東京の地下鉄駅構内にある立ち読みしやすい書店で、和田秀樹著「まじめの崩壊」(ちくま新書)を見つけました。http://www.junkudo.co.jp/detail2.jsp?ID=0109681990 「・・・世界からまじめな国民と評価されていた日本人は、いつからこのようにふまじめな国民になってしまったのでしょうか・・・」。この所私が感じている気持とぴったりのフレーズに、しばし(と言うにはかなり長い時間でしたが)立ち読みをしました。
企業でも、教育機関でも、警察・役所等の公務員集団でも、何か昔と違った雰囲気を日頃感じていた私です。社会の前提条件がこの数十年で実は大きく変わって来ているのではないか、若い世代の価値観が自分の時代とは大きく違っているのでは等、自分だけがそう感じているのか、潜在的な疑問がこの間どんどん自分の中に湧き上がり、挙句の果てには、この所の各セクターのていたらくを見るにつけて、本来戦後の時代を担う有能な人材を、第二次世界大戦で日本は大量に失ってしまったのではないか、とも思うに至ったりしました。戦争で失った資産は、その時の直接的損害ばかりではなく、それ以降の歴史にも強い影響を与えるのだという自分なりの確信でした。
昔は「暗黙の信頼」があった人々・組織が、今の時代は確認、或いは無い状態として事に臨まなければ、大変な間違いを起こしてしまう、そんな危機感を持つのです。以前外国に出張した時に、ホテルの支払い、お釣りの金額、品物の値段、乗物の時間・予約、レストランの注文等、日本で生活している時には「確認」作業など殆どしていなかった自分としては、確認の連続で慣れるまで随分と疲れたのを思い出します。それだけ忘れ・間違いが多いというか、携わっている人たちのレベルが低かったというか、とにかく日本国内程スムーズに正確には事が進みませんでした。仮にそれを自分が怠ってクレームをつけると、逆に確認をしなかったお前が悪い、に近い反撃にあったものです。帰国する度に、「日本の業務レベルは本当に安心で、いちいち確認という余計な手間がいらない、素晴らしい社会だ」と思ったりしていました。
ところがこの所の日本で感じる総体のレベルの低下と言うのでしょうか、いい加減な対応というのでしょうか、金融機関窓口業務での信じられないミスとその後のあきれる対応、経営レベルのモラルの低さ等を目の当たりにすると、どうも日本も世界なみに落ちてきていると強く思っていました。そしてその大きな要因が、個々の日本人の価値観・哲学の変化だと気が付き始めています。この本を読んで、メランコ人間とシゾフレ人間の比率が、劇的に変化してきている日本社会を知り、現状認識としては納得のいくヒントを得たような気がします。どちらが良いか悪いかというよりも、大きな変化を認識する必要がありそうです。
著者のメディアの批判にも共感します。最近の「お笑い系番組」の氾濫は一体何なのでしょうか。いえ、もっと正確に言うと「全てのニュースをお笑い系にしてしまっている」という方が正確かも知れません。視聴者が求めるからとはとても思えない、話題を「お笑い系」でお茶を濁し、思考停止に誘導しているようです。「世論形成」などという高邁な理念がある訳でもなく、野次馬以下でしょう。マスメディアは何かと言うと「公共的な報道という活動に従事している」とよく言いますが、くだらない電波の無駄遣い的番組を量産しておいて、それはないでしょうと私は思いますね。
こういった変化している日本社会で、旧来型の「きまじめさ」を信条として生きていくのは、信じられない程ストレスが溜まるのですが、「異端児」、「頑固者」と言われようが、保守本流の日本国民(?)としてと、少々力んで声を発していきたい気持です。