「寺島文庫リレー塾2011」、終了

Posted by 秋山孝二
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 寺島文庫(http://www.terashima-bunko.jp/about.html)主催の第2回リレー塾(http://www.terashima-bunko.com/bunko-project/relay.html)計6回が、先日、終了しました、毎回200名を越える参加者で大盛況でした。

10数人いらっしゃいました

1期・2期の皆勤賞は、10数人いらっしゃいました

 数年前に、札幌医科大学でもリレー塾が開催されました(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=7141)が、今回の東京でのシリーズは、「日本創生への視座」と題して、現在の日本・世界の課題に対して思索を続ける論客ばかり、日頃テレビ等のメディアでは聞かれない突っ込んだ言及で興味深かったですね。私にとっては、寺島実郎さんは勿論ですが、西部邁(http://www.hatugenshajuku.net/)さんの「危機における『実存的保守』の構え」が印象的でした。もう20年近く前になりますか、「発言者塾」を札幌で開催して、私も続けて参加していました。昨年11月は一層分かりやすいお話でした、その一部から~~~~~~~

* 3・11で被災した85歳のおばあさん3人の言葉:「こんなこと、あの戦争に比べれば何のことはありません」、「娘・孫、みな死んだ、こんなことならいっそ死んだ方がよかった」、「生き残った一本の梅の若木、残り5・6年、これを育てることが私の人生の役割です」

* 生きるための「よすが」、「基準」みたいなもの、それが「実存の姿」

* 死へ向かって人間はどう生きるか、廃墟の中から浮かび上がる「基準」は実にシンプル

* 1930年代、ヨーロッパは危機の中で徹底的に考え抜いて、「実存哲学」は生まれた

* 「tradition」は、「伝統」と訳されてきているが、本来は「trade:トゥレディーノ」で「運ぶ」という意味、意訳して「運ばれ来たれしもの」となる――習慣の中にある平衡感覚を保とうとする概念:「保守」~綱を渡る時の「バランシングバー(棒)」

* 昨今の議論では、左翼はこの「伝統」を「拘束衣」と思いこみ、右翼は「岩盤」と誤解している、山の尾根を歩く、或いは綱を渡るがごとき緊張感に満ちた歴史から生まれた概念である

* 近代主義:「自由」・「平等」の二分割

* 18世紀・近代保守思想の祖:エドモンド・バーク

* 「維新」の本来の意味:孔子の「天命――変わらぬもの」、「維」は、「房」の意で、糸が縦横にしっかりしている状態

* 「revolution:革命」の「革」は、皮を剥ぐから派生して「変える」の意、「命」は「天命」で変わらぬものの意、すなわち、「革命の本来的意味は、「不変なものを守るために今のものを変える」である~~現在は、この「変わらぬもの」の議論が無いではないか!

* 「危機管理」という言葉は、言語矛盾!

* IT革命は「将来を確率的に予測する」(?):条件が変わらないことを大前提として、言い換えれば、昨日・今日の変化を将来としてしまう「近視眼的」な発想。欲望・技術・制度等、そんなことはあり得ない

* 「モノづくり」には、必ず長期的イメージがあるはず

* 「テクネー」は「生きる知恵」の意、そこから派生したテクノロジー(技術)の言葉、戦後日本は「テクノマニアック:技術狂」、昨今の原子力議論は、技術に話を落とし込んでおいて最後は井戸端会議かよ!

* 人間が「生きる」ことは、「時代」を生きること、時間軸の中でイメージを組み立てることが大切である。定かでないものを、「変化」、「変化」と礼賛すべきでない、これが「実存のエッセンス

* 日本の伝統に立脚した「歴史的有機体――組織」が乗り越えられようとしている、すなわち、歴史の破壊である

* 日本的集団経営方法を如何に活かすかを考えるべき時

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~講演概略 おわり

 

 最終回に寺島実郎さんがおっしゃっていましたが、この20年間、社会科学的アプローチから指摘していた二つの視点、1)マネーゲーム批判、2)イラク戦争は間違った戦争については、今も変わっていないと。そして、昨今の日本の論評について、今必要なのは、政策科学的な「あるべき姿」を語り続ける「現状の変革者」ではないのかと、淡々と締めくくられました。

 私自身、今、テレビ・書籍で巷にあふれる表層感覚の教養主義、「時代の解説をして見せる人」ではなく、時代の課題に真摯に向き合い、提言を続ける人に、たまらない魅力を感じます。同時に、自分の頭で考え続けることを続けたいです、同じ時間・空間でお話を聴く価値、あらためて意義深いですね。

誇りです、澤選手、佐々木監督

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 「FIFA女子年間世界最優秀選手賞」に澤穂希選手、「女子年間最優秀監督賞」に佐々木則夫監督、「フェアプレー賞」に日本サッカー協会(http://www.jfa.or.jp/)が、それぞれ選ばれ、スイス・チューリッヒで授賞式が華やかに行われました(http://www.jfa.or.jp/jfa/topics/2012/6.html)、アジア初の三部門、爽やかな受賞でした!

メッシと握手する澤穂希選手

メッシと握手する澤穂希選手

  「世界」と名のつく褒賞で、堂々と和服姿で登場の澤選手、日の丸を付けていなくても、一目で「日本」をアピールする映像を見て、しばらく忘れていた国際社会の中の日本の存在感でした。昨年末、NHK・BSで、「なでしこジャパン」のワールドカップの試合をフルで見ていましたが、一戦一戦、成長・進化するチームの姿を再確認しましたね、特に、予選リーグのイングランド戦で敗れて、ヨーロッパ・アメリカとの戦い方を学んだ感じです。昨年夏の感動(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=9370)を思い出すと共に、年明け一番の元気の出るニュースでした。

失くした手帳、戻ってきました!

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 昨年師走の中頃、東京出張した際に、私は大切にしていた手帳をどこかで失くしました。それには、これまで数十年の連絡先電話番号、各種のID・パスワード、札幌市営交通の残額7000円位のウイズユーカード、東京都地下鉄路線図、アメリカ・マサチューセッツ州ボストン市の地下鉄路線図、NTTカードも一緒でした。

そのまま全部、戻りました

そのまま全部、戻りました

 これまで出張中に自分の持ち物を落としたことはありませんでしたが、失くしてみると大変な喪失感で、年末・年始、仕事の合間に出張行程を思い出しながら、問い合わせをしていきました。財布を取り出した時に一緒に落としたか置き忘れたか、ANA、新千歳空港ビル、羽田空港ビル、JR北海道、札幌市交通局、京浜急行、フォーラムのあった寺島文庫ビル、面談した品川のカフェ、etc。現実的にはカバンから他の物と一緒に出て落ちるというのはあり得なく、用事で取り出して、そのまま置き忘れた可能性が高いことに気がつき、最終的に、年明けの先日、JRバス関東館山支店から千葉県館山市警察署に保管されていることが分かりました。12月19日夜、東京駅からアクアライン経由館山行きのバス内で、座席上に置き忘れたようです。

 まあ、思い出そうとしても記憶がない、何とも情けない一ヵ月でしたが、全て手元に戻ってきて、「めでたし、めでたし」です。それにしても、日本の現場力のレベルは実に優秀ですね。どの窓口でも1分も待つことなく、「Yes」、「No」の返事があり、受け答えも実に丁寧でした。

 そう言えば昨年は、札幌ススキノでお店に名刺入れを忘れて、一緒だった方に預かって頂いたり、今回の手帳の紛失、たまたまともに手元に戻ってきたものの、集中力の欠如は如何ともし難いですね。今年は年明けから、反省しきりです、ある方は「縁起が良い!」と言ってはくれますが・・・・・。

 Facebookでは、たくさんの方々から「お祝い?」のお言葉を頂き、恥ずかしいやら何やらで、複雑な気持です。皆さま、この様なことでご心配を頂き、心から感謝致します!

屋根は、日本の資源です!

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 阪神大震災から17年目の今日です、私たちはあの地震から何を学んだのでしょうか?

 新しい時代ですね!!!年明けから、こんな広告がいっぱいです。

PANASONICの新聞広告から

PANASONICの新聞広告から

新しい時代に突入!

新しい時代に突入!

 家の屋根で「発電」ですよ、「電気を創り出す家」といったハウスメーカーのテレビCMも目にしました。

 このような企業の動きを裏付けるように、昨年、国に大きな動きがありました、2011年6月7日、新成長戦略実現会議(http://www.npu.go.jp/policy/policy04/archive02.html)の分科会として「エネルギー・環境会議:http://www.npu.go.jp/policy/policy09/archive01.html」が設置されました。10月3日には、その「エネルギー・環境会議」に「コスト等検証委員会:ww.npu.go.jp/policy/policy09/archive02.html」が発足しました。

 12月19日にこの委員会が報告書をまとめました。その中で、太陽光についての報告は以下のようになっています。~~~~~

(6)太陽光 (住宅用・ メガソーラ)
○太陽光については、2010年モデルシステムの発電コストは、30円/kWh以上(割引率3%、設備利用率12%、稼働年数20年)と、他の電源と比べても、高い水準であるものの、足元でも、システム価格が低下しつつあり、また、2030年には量産効果などにより、大幅な価格低下が期待され、現在の2分の1から3分の1にまでコストが下がる可能性がある。これが実現されれば、石油火力(割引率3%、設備利用率10%、稼働年数40年)よりも安い水準が達成される。次世代太陽電池など革新的な技術が実現すれば、さらに下がる可能性もある。
○ただし、太陽光の導入が拡大してきた場合、将来、配電系統における電圧変動抑制対策を含め、何らかの系統安定化のための追加的な投資が必要である。その中には、系統安定化のための調整電源の確保、系統連系強化、需要動向に基づく需給調整や、蓄電池の役割の整理・普及をどのように進めていくかという論点がある。
○住宅用でも、メガソーラーでも、既存の揚水発電所の活用や蓄電設備併設を含め電力システムの需給調整力の向上により、昼間しか出力しない、出力調整ができないなどの太陽光発電の課題を解決する可能性も出てくる。住宅のヒートポンプ給湯、電気自動車の充電などによる調整を利用すれば、蓄電機を別途付ける量も低減できる。現時点では、蓄電コストは高く、今後、どの程度低下するかが導入拡大の鍵を握る。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 経済同友会(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=8221)の昨年の会議資料にも、「太陽光発電の普及には、低コスト化に向けて、さらなる技術開発を進めていくとともに、耕作放棄地、マンション・工場の壁面、など、制度制約や転換効率等の課題が存在する場所での設置を進めていくための制度改革、及び、それに採算性を持たせる技術・ノウハウの開発が不可欠である。」とありました。

 恐らく、これまでの日本企業の技術開発レベルから想像すると、これを遥かに上回るスピードで課題が解決されると思います。「メガ○○」とかの巨大設備投資よりも、小規模分散エネルギーの製造であり供給が、安全・安心・省エネ・少エネのキーワードだと私は思います。今年は、自分でも真剣にエネルギーについて考えて行動しようと思います!

鴨下重彦先生の遺志を継いで

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 東京大学名誉教授・小児医学研究振興財団(http://www.jpeds.or.jp/zaidan.html)理事長・鴨下重彦先生が、2011年11月10日に前立腺がんでお亡くなりになりました。

 今から4年ほど前に、褒賞事業「新渡戸・南原賞」を秋山財団で引き受けました(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=35)が、それから、ご一緒に多磨霊園へ新渡戸稲造・内村鑑三・南原繁・矢内原忠雄のお墓参り、南原繁の母校の四国・三本松高校の訪問等、鴨下先生には運営委員長として、この間大変お世話になり、昨年9月の秋山財団「新渡戸・南原賞」授賞式には、お元気な姿でご出席・ご挨拶をされていました(http://www.akiyama-foundation.org/nitobe/)。

 その後、11月3日、東京神田・学士会館で、「南原繁研究会:http://nanbara.sakura.ne.jp/」シンポジウムが開催されて、そこでの基調講演が最期の講演となりました。私はこのシンポジウムに3年前に出席(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=215)しましたが、昨年は出席できず、後日、山口周三事務局長から送って頂いたDVDで拝見しました。概略は下記の通りです。

* 南原繁「人間の使命」:昭和23年9月30日、東京大学卒業式での演述(http://www.utp.or.jp/bd/978-4-13-001004-7.html

* 矢内原忠雄:昭和36年7月8日、北海道大学で最期の講演:内村鑑三とシュバイツァー「畑は広い、働き人は少ない」

* 内村鑑三:明治27年7月(日清戦争2週間前):「後世への最大遺物・デンマルク国の話:http://www.aozora.gr.jp/cards/000034/card519.html

* 大災害をどう受け止めるか、「災害社会学」~~「非常時の礼節」-大混乱の中で日本人が世界に示した勇気と美徳

* 渡辺和子(ノートルダム清心女子大学学長:http://www.ndsu.ac.jp/):2・26事件で射殺された渡辺丈太郎教育相の娘さん、目の前で射殺され、その後の人生に強い影響を与えた。第7師団長の時に、北海道・旭川市で誕生

 

 「鴨下重彦先生を偲ぶ会」は12月4日に国際基督教大学で開催されましたが、私はどうしても都合がつかず欠席でした。その数日前にご自宅に弔問に参りました時、奥様がご在宅でしばしお話ができて、先生の書斎にもご案内して頂きました。あふれるほどの書物に机、ここで鴨下先生が深く思索されていたのかと思うと胸が詰まってきました。

 2月には「新渡戸・南原賞」運営委員会を開催して、新しい代表を決める予定です。鴨下重彦先生、これまでのご指導に心から感謝申し上げます、先生のこの「新渡戸・南原賞」に込めたご遺志をしっかり受け継ぎます、どうか安らかにお眠り下さい。

温暖化を肌で知る?

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 「温暖化」により北極の氷が溶け出しているとよく聞き、映像でも見たりしますが、遠い場所のことで今一リアリティがありません。

 札幌に住む私の身の回りで感じることは、特に冬の積雪の形状ですね。昔は、北海道は粉雪で、屋根の雪はしばし積もっていても、やがて傾斜でサーッと落ちていったような気がします。この数年は、粘り気(水分?)が強く、なかなか地表に落ちてきません。カーテン状につながって湾曲し、最終的には雪が落ちる場所も家に近い所になり、家の壁の傷み方も大きいような気がします。

家の屋根の雪

家の屋根の雪

  本州の人々は、「温暖化で雪が減ったのでは?」と言いますが、必ずしも雪の降る量と「温暖化」は、札幌の緯度では相関関係があるとは思えません。雪の「質」が変わるというのでしょうか、今年の冬、円山公園の雪も例年通りです。

円山公園入り口20mから北方面を望む

円山公園入り口20mから北方面を望む

 そう言えば、昨年秋にほとんど成らなかった柿の実(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=10619)でしたが、前の冬にやってきていた鳥たち(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=7104)は今年はどうやって冬を過ごしているのか、気がかりですね。さらに、昨年秋に札幌に出没していた熊も、無事冬眠に入ったのでしょうか?

松平康隆さん、逝く

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 公益財団法人 日本バレーボール協会名誉顧問の松平康隆さんが、昨年12月31日にご逝去されました(http://www.jva.or.jp/news/20120105.html)。バレーボール男子全日本コーチとして1964年東京で銅メダル、監督として1968年メキシコで銀メダル、そして1972年ミュンヘンで金メダル獲得の偉業を成し遂げました。

BSフジ番組から、在りし日の松平康隆さん

BSフジ番組(再放送)「堂々現役」から、在りし日の松平康隆さん

1972年ミュンヘンオリンピックで優勝!

1972年ミュンヘンオリンピックで優勝!

  私は1974年から79年まで東京都江戸川区で、中学校教員時代に、男子・女子バレーボール部を指導していました(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=27)。その時のバックボーンとして、男子では松平康隆さん、女子では14年前にお亡くなりになった山田重雄さんの哲学を忘れることができません。先日のBSフジの再放送で、早くに亡くなられた松平さんの御子息の筆箱に書かれた中央に立つ日の丸の絵を初めて見ました、覚悟を決めて目標達成に向けて努力する姿は、今も強烈に心に残っています。

亡き息子さんの筆箱に込められたメッセージ

亡き息子さんの筆箱に込められたメッセージ

  松平康隆さんと言えば、もう一人、12年前に58歳の若さでお亡くなりなった南将之さんも忘れられません、伝説の主将でしたね。ミュンヘン大会では、補欠に徹して、土壇場で一昨年に亡くなられた中村祐造さんとともに大仕事をしました、ミュンヘンの数年前までエースだった彼が、チームの裏方としてメダル獲得を支えた大ベテランでした。

伝説のキャプテン・南

伝説のキャプテン・南将之さん

 

 思い起こせば1970年代は、私にとっては激動の時期でした。71年に大学の教養課程を終えて休学し、秋にアメリカに船で行き(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%2771%E3%80%80%E5%8C%97%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%B8%E3%81%AE%E4%B8%80%E4%BA%BA%E6%97%85)、72年の冬季オリンピックを札幌で迎えて(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=4981)、あの70m級ジャンプの「日の丸飛行隊(金・銀・銅メダル獲得)」を現場で応援しました。そして秋のミュンヘンオリンピックでバレーボール男子の劇的優勝。私は復学して大学卒業後に、教員として子どもたちとの日々。79年に、家族とともに札幌に移り、医薬品卸業の経営の道へ転身しました。

 この想い出多い10年間、山田重雄さんには、当時小平市にあった日立武蔵の練習場へ部活の生徒たちと一緒に行き、ワールドカップ前にも関わらず教えを請いました。松平さんには直接お目には掛っていませんが、「負けてたまるか」とか、「一流選手は人間的にも一流でなければならない」と言った彼の言葉は、深く心に刻まれました。今から5年前でしたか、韓国・光州市へ海外公演に札幌のTPS劇団員(http://www.h-paf.ne.jp/tps/tps.html)と同行した時、私は稽古の合い間に、民主化の聖地、「5・18光州事件:http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=121」のモニュメント等に関係者全員を誘い見学しました。その時に、松平さんの「海外遠征に行って、試合場と宿舎だけを往復するような選手ではトップにはなれない」の言葉を思い出していました。

 70年代は、オイルショック等の苦難を次々と乗り越える勢いが日本社会にはありました。今、ふり返るとそんな時代、バレーボール界には優れた指導者・選手が活躍して、多くの感動を与えてくれましたね。松平さんのご逝去で、私の70年代にも一つの区切りです。

 スポーツの世界では、その後、高校野球の香田誉士史監督(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=1904)、女子サッカーの佐々木則夫監督(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=9370)など、優れた指導者も続々誕生しています、素晴らしいことです。

 後日、「松平康隆さんを偲ぶ会」も開催されるとか、都合をつけて最後のお別れをしたいと思っています、松平康隆さん、たくさんの教えを頂きありがとうございます、どうか安らかにお眠り下さい。

「Rio + 20」、あれから20年!

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 「Rio+20http://www.uncsd2012.org/rio20/」、今年は、1992年6月、ブラジルのリオ・デ・ジャネイロでの「環境と開発に関する国連会議」開催から20年の節目です。一般的には、「地球サミット(the Earth Summit:国連地球サミット)」と呼ばれています。この会議で採択された27の原則から成る「リオ宣言http://www.env.go.jp/council/21kankyo-k/y210-02/ref_05_1.pdf」が、国際社会の共通認識であり、原点です。

 特に、この会議に集まった世界の指導者たちを前に、12歳のカナダ生まれの日系四世少女、セヴァン・­スズキの伝説の6分間スピーチ(http://www.youtube.com/watch?v=C2g473JWAEg)は、今日まで語り継がれています。彼女は5年前、北海道二風谷から日本人へのメッセージも発信しています(その1http://www.youtube.com/watch?v=rZcQ_4vYq90&feature=related、その2http://www.youtube.com/watch?v=6-qAlS3IvIM&feature=relmfu)。

 「Rio+20」の北海道での取り組みは、先日1月3日北海道新聞朝刊に「北大・NPOが『環境白書』6月までに中間報告 北海道の未来像提言」と4段見出しで掲載されていました。これは、昨年末の提携に基づく最初の活動成果になるでしょう(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=11135)。日本の市民セクターの取り組みは、「一般社団法人 環境パートナーシップ会議:http://www.epc.or.jp/summit/」に掲載されています。

 20年前の自分を思い起こすと、(株)秋山愛生舘の五代目社長就任目前で、延び延びになっていた札幌証券取引所への上場で頭がいっぱい、とても「環境」について思いを巡らすことはできませんでした。ただ、当時の宮澤喜一首相が、国会の日程でビデオ演説となり、メディアの批判を浴びていたのを覚えています。この節目の会議に日本の首相が参加していなかったこと自体、グローバルな環境問題解決への存在感の無さを印象づけたような気がします。

 今、ふり返ってみると、国際連合の招集を受けた世界各国の産業団体、市民団体などのNGO 、国連加盟国ほぼ全ての世界172か国の代表が参加し、のべ4万人を越える人々が集う国連の史上最大規模の会議となり、世界的に大きな影響を与えました。

 そして会議の成果として、リオ宣言の他に、この宣言の諸原則を実施するための行動計画である「アジェンダ21http://www.env.go.jp/council/21kankyo-k/y210-02/ref_05_2.pdfhttp://www.erc.pref.fukui.jp/info/a21.html」、「森林原則声明http://www.eic.or.jp/ecoterm/?act=view&serial=1353」が合意されましたし、別途協議が続けられていた「気候変動枠組条約http://www.env.go.jp/earth/cop3/kaigi/kikou.html」と「生物多様性条約http://www.biodic.go.jp/cbd.html」が提起され、この会議の場で署名が始まりました。さらに、国際連合の経済社会理事会の下に、「持続可能な開発委員会(CSD)http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/kankyo/kikan/csd.html」が設置されました。

 この会議後、「生物多様性」「生物圏」といった用語が、各国の主要機関に認知され、一般にも知られるようになり、さまざまな地球環境問題や生態系、絶滅危惧種に対する関心が高まるきっかけともなったようです。

 あれから20年、昨年の3・11を契機に、北海道から、日本から、私たちが世界に発信しなければならない責任は、一層大きくなりました。今年は「民の力」で、一歩前に出て提言していきましょうよ!!

エネルギーチェンジ、チャレンジ始まる

Posted by 秋山孝二
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 年明けから「エネルギー」に関する記事が続々と掲載されています。昨年の東京電力福島原発爆発事故後、多くの方々が、今、エネルギーに関して真摯に向き合い始めている証拠かと思います。

 

1) 2011年7月27日衆議院厚生労働委員会で線量測定・内部被曝に関して怒りの論述をされた児玉龍彦教授(http://www.youtube.com/watch?v=O9sTLQSZfwo)の試みです。現在しかるべき立場にいる方の説得力・影響力の大きさを痛感します。

<北海道新聞1月1日朝刊>

福島汚染米でバイオ燃料 児玉・東大教授、県内で実験へ:道内製造企業も協力~~~~~~

 放射性セシウムが検出され廃棄見込みの福島県産のコメを、道内企業の技術を使って、ガソリン代替燃料のバイオエタノールとして利用する計画が動きだした。政府の除染施策を批判して自ら福島で除染に携わる児玉龍彦・東京大教授らが、「福島再生のモデルに」と取り組み、2012年内に具体化に向けた実験に着手する。バイオエタノール生産工場は福島県内に造り、廃棄用や風評被害で売れにくいコメを有効活用しながら、雇用創出や耕作放棄による農地荒廃を防ぐ狙いだ。~~~~~~~

 

2) <1月5日北海道新聞社説>

ニッポンつくり直し(4) 原発頼らぬ生活目指そう 20年で5割も増えた電力消費/自然エネルギー普及の道筋を

 原発が担う3割分を差し引いた発電量は、およそ20年前の1990年前後の水準だ。日本経済にとって長期低迷の「失われた20年」が始まるころである。 北海道は一層厳しく、経済規模を示す域内総生産は当時と変わらない。この間、人口は減少に転じた。

 ところが、北海道電力の販売電力量は、泊原発2号機が運転開始した91年から現在までに51%増えた。成長ゼロで人も減ったのに、1・5倍の電力を消費している。電気を便利に使いこなしているつもりが、実は、原発を基本に据えた電力供給システムに、知らず知らず生活様式を合わせてしまったのではないだろうか。

 原発に頼らない未来を選ぶには、一人一人が暮らしを見つめ直し、エネルギーについて真剣に考えることが出発点となる。

 将来のエネルギーのあり方を検討する上で、北海道には指針がある。2000年に制定された道の省エネルギー・新エネルギー促進条例だ。放射性廃棄物の処理・処分技術が確立されていないことから、原子力を過渡的エネルギーと位置づけ、「脱原発」の視点で省エネ促進と再生可能エネルギーの導入に取り組むとしている。ただ、道の取り組みは不十分で、これまでは見るべき成果がない。福島の事故を経験した今こそ、その理念を生かすときだ。

 条例に共感した道内のNPO関係者や研究者らが昨年、「北海道エネルギーチェンジ100プロジェクト」を発足させた。条例の周知を図るとともに、再生可能エネルギー普及の独自の工程表づくりに取り組んでいる。メンバーの北海道市民環境ネットワーク理事の宮本尚さん(52)は、「何かしたいのに、どうしていいか分からない人も多いはず。そんな市民の思いを形にして、条例に命を吹き込みたい」と話す。

 北海道新聞が昨年10月に実施した全道世論調査では、79%が原発の廃止を求め、今後の電力確保で再生可能エネルギーを重視する意見が6割を占めた。高橋はるみ知事はこうした声をくみ取り、原発に依存しない北海道を目指す姿勢を明確にして、再生可能エネルギーによる地域活性化を主導すべきだ。

 風力、地熱、太陽光、家畜のふん尿や間伐材を使ったバイオマスなど、北海道の潜在力は高い。道内各地の取り組みを束ね、運営の課題、送電網の強化にかかるコストなどを検証し、短期と中長期に分けた普及計画を練る必要がある。熱電併給などでエネルギー利用効率を高める工夫も欠かせない。

 北大大学院の吉田文和教授は、道、関係自治体、北電、専門家、市民団体などで構成されるエネルギー環境会議の設置を提案している。道はこうした意見を取り入れ、公開の議論を通じた合意形成を急がねばならない。道内の電力の4割は札幌市とその近郊で消費される。都市住民への省エネ意識の浸透が不可欠だ。脱原発を掲げ節電に取り組む札幌市は、道内の他の中核都市にも省エネを働きかけてもらいたい。

 再生可能エネルギーは、地域分散、地産地消が特徴だ。国の方針を待つことなく、地方からの積極的な提言が求められる。道は、東日本大震災後の新たなモデルを提示するぐらいの意気込みで、省エネと一体となったエネルギー計画を策定すべきだ。東北以外で無駄な電気、石油、ガスを節約すれば、その分を被災地に回せる。

 エネルギーを大切に使うのは環境にも家計にも優しい。自分にも他人にも得になる。そんなふうに考えられないか。オール電化住宅や24時間営業といった身の回りにあふれる便利さは、私たちが本当に求め、必要としたものだろうか。家庭で、職場で話し合うことから始めたい。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~引用おわり

「エネルギーチェンジ100」プロジェクト(http://www.enechan100.com/)、私も世話人の一人です。

 

3) 「ネットワーク農縁:http://www004.upp.so-net.ne.jp/net-nouen/」HPからエネルギーシフトに関してです。

http://suiden-trust.blogspot.com/2012/01/blog-post.html

 

 新しい取り組みが確かに始まっています!!!

2012年、企業の底力に期待!

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 この数年、市民活動を支える方々から、「企業って利益追求でしょっ!」とか、「経済界って儲けることばかり考えてる!」みたいな話をよく耳にしていましたが、私には実に不本意なのですよ。「それは間違いだ!!」と大きな声で言いたいですね、よく観察すると、素晴らしい企業があちこちに出現している昨今です。

 私は商売をする家に生まれ育ち、24時間・365日、自分たちの暮らしよりも会社とか仕事のことばかり考えている経営者しか知りませんでしたし、自分が経営の一翼を担うようになっても、ひと時もお得意先・社員のことが頭を離れたことがありませんでした。「儲け」は、設備投資原資とか、従業員給与とか、メインテナンスとか、自らのリスクで生き残るため、持続可能な企業活動を担保するために必要だと思っていました。そして更に、民間企業経営者が、納税はじめ社会のためとか、人々のために日々活動しているエピソード・経験談を、幼い頃から繰り返し繰り返し耳にしていたからだとも思います。

 たとえば、秋山愛生舘の「奉仕の精神」、「民の担う公共・志」、「社会への貢献」といった精神は、私は企業理念だと信じています。ワグナー・ナンドール財団(http://www3.ocn.ne.jp/~wagner/TOP.html)理事長で叔母の和久奈ちよは話していました、「関東大震災時、父母と従業員の献身的大活躍で倉庫の薬を殆ど全部東京に配送したこと、母は必死に薬品の木箱に縄をかけまくったこと。第二次世界大戦中も、母が社員とリュックを背負って立ちどうしの汽車で東京に薬の買い付けに行き、それを売るときに多少の運搬費をいただいた程度だった」と。戦後、叔母の知人の隣人が札幌出身の人で、戦時中家族が病気の際、 適正な価格で分けてもらって命拾いをしたと、涙ながらに知人の手を取って感謝を述べたとも聞きました。

 さらに叔母は、「自家製剤の『ネオ肝精』、『デルモライツ』の大成功も、北海道人の健康に役に立つと、父が即座に製造組織を構築し たこと、琴似の工場が火事になって軍部から来ていた材料の水飴が流れ出し、近所の人々が群がってスプーンですくっていたのを見た父が、そんなに物資が窮乏していたのかとびっくりして、『一地方商人がするビジネスでない』と、大手製造業に譲ったことなど、子供心に身内を誇らしく思ったことがいっぱいある」とも、鮮明な記憶として語ってくれます。 

 

 昨年末に、(株)スズケン(http://www.suzuken.co.jp/)の社内報が届き、そこには昨年の東日本大震災後に、懸命に医薬品を届けようと尽力する社員の多くの活動が語られていました。「生命関連商品を扱う社会的責任を痛感」、「『何としても薬を届けなければ』という社員のがんばりに驚かされる」、「震災を通して社員の成長を実感」、「みんなの力でセンター機能破たんを回避」、「物流で失った信頼は物流で取り戻す」、「日ごろから本物のお付き合いこそが信頼の礎」、「がんばりの源は『医療を支える一員』という意識」等、「今、伝えたいこと」の特集で、あらためて自らの社会的役割を、お得意先、社員の「絆」を通じて確認したようです。

 昨年5月のスズケン出身者の会「ケンユー会・愛生舘支部総会:http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=8734」の様子をこの欄に書きました。「~~~~~~~~~~来賓で名古屋からお越しいただいた(株)スズケンの伊藤副社長のお話によると、3月の東日本大震災では、お得意先の医療機関に必死で医薬品をお届けし続ける一方、スズケンの東北エリアの物流センター、支店等でもかなりの被害が有ったようです。支店屋上に数日間避難したり、犠牲になった方もいらっしゃったと報告もありました。全国で営業展開し、医薬品の流通を通じて日々社会への責任を果たそうとするモラルの高さに感動しながらも、被災とは無縁ではいられない難しさもあるのですね。先日のお話では、被災復旧への投資等も多額に上り、来年の年間配当は、これまでの一株62円から50円へと減配の予定とか。秋山財団運営には大きな打撃であり、来年度事業計画に織り込んで対応を考えなければなりません。~~~~~~~~~」

 自らのリスクテイクと顧客への責任を全うせんがための全社一丸の努力を、伊藤副社長の言葉、社内報から読み取り、私は強い感動を覚えました。まさに、民の志の高さ、モチベーションに支えられた個々の判断の迅速性と適格性と言えましょうか。先見性のある優れた企業は、当事者能力も高く、新しい時代の変化に対していち早く対応しています。環境系等の社会貢献を標榜するNGO・NPOも、いつ実行されるか分からない政策に期待するよりも、これらの優良企業とコラボレーションする方が決断スピードも速く、規模も大きく、結果を出すことができると考え始めています。

 

 一方、下記のように、昨年お会いしたスイスの投資家から見る企業と国家の当事者能力の違いに対して、厳しい評価があります。

~~~~~ギリシア問題から始まり、EUについてはかなり悲観的な展望だ。スイスはEUに加盟していないので、スイスの政治指導者に感謝する。それでも日本同様、現在スイスフラン高で、輸出企業の多いスイスもチャレンジだ。ただ、今のところは企業業績は悪くは無い。アメリカも確かに難しい局面だが、それでも一国であり、まだ大統領・政府の統制下で政策変更等、方向性を見い出せるが、EUはその下に各国の政府・議会・国民がいて、あまりに関わる利害関係者が多すぎて、スピードのある決断による転換が難しく危機的である。そんな理由で、「社債」はまだしも、「国債」はリスクが高すぎる。~~~~~~

 

 なぜこんな話を念頭に書き留めるか、それは原発事故における政治、監督官庁幹部、東京電力の経営幹部に対する憤りがあるからです。「民主主義」は本当に優れたシステムなのでしょうか?もちろん独裁が良いとは全然思いませんが、「選挙」とか「国会審議」とか、手段が目的化してやたら時間を浪費する愚、部分最適ばかりで無駄が多く、構想力も欠如している中央官庁の政策、地域独占の電力会社は民間企業としての当事者責任を問いただすと、「国の政策だから」と逃げ込み、ある時は「電力の安定供給の使命」みたいなことを持ち出して電力不足と顧客を恫喝し原発推進を言いだす、私は彼らの無責任さとそれれに無批判なメディアが許せません。

 志ある市民の自立した活動と、優れた先見性と顧客志向の企業とがコラボレイトすることが、今、課題解決の最も実現可能な道なのではないかと、確信を得るに至りました。今年一年、「エネルギーシフト」も「環境」も、「企業とのコラボ」をキーワードにして結果を出したいですね。

2012年、次代につなぐ

Posted by 秋山孝二
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 新年明けましておめでとうございます。

今年も北海道神宮への初詣

今年も北海道神宮への初詣

 毎年元旦は、「新しい気持」で迎えてきていますが、私にとっては、今年は、やはり昨年の3・11の衝撃はその後も止むことなく続き、忘れてはいけない年と思うと同時に、「2011年がやっと終わった」みたいな、散らかった仕事場の片づけをしながら区切りをつけようとする自分を感じました。今年を展望する前に、時間を区切りたいと思ったのは初めてですね。

 仕事・活動を続けていると、「仕込み時期」、「刈り取り時期」みたいな、ステージの起承転結があるような気がします、だから人生それ自体がストーリーを持つのかも知れません。その意味では私にとって昨年は、「刈り取り時期」でしたね。今年は、幾つかのこれまでやってきた活動で、「次代につなぐ時期」の予感がします。

 よく「人材育成」と言いますが、少しでも人を育てる経験をされた方は感じられると思います、この「人を育てる」というのは、実に難しく、託すこと・期待することの苦しみとでもいうのか、裏切りにもめげず、繰り返し飽きることなく自分の経験とメッセージを伝え続ける、そんな地道な活動の繰り返しです。「這えば立て、立てば歩めの親心」の如く、期待はどんどん膨らみ、それも先回りをします。自分が充実して前へ前へと進撃すればするほど、育てる対象の歩みの遅さにいら立ちを覚えて不機嫌になってくる、思えば私は教員時代も、経営者時代も、その情況との葛藤でした。結局、「育てる」などということなどおこがましいことであり、せめて自分の思い・体験を「伝える」、「つなげる」、「託す」と考えるべきなのでしょう、いずれ否応なく、次代が世界を担うのですから。

 4年前のこの欄に書きました(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=307)。先日、「人間の覚悟」に続いて、五木寛之著「下山の思想:幻冬舎新書」も出版されたようです。

 「林住期を生きる」、今再び肝に銘じつつ、今年も宜しくお願い致します!

秋山財団の「未来像・2011から」

Posted by 秋山孝二
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 「2011年」、決して忘れてはいけない年となりましたが、皆さまには大変お世話になりました、この場を借りて御礼申し上げます。

 公益財団法人 秋山記念生命科学振興財団(http://www.akiyama-foundation.org/)は、今年で設立25周年を迎えました(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=10144)。来年度以降の向こう25年を見据えて、「未来像・2011から」を策定して、新しい歩みを進めて参ります。

 その中から、以下抜粋し、皆さまの引き続きのご支援を期待したいと思います!

~~~~~~~~~~~~~~~~以下、抜粋です

<現状認識>

現在、避けることのできない大きな課題としてわれわれが直面するものに、地球規模の環境問題、経済・金融危機の頻発、安全・安心な地域社会の崩壊などがありますが、これらの課題は設立当時の財団を取り巻く社会に、既に萌芽的に現れていました。

しかしながら、グローバル化の急激で大規模な進展により、これら社会状況が、これまでになく急速に変化する新たな局面に入りつつあります。また、冷戦終結後の国際秩序の不安定化や、EUに見られる新たな地域統合もまた諸問題を抱えて流動的であり、アジアの一員として、われわれの生き方、考え方に変更を迫る要因となっています。さらに今年の「311東日本大震災」は、これまで創り上げた社会に、地震、津波、原子力発電所爆発事故の甚大な被害を及ぼし、現在の科学と社会との関わりに、重大な問題を提起しています。

課題解決の担い手に目を転じますと、これまで「官」が担ってきた公的サービスを、ボランティアやNPOなどが果たす役割が大きくなってきており、企業もCSR活動に一層力を注いだり、「新たな公共」の担い手が成長しています。このような「新たな公共」のうねりは、秋山財団の設立当時には見られなかった動きです。

時代の大きな変化は、われわれの社会のしくみや日々の生活を根本から変質させると同時に、また新たに創り出すチャンスでもあり得ます。当財団は、時代の変化のとば口に立っていると認識しています。

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~途中を省略

<向こう25年の方向性>

 以上のような認識を踏まえて、今後を展望したいと思います。

まず財政的には、今現在、基本財産の飛躍的拡充はこれまでのようには見込めません。経常的に外部からの寄付等、ソーシャルメディアを活用したファンドレイジングをきめ細かく行っていく必要性があります。インターネットのホームページをフルに活用して情報発信機能を高め、それを収入に結び付けて、財政的基盤の拡充を図っていきます。

 事業的には、次のような視座に留意します。

1)「生命科学」を人間のみならず、地域を対象とした科学として視野に入れる。地域を生命体として捉え、経済的な循環(エコノミー)、環境生態系(エコロジー)、さらに伝統文化の継承・発展等、地域科学分野を含めた活動支援。そして、成果の検証も行う

2)財団としてのアウトリーチ活動を行う、例えば、一般市民向けの「生命科学」講演、出前講座の開催、ライフサイエンス・カフェ等

3)硬直した国・自治体の政策・制度に代わり、社会的課題に速やかに、柔軟に解決していく活動

4)「人材育成」活動は、

a)次の時代を担う世代を、もっと早い時期から視野に入れるべき。活動助成については、対象として中学生・高校生・20歳前世代へのアプローチを、テーマ的には若年労働者の雇用促進につながることも検討する

b)「科学リテラシー」を高める「教育」への貢献

5)活動助成について、

a)「地域の創造的社会システムの構築」として、経済効果、環境負荷の軽減効果等、科学的な地域分析の手法を取り入れたアプローチの組み入れ

b)「北海道に根差した地域研究」として、独自の伝統・文化を北海道の発展に結びつける取り組み支援、例えば、アイヌ文化の振興と価値創出、地域主権下での北海道開拓・開発政策の進化等

 

 

<おわりに>

 

年報創刊号の巻頭言に、当財団の名付け親である伴義雄理事が書かれています。

「・・・・このように、自然科学を専攻する者にとって感動的な生命現象の解明へのステップも、他の分野、特に人文・社会科学系の方々には、生命の尊厳があたかも単なる原子・分子の集合体であるロボットのように扱われていると、拒否的に受け取られたとしても無理からぬことである。私自身、その成果を感銘深く知ったのであるが、そこに自己の生命観を持ち込んで理解するようなことは、いささかも考えなかった。しかし、その後、存在としての生体そのものの在り方が鮮明になることによって、かえって生命への認識を新たにしたように思う。私は、自然科学的生命観の樹立に、宗教や哲学が介入する余地が十分あるように思われてならない。

 確かにライフサイエンスの著しい進歩は、人間の福祉に大きく貢献する一方で、人間の存在と尊厳に深く関わるような問題が提起されていることも周知のことである。たとえば遺伝子操作、人工授精、臓器移植等は、社会倫理の立場から慎重な対応が求められている。私どもとしても、この点には十分配慮しつつ、21世紀へ向けての重要課題に取り組むべきであろう。・・・・」

 

「生命科学(ライフサイエンス)」をテーマに、北海道から発信する「民間・自立」という秋山財団の設立の初心を踏まえて、内外ともに節目の2011年に、もう一度原点に立ち返えり、次の四半世紀に向けた「覚悟」を明確にしたいとの思いです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~引用おわり

 

 

演劇創造の担い手たち

Posted by 秋山孝二
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 演劇を愛する人たちの「サロンの会・例会」が、劇団千年王國(http://sen-nen.org/index.htm)の稽古場でありました。今年の札幌劇場祭(TGR2011:http://www.s-artstage.com/2011/about/)で大賞・特別賞を受賞された劇団・脚本・演出の方々をゲストでお招きし、製作の苦労話ほか、公演にまつわるこぼれ話を聴くことができました(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=11060)。

・札幌劇場祭 大賞 劇団千年王國 「狼王ロボ」
・札幌劇場祭 特別賞 [演出賞] intro 「蒸発」
・札幌劇場祭 特別賞 [作品賞] 弘前劇場 「海辺の日々」

・札幌劇場祭 新人賞 劇団アトリエ 「もういちど」

・札幌劇場祭 オーディエンス賞  ※星5つ満点の観客アンケートによる賞
  リーディングヒッター賞(☆の平均) 劇団千年王國 「狼王ロボ」
  ホームラン王賞(獲得した☆の総数) 劇団千年王國 「狼王ロボ」

劇団千年王国の橋口幸絵さん(右)と民俗楽器奏者の福井岳郎さん(左)

劇団千年王國の脚本・演出・橋口幸絵さん(右)と民俗楽器奏者の福井岳郎さん(左)

introの脚本・イトウワカナさんほか

introの脚本・イトウワカナさん(右)、役者・菜摘あかねさん(左)

劇団弘前劇場

劇団弘前劇場の照明・中村昭一郎さん

新人賞:劇団アトリエの役者・小山佳祐さん(右)と役者・柴田知佳さん

劇団アトリエの役者・小山佳祐さん(右)と役者・柴田知佳さん(左)

 今年の作品を振り返り、舞台とは違った魅力も感じて楽しいひと時でした。役者の皆さんの表情が実に綺麗ですね、目が輝いているというか、普段仕事でお会いする方々が曇っているという訳ではないのですが、発散するエネルギーみたいなものをそばにいて感じます。特に、今年は製作に関わった全ての皆さんが、3・11をどう受け止めるか、その後どう表現活動を行うべきか等、災害と真正面に向き合おうとする姿勢が印象的でした。

 先日の会では、目の肥えた参加者の方々から次々と質問もあり、内容の濃いサロンの会でした。写真の背景の壁に貼られている年表とオオカミのスケッチは、「狼王ロボ」の稽古にあたって、オオカミの歴史等についての調査研究の跡でしょうね、観終わった後に稽古場を訪れると、また作品の完成までのプロセスも思い起こされて感動もひと際です。

 来年1月から2月に、「札幌演劇シーズン~100人の演劇人が活躍する街をめざして:http://s-e-season.com/about-project/」もいよいよ開催されますし、演劇創造の新しい担い手たちを応援する意味でも、出来るだけ多く劇場に足を運びたいものです。今年、演劇にかかわった全ての方々に感謝です、ありがとう!!!

ペリー&マッカーサー

Posted by 秋山孝二
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 寺島文庫(http://www.terashima-bunko.jp/about.html)の今年最後の会が、「みねるばの森:http://terashima-bunko.com/」で開催されました。

 寺島実郎さんから、「2人のアメリカ人」の残した記念すべき品物の紹介があり、寺島文庫の一角に、「ミニ博物館コーナー」としてそれらが展示されていました。

 一つは、1853年に浦賀にやってきたマシュー・ペリーが、後年執筆した「日本遠征記:http://www.nansei-m.co.jp/web/32perry/sample/kaisetsu.html」特別版の実サイン入り原本です。当日、寺島さんは、学長をつとめる多摩大学(http://www.tama.ac.jp/guide/index.html)の本拠地の「多摩学:http://www.tama.ac.jp/guide/tamagaku.html」の由来から説明されました。 ペリーが当時のフィルモア大統領の親書を携えてというのは事実ではなく、「国書」とは実質的には「紹介状」とか「添え書き」程度のものだったようです。

ペリーの自筆サイン(左中央部)入り旅行記

ペリーの自筆サイン(左中央部)入り遠征記

拡大すると

拡大すると

 一方、マッカーサー元帥の記念は、オレンジ色のパーカー万年筆限定レプリカ(サイン入り)です。1945年9月2日、ミズーリ号艦上で降伏文書に調印した時に使った万年筆で、この時、ペリーが浦賀来航時に旗艦「サスケハナ号」に掲げていた星条旗も持参してきたそうです。なぜ万年筆がオレンジ色か、それは彼の母親のものでした。バージニア州ノーフォークにある「マッカーサー記念館:http://www.macarthurmemorial.org/」、彼の生誕地はアーカンソー州リトルロックですが、米国海軍の本拠地であると同時に、母親の生まれ故郷ということが大きな理由のようです。

 寺島さんは、三井物産のワシントン駐在時代に、ニューヨークのアストリアホテル(http://www.waldorfnewyork.com/index.cfm)の一室に居を構えていたマッカーサー夫人にお会いしていたそうです、歴史のつながりというか接点というか、面白いですね。

ミズーリ号で署名するマッカーサー

ミズーリ号で署名するマッカーサー

使用したサイン入りパーカー万年筆のレプリカ

使用したサイン入りパーカー万年筆のレプリカ

 

 この二人のアメリカ人、そしてアメリカという国の共通項は、1)「抑圧的寛容」、すなわち、圧倒的有利な状況では「優しく」「思いやりに満ちあふれ」、不利な状況では「猜疑心、嫉妬心」が異常に強くなること、2)「分断統治」を志向すること、のようです。2011年、沖縄基地問題でも、3・11東日本大震災の支援でも、それを裏付けるような姿勢が思い浮かびます。

 寺島実郎さんは、秋山財団の今年25周年記念講演会(http://www.akiyama-foundation.org/zoutei/)でお話をして頂きました。年明け早々に、「ブックレット」として発刊する予定です。また、リレー塾(http://www.terashima-bunko.com/bunko-project/relay.html)、FM放送(http://www2.jfn.co.jp/owj/tera/index.php)他、多くの政策の審議会等でもご活躍です。今年は特にお世話になりました、心から感謝申し上げます。

「錯誤・失敗」の責任

Posted by 秋山孝二
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 昨日、私は書きました、・・・・・・・・・・軍事力ばかりでなく、原子力政策においてもこの海軍の変質の歴史から学ぶことが多いと思います。そしてその「学び」は、これからの日本創造で生きて初めて「価値」となるのですよね、と。この部分について、戸髙さんは具体的事例で言及していますので、それを引用します。

 

* 巡洋艦「インディアナポリス」は、1945年7月26日に米本土から運んできた原爆をテニアン島に降ろして任務を終え、グアム島を経由してフィリピンのレイテに向かった。出港前の情報では、付近に日本の潜水艦が行動している恐れがあったので、日中はジグザグ航行を行っていたが、日没後は直進で進んでいた。深夜、日本の伊五十八潜水艦の魚雷攻撃で、「インディアナポリス」は十数分であっけなく姿を消し、SOSの発信さえも間に合わなかった。

* 乗員約1,200名のうち約300名が沈没時に戦死し、その後8月7日の救助完了までの間に多くが遭難し、結局300名程度が救助されたにすぎなかった。日本国内では、この撃沈は日本海軍潜水艦のあげた最後の金星としてのみ有名である。しかし、米国では、「インディアナポリス」の遭難は、海軍最大の悲劇として戦後に大きな問題となった。一隻の巡洋艦が、ほとんど敵の存在しないと思われていた海面で撃沈され、数々の不運が重ねって多くの生命が失われた。この事件の責任はいったい誰にあるのか?

* この「インディアナポリス」の事件は、終戦直後のアメリカ海軍と国民の間に重大な関心を呼び起こし、そのニュースは争って読まれた。多くのアメリカ人がこの事件について海軍内部に責任者が存在し、処罰されなければならないと考え、生き残った艦長は軍法会議にかけられ有罪とされた。大戦中にアメリカ海軍が喪失した軍艦の艦長が軍法会議にかけられたケースは他にない。

* この異例の裁判が引き起こされた最大の理由は、「将兵が死ななくてもよい場所で無駄に命を落としたのではないか?」ということにあった。この問題意識こそ、日米海軍、いや、日米両国の国家と軍隊と兵士の関係における最大の相違点だったのである。

* アメリカ国民は、義務として兵役につき、戦争に参加している。同時にすべての兵士は国家に対して、生命の安全に関して最善の努力を払うことを要求する権利を持っている。もし一人の兵士が戦死すれば、その遺族はその兵士の死が「意義ある死」であったかどうか(すなわち、無意味な作戦や無能な指揮による死ではなかったか、また十分な生活と最善の兵器が与えられていたか)を知る権利を持っていた。それがアメリカという国家と国民の契約だったのである。

* 「インディアナポリス」の場合を例にとると、死亡した乗員の遺族が太平洋艦隊司令長官のニミッツ提督に対して、責任者の早急な追及を行うように要求する手紙を送っている。これに対してニミッツは、ていねいな返事を書いている。さらに事件調査についても、「われわれは、自分たちの間違いを隠そうとは考えていない」と言明している。これは何ら特別の例ではなく、このような手紙は戦時中に軍の指揮者や、大統領がたびたび受け取ったものだった。また、海軍の内部でも同じように契約があった。「義務を果たした者には名誉を、果たさなかった者には罰を」である。すべての失敗について責任者が厳しく失態や怠慢を追及され、それぞれ処分を受けたものである。

* 戦いの中で得られた教訓、戦訓には兵士の血の代償が支払われている。そして、その教訓の活用は、次の戦いにおける血の代償の量を左右する。もし真剣に戦訓を得ようとすれば、それは冷厳な責任の追及となるのはやむを得ない。法廷で戦友のミスを追及することはアメリカ人にとっても、もちろん愉快なことではない。しかし今後、同じ過誤が繰り返されないために必要不可欠なこととされたのだ。

* ひるがえって、日本海軍のケースはどうであったろうか?1942年6月のミッドウェー海戦に敗れた第一航空艦隊の参謀長草鹿龍之介は、山本五十六司令長官に対して、ほとんど個人の感情レベルの懇願を行っている。そして山本長官も敗北の責任など全く念頭になく、「承知した」と答えている。さらに海戦の敗因については後に、形ばかりの戦訓委員会が設置されたが、その結果は極秘とされて一切公開されなかった。利用されることのない戦訓などに、一体何の意義があるだろうか。

* 日本海軍の指揮官や高級幕僚が、戦闘の重要な局面で重大な錯誤や失敗をおかし、以後の戦局を極めて不利なものとしたケースはミッドウェー作戦にとどまらず、海軍甲事件・海軍乙事件・台湾沖航空戦・レイテ沖海戦での栗田艦隊の反転など、枚挙にいとまがない。にもかかわらず、それらのケースの責任者で直接処分されたものがいないということは、一体何を意味するのだろうか。

* 太平洋戦争における日本軍の反省を記した書籍や雑誌を見ると、個々の戦闘の戦術的巧拙についての評価、あるいは戦略的な総論に偏したもの、または日本人の国民性、というような茫漠としたものなどが多く、将兵の義務、責任、そして権利といったものについての考察は、ほとんどない。

* しかし、軍隊の本体が人間の集団である以上、将兵の一人の人間としての権利と義務に基づく立場の確立こそ、精強な軍隊の第一歩であると考えるべきであり、日本軍についてもこの観点からの研究がさらに必要と思われる。

~~~~~~~~~~~~~~~~引用おわり

 

 大変長い引用で申し訳ありません。ただ、この数年、日本の戦争と向き合っていて、私がずっと心に引っかかっていた「責任の取り方、取らせ方」について、まさに上記の指摘に120%賛同致します。戦後の東京裁判に代表されるABC級裁判を批判する前に、日本国自体の命の価値に対して自ら指導者・幹部の責任を裁く当事者能力の欠如を指摘すべきだと思います。

 今月2日、この欄に私は書きました(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=11026)・・・・・・

・・・・・・・・私に15分程度のご挨拶の時間があったので、この場にお招き頂いた御礼と、連載記事の概略、及び今の気持を話しました。当初は、全く個人的興味だった「ビハール号事件」、戦闘日誌等の記録を調査した際、重要部分が切り取られていたこと、香港のB級戦犯法廷での日本海軍幹部の不誠実な証言、父の役割、一人責任を負って絞首台に立った第十六戦隊司令官・左近允尚正中将、そのご子息・左近允尚敏さまとの意見交換等、溢れ出る言葉を抑制しながらではありましたが、お話したつもりです。戦犯裁判とは言え、このままでは現場に責任が全て押しつけられて、本来の作戦立案等、責任ある幹部が誰一人として処罰されないという実に理不尽な経過に私が憤りを感じたこと、歴史の中に確かに記録・記憶されてしかるべき事実であること、戦争は未体験ながら、今を生きる世代として明らかにしておく責務等です。・・・・・・・

 今、原子力発電所の事故ほか国策に対して、全国で巻き起こるデモ・集会等の直接行動は、まさに体験した日本国民の、今と将来に向けた基本的人権の獲得行動であると思います。

「海戦」からみた日本の戦争

Posted by 秋山孝二
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 今年は、私にとって「戦争」と向き合った記憶に残る年となりました(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=11094)。今月11日にも書きましたが、「日本海軍の変遷」から検証して、新しい気づきがありました。

 数年前から、歴史認識として「戦争責任」検証の旅で、アウシュヴィッツ等のヨーロッパ・中国東北部を訪問し、今年8月は北海道新聞に、旧海軍の私の父に絡む「ビハール号事件:5回連載」の記事も掲載されました。この間、旧海軍の多くの方々と出会い、貴重なお話、或いは著書を読むことが出来ました。その中から海軍に関係する二つを紹介致します。

 一つは、今年夏に知人の大沼芳徳さんから送って頂いた伊藤和雄著「まさにNCWであった日本海海戦:http://janafa.com/book-35/page-13.pdf」です、「NCW:Network Centric Warfare(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%AF%E4%B8%AD%E5%BF%83%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84)」は、簡単に言うと「ネットワーク中心の戦い」で、近年、米海軍大学校長のアーサー・セブロフスキー中将の講演ほか、アメリカ軍オリジナルの構想と理解されているようですが、実は、日露戦争の日本海海戦が「NCW」だったという視座の興味深い本でした。

 ペリーから送られた電信機に始まり、明治維新以降、海底電信ケーブル、軍用水底線、海軍望楼、三六式無線電信機等、新しく創設された日本海軍のインフラ整備・開発が、実は今日言う「NCW」そのものだったのです。日本海海戦の勝利の分析も、「情報優位」の下で、連合艦隊が主導的に戦ったからこそ、機力(ハードウエア)と術力(ソフトウエア)の僅かな差が大きな結果となってあらわれた、著者はそう断言しています。さらに、戦勝の要因として言われている、敵前大回頭(T字ターン)、砲の門数・口径、装甲の暑さ、下瀬火薬の優越度は、勝敗を左右した決定的要因ではなく、「情報優位」の傘の下に存在した数ある要因のひとつに過ぎない、とも。この勝因総括・分析の誤りが、実はそれから37年後の太平洋戦争での大敗北へとつながります、ある意味で歴史の必然として、です。

 幕末から明治にかけて、本来の「近代国家の建設」への熱き思いと、情報・通信ネットワークの重要性を本能的に理解した優れたリーダー達の見識を、私たちはしっかり史実として記憶しておかなければならないのでしょう、その後の時代を検証すればする程ですね。

 

 もう一つは、戸髙一成著「海戦からみた太平洋戦争」です。戸髙さんはご存知のように、「呉市海事歴史科学館館長(通称大和ミュージアム:http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=4585」で、同時に海軍史研究家でも著名な方です。私は全く同感する部分が多かったので、少し長くなりますが引用させて下さい。

* 太平洋戦争では、連合艦隊は早期の艦隊決戦を追求し続け、その作戦が破綻して戦力を使い果たした後は、いたずらに特攻作戦のみによって戦死者を増やすだけに終始した。あえて日本海軍の失敗や欠陥に目を向けることが、現在の日本人にとって有益と考えるのである。

* マリアナの攻防で艦隊を失った日本海軍は、ことの重大さに苦悩していた。もはや日米の戦力差は決定的なものであり、通常の攻撃では、日本側に勝ち目はなくなっていたのである。米軍のレーダーは安定した性能で日本機の接近を探知し、十分な余裕を持って邀撃(ようげき)戦闘機を差し向けている。また、幸運にも邀撃戦闘機群の網を逃れ、米艦隊に突入できた飛行機も、小型レーダーを内蔵し、飛行機に接近しただけで炸裂するVT信管を装備した高角砲弾の弾幕に包まれて撃墜されてしまう。

* 当時、日本海軍では、この米艦隊の対空砲火の命中率が異常に高いことに気づかず、単に対空機銃と高角砲が多い、つまり物量の差があるといった程度の認識しかなかった。この、「米軍イコール物量」という図式は、日本の軍人の頭の中に深く染み込んだ観念で、これはワシントン条約で日本の海軍が対米6割に抑えられた時からの長い歴史を持った観念であった。これらの物量に対抗するには、米艦隊を上回る戦力を集中して対抗すべきであったが、日本海軍にはすでにその力はなく、力を蓄積するだけの資源も時間もなかったのである。

* では、何もない日本海軍に残された道は何であったか。それは「天佑神助」を当てにすることと、「大和魂」を持ち出すことだけだったのである。合理的な作戦がすべて破綻した時、残っていた作戦が非合理であったことは、或いは自然なことだったのかもしれない。

* 1945年の戦艦大和の最期となった「沖縄特攻」のとき、出撃にあたって連合艦隊司令部から与えられた命令がある。この命令を起案したのが誰なのかはっきりしないが、命令文が示すものは、この特攻艦隊の出撃が、「海軍の伝統を発揚」するために命じられたものである、ということであった。付帯的に付けられた「皇国無窮の礎を確立」することとともに、そこには何ら遂行中の戦争に対する戦術展望もなければ、全てを失った後に対する考慮も読み取ることはできない。この作戦目標は「戦果」ではなく、「日本海軍の栄光」の伝統発揚のためだったのである。日本海軍にとっては、「海軍あって国家なし」と言われても仕方のない命令文である。海軍は、ただ「輝ける伝統」という幻を守るために多くの艦艇と人命を米軍の攻撃の前に差し出したのであろうか。

* いかに軍事技術が発達しようとも、戦争に至る原因の多くは、古来変わるものではなく、基本的には、国家間の政策・利害の衝突に過ぎない。これは、本質的には、外交交渉で解決されるべきものであり、戦争は、いわば交渉失敗の結果なのである。

* このような、外交的敗北によって始まった太平洋戦争は壊滅的な敗北で終り、日清戦争に始まった「日本の五十年戦争」も幕を閉じた。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~引用おわり

 「外交」と「戦争」と言えば、クラウゼヴィッツ(http://kotobank.jp/word/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%BC%E3%83%93%E3%83%83%E3%83%84)の「戦争論」を思い出します。日本海海戦を担った指導者たちと、太平洋戦争時の海軍指導部の質・見識の差とでも言うのでしょうか、この80年近くで変遷していった日本海軍から考察する歴史は、しかし、今も進行形であると思いますね、指導者の劣化、それを見過ごす国民の民度の低さとお任せ民主主義の跋扈です、教育の敗北と言っても良いかもしれません。

 今の日本は2008年統計で、「53隻の駆逐艦保有」、これは米軍第7艦隊の2倍であり、「護衛艦52隻、哨戒艦9隻、機雷艦31隻、潜水艦16隻など152隻、43.7万トン保有」、世界第2位の海軍です。それをコントロールする指導者は育っているのでしょうか。軍事力ばかりでなく、原子力政策においてもこの海軍の変質の歴史から学ぶことが多いと思います。そしてその「学び」は、これからの日本創造で生きて初めて「価値」となるのですよね。

環境4団体、北大と連携協定

Posted by 秋山孝二
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 先日、北海道大学大学院「環境科学院:http://www.ees.hokudai.ac.jp/」、道が出資する「北海道環境財団:http://www.heco-spc.or.jp/」、民間のNPO法人「北海道市民環境ネットワーク(きたネット):http://www.kitanet.org/」、札幌市の「市環境プラザ:http://www.kankyo.sl-plaza.jp/」、国の「環境省北海道環境パートナーシップオフィス(EPO北海道):http://www.epohok.jp/」との間で、「連携・協力に関する基本合意書調印式」が行われました。
 4年前から、環境4団体で、「環境中間支援会議・北海道(環境☆ナビ北海道):http://enavi-hokkaido.net/」というプラットホームを構築してきました(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=3137)。この設立は、実は簡単なように見えて全国的には極めて稀な試みであり、大変高く評価されています。
 環境をテーマに活動する方々にとって、行政の縦割り組織の窓口は使い勝手が悪く、それぞれの強みが十分生かされないままこれまで来ていましたが、各団体の皆さんの努力により、また、民間の中間支援NPOが介在することにより、「環境中間支援」機能として活動を始めました。そこに、今回のアカデミックセクター・北海道大学との連携・協力が付加されました。勿論、今後他の大学との連携にも期待したいですし、そうなれば北海道での環境活動に一層弾みがつくと思いますね。
 ところで、先日の調印式ですが、各団体の長が勢ぞろいで少々緊張感の漂う会場の雰囲気でした。5人のサインも滞りなく終了して、いよいよ写真撮影へと展開しようとしたその時、後ろの横断幕が何と「落下」したのです。一瞬会場の皆さんが驚いたのですが、北大のお二人の先生は落ち着いた様子でテープで貼り直し、私も真ん中に居たので靴を脱いで椅子の上でお手伝い、無事修復を終えると、「提携調印後、最初の協働作業でした!」と、どなたかの宣言です!、よく結婚式での「ウエディングケーキ入刀」で言うではないですか、まさにそのノリでしたから場内爆笑でした。
 北大・環境科学院の皆さまの心にくい「演出」でしたね(?!)
 それにしても、あの絶妙のタイミングで横断幕を敢えて落とす(?)サプライズを盛り込んだ手の込んだシナリオ、来年の「さっぽろ劇場祭:TGR」に是非参加して頂きたいですよね、恐れ入りました!

映画「無言館」、上映!

Posted by 秋山孝二
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 長編ドキュメンタリー映画「無言館:http://xin-ei.co.jp/other/seisaku.html」が上映され、たくさんのお客さんでした。私もよびかけ人の一人でしたが殆ど仕事は出来ませんでした、申し訳ありません。

 これまで、窪島誠一郎さんの講演はご紹介してきました(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E7%84%A1%E8%A8%80%E9%A4%A8)が、彼自身の話では表現しきれなかった訪問者の感想、座談等、あらたな「無言館:http://www.city.ueda.nagano.jp/hp/kanko/museum/mugonkan.html」の魅力を発見しました。来年春には、是非時間を作って訪れてみようと思います。以下、印象に残った言葉を。

* 「無言館」の「無言」は、多くの方は言葉を発しない「絵画」を展示してあるから、とおっしゃるのですが、館主の私(窪島さん)は、実は見学に来た方がその絵の前で言葉を失う、無言で誠実に向き合う、そんな意味と理解しています。

* 遺作を供出して頂きたいとお願いに行った時、なかなか同意をして貰えなかったお身内の方がその後お亡くなりになり、息子さんが全ての作品を無言館に寄付する意向を伝えてきました。「作者の思いをを伝える」、その重みを感じましたね。

* 年月でカビとか埃で多少傷んだ遺作を修復する専門家の方、完全に修復することが目的ではなく、窪島さんはキャンバスのキズとかはむしろそのままにして頂きたいとおっしゃるそうです、時間の経過を含めた「作品」の価値であり、メッセージなのでしょうね。

* 小学生の時に訪問して、数年後、中学生として再度訪問した子どもたちと窪島さんを囲んでの語らいで:窪島さんは若い子たちに、「絵の奥にいる作者は、限られた自分の人生を生きた人。ある時は明日・明後日がある自分の幸せを感じるが、ある時は限られた時間を精一杯生きた彼らをうらやましく思う時もあるから不思議です」、とおっしゃっていました。

* 終りで窪島さん、「この無言館のメッセージを、『反戦・平和』とおっしゃる方がいますが、実は自分はそう言ったカテゴリーで括られるのをあまり良しとしません。遺作が語りかけるのは、少々気取ったいい方になりますが、『愛』だと思うのです」と、少し照れた様子でお話されました。

 

 長野県上田市、周りを山に囲まれた田園地帯の丘の上に、数棟ひっそりとたたずむ美術館です。館内では、作品が放つメッセージ、余計な意味付与を排除したありのままの展示、遺志を受け止めようと訪れる見学者、すべてが真摯ですね。講演とは一味違った「無言館」の魅力でした、企画された國田裕子実行委員長さまはじめ、ここまでのご尽力に心から感謝申し上げます。

真珠湾が教えるもの

Posted by 秋山孝二
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 今年の12月は真珠湾攻撃から70年、11日は東日本大震災から9カ月の節目です。師走を迎えると、この一年を振り返りたくなりますね。

 私にとって「2011」という年は、「戦争」に向き合った一年として強く記憶に残ると同時に、大きく前へ踏み出しました。この数年のポーランド・中国北東部訪問で体験した戦争責任の検証(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%84)、「ビハール号事件」の調査(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E3%83%93%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%8F%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6)、そして今年8月の北海道新聞の5回に渡る終戦特集連載記事(201188-12e98193e696b0e38393e3838fe383bce383abe789b9e99b86efbc88e7b78fefbc89)等です。更に、3・11の大震災後の対応を目の当たりにして、国難に対する「責任の所在の不明確さ」も、戦争責任と酷似すると感じていました。

 8日朝日新聞朝刊「オピニオン」欄で、東京大学教授・加藤陽子(http://www4.ocn.ne.jp/~aninoji/)さんのインタビュー記事「真珠湾が教えるもの」が大きく掲載されて、中見出しには、「思惑ずれた日米、対立を解くには豊かな歴史観必要」とも。少々長くなりますが、引用します。

~~~~~~――最終的に開戦の決定を主導したのは誰だったのでしょう

「形としては大本営政府連絡会議と閣議決定によって開戦が決定されたので、軍と内閣双方の一致がありました。しかし、意志決定に至る状況判断において、軍と文官では情報に大きな非対称性があったと思います。東郷外相でさえ、開戦が12月8日で攻撃地点は真珠湾とマレー半島だ、と12月1日まで知らされていませんでした。陸海軍はグル―米国大使がワシントンへ送った電報をはじめ、あらゆる暗号を解読していましたが、軍に不利になる情報は統帥事項として内閣に上げなかった。この点、日清、日露といった過去の戦争が伊藤博文など元老の指導下になされたのとは対照的です」

――専門家が知識を独占していた点では、原発推進の過程と似ているような気がします

「どちらも専門家が無謬性の神話にとらわれ、外部の批判を許さない点で共通しています。軍部は、日露戦争の戦勝を神話化し、自国軍の能力を客観視する目や、欠陥を指摘する人々を排除していきました。原発も安全神話ゆえに、最悪の場合の想定を行わなかったのでしょう」

――戦争回避の失敗から、現在の日本は何を学ぶべきでしょうか

「日本は、背負ってきた近代そのもの、明治以来の歴史全体を否定されたと考えて対米戦争に踏み切りました。原理的な対立が起きた時、どこまで退却しうるか、大正デモクラシー期に戻るか等、具体的な歴史イメージを豊かに持っておくことが大切でした。そうしたイメージを持てない今の日本社会の状況が、昔のこの時代に似ていて心配です」

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~引用 おわり

 

 もう一つ、ちょうど読み終えた本、広島県呉市海時歴史科学館(大和ミュージアム:http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=4585)館長・戸高一成著「海戦からみた太平洋戦争」のまえがきに書かれていました、引用します。

~~~~~~~~~~~~~

・・・・・・、米英海軍、とくに英海軍の根本政策には、「海上交通線の維持」ということが「国土の防衛」ということと並んで、海軍の最大任務とされていることをみたからであった。しかるに、日本海軍は、何かしら海軍自体の純作戦的立場にばかりとらわれていると思われたからであった。・・・・・・・・連合艦隊第一主義と艦隊決戦主義への偏重は、太平洋戦争の展開において、きわめて大きな弊害をもたらした。連合艦隊は早期の艦隊決戦を追求し続け、その作戦が破綻して戦力を使い果たした後は、いたずらに特攻作戦のみによって戦死者を増やすだけに終始した。これは、不十分な想定のもとに原子力発電所の設置を行い、想定外の事象が発生した時の適切な対処を欠いたまま月日を消費している、2011年の状況を思わせるものがある。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~引用 おわり

 

 歴史の考察、失敗から学ぶ姿勢、敗戦までの道すじと3・11以降の原子力発電所爆発事故の経過を検証するお二人のご意見に、私は「我が意を得たり」でした。ここまでの責任者のありさま、情報隠ぺいの常態化、マスメディアの不甲斐なさ、いよいよ国民の怒りは頂点に達しつつあります、そして更に昨日の国会の閉会、何をかいわんや、ですね。議員定数の削減、国家公務員給与の削減等、法律を成立させる立法府の責任を何も果たしていないで2011越年はあり得ないでしょう!

 こんな体たらくの今の日本国、それでも私たちは「日本国民」として、「今」、そして「これから」を生きなければなりません。どう凌ぐか、どう新しい時代を創るのか、残っている時間はそれ程ないように思います。

「マルニ」復活、足利銀行

Posted by 秋山孝二
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 「足利銀行(http://www.ashikagabank.co.jp/)のスピリッツ」として、25年ぶりに「マルニ」バッジが復活しました。

 これと相呼応して、ワグナー・ナンドール記念財団(http://www3.ocn.ne.jp/~wagner/TOP.html)理事長・和久奈ちよさんが、この度、足利銀行に「故藤松正憲」ブロンズ像を寄付しました(http://www.shimotsuke.co.jp/town/region/central/mashiko/news/20111025/643499)。故藤松頭取が、財団の和久奈ちよ理事長の実父・二代目秋山康之進(私の祖父)と日本銀行札幌支店長時代から交友があり、ワグナー夫妻が益子町にアトリエを建設(昭和45年)、創作活動に際して親交がありました。ワグナー・ナンドールが、その際の感謝の気持を表現したく足利銀行に寄贈する目的でこのブロンズ像が製作されましたが、在任中は設置がかなわず、数十年を経て本店ロビーでのお披露目となりました。

足利家家系図と紋章

足利家家系図と紋章

左・渋沢栄一胸像と復活した「マルニ」ロゴ

左・渋沢栄一胸像と復活した「マルニ」ロゴ

「信為萬事本」の書と故藤松正憲頭取のブロンズ像

「信為萬事本」の書と故藤松正憲頭取のブロンズ像

 宇都宮市内にある本店ロビー、玄関を入ってすぐの場所に、控えめに展示されていました。渋沢栄一の孫(娘の子)である明石正三は、足利銀行の役員で、胸像は渋沢青淵記念財団龍門社(現在の公益財団法人渋沢栄一記念財団:http://www.shibusawa.or.jp/)から寄贈されたそうです。

 日本の銀行の創始者であり、「論語と算盤」でも有名、経済道徳合一主義の提唱者でもある渋沢栄一の「信為萬事本」の書は、「信を万事の本となす」と読み、山岡鉄舟が西郷隆盛とのやり取りの中で書したものとして知られています。原典は、1060年成立の中国史書「新唐書:http://kodaishi-21.web.infoseek.co.jp/p3-6.html」に由来して、「信とはお互いに信じ合うことであり、すべての物事の根本である」という意味です。

 日本の銀行はバブル期から今日まで、本来の信用創造としての間接金融の機能を忘れて、大変な危機を経てきたはずです。破たん、国有化等、いろいろな経緯はありましたが、現在そこからどれ程の教訓を学んだのか、私は「?」と思うばかりです。何が変わったのか、相変わらずの手数料商売のビジネスモデルでは、日本経済の復興、地域経済の活性化は見込めません。元に戻ることだけでは「進化」とは言えませんね、猛省を望みます!!

 ところで、宇都宮と言えば「餃子」です。地元の方に伺うと、「みんみん派」と「正嗣派」で人気を二分しているとのこと。これまで「みんみん:http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=2491」は何回か試していましたので、今回は探し歩いて初めて「正嗣」に、「焼き」と「水」を一つずつでした。

「正嗣(まさし)」宮島店

「正嗣(まさし)」宮島店

 小さなお店(カウンター席10人程度)で、大変安く美味しかったですね。これでやっていけるのかと思いましたが、店に居たわずか20分程度の間に、お客さんがそこで食べる餃子、持ち帰り冷凍餃子、出前の注文等で売れること売れること、100個以上の売り上げはあったのではないかと思われます。店の入口には、「この店には餃子しかありません」の張り紙がありました。

 驚くべき「餃子人気」です!