資料閲覧 @ 国立公文書館(中)

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comments: 0

 事前に用意して頂いたBC級戦犯裁判の「ビハール号事件」関連資料、一連の裁判では抜きん出てたくさんの記録があるとのことでした。

数多くの方々が短期間に裁かれた

数多くの方々が短期間に裁かれた英国が当事国の戦犯裁判

36号裁判

36号裁判

小谷勇夫弁護士の詳細な報告書

小谷勇雄弁護士の詳細な報告書

英文も含めて

英文も含めて

重巡「利根」の航跡

重巡「利根」の航跡1

重巡「利根」の航跡2

重巡「利根」の航跡2

地元新聞社の掲載資料より

地元新聞「South China Morning Port」の掲載資料より

詳細な裁判記録

詳細な裁判記録

 これまでの「ビハール号事件」関連ーー> http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E3%83%93%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%8F%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 私の父・野田宏の名前はごくわずかの資料の中に見つけましたが、この事件の裁判をあらためて確認すると、現地司令官と艦長とに責任が矮小化され、肝心の上部組織・軍令部の関係者は、検察側証人として招聘されているに留まっている、まったく理不尽な構図です。

 あれから70年以上経た今も、この責任の所在の不明確さは、何も変わっていません、由々しきことですね。

資料閲覧 @ 国立公文書館(上)

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comments: 0

 つい先日、東京・北の丸公園にある独立行政法人 国立公文書館(http://www.archives.go.jp/の加藤丈夫館長を訪問し、貴重な資料の数々を閲覧することができました。お父様は「少年倶楽部」j編集長で有名な加藤謙一さまです。(https://kotobank.jp/word/%E5%8A%A0%E8%97%A4+%E8%AC%99%E4%B8%80-1642234

館長写真HPより

 その折に、訳あっていつも宿泊するホテルではないところから、東京の日の出を仰ぎました。思えば、今から21年前の1997年2月9日、当時、私が代表取締役社長だった(株)秋山愛生舘の東京証券取引所市場第二部への上場の日、品川に宿泊していた私は、部屋の窓から輝く日の出を見て、何か新しい時代の到来に感動したことを思い出しました。そして、当日は東証での認証式、記者会見他を終えて、翌日10日、始発便で東京から戻った新千歳空港で、代表取締役会長・秋山喜代の逝去の報を受け取ったのでした。今、振り返っても激動の日々でした。

東京の日の出

東京の日の出、3月

 今回の加藤館長訪問は、2月に全く偶然のパーティの場でお隣の席になり、国立公文書館館長のお立場と分かり、私の父の「ビハール号事件」関連のBC級戦犯資料の閲覧を申し出たことに由来します。

* これまでのビハール号関連記事 http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E3%83%93%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%8F%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6

国立公文書館

国立公文書館

 以前、BC級戦犯裁判資料を法務省に問い合わせたところ、戦犯資料はすべて国立公文書館に集約しているとのお答えで、それ以降、フォーラムでお会いした内海愛子先生にお願いして、一部資料を送って頂きましたが、その後の検証活動が私自身続かず、先月まで時が過ぎていました。

* http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=27125

 今回、ご担当の新井さん、桜井さんにお手数をお掛けして、事前に大変たくさん資料を揃えて頂き、資料のよって来る所以ほか、裁判の全容等についても、新たな気づきを得ることができ、深く感謝申し上げます。

 お聞きすると、戦犯裁判資料の原本は、アメリカ、イギリス等の当事国に持ち帰り保存されているとのことで、戦後日本の法務省のご担当の方々のご尽力により、関わった弁護士たちからの聞き取り等で限りなく裁判の様子を記録に留めて今に至っていると伺いました。昨今の政府・官僚の記録改ざんの体たらくを見ると、隔世の感があります。

保阪正康さんのお話

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comments: 3

 今年は「戦後70年」、保阪正康(http://www.aya.or.jp/~hosaka-m/さんの出番がひと際多くなっているような気がします。今月は、札幌、小樽と二日間続けての講演を追いかけました。9月3日の秋山財団贈呈式では、「記念講演」として保阪正康さんをお招きしています。先日、小樽では講演開始前にしばしお話をすることができました。

 私が保阪さんとお話をしたのは、2011年8月の北海道新聞「終戦特集」で、私の父に絡む記事「ビハール号事件」の掲載時でした。北海道新聞の本社応接室でしばし懇談し、「よくこのような取材に応じられましたね」とのお言葉を頂きました。

* 「ビハール号事件」関係の私のコメント――> http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E3%83%93%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%8F%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6

講演終了後に秋山財団スタッフと

小樽での講演終了後に秋山財団スタッフと

 以下、講演から印象に残る言葉を書き留めます。~~~~~~~~~~~~~~~~~

* 今の安倍政権は歴史にどういう態度で向き合うのか、「歴史修正主義」が権力と結びついているのは日本だけ、ドイツは法律で禁止されている。海外からの強い批判あり

* 昭和20年8月14日に「資料を燃やせ!」の大号令。歴史は、戦後のアカデミズム、ジャーナリズムが、取り戻すために資料を集めるところからスタートして、今日まで営々として築いてきた大きな財産のはず。

* 日本に「軍事学」は存在しなかった:軍事指導者に思想がない、哲学がない。「葉隠れ」「武士道」等、全て兵士・兵隊に押しつけた

* 「ジュネーブ条約」を日本は調印したが批准はしなかった

* 戦前・戦中の大蔵省役人は、「軍事予算」しか作成した経験が無かった。戦後の予算編成に役立たず。

* 「村山50年談話」、「小泉60年談話」は、未来の日本人にも呼び掛けている。誰が、誰に、何を言うのかが極めて重要。予定されている「安倍談話」が酷いモノであれば、自分たちで創らなければならないと思っている

* 戦争で亡くなった方々を追悼するということはどういうことか。それぞれの70年は違うもの。

* 「全滅」の意味合いは、国際常識では「30%」の部隊兵士の死者、日本は「全員」の意味で、「玉砕、最後の一人まで戦え!」と。国家の戦略システムとしてこの「玉砕」があり、これを許してはいけないのが「戦後70年」ではないのか

* 語らなければいけないこと: 1)軍事が政治をコントロール、 2)全滅、玉砕を国家システムとして採用、 3)国際法を無視、 総体として「命」を粗末にしたこと

* 「日本的組織の在り方」、この70年を点検しなければならない

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 質問にも真摯に答える保阪さんの姿、今度9月にまた札幌でお会いできるのが嬉しいです。9月3日は講演会後の秋山財団贈呈式・懇親会にもご出席予定です、楽しみですね。

「キスカ撤退作戦」成功から70年

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comments: 0

 「キスカ撤退作戦(http://ww31.tiki.ne.jp/~isao-o/battleplane-16kisuka.htm)」成功から70年の今年、作戦完了の日7月29日に東宝映画「キスカ」鑑賞の「海鴎の集い」のご案内があり、参加しました。私の父はこの作戦で、旗艦「阿武隈」の通信長として参加し、司令部と艦隊・木村昌福司令官とのやり取りを含めて、重要な任務を担っていました。先日は、この作戦に南方戦線から招集された方、予科練生ほかの方々が集まられ、その後の懇親会でも当時の生々しいお話を伺うことができました。

ベーリング海での作戦航路

ベーリング海での作戦航路

 海軍士官だったお私の父について、2年前の8月、北海道新聞の終戦特集・5回連載記事でも紹介された「ビハール号事件」にからむ、これまでのこの欄での記載です(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E3%83%93%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%8F%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6)。

 この連載後、さらに関係するお話を聞こうと、様々な方とお会いしていますが、特に広島県呉市の「大和ミュージアム」館長・戸高一成さんとの面談は強く印象に残っています(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=11782)。その中で、再度思い出しておきたい戸高さんのお言葉を:

~~~~~~~昨年2月訪問時のまとめから 引用

* 組織と責任の取り方については、今の原子力発電所事故のその後の過程でも全く同様に、あいまいな構図を見て取れる。体制的に責任の所在が不明確。軍令部は天皇の参謀として大枠の命令は出すが、現地での戦略は現場の連合艦隊が行う。従って失敗しても責任が不明確になる。軍令部は現場が悪いと思い、現場の連合艦隊は方針そのものが悪かったと思う。だから失敗を次の戦略に活かすことができなかった。

* 戦後の反省会でも、「組織が悪かった」とは思っていても、その任を担っていた「個人の責任」とは最後まで考えていない所に、「責任を取る」、「責任を取らせる」発想が生まれてこないし、これは日本社会の特徴なのではないか、現代でも同様である。

* 日露戦争の日本海軍の完全勝利により、「無敵艦隊」との認識が続き、海軍には「負ける」という言葉がなかった。本来は、戦争遂行能力が無くなった時期に、戦いの終結を検討すべきが、誰もその勇気が無かった。最後まで「帝国海軍の面子」のためにだけ戦い続ける愚、「日本国の将来」と言った理念は見い出せない。

~~~~~~~引用 おわり

~~~~~~~もう一つ私のブログ(「錯誤・失敗」の責任)より

http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=11196

~~~~~~~引用 おわり

 最近、私は思うのです、太平洋戦争当時の「帝国海軍」の幹部たちは、実は悪い意味の「官僚」でしかなかったのではないか、と。「確固たる理念」とか、「国際社会の中での日本の位置づけ」とかのビジョンが、明治直後の創設期から時間の経過とともに失せていったのではないか、と。個々の人材のキャリアは、エリート教育として今と比べても海外任務も豊富で見聞も広く、当時としては最高の質・量だったのでしょうが、日清・日露戦争勝利からくる驕りと傲慢さによる「組織としての目的・理念」の退廃が目立ち、「戦争の大義」が何なのかはどこかへ消え、ただ、「組織維持」とか「メンツ」とかが最優先となっての展望なき状態でした。

参考:http://v.youku.com/v_show/id_XNTI0MTI4MjYw.html

 これは、海軍だけではありませんね。敗戦時の中国戦線での陸軍幹部の行動を検証しても、ただただ戦勝国への心証を良くしようとの目的で、様々の情報を自ら進んで提供している事実を知るにつけ、「幹部の退廃」と「組織の劣化」を痛感します。

 どうしても8月は戦争と向き合わざるを得ません。今の日本、戦後教育が置き忘れたエリート教育の欠如からくるものか、その上の世代の抜け殻のような虚ろな眼、どのセクターにも「優れた人物」を見出すことが難しい状況は、危ういですね。まさに、戦後の高度成長を担った方々は「総退陣!」なのでしょう。

2012.8.15 を過ぎて

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comments: 0

 この夏は、話題満載で、なかなかこの欄にも掲載しきれません。どうしても目の前の出来ごとに目を奪われがちですが、気になる記事・番組をこの間少しずつメモしてきました。今、お盆を過ぎてふり返り、この夏を忘れないように書き留めます。

 まずは、つい先日書いた札幌の演劇界の盛り上がりとロンドン五輪に絡んで:

 演劇シーズン2012 夏:http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=14067

 ロンドン五輪(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=14041

 

 原発関連では今も続く見逃せない動きです:

* 山本義隆の洞察 http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=11550 :彼の「科学技術(「科学」と「技術」ではなく)」に対する考察は、1960年代後半から一貫しています。未熟な技術としての原発、原発ファシズムの指摘、数十年ぶりの問題提起は「未だに健在」で説得力があります。

* 国会事故調(http://www.naiic.jp/

 再稼働反対の動きはまだまだ続きます:

* 原発再稼働反対デモ(http://www.youtube.com/watch?v=r7328uIAaqY

* 原発再稼働反対:タクシーでの取材 http://www.youtube.com/watch?v=w26klgPfBio

* 再稼働反対集会(7月16日) http://www.youtube.com/watch?v=YBeaTplNGBo&feature=related

http://www.youtube.com/watch?feature=endscreen&NR=1&v=8vTbW_y4V5c

 目を引く外国テレビ局2社の報道番組も: 

* 4号機が爆発した本当の原因と東電がそれを隠す理由/フランス・ドイツ共同の国営放送局 ARTE 「フクシマ-最悪事故の陰に潜む真実」(日本語字幕)、「4号機の建屋が爆発した本当の原因」が解説されている動画、ドイツのテレビ放送番組。
 
http://www.dailymotion.com/embed/video/xpzmuo_yyyy-yyyyyyyyyyy_news

  国の「エネルギー・環境に関する選択肢」に対する意見の募集(パブリックコメント)、2030年の原発依存度に関して 0%、15% 20-25% の3つの選択肢を提示し、国民の意見を募りました。これが開始された7月2日時点での日本国内の原発への依存度は0%。

* グリーンピースが提示した「エネルギーレボリューション」でも原発依存度0%は可能です。
http://www.greenpeace.org/japan/ja/library/publication/20110912/?gv20120707

 原発設置の歴史から学ぶ意味では、三重県芦浜の事例は貴重で、NHK名古屋の優れた番組です。

* 三重県芦浜の事例 http://www.dailymotion.com/video/xsuk17_yy-yy-yy-yyyyyyyyyyy_news

 

 そして、8月と言えば毎年忘れることが出来ないのは、日本の敗戦の総括です。

* 昨年の終戦特集記事:ビハール号事件を軸とした私の父の話(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E3%83%93%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%8F%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6

* メディアの終戦特集: 「終戦 なぜ早く決められなかったのか」、3・11以降の今の様子は全く同じ構造です。

(前)http://www.dailymotion.com/video/xsuods_yy-yyyyyyyyyyyyyy-y_news

(後)http://www.dailymotion.com/video/xsuoi2_yy-yyyyyyyyyyyyyy-y_news

 昨年、今年とマスメディアの新たな面を知り、ジャーナリズムの価値を再確認しました。特に、昨年私の父の体験に寄り添ってくれた北海道新聞のデスク・記者の皆さまにには、心より感謝申し上げます。私自身の戦犯裁判記録の調査は、この1年間はあまり進んではいませんが、国立公文書館はじめ、海外のアーカイブス関連へのアクセスを含めて、引き続き行っていこうと思っています。文書の検索は殊の外困難で、何かコツがあるのかも知れません、もし、このブログをお読みの方で、検索・調査へのアドバイスを頂ける場合は、是非ご連絡をお願い致します。

 今年の夏もまだまだ残暑は続きます、ただ、確実に過ぎ去っていく多少の焦りを感じながら、また1年、戦後が過ぎました。

戸髙一成館長とのお話から

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comment: 1

 広島県呉市の「大和ミュージアム:http://www.yamato-museum.com/concept/」、正式名称は「呉市海事歴史科学館」です。

 2年前にも訪問(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=4585)しましたが、今回は、館長・戸髙一成(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=9991http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=11196)さんとお会いして意見交換、いくつかアドバイスを頂くのが主たる目的でした。

大和ミュージアムから造船工場を望む

大和ミュージアムから造船工場を望む

玄関前:実物大の大和主砲砲身

玄関前:戦艦「陸奥」実物大の主砲身とスクリュ―

錨と

錨ほか

 これまで、一連のビハール号事件:http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E3%83%93%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%8F%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6」で、自分なりに歴史を検証してきたつもりですが、どうしても「戦犯裁判」の記録で、壁にぶち当たっていました。今後、B・C級戦犯裁判の証言記録を、どう追いかけていくか、その辺について貴重なアドバイスをたくさん頂きました。

 戸髙一成さんは、3年前の8月に、NHKスペシャル「日本海軍 400時間の証言:http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=1907」3回シリーズでも、高く評価されました。この番組の原点になった「海軍反省会」のテープを保管していることでも知られています。「海戦からみた日露戦争」、「海戦からみた日清戦争」、「海戦からみた太平洋戦争」等、著書もたくさんあり、館長ノート(ブログ:http://www.yamato-museum.com/concept/note/index.html)も興味深いです。今回は、初対面でしたが、テレビ・著書で私はあらかじめよく承知していたためか、或いは戸髙さんのお人柄なのか、初めてという気が全くしない、実に自然なやり取りでした。

 以下、お話から幾つか~~~~~~ 

* 戦争の反省: 敗因は、中枢にいた軍人たちが一番よく分かっている。「海軍反省会」等では、率直な意見が多く出されていたが、聞いた話が本になると、率直な発言が修正されるので、録音テープでの保管とした。なぜ戦争が起きたか、なぜ回避できなかったについて、現場の様子を伝えておかなければならないという認識で、この会は、1980(昭和55)年から1991(平成3)年まで131回開かれた。

* なぜか、海軍中枢に居た方々の会合に数多くお誘いを頂き、「反省会」の録音テープの発表に関しては、生前に発表されると本音が言えなくなる危惧もあり、20年を経て公にし、当初の参加者との約束を守った。

* 「反省会」は記憶の確認、責任の追及等、率直な発言が多かったが、自分たちは最善を尽くしたという言い訳的な発言も背景にはあった。

* 民間の商船撃沈、病院船攻撃、海に浮かぶ軍人・民間人の銃撃等は、戦争中にはどの海軍でも日常的に起きていた記録がある。「ビハール号事件」の場合は、救出して捕虜にした事態が、難しさを造り出したのだろう。戦争とは理不尽で、不条理。

* 「特攻」で逝った人を「英雄」と持ち上げるのは、これを命令した人たちの責任を回避するものであり、特攻の陰の部分だ。

* 海軍は国防の組織、国防は国民を守るための組織のはず、それを「特攻」という国民を殺す作戦を立案し実行し、本来の機能を失った。

* 日本の国は、国家と国民との間の「権利」、「義務」のバランスが甚だ悪かった。「徴兵」の義務を課する大前提として、国家はその国民のいのちを限りなく守る責任を負わなければならないはず。それが、戦後の「戦争責任」の議論にも強く影響してくる。

* 組織と責任の取り方については、今の原子力発電所事故のその後の過程でも全く同様に、あいまいな構図を見て取れる。体制的に責任の所在が不明確。軍令部は天皇の参謀として大枠の命令は出すが、現地での戦略は現場の連合艦隊が行う。従って失敗しても責任が不明確になる。軍令部は現場が悪いと思い、現場の連合艦隊は方針そのものが悪かったと思う。だから失敗を次の戦略に活かすことができなかった。

* 戦後の反省会でも、「組織が悪かった」とは思っていても、その任を担っていた「個人の責任」とは最後まで考えていない所に、「責任を取る」、「責任を取らせる」発想が生まれてこないし、これは日本社会の特徴なのではないか、現代でも同様である。

* 日露戦争の日本海軍の完全勝利により、「無敵艦隊」との認識が続き、海軍には「負ける」という言葉がなかった。本来は、戦争遂行能力が無くなった時期に、戦いの終結を検討すべきが、誰もその勇気が無かった。最後まで「帝国海軍の面子」のためにだけ戦い続ける愚、「日本国の将来」と言った理念は見い出せない。

* 軍は、本来は戦争をしないために存在する、抑止力としてあるにもかかわらず戦争を始めた。現実問題として、軍人・司令官の立場で、「戦争開始に反対」、「戦争を終結させる」ことの不可能なことをあらためて感じる。

~~~~~~~~~~~~~~~~以上、お話から

 

 インターネットで、「太平洋戦争」を検索をすると、実にたくさんのサイトが紹介されます。その中には、極端な戦争讃美、お決まりの懐古趣味、反戦一辺倒、個人を罵倒するような乱暴なブログ等、様々です。でも、今を生きる現役の私たちがしなければならないことは、これまでの多くの犠牲を無駄にしない「学び」から、二度と戦争を始めない国を創る議論を続け、実現することなのではないでしょうか、右翼も左翼もありません、人間としての基本として、です。そして、国際社会の中で生きている現在、それは一国では成し遂げることは不可能です、まさに「外交」の出番です。

 たくさんの海軍中枢の方々とお会いして、実際の生の声を聴いてこられた戸髙一成さんは、ほぼ戦後の同時代を生きてきた私の2年歳上です。今回お会いして、「戦争を語り継ぐ」ということ、「戦後生まれの世代の戦争との向き合い方」について、大きなヒントを得ました。先日、終り頃で、「何を知っているということより、史実をもとに自分の頭で考え続けることが大事だと思います」とおっしゃった言葉が、全てなのかもしれませんね。戸髙一成さま、お忙しい中おつき合い頂き、ありがとうございました。

 近いうちに、また検証を始めます、東京で、そして、ロンドンで、ですね!

「錯誤・失敗」の責任

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comments: 2

 昨日、私は書きました、・・・・・・・・・・軍事力ばかりでなく、原子力政策においてもこの海軍の変質の歴史から学ぶことが多いと思います。そしてその「学び」は、これからの日本創造で生きて初めて「価値」となるのですよね、と。この部分について、戸髙さんは具体的事例で言及していますので、それを引用します。

 

* 巡洋艦「インディアナポリス」は、1945年7月26日に米本土から運んできた原爆をテニアン島に降ろして任務を終え、グアム島を経由してフィリピンのレイテに向かった。出港前の情報では、付近に日本の潜水艦が行動している恐れがあったので、日中はジグザグ航行を行っていたが、日没後は直進で進んでいた。深夜、日本の伊五十八潜水艦の魚雷攻撃で、「インディアナポリス」は十数分であっけなく姿を消し、SOSの発信さえも間に合わなかった。

* 乗員約1,200名のうち約300名が沈没時に戦死し、その後8月7日の救助完了までの間に多くが遭難し、結局300名程度が救助されたにすぎなかった。日本国内では、この撃沈は日本海軍潜水艦のあげた最後の金星としてのみ有名である。しかし、米国では、「インディアナポリス」の遭難は、海軍最大の悲劇として戦後に大きな問題となった。一隻の巡洋艦が、ほとんど敵の存在しないと思われていた海面で撃沈され、数々の不運が重ねって多くの生命が失われた。この事件の責任はいったい誰にあるのか?

* この「インディアナポリス」の事件は、終戦直後のアメリカ海軍と国民の間に重大な関心を呼び起こし、そのニュースは争って読まれた。多くのアメリカ人がこの事件について海軍内部に責任者が存在し、処罰されなければならないと考え、生き残った艦長は軍法会議にかけられ有罪とされた。大戦中にアメリカ海軍が喪失した軍艦の艦長が軍法会議にかけられたケースは他にない。

* この異例の裁判が引き起こされた最大の理由は、「将兵が死ななくてもよい場所で無駄に命を落としたのではないか?」ということにあった。この問題意識こそ、日米海軍、いや、日米両国の国家と軍隊と兵士の関係における最大の相違点だったのである。

* アメリカ国民は、義務として兵役につき、戦争に参加している。同時にすべての兵士は国家に対して、生命の安全に関して最善の努力を払うことを要求する権利を持っている。もし一人の兵士が戦死すれば、その遺族はその兵士の死が「意義ある死」であったかどうか(すなわち、無意味な作戦や無能な指揮による死ではなかったか、また十分な生活と最善の兵器が与えられていたか)を知る権利を持っていた。それがアメリカという国家と国民の契約だったのである。

* 「インディアナポリス」の場合を例にとると、死亡した乗員の遺族が太平洋艦隊司令長官のニミッツ提督に対して、責任者の早急な追及を行うように要求する手紙を送っている。これに対してニミッツは、ていねいな返事を書いている。さらに事件調査についても、「われわれは、自分たちの間違いを隠そうとは考えていない」と言明している。これは何ら特別の例ではなく、このような手紙は戦時中に軍の指揮者や、大統領がたびたび受け取ったものだった。また、海軍の内部でも同じように契約があった。「義務を果たした者には名誉を、果たさなかった者には罰を」である。すべての失敗について責任者が厳しく失態や怠慢を追及され、それぞれ処分を受けたものである。

* 戦いの中で得られた教訓、戦訓には兵士の血の代償が支払われている。そして、その教訓の活用は、次の戦いにおける血の代償の量を左右する。もし真剣に戦訓を得ようとすれば、それは冷厳な責任の追及となるのはやむを得ない。法廷で戦友のミスを追及することはアメリカ人にとっても、もちろん愉快なことではない。しかし今後、同じ過誤が繰り返されないために必要不可欠なこととされたのだ。

* ひるがえって、日本海軍のケースはどうであったろうか?1942年6月のミッドウェー海戦に敗れた第一航空艦隊の参謀長草鹿龍之介は、山本五十六司令長官に対して、ほとんど個人の感情レベルの懇願を行っている。そして山本長官も敗北の責任など全く念頭になく、「承知した」と答えている。さらに海戦の敗因については後に、形ばかりの戦訓委員会が設置されたが、その結果は極秘とされて一切公開されなかった。利用されることのない戦訓などに、一体何の意義があるだろうか。

* 日本海軍の指揮官や高級幕僚が、戦闘の重要な局面で重大な錯誤や失敗をおかし、以後の戦局を極めて不利なものとしたケースはミッドウェー作戦にとどまらず、海軍甲事件・海軍乙事件・台湾沖航空戦・レイテ沖海戦での栗田艦隊の反転など、枚挙にいとまがない。にもかかわらず、それらのケースの責任者で直接処分されたものがいないということは、一体何を意味するのだろうか。

* 太平洋戦争における日本軍の反省を記した書籍や雑誌を見ると、個々の戦闘の戦術的巧拙についての評価、あるいは戦略的な総論に偏したもの、または日本人の国民性、というような茫漠としたものなどが多く、将兵の義務、責任、そして権利といったものについての考察は、ほとんどない。

* しかし、軍隊の本体が人間の集団である以上、将兵の一人の人間としての権利と義務に基づく立場の確立こそ、精強な軍隊の第一歩であると考えるべきであり、日本軍についてもこの観点からの研究がさらに必要と思われる。

~~~~~~~~~~~~~~~~引用おわり

 

 大変長い引用で申し訳ありません。ただ、この数年、日本の戦争と向き合っていて、私がずっと心に引っかかっていた「責任の取り方、取らせ方」について、まさに上記の指摘に120%賛同致します。戦後の東京裁判に代表されるABC級裁判を批判する前に、日本国自体の命の価値に対して自ら指導者・幹部の責任を裁く当事者能力の欠如を指摘すべきだと思います。

 今月2日、この欄に私は書きました(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=11026)・・・・・・

・・・・・・・・私に15分程度のご挨拶の時間があったので、この場にお招き頂いた御礼と、連載記事の概略、及び今の気持を話しました。当初は、全く個人的興味だった「ビハール号事件」、戦闘日誌等の記録を調査した際、重要部分が切り取られていたこと、香港のB級戦犯法廷での日本海軍幹部の不誠実な証言、父の役割、一人責任を負って絞首台に立った第十六戦隊司令官・左近允尚正中将、そのご子息・左近允尚敏さまとの意見交換等、溢れ出る言葉を抑制しながらではありましたが、お話したつもりです。戦犯裁判とは言え、このままでは現場に責任が全て押しつけられて、本来の作戦立案等、責任ある幹部が誰一人として処罰されないという実に理不尽な経過に私が憤りを感じたこと、歴史の中に確かに記録・記憶されてしかるべき事実であること、戦争は未体験ながら、今を生きる世代として明らかにしておく責務等です。・・・・・・・

 今、原子力発電所の事故ほか国策に対して、全国で巻き起こるデモ・集会等の直接行動は、まさに体験した日本国民の、今と将来に向けた基本的人権の獲得行動であると思います。

「海戦」からみた日本の戦争

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comments: 2

 今年は、私にとって「戦争」と向き合った記憶に残る年となりました(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=11094)。今月11日にも書きましたが、「日本海軍の変遷」から検証して、新しい気づきがありました。

 数年前から、歴史認識として「戦争責任」検証の旅で、アウシュヴィッツ等のヨーロッパ・中国東北部を訪問し、今年8月は北海道新聞に、旧海軍の私の父に絡む「ビハール号事件:5回連載」の記事も掲載されました。この間、旧海軍の多くの方々と出会い、貴重なお話、或いは著書を読むことが出来ました。その中から海軍に関係する二つを紹介致します。

 一つは、今年夏に知人の大沼芳徳さんから送って頂いた伊藤和雄著「まさにNCWであった日本海海戦:http://janafa.com/book-35/page-13.pdf」です、「NCW:Network Centric Warfare(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%AF%E4%B8%AD%E5%BF%83%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84)」は、簡単に言うと「ネットワーク中心の戦い」で、近年、米海軍大学校長のアーサー・セブロフスキー中将の講演ほか、アメリカ軍オリジナルの構想と理解されているようですが、実は、日露戦争の日本海海戦が「NCW」だったという視座の興味深い本でした。

 ペリーから送られた電信機に始まり、明治維新以降、海底電信ケーブル、軍用水底線、海軍望楼、三六式無線電信機等、新しく創設された日本海軍のインフラ整備・開発が、実は今日言う「NCW」そのものだったのです。日本海海戦の勝利の分析も、「情報優位」の下で、連合艦隊が主導的に戦ったからこそ、機力(ハードウエア)と術力(ソフトウエア)の僅かな差が大きな結果となってあらわれた、著者はそう断言しています。さらに、戦勝の要因として言われている、敵前大回頭(T字ターン)、砲の門数・口径、装甲の暑さ、下瀬火薬の優越度は、勝敗を左右した決定的要因ではなく、「情報優位」の傘の下に存在した数ある要因のひとつに過ぎない、とも。この勝因総括・分析の誤りが、実はそれから37年後の太平洋戦争での大敗北へとつながります、ある意味で歴史の必然として、です。

 幕末から明治にかけて、本来の「近代国家の建設」への熱き思いと、情報・通信ネットワークの重要性を本能的に理解した優れたリーダー達の見識を、私たちはしっかり史実として記憶しておかなければならないのでしょう、その後の時代を検証すればする程ですね。

 

 もう一つは、戸髙一成著「海戦からみた太平洋戦争」です。戸髙さんはご存知のように、「呉市海事歴史科学館館長(通称大和ミュージアム:http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=4585」で、同時に海軍史研究家でも著名な方です。私は全く同感する部分が多かったので、少し長くなりますが引用させて下さい。

* 太平洋戦争では、連合艦隊は早期の艦隊決戦を追求し続け、その作戦が破綻して戦力を使い果たした後は、いたずらに特攻作戦のみによって戦死者を増やすだけに終始した。あえて日本海軍の失敗や欠陥に目を向けることが、現在の日本人にとって有益と考えるのである。

* マリアナの攻防で艦隊を失った日本海軍は、ことの重大さに苦悩していた。もはや日米の戦力差は決定的なものであり、通常の攻撃では、日本側に勝ち目はなくなっていたのである。米軍のレーダーは安定した性能で日本機の接近を探知し、十分な余裕を持って邀撃(ようげき)戦闘機を差し向けている。また、幸運にも邀撃戦闘機群の網を逃れ、米艦隊に突入できた飛行機も、小型レーダーを内蔵し、飛行機に接近しただけで炸裂するVT信管を装備した高角砲弾の弾幕に包まれて撃墜されてしまう。

* 当時、日本海軍では、この米艦隊の対空砲火の命中率が異常に高いことに気づかず、単に対空機銃と高角砲が多い、つまり物量の差があるといった程度の認識しかなかった。この、「米軍イコール物量」という図式は、日本の軍人の頭の中に深く染み込んだ観念で、これはワシントン条約で日本の海軍が対米6割に抑えられた時からの長い歴史を持った観念であった。これらの物量に対抗するには、米艦隊を上回る戦力を集中して対抗すべきであったが、日本海軍にはすでにその力はなく、力を蓄積するだけの資源も時間もなかったのである。

* では、何もない日本海軍に残された道は何であったか。それは「天佑神助」を当てにすることと、「大和魂」を持ち出すことだけだったのである。合理的な作戦がすべて破綻した時、残っていた作戦が非合理であったことは、或いは自然なことだったのかもしれない。

* 1945年の戦艦大和の最期となった「沖縄特攻」のとき、出撃にあたって連合艦隊司令部から与えられた命令がある。この命令を起案したのが誰なのかはっきりしないが、命令文が示すものは、この特攻艦隊の出撃が、「海軍の伝統を発揚」するために命じられたものである、ということであった。付帯的に付けられた「皇国無窮の礎を確立」することとともに、そこには何ら遂行中の戦争に対する戦術展望もなければ、全てを失った後に対する考慮も読み取ることはできない。この作戦目標は「戦果」ではなく、「日本海軍の栄光」の伝統発揚のためだったのである。日本海軍にとっては、「海軍あって国家なし」と言われても仕方のない命令文である。海軍は、ただ「輝ける伝統」という幻を守るために多くの艦艇と人命を米軍の攻撃の前に差し出したのであろうか。

* いかに軍事技術が発達しようとも、戦争に至る原因の多くは、古来変わるものではなく、基本的には、国家間の政策・利害の衝突に過ぎない。これは、本質的には、外交交渉で解決されるべきものであり、戦争は、いわば交渉失敗の結果なのである。

* このような、外交的敗北によって始まった太平洋戦争は壊滅的な敗北で終り、日清戦争に始まった「日本の五十年戦争」も幕を閉じた。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~引用おわり

 「外交」と「戦争」と言えば、クラウゼヴィッツ(http://kotobank.jp/word/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%BC%E3%83%93%E3%83%83%E3%83%84)の「戦争論」を思い出します。日本海海戦を担った指導者たちと、太平洋戦争時の海軍指導部の質・見識の差とでも言うのでしょうか、この80年近くで変遷していった日本海軍から考察する歴史は、しかし、今も進行形であると思いますね、指導者の劣化、それを見過ごす国民の民度の低さとお任せ民主主義の跋扈です、教育の敗北と言っても良いかもしれません。

 今の日本は2008年統計で、「53隻の駆逐艦保有」、これは米軍第7艦隊の2倍であり、「護衛艦52隻、哨戒艦9隻、機雷艦31隻、潜水艦16隻など152隻、43.7万トン保有」、世界第2位の海軍です。それをコントロールする指導者は育っているのでしょうか。軍事力ばかりでなく、原子力政策においてもこの海軍の変質の歴史から学ぶことが多いと思います。そしてその「学び」は、これからの日本創造で生きて初めて「価値」となるのですよね。

真珠湾が教えるもの

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comment: 1

 今年の12月は真珠湾攻撃から70年、11日は東日本大震災から9カ月の節目です。師走を迎えると、この一年を振り返りたくなりますね。

 私にとって「2011」という年は、「戦争」に向き合った一年として強く記憶に残ると同時に、大きく前へ踏み出しました。この数年のポーランド・中国北東部訪問で体験した戦争責任の検証(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%84)、「ビハール号事件」の調査(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E3%83%93%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%8F%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6)、そして今年8月の北海道新聞の5回に渡る終戦特集連載記事(201188-12e98193e696b0e38393e3838fe383bce383abe789b9e99b86efbc88e7b78fefbc89)等です。更に、3・11の大震災後の対応を目の当たりにして、国難に対する「責任の所在の不明確さ」も、戦争責任と酷似すると感じていました。

 8日朝日新聞朝刊「オピニオン」欄で、東京大学教授・加藤陽子(http://www4.ocn.ne.jp/~aninoji/)さんのインタビュー記事「真珠湾が教えるもの」が大きく掲載されて、中見出しには、「思惑ずれた日米、対立を解くには豊かな歴史観必要」とも。少々長くなりますが、引用します。

~~~~~~――最終的に開戦の決定を主導したのは誰だったのでしょう

「形としては大本営政府連絡会議と閣議決定によって開戦が決定されたので、軍と内閣双方の一致がありました。しかし、意志決定に至る状況判断において、軍と文官では情報に大きな非対称性があったと思います。東郷外相でさえ、開戦が12月8日で攻撃地点は真珠湾とマレー半島だ、と12月1日まで知らされていませんでした。陸海軍はグル―米国大使がワシントンへ送った電報をはじめ、あらゆる暗号を解読していましたが、軍に不利になる情報は統帥事項として内閣に上げなかった。この点、日清、日露といった過去の戦争が伊藤博文など元老の指導下になされたのとは対照的です」

――専門家が知識を独占していた点では、原発推進の過程と似ているような気がします

「どちらも専門家が無謬性の神話にとらわれ、外部の批判を許さない点で共通しています。軍部は、日露戦争の戦勝を神話化し、自国軍の能力を客観視する目や、欠陥を指摘する人々を排除していきました。原発も安全神話ゆえに、最悪の場合の想定を行わなかったのでしょう」

――戦争回避の失敗から、現在の日本は何を学ぶべきでしょうか

「日本は、背負ってきた近代そのもの、明治以来の歴史全体を否定されたと考えて対米戦争に踏み切りました。原理的な対立が起きた時、どこまで退却しうるか、大正デモクラシー期に戻るか等、具体的な歴史イメージを豊かに持っておくことが大切でした。そうしたイメージを持てない今の日本社会の状況が、昔のこの時代に似ていて心配です」

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~引用 おわり

 

 もう一つ、ちょうど読み終えた本、広島県呉市海時歴史科学館(大和ミュージアム:http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=4585)館長・戸高一成著「海戦からみた太平洋戦争」のまえがきに書かれていました、引用します。

~~~~~~~~~~~~~

・・・・・・、米英海軍、とくに英海軍の根本政策には、「海上交通線の維持」ということが「国土の防衛」ということと並んで、海軍の最大任務とされていることをみたからであった。しかるに、日本海軍は、何かしら海軍自体の純作戦的立場にばかりとらわれていると思われたからであった。・・・・・・・・連合艦隊第一主義と艦隊決戦主義への偏重は、太平洋戦争の展開において、きわめて大きな弊害をもたらした。連合艦隊は早期の艦隊決戦を追求し続け、その作戦が破綻して戦力を使い果たした後は、いたずらに特攻作戦のみによって戦死者を増やすだけに終始した。これは、不十分な想定のもとに原子力発電所の設置を行い、想定外の事象が発生した時の適切な対処を欠いたまま月日を消費している、2011年の状況を思わせるものがある。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~引用 おわり

 

 歴史の考察、失敗から学ぶ姿勢、敗戦までの道すじと3・11以降の原子力発電所爆発事故の経過を検証するお二人のご意見に、私は「我が意を得たり」でした。ここまでの責任者のありさま、情報隠ぺいの常態化、マスメディアの不甲斐なさ、いよいよ国民の怒りは頂点に達しつつあります、そして更に昨日の国会の閉会、何をかいわんや、ですね。議員定数の削減、国家公務員給与の削減等、法律を成立させる立法府の責任を何も果たしていないで2011越年はあり得ないでしょう!

 こんな体たらくの今の日本国、それでも私たちは「日本国民」として、「今」、そして「これから」を生きなければなりません。どう凌ぐか、どう新しい時代を創るのか、残っている時間はそれ程ないように思います。

海軍兵学校76期の皆さまと

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comments: 2

 海軍兵学校76期(http://homepage2.nifty.com/navy76/)の「第23回ブリッジ会」が都内で開催され、初めて出席しました。当日は寒風にもかかわらず、50名程の方々がお集まりになり、皆さま83歳の実に凛々しいお姿で懇談されていました。ある意味で、日本最後のエリート教育を受け、戦後、各界で日本の復興・高度成長期をリーダーとして担ってこられた方々のお姿を目の当たりにした場でした。

「ブリッジ会」:海軍兵学校76期の皆さま(83歳)50名

「ブリッジ会」:海軍兵学校76期の皆さま(83歳)50名

  なぜ、この会に私が参加することになったのか、それはこの「秋山孝二の部屋」と大いに関係があります。2年ほど前でしょうか、このブログを重巡「利根」の検索から偶然お読みになった横浜在住の井上正美さんからご連絡があり、東京で何回もお会いしました。井上さんは、私の父・秋山(旧姓野田)宏が海軍兵学校分隊監事だった時の生徒(76期)だった方です。

 今年8月に、終戦企画として、北海道新聞に5回連載となった「ビハール号:http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E3%83%93%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%8F%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6」記事をこの会で紹介して頂き、先日の私の出席となりました。

 私に15分程度のご挨拶の時間があったので、この場にお招き頂いた御礼と、連載記事の概略、及び今の気持を話しました。当初は、全く個人的興味だった「ビハール号事件」、戦闘日誌等の記録を調査した際、重要部分が切り取られていたこと、香港のB級戦犯法廷での日本海軍幹部の不誠実な証言、父の役割、一人責任を負って絞首台に立った第十六戦隊司令官・左近允尚正中将、そのご子息・左近允尚敏さまとの意見交換等、溢れ出る言葉を抑制しながらではありましたが、お話したつもりです。戦犯裁判とは言え、このままでは現場に責任が全て押しつけられて、本来の作戦立案等、責任ある幹部が誰一人として処罰されないという実に理不尽な経過に私が憤りを感じたこと、歴史の中に確かに記録・記憶されてしかるべき事実であること、戦争は未体験ながら、今を生きる世代として明らかにしておく責務等です。

 その後、懇談の場で、多くの貴重なお話を聴くことが出来ました、幾つかを書き留めます。

* 7月24・25日、比島沖海戦の残存艦が呉周辺に回避していたので、江田島は米軍艦載機の空襲があり、江田島内に仮泊の「利根」、「大淀」も急降下爆撃を受けた。7月28日早朝より、艦載機・B29爆撃機が攻撃してきたが、この際の米軍パイロットの白いマフラーも忘れられない。応戦したが、「利根」は着底、「大淀」は爆発したようで急激に横転した。これらの戦闘で300名が戦死し、兵学校から目と鼻の先でのことであり、戦局の急迫を実感した。<後で私が調べたところ、これを以て米軍の攻撃は一段落し、豊田軍令部総長は、「連合艦隊の水上部隊全滅」と奏上したそうです>

* 現在は、「戦略」「戦術」という言葉で語られるが、これは英米から入ってきた概念。旧日本海軍では、伝統的に「戦策」「戦則」という言葉だった。「戦略」の「略」は、自分のものにする、「術」は手練手管的ネガティブな意味が付きまとうのに比べて、「策」「則」は如何にもルールに則って事を進める姿勢がにじみ出ている。

* 兵学校の生徒時代、教官は10期上くらいの先輩で歴戦の勇士にも関わらず、自慢話は全くなく、戦闘の話は殆ど聞くことはなかった。機密事項とは言え、語りたいとは思わない心情も強かったのではないか。

* 兄が零戦パイロットで終戦直前に戦死し、戦後十数年は戦争・兵学校の話は口には出さなかったが、時の経過とともに集まりにも参加するようになり、気持の整理が出来てきた。

 

まだまだたくさんあるのですが・・・・。とにかく、今年8月に左近允尚敏さんとお会いした時と同じく、50名の皆さまの話を聴く時の姿勢は、並はずれた集中力と緊張を感じ、私自身、身の引き締まる思いでした。次回は来年3月開催予定です。

ビハール号事件(4)

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comments: 0

 昨日の東京は、昼前に猛烈な豪雨と雷、東京駅丸の内地下街への入り口の階段は、まるで滝のように水が勢いよく流れ落ちていました。そして、今日の午前中の札幌、突然空が暗くなり、同じように雷鳴とどしゃ降りの雨です、今はもうすっかりあがって日差しも出ています。気温も空の様子も、急に、秋の気配です。

 「鎮魂」という言葉が、今年のお盆は特に重たいですね、3月の震災の影響か、先日の北海道新聞5回連載記事の余韻かは判りませんが・・・・。この1週間、たくさんの方々とメールのやり取り他、ご意見・ご感想をお寄せ頂き、いつもとはひと味もふた味も違った終戦記念日前後でした、幾つかご紹介致します。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

<私の叔母から>

記事を繰り返し重い心で読みました。表現できないことが多いですが私だけの感想を簡単にのべてみます。

* ハンガリーとの違い:ハンガリーは戦時中、自国をロシアに蹂躙され、それに応戦するドイツにも国をことごとく破壊されました。したがって国民は国を守る為に戦ったので、敗れても、ひどい目にあったがベストを尽くしたと思っています。ナンドールも故郷が戦場で戦いました。
* 最近テレビドラマで時々戦中、戦後の物語が放映されますが、私(80歳)共の世代から見ると 悲惨な、苦しいことばかり強調されて、クラスメート皆で「楽しいこと、美しいこともいっぱいあったのにねー」と、何か別の世界が映されている感じです。人間として偉い、尊敬する軍人も民間人も多かったです。宏お義兄さんの白い制服に短剣を帯びて、もの静かに歩く姿も神々しい感じでした。今そんな大人が何人いるでしょうか。この頃、民主主義に疑問を持つことが多いです。独裁者は嫌ですが、選挙のシステムなど根本的に考える必要があるように思います。

<永年の友人宛のメールから>

うちのオヤジも満州に行った陸軍二等兵ですが、通信部隊だったそうですが、やはり詳しいことは口をつぐんでいましたが、戦友とは最後まで仲が良かったのと、国(政府)というか権威というものを全く信じなかったことがとても印象に残っています。私の喉に刺さるが如くの小骨だらけの反骨精神もこのへんのオヤジの影響かも知れません。

ビハール号事件は明治の軍隊ではあり得ない事件だと思います。組織も人間も簡単に劣化していくことを無残でかつみじめな形で表した事件だと思いますが、劣化は当然他人事でも昔の話でもありませんので、まさに教訓の宝庫なのでしょう。

事件の主役となった重巡「利根」は、砲弾が散らばらないように艦首部に主砲4基を集中した珍しい艦ですが、被告の黛治夫艦長は、砲撃の理論家でも有名でもあったのでこの記事を読んで驚きました。そんなことがあったのか、です。

海軍はその性格上技術屋の集団(艦という機械と電気で出来た動く設備・装置に乗っかった軍隊)ですので、観念的なことは嫌ったはずですが、理論・理屈でははったりには対抗できず、あちこちに青年将校という名の無責任なはったり屋がはこびりだしてこういうことになっていったのだと思います。本来の責任は戦隊以下の現場(現地部隊)ではなく、艦隊司令部とか連合艦隊司令部などの上級司令部でしょうね。記事では軍令部とありますが、キーマンは艦隊司令長官でしょう、南西方面艦隊の高須中将ですね。

陸軍では有名なビルマの山岳地帯を舞台にしたインパール作戦があります。この作戦は軍事理論無視の無茶苦茶で有名ですが、この話も知れば知るほど怒りがこみ上げてきます。担当した軍司令部とその上の方面軍や南方総軍司令部の現地部隊への無理難題が、多くの将兵を死に追いやった他、作戦を担当した4師団の師団長が命令違反で全員解任されるという、陸軍史上始まって以来の事態を引き起こしました。

こういう陸海軍共通した話は、現代の企業戦士の自殺や過労死に通じる話ではないか、と思っています。その意味ではその昔あった話ではないのですね。われわれには被害、加害を問わず、これらの事件と同じ体質を持っているということだと思います。

<私から知人Aへ>

記事の余韻はまだ続きます。昨日は財団事務所に市内の方から電話を頂き、お父様の介護の時に、秋山愛生舘の関係する方にお世話になり、そのお礼を言いたかったと。また、数日前にはやはりお電話で、お父様が「利根」の乗組員だったそうで、ビハール号事件の時に乗っていたかどうかを確認出来ないかというお問い合わせでした。東京・目黒の防衛研究所・図書館閲覧室をご紹介しました。

<私から知人Bへ>

先日、実は戦史に詳しい方とお話をしました。彼の言では、イギリスの戦犯裁判とアメリカの戦犯裁判とでは、随分その処分が違っていると。アメリカの場合は、「怨念」がかなり強く、捕虜3人の殺害事件に対して、戦犯7人の絞首刑とかもかなりあったそうです。ビハール号事件では、65名の捕虜殺害に対して、幹部とは言え1名の絞首刑、1名の実刑7年判決というのは異例の「軽さ」であり、これは英国の日本海軍への敬いとか歴史の尊重とかと考えることが出来るのでは、という見解でした。手を下した人々が一人も裁かれていないというのも、犠牲になったお二人の「武士道精神」を英国が根底では受けとめたのでは、と。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~引用おわり

 一昨日でしたか、NHK・BSプレミアム(http://www.nhk.or.jp/shogen/)で「シベリア抑留」についての番組がありました。内容は、「戦後、57万を超える日本人が強制労働を強いられた『シベリア抑留』。過酷な収容所の日々、そして戦後日本での苦難。激動の歳月を、人々はどのように生き抜いたのか?」です。

 番組HPには、「過酷な労働を強いられ、少なくとも5万5000人以上が命を落としたとされる『シベリア抑留』。苛(か)烈な生存状況を激化させた日本軍組織の矛盾。スターリン体制のもとで行われた旧ソ連の徹底した思想教育。新たな苦難を余儀なくされた冷戦下の戦後日本。60年を超える激動の日々を、人々はどのように生き抜いたのか? 今も、深いかっとうを抱え続ける元抑留者たち。肉声で語るシベリア抑留の記録。」とありました。日本軍の中での葛藤、帰国後の苦難等、見応えがありました。

 それぞれの戦争体験、それぞれの想い、いずれも実に重たい話です、特にこの2011年は。鎮魂の8月は続きます。

ビハール号事件(3)

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comments: 0

 今朝で、北海道新聞朝刊・5回連載「父が見た海~戦後66年 ビハール号事件を追う」が終わりました。

201188-12e98193e696b0e38393e3838fe383bce383abe789b9e99b86efbc88e7b78fefbc89

 連載前は、取材によって新たな事実をたくさん知り、「これで一件落着」みたいな気になるかと思いましたが、今、正直言って、まだまだ検証途中という感じですね。「捕虜殺害」には、必ずその遺族が居るはずで、何人かは今回の場合、イギリスで今も暮らしているはずです。それと、香港での戦犯裁判の記録は、切り取られることなく、イギリス本国にアーカイブスとしてしっかり保存されているのは間違いないでしょう。この事件をさらに追い掛ける道筋は見えていますので、今後時間をつくって実現できればと思います。裁判記録の検索は、裁判上の専門用語が必要なのかも知れません。確かにあることは分かっていても、検索する用語が少し違っているとヒットして来ない場合もあるのでしょう、研究の余地ありです。

 限られたスペースでメッセージを伝えるために、無駄な修飾をそぎ落とし、コンパクトな言葉に思いを込める、そんな記者の努力を垣間見た気もします。たとえば記事の中、初日の中盤、「むさぼるように読んだ」には、私自身の本に対する思いが込められていましたし、2日目の後半部、「現場は口達指令の呪縛に追い詰められていく」のフレーズは、現場で増大する緊迫感が伝わってきます。さらに4日目の中盤、「法廷の論点は、被告人2人のどちらに責任があるかに矮小化された」は、経過を説明するとかなりの字数を必要とする事実を、実に端的に状況を言い当ててると思いました。

 今朝の記事は、最も緊張しましたね、試験の発表を待っている心境とでも言いましょうか。記者が一連の私との話でどう受けとめたのか、その結果が明らかになる感じでした。最後の表現は、まだまだこれからも検証は続く、「旅の途中」と言い渡された気がします。

 3・11以降に、特に原発事故に関わりのある組織で、今、「無責任の体系」が蔓延っています。結局、現場に全てを任せて(押しつけて)、第一義的責任を負う立場の人間達が逃げようとしている、今朝の報道で3つの中央官庁のトップが、「更迭」と報道されながら割増退職金を得る処遇となっているというのも、納税者としては許し難い話です。責任の取り方・取らせ方、戦前と何も変わっていません、出す方も出す方、貰う方も貰う方です、そしてそれを許してしまうメディアと国民も。これからも私たちは自立する市民として、油断せずに国政に携わる人々を「監視して」いかなければなりません、犠牲になったこれまでの命に申し開きができません。

 繰り返しになりますが、今回の連載、初日から私へのメール・電話・直接のお話等、大変な反響でした。一般的な読者のご感想は今後分かるのでしょうが、メディアの威力というか影響力というか、まざまざと実感しました。北海道新聞デスク・お二人の記者のご尽力に、心から感謝申し上げます、そして昨年、最初にこの事件を伝えてくれた小樽在住の渡辺大助さん(http://www.amazon.co.jp/%E6%B8%A1%E8%BE%BA-%E5%A4%A7%E5%8A%A9/e/B004LUT7F4)、読んで頂いた読者の皆さまに御礼申し上げます。

ビハール号事件(2)

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comment: 1

 昨年10月9日にこの欄で、「ビハール号事件:Behar case」について書いて以来(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=5921)、しばらくの間沈黙の日々が続いていましたが、2011年8月8日から、終戦特集の一つとして、北海道新聞・第一社会面に5日続けて詳細載っています。「父が見た海~戦後66年 ビハール号事件を追う~」です。海軍兵学校66期卒の父、戦後66年を経て、60歳の還暦を迎えた私が、3・11以降、覚悟を決めました。

 初日以来、想像を上回る反応に、ただただ驚いています。会う人会う人、秋山財団事務所の近くを通る方も、職員に向かって、「ここの財団の理事長でしょ」とか、声を掛けて頂いているようです。約1ヶ月半の取材、北海道新聞の二人の記者の方々には、本当に寄り添っての取材活動、的確な質問、取材相手への敬意、何とも感謝の言葉も無い程の感動です。扱っている話題はとても重たいものにも関わらず、「今・ここ」で世に問いかけなければというジャーナリスト魂を感じました。同時に、「メディアの力」を目の当たりにした数日間です。

 一昨年来、私はメディアに対して、場当たり的な垂れ流し報道ではなく、時間軸のしっかりした調査・検証報道の必要性を指摘していたつもりです。昨年仰せつかった1年間の北海道新聞・新聞評でも、一貫してそれに言及しました(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E6%96%B0%E8%81%9E%E8%A9%95)。今回、まさにそれを実践する機会を与えて頂いた、そんな気がここまでの中でしています。キーマンお二人と直接面談でき、長時間のお話を伺いましたし、保阪正康さんとの意見交換では、トータルの戦争における「軍隊」の行動パターン、1000人以上の戦場体験者との面談に裏付けられた心理等、短期間で一気に情報の質も量も深化致しました。とても私一人では出来なかったことばかりです。このテーマに向き合う記者・報道部次長の誠意あふれる姿勢に、心から感謝申し上げます。

 明後日の最終回を終えて、再度この欄で書き留めたいと思います。今月から、この「秋山孝二の部屋」へのご意見を受け付けることにしました、ブログ開始3年弱を経て、初めて解禁致しました。スパムほかイレギュラーなメール以外は、基本的に掲載したいと思っています。一覧の画面から、「該当日のタイトル」をクリックするとコメントの受・送信画面が出て、ご覧頂けます。

ビハール号事件(1)

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comments: 2

  私は今、自分の時間を以前よりも持つことができるので、明治維新から今日までの近代の歴史を振り返りながら、検証らしきことをしています。特に、戦後のA・B・C級戦犯の検証、実際に足を運び、ヨーロッパでのナチスによるホロコースト、中国での日本軍による数々の事実を自分の目で確認し、新たな歴史的課題も見えてきました。

 そんな中、ある意味では思いもよらなかったのですが、ごく身近に私の知らない一つの「事件」があったことが最近分かりました。それは、旧日本海軍の重巡洋艦「利根:http://military.sakura.ne.jp/navy/c_tone2.htm」による「ビハール号事件」です。これから何回になるか分かりません、身内にも関係する重要な事実ですので、どんな展開になるか予想もつきませんが、追いかけてみようと思っています。

 これまでこの欄に数回書いている通り、私の父は4年前に亡くなりました。海軍兵学校66期卒で、キスカ撤退では旗艦「阿武隈」の、レイテ沖海戦では重巡洋艦「利根」の通信長として作戦に従事しました。その後、広島県江田島の海軍兵学校分隊監事で終戦を迎えました。

 没後に、私たち家族の発案で追悼集「絆」を発刊し、その中で私は父の思い出として次のように書きました。~~~~~

・・・・一方で私は、海軍兵学校時代の生活、キスカ撤退作戦、レイテ沖海戦等の最前線の経験を何回も聴いていた。とりわけキスカ撤退作戦での木村昌福司令官の勇気ある決断に関しては、旗艦「阿武隈」の通信長として身近にその現場を体験して、企業経営者としても社内報等で「バランスの重要性」として繰り返し強調していた。

 ある時に、自宅2階の自室で、戦争で生き残った者の苦しみについて静かに語ったことがあった。沢山の人間が戦争で無くなった悲しみは私には容易に感じても、父が言う生きて帰って来た人間の「その後の苦しみ」というのは、つい最近まで理解できなかった。ススキノのカラオケでも軍歌を歌う気にはなれない、戦争を賛美していた人間が戦後途端に反戦論者になっているのは許せない、今でも戦争が起これば自分は戦地に赴く、と戦争を巡る場面では、父はかなり頑固なこだわりを持ちつづけていた様な気がしている。

 そんな父ではあったが、入院中の夜中のベッドで、「火事だ、火事だ、水を」とうわ言の様に叫んでいる様子を聞いた時、それが戦艦の甲板での消火活動ではないか、と直感した時があった。自ら志願した海軍将校の人生ではあっても、心の底に沈む恐怖の存在を、私は数少ない場面ではあったが父の心の中に見た思いで、強い衝撃を受けた。・・・・・ ~~~~~~~~~

 4年前にこれを書いた時、私は勿論今回の「サ号作戦」については知る由もなく、ただ、「うわ言」に衝撃を受けていた、そんな自分でした。昭和19年に、キスカ撤退作戦の後、父は重巡洋艦「利根」の通信長として作戦に従事し、インド洋上での通商路破壊作戦(サ号作戦)に参加しました。そこで起きたのが「ビハール号事件」です。父は終戦後、海軍施設の進駐軍の接収・移管業務を済ませて、札幌に移りました。昭和22年に香港の戦犯裁判の証人として、ほぼ1年間程(その後、2・3カ月だと分かりました)、香港に滞在していたことは分かっていますが、それがどんな裁判だったのか、その辺りがこの事件を知る多少の手掛かりになります。私は、父からキスカ撤退作戦、レイテ沖海戦については話を聴いていましたが、インド洋上での作戦は一度も聴いた記憶がありません。

 4年前に青山淳平・著『海は語らない―ビハール号事件と戦犯裁判(http://www.7netshopping.jp/books/detail/-/accd/1102322644)』(光人社刊)が出版されたのを最近知り、すぐに読んでみました。「なぜ捕虜は処刑されたか、救助した捕虜111名、うち65名をその後殺害した衝撃の真相。英国商船乗員乗客「処分」事件」、或いは「英国戦争裁判・香港法廷の実情」とも書かれています。この本には私の父の名が、まるで映画のシーンを見るかのように数か所リアルに出ていました。

 私は、まずは自分で過去の資料を調べようと思い、先日市ヶ谷の防衛省に行ってみました(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=5391)。そこの職員に問い合わせた所、戦史・艦日誌等は市ヶ谷にはなく、別の場所に所蔵されていて、閲覧も出来ることが分かりました。何かの機会に時間を取って調べようと思っています、なかなか時間的都合もあり難しい作業になりそうですが、しっかり真実を見極めたいですね。

 戦争の検証は他人事ではなく、自分の家族の人生の検証になってきました。