瀋陽(旧満州時代の奉天)は札幌の姉妹都市でもあり、人口700万人の大都市です。街の中心部は地下鉄工事はじめ、大型建設プロジェクトのクレーンが林立し、郊外では高層マンション建設が数多く進んでいます。
瀋陽から約1時間半、工業都市・撫順の高台にある平頂山遺骨館(http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou09/kaihou095.html)を訪問しました。その会議室で、奇跡的に生き残ったヨウ・ギャク・フンさんの証言と質疑応答は初めて聴く事柄が多く、実に重いひと時でした。今年87歳を迎えるヨウさんは、大変明確なお言葉で、当時の様子をしっかりと語られました。日本兵が突然夜にやって来た時、日本刀をかざすその姿は一生忘れられない、と。家族24人のうちで生き残ったのは6人だけで、今生きているのは自分一人、生きている人間がこの惨劇を語らなければならない「責任」を強く感じている、と静かにお話をされました。
また、今も当時の憲兵隊・兵士たちに対する憎しみは消えないが、その後謝罪に来た元日本兵もいるし、今生きている若い世代とは、しっかり平和を築くために日中友好への努力をしなければならない旨を語っていました。ヨウさんは今月末に来日予定で、札幌にもお越しになるそうです。
証言を聴いた後、隣の遺骨館に行きました。ガラスの窓の下に並ぶおびただしい数の人間の遺骨は、あるものは刀のキズあり、あるものは一見して障害を持った方とわかり、母親と子と思われる情況もありました。本多勝一の「中国の旅:http://www.amazon.co.jp/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%97%85-%E6%9C%9D%E6%97%A5%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%9C%AC%E5%A4%9A-%E5%8B%9D%E4%B8%80/dp/4022608056」で公になり、当時は彼への個人的バッシングも含めて、大変な論議があったようです。
続いて、撫順戦犯管理所(http://www.geocities.jp/t111313/china-n-e/senpan.index.html)です。今年6月に新装オープンした奥の展示館は、ことの外新しいデザインで、注目を集めます。周恩来の見識の高さ、人物の大きさにあらためて感動しますね。めまぐるしく変わる時代に、この場所の機能・名称も何回か変わっています。その後、ここに滞在した日本人が帰国して「中帰連:http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/other/gaiyou.htm」を結成し、日中国交回復にも大いに尽力されました。数年前に発展的に解消して、新たな活動を展開しています。
昨年訪問したアウシュヴィッツでお話されたポーランド・レジスタンスのスモーレンさんは、「アウシュヴィッツで今、何が起こっているかの事実を伝えることが最高のレジスタンスだ」と、そして奇跡的に生還した後は、「生き残った者の責任として、自分の経験を社会に伝えていく、それが命を落とした人間達の願いでもあるだろう」と私たちに語りかけました(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=1457、http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=1501)。
今回のヨウさんも、全く同じく「生き残った者の『責任』」というメッセージを残されました。私は「証言を聴いた者の責任」を強く感じます。平頂山のあの場所には悪夢の再現で行きたくはない、とおっしゃりながら来て頂いたことに、あらためて心からの感謝を申し上げます。一方で、日本では「そんな事実はなかった」、「3000人の犠牲者はねつ造」といったレベルでの一部の議論に、特有の責任回避・転嫁を感じます。記録・資料を焼却・廃棄しておいて、一体何を語ることが出来るのか、そんな憤りにも近い思いをここでも感じてしまいます。