愛生舘の「こころ」 (18)

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 今年は夏の終わりから今日まで超多忙な毎日が続き、愛生舘の「大鏡」の分解検証についてご報告をするのがすっかり遅れてしまいました。

 秋山財団30周年を記念して、数年前から「愛生舘文庫」創設の一環で歴史のひも解きを続けていますが、8月終わりに、以前から保管してある「愛生舘北海道支部長に送られた大鏡」を、100年の時代を経て分解し、年代の特定を試みました。

* 「愛生舘北海道支部長に送られた大鏡」――> http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=1198

 まずは背板に残る貼り紙の一部を外側から再確認です、ほぼ、いつ頃の時刻表かは分かっています。

汽車の時刻表、年代特定の重要な資料

汽車の時刻表、年代特定の重要な資料

 「れきけん(http://nporekiken.com/)」の東田秀美さんに、ガラス店・職人の福田さんをご紹介して頂き、いよいよ分解を開始、ガラスを気遣いながら、慎重に背板の釘を一本一本抜いていきました。「れきけん」は、秋山財団のネットワーク形成事業助成で応援しています(http://www.akiyama-foundation.org/history/history_09)。

慎重に釘を抜いていく

慎重に釘を抜いて

 ガラスと背板の隙間に挟んであった新聞紙と思われていた紙は、実はポスターでした。新聞紙だといろいろ情報が読み取れると期待していたので少々残念でしたが、このポスターにも情報は満載で、「札幌松竹座」、「クラブ乳液」ほか、年代特定の大きな手掛かりの予感がしました。ただ、これはガラス製造時期、贈呈時期とは少し違い、送られた後に札幌で一度背板を外して入れられたものと推定できます。商品販売のプロモーションとして映画ご招待といった企画が当時から行われていた、また別の発見も面白かったですね。

ポスターには情報満載!

ポスターには情報満載!

 早速、製造メーカーを調べて検索し、このボトルとデザインから年代を特定できました。

製造メーカーに問い合わせて年代を特定!

製造メーカーに問い合わせて年代を特定!

 今回の一番の発見は、ガラス塗料の検証です。今現在、成分を分析して、この塗料が使用されていた年代を解き明かすことができると期待しています。鉛成分の毒性から、この分野での成分改良も現在まで随分進んでいるとのことも知りました。

初めて開陳された鏡の裏側

初めて開陳された鏡の裏側

 歴史は細部に宿る(?)、数回打ち直された鍵穴も見て取れます。間に挟まっていた先述の2枚の折りたたんだポスターも、贈られた以降に一度背板を外して安定させるために挿入されたものと推察できます。釘穴の後を検証すると、素人が打ち込んだようだと福田さんはおっしゃっていました。

複数回打ち直された釘穴の後

複数回打ち直された釘穴の後

鏡の塗料成分から年代を特定中!

鏡の塗料成分から年代を特定中!

 毎年夏に札幌に避暑で滞在されている片桐一男先生、愛生館文庫創設にお力を借りている山下秀子さんも、背板の細部の検証に集中していました。

背板の細部も検証しながら

背板の細部も検証しながら

 歴史の発掘は、まさに考古学と似た手法なのでしょうね、木製の鏡枠は時の経過を刻み、一つ一つの構成物からも時代時代の特徴を検証できる、本当にエキサイティングな時間でした。現在まだ財団事務所に分解したままに置いていますが、分析中の結果が分かり次第、また組み立てて永く大切に保管し、皆さまのお目にも触れるべく展示したいと思っています。

 永い眠りから息を吹き返した大鏡、本当に愛おしく思えた瞬間でした。

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愛生舘社宝「鏡」の解体調査状況について

解体年月日:平成28817

(秋山理事長、解体者福田ガラス店社長、片桐一男先生傍観、山下)

①裏板の調査について

●列車時刻表の年月日の調査

明治4232日第三種郵便物認可と書かれていることが判明。(但し、何枚かの紙が重なって貼られているため、鏡が出来た時期はそれより早と推定される)

②鏡と板の間から見つかったポスターについて

●札幌松竹座=1925(大正14年南4西3)改称、2年後に火事1929に改築、前身は大黒座として1897に開業)

●ポスターのホルモン含有クラブ乳液(旧中山太陽堂発売)

19311935/昭和6~10年以降に松竹座の広告媒体となったものである)

③愛生舘社宝「鏡」の製造年の特定

●松本順の栄典事項により明治26年から38年(正四位勲二等)に作られたものである。製造年の特定は、調査継続中。

④鏡(8mm)の裏止め塗装・レンガ色の種類の特定

文字を鏡の中に入れる製法について

●④並びに⑤は調査中

(参考)研きガラス(8mm)→鏡に加工(特注)したと考えられる(福田ガラス店社長)

・通常の規格寸法は36インチ×24インチである。

・愛生舘鏡の基板寸法=100インチ(2410mm)×75インチ(1905mm)

11月末を目処に調査を終了する予定

(平成28107日現在 山下)

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愛生舘の「こころ」 (14)

Posted by 秋山孝二
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 このブログのシリーズ「愛生舘の『こころ』」は、第13回を終えてしばらくお休みしていましたが、本当に久しぶりに再開致します。というのも、今年4月から始まる年度は、秋山財団設立30周年の節目の年になり、基本財産の出捐者・秋山喜代の遺志でまだ私が実現していない「愛生舘文庫」の創設に向けて、新たなスタートを切りました。

 これまでのシリーズ「愛生舘の『こころ』」はこちら――> http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E6%84%9B%E7%94%9F%E8%88%98%E3%81%AE%E3%80%8C%E3%81%93%E3%81%93%E3%82%8D%E3%80%8D

  この4年間、私は、秋山喜代の最後の住まいで、今は秋山財団事務所になっている建物倉庫の整理と、「愛生舘」にまつわる資料の収集・整理を空いた時間を見つけては行ってきたつもりです。なかなか進展していなかったのですが、昨年、助っ人を得て、資料収集も最後の局面を迎えつつあります。

 先日は、これまでも「古文書講座」等でお世話になっている青山学院大学名誉教授・片桐一男先生とご一緒に、松本順先生のご親族・松本和彦先生を訪問して参りました。貴重な資料をお借りできたので、さらに資料整理と分析・解読を進めていきます。

* 古文書講座 http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E5%8F%A4%E6%96%87%E6%9B%B8%E8%AC%9B%E5%BA%A7

松本和彦先生(左)、片桐一男先生(右)

松本和彦先生(左)、片桐一男先生(右)

 貴重な品いくつかも拝見しました、刻まれた文字に価値があります。

蘭畴は松本順先生

蘭畴は松本順先生

 松本順先生のご業績と愛生舘との繋がり、そして秋山財団がなぜ「愛生舘文庫」なのか、以前のブログから引用します。

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 片桐先生は冒頭、「世界の中で新しい国家建設が迫られている時期、必要とされていたのは『海軍力』で、それも緊急性を帯びていた。日本が独立国家として成り立っていく思想・技術、そしてそれを担う人材、すなわち『体力』をつける目的で長崎海軍伝習があった」、とおっしゃいました。そもそも蘭学が江戸時代に静かに研究されていたのは、北方ロシアの東方進攻・南下の脅威に対してその対抗的思想・哲学の必要性からと、先生から伺ったことがありました。

 以前にも書きましたが(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=1096)、その第二次海軍伝習(実質的な「医学伝習」)で松本順は中心的役割を担いました。ポンぺからのオランダ語を介した伝習を、集まった全国各藩の弟子たちに伝えることで、それ以降の近代医学・医療の基礎を築きました。

 松本順の功績のまとめとして 1) 持って生まれた資質を生涯を掛けて伸ばし続けた:ポンぺの伝習から総合的技術を取得、実践――野戦病院・衛生思想等

2) 人との出会い、ポイント3人:松本良甫(ポンぺからの伝習)、山県有朋(陸軍病院等の基準策定)、高松保郎(愛生舘事業)

3) 彼のしなかったこと:オランダに留学等で行かなかった、制度が出来るとバトンタッチ・チャンスの移譲

4) 彼の目指したこと:庶民への眼差し「愛生済民」――愛生舘三十六方、衛生思想の徹底、アジア・世界の体力向上

5) 彼の日常生活――身の回りをいつも「楽」にしておくこと

 最後のまとめで、片桐先生は、「松本順の活きた人間像が把握されていない、激動の歴史の中で埋もれていた原因は、激変する維新から明治時代では文字を通してのメッセージの伝達が難しかったのではないか、それは庶民の教育レベルが江戸時代よりもむしろ劣化していたことを意味している」、と看破されていました。

 牛乳の効用、海水浴の普及等、今では常識になっている健康増進・普及に関して最初の井戸を掘った人物、それが「初代陸軍軍医総監」等の評価以上の歴史的意味を、彼の人生から読み取ることが出来るのでしょう。

 翌日、私の手元に「松本順と北海道」という3部にわたる小論文を届けて頂いた札幌在住の医師・宮下舜一先生とお話をしました。講演会にもご出席頂き、先生の論文には、何と明治24年6月に、松本順が北海道(函館・小樽・札幌)に20日間程度来ている記録が、小樽では道内に在住していた弟子たちと一緒に撮影した記念写真まで掲載されていました。

 (株)秋山愛生舘が「愛生舘北海道支部」から独立したのが明治24年11月ですので、この時にどこかで初代秋山康之進と再会していた可能性は大変高いと思いました。引き続き調査・研究の必要がありますね、また一つ目の前に解き明かす課題が見つかりました。

 今回、私は片桐先生に敢えて「秋山愛生舘」ではなく、「愛生舘」についてお話をして頂きたいと事前にお願いを致しました。講演会に参加された道内の「シンパ」の方々には、「愛生舘事業をしっかり今の時代にも受け継いできたのは、唯一この北海道の地ではないか、どうしてもっとそれに言及しないのか!」と叱られそうですが、21世紀の今、広い意味で「愛生舘事業のこころざし:愛生済民」の原点回帰を、秋山財団的には記念すべき25周年を機に目指す、そう是非ご理解を頂きたいと思います。

 この講演会をキックオフとして、今後「愛生文庫」を軸とした資料室の創設も企画する予定です。ご関心のある方の率直なご意見もお待ちしています。 ~~~~~~~~~~~~~~ 引用おわり

 宣言をしてから4年以上経ってしまいましたが、今年・来年中には必ず創設しますので、乞うご期待!です。

サンプロ 9月例会 2014

Posted by 秋山孝二
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 異業種交流会「サンプロ」の9月例会が愛生舘サロン(http://aiseikan.net/salonで開かれました。これまでにも何回か書いています。

* http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=18511

* http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=753

 毎回、各参加者から示唆に富む話題提供があり、大変貴重なひと時です。今回は私からは、この数年ずっと参加している「寺島実郎経営戦略塾」、「リレー塾」から、今の各界の日本人リーダーに欠ける「歴史認識」、特に近代史について報告しました。

* 「ON THE WAY ジャーナル WEEKEND 月刊寺島実郎の世界」(http://www.jfn.jp/RadioShows/owj_tera

私のレジュメより~~~~~~~~~

~寺島文庫第5期リレー塾・第一回 講師 寺島実郎 より~

<日本>

アベノミクス 1)株高幻想 2)プチ・ナショナリズム症候群

――積み重ねてきた国際社会の中での日本の努力を一気にダメにする

政界、メディア、経済界、リーダーの見識の無さ:一番の原因は、「歴史認識の欠如」

――戦後教育における「近代史の欠落

――「日本史」、「世界史」に代わる「グローバルヒストリー」の概念

遡る歴史:戦後日本>20世紀>近代――>「17世紀オランダ

「近代史」 17世紀オランダの日本への影響 <別資料参照>

「近代」を理解するために「江戸期」の国家観を固める――本居宣長ほか

「近代」 1)デモクラシー(フランス革命、米独立戦争etc)個の自立、2)科学技術、3)資本主義 東インド会社(オランダ)

<ヨーロッパ・アメリカ>

2014年のヨーロッパは、「第一次世界大戦から100

――1914年 サラエボ事件

――4つの敗戦した帝國:ドイツ、オ・ハ二重帝国、オスマン、ロシア

――>中東の戦勝国(イギリス、フランスetc)による分割――ウイーンはロンドンへ1,254 km、イスタンブールへ1,255 km

ヨーロッパの中心だった:オーストリア・ハンガリー二重帝国(フランツ・ヨーゼフ、ハプスブルク家)

――現在のヨーロッパにイスラム教徒 1,500万人を超す(トルコから)

*二重構造 金持ちアラブと不法移民etc 抑圧されたアラブ

シュミット(ドイツ)、「21世紀はイスラムとの対話の時代」

現在の中東

1)アメリカの存在感の薄れ――イラク政策の失敗

アメリカ*エネルギー(原油、シェールガス)で世界一

*実体経済の回復 失業率6.1%、輸出No1「エネルギー」、

次世代ICT(ビッグデータ、クラウド)等戦略的産業の構築

2)地域パワーの台頭 イラン(シーア派)とトルコ(中央アジアを含む)

* プーチンのしたたかさ 中東の混乱―>オイル価格のアップ ――> ロシアへの追い風

日本   ロシアへのエネルギー依存――G7にも良い顔をしたい <矛盾を抱えている現実>

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ レジュメコピー おわり

 「17世紀オランダ」は、私にとっては蘭学研究の第一人者・片桐一男先生、さらには長崎での「第二次海軍伝習(=医学伝習)」、「愛生舘」へと繋がり、本当に不思議な歴史の縁を感じます。

* 片桐一男先生 http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E7%89%87%E6%A1%

* 医学伝習 http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E5%8C%BB%E5%AD%

古文書講座 2013

Posted by 秋山孝二
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 今年で3回目の「古文書講座」は「愛生舘サロン」での開催でしたが、いよいよこのシリーズの最終回となりました。

 片桐一男先生には、一昨年の陸別訪問(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=9524http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=9531)、財団記念講演はじめ、「『愛生舘』のルーツ探訪」、「蘭学と北海道の歴史」等、この間、本当にお世話になっています。

 過年度分については、これまでにこの欄にも数回記載しています。

http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=9504

http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=10144

http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=13990

http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=15739

今年も満席の講座

今年も満席の講座

片桐一男先生のユニークな板書、今年は湿度が高く文字の乾きも遅かった!

片桐一男先生のユニークな板書、今年は湿度が高く文字の乾きも遅かった!

 一昨年、片桐先生から贈られた松本順先生の揮毫「発祥致福」、昨年額装しましたが、今年は文字、三ケ所の印文全ての解説文を贈呈して頂きました、印文の文字一字の解読に3年の月日を要したと。

解説文1ページ目、本文、印文の解読解説

解説文1ページ目、本文、印文の解読解説

解説文2ページ目、秋山財団の宝として

解説文2ページ目、秋山財団の宝として

 文字を通じての歴史の再発見、紙の奥に拡がる悠久の歴史の音・叫び、それに耳を傾けるひと時の集中した時間は、本当に「修行」のような体験でした。

洋学史研究会 2013

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 青山学院大学名誉教授・片桐一男先生が代表をつとめる「洋学史研究会」の新春の会が開催されました。片桐先生については、愛生舘、古文書講座等で、これまで何回も書き留めています(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E7%89%87%E6%A1%90%E4%B8%80%E7%94%B7)。

 今回のテーマは、「ゴローウニン事件解決200年ー日露民間外交成功に学ぶ」で、北海道と海外との歴史にも大きな関係があり、大変興味深い内容でした。報告は、以下の四題でした。

* 「ゴローウニン事件と日蘭関係」 松本英治さん(開成高等学校教諭)

* 「ゴローウニン事件と『ムール獄中上表』」 岩下哲典さん(明海大学ホスピタリティー・ツーリズム学部教授)

* 「高田屋嘉兵衛と『異国境』」 濱口裕介さん(足立学園高等学校常勤講師)

* 「リコルドと高田屋嘉兵衛ー『高田屋嘉兵衛話』にみる智力・胆力と信頼・友情ー」 片桐一男さん(青山学院大学名誉教授

 

 日本は鎖国時代に、長崎・出島のオランダ人達から海外の情報を得ていたと、私たちは学校の歴史で習ってきました。ただ、当時の幕府方は必ずしもオランダ人から得る情報だけに頼っていた訳ではなかったようです。特にヨーロッパ情勢の中で、オランダ自身を取り巻く状況については、オランダ商館長・ドゥーフの言は歯切れが悪く、幕府方は北海道・松前で得たロシア経由の情報を比較・分析して、ヨーロッパ情勢の把握につとめていたことが明らかになっています。

 そのロシア経由の情報というのが、北海道を中心とする北方関係の重要性を物語っているのですね。特に当時のナポレオン情報は、ゴローウニン事件で得たもの、特に一行の中にいたロシア軍人ムールの「獄中上表」だったと岩下先生は指摘していました。また、徳川幕府の情報管理についても大変興味深いお話もありました。「鎖国」という言葉の妥当性、「海禁」についての言及、幕府の情報収集を巡っての戦略は、海岸防備とともに、今の時代より遥かに神経をとがらせていた、そんな気がします。

 濱口先生のお話は、19世紀初頭は、日本北辺地域で蝦夷地の内国化、「国境」画定が課題になった時期という認識の下、高田屋嘉兵衛(http://www.ikemi-net.com/takadaya/)の果たした北方史的視点からの役割、例えば、エトロフ島の「開島」、「国境」の画定等、エトロフ島の開発、日本領化への寄与についてでした。さらに、結果として先住民社会に大きな影響を与えたことも説明されていました。

 片桐先生は、ゴローウニン事件の当事者としてリコルドと高田屋嘉兵衛のやり取りを、それぞれの著書、「対日折衝記」、「高田屋嘉兵衛話」から読み解きました。そして、高田屋嘉兵衛の人物像として、1)自分の立ち位置をよく認識していた、国際関係、日露関係等で、一商人・一航海士を越えた人物、2)ロシア側に「技術」を教え、これを梃子に交渉、3)幕府を啓発、4)リコルドとのギリギリの交渉を通じて、両者の信頼関係を構築、を挙げました。

 これまで私自身、高田屋嘉兵衛は商人としての業績は承知していたつもりですが、ゴローウニン事件を通じての彼の人物像は、まさに「タフ・ネゴシエーター」を思わせる交渉力です。とかく長崎・出島が海外窓口として注目されていますが、それとほぼ同じ時代に、北辺でも同様なロシア他からの情報収集が国防的側面からも重要な位置づけをされていたこと、これらの事実から、北海道の歴史、地勢学的価値も大きく変わってくるのだと思います。

 北海道に住む私たちが、簡単に「歴史が浅い」などと言っては自らの存在価値を矮小化してしまいます。そんな意味でも、私にとっては大変貴重な発表でした。

第2回 古文書講座~片桐一男先生

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 昨年に引き続き(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=9504)、今年も片桐一男先生による「古文書講座」を開催しました。4日間と、昨年より1日短縮となりましたが、内容は古文書解読を重点的に講座は充実していました。

 講義の初日、昨年、片桐先生からご寄贈頂いた松本良順先生の書を、秋山財団で額に整えて、まず冒頭でご披露しました。今後、秋山財団事務所内に飾る予定です。

「発 祥 致 福」、松本順先生筆

「発 祥 致 福」、松本順先生筆

  今年の受講者の中には、昨年に引き続きの参加の方々も多く、一層熱心な講座でした。扱った文章が、当時の上司からの指示を仰ぐ文書等、実際のやり取りの書簡とかだったので、リアルな現場の様子も垣間見ることが出来てより興味をそそられました。

今年は解読を主に

今年は解読を主に

4日間、熱心な参加者

4日間、熱心な参加者

  昨年は、翌日早くに陸別に向けて札幌を発たねばならず(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=9524 、 http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=9531)実現しなかった懇親会が、今年は最終日講義終了後に、多くの参加者とともに片桐先生を囲んで和気あいあいの場となりました。皆さん、長年、古文書と向き合っている方ばかり、幕末から維新に掛けて、外国人訪問者とのやり取りにもお詳しく、あらためて北海道と諸外国との交流の歴史を知りました。ともすると「開拓使」からしか始まらない北海道の歴史ですが、幕末に、オランダ・ロシアとの交渉等、北海道の地の位置づけを再認識する貴重な文書に出会い、感動した4日間でした。

 片桐一男先生は、今年は7月上旬から3カ月間札幌に滞在し、北海道の素晴らし夏を満喫なさるとのこと、本当に心から御礼申し上げます、また、ご参加頂いた皆さまにも、感謝申し上げます、ありがとうございました。

秋山財団、<25周年記念>

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 「公益財団法人 秋山記念生命科学振興財団(http://www.akiyama-foundation.org/)<25周年記念>講演会・贈呈式」が先日開催されました。毎年9月に行われていますが、今年は設立25周年記念の節目となりました。当日、私自身は写真をとる暇がなく、リアルな現場の模様をお伝えできないのが残念ですが、後日HPにアップ出来ると思いますので、そちらでご覧いただけると嬉しいです。

 テレビ・ラジオ・新聞でもお馴染みの北海道出身・寺島実郎(http://terashima-bunko.com/)さんの講演会には、約300人の聴衆が参加し、熱心に聞き入っていました。

 最近の寺島実郎さんは、2011年5月10日に親鸞聖人750回忌講演会で「今を生きる親鸞」の題でご講演、ご存知のように、親鸞は浄土真宗の開祖であり、50年前の700回忌の講演会演者が鈴木大拙(禅文化・仏教学者:http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E9%88%B4%E6%9C%A8%E5%A4%A7%E6%8B%99)で、寺島氏は現在、鈴木大拙の鎌倉・松ヶ岡文庫(http://matsugaoka-bunko.com/ja/index.html)の理事も務めていて、不思議なご縁を感じます。

 またそれに先立つ2007年8月4日には、90年の節目の高野山大学(http://www.koyasan-u.ac.jp/)夏季講座、で、「現代に生きる空海――経済人の視点から学ぶべきこと」と題してご講演、これまでにこの場では、新渡戸稲造、司馬遼太郎等の方々もお話をされています。

 さらに、直近で発売された月刊誌「世界:http://www.iwanami.co.jp/sekai/」10月号では、連載「脳力のレッスン」で、自らこの10年のご自分の発言を検証・総括されています。 

講演会パンフ:今年は25周年記念として演者に寺島実郎氏

講演会パンフ:今年は25周年記念として演者に寺島実郎氏

 その後に、受賞者、来賓、財団関係者が出席して、贈呈式が行われました(http://www.akiyama-foundation.org/what/index.php?year=2011&mon=06&day=30#36)。

来賓として北大・佐伯総長、財団賞受賞者・浅香正博先生

来賓として北大・佐伯浩総長、財団賞受賞者・浅香正博先生

 冒頭の私の挨拶で、財団の現況をお越し頂いたみなさんにご報告しました~~~~~以下、引用です。

1つ目は、一昨年12月から、「公益財団法人」という法人格として、順調に活動を始めており、つい先日は北海道庁担当者による最初の監査も終了しました。「民が担う新しい公共」として、確実に財政基盤を固めつつ、なお一層311以降の北海道の将来に向けて貢献する決意を新たにしています。

 

2つ目は冒頭にも申し上げましたが、今年、秋山財団設立25周年を迎えるにあたり、昨年度から「記念事業」を推進しています。昨年の片桐一男先生の記念講演会はその第一弾であり、この財団の原点であります「『愛生舘事業』の志」を再度確認する意図で開催致しました。今年は、それをまとめた「ブックレット」の発刊、資料・書籍の収集・調査研究の継続、そして今年7月には片桐先生による5日間連続の「古文書講座」を開催して、広く本州からも含めて多くの市民のご参加を頂きました。

 

3つ目は「コラボレーション」、「ネットワーク」の視座、拡がりへの期待です。いわゆる研究分野での「アウトリーチ活動」であり、市民活動分野での「コラボレーション」です。たとえば、昨年財団賞を受賞された上田宏先生は、今年の札幌でご自身が主宰する国際学会で「市民講座」を開催されました。市民活動助成では、当財団と前田一歩園財団さんとの共同で報告会を開催し、その模様をustreamでライブ・録画配信して多くの方々と共有しました。また、研究助成の募集要項には、「アウトリーチ活動」の要望を書き込みました。これから益々、ソーシャルメディア等も駆使した研究者と一般市民とのコラボレーションが、成熟した市民社会の醸成に寄与すると信じています。http://www.akiyama-foundation.org/what/index.php?year=2011&mon=07&day=01#37

 

4つ目は、今検討中のものですが、財団と助成受領者・団体との「パートナーシップの形成」です。今年度中に、「秋山財団の未来像2011」を策定し、助成受領者には論文掲載等の機会提供支援、受領団体とは密接な活動報告とアドバイス等、インターネットのホームページも駆使して、共に進化していく財団でありたいと思っています。

 

以上ご報告しました様に、当財団は一歩一歩ではありますが、皆さま方の率直なご意見・ご提言に耳を傾け、25周年を節目として、財団の初心である「生命科学(いのち)の視座」を忘れることなく、着実に前進して参りたいと思っています。

 贈呈式後の懇親会にも多数ご参加を頂き、多くの交流が図られたようで良かったです。年に一度の財団としてのメインイベントが大盛況で終了し、また来年からワンランク上のステージで少しでもお役に立ちたいと気持を新たに致しました。

 なお、「新渡戸・南原賞:http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=35」の受賞式は、9月26日に東京神田・学士会館で開催予定です。昨年の様子はこの欄にも書き留めました(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=6170)。東京でも新たな出会いがあることを楽しみにしています。

 これまで秋山財団を応援して頂いた皆さまに、心から御礼申し上げます。今後とも宜しくご指導をお願い致します。

陸別で、関 寛斎の足跡(1)

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 片桐一男先生のお供で、道東の陸別町(http://www.town.rikubetsu.hokkaido.jp/)を訪問し、関寛斎の足跡を辿りました(http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/23692625.html)。陸別町は「全国最低気温」の地として、天気予報等でもよく名前が出て来ます。今回、松本順と長崎海軍伝習・医学伝習(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E5%8C%BB%E5%AD%A6%E4%BC%9D%E7%BF%92)の延長上で、関寛斎の更なる功績を実感すべく足をのばし、予想通り、関寛斎の「北の大地」で果てしない夢の実現に向けた奮闘を体感しました。地元の斎藤省三さん、向井啓さん、大鳥居仁さんには、お休みの所ご案内頂き、心から感謝申し上げます。

関寛斎・埋葬の丘から陸別町方面を望む

郊外にある関寛斎・埋葬の丘から陸別町方面を望む

丘の頂上に置かれた墓碑

丘の頂上に置かれた墓碑

青龍山・史跡ユクエピラチャシ跡に建つ関寛翁碑

青龍山・史跡ユクエピラチャシ跡に建つ関寛翁碑

 上総国山辺郡中村(現在の千葉県東金市)に生まれ、儒者・関俊輔の養子となり、佐倉順天堂(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=4429)で医学を学びました。その後、長崎の第二次海軍伝習(医学伝習)に参画し、松本順と出会います。1年数カ月の勉学の後、奥羽、山梨、徳島と各地で地域医療の基礎を築き、明治35年に72歳で北海道・十勝国斗満(トマム)に入植して、自作農育成に力を注ぎました。開拓方針を、二宮尊親の二宮農場に求め、徳富蘆花との手紙のやり取り等多彩な活動でしたが、82歳の秋に、自らの命を絶った波乱万丈の人生でした。

大盛況!「夏季古文書講座」

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 公益財団法人 秋山記念生命科学振興財団(http://www.akiyama-foundation.org/)の25周年記念事業の一つ、「夏季古文書講座」が今週月曜日から5回開催されて、今晩で最終回を迎えます。連日熱心な受講者と相まって大盛況です。講師の片桐一男先生は、蘭学史・洋学史・日蘭文化交渉史の第一人者で、幕末・維新ほか、オランダ(阿蘭陀)との関係からみる日本のこの500年の歴史は興味深いです、以下、チラシからの転載です。

~~~~~~ 講師   青山学院大学名誉教授  片桐  一男 先生(洋学史研究会会長)

 

「『くずし字』の古文書(こもんじょ)が読めたらいいのになぁ」と思ったことはありませんか。取り上げます古文書教材は、「水書板」に「ふで」を使って『くずし字』の古文書の全文を書き写し、そのうえで、読解文を全文書き示しますので、初心者の老若男女、みんな楽しんで読めるようになります。

鎖国から開国への急激なショックで始まった長崎の海軍伝習と医学伝習は、日本の近代国家建設にどのように役立ったのか。

勝海舟と松本順の狙いと行動を示す古文書の読解を通じて、歴史の現場が鮮明に浮かび上がります。未公開古文書の読解を楽しんでください。

 

◎ プログラム(どの回からでも受講できます)

   

       

7月25日(月)

勝海舟の狙い ― 「愚存申上候書付」 ―

7月26日(火)

長崎の海軍伝習 ― 時間表・オランダ通詞・咸臨丸 ―

7月27日(水)

勝海舟の「蚊鳴餘言」 ― 世界のなかのトクガワ・ニッポン ―

7月28日(木)

長崎の医学伝習 ― ポンペ・松本順・養生所 ―

7月29日(金)

「愛生館」事業 ― 松本順と髙松保郎 ―

夜間講座にたくさんの受講者

夜間講座にたくさんの受講者

テキストとして:「咸臨丸」、「松本良順」

テキストとして:「咸臨丸」、「松本良順」

 これまで私にとっては少々敷居が高かった「古文書」ですが、片桐先生の分かりやすい解説により、「解読する楽しさ」を体験しています。日記というものから、本人の心証だけではなく、時代の様子、伝習の雰囲気等を読み解き、想像していくわくわく感とでも言うのでしょうか、新しい発見でした。個別の古文書を重ね合わせる、誤字を発見する、省略の記号を解釈する、そのプロセスの面白さは、かなりの根気も必要ですが、扉を一つづつ開けて新しい世界を知っていくような、素晴らしいひと時でした。

 鎖国から開国への急激な時代の変化の中で始まった長崎の「海軍伝習:http://www.mirai.ne.jp/~jkj8/nagasaki.htm」と第二次海軍伝習としての「医学伝習:http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=5595」は、日本の近代国家建設にどのように役に立ったのか、その一端を理解できたような気がします。

愛生舘の「こころ」 (12)

Posted by 秋山孝二
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 秋山財団の設立25周年プレ企画講演会(http://www.akiyama-foundation.org/what/index.php?year=2010&mon=08&day=06#27)で、「幕末・維新、いのちを支えた先駆者の軌跡~松本順と『愛生舘』事業~」と題して、青山学院大学名誉教授・片桐一男(http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/%95%D0%8B%CB%81@%88%EA%92j/list.html)先生が大変興味深いお話をされました。当日配布された資料も極めて貴重なものばかり、もしご必要な方は、秋山財団事務局までご連絡頂ければ、折り返し郵送か、PDFファイルでメール添付致します。

年譜を含めて全8枚の貴重な資料

年譜を含めて全8枚の貴重な資料

  1年半前に今回の講演を依頼して実現しました。素晴らしい内容で、あらためて「松本順」の波乱の人生を追いかけることが出来ました。当日会場には、自然科学系研究者の方々も多かったのですが、古文書を一字一字読み解いていくアプローチは、大変新鮮な印象を受けたと口々に語っていました。人生そのものへの興味を持った方のご参加は勿論大変嬉しいのですが、理系研究者と日頃接することの少ない人文科学分野との出会いも今回目論んだ意図でしたので、意義があったのかと喜んでいます。

 片桐先生は冒頭、「世界の中で新しい国家建設が迫られている時期、必要とされていたのは『海軍力』で、それも緊急性を帯びていた。日本が独立国家として成り立っていく思想・技術、そしてそれを担う人材、すなわち『体力』をつける目的で長崎海軍伝習があった」、とおっしゃいました。そもそも蘭学が江戸時代に静かに研究されていたのは、北方ロシアの東方進攻・南下の脅威に対してその対抗的思想・哲学の必要性からと、先生から伺ったことがありました。

 以前にも書きましたが(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=1096)、その第二次海軍伝習(実質的な「医学伝習」)で松本順は中心的役割を担いました。ポンぺからのオランダ語を介した伝習を、集まった全国各藩の弟子たちに伝えることで、それ以降の近代医学・医療の基礎を築きました。

 松本順の功績のまとめとして

1) 持って生まれた資質を生涯を掛けて伸ばし続けた:ポンぺの伝習から総合的技術を取得、実践――野戦病院・衛生思想等

2) 人との出会い、ポイント3人:松本良甫(ポンぺからの伝習)、山県有朋(陸軍病院等の基準策定)、高松保郎(愛生舘事業)

3) 彼のしなかったこと:オランダに留学等で行かなかった、制度が出来るとバトンタッチ・チャンスの移譲

4) 彼の目指したこと:庶民への眼差し「愛生済民」――愛生舘三十六方、衛生思想の徹底、アジア・世界の体力向上

5) 彼の日常生活――身の回りをいつも「楽」にしておくこと

 最後のまとめで、片桐先生は、「松本順の活きた人間像が把握されていない、激動の歴史の中で埋もれていた原因は、激変する維新から明治時代では文字を通してのメッセージの伝達が難しかったのではないか、それは庶民の教育レベルが江戸時代よりもむしろ劣化していたことを意味している」、と看破されていました。

 牛乳の効用、海水浴の普及等、今では常識になっている健康増進・普及に関して最初の井戸を掘った人物、それが「初代陸軍軍医総監」等の評価以上の歴史的意味を、彼の人生から読み取ることが出来るのでしょう。

 翌日、私の手元に「松本順と北海道」という3部にわたる小論文を届けて頂いた札幌在住の医師・宮下舜一先生とお話をしました。講演会にもご出席頂き、先生の論文には、何と明治24年6月に、松本順が北海道(函館・小樽・札幌)に20日間程度来ている記録が、小樽では道内に在住していた弟子たちと一緒に撮影した記念写真まで掲載されていました。

 (株)秋山愛生舘が「愛生舘北海道支部」から独立したのが明治24年11月ですので、この時にどこかで初代秋山康之進と再会していた可能性は大変高いと思いました。引き続き調査・研究の必要がありますね、また一つ目の前に解き明かす課題が見つかりました。

 今回、私は片桐先生に敢えて「秋山愛生舘」ではなく、「愛生舘」についてお話をして頂きたいと事前にお願いを致しました。講演会に参加された道内の「シンパ」の方々には、「愛生舘事業をしっかり今の時代にも受け継いできたのは、唯一この北海道の地ではないか、どうしてもっとそれに言及しないのか!」と叱られそうですが、21世紀の今、広い意味で「愛生舘事業のこころざし:愛生済民」の原点回帰を、秋山財団的には記念すべき25周年を機に目指す、そう是非ご理解を頂きたいと思います。

 この講演会をキックオフとして、今後「愛生文庫」を軸とした資料室の創設も企画する予定です。ご関心のある方の率直なご意見もお待ちしています。

‘71 北アメリカへの一人旅 (5)

Posted by 秋山孝二
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 気がついてみると、もう7月です。昨夕、W杯サッカー岡田ジャパンが日本に戻り、記者会見の様子も昨晩・今朝のニュースでみましたが、岡田武史監督の心配りと懐の深さに、あらためて感動致しました。徹頭徹尾選手を主役に位置づける姿勢に、彼のリーダーシップと選手たちのフォロワーシップを感じました。最後まで素晴らしいパフォーマンスに感謝です!

 この表題シリーズの第一回目(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=2626)で私は、太平洋航路・APL(アメリカン・プレジデント・ライン)所属、「プレジデント・クリーブランド号:http://teikisen.blog84.fc2.com/blog-category-166.html」に乗船して、横浜大桟橋からハワイ・オアフ島ホノルル経由でサンフランシスコに行った、と書きました。

 当時は丁度、ボーイング747(ジャンボジェット)機が就航して間もなくで、人々の関心が大型旅客機に集まっていた時でしたが、「時間のある今、是非、船で太平洋を渡る経験をすべき」とアドバイスしてくれた方がいらっしゃいまして、貨客船の旅となりました。料金的には、片道では若干船(二等船室)の方が安かったような気がします。船旅は等級が厳格で、一等と二等ではデッキも食堂も全く別でした。ハワイで一時船を下りる時に、それまで船内では見なかった一等船客のインド人大富豪一行と初めて出合いました。

 一日が23時間、8日間でハワイ・オアフ島ホノルル港ピア10に到着、ここはあの1941年12月8日未明の日本海軍奇襲攻撃、真珠湾(パールハーバー)からもすぐ近くでした。入国手続きはここで行われるので、事前情報として、「怪しげで貧乏くさい人は、入国管理官から滞在期間を多く貰えない」と聞いていましたので、髪はしっかり分けて髭を剃り、下はバミューダ、上はスーツジャケットにネクタイという不思議な出で立ちで、着席の係官の前に向かったのを鮮明に覚えています。作戦は見事に成功し、6か月間の長期滞在日数を貰いました。

 横浜を出港してすぐ、台風を避ける為に予定航路から南下したので、丸1日余計にかかりました。遅れも半端ではありませんね。台風接近時は、船が数メートルも繰り返し上下し、部屋の丸い窓には鉄製のふたがはめられて緊張感も高まり、更に狭い室内は一晩中きしむ音で寝られませんでした。20数年前のアリューシャンもこんな海だったのかと、キスカ撤退作戦(http://ww31.tiki.ne.jp/~isao-o/battleplane-16kisuka.htm)に旗艦「阿武隈」の通信長として従事した父を思い出し、北と南の違いはあれ、「太平洋の嵐」を実感した貴重な体験でした。

アルバムから:台風接近の海上で

アルバムから:台風接近の海上で

 ホノルル一泊の後に、サンフランシスコに向けて出港しましたが、こちらは一転して気温は低いのですが穏やかな(退屈な?)海が続きました。一週間後の早朝にサンフランシスコ金門橋の下をくぐり、ベイブリッジを通過して湾の奥の桟橋に到着でした。朝もやの金門橋のライトとサンフランシスコのマチの灯を船のデッキから眺めた時、感動というよりも「アメリカに来てしまった」みたいな、震えのくるような不安な気持の方が強かったような気がします。

 一方今年1月に、幕末史研究会に参加した時、「咸臨丸子孫の会:http://www.kanrin-maru.org/」の方々とお話をする機会がありました。今年は咸臨丸が太平洋を渡って150周年の記念すべき年であり、自分たちの祖先が勇敢に太平洋を渡って、生きて帰って来たからこそ今の自分たちがある、そんな趣旨の自己紹介を聞き感動しました。咸臨丸(http://www.d9.dion.ne.jp/~senaun/pageBT11.html)は、アメリカから戻った後も、北海道とは大変縁の深い歴史を辿っています。そして更に、その研究会・交流会で、榎本武揚さんの曾孫で東京農業大学客員教授の榎本隆充さんとお会いして、リアルなお話を聞くことが出来て、幕末維新を身近に感じました。

 4月下旬に、榎本さんから、今度は「開陽丸(http://www.h6.dion.ne.jp/~kaiyou/)子孫の会」総会で、青山学院大学の片桐一男先生が特別講演をされる旨の連絡があり、1月に続き片桐先生のお話を伺いました。1月は「勝海舟と坂本龍馬」、今回は「榎本武揚と開陽丸」、いずれも幕末維新の激動期を生きた人々ですね。開陽丸も北海道とは縁が深く歴史に刻まれています。

 そして先日の「大和ミュージアム:http://www.yamato-museum.com/concept/」、何か今年は「船」、「太平洋」、「日本海軍」、「歴史」の縁が続き、ついでに私の太平洋横断の記憶もたどることができました。

 この2週間の船旅で、多くのカルチャーショックを受けた体験は、今も私の宝となっています。

愛生舘の「こころ」 (10)

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 STVラジオ・毎週日曜日午後5時からの番組「ほっかいどう百年物語」で、2008年10月19日、私の曽祖父「初代秋山康之進」が取り上げられ、今回、中西出版から「第十集」として出版されました。東京・神田岩本町に本部を置き、全国展開した「愛生舘」事業の理念に基づき、北海道支部長として北海道開拓に携わる人々の後方支援としての「健康」に貢献しました。支部を開設して2年後に館主・高松保郎が亡くなり、その後も「愛生舘」の商号を堅持して、「明治」「大正」「昭和」「平成」の時代に活動を続けたのは全国で北海道の地だけでした。

第十集・表紙:右上肖像が初代康之進

第十集・表紙:右上肖像が初代康之進ラジオ番組でも放送されました

 医薬品と衛生書の普及に尽力した様子をリアルに再現したラジオでしたが、本になるとまた別の記録として貴重ですね。取り上げて頂いた関係者の皆さまに感謝致します。

 一方、先日は、青山学院大学名誉教授・片桐一男先生とお会いして、今年9月8日の秋山財団講演会に向けた打ち合わせをして、演題は「松本良順と愛生舘」と決まりました。これまでのこのシリーズで掲載しましたが、民間の健康予防・増進活動の先駆者だった松本良順が、「愛生舘」事業を興した時代背景等について、更に医療・健康分野における近代化の始まりといったテーマにも言及して頂けると期待しています。秋山財団創立25周年記念講演に相応しい、原点を見つめ直す内容となるでしょう。

 幕末から明治の蘭学等を幅広く研究されている片桐一男先生は、北海道とロシアの関係性にも注目をしているとのお話をお聞きしました。ラックスマン――レザノフ――プチャーチンの流れ、当時の日本にとって「北方」からの脅威は、ペリー来航以前から日本への歴史的圧力だったとのご認識でした。

 それにしても古文書を読み解く研究は、大変な忍耐と好奇心がないと難しいですね。達筆な文章を前後関係及び時代背景からその意図を読み取り、時には誤字・脱字からもその人となりを推測する想像力も必要のようです。先日の東京・吉祥寺での幕末史研究会、「勝海舟から龍馬へ:http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=3148」でも感銘を受けました。

愛生舘の「こころ」 (9)

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  昨年5月に「愛生舘の『こころ』 (3)」で次のように書きました。

・・・・・片桐一男先生は、すでに「愛生舘のこころ(1)」でご紹介しましたように、「松本良順と愛生舘」の研究を長年されています。6年前に青山学院大学を退任された後も、毎年全国各地で講演をされています。その中で、長崎におけるオランダ人ポンぺと海軍伝習・医学伝習、そこでの勝海舟、松本良順との出会い、長崎大学医学部との関係等、実に興味深い歴史の研究で高い評価を得ています。・・・・・・・

 今年初めての「幕末史研究会:http://blogs.yahoo.co.jp/bakumatsushiken/MYBLOG/yblog.html?m=lc&p=1」が、先日東京・吉祥寺で開催されました、第172回目です。片桐一男先生によるシリーズ3回目の講義で、大勢の聴衆で会場は熱気につつまれていました。一昨年の「長崎海軍伝習」、昨年の「松本良順と愛生舘」に続く、今回の「勝海舟から坂本龍馬へ」、副題は「その、外への眼差し」とありました。

昨年と今年の資料より

昨年と今年の資料より

 「松本良順と愛生舘」に関してはすでに昨年書いていますので、重複は避けます。今回のメインは勝海舟の海軍伝習が近代的海軍の建設のみならず、科学技術の習得、そして単なる「学問」の伝習ではなく「文化」を学ぶ場であったこと、更には国家・社会の理解の必要性を指摘していた事実を、片桐先生の解説で彼の著書「蚊鳴(ぶんめい:「文明」をかけている)よ言」から知ることが出来ました。江戸城の無血開城を実質的にやり遂げた人物の哲学を垣間見る思いで、勝海舟のすごさを感じましたね。

 講義終了後の交流会が、また大変興味深かったのです。参加者が多彩で、勝海舟・坂本龍馬・榎本武揚の直系子孫の方々、渡米した咸臨丸の乗組員の子孫の方々等、幕末から明治を肌で感じるお話の数々でした。幕末・明治維新がそんな遠い時代ではなかったとの実感です。 それぞれの方々が、時代の中で祖先を心から「誇り」と認識している、その眼差しがさわやかなひと時でした。

 今年9月8日の秋山財団講演会では、財団設立25周年記念として「松本良順と愛生舘」の演題で、片桐一男先生にご講演をして頂くことになっています。秋山記念生命科学振興財団の設立趣旨の中に、「愛生舘の理念」の継承が謳われています。長崎の医学伝習で得たものを、実際の近代日本で展開しようと松本良順が試みた事業、そもそも「愛生舘事業」とはどんな理念だったのか、今年は大変興味深い年になりそうです。

 今の混とんとする時代には、原点を見つめる視座が何事にも必要だと思いますね。

愛生舘の「こころ」 (3)

Posted by 秋山孝二
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 ペギー葉山の「学生時代」の歌詞、「ツタの絡まるチャペル」で有名な青山学院大学http://www.aoyama.ac.jp/に初めて行き、片桐一男先生http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/%95%D0%8B%CB%88%EA%92j/list.html ご夫妻と20数年ぶりにお会いしました。

ツタの絡まるチャペルで

ツタの絡まるチャペルで

片桐一男先生は、すでに「愛生舘のこころ(1)」でご紹介しましたように、「松本良順と愛生舘」の研究を長年されています。6年前に青山学院大学を退任された後も、毎年全国各地で講演をされています。その中で、長崎におけるオランダ人ポンぺと海軍伝習・医学伝習、そこでの勝海舟、松本良順との出会い、長崎大学医学部との関係等、実に興味深い歴史の研究で高い評価を得ています。

ポンペ・ファン・メールデルフォールト(1829-1908)はオランダの海軍軍医。東インド各地で勤務中に、オランダ海軍による日本の海軍伝習第二次教育派遣隊の一員として1856(安政4)年に長崎に渡来、松本良順やその弟子の幕医・諸藩医学生を教育しました。このあたりに関しては、司馬遼太郎著「故蝶の夢」http://machi.monokatari.jp/a2/item_1362.html にも、少し語られています。

日本の近代化のはじまりは、「1853年ペリー浦賀来港」と昔から歴史で習っていますが、実はその10年近くも前に、アメリカのキャプテンクーパーが捕鯨船団長として、日本人漂流民22名を救助して浦賀に寄港しているのです。その辺の詳細は、寺島実郎さんのラジオ番組 http://www2.jfn.co.jp/tera/archive_doga.htmlの中で、「2008年10月の動画その2Vol.2」で紹介されています。砲艦外交などではなく、極めて人道的な目的での訪問であり、日本人がアメリカを目の当たりにしたまさに最初でした。その他歴史をよく調べてみると、この前後にヨーロッパ各国要人の訪問も数多くあったと記録されています。

そんな中で、江戸時代の外国との窓口長崎では、ポンぺが海軍伝習・医学伝習で滞在し、特に「近代西洋医学の父」として数多くの事業の種を蒔き、歴史にその名を刻まれています。1858年伝染病治療、1861年養生所・医学所の設立(長崎大学医学部の原点)等とともに、1848年オランダ王国が民主主義に基づく憲法を制定した時代の影響も受けて、ポンぺはその民主主義に立脚した医療を施した、と記録に明記されています。

彼の医学教育伝習は5年間に渡り、解剖学から物理学、薬理学、生理学他全般に及んだ一方、その講義を筆写し、日本語で分かりやすく復講したのが、松本良順でした。学びに集どった延べ40名を越える幕臣伝習生・諸藩伝習生は、松本良順の言わば「弟子たち」であり、それ故に「近代西洋医学のもう一人の創立者松本良順」と、今でも語られているのです。1861年養生所・医学所設立時、初代頭取となりました。長崎大学医学部の創立者であり、現在も大学構内にポンぺとともに顕彰碑として配置されています。また、創立150周年記念事業として長崎医学同窓会が記念同窓会館を建て替え、「良順会館」となっています。http://www.med.nagasaki-u.ac.jp/med/top/message.html

その後、良順は江戸への帰還を命じられて、1963年緒方洪庵逝去の後の医学所(東京大学医学部の前身)の頭取となりました。1866年幕府軍が長州征伐で敗退した時、大阪城で病む将軍家茂公を治療し、その臨終も看取っています。幕府の海陸軍軍医制を編成し、総取締になり、15代徳川慶喜の信頼も厚かったようです。戊辰戦争では江戸城明け渡し後に会津に下り、藩校日新館に野戦病院を開設し、戦傷兵をポンぺ直伝の軍陣外科で治療を行いました。会津落城後捕えられましたが、ほどなく囚を解かれて、1870年早稲田に洋式病院を設立しました。

1871年、山県有朋の請いにより陸軍軍医部を編成し、1873年初代陸軍軍医総監に就任したのです。この後に、多くの医学啓蒙書を世に出して、その中で「通俗民間治療法」により一般人に衛生思想の心得を広めました。同時に、高松保郎が館主の「愛生舘」事業の目的、庶民への衛生思想と安価な薬の普及にも共鳴し、全面的な支援を行いました。医師の診療を受けられない貧しい人々のために、自分が処方した三十六方(種類)の薬を安く手に入るようしたのです。また、庶民に牛乳を飲む事を奨励したばかりでなく、日本に海水浴を定着させたのも松本良順であり、予防医学、健康増進の先駆けです。現在も湘南の大磯海岸に記念碑が建っています。

社会が混乱し、国をはじめとする官の政策では間に合わない明治維新前後の時代に、自立した民間活動として「愛生舘」事業のこころがあったこと、私は今、21世紀における「愛生舘」事業の再構築の原点を見つけた思いです。

愛生舘の「こころ」 (1)

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 何回になるかは分かりませんが、「愛生舘の『こころ』」シリーズを始めます。 

人との出会いは、いつも劇的ですね。暫くの時間経過後に、何か気がつかなかった糸で結ばれていたのを感じる時があります。青山学院大学名誉教授の片桐一男先生http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/%95%D0%8B%CB%88%EA%92j/list.html は、そういった数少ない方のお一人です。

松本良順:秋山愛生舘100年誌より

松本良順:秋山愛生舘100年誌より

先日「幕末史研究会」http://blogs.yahoo.co.jp/bakumatsushiken/8871554.html に参加した方から、今年1月例会で配布された、「松本良順と『愛生舘』」という資料のコピーを頂きました。長崎海軍伝習所で行われた医学伝習で、蘭学のポンペから学んだ松本良順http://www.bakusin.com/ryoujyun.html。江戸に帰って取り組んだ衛生思想の普及活動、その実践である「愛生舘:あいせいかん」事業の狙い等がその内容です。後に初代陸軍軍医総監に就任した松本良順は、実父・佐藤泰然が創設した順天堂大学http://www.juntendo.ac.jp/ とも深い関わりがあります。20数年ぶりに、片桐一男先生のお名前を身近に拝見しました。

愛生舘事業というのは、松本良順処方の「愛生舘三十六方」(三十六種類の医薬品)と、著書「通俗民間治療法」の販売を行った民間事業体です。高松保郎が館主となり、1888(明治21)年に創設されて、本部は当初は東京市神田区駿河台北甲賀町、3年後の保郎の没後に神田岩本町に移り営業しました。売薬の三十六方は、輸入洋薬で、「通俗民間治療法」にはその三十六方の処方内容が平易に解説されて、医師不足で医療の行き届かない辺境の庶民に、親しみやすいように工夫が施されています。その全国的普及は当初からの目的であり、組織的に活動が展開されていました。

高松保郎:秋山愛生舘100年誌より

高松保郎:秋山愛生舘100年誌より

北海道で108年間続いた医薬品卸業、(株)秋山愛生舘のルーツは、まさにこの愛生舘事業にその原点があります。片桐先生は、この(株)秋山愛生舘のそもそもの事業主「愛生舘」に関する研究の第一人者です。松本良順先生と愛生舘との関係、館主高松保郎の人物像等、大変貴重な研究の数々を残されています。