「海戦」からみた日本の戦争

Posted by 秋山孝二
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 今年は、私にとって「戦争」と向き合った記憶に残る年となりました(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=11094)。今月11日にも書きましたが、「日本海軍の変遷」から検証して、新しい気づきがありました。

 数年前から、歴史認識として「戦争責任」検証の旅で、アウシュヴィッツ等のヨーロッパ・中国東北部を訪問し、今年8月は北海道新聞に、旧海軍の私の父に絡む「ビハール号事件:5回連載」の記事も掲載されました。この間、旧海軍の多くの方々と出会い、貴重なお話、或いは著書を読むことが出来ました。その中から海軍に関係する二つを紹介致します。

 一つは、今年夏に知人の大沼芳徳さんから送って頂いた伊藤和雄著「まさにNCWであった日本海海戦:http://janafa.com/book-35/page-13.pdf」です、「NCW:Network Centric Warfare(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%AF%E4%B8%AD%E5%BF%83%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84)」は、簡単に言うと「ネットワーク中心の戦い」で、近年、米海軍大学校長のアーサー・セブロフスキー中将の講演ほか、アメリカ軍オリジナルの構想と理解されているようですが、実は、日露戦争の日本海海戦が「NCW」だったという視座の興味深い本でした。

 ペリーから送られた電信機に始まり、明治維新以降、海底電信ケーブル、軍用水底線、海軍望楼、三六式無線電信機等、新しく創設された日本海軍のインフラ整備・開発が、実は今日言う「NCW」そのものだったのです。日本海海戦の勝利の分析も、「情報優位」の下で、連合艦隊が主導的に戦ったからこそ、機力(ハードウエア)と術力(ソフトウエア)の僅かな差が大きな結果となってあらわれた、著者はそう断言しています。さらに、戦勝の要因として言われている、敵前大回頭(T字ターン)、砲の門数・口径、装甲の暑さ、下瀬火薬の優越度は、勝敗を左右した決定的要因ではなく、「情報優位」の傘の下に存在した数ある要因のひとつに過ぎない、とも。この勝因総括・分析の誤りが、実はそれから37年後の太平洋戦争での大敗北へとつながります、ある意味で歴史の必然として、です。

 幕末から明治にかけて、本来の「近代国家の建設」への熱き思いと、情報・通信ネットワークの重要性を本能的に理解した優れたリーダー達の見識を、私たちはしっかり史実として記憶しておかなければならないのでしょう、その後の時代を検証すればする程ですね。

 

 もう一つは、戸髙一成著「海戦からみた太平洋戦争」です。戸髙さんはご存知のように、「呉市海事歴史科学館館長(通称大和ミュージアム:http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=4585」で、同時に海軍史研究家でも著名な方です。私は全く同感する部分が多かったので、少し長くなりますが引用させて下さい。

* 太平洋戦争では、連合艦隊は早期の艦隊決戦を追求し続け、その作戦が破綻して戦力を使い果たした後は、いたずらに特攻作戦のみによって戦死者を増やすだけに終始した。あえて日本海軍の失敗や欠陥に目を向けることが、現在の日本人にとって有益と考えるのである。

* マリアナの攻防で艦隊を失った日本海軍は、ことの重大さに苦悩していた。もはや日米の戦力差は決定的なものであり、通常の攻撃では、日本側に勝ち目はなくなっていたのである。米軍のレーダーは安定した性能で日本機の接近を探知し、十分な余裕を持って邀撃(ようげき)戦闘機を差し向けている。また、幸運にも邀撃戦闘機群の網を逃れ、米艦隊に突入できた飛行機も、小型レーダーを内蔵し、飛行機に接近しただけで炸裂するVT信管を装備した高角砲弾の弾幕に包まれて撃墜されてしまう。

* 当時、日本海軍では、この米艦隊の対空砲火の命中率が異常に高いことに気づかず、単に対空機銃と高角砲が多い、つまり物量の差があるといった程度の認識しかなかった。この、「米軍イコール物量」という図式は、日本の軍人の頭の中に深く染み込んだ観念で、これはワシントン条約で日本の海軍が対米6割に抑えられた時からの長い歴史を持った観念であった。これらの物量に対抗するには、米艦隊を上回る戦力を集中して対抗すべきであったが、日本海軍にはすでにその力はなく、力を蓄積するだけの資源も時間もなかったのである。

* では、何もない日本海軍に残された道は何であったか。それは「天佑神助」を当てにすることと、「大和魂」を持ち出すことだけだったのである。合理的な作戦がすべて破綻した時、残っていた作戦が非合理であったことは、或いは自然なことだったのかもしれない。

* 1945年の戦艦大和の最期となった「沖縄特攻」のとき、出撃にあたって連合艦隊司令部から与えられた命令がある。この命令を起案したのが誰なのかはっきりしないが、命令文が示すものは、この特攻艦隊の出撃が、「海軍の伝統を発揚」するために命じられたものである、ということであった。付帯的に付けられた「皇国無窮の礎を確立」することとともに、そこには何ら遂行中の戦争に対する戦術展望もなければ、全てを失った後に対する考慮も読み取ることはできない。この作戦目標は「戦果」ではなく、「日本海軍の栄光」の伝統発揚のためだったのである。日本海軍にとっては、「海軍あって国家なし」と言われても仕方のない命令文である。海軍は、ただ「輝ける伝統」という幻を守るために多くの艦艇と人命を米軍の攻撃の前に差し出したのであろうか。

* いかに軍事技術が発達しようとも、戦争に至る原因の多くは、古来変わるものではなく、基本的には、国家間の政策・利害の衝突に過ぎない。これは、本質的には、外交交渉で解決されるべきものであり、戦争は、いわば交渉失敗の結果なのである。

* このような、外交的敗北によって始まった太平洋戦争は壊滅的な敗北で終り、日清戦争に始まった「日本の五十年戦争」も幕を閉じた。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~引用おわり

 「外交」と「戦争」と言えば、クラウゼヴィッツ(http://kotobank.jp/word/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%BC%E3%83%93%E3%83%83%E3%83%84)の「戦争論」を思い出します。日本海海戦を担った指導者たちと、太平洋戦争時の海軍指導部の質・見識の差とでも言うのでしょうか、この80年近くで変遷していった日本海軍から考察する歴史は、しかし、今も進行形であると思いますね、指導者の劣化、それを見過ごす国民の民度の低さとお任せ民主主義の跋扈です、教育の敗北と言っても良いかもしれません。

 今の日本は2008年統計で、「53隻の駆逐艦保有」、これは米軍第7艦隊の2倍であり、「護衛艦52隻、哨戒艦9隻、機雷艦31隻、潜水艦16隻など152隻、43.7万トン保有」、世界第2位の海軍です。それをコントロールする指導者は育っているのでしょうか。軍事力ばかりでなく、原子力政策においてもこの海軍の変質の歴史から学ぶことが多いと思います。そしてその「学び」は、これからの日本創造で生きて初めて「価値」となるのですよね。

週末、ベルリンの空は青

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 ベルリンはこれまで一度も行ったことがなかったので、というより1989年前には生きている内には到底無理だと思っていましたので、今回、またとない機会であり、週末に少しだけ寄ることにしました。

 一番の興味は、冷戦構造のシンボル「ベルリンの壁」で、今それがどうなっているのか、市民はどう受け止めているのか、です。空港からのタクシー運転手は、彼が10歳の時に壁が崩壊し、あっという間に無くなって驚いたと笑いながら語っていました。現在、市内三か所にモニュメントとしてしっかり残し、歴史資料も写真入りで豊富に展示されていました。特にナチスが政党として熱狂的に迎えられていた時期からの解説、戦後の裁判の記録は、その意味する所が理解できます。2年前のアウシュヴィッツ訪問時(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=1485)も説明がありました、それが仕組みとして、政策として実行されていたことに我々は目を向けなければ再発は防げない、と。

ナチス秘密警察本部前の壁

ゲシュタポ本部前の壁

レンガの壁の跡に歴史の展示が約200メートル、更に右側に立派な資料館

レンガの壁の跡に歴史の展示が約200メートル、更に右側に立派な資料館

East Side Gallery(1㎞以上続く)

壁を使った「East Side Gallery」、1㎞以上手前側に続く

  ブランデンブルグ門は、東西冷戦の象徴のような場として記憶にありましたが、今はその面影は無く、多くの観光客で賑わっていました。広場ではあちこちでパフォーマンス、もっと厳粛な場と勝手に想像していましたので拍子抜けでした。私が考えている以上に、時代は先を行っているのでしょうね。

ブランデンブルグ門:旧東ドイツ側から

ブランデンブルグ門:旧東ドイツ側から

写真スポット?左後ろでは冷戦時代の象徴する国旗も登場

写真スポット?左後ろでは冷戦時代の両国旗も登場

お金を受け取るたびに少しの動きです!

お金を受け取るたびに少しの動きです!

  街全体は、トラディショナルとモダンが調和した街づくりで、ゾーンの位置づけ等、ち密な議論と計画の奥深さと感じました。鬱陶しい壁を壊して、主要駅の開放系の設計は、明るさと機能性に優れていて、これまでの歴史的建造物と対抗するのではないというメッセージも感じて取れます。

ベルリン中央駅:開放系5段構造

ベルリン中央駅:開放系5段構造

 今回の短い滞在、美術館・博物館系の見学を全くスキップして、タイトルをつけると「歴史とまちづくり」系とでも名付けましょうか、ディテールはまたの機会に訪問できればと多少残念な気もしながら、ハノーバーに来ました。

忘れられない中谷さんの言葉

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 30数年前の原子力発電に関係する書類を読む一方、当時から反原発活動に関わった方々の話を個別に聴く場面では、今、多くの方が、「手がけた反原発運動の不徹底さを悔いている」と、今回の大事故を目の当たりに苦渋の表情で語っています。すべてが主張してきた「想定内」の出来事であるからにほかなりません、普通はその通りになるのは喜ぶべきことなのですが・・・・。

 1979年のアメリカ・スリーマイル事故を受けて、80年代には日本でも原子力発電を不安に思い、反対する多くのごく普通の市民がたくさんいました。小学校の保護者会等でも、子どもの将来を気遣う自然な気持として、原発問題について語る雰囲気もあったと聞きます。次第に時が経ち、「原発推進」と「原発反対」が鋭く対決する情況の中で、「反原発」は政治マターの範囲に限定されていき、何かごく普通の場でまともに議論することを避ける風潮となってしまったのではないでしょうか。変わらず原発への疑問を語り続けていると、ある種の「変わり者」として疎外されるような。

 そして、このような「時代」の推移で、推進勢力のパブリック・アクセプタンス(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=8003)の影響もあり、教育現場でも当たり前に、原子力発電のリスク・恐怖について、むしろ昭和20年・30年代に教えられたよりもはるかに少なく、「避けてきた話題」となり、「教育の敗北」を感じるのです。

 

 私はこのところ、繰り返し思い出しています。この欄にも書き留めましたが(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=1485)、一昨年6月に、ポーランドのアウシュヴィッツ収容所を訪問し、現地のただ一人の日本人ガイド・中谷さんのお話を伺った時の言葉です。

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* 日本の平均的教育レベルの高さに期待している。ただ極限状態に追い込まれた時に、どの程度理性的に行動し得るのか、人間の本生の赴くままになってしまうのか、それが今もこれからも問われるのだろう

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 ビルケナウで、「何と残酷な」、「どんな種類の人間がこんなことを実行できたのか」とかのやり取りの最後に、彼が私たちに向かっての言葉だったと記憶しています。

 今回の大震災で被災した人々に象徴される「日本人」への国際社会の報道は、「暴動等もなく秩序を保った」、「忍耐強い」等、大変な称賛で溢れていました。ただ、先月末の東電原発汚染水の海洋への漏えい、意図的投棄以降は、「日本国」への評価は大変厳しいものになっていることを、しっかり認識すべきでしょう。

 極限状態に追い込まれた時の行動、私は日本人の「耐えるレベル」、「理性的」には確信を持っていますが、むしろ、「集団の雰囲気を過剰に忖度(そんたく)する精神構造」、「他者への過剰な遠慮」に、大きな社会不正義を見過ごす、結果的に容認してしまう、弱さを危惧します。「主張することを躊躇する弱さ、勇気の無さ」とでも言うのでしょうか。中谷さんがおっしゃった「問われる」とは、私を含めた日本人の「勇気の無さ」なのではないかと、今思います。憲法に書かれている「人権」を、本当に市民社会のものにする活動を躊躇してはいけないのでしょう。

 

 昨日、北海道経済同友会の幹事会が早朝に開催されました。今までになく多くの役員の方々がお集まりになり、会の終り頃に北海道電力の経営幹部から、今回の東電福島原発事故の報告と、北電泊原発の安全性についての説明がありました。これまででしたら、恐らくただ黙って説明を承ってといった雰囲気だったと思いますが、昨日は明らかに違っていました。

 私はこう発言しました。汚染水海洋投棄以降の国際社会の厳しい視点から、今後の原子力発電継続の難しさ(停止・廃止)を勘案し、比較的電力供給では余裕のある今こそ、企業系・家庭系の北海道的節電・ピーク時削減プラン或いは議論を提案すべきではないか、と。やり取りはその後、「危険度の高い浜岡原発はすぐに停止すべき」等、各産業セクターの経営トップもかなりの危機感を持っている様子でした。エネルギー問題は、今や全ての日本で活動する人々が当事者であることを実感しました。

 ある出席者は、会議終了後に、節電等にはその動機が大切で、今回の場合は、北海道の節電分を、今の60万キロワットの本州への支援を大幅に増やすことに使うといったストーリーが良いのではないか、とおっしゃっていました。北海道民による福島支援の具体的方策としての節電・ピーク時削減プランとして、勇気を持って北電がこう提起して、企業・道民がムーブメントを起こすのは如何でしょうか。

なお続く旅の余韻(1)

Posted by 秋山孝二
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 今回の訪問先は、それぞれ重い場所ばかりでしたが、北京の「中国人民抗日戦争紀念館:http://j.people.com.cn/94638/94658/7131285.html」で、当時、現地に点在する村に対して、日本軍の「『集団部落』化の強制」という施策が目に飛び込んできました。「限界集落」を設定し、「平成の大合併」と称しての村の合体を促した最近の動きとダブリました。永年その地に暮らす人々の居住地を、意思に反して強制的に移動・変更することは出来ません。まして武器と刀で追い立てての強制移住は、恨み・憎しみを増幅するだけになったのでしょう。

 もう一つ、10数年前に訪問した時は、今回よりも毛沢東の存在感があったような気がします。今回私の目に触れた彼の肖像は、通貨の人民元紙幣の中、天安門の大きな肖像画、そして瀋陽の広場での巨大な像だけでした。「タクシーを止めようとしている姿」、「賭けごとは五元までですよと言っている姿」とか、地元の方から冗談も出る程、その意味あいも昔とは随分変わってきているのかもしれません。時の流れとでもいうのでしょうか。 

西方を向く巨大な毛沢東像

瀋陽:西方を向く巨大な毛沢東像

  関東軍731部隊の敷地内記念館では、「マルタ」と称されて「実験材料」となった中国人犠牲者の名を刻んだ墓標の回廊も忘れられません。

犠牲者の名前一覧の回廊

犠牲者の名前一覧の回廊

  そして、昨年のアウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所でも象徴的だった鉄道引き込み線が、ここにも敷かれていました。この上を一体何度「マルタ」を運ぶ列車が通り抜けたかと考えると、胸が詰まる思いです。

「マルタ」を運んだ引き込み線

「マルタ」を運んだ引き込み線

中国:瀋陽郊外の撫順で

Posted by 秋山孝二
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 瀋陽(旧満州時代の奉天)は札幌の姉妹都市でもあり、人口700万人の大都市です。街の中心部は地下鉄工事はじめ、大型建設プロジェクトのクレーンが林立し、郊外では高層マンション建設が数多く進んでいます。

 瀋陽から約1時間半、工業都市・撫順の高台にある平頂山遺骨館(http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou09/kaihou095.html)を訪問しました。その会議室で、奇跡的に生き残ったヨウ・ギャク・フンさんの証言と質疑応答は初めて聴く事柄が多く、実に重いひと時でした。今年87歳を迎えるヨウさんは、大変明確なお言葉で、当時の様子をしっかりと語られました。日本兵が突然夜にやって来た時、日本刀をかざすその姿は一生忘れられない、と。家族24人のうちで生き残ったのは6人だけで、今生きているのは自分一人、生きている人間がこの惨劇を語らなければならない「責任」を強く感じている、と静かにお話をされました。

 また、今も当時の憲兵隊・兵士たちに対する憎しみは消えないが、その後謝罪に来た元日本兵もいるし、今生きている若い世代とは、しっかり平和を築くために日中友好への努力をしなければならない旨を語っていました。ヨウさんは今月末に来日予定で、札幌にもお越しになるそうです。

奇跡的に生き残ったヨウ・ギャク・フンさんの証言

奇跡的に生き残ったヨウ・ギャク・フンさんの証言

 証言を聴いた後、隣の遺骨館に行きました。ガラスの窓の下に並ぶおびただしい数の人間の遺骨は、あるものは刀のキズあり、あるものは一見して障害を持った方とわかり、母親と子と思われる情況もありました。本多勝一の「中国の旅:http://www.amazon.co.jp/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%97%85-%E6%9C%9D%E6%97%A5%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%9C%AC%E5%A4%9A-%E5%8B%9D%E4%B8%80/dp/4022608056」で公になり、当時は彼への個人的バッシングも含めて、大変な論議があったようです。

発掘された800体以上の遺骨

発掘された800体以上の遺骨

  

 続いて、撫順戦犯管理所(http://www.geocities.jp/t111313/china-n-e/senpan.index.html)です。今年6月に新装オープンした奥の展示館は、ことの外新しいデザインで、注目を集めます。周恩来の見識の高さ、人物の大きさにあらためて感動しますね。めまぐるしく変わる時代に、この場所の機能・名称も何回か変わっています。その後、ここに滞在した日本人が帰国して「中帰連:http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/other/gaiyou.htm」を結成し、日中国交回復にも大いに尽力されました。数年前に発展的に解消して、新たな活動を展開しています。

今年6月に新装オープンした展示館

今年6月に新装オープンした展示館

 昨年訪問したアウシュヴィッツでお話されたポーランド・レジスタンスのスモーレンさんは、「アウシュヴィッツで今、何が起こっているかの事実を伝えることが最高のレジスタンスだ」と、そして奇跡的に生還した後は、「生き残った者の責任として、自分の経験を社会に伝えていく、それが命を落とした人間達の願いでもあるだろう」と私たちに語りかけました(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=1457http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=1501)。

 今回のヨウさんも、全く同じく「生き残った者の『責任』」というメッセージを残されました。私は「証言を聴いた者の責任」を強く感じます。平頂山のあの場所には悪夢の再現で行きたくはない、とおっしゃりながら来て頂いたことに、あらためて心からの感謝を申し上げます。一方で、日本では「そんな事実はなかった」、「3000人の犠牲者はねつ造」といったレベルでの一部の議論に、特有の責任回避・転嫁を感じます。記録・資料を焼却・廃棄しておいて、一体何を語ることが出来るのか、そんな憤りにも近い思いをここでも感じてしまいます。

中国:ハルピンで

Posted by 秋山孝二
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 昨年6月、プラハ・アウシュヴィッツ他を訪問したグループで、今年は中国に「検証の旅」です。

 韓国・仁川(インチョン)空港、香港空港はアジアのハブとして目を見張りますが、15年ぶりに行った北京空港もそれを上回る広大な敷地・建物で、まさに中国の勢いを象徴するかのようでしたね、オリンピック・万博を目標に国家的プロジェクトで整備したのでしょう。でも、訪れるお客にとって、必ずしも「大きいことは良いことだ」ではない辺りが、難しい所ですね。空港でのインターネット・アクセスは大変便利ではありますが。

国内線のロビー:面としての広大さを感じます

国内線のロビー:面としての広大さを感じます

 深夜にハルビン市内のホテルに到着して、早速部屋でインターネットに接続しましたが、日本では見られる幾つかのサイトがアクセスを拒否されました。事前に多少は聞いていましたが、何かのスクリーニングが掛っている様子です。

 

 旧関東軍731部隊(http://sakura4987.exblog.jp/4958898/)の本部が置かれていた場所は、ハルピンから約1時間の場所です。広大な敷地は今も残されて陳列館となり、その周辺には関連施設で終戦直前に自ら破壊した発電所跡、凍傷研究所等跡もそのまま、訪問当日は高校生・大学生と思われる団体も見学に来ていました。部隊が建設した発電所は実に頑丈で、自ら破壊する時も爆破では困難だったようで、3本の煙突のうち1本だけの破壊で退却したようです。裏に回って建物の壁を見ると太い鉄筋が何本も入っていて、皮肉にも「耐震偽装建築」とは比較にならない当時の軍関係建築への予算を測り知ることが出来ます。インターネット検索では、様々な立場からのコメントも読むことが出来ますので、ここで掲載することは省略します。

旧陸軍731部隊本部入口で
旧関東軍731部隊本部入口で

敷地併設の発電所跡:自ら破壊して撤退

敷地併設の発電所跡:自ら破壊して撤退

凍傷実験所

凍傷実験所

 すでにこの部隊の目的等は、1997年アメリカ政府の膨大な情報公開により明らかになっています、今回あらためて衝撃を受けたのは、昨年のアウシュヴィッツと同様に、「政策」として明確な意図を持って軍と医学会が組織的にかなりの期間実践したこと、そしてその間多大な犠牲をもたらして得た膨大な「医学的(?)情報」が、戦後戦争責任を裁く裁判における免罪の取引として、すべてアメリカに提出されていたことです。数年前から、関わった方々が80歳に近くなってきたからか、この件に関する証言も数多く世に公開されています。

 「政策」としてという意味は、例えば「対ソ戦」を想定した寒地での人間対応力実験、資源の少ない日本が戦争に勝利する戦略としての大量破壊兵器として「細菌兵器」の開発、自国内では出来ない「医学的」臨床実験等です。

 8月のNHKドキュメンタリーシリーズで放映された「広島・長崎への原爆投下」に関する番組で、誰よりも早く爆弾投下直後(2日後?)に日本の軍医師団が、診療目的ではなく調査目的で現地入りして、放射線障害等の貴重なデータを取得し分析し、それを731部隊同様に占領軍に提出したとの証言でした。 そしてその意図が、終戦後少しでも占領軍の心証を良くしようとの思惑からだった、とも。

 更に731部隊に責任を負う幹部たちの終戦後に就いた役職も展示されていましたが、皆戦後日本の要職が実に多く、彼らの戦争責任に対する認識、許す社会の民度の低さ等、アウシュヴィッツとは違い、同じく戦後日本を生きてきている自分自身との関係性から一層重たいものがあります。戦後の数多くの戦争裁判の検証でも、アメリカ他の連合国の思惑等、しっかり認識していく必要性を感じます。

 もう一つ、資料とかデータに関する日本人の独特の考え方ですね。国際社会では、「資料が無い」というのは、その後の検証・交渉では致命的に不利になるのは常識にもかかわらず、ただひとえに自らの「保身」、「責任回避」の為に、それを焼却・破壊して無かったことにしようとするメンタリティ、その程度の責任感・覚悟での仕事の遂行というのでしょうか。何だか何で言って、「国」、「国民」の為になどという言葉は全くみられません。これは今の社会でも、全く変わっていないから更に課題は重いですね。戦争中の様々な残虐行為、安保・沖縄密約、事実を無かったことにしようとするそのことが、歴史に対する冒とくですし、それを乗り越えて進化しようとする力をそぐものです。私たちの世代の責任は、とにかく事実を事実として認識して、二度と同じような過ちを繰り返さない社会づくりを日頃から地道にすることしかないのでしょう。

 もう一つ、ハルピン市内の「東北烈士紀念館:http://www.mediabahn.co.jp/china/tiiki/tohokud7.html」では、抗日戦争で戦った女性戦士「趙一曼」に関する展示・説明が印象的でした。信念に生きる一人の女性の姿、また一人の子供へ託す自らの意思といのちの連鎖、今、中国・ハルピンに居ることを忘れて、無言でしばしたたずむばかりでした。

2009、チェンジの年でした!

Posted by 秋山孝二
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 2009年は、私にとって、秋山財団にとって、日本にとって、「チェンジ」の第一歩でした。変わることの難しさを実感しつつも、確かな手応えと結果を見て取れます。ただ、あくまで今年は新しい方向への「第一歩」に過ぎません。2010年以降も関わり続ける責任もあります。

 敢えて今年のキーワード「新」に絡めて自分なりに総括すると、私にとっての「新」は「出会い」と言えるでしょうか。新しい「人」との出会い、新しい「場所」との出会い、そして新しい「テーマ」との出会いです。このブログ(コラム)のお陰で、数多くのメール・電話等による返信を頂きました。検索機能が発達しているので、本当に無限のネットワークを感じる時もあります。ご連絡頂いた方々に心から感謝致します。

 今年はアウシュヴィッツ・プラハ他、外国の印象深い土地にも行く機会を得ました。それぞれの地が発信し続けるメッセージを、五感を通じて体で受け止めました。見てしまったものの責任みたいなものを強く感じています。

 そして「テーマ」では、これまで「シングル・イシュー」だったものがクロスする感じでした。やたらカタカナばかりで申し訳ありませんが、あるテーマで動いていたものがある瞬間に別の活動と出会い、スパークして「何か」新しい価値が誕生した、そんな雰囲気なのです。ジグソーパズルの一つのピースで絵が繋がったといっても良いのかもしれませんね。真剣にそのテーマを追いかけていると、突然こんな状況に出くわす、プレゼントみたいなものでしょう。それを実感する2009年でした。

 私は、今年「納得のいく」活動を通して得た成果を踏まえて、この地でしっかり歩み続けたいと思っています。お世話になった皆さま、ありがとうございました!!

敗戦から学ばねば

Posted by 秋山孝二
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  毎年8月は、広島・長崎への原爆投下、15日の終戦記念日他の理由からか、戦争・平和に絡むメディア報道が多いですが、気のせいか私には、今年は特に多くの局、とりわけNHKテレビは総合・教育・BS1・BS2・BSハイビジョンの各チャンネルでのこのカテゴリーの報道が多いような気がします。再放送も多いですから、一概にあらたな番組の制作が増えているとは言えないのかも知れませんが、戦争体験者の方々が80歳を超えてきて、新たな証言も多々出て来ていることも事実なのでしょう。

http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/list/index.cgi?t=shougen

先日の「日本海軍」を巡っての3夜連続の番組は、私にとって大変注目するものでした。

400時間の証言 第一回 「開戦 海軍あって国家なし」http://www.nhk.or.jp/special/onair/090809.html
           第二回 「特攻 やましき沈黙」http://www.nhk.or.jp/special/onair/090810.html
           第三回 「戦犯裁判 第二の戦争」http://www.nhk.or.jp/special/onair/090811.html

 私の父は、海軍兵学校66期卒で、卒業後は霞ヶ浦の航空隊教官、キスカ撤退作戦http://ww31.tiki.ne.jp/~isao-o/battleplane-16kisuka.htmの旗艦阿武隈通信長、レイテ沖海戦重巡洋艦利根の通信長で奇跡的に生存し、終戦時は江田島の海軍兵学校分隊監事でした。広島原爆投下時は、すぐ隣の江田島からキノコ雲見ていたとのことでした。終戦直後は進駐軍と海軍の窓口として施設の接収業務等に携わり、その後復員して北大理学部・農学部を卒業、昨年の海軍記念日(5月27日)に解散した「北海道全海軍の集い」の3代目の会長を永く務めていました。

重巡洋艦・利根

重巡洋艦・利根

一貫して前線にいた立場(番組では「艦隊」)から、戦争の話は幼いころからよく聞いていましたが、「海軍軍令部」に関しては陸軍参謀本部と同じように、「現場を知らない連中の机上の空論が多かった」と、言葉少なく語っていました。それと太平洋戦争の全体図を知ったのは、戦後10年以上経てからだったとも。最前線で関わった当事者たちは、他の方からも聞きましたが、マクロの「戦争」という視点は現実として持ち得なかったのでしょう。キスカ撤退作戦の司令官木村昌福氏が作戦そのものの存在を家族を含めて世に明らかにしたのは、昭和34年頃に文芸春秋に記載された以降と、息子さんから伺いました。日本海軍唯一の撤退作戦の成功でもそんな感じです。

第二回番組でも取材デスクの小貫さんが語っていましたね、「特攻で逝った側の話は多いが、それを立案・命じた側の報道は戦後ことのほか少ない」と。まさに「やましき沈黙」なのでしょう。第一回の「海軍あって国家なし」、第三回の東京裁判に臨む姿勢も責任者を守る職務以外の発想もなく、愕然とします。

6月に訪問したアウシュヴィッツでもそうでしたが、そもそも誰を守るための組織だったのかが極限状態で露骨に表れます。そして「組織と責任」、「責任の取り方・取らせ方」について、日本は何も変わっていなく、今、私達の世代の責任が問われています。

重たい8月はなお続きます。

戻っても、なお続きます

Posted by 秋山孝二
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 21日にワルシャワから飛行機を乗り換えて札幌に到着しました。旅行中のこのコラムに対して、多くの方から直接メールも頂きまして心から感謝致します。こちらに戻るやいなや、折からの総会シーズンで会議・会議の連続により時差をぼやく暇もありません。メールへのお答えという意味で、また幾つかエピローグの意味合いからも追加メッセージを。

* 今回の旅行は、誰の企画でどいうったメンバーだったのか、というご質問が届きました。札幌の旅行会社「旅システム: http://www.tabisystem.com/」から企画旅行のお誘いがあり、直ぐに参加を決めました。メンバー総勢13名(女性7名、男性6名)、年齢・職業・主義・主張も大変多様な、皆さん旅慣れた方々ばかりでした。永年の実績から現地ガイドの方々も選りすぐりで、深い背景の説明も多く、大学の講義を何コマも受けてきた印象でしたね。

* 現地ガイドの中谷さんの説明は、もっともっと沢山の凝縮した内容でしたが、今振り返ると私のメモはあまりに総括的でした。質疑応答の中で、アウシュヴィッツのアジアからの訪問者数のお話がありました。中国からが最も多く、次が韓国、日本は3番目で年間7000人程度とか(当初400人と書きましたが私の聞き間違いでした)。出発前に私とお会いした何人かの方からは、「知人で行った人がいる」と聞いていましたので、かなり多いのかと思っていました。そして、日本の通常の観光旅行プログラムでは、2か所合わせて移動時間も含めてせいぜい2時間程度とか。今回の私達の訪問は、意見交換を含めて約7時間でした。

* ある方からは、関係する幾つかのサイトをご紹介して頂きました。その中からリディツェ村の子供たちの像の詳細の映像と音楽です。http://www.youtube.com/watch?v=hvnEXPJG2To&feature=related こんな編集も出来るのかと感動いたしました。さらにこれに付随してリストにある多くのサイトも見る事が出来て、あらためてインターネットの機能の凄さを感じますね。ご連絡を頂いたMさんに感謝致します。

* クラクフからその後ワルシャワに向かいました。そこの「ワルシャワ蜂起博物館」、「コルチャックの墓」、「キューリー博物館」、「ゲットー跡地」も興味深かったですね。特にワルシャワ蜂起のソ連に対する評価は、ポーランドにおいても劇的に変わっているのを知りました。

* 途中経由した韓国インチョン空港は、以前にも何回か降り立ってはいますが「アジアのハブ空港」を目指すスケールを感じます。また大韓航空機内で出たエコノミー機内食「ビビンバ」は素晴らしかったです。何かの大賞を獲得したとか。

仁川空港ロビーコンコース
仁川空港ロビーコンコース

* 家に戻ってかなりの時間を費やして留守の間の新聞を読みました。何だか国内のチマチマした目先の記事ばかりで辟易しましたね。天気予報で例えていえば、「今日・明日が、雨か晴れか曇りか、」の予測、或いは「雨は午前9時からか、午前9時半からか、を延々と議論している風」ばかりで、何とも超ドメスティックで些細なその事が鬱陶しく感じました。

* メール環境は、この数年で随分良くはなりました。ただ、プラハの旧市街にあったホテルでは、ロビーに2台パソコンがあるだけで、いつも誰かが占有していました。朝時差もあって午前4時頃起きてロビーに駆けつけ、やっとラインを使う事が出来ましたが、暫くして後ろを振り向くと数人が待っている様子、ゆっくりも出来ずに切り上げました。クラクフは無線で無料で実に簡単、ワルシャワは一日はタダでしたが、二日目からは有料でした。韓国のインチョン空港では、普通の搭乗待合ロビーでも無料無線ラインが使用出来て便利でした。

 

上場会社はこれからが株主総会シーズンでしょうね。以前の上場会社代表取締役時代では、株主総会の準備でこの時期の海外旅行などは考えられもしませんでした。あらためて貴重な時間の獲得に感謝したい気持です。

アウシュヴィッツ、・・・・ (5)

Posted by 秋山孝二
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入口で

入口で

アウシュヴィッツに関して、まだまだ沢山の生々しいお話を今回聴きましたが、取り急ぎまとめたつもりです。

ナチスの隔離・大量殺りく計画では、当初は逮捕後の収容が困難という理由で収容所建設が始まりました。施設的には収容所・ガス室・焼却所等を作りましたが、次第にその順番ではなく移送後すぐにガス室といった場合がほとんどだったようです。

また死因も「病死」という場合は、実際は薬殺だったようです。病院の機能は治療の場ではなく、フェノールで殺されたりガス室の一歩手前の場所だったとの貴重な証言もあります。

収容所には130万人を越えるユダヤ人、ロシア軍の捕虜が5万人、12カ国からのロマ・シンティ(Roma・Sinti:最初はジブシーと書きましたが差別用語と知り、ドイツ語圏のジプシーの意味で変えました)もかなりの数でした。隔離から大量虐殺へと一気に進んでいったナチスドイツの政策から、私たちは多くの教訓を学ばなければならないと思います。

今回苦難の体験を経た方々のお話を真近で聴く機会を得て、私はあらたな課題を背負った気がしています。皆さん「運が良かっただけですよ」とおっしゃっていましたが、生き残った者の果たさなければならない課題も明確に自覚されているのでしょう。

生きて伝える価値と、映像をはじめとした記録の意義も再認識致しました。取り敢えずこの関連は終了致します。

アウシュヴィッツ、・・・・ (4)

Posted by 秋山孝二
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 アウシュヴィッツに拘束された元ポーランド・パルチザン(秘密抵抗組織)、後に初代博物館館長のスモーレンさんの2時間近くのお話からいくつかを書き留めます。彼はユダヤ人ではありませんでしたが、ポーランド政治犯として突然拘束されました。

*秘密抵抗組織は結成したがメンバーに実践歴がなく、ヒットラーのテロで多くの犠牲者を出した

*1940年4月15日、自宅に突然ゲシュタポが来訪し、連行された。2・3時間のつもりが、戻って来れたのは5年後だった

*1940年6月14日にポーランド政治犯728人がアウシュヴィッツ強制収容所に入れられたのが最初

*1941年ナチス司令官ヒムラーが来訪。増設命令により、10万人規模の第二(ビルケナウ)、4000人規模の第三(化学工場)収容所の建設に従事

*最も大切なことは、目と耳を使って「働いた振りをすること」だった

*1942年後半以降は、囚人番号は実際の入所者の半分程度、残りは「収容所」ではなく直接「ガス室」送りだった

*ポーランド人の村人は、5・6キロ離れた所に疎開させられた。収監されている人と一般ポーランド人が、抵抗行動で連帯していた。「収容所の様子を外へ伝える事」が最も価値のある活動だった。脱走して伝えるのが一番効果的ではあったが、見つかると銃殺刑だった。ナチス軍人は射殺すると3日間の休暇が与えられていた。「生きてこの現実を世界に伝える」ことこそ、最大のレジスタンス

*ビルケナウは湿地で、脱走しても臭いをけしてくれるので、ナチスの犬を使った追跡をかわす事だ可能だった

*ロシア軍が東から迫り、不安になったナチス親衛隊は、戦争責任を隠そうと「モーラ計画」を策定し、ビルケナウに収監した人々の皆殺しと施設の破壊を企てた

*1945年1月18日に死の行進が始まり、アルプスの近くまで移送された。5月6日にアメリカ軍により解放されて、5年ぶりに故郷に戻り、法学部学生となった。戦後はニュールンベルグ裁判で証人として出廷したが、ナチスの被告たちはウソをつくか押し黙っていて、謝罪の言葉は全くなかった。

*ビルケナウに到着間もない200枚の写真には、死体は写ってなく静かではあるが、現実は家族を探す絶叫が2・3時間は続いたはずである

*100万人以上の人が殺された事実を想像することは難しい

列車の引き込み線

列車の引き込み線

ビルケナウ収容所外から

ビルケナウ収容所外から

アウシュヴィッツ、・・・・ (3)

Posted by 秋山孝二
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 中谷さんの1時間半を越える説明から、幾つか印象に残ったフレーズを書き留めておきます。

*「よそ者」の自分には、このアウシュヴィッツの意義が一層理解できるhttp://www.hanmoto.com/bd/isbn978-4-7736-2907-1.html

*人道的に許せない、という視点ばかりではなく、20世紀のある時期に「国策として」実行された歴史的事実と認識して頂きたい

*一時の、或いは積年の「感情」だけではなく、ホロコーストには「仕組み・システム」が存在していた。自分たちと無縁の事ではない

*経済的インセンティブがシステムとして組み込まれていた事実、これは再び起こる可能性を暗示してもいる

*元所長ルドルフ・ヘスは家族とともにガス室近くの官舎に住んでいた。冷酷な人間という訳でもなかったらしく、官舎横には家庭菜園もつくっており、ナチス司令官ヒムラーと一緒に農業談義もよくしていたとの話もある。二人とも植物を愛でるタイプの人間でもあったのだ。一連の虐殺を個人的属性に帰するのは誤解のもとになるだけ。当事者は「職務」として実行しており、家に帰れば「良きパパ」だったに違いない 

*日本の平均的教育レベルの高さに期待している。ただ極限状態に追い込まれた時に、どの程度理性的に行動し得るのか、人間の本生の赴くままになってしまうのか、それが今もこれからも問われるのだろう

ガス室入口

ガス室入口

ヘス所長の官舎(右奥の建物)

ヘス所長の官舎(左奥の建物)

アウシュヴィッツ、・・・・ (2)

Posted by 秋山孝二
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 スモーレンさんのお話の後、アウシュヴィッツのもう一つの収容所ビルケナウにも行き、約2時間、一番奥まで熱心に歩いて見学をしました。ここはホロコースト終盤の「大量殺りく」を目的とした場をうかがい知るに十分な広大な敷地でした。「シャワー室」、「ガス室」、「焼却所」が一体化した建物にその意図を感じますし、人々が収容されていた施設もかなり劣悪です。また同時に、この活動の責任追及を恐れたナチスが、証拠隠滅を図るべく爆破した残骸が復元されるでもなくそのまま目の前に存在していることが、より一層ナチスの追い込まれた歴史的立場を象徴しています。

ビルケナウの鉄道と門
ビルケナウの鉄道と門

恥ずかしながらこれまでの私のイメージの中には、二つの場所が一つになっていることをビルケナウに来て初めて分かりました。

爆破されてもなお残る焼却炉他
爆破されてもなお残る焼却炉他

アウシュヴィッツ展示の説得力は、「そのまま」であることなのかもしれません。「復元」は本当に少なく、施設等の建物は当時のままであり、偶然に残った、或いはポーランド・レジスタンスがクラクフ経由でロンドンの臨時亡命政府に秘密裏に伝えた写真・メモ等の展示となっています。目の前の施設は全く無言の施設・展示物、人々の存在は白黒のやや色あせた写真の中だけです。それ故に、見学者個々の思考と想像力に依拠した問題提起となるのでしょう。「伝える」活動の重要性、「無かった」事にしようとする危険性、ふと世界共通の課題だと納得しました。

そして更に、量的な意味では、目の前には常識的には「大量の」施設、靴・髪の毛等の遺留品展示なのですが、それが極々一部であるという気の遠くなる犠牲者の数の多さを想像すると、一層今を生きる私たちにも恐怖が伝わってきます。
地元・近隣と思われる沢山の高校生の見学者の表情も真剣でした。

アウシュヴィッツ、・・・・ (1)

Posted by 秋山孝二
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 クラクフからバスで1時間半、アウシュヴィッツ強制収容所(国立オシヴィエンチム博物館)に到着しました。構内に一歩入って驚きました、何とも整然とした大学キャンパスを思い出させる光景だったからです。わずか60数年前に、本当にこの場所でホロコーストが起きたのか、とにわかには信じがたい静寂でした。

収容所構内

収容所構内

ここで唯一の外国人ガイド中谷剛さんの説明により約1時間半のツアーでした。内容は下記のアドレスにありますので、省略致します。http://www1.linkclub.or.jp/~ttakeshi/porhtml/pora01.html

「あとがき」からの引用です**************************

映画「夜と霧」の最後の字幕を紹介しておこう。

   遠ざかる映像の前で
   希望が回復したふりをする
   ある国のある時期の話と言い聞かせ
   絶え間ない悲鳴に 耳を貸さぬ我々がいる

 実際にアウシュビッツを訪れてみると、たぶんここで何も考えない人はいないと思う。しかし、ここで起こった出来事を、ある国のある時期の話なんだと、僕を含めてみんな少しは思ってしまっているだろう。
 ヒトラーがユダヤ人を迫害しようと考えたのは、歴史の中で急に現れた狂気的な発想というわけではない。ヒトラーがそれまでの人生の中で学んできたことの集大成で、そのような発想に至ったのだ。これは、それまでのヨーロッパの人々のユダヤ人に対する考え方というものとは絶対切り離すことはできないと思う。
 個人が持つちょっとした差別的な思いが、一気に突き進んでしまうと、こんな悲惨な歴史を作り出してしまうことになるのだ。そのことを意識して、個人それぞれが自分の中のそのような思いについて、もう一度振り返っておくということが、非常に大切なことだと感じた。

最後に、アウシュビッツに行く前に見るべき映画を書いておきます。「シンドラーのリスト」、「夜と霧」、「ライフ イズ ビューティフル」。特に「夜と霧」はアウシュビッツで撮影された映画です。映画というよりもドキュメンタリーみたいなものですが、DVDも発売されていますので、ぜひ行く前に見てください。

******************************引用おわり

彼の著書は読み応えがあります。http://www.hanmoto.com/bd/isbn978-4-7736-2907-1.html

 

午後は、ここで約5年間拘束されていた元ポーランド・レジスタンス(秘密抵抗組織)のスモーレン(88歳)さんが、約1時間半の講演でしたhttp://sanmarie.org/auschwitz。彼はこの博物館の初代館長も務めました。

ポーランド・レジスタンス:スモーレンさん

ポーランド・レジスタンス:スモーレンさん