江田島へ三たび、「旧海軍兵学校」

Posted By 秋山孝二
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 旧海軍兵学校は、現在は「海上自衛隊第一術科学校:http://www.mod.go.jp/msdf/onemss/」になっています。

 長崎での第一次海軍伝習(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=3148)を受けて、日本海軍創設の機運が高まり、まず築地にその人材育成の拠点が設立されました。1888(明治21)年、東京築地にあった海軍兵学校が広島県江田島に移転し、この江田島の地において教育が開始されました。当初生徒は、表桟橋に係留された学習船「東京丸」で起居していましたが、1893(明治26)年に赤レンガの生徒館が完成しました。以後、海軍兵学校は逐次拡充整備され、1945(昭和20)年12月1日に閉校されるまで、57年間にわたり、海軍士官養成の場としての歴史と伝統を築き上げました。

 終戦後は、11年間にわたり、米軍及び英連邦軍等が進駐して施設を使用しましたが、1956(昭和31)年1月、海上自衛隊がこれらを引き継ぎ、横須賀から術科学校が移転、1957(昭和32)年5月には「海上自衛隊幹部候補生学校」が独立開校し、翌年4月には、「海上自衛隊第1術科学校」が発足しました。

旧海軍兵学校校舎

旧海軍兵学校・生徒館

教育参考館

教育参考館

 インターネットで検索すると、たくさんの方が動画・写真等で紹介していますので、画像はそちらに譲ります。私はこれまで、父に絡んで何回か兵学校について書きました。今回の訪問で3回目、これまでと違う立場での見学に、新たな気づきもあり、三たび、身の引き締まる思いでした。

http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=1907

http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=3177

http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=5921

 

 今回はその後、レンタル自転車を借りて、江田島湾の向こう側の「軍艦利根資料館:http://homepage3.nifty.com/ki43/heiki9/tone/tone.html」にも足をのばしました、途中には、同じく攻撃を受けた「大淀」犠牲者の碑もありました。先日は、海岸沿いの強い寒風と峠の山坂でかなりきつい行程でしたが、昨年12月の兵学校76期の方々の「大淀」、「利根」のお話を伺い(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=11026)、今回訪問できてよかったです。

少し離れた「軍艦利根資料館」

少し離れた「軍艦利根資料館」

 重巡「利根」は、1944(昭和19)年10月のレイテ沖作戦の後に日本へ帰艦、その後呉に回航され、1945(昭和20)年2月に海軍兵学校練習艦となりました。1945(昭和20)年3月19日の米空母艦載機による空襲により小破、その後、この能美へ移動したものの、7月24日および28日の空襲により大破し、着底しました。この攻撃により、128名の乗員と17名の島民が亡くなったそうです。その頃、「利根」通信長だった私の父・野田宏は、兵学校の分隊監事として江田島に居り、広島への原爆投下を、この江田島で体験しました。

 6年前に父が亡くなった後、書棚を整理していましたら、当時使っていた教科書が数冊見つかりました。

左は「英語書簡文」(昭和16年8月)、右は「航海術五の巻:気象学」(昭和8年2月)の教科書

左は「英語書簡文」(昭和16年8月)、右は「航海術巻の五:気象学」(昭和8年2月)の教科書

 

 日本は、人材育成にかける情熱を持ちながら、日清・日露戦争を経て、戦略なき戦争遂行の陰で、国を担う尊い人材を多く失いました。

One Response to “江田島へ三たび、「旧海軍兵学校」”

  1. 秋山孝二の部屋 » Blog Archive » 歴史発見Vol.4 「帝國海軍」 Says:

    [...] * http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=11740 [...]