愛生舘の「こころ」 (14)

Posted by 秋山孝二
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 このブログのシリーズ「愛生舘の『こころ』」は、第13回を終えてしばらくお休みしていましたが、本当に久しぶりに再開致します。というのも、今年4月から始まる年度は、秋山財団設立30周年の節目の年になり、基本財産の出捐者・秋山喜代の遺志でまだ私が実現していない「愛生舘文庫」の創設に向けて、新たなスタートを切りました。

 これまでのシリーズ「愛生舘の『こころ』」はこちら――> http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E6%84%9B%E7%94%9F%E8%88%98%E3%81%AE%E3%80%8C%E3%81%93%E3%81%93%E3%82%8D%E3%80%8D

  この4年間、私は、秋山喜代の最後の住まいで、今は秋山財団事務所になっている建物倉庫の整理と、「愛生舘」にまつわる資料の収集・整理を空いた時間を見つけては行ってきたつもりです。なかなか進展していなかったのですが、昨年、助っ人を得て、資料収集も最後の局面を迎えつつあります。

 先日は、これまでも「古文書講座」等でお世話になっている青山学院大学名誉教授・片桐一男先生とご一緒に、松本順先生のご親族・松本和彦先生を訪問して参りました。貴重な資料をお借りできたので、さらに資料整理と分析・解読を進めていきます。

* 古文書講座 http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E5%8F%A4%E6%96%87%E6%9B%B8%E8%AC%9B%E5%BA%A7

松本和彦先生(左)、片桐一男先生(右)

松本和彦先生(左)、片桐一男先生(右)

 貴重な品いくつかも拝見しました、刻まれた文字に価値があります。

蘭畴は松本順先生

蘭畴は松本順先生

 松本順先生のご業績と愛生舘との繋がり、そして秋山財団がなぜ「愛生舘文庫」なのか、以前のブログから引用します。

~~~~~~~~~~~~

 片桐先生は冒頭、「世界の中で新しい国家建設が迫られている時期、必要とされていたのは『海軍力』で、それも緊急性を帯びていた。日本が独立国家として成り立っていく思想・技術、そしてそれを担う人材、すなわち『体力』をつける目的で長崎海軍伝習があった」、とおっしゃいました。そもそも蘭学が江戸時代に静かに研究されていたのは、北方ロシアの東方進攻・南下の脅威に対してその対抗的思想・哲学の必要性からと、先生から伺ったことがありました。

 以前にも書きましたが(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=1096)、その第二次海軍伝習(実質的な「医学伝習」)で松本順は中心的役割を担いました。ポンぺからのオランダ語を介した伝習を、集まった全国各藩の弟子たちに伝えることで、それ以降の近代医学・医療の基礎を築きました。

 松本順の功績のまとめとして 1) 持って生まれた資質を生涯を掛けて伸ばし続けた:ポンぺの伝習から総合的技術を取得、実践――野戦病院・衛生思想等

2) 人との出会い、ポイント3人:松本良甫(ポンぺからの伝習)、山県有朋(陸軍病院等の基準策定)、高松保郎(愛生舘事業)

3) 彼のしなかったこと:オランダに留学等で行かなかった、制度が出来るとバトンタッチ・チャンスの移譲

4) 彼の目指したこと:庶民への眼差し「愛生済民」――愛生舘三十六方、衛生思想の徹底、アジア・世界の体力向上

5) 彼の日常生活――身の回りをいつも「楽」にしておくこと

 最後のまとめで、片桐先生は、「松本順の活きた人間像が把握されていない、激動の歴史の中で埋もれていた原因は、激変する維新から明治時代では文字を通してのメッセージの伝達が難しかったのではないか、それは庶民の教育レベルが江戸時代よりもむしろ劣化していたことを意味している」、と看破されていました。

 牛乳の効用、海水浴の普及等、今では常識になっている健康増進・普及に関して最初の井戸を掘った人物、それが「初代陸軍軍医総監」等の評価以上の歴史的意味を、彼の人生から読み取ることが出来るのでしょう。

 翌日、私の手元に「松本順と北海道」という3部にわたる小論文を届けて頂いた札幌在住の医師・宮下舜一先生とお話をしました。講演会にもご出席頂き、先生の論文には、何と明治24年6月に、松本順が北海道(函館・小樽・札幌)に20日間程度来ている記録が、小樽では道内に在住していた弟子たちと一緒に撮影した記念写真まで掲載されていました。

 (株)秋山愛生舘が「愛生舘北海道支部」から独立したのが明治24年11月ですので、この時にどこかで初代秋山康之進と再会していた可能性は大変高いと思いました。引き続き調査・研究の必要がありますね、また一つ目の前に解き明かす課題が見つかりました。

 今回、私は片桐先生に敢えて「秋山愛生舘」ではなく、「愛生舘」についてお話をして頂きたいと事前にお願いを致しました。講演会に参加された道内の「シンパ」の方々には、「愛生舘事業をしっかり今の時代にも受け継いできたのは、唯一この北海道の地ではないか、どうしてもっとそれに言及しないのか!」と叱られそうですが、21世紀の今、広い意味で「愛生舘事業のこころざし:愛生済民」の原点回帰を、秋山財団的には記念すべき25周年を機に目指す、そう是非ご理解を頂きたいと思います。

 この講演会をキックオフとして、今後「愛生文庫」を軸とした資料室の創設も企画する予定です。ご関心のある方の率直なご意見もお待ちしています。 ~~~~~~~~~~~~~~ 引用おわり

 宣言をしてから4年以上経ってしまいましたが、今年・来年中には必ず創設しますので、乞うご期待!です。

サンプロ 9月例会 2014

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 異業種交流会「サンプロ」の9月例会が愛生舘サロン(http://aiseikan.net/salonで開かれました。これまでにも何回か書いています。

* http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=18511

* http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=753

 毎回、各参加者から示唆に富む話題提供があり、大変貴重なひと時です。今回は私からは、この数年ずっと参加している「寺島実郎経営戦略塾」、「リレー塾」から、今の各界の日本人リーダーに欠ける「歴史認識」、特に近代史について報告しました。

* 「ON THE WAY ジャーナル WEEKEND 月刊寺島実郎の世界」(http://www.jfn.jp/RadioShows/owj_tera

私のレジュメより~~~~~~~~~

~寺島文庫第5期リレー塾・第一回 講師 寺島実郎 より~

<日本>

アベノミクス 1)株高幻想 2)プチ・ナショナリズム症候群

――積み重ねてきた国際社会の中での日本の努力を一気にダメにする

政界、メディア、経済界、リーダーの見識の無さ:一番の原因は、「歴史認識の欠如」

――戦後教育における「近代史の欠落

――「日本史」、「世界史」に代わる「グローバルヒストリー」の概念

遡る歴史:戦後日本>20世紀>近代――>「17世紀オランダ

「近代史」 17世紀オランダの日本への影響 <別資料参照>

「近代」を理解するために「江戸期」の国家観を固める――本居宣長ほか

「近代」 1)デモクラシー(フランス革命、米独立戦争etc)個の自立、2)科学技術、3)資本主義 東インド会社(オランダ)

<ヨーロッパ・アメリカ>

2014年のヨーロッパは、「第一次世界大戦から100

――1914年 サラエボ事件

――4つの敗戦した帝國:ドイツ、オ・ハ二重帝国、オスマン、ロシア

――>中東の戦勝国(イギリス、フランスetc)による分割――ウイーンはロンドンへ1,254 km、イスタンブールへ1,255 km

ヨーロッパの中心だった:オーストリア・ハンガリー二重帝国(フランツ・ヨーゼフ、ハプスブルク家)

――現在のヨーロッパにイスラム教徒 1,500万人を超す(トルコから)

*二重構造 金持ちアラブと不法移民etc 抑圧されたアラブ

シュミット(ドイツ)、「21世紀はイスラムとの対話の時代」

現在の中東

1)アメリカの存在感の薄れ――イラク政策の失敗

アメリカ*エネルギー(原油、シェールガス)で世界一

*実体経済の回復 失業率6.1%、輸出No1「エネルギー」、

次世代ICT(ビッグデータ、クラウド)等戦略的産業の構築

2)地域パワーの台頭 イラン(シーア派)とトルコ(中央アジアを含む)

* プーチンのしたたかさ 中東の混乱―>オイル価格のアップ ――> ロシアへの追い風

日本   ロシアへのエネルギー依存――G7にも良い顔をしたい <矛盾を抱えている現実>

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ レジュメコピー おわり

 「17世紀オランダ」は、私にとっては蘭学研究の第一人者・片桐一男先生、さらには長崎での「第二次海軍伝習(=医学伝習)」、「愛生舘」へと繋がり、本当に不思議な歴史の縁を感じます。

* 片桐一男先生 http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E7%89%87%E6%A1%

* 医学伝習 http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E5%8C%BB%E5%AD%

陸別で、関 寛斎の足跡(2)

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 町の郊外のゆかりの地を巡り、一方、旧陸別駅付近には、関寛斎翁像等、その中で「関寛斎資料館:http://www13.plala.or.jp/doutounavi/sekikannsaisaito.html」は豊富な資料展示でした。

旧陸別町駅前に建つ「関寛翁之像」

旧陸別町駅前に建つ「関寛翁之像」

町の中心部・関寛斎資料館入口

町の中心部・関寛斎資料館入口

内部の豊富な展示物群

内部の豊富な展示物群

  波乱万丈な関寛斎の一生は、その才能を評価して登用した人々、多くの人との出会い、北海道に新天地開拓の意欲に燃えて渡って来た意欲等、数々の感動物語です。長崎医学伝習から松本良順を慕い、人生の歩み方にもそれを検証することが出来ます。

旧陸別駅前のそば屋さん「秦(はた)食堂」

旧陸別駅前のそば屋さん「秦(はた)食堂」

 駅前の大きなおそば屋「秦食堂」、息子さんの秦秀二くんは、(株)秋山愛生舘に新卒で入社し営業で活躍、私が社長時代に退社し、実家のそば屋を継ぐために陸別に行きました。当時、陸別に向かう直前に挨拶に来た時のことをはっきり覚えています。先日お世話になった時にも、地元青年会主催のお祭りの合い間に駆けつけてくれて、久しぶりに会うことが出来ました。松本良順、関寛斎、陸別、愛生舘、秋山愛生舘、秦くん、秋山財団、何か時間・空間を越える不思議な関係性を感じます。

 それにしても、内容の濃い、素晴らしい訪問となりました、陸別の皆さま、ご説明、ご案内等お時間を取って頂き、心から感謝申し上げます。

陸別で、関 寛斎の足跡(1)

Posted by 秋山孝二
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 片桐一男先生のお供で、道東の陸別町(http://www.town.rikubetsu.hokkaido.jp/)を訪問し、関寛斎の足跡を辿りました(http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/23692625.html)。陸別町は「全国最低気温」の地として、天気予報等でもよく名前が出て来ます。今回、松本順と長崎海軍伝習・医学伝習(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E5%8C%BB%E5%AD%A6%E4%BC%9D%E7%BF%92)の延長上で、関寛斎の更なる功績を実感すべく足をのばし、予想通り、関寛斎の「北の大地」で果てしない夢の実現に向けた奮闘を体感しました。地元の斎藤省三さん、向井啓さん、大鳥居仁さんには、お休みの所ご案内頂き、心から感謝申し上げます。

関寛斎・埋葬の丘から陸別町方面を望む

郊外にある関寛斎・埋葬の丘から陸別町方面を望む

丘の頂上に置かれた墓碑

丘の頂上に置かれた墓碑

青龍山・史跡ユクエピラチャシ跡に建つ関寛翁碑

青龍山・史跡ユクエピラチャシ跡に建つ関寛翁碑

 上総国山辺郡中村(現在の千葉県東金市)に生まれ、儒者・関俊輔の養子となり、佐倉順天堂(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=4429)で医学を学びました。その後、長崎の第二次海軍伝習(医学伝習)に参画し、松本順と出会います。1年数カ月の勉学の後、奥羽、山梨、徳島と各地で地域医療の基礎を築き、明治35年に72歳で北海道・十勝国斗満(トマム)に入植して、自作農育成に力を注ぎました。開拓方針を、二宮尊親の二宮農場に求め、徳富蘆花との手紙のやり取り等多彩な活動でしたが、82歳の秋に、自らの命を絶った波乱万丈の人生でした。

大盛況!「夏季古文書講座」

Posted by 秋山孝二
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 公益財団法人 秋山記念生命科学振興財団(http://www.akiyama-foundation.org/)の25周年記念事業の一つ、「夏季古文書講座」が今週月曜日から5回開催されて、今晩で最終回を迎えます。連日熱心な受講者と相まって大盛況です。講師の片桐一男先生は、蘭学史・洋学史・日蘭文化交渉史の第一人者で、幕末・維新ほか、オランダ(阿蘭陀)との関係からみる日本のこの500年の歴史は興味深いです、以下、チラシからの転載です。

~~~~~~ 講師   青山学院大学名誉教授  片桐  一男 先生(洋学史研究会会長)

 

「『くずし字』の古文書(こもんじょ)が読めたらいいのになぁ」と思ったことはありませんか。取り上げます古文書教材は、「水書板」に「ふで」を使って『くずし字』の古文書の全文を書き写し、そのうえで、読解文を全文書き示しますので、初心者の老若男女、みんな楽しんで読めるようになります。

鎖国から開国への急激なショックで始まった長崎の海軍伝習と医学伝習は、日本の近代国家建設にどのように役立ったのか。

勝海舟と松本順の狙いと行動を示す古文書の読解を通じて、歴史の現場が鮮明に浮かび上がります。未公開古文書の読解を楽しんでください。

 

◎ プログラム(どの回からでも受講できます)

   

       

7月25日(月)

勝海舟の狙い ― 「愚存申上候書付」 ―

7月26日(火)

長崎の海軍伝習 ― 時間表・オランダ通詞・咸臨丸 ―

7月27日(水)

勝海舟の「蚊鳴餘言」 ― 世界のなかのトクガワ・ニッポン ―

7月28日(木)

長崎の医学伝習 ― ポンペ・松本順・養生所 ―

7月29日(金)

「愛生館」事業 ― 松本順と髙松保郎 ―

夜間講座にたくさんの受講者

夜間講座にたくさんの受講者

テキストとして:「咸臨丸」、「松本良順」

テキストとして:「咸臨丸」、「松本良順」

 これまで私にとっては少々敷居が高かった「古文書」ですが、片桐先生の分かりやすい解説により、「解読する楽しさ」を体験しています。日記というものから、本人の心証だけではなく、時代の様子、伝習の雰囲気等を読み解き、想像していくわくわく感とでも言うのでしょうか、新しい発見でした。個別の古文書を重ね合わせる、誤字を発見する、省略の記号を解釈する、そのプロセスの面白さは、かなりの根気も必要ですが、扉を一つづつ開けて新しい世界を知っていくような、素晴らしいひと時でした。

 鎖国から開国への急激な時代の変化の中で始まった長崎の「海軍伝習:http://www.mirai.ne.jp/~jkj8/nagasaki.htm」と第二次海軍伝習としての「医学伝習:http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=5595」は、日本の近代国家建設にどのように役に立ったのか、その一端を理解できたような気がします。

愛生舘の「こころ」 (13)

Posted by 秋山孝二
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 大阪に出張のついでに、少し足を伸ばして、以前から一度行きたかった東大阪の「司馬遼太郎記念館:http://www.shibazaidan.or.jp/」を訪問しました。

 地元ボランティアの方々が管理・運営されていました。多様な植物の茂るお庭を通り、圧巻は記念館内の天井までの大書架に収納されている数多い著書の存在、地下ホールのビデオも彼の立ち位置を理解する手立てとなります。

「沖縄に住む人は原倭人の姿」、「時空の旅人」、「可視的な過去」、「本土が沖縄に復帰する」、「土地は社会のもの」等、印象に残る言葉の数々、心に沁みます。

庭から書斎を眺める

庭から書斎を眺める

記念館のエントランス

記念館のエントランス

   地下1階の壁に掛けられた「21世紀を生きる君たちに:http://gogodiet.net/Forkids.htm」の全文、素晴らしい文章ですね。分かりやすく、眼差しが優しく、率直に訴えるメッセージ、司馬遼太郎の原稿と校正の過程が分かる資料も挿入された著書を、記念に買いました。

 パンフレットには、「見ていただくと同時に、この空間で、司馬作品との対話あるいは自分自身との対話を通じて何かを考える、そんな時間をもっていただければ、と思います。この記念館は、展示品を見るというより何かを感じ取ってただく場所でありたいと念じています。・・・・」と書かれています。資料のメモ書き、付箋のついたそのままの状態の本は、司馬遼太郎の取材・執筆に対する真摯な姿勢を感じます。
 
 この記念館のそばに、実はもう一つ尋ねてみたい場所がありました。今年7月に美瑛町に行った時、砦のような「新星館」を訪問し、大島館長にお会いしました(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=4855)。その大島館長の本業が、東大阪の司馬遼太郎記念館近くのお好み焼き屋「伊古奈」と聞いていました。先日、少し探して見つけましたが、残念ながら今年1月で閉店し、隣で喫茶店として新たなスタートのようです。 

「伊古奈」は1月に閉店していました

「伊古奈」は1月に閉店していました

 なぜ、司馬遼太郎記念館が「愛生舘の『こころ』(13)」か?彼の著書「胡蝶の夢:http://webkohbo.com/info3/bakumatu_menu/turedure03.html」に、松本良順(順の前の名)が登場するからです。良順の人生について、長崎での医学伝習、第14代将軍徳川家茂の臨終に大阪城で立ち会ったこと、新撰組土方歳三との出会い等、臨場感いっぱいです。

 書斎の前庭に立つと、司馬遼太郎さんが戸の向こうから現れて来るような気がする程、「そのまま」でした。

愛生舘の「こころ」 (12)

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 秋山財団の設立25周年プレ企画講演会(http://www.akiyama-foundation.org/what/index.php?year=2010&mon=08&day=06#27)で、「幕末・維新、いのちを支えた先駆者の軌跡~松本順と『愛生舘』事業~」と題して、青山学院大学名誉教授・片桐一男(http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/%95%D0%8B%CB%81@%88%EA%92j/list.html)先生が大変興味深いお話をされました。当日配布された資料も極めて貴重なものばかり、もしご必要な方は、秋山財団事務局までご連絡頂ければ、折り返し郵送か、PDFファイルでメール添付致します。

年譜を含めて全8枚の貴重な資料

年譜を含めて全8枚の貴重な資料

  1年半前に今回の講演を依頼して実現しました。素晴らしい内容で、あらためて「松本順」の波乱の人生を追いかけることが出来ました。当日会場には、自然科学系研究者の方々も多かったのですが、古文書を一字一字読み解いていくアプローチは、大変新鮮な印象を受けたと口々に語っていました。人生そのものへの興味を持った方のご参加は勿論大変嬉しいのですが、理系研究者と日頃接することの少ない人文科学分野との出会いも今回目論んだ意図でしたので、意義があったのかと喜んでいます。

 片桐先生は冒頭、「世界の中で新しい国家建設が迫られている時期、必要とされていたのは『海軍力』で、それも緊急性を帯びていた。日本が独立国家として成り立っていく思想・技術、そしてそれを担う人材、すなわち『体力』をつける目的で長崎海軍伝習があった」、とおっしゃいました。そもそも蘭学が江戸時代に静かに研究されていたのは、北方ロシアの東方進攻・南下の脅威に対してその対抗的思想・哲学の必要性からと、先生から伺ったことがありました。

 以前にも書きましたが(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=1096)、その第二次海軍伝習(実質的な「医学伝習」)で松本順は中心的役割を担いました。ポンぺからのオランダ語を介した伝習を、集まった全国各藩の弟子たちに伝えることで、それ以降の近代医学・医療の基礎を築きました。

 松本順の功績のまとめとして

1) 持って生まれた資質を生涯を掛けて伸ばし続けた:ポンぺの伝習から総合的技術を取得、実践――野戦病院・衛生思想等

2) 人との出会い、ポイント3人:松本良甫(ポンぺからの伝習)、山県有朋(陸軍病院等の基準策定)、高松保郎(愛生舘事業)

3) 彼のしなかったこと:オランダに留学等で行かなかった、制度が出来るとバトンタッチ・チャンスの移譲

4) 彼の目指したこと:庶民への眼差し「愛生済民」――愛生舘三十六方、衛生思想の徹底、アジア・世界の体力向上

5) 彼の日常生活――身の回りをいつも「楽」にしておくこと

 最後のまとめで、片桐先生は、「松本順の活きた人間像が把握されていない、激動の歴史の中で埋もれていた原因は、激変する維新から明治時代では文字を通してのメッセージの伝達が難しかったのではないか、それは庶民の教育レベルが江戸時代よりもむしろ劣化していたことを意味している」、と看破されていました。

 牛乳の効用、海水浴の普及等、今では常識になっている健康増進・普及に関して最初の井戸を掘った人物、それが「初代陸軍軍医総監」等の評価以上の歴史的意味を、彼の人生から読み取ることが出来るのでしょう。

 翌日、私の手元に「松本順と北海道」という3部にわたる小論文を届けて頂いた札幌在住の医師・宮下舜一先生とお話をしました。講演会にもご出席頂き、先生の論文には、何と明治24年6月に、松本順が北海道(函館・小樽・札幌)に20日間程度来ている記録が、小樽では道内に在住していた弟子たちと一緒に撮影した記念写真まで掲載されていました。

 (株)秋山愛生舘が「愛生舘北海道支部」から独立したのが明治24年11月ですので、この時にどこかで初代秋山康之進と再会していた可能性は大変高いと思いました。引き続き調査・研究の必要がありますね、また一つ目の前に解き明かす課題が見つかりました。

 今回、私は片桐先生に敢えて「秋山愛生舘」ではなく、「愛生舘」についてお話をして頂きたいと事前にお願いを致しました。講演会に参加された道内の「シンパ」の方々には、「愛生舘事業をしっかり今の時代にも受け継いできたのは、唯一この北海道の地ではないか、どうしてもっとそれに言及しないのか!」と叱られそうですが、21世紀の今、広い意味で「愛生舘事業のこころざし:愛生済民」の原点回帰を、秋山財団的には記念すべき25周年を機に目指す、そう是非ご理解を頂きたいと思います。

 この講演会をキックオフとして、今後「愛生文庫」を軸とした資料室の創設も企画する予定です。ご関心のある方の率直なご意見もお待ちしています。

愛生舘の「こころ」 (9)

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  昨年5月に「愛生舘の『こころ』 (3)」で次のように書きました。

・・・・・片桐一男先生は、すでに「愛生舘のこころ(1)」でご紹介しましたように、「松本良順と愛生舘」の研究を長年されています。6年前に青山学院大学を退任された後も、毎年全国各地で講演をされています。その中で、長崎におけるオランダ人ポンぺと海軍伝習・医学伝習、そこでの勝海舟、松本良順との出会い、長崎大学医学部との関係等、実に興味深い歴史の研究で高い評価を得ています。・・・・・・・

 今年初めての「幕末史研究会:http://blogs.yahoo.co.jp/bakumatsushiken/MYBLOG/yblog.html?m=lc&p=1」が、先日東京・吉祥寺で開催されました、第172回目です。片桐一男先生によるシリーズ3回目の講義で、大勢の聴衆で会場は熱気につつまれていました。一昨年の「長崎海軍伝習」、昨年の「松本良順と愛生舘」に続く、今回の「勝海舟から坂本龍馬へ」、副題は「その、外への眼差し」とありました。

昨年と今年の資料より

昨年と今年の資料より

 「松本良順と愛生舘」に関してはすでに昨年書いていますので、重複は避けます。今回のメインは勝海舟の海軍伝習が近代的海軍の建設のみならず、科学技術の習得、そして単なる「学問」の伝習ではなく「文化」を学ぶ場であったこと、更には国家・社会の理解の必要性を指摘していた事実を、片桐先生の解説で彼の著書「蚊鳴(ぶんめい:「文明」をかけている)よ言」から知ることが出来ました。江戸城の無血開城を実質的にやり遂げた人物の哲学を垣間見る思いで、勝海舟のすごさを感じましたね。

 講義終了後の交流会が、また大変興味深かったのです。参加者が多彩で、勝海舟・坂本龍馬・榎本武揚の直系子孫の方々、渡米した咸臨丸の乗組員の子孫の方々等、幕末から明治を肌で感じるお話の数々でした。幕末・明治維新がそんな遠い時代ではなかったとの実感です。 それぞれの方々が、時代の中で祖先を心から「誇り」と認識している、その眼差しがさわやかなひと時でした。

 今年9月8日の秋山財団講演会では、財団設立25周年記念として「松本良順と愛生舘」の演題で、片桐一男先生にご講演をして頂くことになっています。秋山記念生命科学振興財団の設立趣旨の中に、「愛生舘の理念」の継承が謳われています。長崎の医学伝習で得たものを、実際の近代日本で展開しようと松本良順が試みた事業、そもそも「愛生舘事業」とはどんな理念だったのか、今年は大変興味深い年になりそうです。

 今の混とんとする時代には、原点を見つめる視座が何事にも必要だと思いますね。

愛生舘の「こころ」 (8)

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 <資料編> ポンぺ、松本良順に関する資料は、良順会館展示室と医学部図書館にかなりありました。

 良順会館の入口すぐには、レリーフと彼の書・絵も展示されていました。

松本良順レリーフ

松本良順レリーフ

  

書

 

絵

 開所時の長崎医学伝習所のスケッチです。

 

もう一つ、「愛生舘」の出版物としてあらたに「国家幸福之種蒔」も見つかりました。

「通俗民間治療法」とあらたに見つかった「国家幸福之種蒔」

「通俗民間治療法」とあらたに見つかった「国家幸福之種蒔」

  この辺りの歴史は、歴史小説で名高い吉村昭の著「暁の旅人」http://shop.kodansha.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=276139 で詳細を知ることが出来ます。吉村さんは今から4年程前に、この本を携えて札幌の私の所を訪問されました。埼玉県の公文書館で調べて、愛生舘北海道支部の発祥の地を訪ねての調査だったようです。松本良順と新撰組近藤勇との交遊他、良順の情に熱い人柄がきめ細かく表現されています。

愛生舘の「こころ」 (7)

Posted by 秋山孝二
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<外回り編 > 

行ってきました長崎は、その日も雨でした。

 ポンぺ・松本良順の医学伝習を追いかけて、いつか長崎と思っていましたが、早い時期に実現致しました。長崎大学医学部キャンパスの図書館で、特別展示室を係の方にご案内して頂き、貴重な資料の数々に出会うことが出来ました。

まずは外回りから:現在の医学部キャンパスの正門右に、2年前の150周年記念で立てられた「良順会館」です。当日は学会が開催されていて、沢山の研究者の方々の往来があり、メーカーの展示ブースも設営されていました。

医学部正門横・良順会館

医学部正門横・良順会館

良順会館・前庭

良順会館・前庭

 現在は裏になっていますが、原爆投下当時の正門がそのままの状態で今も残っています。

旧医学部正門

旧医学部正門

爆風で傾いたままの左門石

爆風で傾いたままの左門石

  医学部から程近い場所に、「爆心地記念塔」がありました。この地点の真上でプルトニウム型原子爆弾が炸裂したのです。この周辺一帯が平和公園http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/kouen/heiwa/heiwatop.htmlとなっています。

爆心地・大学から200メートルの地点

爆心地(左黒柱)・大学から200メートルの地点

平和祈念像

平和祈念像

愛生舘の「こころ」 (6)

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 怒涛のような9月を過ごし、しばらくぶりに「愛生舘」についての話題に戻ります。ポンぺ・松本良順・長崎大学医学部に関して、今年の5月13日のこの欄「愛生舘の『こころ』(3)」で下記のように書きました。

・・・そんな中で、江戸時代の外国との窓口長崎では、ポンぺが海軍伝習・医学伝習で滞在し、特に「近代西洋医学の父」として数多くの事業の種を蒔き、歴史にその名を刻まれています。1858年伝染病治療、1861年養生所・医学所の設立(長崎大学医学部の原点)等とともに、1848年オランダ王国が民主主義に基づく憲法を制定した時代の影響も受けて、ポンぺはその民主主義に立脚した医療を施した、と記録に明記されています。

 彼の医学教育伝習は5年間に渡り、解剖学から物理学、薬理学、生理学他全般に及んだ一方、その講義を筆写し、日本語で分かりやすく復講したのが、松本良順でした。学びに集どった延べ40名を越える幕臣伝習生・諸藩伝習生は、松本良順の言わば「弟子たち」であり、それ故に「近代西洋医学のもう一人の創立者松本良順」と、今でも語られているのです。1861年養生所・医学所設立時、初代頭取となりました。長崎大学医学部の創立者であり、現在も大学構内にポンぺとともに顕彰碑として配置されています。また、創立150周年記念事業として長崎医学同窓会が記念同窓会館を建て替え、「良順会館」となっています。http://www.med.nagasaki-u.ac.jp/med/top/message.html・・・・・・

 

 私は更にこの辺りを知りたくて、元長崎大学学長で医学部長でもあられた土山秀夫先生にお伺いをしてみました。土山先生は平和7人委員会のメンバーhttp://worldpeace7.jp/のお一人で、昨年11月に北海道にもお越しになりました。http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20090810/202138/?P=1

http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20090817/202599/?P=1

http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20090820/202961/

 今年8月の長崎市長による「平和宣言」の起草委員長もお務めになったことを、土山先生からのお手紙で知りました。先生から北海道立図書館にある「長崎医学百年史」に詳しい旨をご連絡頂き、先日取り寄せて読みました。

長崎医学百年史より

長崎医学百年史より

  それによりますと、この江戸時代末期の医学的背景の手掛かりを知ることが出来ます。漢方医学が本流であり、蘭学は禁止令の時代に蘭方の教育を受けるには、海軍伝習のためとせざるを得ない事情が理解出来ます。海軍伝習の世話係をしていた勝麟太郎(後の勝海舟)にもかなり反対された経緯も記載されていて、結局はポンぺの講義を聴くのは伝習生である松本良順一人として、他の者は、良順の聴講に陪席する即ち付添い人として講義に列席するという形にしたようです。

 ポンぺの講義は従来行われてきたような素読式の医学教育とは全くやり方を異にして、自然科学による近代的な教育方法でした。この点からしても、我が国の医学教育に全く画期的な形態を示したもので、それ以来今日に至るまで、日本の医学教育はこのポンぺ式に準拠しているといえるのでしょう。まさに「最初に井戸を掘った人」でした。更に解剖実習、時を同じくして長崎に勃発したコレラに対してはその予防法を長崎奉行に上申したばかりでなく、率先して学生を指揮して予防と治療にあたりました。これはその後の我が国の伝染病予防の指針となりました。

 ポンぺには沢山の功績がありますが、簡単にまとめると次の点でしょうか。

1) 旧来の医学教育方法の全面的改革

2) 学科制度の確立

3) 医学校への病院付設を必須とした

ポンぺ、松本良順は、パイオニアとしてまさに歴史の転換点に貢献した人物だったのですね、更に興味が湧いてきましたので、引き続き調べていきたいと思っています。松本良順が処方した医薬品群の「愛生舘三十六方」にも、そんな先駆的勢いをあらためて感じ取ります。

愛生舘の「こころ」 (3)

Posted by 秋山孝二
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 ペギー葉山の「学生時代」の歌詞、「ツタの絡まるチャペル」で有名な青山学院大学http://www.aoyama.ac.jp/に初めて行き、片桐一男先生http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/%95%D0%8B%CB%88%EA%92j/list.html ご夫妻と20数年ぶりにお会いしました。

ツタの絡まるチャペルで

ツタの絡まるチャペルで

片桐一男先生は、すでに「愛生舘のこころ(1)」でご紹介しましたように、「松本良順と愛生舘」の研究を長年されています。6年前に青山学院大学を退任された後も、毎年全国各地で講演をされています。その中で、長崎におけるオランダ人ポンぺと海軍伝習・医学伝習、そこでの勝海舟、松本良順との出会い、長崎大学医学部との関係等、実に興味深い歴史の研究で高い評価を得ています。

ポンペ・ファン・メールデルフォールト(1829-1908)はオランダの海軍軍医。東インド各地で勤務中に、オランダ海軍による日本の海軍伝習第二次教育派遣隊の一員として1856(安政4)年に長崎に渡来、松本良順やその弟子の幕医・諸藩医学生を教育しました。このあたりに関しては、司馬遼太郎著「故蝶の夢」http://machi.monokatari.jp/a2/item_1362.html にも、少し語られています。

日本の近代化のはじまりは、「1853年ペリー浦賀来港」と昔から歴史で習っていますが、実はその10年近くも前に、アメリカのキャプテンクーパーが捕鯨船団長として、日本人漂流民22名を救助して浦賀に寄港しているのです。その辺の詳細は、寺島実郎さんのラジオ番組 http://www2.jfn.co.jp/tera/archive_doga.htmlの中で、「2008年10月の動画その2Vol.2」で紹介されています。砲艦外交などではなく、極めて人道的な目的での訪問であり、日本人がアメリカを目の当たりにしたまさに最初でした。その他歴史をよく調べてみると、この前後にヨーロッパ各国要人の訪問も数多くあったと記録されています。

そんな中で、江戸時代の外国との窓口長崎では、ポンぺが海軍伝習・医学伝習で滞在し、特に「近代西洋医学の父」として数多くの事業の種を蒔き、歴史にその名を刻まれています。1858年伝染病治療、1861年養生所・医学所の設立(長崎大学医学部の原点)等とともに、1848年オランダ王国が民主主義に基づく憲法を制定した時代の影響も受けて、ポンぺはその民主主義に立脚した医療を施した、と記録に明記されています。

彼の医学教育伝習は5年間に渡り、解剖学から物理学、薬理学、生理学他全般に及んだ一方、その講義を筆写し、日本語で分かりやすく復講したのが、松本良順でした。学びに集どった延べ40名を越える幕臣伝習生・諸藩伝習生は、松本良順の言わば「弟子たち」であり、それ故に「近代西洋医学のもう一人の創立者松本良順」と、今でも語られているのです。1861年養生所・医学所設立時、初代頭取となりました。長崎大学医学部の創立者であり、現在も大学構内にポンぺとともに顕彰碑として配置されています。また、創立150周年記念事業として長崎医学同窓会が記念同窓会館を建て替え、「良順会館」となっています。http://www.med.nagasaki-u.ac.jp/med/top/message.html

その後、良順は江戸への帰還を命じられて、1963年緒方洪庵逝去の後の医学所(東京大学医学部の前身)の頭取となりました。1866年幕府軍が長州征伐で敗退した時、大阪城で病む将軍家茂公を治療し、その臨終も看取っています。幕府の海陸軍軍医制を編成し、総取締になり、15代徳川慶喜の信頼も厚かったようです。戊辰戦争では江戸城明け渡し後に会津に下り、藩校日新館に野戦病院を開設し、戦傷兵をポンぺ直伝の軍陣外科で治療を行いました。会津落城後捕えられましたが、ほどなく囚を解かれて、1870年早稲田に洋式病院を設立しました。

1871年、山県有朋の請いにより陸軍軍医部を編成し、1873年初代陸軍軍医総監に就任したのです。この後に、多くの医学啓蒙書を世に出して、その中で「通俗民間治療法」により一般人に衛生思想の心得を広めました。同時に、高松保郎が館主の「愛生舘」事業の目的、庶民への衛生思想と安価な薬の普及にも共鳴し、全面的な支援を行いました。医師の診療を受けられない貧しい人々のために、自分が処方した三十六方(種類)の薬を安く手に入るようしたのです。また、庶民に牛乳を飲む事を奨励したばかりでなく、日本に海水浴を定着させたのも松本良順であり、予防医学、健康増進の先駆けです。現在も湘南の大磯海岸に記念碑が建っています。

社会が混乱し、国をはじめとする官の政策では間に合わない明治維新前後の時代に、自立した民間活動として「愛生舘」事業のこころがあったこと、私は今、21世紀における「愛生舘」事業の再構築の原点を見つけた思いです。

愛生舘の「こころ」 (1)

Posted by 秋山孝二
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 何回になるかは分かりませんが、「愛生舘の『こころ』」シリーズを始めます。 

人との出会いは、いつも劇的ですね。暫くの時間経過後に、何か気がつかなかった糸で結ばれていたのを感じる時があります。青山学院大学名誉教授の片桐一男先生http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/%95%D0%8B%CB%88%EA%92j/list.html は、そういった数少ない方のお一人です。

松本良順:秋山愛生舘100年誌より

松本良順:秋山愛生舘100年誌より

先日「幕末史研究会」http://blogs.yahoo.co.jp/bakumatsushiken/8871554.html に参加した方から、今年1月例会で配布された、「松本良順と『愛生舘』」という資料のコピーを頂きました。長崎海軍伝習所で行われた医学伝習で、蘭学のポンペから学んだ松本良順http://www.bakusin.com/ryoujyun.html。江戸に帰って取り組んだ衛生思想の普及活動、その実践である「愛生舘:あいせいかん」事業の狙い等がその内容です。後に初代陸軍軍医総監に就任した松本良順は、実父・佐藤泰然が創設した順天堂大学http://www.juntendo.ac.jp/ とも深い関わりがあります。20数年ぶりに、片桐一男先生のお名前を身近に拝見しました。

愛生舘事業というのは、松本良順処方の「愛生舘三十六方」(三十六種類の医薬品)と、著書「通俗民間治療法」の販売を行った民間事業体です。高松保郎が館主となり、1888(明治21)年に創設されて、本部は当初は東京市神田区駿河台北甲賀町、3年後の保郎の没後に神田岩本町に移り営業しました。売薬の三十六方は、輸入洋薬で、「通俗民間治療法」にはその三十六方の処方内容が平易に解説されて、医師不足で医療の行き届かない辺境の庶民に、親しみやすいように工夫が施されています。その全国的普及は当初からの目的であり、組織的に活動が展開されていました。

高松保郎:秋山愛生舘100年誌より

高松保郎:秋山愛生舘100年誌より

北海道で108年間続いた医薬品卸業、(株)秋山愛生舘のルーツは、まさにこの愛生舘事業にその原点があります。片桐先生は、この(株)秋山愛生舘のそもそもの事業主「愛生舘」に関する研究の第一人者です。松本良順先生と愛生舘との関係、館主高松保郎の人物像等、大変貴重な研究の数々を残されています。