*秘密抵抗組織は結成したがメンバーに実践歴がなく、ヒットラーのテロで多くの犠牲者を出した
*1940年4月15日、自宅に突然ゲシュタポが来訪し、連行された。2・3時間のつもりが、戻って来れたのは5年後だった
*1940年6月14日にポーランド政治犯728人がアウシュヴィッツ強制収容所に入れられたのが最初
*1941年ナチス司令官ヒムラーが来訪。増設命令により、10万人規模の第二(ビルケナウ)、4000人規模の第三(化学工場)収容所の建設に従事
*最も大切なことは、目と耳を使って「働いた振りをすること」だった
*1942年後半以降は、囚人番号は実際の入所者の半分程度、残りは「収容所」ではなく直接「ガス室」送りだった
*ポーランド人の村人は、5・6キロ離れた所に疎開させられた。収監されている人と一般ポーランド人が、抵抗行動で連帯していた。「収容所の様子を外へ伝える事」が最も価値のある活動だった。脱走して伝えるのが一番効果的ではあったが、見つかると銃殺刑だった。ナチス軍人は射殺すると3日間の休暇が与えられていた。「生きてこの現実を世界に伝える」ことこそ、最大のレジスタンス
*ビルケナウは湿地で、脱走しても臭いをけしてくれるので、ナチスの犬を使った追跡をかわす事だ可能だった
*ロシア軍が東から迫り、不安になったナチス親衛隊は、戦争責任を隠そうと「モーラ計画」を策定し、ビルケナウに収監した人々の皆殺しと施設の破壊を企てた
*1945年1月18日に死の行進が始まり、アルプスの近くまで移送された。5月6日にアメリカ軍により解放されて、5年ぶりに故郷に戻り、法学部学生となった。戦後はニュールンベルグ裁判で証人として出廷したが、ナチスの被告たちはウソをつくか押し黙っていて、謝罪の言葉は全くなかった。
*ビルケナウに到着間もない200枚の写真には、死体は写ってなく静かではあるが、現実は家族を探す絶叫が2・3時間は続いたはずである
*100万人以上の人が殺された事実を想像することは難しい
9 月 22nd, 2010 at 7:21 AM
[...] 昨年訪問したアウシュヴィッツでお話されたポーランド・レジスタンスのスモーレンさんは、「アウシュヴィッツで今、何が起こっているかの事実を伝えることが最高のレジスタンスだ」と、そして奇跡的に生還した後は、「生き残った者の責任として、自分の経験を社会に伝えていく、それが命を落とした人間達の願いでもあるだろう」と私たちに語りかけました(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=1457、http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=1501)。 [...]