「えーっ、これに2時間もつきあわされるの」と絶望的になる芝居もありますね。途中で退場する勇気もなく、前後左右のお客さんは結構楽しんでいる場合は、なお一人孤独と閉塞の空間の中で沈みこみます。でも、どんなに仕事で疲れていても、芸術で刺激される脳の部位は別のようで、かえってすっきりして会場を後にする状態が多いです。ですから、やめられませんね。

 

5年前に上場企業経営の修羅場から離れて、再度軸足をふるさとに置いてみると、日々の時の経過が新鮮で、周りの景色も人の表情も大きく変わって感じるから不思議です。ウイークデイに演劇・映画・ライブコンサートなど、想像も出来なかったライフスタイルの大転換を通じて、これまで忘れてきた「熟慮する時間」を、取り戻しつつある自分に気がつきます。

  

今年に入って足を運んだ映画の中に、印象に残る幾つかの作品があります。酪農学園大学で開催された有機農業全国会議での映画「赤貧洗うがごとき~田中正造と野に叫ぶ人々」、シアターキノでの映画「君の涙、ドナウに流れ」、「連合赤軍」、スガイでの映画「光州518」は、それぞれ思い出深い出来事であり、強いメッセージを感じました。そこに共通するキーワードは「勇気」と言えましょうか。

 

あさま山荘事件の時首都圏の大学生だった私は、友達の引越を手伝う為にJR駅周辺でレンタカーの軽四輪トラックを運転していました。映画の終盤で加藤少年が絶叫する「ただ、勇気がなかっただけじゃないか!」の言葉は、同時代を生きた自分に強烈に突き刺さり、繰り返し頭を駆け巡ります。

 

昨年、韓国光州市を訪問した時に、現地で全行程お世話になったパクさんは、1980518光州抗争で立ち上がったあの高校生達と同世代で、友人も犠牲になった話をしてくれました。「光州は民主化の聖地」とふるさとを誇りに語るその姿に、スクリーンに登場する多様な2者関係とが重なり、一層のリアリティを映し出しました。民衆のリーダーに扮するアン・ソンギは、冷静な現状認識を表現し、韓国の「国民俳優」の風格を感じましたね。

 

いずれの映画にも共通する事、「事件」は「闘争」「抗争」であり、「動乱」は「革命」であり、人々のいのちを賭けた戦いの軌跡だったのでしょう。歴史はその意味を後に正しく理解する為にも、正確に記録されなければなりません。歴史的事実が歪曲されたり、無かった事になったりするのを、許すことは出来ません。逆に、歴史の因縁で不当に扱われた人物・作品については、きっちり再評価が必要だと思うのです。

 

戦う者の歌が聞こえるか、鼓動があのドラムと響き合えば

新たに熱いいのちが始まる、明日が来た時、そうさ明日が

列に入れよ我らの味方に、砦の向こうに世界がある

戦え、それが自由への道 

(ミュージカル「レ・ミゼラブル」、「民衆の歌」の一部)

 

昨今の日本社会は、責任ある立場の人々がまるで傍観者のような立ち振る舞い。そして国民は無関心・無反応で思考停止です。少子化社会による人口減といった量的な問題以上に、「怒り」を忘れた国民は、質的劣化をきたしていて深刻だと思います。こんな構造の中で組織社会が腐敗します。今年、数多くあった様々な「告発」は、社会への問題提起であり、「偽装」を打ち破る出発点なのでしょう。告発する勇気ある人々と、それを支援する幅広い人々の集まりは、大きなうねりとなって世の中の改革の原動力だと信じています。