愛生舘の「こころ」 (11)

Posted By 秋山孝二
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 3ヶ月ぶりのこのシリーズです。千葉県佐倉市は、堀田藩の地元として、歴史を語る町並みを今も見ることができます。佐倉順天堂記念館(http://www.geocities.jp/bane2161/kyuusakurajyuntendou.html)、旧堀田邸(さくら庭園)、武家屋敷、国立歴史民族博物館(歴博:http://www.rekihaku.ac.jp/)を散策しながら、藩を挙げて鎖国社会の中でも広く海外から学ぼうとする情熱に感動します。「西の長崎」、「東の佐倉」と、外国の文化・知識等を貪欲に吸収しようとする姿勢で名をはせて、多くの国際センスあふれる人材を幕末・維新でも輩出しています。

佐倉順天堂医院の門

佐倉順天堂医院の門

門の礎石

門の礎石

  「佐倉順天堂」は、天保14年(1843)に佐藤泰然が開いた蘭(オランダ)医学の塾兼診療所で、現在の順天堂大学の源流です。「愛生舘」事業の構想の主・松本良順は佐藤泰然の実子でしたが、松本家に養子となり、一貫して幕臣として活躍し、長崎第二次海軍伝習でオランダのポンぺから蘭(オランダ)医学を弟子40数名とともに学び、日本の近代西洋医学の基礎を創りました。

藩主堀田家の邸宅

旧藩主・堀田家の邸宅

  旧堀田邸は、明治時代に佐倉に移り住んだ旧佐倉藩主・堀田正倫の邸宅と、明治洋式の芝生の庭園です。邸宅の幾つかの部屋には、松本良順の書が掲げられていました。訪れた時は映画の撮影か何かで、スタッフとモデルの方で庭は賑わっていました。昨年から3年間、年末に放映される「坂の上の雲」のロケでも、この邸宅の居間、大きな掛け軸のある部屋でも収録され、その場面は今年末にオンエアだそうです。

  一方、まちの西部・旧佐倉城址公園に隣接して「国立歴史民族博物館(歴博)がそびえ建っています。「壮大な規模を有する歴史の殿堂(?)」のフレーズを目にしましたが、似たような名前「国立民族学博物館(みんぱく:http://www.minpaku.ac.jp/)は、大阪にある別の施設です。全館冷房が効いて、原始・古代から始まり6つの展示室も十分なスペース、特に第6展示室「現代」は、特別展示もあり力が入っているのでしょうか。ただ、何か突き抜けるメッセージが足りないのですよ、「戦争反対」が届いてこないみたいな、展示物と見学者との間に厚過ぎるガラスの壁、時々は曇りガラスの壁を感じます。

 率直な疑問は、この国立博物館が何故この佐倉市にあるのか、真っ先にそれを知りたかったですね。沢山の外国人ツアーと思われるグループも来ていましたが、どう説明していたのかは分かりません。先の地元の3つの施設は、見学者の為に「三館共通入館券」も販売して連携をとりながら、堀田藩の因って来るゆえんと歴史的価値を懇切丁寧に発信していました。

 別の意味で、縦割り行政の印象を受け、その現状が何にも代えがたい「現代」を展示しているようで、そんな言い方はあまりに皮肉っぽいでしょうかね。しかし、行政の在り方がどうであれ、地域に暮らす市民は毎日しっかり生きてきたというように、この佐倉の地に人が育つ風土を実感しました。

One Response to “愛生舘の「こころ」 (11)”

  1. 秋山孝二の部屋 » Blog Archive » 陸別で、関 寛斎の足跡(1) Says:

    [...]  上総国山辺郡中村(現在の千葉県東金市)に生まれ、儒者・関俊輔の養子となり、佐倉順天堂(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=4429)で医学を学びました。その後、長崎の第二次海軍伝習(医学伝習)に参画し、松本順と出会います。1年数カ月の勉学の後、奥羽、山梨、徳島と各地で地域医療の基礎を築き、明治35年に72歳で北海道・十勝国斗満(トマム)に入植して、自作農育成に力を注ぎました。開拓方針を、二宮尊親の二宮農場に求め、徳富蘆花との手紙のやり取り等多彩な活動でしたが、82歳の秋に、自らの命を絶った波乱万丈の人生でした。 [...]