愛生舘の「こころ」 (9)

Posted By 秋山孝二
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  昨年5月に「愛生舘の『こころ』 (3)」で次のように書きました。

・・・・・片桐一男先生は、すでに「愛生舘のこころ(1)」でご紹介しましたように、「松本良順と愛生舘」の研究を長年されています。6年前に青山学院大学を退任された後も、毎年全国各地で講演をされています。その中で、長崎におけるオランダ人ポンぺと海軍伝習・医学伝習、そこでの勝海舟、松本良順との出会い、長崎大学医学部との関係等、実に興味深い歴史の研究で高い評価を得ています。・・・・・・・

 今年初めての「幕末史研究会:http://blogs.yahoo.co.jp/bakumatsushiken/MYBLOG/yblog.html?m=lc&p=1」が、先日東京・吉祥寺で開催されました、第172回目です。片桐一男先生によるシリーズ3回目の講義で、大勢の聴衆で会場は熱気につつまれていました。一昨年の「長崎海軍伝習」、昨年の「松本良順と愛生舘」に続く、今回の「勝海舟から坂本龍馬へ」、副題は「その、外への眼差し」とありました。

昨年と今年の資料より

昨年と今年の資料より

 「松本良順と愛生舘」に関してはすでに昨年書いていますので、重複は避けます。今回のメインは勝海舟の海軍伝習が近代的海軍の建設のみならず、科学技術の習得、そして単なる「学問」の伝習ではなく「文化」を学ぶ場であったこと、更には国家・社会の理解の必要性を指摘していた事実を、片桐先生の解説で彼の著書「蚊鳴(ぶんめい:「文明」をかけている)よ言」から知ることが出来ました。江戸城の無血開城を実質的にやり遂げた人物の哲学を垣間見る思いで、勝海舟のすごさを感じましたね。

 講義終了後の交流会が、また大変興味深かったのです。参加者が多彩で、勝海舟・坂本龍馬・榎本武揚の直系子孫の方々、渡米した咸臨丸の乗組員の子孫の方々等、幕末から明治を肌で感じるお話の数々でした。幕末・明治維新がそんな遠い時代ではなかったとの実感です。 それぞれの方々が、時代の中で祖先を心から「誇り」と認識している、その眼差しがさわやかなひと時でした。

 今年9月8日の秋山財団講演会では、財団設立25周年記念として「松本良順と愛生舘」の演題で、片桐一男先生にご講演をして頂くことになっています。秋山記念生命科学振興財団の設立趣旨の中に、「愛生舘の理念」の継承が謳われています。長崎の医学伝習で得たものを、実際の近代日本で展開しようと松本良順が試みた事業、そもそも「愛生舘事業」とはどんな理念だったのか、今年は大変興味深い年になりそうです。

 今の混とんとする時代には、原点を見つめる視座が何事にも必要だと思いますね。

2 Responses to “愛生舘の「こころ」 (9)”

  1. 秋山孝二の部屋 » Blog Archive » 愛生舘の「こころ」 (10) Says:

    [...]  それにしても古文書を読み解く研究は、大変な忍耐と好奇心がないと難しいですね。達筆な文章を前後関係及び時代背景からその意図を読み取り、時には誤字・脱字からもその人となりを推測する想像力も必要のようです。先日の東京・吉祥寺での幕末史研究会、「勝海舟から龍馬へ:http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=3148」でも感銘を受けました。 [...]

  2. 秋山孝二の部屋 » Blog Archive » 江田島へ三たび、「旧海軍兵学校」 Says:

    [...]  長崎での第一次海軍伝習(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=3148)を受けて、日本海軍創設の機運が高まり、まず築地にその人材育成の拠点が設立されました。1888(明治21)年、東京築地にあった海軍兵学校が広島県江田島に移転し、この江田島の地において教育が開始されました。当初生徒は、表桟橋に係留された学習船「東京丸」で起居していましたが、1893(明治26)年に赤レンガの生徒館が完成しました。以後、海軍兵学校は逐次拡充整備され、1945(昭和20)年12月1日に閉校されるまで、57年間にわたり、海軍士官養成の場としての歴史と伝統を築き上げました。 [...]