よみがえる江田島教育

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 井上正美さん(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=11026)の新著、「企業経営におけるMSの真実」は、戦前の最後のエリート教育・「海軍兵学校の教育」を基礎に、戦後の企業経営の現場で活躍された著者の貴重な記述です。伝統的に日本社会の根幹にあった哲学の再評価と受け止めることもできます。

 戦後の高度成長を担った時代のリーダーたちは、これらのエリート教育を受けた方々だったのであり、それに比べて現在の20年を越える日本経済の体たらくを直視すると、私はこの閉塞した期間の経営者たちの見識に大いなる疑問をいだき、近代の歴史観欠如ほか、「戦後教育の限界」みたいなものを感じる昨今です。

井上正美さんの第二冊目の新著

井上正美さんの第二冊目の新著、戦前・戦後をつなぐ日本の「技術論」

  「海軍兵学校」については、これまでいろいろ書き留めてきました(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E5%85%B5%E5%AD%A6%E6%A0%A1)。

 この著書では、見開き2ページで完結する記述になっていて、学生にとっても大変読みやすい配慮を感じます。また、各章の冒頭には、「起」、「承」、「転」がまとめられて、その「結」がメインでその後に記載されている構成です。そして井上正美さんのメッセージは、最後144ページの最後の6行にまとめられています。

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・・・。我が国の戦後史は「対米従属」と「自主路線」対立の70年であったが、筆者が拘わる「我が国のISO導入事象」は、小さくはあるがその縮図とみるのは大げさであろうか。畏友・大木浩は、巻頭言の推薦文の中で、「我々世代は国家の盛衰を重く視る傾向が強い」と述べている。企業が持つ自前の管理の仕組みが、国際規格からあらぬ影響を受けて信頼を失っては、企業百年の大計に支障をきたすのではないかと心配になる。マネジメントシステムも自主路線へ早急に復帰することを願いながら筆を擱く。

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 と、ここまで書いた所で、私は昨今の「憲法改訂」論議を思い出します。私は決して今の日本国憲法を変えて「自主憲法(?)制定」などという立場ではありません。全く逆の「憲法擁護」論を支持します。憲法論議においては、今の憲法を強引に変えようとする勢力こそ「対米従属」なのですから。終戦直後、今の日本国憲法を制定してからすぐに、アメリカは講和条約調印の1951年以来、一貫して憲法改悪の圧力をかけ続けてきたのが、まさに戦後の日本の歴史です。軍事力でも核問題でも、アメリカはその自国の財政への圧迫を避けるために日本に肩代わりさせる意図は明確で、その環境整備のための「憲法改悪」です。この件については、また別の日にしっかり書いてみたいと思います。

 要するに、戦争責任とは別に、今の日本社会には健全なエリート教育が必要な気がするのです。敗戦まで長い間機能していた日本社会のリーダー養成システムが解体し、戦後は装置として、日本的な伝統・文化・技術等の全否定からスタートしたのではありませんか。そして、本来のエリートたちを戦争で多く失い、戦後のリーダーたちはごく一部の優れた人々を除き劣化していた、高度成長期を支えたのはまさに井上さん達のような若手世代だったのではないでしょうか。

 昨今の企業の現状を見るにつけて、私は新自由主義的な「人的資源の軽視」を強く感じるとともに、今こそ大切なのは、この著書にある日本的マネジメントシステムの再評価であり、人を育てる資本主義なのだと思います。

ドナルド・キーン博士、熱く語る

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  ドナルド・キーン(http://www.asahi.com/national/update/0308/TKY201203080224.html)博士が、北海道日米協会(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=8777)特別講演会席の講師でお越し頂きました。前日の札幌大学での講演会では、申し込みが3倍以上となり、大盛況だったようです。

D.キーン博士をお迎えして北海道日米協会・特別例会

D.キーン博士をお迎えして北海道日米協会・特別例会

講演されるD.キーン博士(90歳)

講演されるD.キーン博士(90歳)

  

 18歳の時にニューヨークで『源氏物語』と出会い、19歳でアメリカ海軍入り、4年間勤務して日本軍捕虜等の通訳を務めました。以来70有余年の日本人・日本語とのつき合い、古典から現代におよぶ日本文学を研究し、世界に伝えたコロンビア大学名誉教授・文化勲章受章者です、東日本大震災後、今年3月8日に日本国籍を取得(帰化)しました。それは長い日本への感謝の気持ちから、大きな打撃に苦しむ東北・日本人とともに生きることを決意されたからとのことでした。

 先生は、昨年仙台での講演で、以下のように語りかけました。~~~~松尾芭蕉の「奥の細道:http://www.bashouan.com/psBashou.htm」ゆかりの東北の地を56年前に旅した際、桜の季節の中尊寺金色堂(http://www.chusonji.or.jp/index.html)で深く心を動かされました。暗い森の中に輝く金色堂、東北の長い冬の後に森に咲く桜、私はその二つを愛しています。東北のことを考える時、何よりも象徴的な姿です。今回、東北の人たちを勇気づけることができるのならと思い、この講演をお引き受けしました~~~~~

 先日の札幌でのお話でも、長年日本と寄り添ってきた視座から、今の日本の若者が海外へ飛び出す意欲に乏しい様子等へカツを入れて、衰えない説得力で熱弁を奮っていました。間近で拝見すると、想像以上に小柄な姿、活字での存在感が大きいと言った方が良いのかも知れません、すぐに札幌から洞爺湖に向かわれる日程とか。

 いずれにせよ、満90歳、これからも益々お元気でご活躍されることを祈念しています。

小樽港から日本海へ(2)

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 ロシア共和国最大の港、ウラジオストク(Vladivostok)は、1860年に開拓が始まり、貿易、太平洋艦隊の拠点として発展してきて、街の名前はロシア語の「Vladi(東に)+Vostok(攻めよ)」で、まさにロシアのこの都市の位置づけを表して、存在感を増しています(http://4travel.jp/overseas/area/europe/russia/vladivostok/)。どこか、広島県呉市の雰囲気ですね。

霧のウラジオストクに早朝に入港:海軍艦船と建築中のつり橋

霧のウラジオストクに早朝に入港:海軍艦船と建築中のつり橋

 事前のレクチャーでも伝わっていましたが、とにかくロシア入国管理官の無愛想・無表情は際立っています。私が1991年に初めてハバロフスク経由でイルクーツク、ノボシビルスクを訪問した時、3年後にモスクワ経由でサンクトペテルブルグ、ノボシビルスクへ行った時、いずれも全く同じような印象でした。あれから20数年、商品、広告等、大きく変化し豊かにはなっていますが、入国管理・警察官は相変わらずです。

港近くの広場で

港近くの英雄広場で

  旧共産圏の街なかにある像は、どうしてこうも皆同じなのでしょうか。武骨で角の多い彫像、人は斜め上方に視線を向けて、「芸術性」からは遥かに遠い気がします。これが、歴史的な「勝利者」のイメージなのでしょうかね。

潜水艦博物館から乗ってきた船を臨む

潜水艦博物館から乗ってきた船を臨む

 第二次世界大戦で勇敢に戦ったという「潜水艦記念館」から、乗ってきた「レジェンド・オブ・ザ・シーズ」を臨むと、巨大ビルディングです。

 その後、海抜193mの「鷹ノ巣展望台」からウラジオストクの湾を一望にと、意気込んで階段を上がっていきましたが、目の前に広がるのはウラジオストク特有の「濃い霧」、5月は晴天が多いようですが、6月はこの「霧」が名物だとか、最高の「視界なき展望」でした。

 夕方午後6時過ぎに出港し、夜、インターネットラウンジでニュースを検索すると、「野田総理の原発再稼働の記者会見:http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2012060902000148.html」、「サッカーW杯予選・ヨルダン戦で6対0で勝利http://www.hokkaido-np.co.jp/news/sports/378787.html」等、こんな時に、のんびりのブログ掲載お許しを。

 この日は、お日柄が良かったのか、幾つかの場所で新郎・新婦の姿を見ました。写真撮影、式、披露宴、これはどの国でも同じ光景です。小樽を発って船でほぼ24時間、大陸・ロシアがこんなにも近いことに何か新鮮な驚きを感じます。モスクワ、サンクトペテルブルクもロシア、ウラジオストクもロシアです。

 港を出ると、またまた濃い霧の中を釜山に向けて、北朝鮮の沖を南下航行です。

戸髙一成館長とのお話から

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 広島県呉市の「大和ミュージアム:http://www.yamato-museum.com/concept/」、正式名称は「呉市海事歴史科学館」です。

 2年前にも訪問(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=4585)しましたが、今回は、館長・戸髙一成(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=9991http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=11196)さんとお会いして意見交換、いくつかアドバイスを頂くのが主たる目的でした。

大和ミュージアムから造船工場を望む

大和ミュージアムから造船工場を望む

玄関前:実物大の大和主砲砲身

玄関前:戦艦「陸奥」実物大の主砲身とスクリュ―

錨と

錨ほか

 これまで、一連のビハール号事件:http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E3%83%93%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%8F%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6」で、自分なりに歴史を検証してきたつもりですが、どうしても「戦犯裁判」の記録で、壁にぶち当たっていました。今後、B・C級戦犯裁判の証言記録を、どう追いかけていくか、その辺について貴重なアドバイスをたくさん頂きました。

 戸髙一成さんは、3年前の8月に、NHKスペシャル「日本海軍 400時間の証言:http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=1907」3回シリーズでも、高く評価されました。この番組の原点になった「海軍反省会」のテープを保管していることでも知られています。「海戦からみた日露戦争」、「海戦からみた日清戦争」、「海戦からみた太平洋戦争」等、著書もたくさんあり、館長ノート(ブログ:http://www.yamato-museum.com/concept/note/index.html)も興味深いです。今回は、初対面でしたが、テレビ・著書で私はあらかじめよく承知していたためか、或いは戸髙さんのお人柄なのか、初めてという気が全くしない、実に自然なやり取りでした。

 以下、お話から幾つか~~~~~~ 

* 戦争の反省: 敗因は、中枢にいた軍人たちが一番よく分かっている。「海軍反省会」等では、率直な意見が多く出されていたが、聞いた話が本になると、率直な発言が修正されるので、録音テープでの保管とした。なぜ戦争が起きたか、なぜ回避できなかったについて、現場の様子を伝えておかなければならないという認識で、この会は、1980(昭和55)年から1991(平成3)年まで131回開かれた。

* なぜか、海軍中枢に居た方々の会合に数多くお誘いを頂き、「反省会」の録音テープの発表に関しては、生前に発表されると本音が言えなくなる危惧もあり、20年を経て公にし、当初の参加者との約束を守った。

* 「反省会」は記憶の確認、責任の追及等、率直な発言が多かったが、自分たちは最善を尽くしたという言い訳的な発言も背景にはあった。

* 民間の商船撃沈、病院船攻撃、海に浮かぶ軍人・民間人の銃撃等は、戦争中にはどの海軍でも日常的に起きていた記録がある。「ビハール号事件」の場合は、救出して捕虜にした事態が、難しさを造り出したのだろう。戦争とは理不尽で、不条理。

* 「特攻」で逝った人を「英雄」と持ち上げるのは、これを命令した人たちの責任を回避するものであり、特攻の陰の部分だ。

* 海軍は国防の組織、国防は国民を守るための組織のはず、それを「特攻」という国民を殺す作戦を立案し実行し、本来の機能を失った。

* 日本の国は、国家と国民との間の「権利」、「義務」のバランスが甚だ悪かった。「徴兵」の義務を課する大前提として、国家はその国民のいのちを限りなく守る責任を負わなければならないはず。それが、戦後の「戦争責任」の議論にも強く影響してくる。

* 組織と責任の取り方については、今の原子力発電所事故のその後の過程でも全く同様に、あいまいな構図を見て取れる。体制的に責任の所在が不明確。軍令部は天皇の参謀として大枠の命令は出すが、現地での戦略は現場の連合艦隊が行う。従って失敗しても責任が不明確になる。軍令部は現場が悪いと思い、現場の連合艦隊は方針そのものが悪かったと思う。だから失敗を次の戦略に活かすことができなかった。

* 戦後の反省会でも、「組織が悪かった」とは思っていても、その任を担っていた「個人の責任」とは最後まで考えていない所に、「責任を取る」、「責任を取らせる」発想が生まれてこないし、これは日本社会の特徴なのではないか、現代でも同様である。

* 日露戦争の日本海軍の完全勝利により、「無敵艦隊」との認識が続き、海軍には「負ける」という言葉がなかった。本来は、戦争遂行能力が無くなった時期に、戦いの終結を検討すべきが、誰もその勇気が無かった。最後まで「帝国海軍の面子」のためにだけ戦い続ける愚、「日本国の将来」と言った理念は見い出せない。

* 軍は、本来は戦争をしないために存在する、抑止力としてあるにもかかわらず戦争を始めた。現実問題として、軍人・司令官の立場で、「戦争開始に反対」、「戦争を終結させる」ことの不可能なことをあらためて感じる。

~~~~~~~~~~~~~~~~以上、お話から

 

 インターネットで、「太平洋戦争」を検索をすると、実にたくさんのサイトが紹介されます。その中には、極端な戦争讃美、お決まりの懐古趣味、反戦一辺倒、個人を罵倒するような乱暴なブログ等、様々です。でも、今を生きる現役の私たちがしなければならないことは、これまでの多くの犠牲を無駄にしない「学び」から、二度と戦争を始めない国を創る議論を続け、実現することなのではないでしょうか、右翼も左翼もありません、人間としての基本として、です。そして、国際社会の中で生きている現在、それは一国では成し遂げることは不可能です、まさに「外交」の出番です。

 たくさんの海軍中枢の方々とお会いして、実際の生の声を聴いてこられた戸髙一成さんは、ほぼ戦後の同時代を生きてきた私の2年歳上です。今回お会いして、「戦争を語り継ぐ」ということ、「戦後生まれの世代の戦争との向き合い方」について、大きなヒントを得ました。先日、終り頃で、「何を知っているということより、史実をもとに自分の頭で考え続けることが大事だと思います」とおっしゃった言葉が、全てなのかもしれませんね。戸髙一成さま、お忙しい中おつき合い頂き、ありがとうございました。

 近いうちに、また検証を始めます、東京で、そして、ロンドンで、ですね!

江田島へ三たび、「旧海軍兵学校」

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 旧海軍兵学校は、現在は「海上自衛隊第一術科学校:http://www.mod.go.jp/msdf/onemss/」になっています。

 長崎での第一次海軍伝習(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=3148)を受けて、日本海軍創設の機運が高まり、まず築地にその人材育成の拠点が設立されました。1888(明治21)年、東京築地にあった海軍兵学校が広島県江田島に移転し、この江田島の地において教育が開始されました。当初生徒は、表桟橋に係留された学習船「東京丸」で起居していましたが、1893(明治26)年に赤レンガの生徒館が完成しました。以後、海軍兵学校は逐次拡充整備され、1945(昭和20)年12月1日に閉校されるまで、57年間にわたり、海軍士官養成の場としての歴史と伝統を築き上げました。

 終戦後は、11年間にわたり、米軍及び英連邦軍等が進駐して施設を使用しましたが、1956(昭和31)年1月、海上自衛隊がこれらを引き継ぎ、横須賀から術科学校が移転、1957(昭和32)年5月には「海上自衛隊幹部候補生学校」が独立開校し、翌年4月には、「海上自衛隊第1術科学校」が発足しました。

旧海軍兵学校校舎

旧海軍兵学校・生徒館

教育参考館

教育参考館

 インターネットで検索すると、たくさんの方が動画・写真等で紹介していますので、画像はそちらに譲ります。私はこれまで、父に絡んで何回か兵学校について書きました。今回の訪問で3回目、これまでと違う立場での見学に、新たな気づきもあり、三たび、身の引き締まる思いでした。

http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=1907

http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=3177

http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=5921

 

 今回はその後、レンタル自転車を借りて、江田島湾の向こう側の「軍艦利根資料館:http://homepage3.nifty.com/ki43/heiki9/tone/tone.html」にも足をのばしました、途中には、同じく攻撃を受けた「大淀」犠牲者の碑もありました。先日は、海岸沿いの強い寒風と峠の山坂でかなりきつい行程でしたが、昨年12月の兵学校76期の方々の「大淀」、「利根」のお話を伺い(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=11026)、今回訪問できてよかったです。

少し離れた「軍艦利根資料館」

少し離れた「軍艦利根資料館」

 重巡「利根」は、1944(昭和19)年10月のレイテ沖作戦の後に日本へ帰艦、その後呉に回航され、1945(昭和20)年2月に海軍兵学校練習艦となりました。1945(昭和20)年3月19日の米空母艦載機による空襲により小破、その後、この能美へ移動したものの、7月24日および28日の空襲により大破し、着底しました。この攻撃により、128名の乗員と17名の島民が亡くなったそうです。その頃、「利根」通信長だった私の父・野田宏は、兵学校の分隊監事として江田島に居り、広島への原爆投下を、この江田島で体験しました。

 6年前に父が亡くなった後、書棚を整理していましたら、当時使っていた教科書が数冊見つかりました。

左は「英語書簡文」(昭和16年8月)、右は「航海術五の巻:気象学」(昭和8年2月)の教科書

左は「英語書簡文」(昭和16年8月)、右は「航海術巻の五:気象学」(昭和8年2月)の教科書

 

 日本は、人材育成にかける情熱を持ちながら、日清・日露戦争を経て、戦略なき戦争遂行の陰で、国を担う尊い人材を多く失いました。

ペリー&マッカーサー

Posted by 秋山孝二
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 寺島文庫(http://www.terashima-bunko.jp/about.html)の今年最後の会が、「みねるばの森:http://terashima-bunko.com/」で開催されました。

 寺島実郎さんから、「2人のアメリカ人」の残した記念すべき品物の紹介があり、寺島文庫の一角に、「ミニ博物館コーナー」としてそれらが展示されていました。

 一つは、1853年に浦賀にやってきたマシュー・ペリーが、後年執筆した「日本遠征記:http://www.nansei-m.co.jp/web/32perry/sample/kaisetsu.html」特別版の実サイン入り原本です。当日、寺島さんは、学長をつとめる多摩大学(http://www.tama.ac.jp/guide/index.html)の本拠地の「多摩学:http://www.tama.ac.jp/guide/tamagaku.html」の由来から説明されました。 ペリーが当時のフィルモア大統領の親書を携えてというのは事実ではなく、「国書」とは実質的には「紹介状」とか「添え書き」程度のものだったようです。

ペリーの自筆サイン(左中央部)入り旅行記

ペリーの自筆サイン(左中央部)入り遠征記

拡大すると

拡大すると

 一方、マッカーサー元帥の記念は、オレンジ色のパーカー万年筆限定レプリカ(サイン入り)です。1945年9月2日、ミズーリ号艦上で降伏文書に調印した時に使った万年筆で、この時、ペリーが浦賀来航時に旗艦「サスケハナ号」に掲げていた星条旗も持参してきたそうです。なぜ万年筆がオレンジ色か、それは彼の母親のものでした。バージニア州ノーフォークにある「マッカーサー記念館:http://www.macarthurmemorial.org/」、彼の生誕地はアーカンソー州リトルロックですが、米国海軍の本拠地であると同時に、母親の生まれ故郷ということが大きな理由のようです。

 寺島さんは、三井物産のワシントン駐在時代に、ニューヨークのアストリアホテル(http://www.waldorfnewyork.com/index.cfm)の一室に居を構えていたマッカーサー夫人にお会いしていたそうです、歴史のつながりというか接点というか、面白いですね。

ミズーリ号で署名するマッカーサー

ミズーリ号で署名するマッカーサー

使用したサイン入りパーカー万年筆のレプリカ

使用したサイン入りパーカー万年筆のレプリカ

 

 この二人のアメリカ人、そしてアメリカという国の共通項は、1)「抑圧的寛容」、すなわち、圧倒的有利な状況では「優しく」「思いやりに満ちあふれ」、不利な状況では「猜疑心、嫉妬心」が異常に強くなること、2)「分断統治」を志向すること、のようです。2011年、沖縄基地問題でも、3・11東日本大震災の支援でも、それを裏付けるような姿勢が思い浮かびます。

 寺島実郎さんは、秋山財団の今年25周年記念講演会(http://www.akiyama-foundation.org/zoutei/)でお話をして頂きました。年明け早々に、「ブックレット」として発刊する予定です。また、リレー塾(http://www.terashima-bunko.com/bunko-project/relay.html)、FM放送(http://www2.jfn.co.jp/owj/tera/index.php)他、多くの政策の審議会等でもご活躍です。今年は特にお世話になりました、心から感謝申し上げます。

「錯誤・失敗」の責任

Posted by 秋山孝二
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 昨日、私は書きました、・・・・・・・・・・軍事力ばかりでなく、原子力政策においてもこの海軍の変質の歴史から学ぶことが多いと思います。そしてその「学び」は、これからの日本創造で生きて初めて「価値」となるのですよね、と。この部分について、戸髙さんは具体的事例で言及していますので、それを引用します。

 

* 巡洋艦「インディアナポリス」は、1945年7月26日に米本土から運んできた原爆をテニアン島に降ろして任務を終え、グアム島を経由してフィリピンのレイテに向かった。出港前の情報では、付近に日本の潜水艦が行動している恐れがあったので、日中はジグザグ航行を行っていたが、日没後は直進で進んでいた。深夜、日本の伊五十八潜水艦の魚雷攻撃で、「インディアナポリス」は十数分であっけなく姿を消し、SOSの発信さえも間に合わなかった。

* 乗員約1,200名のうち約300名が沈没時に戦死し、その後8月7日の救助完了までの間に多くが遭難し、結局300名程度が救助されたにすぎなかった。日本国内では、この撃沈は日本海軍潜水艦のあげた最後の金星としてのみ有名である。しかし、米国では、「インディアナポリス」の遭難は、海軍最大の悲劇として戦後に大きな問題となった。一隻の巡洋艦が、ほとんど敵の存在しないと思われていた海面で撃沈され、数々の不運が重ねって多くの生命が失われた。この事件の責任はいったい誰にあるのか?

* この「インディアナポリス」の事件は、終戦直後のアメリカ海軍と国民の間に重大な関心を呼び起こし、そのニュースは争って読まれた。多くのアメリカ人がこの事件について海軍内部に責任者が存在し、処罰されなければならないと考え、生き残った艦長は軍法会議にかけられ有罪とされた。大戦中にアメリカ海軍が喪失した軍艦の艦長が軍法会議にかけられたケースは他にない。

* この異例の裁判が引き起こされた最大の理由は、「将兵が死ななくてもよい場所で無駄に命を落としたのではないか?」ということにあった。この問題意識こそ、日米海軍、いや、日米両国の国家と軍隊と兵士の関係における最大の相違点だったのである。

* アメリカ国民は、義務として兵役につき、戦争に参加している。同時にすべての兵士は国家に対して、生命の安全に関して最善の努力を払うことを要求する権利を持っている。もし一人の兵士が戦死すれば、その遺族はその兵士の死が「意義ある死」であったかどうか(すなわち、無意味な作戦や無能な指揮による死ではなかったか、また十分な生活と最善の兵器が与えられていたか)を知る権利を持っていた。それがアメリカという国家と国民の契約だったのである。

* 「インディアナポリス」の場合を例にとると、死亡した乗員の遺族が太平洋艦隊司令長官のニミッツ提督に対して、責任者の早急な追及を行うように要求する手紙を送っている。これに対してニミッツは、ていねいな返事を書いている。さらに事件調査についても、「われわれは、自分たちの間違いを隠そうとは考えていない」と言明している。これは何ら特別の例ではなく、このような手紙は戦時中に軍の指揮者や、大統領がたびたび受け取ったものだった。また、海軍の内部でも同じように契約があった。「義務を果たした者には名誉を、果たさなかった者には罰を」である。すべての失敗について責任者が厳しく失態や怠慢を追及され、それぞれ処分を受けたものである。

* 戦いの中で得られた教訓、戦訓には兵士の血の代償が支払われている。そして、その教訓の活用は、次の戦いにおける血の代償の量を左右する。もし真剣に戦訓を得ようとすれば、それは冷厳な責任の追及となるのはやむを得ない。法廷で戦友のミスを追及することはアメリカ人にとっても、もちろん愉快なことではない。しかし今後、同じ過誤が繰り返されないために必要不可欠なこととされたのだ。

* ひるがえって、日本海軍のケースはどうであったろうか?1942年6月のミッドウェー海戦に敗れた第一航空艦隊の参謀長草鹿龍之介は、山本五十六司令長官に対して、ほとんど個人の感情レベルの懇願を行っている。そして山本長官も敗北の責任など全く念頭になく、「承知した」と答えている。さらに海戦の敗因については後に、形ばかりの戦訓委員会が設置されたが、その結果は極秘とされて一切公開されなかった。利用されることのない戦訓などに、一体何の意義があるだろうか。

* 日本海軍の指揮官や高級幕僚が、戦闘の重要な局面で重大な錯誤や失敗をおかし、以後の戦局を極めて不利なものとしたケースはミッドウェー作戦にとどまらず、海軍甲事件・海軍乙事件・台湾沖航空戦・レイテ沖海戦での栗田艦隊の反転など、枚挙にいとまがない。にもかかわらず、それらのケースの責任者で直接処分されたものがいないということは、一体何を意味するのだろうか。

* 太平洋戦争における日本軍の反省を記した書籍や雑誌を見ると、個々の戦闘の戦術的巧拙についての評価、あるいは戦略的な総論に偏したもの、または日本人の国民性、というような茫漠としたものなどが多く、将兵の義務、責任、そして権利といったものについての考察は、ほとんどない。

* しかし、軍隊の本体が人間の集団である以上、将兵の一人の人間としての権利と義務に基づく立場の確立こそ、精強な軍隊の第一歩であると考えるべきであり、日本軍についてもこの観点からの研究がさらに必要と思われる。

~~~~~~~~~~~~~~~~引用おわり

 

 大変長い引用で申し訳ありません。ただ、この数年、日本の戦争と向き合っていて、私がずっと心に引っかかっていた「責任の取り方、取らせ方」について、まさに上記の指摘に120%賛同致します。戦後の東京裁判に代表されるABC級裁判を批判する前に、日本国自体の命の価値に対して自ら指導者・幹部の責任を裁く当事者能力の欠如を指摘すべきだと思います。

 今月2日、この欄に私は書きました(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=11026)・・・・・・

・・・・・・・・私に15分程度のご挨拶の時間があったので、この場にお招き頂いた御礼と、連載記事の概略、及び今の気持を話しました。当初は、全く個人的興味だった「ビハール号事件」、戦闘日誌等の記録を調査した際、重要部分が切り取られていたこと、香港のB級戦犯法廷での日本海軍幹部の不誠実な証言、父の役割、一人責任を負って絞首台に立った第十六戦隊司令官・左近允尚正中将、そのご子息・左近允尚敏さまとの意見交換等、溢れ出る言葉を抑制しながらではありましたが、お話したつもりです。戦犯裁判とは言え、このままでは現場に責任が全て押しつけられて、本来の作戦立案等、責任ある幹部が誰一人として処罰されないという実に理不尽な経過に私が憤りを感じたこと、歴史の中に確かに記録・記憶されてしかるべき事実であること、戦争は未体験ながら、今を生きる世代として明らかにしておく責務等です。・・・・・・・

 今、原子力発電所の事故ほか国策に対して、全国で巻き起こるデモ・集会等の直接行動は、まさに体験した日本国民の、今と将来に向けた基本的人権の獲得行動であると思います。

「海戦」からみた日本の戦争

Posted by 秋山孝二
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 今年は、私にとって「戦争」と向き合った記憶に残る年となりました(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=11094)。今月11日にも書きましたが、「日本海軍の変遷」から検証して、新しい気づきがありました。

 数年前から、歴史認識として「戦争責任」検証の旅で、アウシュヴィッツ等のヨーロッパ・中国東北部を訪問し、今年8月は北海道新聞に、旧海軍の私の父に絡む「ビハール号事件:5回連載」の記事も掲載されました。この間、旧海軍の多くの方々と出会い、貴重なお話、或いは著書を読むことが出来ました。その中から海軍に関係する二つを紹介致します。

 一つは、今年夏に知人の大沼芳徳さんから送って頂いた伊藤和雄著「まさにNCWであった日本海海戦:http://janafa.com/book-35/page-13.pdf」です、「NCW:Network Centric Warfare(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%AF%E4%B8%AD%E5%BF%83%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84)」は、簡単に言うと「ネットワーク中心の戦い」で、近年、米海軍大学校長のアーサー・セブロフスキー中将の講演ほか、アメリカ軍オリジナルの構想と理解されているようですが、実は、日露戦争の日本海海戦が「NCW」だったという視座の興味深い本でした。

 ペリーから送られた電信機に始まり、明治維新以降、海底電信ケーブル、軍用水底線、海軍望楼、三六式無線電信機等、新しく創設された日本海軍のインフラ整備・開発が、実は今日言う「NCW」そのものだったのです。日本海海戦の勝利の分析も、「情報優位」の下で、連合艦隊が主導的に戦ったからこそ、機力(ハードウエア)と術力(ソフトウエア)の僅かな差が大きな結果となってあらわれた、著者はそう断言しています。さらに、戦勝の要因として言われている、敵前大回頭(T字ターン)、砲の門数・口径、装甲の暑さ、下瀬火薬の優越度は、勝敗を左右した決定的要因ではなく、「情報優位」の傘の下に存在した数ある要因のひとつに過ぎない、とも。この勝因総括・分析の誤りが、実はそれから37年後の太平洋戦争での大敗北へとつながります、ある意味で歴史の必然として、です。

 幕末から明治にかけて、本来の「近代国家の建設」への熱き思いと、情報・通信ネットワークの重要性を本能的に理解した優れたリーダー達の見識を、私たちはしっかり史実として記憶しておかなければならないのでしょう、その後の時代を検証すればする程ですね。

 

 もう一つは、戸髙一成著「海戦からみた太平洋戦争」です。戸髙さんはご存知のように、「呉市海事歴史科学館館長(通称大和ミュージアム:http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=4585」で、同時に海軍史研究家でも著名な方です。私は全く同感する部分が多かったので、少し長くなりますが引用させて下さい。

* 太平洋戦争では、連合艦隊は早期の艦隊決戦を追求し続け、その作戦が破綻して戦力を使い果たした後は、いたずらに特攻作戦のみによって戦死者を増やすだけに終始した。あえて日本海軍の失敗や欠陥に目を向けることが、現在の日本人にとって有益と考えるのである。

* マリアナの攻防で艦隊を失った日本海軍は、ことの重大さに苦悩していた。もはや日米の戦力差は決定的なものであり、通常の攻撃では、日本側に勝ち目はなくなっていたのである。米軍のレーダーは安定した性能で日本機の接近を探知し、十分な余裕を持って邀撃(ようげき)戦闘機を差し向けている。また、幸運にも邀撃戦闘機群の網を逃れ、米艦隊に突入できた飛行機も、小型レーダーを内蔵し、飛行機に接近しただけで炸裂するVT信管を装備した高角砲弾の弾幕に包まれて撃墜されてしまう。

* 当時、日本海軍では、この米艦隊の対空砲火の命中率が異常に高いことに気づかず、単に対空機銃と高角砲が多い、つまり物量の差があるといった程度の認識しかなかった。この、「米軍イコール物量」という図式は、日本の軍人の頭の中に深く染み込んだ観念で、これはワシントン条約で日本の海軍が対米6割に抑えられた時からの長い歴史を持った観念であった。これらの物量に対抗するには、米艦隊を上回る戦力を集中して対抗すべきであったが、日本海軍にはすでにその力はなく、力を蓄積するだけの資源も時間もなかったのである。

* では、何もない日本海軍に残された道は何であったか。それは「天佑神助」を当てにすることと、「大和魂」を持ち出すことだけだったのである。合理的な作戦がすべて破綻した時、残っていた作戦が非合理であったことは、或いは自然なことだったのかもしれない。

* 1945年の戦艦大和の最期となった「沖縄特攻」のとき、出撃にあたって連合艦隊司令部から与えられた命令がある。この命令を起案したのが誰なのかはっきりしないが、命令文が示すものは、この特攻艦隊の出撃が、「海軍の伝統を発揚」するために命じられたものである、ということであった。付帯的に付けられた「皇国無窮の礎を確立」することとともに、そこには何ら遂行中の戦争に対する戦術展望もなければ、全てを失った後に対する考慮も読み取ることはできない。この作戦目標は「戦果」ではなく、「日本海軍の栄光」の伝統発揚のためだったのである。日本海軍にとっては、「海軍あって国家なし」と言われても仕方のない命令文である。海軍は、ただ「輝ける伝統」という幻を守るために多くの艦艇と人命を米軍の攻撃の前に差し出したのであろうか。

* いかに軍事技術が発達しようとも、戦争に至る原因の多くは、古来変わるものではなく、基本的には、国家間の政策・利害の衝突に過ぎない。これは、本質的には、外交交渉で解決されるべきものであり、戦争は、いわば交渉失敗の結果なのである。

* このような、外交的敗北によって始まった太平洋戦争は壊滅的な敗北で終り、日清戦争に始まった「日本の五十年戦争」も幕を閉じた。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~引用おわり

 「外交」と「戦争」と言えば、クラウゼヴィッツ(http://kotobank.jp/word/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%BC%E3%83%93%E3%83%83%E3%83%84)の「戦争論」を思い出します。日本海海戦を担った指導者たちと、太平洋戦争時の海軍指導部の質・見識の差とでも言うのでしょうか、この80年近くで変遷していった日本海軍から考察する歴史は、しかし、今も進行形であると思いますね、指導者の劣化、それを見過ごす国民の民度の低さとお任せ民主主義の跋扈です、教育の敗北と言っても良いかもしれません。

 今の日本は2008年統計で、「53隻の駆逐艦保有」、これは米軍第7艦隊の2倍であり、「護衛艦52隻、哨戒艦9隻、機雷艦31隻、潜水艦16隻など152隻、43.7万トン保有」、世界第2位の海軍です。それをコントロールする指導者は育っているのでしょうか。軍事力ばかりでなく、原子力政策においてもこの海軍の変質の歴史から学ぶことが多いと思います。そしてその「学び」は、これからの日本創造で生きて初めて「価値」となるのですよね。

真珠湾が教えるもの

Posted by 秋山孝二
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 今年の12月は真珠湾攻撃から70年、11日は東日本大震災から9カ月の節目です。師走を迎えると、この一年を振り返りたくなりますね。

 私にとって「2011」という年は、「戦争」に向き合った一年として強く記憶に残ると同時に、大きく前へ踏み出しました。この数年のポーランド・中国北東部訪問で体験した戦争責任の検証(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%84)、「ビハール号事件」の調査(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E3%83%93%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%8F%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6)、そして今年8月の北海道新聞の5回に渡る終戦特集連載記事(201188-12e98193e696b0e38393e3838fe383bce383abe789b9e99b86efbc88e7b78fefbc89)等です。更に、3・11の大震災後の対応を目の当たりにして、国難に対する「責任の所在の不明確さ」も、戦争責任と酷似すると感じていました。

 8日朝日新聞朝刊「オピニオン」欄で、東京大学教授・加藤陽子(http://www4.ocn.ne.jp/~aninoji/)さんのインタビュー記事「真珠湾が教えるもの」が大きく掲載されて、中見出しには、「思惑ずれた日米、対立を解くには豊かな歴史観必要」とも。少々長くなりますが、引用します。

~~~~~~――最終的に開戦の決定を主導したのは誰だったのでしょう

「形としては大本営政府連絡会議と閣議決定によって開戦が決定されたので、軍と内閣双方の一致がありました。しかし、意志決定に至る状況判断において、軍と文官では情報に大きな非対称性があったと思います。東郷外相でさえ、開戦が12月8日で攻撃地点は真珠湾とマレー半島だ、と12月1日まで知らされていませんでした。陸海軍はグル―米国大使がワシントンへ送った電報をはじめ、あらゆる暗号を解読していましたが、軍に不利になる情報は統帥事項として内閣に上げなかった。この点、日清、日露といった過去の戦争が伊藤博文など元老の指導下になされたのとは対照的です」

――専門家が知識を独占していた点では、原発推進の過程と似ているような気がします

「どちらも専門家が無謬性の神話にとらわれ、外部の批判を許さない点で共通しています。軍部は、日露戦争の戦勝を神話化し、自国軍の能力を客観視する目や、欠陥を指摘する人々を排除していきました。原発も安全神話ゆえに、最悪の場合の想定を行わなかったのでしょう」

――戦争回避の失敗から、現在の日本は何を学ぶべきでしょうか

「日本は、背負ってきた近代そのもの、明治以来の歴史全体を否定されたと考えて対米戦争に踏み切りました。原理的な対立が起きた時、どこまで退却しうるか、大正デモクラシー期に戻るか等、具体的な歴史イメージを豊かに持っておくことが大切でした。そうしたイメージを持てない今の日本社会の状況が、昔のこの時代に似ていて心配です」

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~引用 おわり

 

 もう一つ、ちょうど読み終えた本、広島県呉市海時歴史科学館(大和ミュージアム:http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=4585)館長・戸高一成著「海戦からみた太平洋戦争」のまえがきに書かれていました、引用します。

~~~~~~~~~~~~~

・・・・・・、米英海軍、とくに英海軍の根本政策には、「海上交通線の維持」ということが「国土の防衛」ということと並んで、海軍の最大任務とされていることをみたからであった。しかるに、日本海軍は、何かしら海軍自体の純作戦的立場にばかりとらわれていると思われたからであった。・・・・・・・・連合艦隊第一主義と艦隊決戦主義への偏重は、太平洋戦争の展開において、きわめて大きな弊害をもたらした。連合艦隊は早期の艦隊決戦を追求し続け、その作戦が破綻して戦力を使い果たした後は、いたずらに特攻作戦のみによって戦死者を増やすだけに終始した。これは、不十分な想定のもとに原子力発電所の設置を行い、想定外の事象が発生した時の適切な対処を欠いたまま月日を消費している、2011年の状況を思わせるものがある。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~引用 おわり

 

 歴史の考察、失敗から学ぶ姿勢、敗戦までの道すじと3・11以降の原子力発電所爆発事故の経過を検証するお二人のご意見に、私は「我が意を得たり」でした。ここまでの責任者のありさま、情報隠ぺいの常態化、マスメディアの不甲斐なさ、いよいよ国民の怒りは頂点に達しつつあります、そして更に昨日の国会の閉会、何をかいわんや、ですね。議員定数の削減、国家公務員給与の削減等、法律を成立させる立法府の責任を何も果たしていないで2011越年はあり得ないでしょう!

 こんな体たらくの今の日本国、それでも私たちは「日本国民」として、「今」、そして「これから」を生きなければなりません。どう凌ぐか、どう新しい時代を創るのか、残っている時間はそれ程ないように思います。

海軍兵学校76期の皆さまと

Posted by 秋山孝二
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 海軍兵学校76期(http://homepage2.nifty.com/navy76/)の「第23回ブリッジ会」が都内で開催され、初めて出席しました。当日は寒風にもかかわらず、50名程の方々がお集まりになり、皆さま83歳の実に凛々しいお姿で懇談されていました。ある意味で、日本最後のエリート教育を受け、戦後、各界で日本の復興・高度成長期をリーダーとして担ってこられた方々のお姿を目の当たりにした場でした。

「ブリッジ会」:海軍兵学校76期の皆さま(83歳)50名

「ブリッジ会」:海軍兵学校76期の皆さま(83歳)50名

  なぜ、この会に私が参加することになったのか、それはこの「秋山孝二の部屋」と大いに関係があります。2年ほど前でしょうか、このブログを重巡「利根」の検索から偶然お読みになった横浜在住の井上正美さんからご連絡があり、東京で何回もお会いしました。井上さんは、私の父・秋山(旧姓野田)宏が海軍兵学校分隊監事だった時の生徒(76期)だった方です。

 今年8月に、終戦企画として、北海道新聞に5回連載となった「ビハール号:http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E3%83%93%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%8F%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6」記事をこの会で紹介して頂き、先日の私の出席となりました。

 私に15分程度のご挨拶の時間があったので、この場にお招き頂いた御礼と、連載記事の概略、及び今の気持を話しました。当初は、全く個人的興味だった「ビハール号事件」、戦闘日誌等の記録を調査した際、重要部分が切り取られていたこと、香港のB級戦犯法廷での日本海軍幹部の不誠実な証言、父の役割、一人責任を負って絞首台に立った第十六戦隊司令官・左近允尚正中将、そのご子息・左近允尚敏さまとの意見交換等、溢れ出る言葉を抑制しながらではありましたが、お話したつもりです。戦犯裁判とは言え、このままでは現場に責任が全て押しつけられて、本来の作戦立案等、責任ある幹部が誰一人として処罰されないという実に理不尽な経過に私が憤りを感じたこと、歴史の中に確かに記録・記憶されてしかるべき事実であること、戦争は未体験ながら、今を生きる世代として明らかにしておく責務等です。

 その後、懇談の場で、多くの貴重なお話を聴くことが出来ました、幾つかを書き留めます。

* 7月24・25日、比島沖海戦の残存艦が呉周辺に回避していたので、江田島は米軍艦載機の空襲があり、江田島内に仮泊の「利根」、「大淀」も急降下爆撃を受けた。7月28日早朝より、艦載機・B29爆撃機が攻撃してきたが、この際の米軍パイロットの白いマフラーも忘れられない。応戦したが、「利根」は着底、「大淀」は爆発したようで急激に横転した。これらの戦闘で300名が戦死し、兵学校から目と鼻の先でのことであり、戦局の急迫を実感した。<後で私が調べたところ、これを以て米軍の攻撃は一段落し、豊田軍令部総長は、「連合艦隊の水上部隊全滅」と奏上したそうです>

* 現在は、「戦略」「戦術」という言葉で語られるが、これは英米から入ってきた概念。旧日本海軍では、伝統的に「戦策」「戦則」という言葉だった。「戦略」の「略」は、自分のものにする、「術」は手練手管的ネガティブな意味が付きまとうのに比べて、「策」「則」は如何にもルールに則って事を進める姿勢がにじみ出ている。

* 兵学校の生徒時代、教官は10期上くらいの先輩で歴戦の勇士にも関わらず、自慢話は全くなく、戦闘の話は殆ど聞くことはなかった。機密事項とは言え、語りたいとは思わない心情も強かったのではないか。

* 兄が零戦パイロットで終戦直前に戦死し、戦後十数年は戦争・兵学校の話は口には出さなかったが、時の経過とともに集まりにも参加するようになり、気持の整理が出来てきた。

 

まだまだたくさんあるのですが・・・・。とにかく、今年8月に左近允尚敏さんとお会いした時と同じく、50名の皆さまの話を聴く時の姿勢は、並はずれた集中力と緊張を感じ、私自身、身の引き締まる思いでした。次回は来年3月開催予定です。

ビハール号事件(4)

Posted by 秋山孝二
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 昨日の東京は、昼前に猛烈な豪雨と雷、東京駅丸の内地下街への入り口の階段は、まるで滝のように水が勢いよく流れ落ちていました。そして、今日の午前中の札幌、突然空が暗くなり、同じように雷鳴とどしゃ降りの雨です、今はもうすっかりあがって日差しも出ています。気温も空の様子も、急に、秋の気配です。

 「鎮魂」という言葉が、今年のお盆は特に重たいですね、3月の震災の影響か、先日の北海道新聞5回連載記事の余韻かは判りませんが・・・・。この1週間、たくさんの方々とメールのやり取り他、ご意見・ご感想をお寄せ頂き、いつもとはひと味もふた味も違った終戦記念日前後でした、幾つかご紹介致します。

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<私の叔母から>

記事を繰り返し重い心で読みました。表現できないことが多いですが私だけの感想を簡単にのべてみます。

* ハンガリーとの違い:ハンガリーは戦時中、自国をロシアに蹂躙され、それに応戦するドイツにも国をことごとく破壊されました。したがって国民は国を守る為に戦ったので、敗れても、ひどい目にあったがベストを尽くしたと思っています。ナンドールも故郷が戦場で戦いました。
* 最近テレビドラマで時々戦中、戦後の物語が放映されますが、私(80歳)共の世代から見ると 悲惨な、苦しいことばかり強調されて、クラスメート皆で「楽しいこと、美しいこともいっぱいあったのにねー」と、何か別の世界が映されている感じです。人間として偉い、尊敬する軍人も民間人も多かったです。宏お義兄さんの白い制服に短剣を帯びて、もの静かに歩く姿も神々しい感じでした。今そんな大人が何人いるでしょうか。この頃、民主主義に疑問を持つことが多いです。独裁者は嫌ですが、選挙のシステムなど根本的に考える必要があるように思います。

<永年の友人宛のメールから>

うちのオヤジも満州に行った陸軍二等兵ですが、通信部隊だったそうですが、やはり詳しいことは口をつぐんでいましたが、戦友とは最後まで仲が良かったのと、国(政府)というか権威というものを全く信じなかったことがとても印象に残っています。私の喉に刺さるが如くの小骨だらけの反骨精神もこのへんのオヤジの影響かも知れません。

ビハール号事件は明治の軍隊ではあり得ない事件だと思います。組織も人間も簡単に劣化していくことを無残でかつみじめな形で表した事件だと思いますが、劣化は当然他人事でも昔の話でもありませんので、まさに教訓の宝庫なのでしょう。

事件の主役となった重巡「利根」は、砲弾が散らばらないように艦首部に主砲4基を集中した珍しい艦ですが、被告の黛治夫艦長は、砲撃の理論家でも有名でもあったのでこの記事を読んで驚きました。そんなことがあったのか、です。

海軍はその性格上技術屋の集団(艦という機械と電気で出来た動く設備・装置に乗っかった軍隊)ですので、観念的なことは嫌ったはずですが、理論・理屈でははったりには対抗できず、あちこちに青年将校という名の無責任なはったり屋がはこびりだしてこういうことになっていったのだと思います。本来の責任は戦隊以下の現場(現地部隊)ではなく、艦隊司令部とか連合艦隊司令部などの上級司令部でしょうね。記事では軍令部とありますが、キーマンは艦隊司令長官でしょう、南西方面艦隊の高須中将ですね。

陸軍では有名なビルマの山岳地帯を舞台にしたインパール作戦があります。この作戦は軍事理論無視の無茶苦茶で有名ですが、この話も知れば知るほど怒りがこみ上げてきます。担当した軍司令部とその上の方面軍や南方総軍司令部の現地部隊への無理難題が、多くの将兵を死に追いやった他、作戦を担当した4師団の師団長が命令違反で全員解任されるという、陸軍史上始まって以来の事態を引き起こしました。

こういう陸海軍共通した話は、現代の企業戦士の自殺や過労死に通じる話ではないか、と思っています。その意味ではその昔あった話ではないのですね。われわれには被害、加害を問わず、これらの事件と同じ体質を持っているということだと思います。

<私から知人Aへ>

記事の余韻はまだ続きます。昨日は財団事務所に市内の方から電話を頂き、お父様の介護の時に、秋山愛生舘の関係する方にお世話になり、そのお礼を言いたかったと。また、数日前にはやはりお電話で、お父様が「利根」の乗組員だったそうで、ビハール号事件の時に乗っていたかどうかを確認出来ないかというお問い合わせでした。東京・目黒の防衛研究所・図書館閲覧室をご紹介しました。

<私から知人Bへ>

先日、実は戦史に詳しい方とお話をしました。彼の言では、イギリスの戦犯裁判とアメリカの戦犯裁判とでは、随分その処分が違っていると。アメリカの場合は、「怨念」がかなり強く、捕虜3人の殺害事件に対して、戦犯7人の絞首刑とかもかなりあったそうです。ビハール号事件では、65名の捕虜殺害に対して、幹部とは言え1名の絞首刑、1名の実刑7年判決というのは異例の「軽さ」であり、これは英国の日本海軍への敬いとか歴史の尊重とかと考えることが出来るのでは、という見解でした。手を下した人々が一人も裁かれていないというのも、犠牲になったお二人の「武士道精神」を英国が根底では受けとめたのでは、と。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~引用おわり

 一昨日でしたか、NHK・BSプレミアム(http://www.nhk.or.jp/shogen/)で「シベリア抑留」についての番組がありました。内容は、「戦後、57万を超える日本人が強制労働を強いられた『シベリア抑留』。過酷な収容所の日々、そして戦後日本での苦難。激動の歳月を、人々はどのように生き抜いたのか?」です。

 番組HPには、「過酷な労働を強いられ、少なくとも5万5000人以上が命を落としたとされる『シベリア抑留』。苛(か)烈な生存状況を激化させた日本軍組織の矛盾。スターリン体制のもとで行われた旧ソ連の徹底した思想教育。新たな苦難を余儀なくされた冷戦下の戦後日本。60年を超える激動の日々を、人々はどのように生き抜いたのか? 今も、深いかっとうを抱え続ける元抑留者たち。肉声で語るシベリア抑留の記録。」とありました。日本軍の中での葛藤、帰国後の苦難等、見応えがありました。

 それぞれの戦争体験、それぞれの想い、いずれも実に重たい話です、特にこの2011年は。鎮魂の8月は続きます。

ビハール号事件(2)

Posted by 秋山孝二
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 昨年10月9日にこの欄で、「ビハール号事件:Behar case」について書いて以来(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=5921)、しばらくの間沈黙の日々が続いていましたが、2011年8月8日から、終戦特集の一つとして、北海道新聞・第一社会面に5日続けて詳細載っています。「父が見た海~戦後66年 ビハール号事件を追う~」です。海軍兵学校66期卒の父、戦後66年を経て、60歳の還暦を迎えた私が、3・11以降、覚悟を決めました。

 初日以来、想像を上回る反応に、ただただ驚いています。会う人会う人、秋山財団事務所の近くを通る方も、職員に向かって、「ここの財団の理事長でしょ」とか、声を掛けて頂いているようです。約1ヶ月半の取材、北海道新聞の二人の記者の方々には、本当に寄り添っての取材活動、的確な質問、取材相手への敬意、何とも感謝の言葉も無い程の感動です。扱っている話題はとても重たいものにも関わらず、「今・ここ」で世に問いかけなければというジャーナリスト魂を感じました。同時に、「メディアの力」を目の当たりにした数日間です。

 一昨年来、私はメディアに対して、場当たり的な垂れ流し報道ではなく、時間軸のしっかりした調査・検証報道の必要性を指摘していたつもりです。昨年仰せつかった1年間の北海道新聞・新聞評でも、一貫してそれに言及しました(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E6%96%B0%E8%81%9E%E8%A9%95)。今回、まさにそれを実践する機会を与えて頂いた、そんな気がここまでの中でしています。キーマンお二人と直接面談でき、長時間のお話を伺いましたし、保阪正康さんとの意見交換では、トータルの戦争における「軍隊」の行動パターン、1000人以上の戦場体験者との面談に裏付けられた心理等、短期間で一気に情報の質も量も深化致しました。とても私一人では出来なかったことばかりです。このテーマに向き合う記者・報道部次長の誠意あふれる姿勢に、心から感謝申し上げます。

 明後日の最終回を終えて、再度この欄で書き留めたいと思います。今月から、この「秋山孝二の部屋」へのご意見を受け付けることにしました、ブログ開始3年弱を経て、初めて解禁致しました。スパムほかイレギュラーなメール以外は、基本的に掲載したいと思っています。一覧の画面から、「該当日のタイトル」をクリックするとコメントの受・送信画面が出て、ご覧頂けます。

陸別で、関 寛斎の足跡(1)

Posted by 秋山孝二
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 片桐一男先生のお供で、道東の陸別町(http://www.town.rikubetsu.hokkaido.jp/)を訪問し、関寛斎の足跡を辿りました(http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/23692625.html)。陸別町は「全国最低気温」の地として、天気予報等でもよく名前が出て来ます。今回、松本順と長崎海軍伝習・医学伝習(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E5%8C%BB%E5%AD%A6%E4%BC%9D%E7%BF%92)の延長上で、関寛斎の更なる功績を実感すべく足をのばし、予想通り、関寛斎の「北の大地」で果てしない夢の実現に向けた奮闘を体感しました。地元の斎藤省三さん、向井啓さん、大鳥居仁さんには、お休みの所ご案内頂き、心から感謝申し上げます。

関寛斎・埋葬の丘から陸別町方面を望む

郊外にある関寛斎・埋葬の丘から陸別町方面を望む

丘の頂上に置かれた墓碑

丘の頂上に置かれた墓碑

青龍山・史跡ユクエピラチャシ跡に建つ関寛翁碑

青龍山・史跡ユクエピラチャシ跡に建つ関寛翁碑

 上総国山辺郡中村(現在の千葉県東金市)に生まれ、儒者・関俊輔の養子となり、佐倉順天堂(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=4429)で医学を学びました。その後、長崎の第二次海軍伝習(医学伝習)に参画し、松本順と出会います。1年数カ月の勉学の後、奥羽、山梨、徳島と各地で地域医療の基礎を築き、明治35年に72歳で北海道・十勝国斗満(トマム)に入植して、自作農育成に力を注ぎました。開拓方針を、二宮尊親の二宮農場に求め、徳富蘆花との手紙のやり取り等多彩な活動でしたが、82歳の秋に、自らの命を絶った波乱万丈の人生でした。

大盛況!「夏季古文書講座」

Posted by 秋山孝二
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 公益財団法人 秋山記念生命科学振興財団(http://www.akiyama-foundation.org/)の25周年記念事業の一つ、「夏季古文書講座」が今週月曜日から5回開催されて、今晩で最終回を迎えます。連日熱心な受講者と相まって大盛況です。講師の片桐一男先生は、蘭学史・洋学史・日蘭文化交渉史の第一人者で、幕末・維新ほか、オランダ(阿蘭陀)との関係からみる日本のこの500年の歴史は興味深いです、以下、チラシからの転載です。

~~~~~~ 講師   青山学院大学名誉教授  片桐  一男 先生(洋学史研究会会長)

 

「『くずし字』の古文書(こもんじょ)が読めたらいいのになぁ」と思ったことはありませんか。取り上げます古文書教材は、「水書板」に「ふで」を使って『くずし字』の古文書の全文を書き写し、そのうえで、読解文を全文書き示しますので、初心者の老若男女、みんな楽しんで読めるようになります。

鎖国から開国への急激なショックで始まった長崎の海軍伝習と医学伝習は、日本の近代国家建設にどのように役立ったのか。

勝海舟と松本順の狙いと行動を示す古文書の読解を通じて、歴史の現場が鮮明に浮かび上がります。未公開古文書の読解を楽しんでください。

 

◎ プログラム(どの回からでも受講できます)

   

       

7月25日(月)

勝海舟の狙い ― 「愚存申上候書付」 ―

7月26日(火)

長崎の海軍伝習 ― 時間表・オランダ通詞・咸臨丸 ―

7月27日(水)

勝海舟の「蚊鳴餘言」 ― 世界のなかのトクガワ・ニッポン ―

7月28日(木)

長崎の医学伝習 ― ポンペ・松本順・養生所 ―

7月29日(金)

「愛生館」事業 ― 松本順と髙松保郎 ―

夜間講座にたくさんの受講者

夜間講座にたくさんの受講者

テキストとして:「咸臨丸」、「松本良順」

テキストとして:「咸臨丸」、「松本良順」

 これまで私にとっては少々敷居が高かった「古文書」ですが、片桐先生の分かりやすい解説により、「解読する楽しさ」を体験しています。日記というものから、本人の心証だけではなく、時代の様子、伝習の雰囲気等を読み解き、想像していくわくわく感とでも言うのでしょうか、新しい発見でした。個別の古文書を重ね合わせる、誤字を発見する、省略の記号を解釈する、そのプロセスの面白さは、かなりの根気も必要ですが、扉を一つづつ開けて新しい世界を知っていくような、素晴らしいひと時でした。

 鎖国から開国への急激な時代の変化の中で始まった長崎の「海軍伝習:http://www.mirai.ne.jp/~jkj8/nagasaki.htm」と第二次海軍伝習としての「医学伝習:http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=5595」は、日本の近代国家建設にどのように役に立ったのか、その一端を理解できたような気がします。

北海道日米協会の総会で

Posted by 秋山孝二
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 北海道日米協会(http://www.plaza-sapporo.or.jp/citizen/meikan/060.html)の年次総会が、パフォーマンス・午餐とともに開催されました。私は以前から会員ではありましたが、この10年くらいはほぼ休眠状態でした。昨年から伊藤義郎会長体制の下、理事に就任して、これからは少し時間を割いて尽力しようと思っています。

伊藤義郎会長のご挨拶

前方に揃う役員・来賓:伊藤義郎会長のご挨拶

  総会に引き続いて、北海道インターナショナルスクール(http://www.his.ac.jp/)の生徒たちによる歌と踊りで、「サバナ・サバ」ほか、元気溢れるパフォーマンスでした、スワヒリ語で「少しずつ」を意味するそうです。6月4日には西区ちえりあホールで、「グリオーアフリカの語りべー」が予定されています、今、アフリカは熱いようですね!

インターナショナルスクールの生徒たちによるライブ

インターナショナルスクールの生徒たちによるライブ

 

 少し前に、「来月札幌で下記の講演会を予定しています」と、ご案内をしました。日米協会の会員でありながら、「さらば日米同盟」というタイトルの講演会を主催するには、少し説明がいるのかも知れませんね、何か矛盾すると思われる方もいらっしゃるでしょうが、日米関係は極めて重要であるがゆえのこのテーマでの開催です。沖縄はじめ駐留する米軍基地に象徴されるように、従来の安保条約下の軍事的な片肺同盟ではなく、本来の幅広い「日米同盟関係」を目指し、構築し直して進む選択が重要だと思います。

~~~~~グリーン九条の会 第4回講演会̶ 経済の視点から平和を考える~~~~~~~~̶
天木 直人 氏 「さらば 日米同盟~平和国家日本を目指す最強の自主防衛政策~」

と き:2011年6月25日(土)
開場13:30 開演14:00
ところ:りんゆうホール 札幌市東区北9条東2丁目りんゆう観光3F
TEL:011-742-4233
会 費:1,000円
主 催:グリーン九条の会
協 賛:(株)りんゆう観光

連絡先 グリーン九条の会
〒003-0831 札幌市白石区北郷1条7丁目5-8 白鳥方   green9zyonokai@gmail.com
お問い合わせ、参加申し込みは、郵送か、メールでお願いします

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 最近の日米関係と言えば、大震災後の米軍海兵隊・海軍「トモダチ作戦:http://www.youtube.com/watch?v=zYErfIN4ELY&feature=relatedhttp://www.youtube.com/watch?v=Vj6gg5vMEHk&feature=related」でしょうか。放射能汚染の中、いち早い無人偵察・撮影機の映像に基づく救出作戦行動は、日本の自衛隊とともに光る活躍でした。ただ、だからと言って沖縄の米軍基地の必然性につなげるのはあまりに軽率・ナイーブだと感じますが。実は、1923(大正12)年9月1日の関東大震災(http://www.ads-network.co.jp/zatugaku/saigai-07.htm)でも、当時としては信じられないような米軍による災害支援があったそうです。当時は安保条約に基づく日米同盟など存在していなかった時代にもかかわらず、ですね。

 プロパガンダに流されることなく、冷静に現状を捉えて、間違いない日本の歩むべき道を選択しなければなりません、今の政治情況そしてここしばらくは、内閣・国会ともに、それらを構成する連中の能力からいって、この重要な決断を委ねることは出来ません。自分たちの船は我々で漕いで行くしかないではありませんか、オールを放してはいけない時期なのだと私は思います、今、岐路に立っているのですから。昨年の映画「INVICTUShttp://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=3298」、中島みゆきの「宙船(そらふね)http://www.youtube.com/watch?v=vGVTiCg8DNI」ですよ。

~~~~その船を漕いでゆけ おまえの手で漕いでゆけ、おまえが消えて喜ぶ者に おまえのオールをまかせるな~~~~~

ビハール号事件(1)

Posted by 秋山孝二
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  私は今、自分の時間を以前よりも持つことができるので、明治維新から今日までの近代の歴史を振り返りながら、検証らしきことをしています。特に、戦後のA・B・C級戦犯の検証、実際に足を運び、ヨーロッパでのナチスによるホロコースト、中国での日本軍による数々の事実を自分の目で確認し、新たな歴史的課題も見えてきました。

 そんな中、ある意味では思いもよらなかったのですが、ごく身近に私の知らない一つの「事件」があったことが最近分かりました。それは、旧日本海軍の重巡洋艦「利根:http://military.sakura.ne.jp/navy/c_tone2.htm」による「ビハール号事件」です。これから何回になるか分かりません、身内にも関係する重要な事実ですので、どんな展開になるか予想もつきませんが、追いかけてみようと思っています。

 これまでこの欄に数回書いている通り、私の父は4年前に亡くなりました。海軍兵学校66期卒で、キスカ撤退では旗艦「阿武隈」の、レイテ沖海戦では重巡洋艦「利根」の通信長として作戦に従事しました。その後、広島県江田島の海軍兵学校分隊監事で終戦を迎えました。

 没後に、私たち家族の発案で追悼集「絆」を発刊し、その中で私は父の思い出として次のように書きました。~~~~~

・・・・一方で私は、海軍兵学校時代の生活、キスカ撤退作戦、レイテ沖海戦等の最前線の経験を何回も聴いていた。とりわけキスカ撤退作戦での木村昌福司令官の勇気ある決断に関しては、旗艦「阿武隈」の通信長として身近にその現場を体験して、企業経営者としても社内報等で「バランスの重要性」として繰り返し強調していた。

 ある時に、自宅2階の自室で、戦争で生き残った者の苦しみについて静かに語ったことがあった。沢山の人間が戦争で無くなった悲しみは私には容易に感じても、父が言う生きて帰って来た人間の「その後の苦しみ」というのは、つい最近まで理解できなかった。ススキノのカラオケでも軍歌を歌う気にはなれない、戦争を賛美していた人間が戦後途端に反戦論者になっているのは許せない、今でも戦争が起これば自分は戦地に赴く、と戦争を巡る場面では、父はかなり頑固なこだわりを持ちつづけていた様な気がしている。

 そんな父ではあったが、入院中の夜中のベッドで、「火事だ、火事だ、水を」とうわ言の様に叫んでいる様子を聞いた時、それが戦艦の甲板での消火活動ではないか、と直感した時があった。自ら志願した海軍将校の人生ではあっても、心の底に沈む恐怖の存在を、私は数少ない場面ではあったが父の心の中に見た思いで、強い衝撃を受けた。・・・・・ ~~~~~~~~~

 4年前にこれを書いた時、私は勿論今回の「サ号作戦」については知る由もなく、ただ、「うわ言」に衝撃を受けていた、そんな自分でした。昭和19年に、キスカ撤退作戦の後、父は重巡洋艦「利根」の通信長として作戦に従事し、インド洋上での通商路破壊作戦(サ号作戦)に参加しました。そこで起きたのが「ビハール号事件」です。父は終戦後、海軍施設の進駐軍の接収・移管業務を済ませて、札幌に移りました。昭和22年に香港の戦犯裁判の証人として、ほぼ1年間程(その後、2・3カ月だと分かりました)、香港に滞在していたことは分かっていますが、それがどんな裁判だったのか、その辺りがこの事件を知る多少の手掛かりになります。私は、父からキスカ撤退作戦、レイテ沖海戦については話を聴いていましたが、インド洋上での作戦は一度も聴いた記憶がありません。

 4年前に青山淳平・著『海は語らない―ビハール号事件と戦犯裁判(http://www.7netshopping.jp/books/detail/-/accd/1102322644)』(光人社刊)が出版されたのを最近知り、すぐに読んでみました。「なぜ捕虜は処刑されたか、救助した捕虜111名、うち65名をその後殺害した衝撃の真相。英国商船乗員乗客「処分」事件」、或いは「英国戦争裁判・香港法廷の実情」とも書かれています。この本には私の父の名が、まるで映画のシーンを見るかのように数か所リアルに出ていました。

 私は、まずは自分で過去の資料を調べようと思い、先日市ヶ谷の防衛省に行ってみました(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=5391)。そこの職員に問い合わせた所、戦史・艦日誌等は市ヶ谷にはなく、別の場所に所蔵されていて、閲覧も出来ることが分かりました。何かの機会に時間を取って調べようと思っています、なかなか時間的都合もあり難しい作業になりそうですが、しっかり真実を見極めたいですね。

 戦争の検証は他人事ではなく、自分の家族の人生の検証になってきました。

愛生舘の「こころ」 (12)

Posted by 秋山孝二
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 秋山財団の設立25周年プレ企画講演会(http://www.akiyama-foundation.org/what/index.php?year=2010&mon=08&day=06#27)で、「幕末・維新、いのちを支えた先駆者の軌跡~松本順と『愛生舘』事業~」と題して、青山学院大学名誉教授・片桐一男(http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/%95%D0%8B%CB%81@%88%EA%92j/list.html)先生が大変興味深いお話をされました。当日配布された資料も極めて貴重なものばかり、もしご必要な方は、秋山財団事務局までご連絡頂ければ、折り返し郵送か、PDFファイルでメール添付致します。

年譜を含めて全8枚の貴重な資料

年譜を含めて全8枚の貴重な資料

  1年半前に今回の講演を依頼して実現しました。素晴らしい内容で、あらためて「松本順」の波乱の人生を追いかけることが出来ました。当日会場には、自然科学系研究者の方々も多かったのですが、古文書を一字一字読み解いていくアプローチは、大変新鮮な印象を受けたと口々に語っていました。人生そのものへの興味を持った方のご参加は勿論大変嬉しいのですが、理系研究者と日頃接することの少ない人文科学分野との出会いも今回目論んだ意図でしたので、意義があったのかと喜んでいます。

 片桐先生は冒頭、「世界の中で新しい国家建設が迫られている時期、必要とされていたのは『海軍力』で、それも緊急性を帯びていた。日本が独立国家として成り立っていく思想・技術、そしてそれを担う人材、すなわち『体力』をつける目的で長崎海軍伝習があった」、とおっしゃいました。そもそも蘭学が江戸時代に静かに研究されていたのは、北方ロシアの東方進攻・南下の脅威に対してその対抗的思想・哲学の必要性からと、先生から伺ったことがありました。

 以前にも書きましたが(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=1096)、その第二次海軍伝習(実質的な「医学伝習」)で松本順は中心的役割を担いました。ポンぺからのオランダ語を介した伝習を、集まった全国各藩の弟子たちに伝えることで、それ以降の近代医学・医療の基礎を築きました。

 松本順の功績のまとめとして

1) 持って生まれた資質を生涯を掛けて伸ばし続けた:ポンぺの伝習から総合的技術を取得、実践――野戦病院・衛生思想等

2) 人との出会い、ポイント3人:松本良甫(ポンぺからの伝習)、山県有朋(陸軍病院等の基準策定)、高松保郎(愛生舘事業)

3) 彼のしなかったこと:オランダに留学等で行かなかった、制度が出来るとバトンタッチ・チャンスの移譲

4) 彼の目指したこと:庶民への眼差し「愛生済民」――愛生舘三十六方、衛生思想の徹底、アジア・世界の体力向上

5) 彼の日常生活――身の回りをいつも「楽」にしておくこと

 最後のまとめで、片桐先生は、「松本順の活きた人間像が把握されていない、激動の歴史の中で埋もれていた原因は、激変する維新から明治時代では文字を通してのメッセージの伝達が難しかったのではないか、それは庶民の教育レベルが江戸時代よりもむしろ劣化していたことを意味している」、と看破されていました。

 牛乳の効用、海水浴の普及等、今では常識になっている健康増進・普及に関して最初の井戸を掘った人物、それが「初代陸軍軍医総監」等の評価以上の歴史的意味を、彼の人生から読み取ることが出来るのでしょう。

 翌日、私の手元に「松本順と北海道」という3部にわたる小論文を届けて頂いた札幌在住の医師・宮下舜一先生とお話をしました。講演会にもご出席頂き、先生の論文には、何と明治24年6月に、松本順が北海道(函館・小樽・札幌)に20日間程度来ている記録が、小樽では道内に在住していた弟子たちと一緒に撮影した記念写真まで掲載されていました。

 (株)秋山愛生舘が「愛生舘北海道支部」から独立したのが明治24年11月ですので、この時にどこかで初代秋山康之進と再会していた可能性は大変高いと思いました。引き続き調査・研究の必要がありますね、また一つ目の前に解き明かす課題が見つかりました。

 今回、私は片桐先生に敢えて「秋山愛生舘」ではなく、「愛生舘」についてお話をして頂きたいと事前にお願いを致しました。講演会に参加された道内の「シンパ」の方々には、「愛生舘事業をしっかり今の時代にも受け継いできたのは、唯一この北海道の地ではないか、どうしてもっとそれに言及しないのか!」と叱られそうですが、21世紀の今、広い意味で「愛生舘事業のこころざし:愛生済民」の原点回帰を、秋山財団的には記念すべき25周年を機に目指す、そう是非ご理解を頂きたいと思います。

 この講演会をキックオフとして、今後「愛生文庫」を軸とした資料室の創設も企画する予定です。ご関心のある方の率直なご意見もお待ちしています。

‘71 北アメリカへの一人旅 (5)

Posted by 秋山孝二
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 気がついてみると、もう7月です。昨夕、W杯サッカー岡田ジャパンが日本に戻り、記者会見の様子も昨晩・今朝のニュースでみましたが、岡田武史監督の心配りと懐の深さに、あらためて感動致しました。徹頭徹尾選手を主役に位置づける姿勢に、彼のリーダーシップと選手たちのフォロワーシップを感じました。最後まで素晴らしいパフォーマンスに感謝です!

 この表題シリーズの第一回目(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=2626)で私は、太平洋航路・APL(アメリカン・プレジデント・ライン)所属、「プレジデント・クリーブランド号:http://teikisen.blog84.fc2.com/blog-category-166.html」に乗船して、横浜大桟橋からハワイ・オアフ島ホノルル経由でサンフランシスコに行った、と書きました。

 当時は丁度、ボーイング747(ジャンボジェット)機が就航して間もなくで、人々の関心が大型旅客機に集まっていた時でしたが、「時間のある今、是非、船で太平洋を渡る経験をすべき」とアドバイスしてくれた方がいらっしゃいまして、貨客船の旅となりました。料金的には、片道では若干船(二等船室)の方が安かったような気がします。船旅は等級が厳格で、一等と二等ではデッキも食堂も全く別でした。ハワイで一時船を下りる時に、それまで船内では見なかった一等船客のインド人大富豪一行と初めて出合いました。

 一日が23時間、8日間でハワイ・オアフ島ホノルル港ピア10に到着、ここはあの1941年12月8日未明の日本海軍奇襲攻撃、真珠湾(パールハーバー)からもすぐ近くでした。入国手続きはここで行われるので、事前情報として、「怪しげで貧乏くさい人は、入国管理官から滞在期間を多く貰えない」と聞いていましたので、髪はしっかり分けて髭を剃り、下はバミューダ、上はスーツジャケットにネクタイという不思議な出で立ちで、着席の係官の前に向かったのを鮮明に覚えています。作戦は見事に成功し、6か月間の長期滞在日数を貰いました。

 横浜を出港してすぐ、台風を避ける為に予定航路から南下したので、丸1日余計にかかりました。遅れも半端ではありませんね。台風接近時は、船が数メートルも繰り返し上下し、部屋の丸い窓には鉄製のふたがはめられて緊張感も高まり、更に狭い室内は一晩中きしむ音で寝られませんでした。20数年前のアリューシャンもこんな海だったのかと、キスカ撤退作戦(http://ww31.tiki.ne.jp/~isao-o/battleplane-16kisuka.htm)に旗艦「阿武隈」の通信長として従事した父を思い出し、北と南の違いはあれ、「太平洋の嵐」を実感した貴重な体験でした。

アルバムから:台風接近の海上で

アルバムから:台風接近の海上で

 ホノルル一泊の後に、サンフランシスコに向けて出港しましたが、こちらは一転して気温は低いのですが穏やかな(退屈な?)海が続きました。一週間後の早朝にサンフランシスコ金門橋の下をくぐり、ベイブリッジを通過して湾の奥の桟橋に到着でした。朝もやの金門橋のライトとサンフランシスコのマチの灯を船のデッキから眺めた時、感動というよりも「アメリカに来てしまった」みたいな、震えのくるような不安な気持の方が強かったような気がします。

 一方今年1月に、幕末史研究会に参加した時、「咸臨丸子孫の会:http://www.kanrin-maru.org/」の方々とお話をする機会がありました。今年は咸臨丸が太平洋を渡って150周年の記念すべき年であり、自分たちの祖先が勇敢に太平洋を渡って、生きて帰って来たからこそ今の自分たちがある、そんな趣旨の自己紹介を聞き感動しました。咸臨丸(http://www.d9.dion.ne.jp/~senaun/pageBT11.html)は、アメリカから戻った後も、北海道とは大変縁の深い歴史を辿っています。そして更に、その研究会・交流会で、榎本武揚さんの曾孫で東京農業大学客員教授の榎本隆充さんとお会いして、リアルなお話を聞くことが出来て、幕末維新を身近に感じました。

 4月下旬に、榎本さんから、今度は「開陽丸(http://www.h6.dion.ne.jp/~kaiyou/)子孫の会」総会で、青山学院大学の片桐一男先生が特別講演をされる旨の連絡があり、1月に続き片桐先生のお話を伺いました。1月は「勝海舟と坂本龍馬」、今回は「榎本武揚と開陽丸」、いずれも幕末維新の激動期を生きた人々ですね。開陽丸も北海道とは縁が深く歴史に刻まれています。

 そして先日の「大和ミュージアム:http://www.yamato-museum.com/concept/」、何か今年は「船」、「太平洋」、「日本海軍」、「歴史」の縁が続き、ついでに私の太平洋横断の記憶もたどることができました。

 この2週間の船旅で、多くのカルチャーショックを受けた体験は、今も私の宝となっています。

「大和ミュージアム」のメッセージ

Posted by 秋山孝二
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 広島県呉市にある戦艦大和の情報集積施設「大和ミュージアム:http://www.yamato-museum.com/concept/」は、正式には「呉市海事歴史科学館」と言います。

一階ホールにある全長26.3メートル(10分の1)モデル

一階ホールにある全長26.3メートル(10分の1)モデル

科学技術の集積

科学技術の集積

  「沖縄戦」、「海軍」等との関係からも、私は以前からこの施設を機会があれば訪問したいと思っていました。呉市の施設として(現在は指定管理者制度により民間企業コンソーシアムが運営)今年は開設5周年を迎え、戦争武器の戦艦「大和」というよりも、日本の科学技術の結集「大和」の視点から展示が企画されていて、地元に根差す科学・製造技術の伝統他、予想を上回る貴重なメッセージを受け取りました。先日の佐倉の国立博物館(http://www.rekihaku.ac.jp/)、東京九段の靖国神社・遊就館(http://www.yasukuni.jp/~yusyukan/)とは、かなり趣を異にしています。

 日本海軍の礎として、愛生舘シリーズでも掲載した「長崎海軍伝習所」、勝海舟、小栗上野介(おくりこうづけのすけ:http://www.cocoyoko.net/history/h100000074.html)にも言及されていました。

長崎海軍伝習所

長崎海軍伝習所

  呉は海軍工廠のまちとして栄え、戦後は伝統的技術と新しい技術のコラボレイトでタンカー製造等も含めて経済成長を支えてきました。パンフレットにもあるように「呉の歴史」は、良かれ悪しかれ明治以降の日本の近代化の歴史でもあります。大上段からただ評論するのではなく、地域の教育、文化、観光への寄与を目的として、科学技術創造立国を目指す日本の将来に向けて、その担い手の子供たちにも科学技術の価値を届けたいという意図を感じました。

  向かいの「海上自衛隊呉史料館(http://www.jmsdf-kure-museum.jp/index.php):通称てつのくじら館」にも寄りました。日本の潜水艦製造技術の歴史、機雷除去を主とする掃海活動の歴史等、技術的側面からの説明・展示が興味深かったですね。

海上自衛隊呉資料館・入口

海上自衛隊呉史料館・入口(展示用潜水艦「あきしお」)

  「いつも反戦とか叫んでいるお前が、なぜ戦艦大和、潜水艦なんだ!」と言われそうですが、私にとって「日本海軍」の歴史は、父の影響もあり幼い頃から興味深く感じており、幕末・維新に始まった基礎から、日本海海戦、ロンドン・ワシントン軍縮会議、太平洋戦争、、海軍解体、戦後の海上自衛隊設立等、引き続き歴史の脈絡として注目をしています。

 これまで江田島の旧海軍兵学校(http://www.mod.go.jp/msdf/mocs/mocs/index.htm)には2回程足を運んでいますが、呉はいつも通過でした。今回しばし滞在できて、呉というまちが、戦後「平和産業港湾都市」として再生してきた歴史も知り、新鮮な視座を与えてくれました。

愛生舘の「こころ」 (11)

Posted by 秋山孝二
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 3ヶ月ぶりのこのシリーズです。千葉県佐倉市は、堀田藩の地元として、歴史を語る町並みを今も見ることができます。佐倉順天堂記念館(http://www.geocities.jp/bane2161/kyuusakurajyuntendou.html)、旧堀田邸(さくら庭園)、武家屋敷、国立歴史民族博物館(歴博:http://www.rekihaku.ac.jp/)を散策しながら、藩を挙げて鎖国社会の中でも広く海外から学ぼうとする情熱に感動します。「西の長崎」、「東の佐倉」と、外国の文化・知識等を貪欲に吸収しようとする姿勢で名をはせて、多くの国際センスあふれる人材を幕末・維新でも輩出しています。

佐倉順天堂医院の門

佐倉順天堂医院の門

門の礎石

門の礎石

  「佐倉順天堂」は、天保14年(1843)に佐藤泰然が開いた蘭(オランダ)医学の塾兼診療所で、現在の順天堂大学の源流です。「愛生舘」事業の構想の主・松本良順は佐藤泰然の実子でしたが、松本家に養子となり、一貫して幕臣として活躍し、長崎第二次海軍伝習でオランダのポンぺから蘭(オランダ)医学を弟子40数名とともに学び、日本の近代西洋医学の基礎を創りました。

藩主堀田家の邸宅

旧藩主・堀田家の邸宅

  旧堀田邸は、明治時代に佐倉に移り住んだ旧佐倉藩主・堀田正倫の邸宅と、明治洋式の芝生の庭園です。邸宅の幾つかの部屋には、松本良順の書が掲げられていました。訪れた時は映画の撮影か何かで、スタッフとモデルの方で庭は賑わっていました。昨年から3年間、年末に放映される「坂の上の雲」のロケでも、この邸宅の居間、大きな掛け軸のある部屋でも収録され、その場面は今年末にオンエアだそうです。

  一方、まちの西部・旧佐倉城址公園に隣接して「国立歴史民族博物館(歴博)がそびえ建っています。「壮大な規模を有する歴史の殿堂(?)」のフレーズを目にしましたが、似たような名前「国立民族学博物館(みんぱく:http://www.minpaku.ac.jp/)は、大阪にある別の施設です。全館冷房が効いて、原始・古代から始まり6つの展示室も十分なスペース、特に第6展示室「現代」は、特別展示もあり力が入っているのでしょうか。ただ、何か突き抜けるメッセージが足りないのですよ、「戦争反対」が届いてこないみたいな、展示物と見学者との間に厚過ぎるガラスの壁、時々は曇りガラスの壁を感じます。

 率直な疑問は、この国立博物館が何故この佐倉市にあるのか、真っ先にそれを知りたかったですね。沢山の外国人ツアーと思われるグループも来ていましたが、どう説明していたのかは分かりません。先の地元の3つの施設は、見学者の為に「三館共通入館券」も販売して連携をとりながら、堀田藩の因って来るゆえんと歴史的価値を懇切丁寧に発信していました。

 別の意味で、縦割り行政の印象を受け、その現状が何にも代えがたい「現代」を展示しているようで、そんな言い方はあまりに皮肉っぽいでしょうかね。しかし、行政の在り方がどうであれ、地域に暮らす市民は毎日しっかり生きてきたというように、この佐倉の地に人が育つ風土を実感しました。