散華の世代からの問い

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 NHK特集「散華の世代からの問い 〜元学徒兵吉田満の生と死〜」は、1980年に放映された作品、例年8月の戦争特集の中で、心に響く作品でした。語り手の加賀美幸子さんの声も若い!
HPより~~~~~~~~~~~~~

 九死に一生を得た吉田満は、戦後に「戦艦大和ノ最期」を書き、目撃した悲劇を現代に伝える語り部の役割を果たした。彼の著書につづられた戦没学徒兵の手記に現代の風景を重ね、吉田の問いの意味を探る。遺稿から…「妹よ、清純に生きていけ。心の最も美しいところであなたを愛し続けてきた兄の最後の言葉を忘れないでくれ。」「敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるか。いま目覚めずしていつ救われるか。」

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吉田(よしだ みつる、1923年〈大正12年〉1月6日1979年〈昭和54年〉9月17日)は、日本の作家。日本銀行職員。キリスト者。

 大日本帝国海軍における戦時体験をもとにした戦記を残すとともに、日本銀行職員の要職を歴任する傍ら、「戦中派」として独自の著作活動や言論活動を続けた。代表作の『戦艦大和ノ最期』は、映画化、長時間テレビドラマ化もされ、海軍での上官であった臼淵磐も吉田の著作を通しても広く知られるようになった。

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 異なった視点からの回想の言葉、特に臼淵大尉の「三バカ:万里の長城、ピラミッド、戦艦大和」の発言は衝撃的でした。

* これまでの戦艦大和の記事ーー> 秋山孝二の部屋 (akiyama-foundation.org)

* これまでの海軍兵学校関連記事ーー> 秋山孝二の部屋 (akiyama-foundation.org)

海軍記念日 2024

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 1年に一回しか足を運ばない場、今年も5月27日の海軍記念日に、『北海道全海軍慰霊祭』が札幌護国神社で催されました。毎年同じ写真をアップしていますが、亡くなった父がこの例祭を護国神社にお預けした『北海道全海軍の集い』の最後の会長だったこともあり、私の中では毎年厳かな気持になります。年々戦争体験当事者の方々は減り、今年は海上自衛隊余市の方も幹部は見当たらず、どこか寂しい例祭と感じたのは私一人ではなかったのではないでしょうか。

* これまでの記事ーー> 秋山孝二の部屋 (akiyama-foundation.org)

 本殿での例祭では、毎年反橋宮司の内容の濃い祝詞とこの例祭の拠って来る所以のお話、玉ぐし奉奠では最初に名前を呼んで頂いたり、私の心に染み入ります。これからは直接体験された方々に代わり、そのお話を受け継いだ私の世代以降の方々が、この慰霊祭を機に何か今日の日本国の在り様を振り返る、そんな時間にしたいなと思います。もちろんただ賛美することではなく、恒久平和への日本の果たすべき役割、できる貢献についですね。今の日本の政治の体たらく、経済の埋没等を憂うだけでなく、新しい国際社会での存在感を示したいみたいな心意気を見せたいものです。

追悼 伊藤義郎さま

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 先日は昨年12月5日に96歳でお亡くなりになった伊藤義郎さまの『蒼空(そうくう)の集い』に参列しました。「蒼空」の意味合いは青く美しい空のこと、こよなく愛した飛行機が真っ青な空を突き進む様子に安らぎを感じてたとのこと、96年の生涯を札幌・北海道を世界に発信し続けたそのご功績を偲ぶとともに、首尾一貫した「つどい」の企画に感動致しました。

 とにかく経済界はもちろん、スポーツ界、芸術界等、特にアメリカ海軍との深い繋がりは、まさに民間人としての信頼を築き日本を代表する人物、今回の「つどい」でもアメリカ海軍の元大将ほかの参列者も多く、その重鎮たる存在感を示していました。式次第はじめ配布パンフレットも英語併記、

 私の小・中・高の大先輩、それぞれの同窓会でも役員としてお世話になり、札南高学校林財団では永きにわたり理事長を務め、三代後に現在は私が理事長になっています

 私がまだ幼い頃、南1条の秋山の自宅でパーティがあった時に、当時伊藤組の社長になったばかりの伊藤義郎さまが奥様の寿美子さまとご一緒に出席されて、テーブルの上の「春巻」を見て「ああ、スプリングロールですね!」とおっしゃったのを何故か鮮明に覚えています。アメリカ留学6年間と先日の「つどい」で紹介があり、そんな言葉がすぐに出てくるまさに国際人なんだと、私が強く心に残りました。

 翌日の新聞各紙にも紹介されていました。

 長い間大変お世話になりました、どうか安らかにお眠りください。

海軍記念日 2023

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 毎年、5月27日は「海軍記念日」、札幌の護国神社では全海軍関係者の慰霊祭が行われます。今年も私は遺族として参加し玉串奉奠しましたが、コロナ禍を通り過ぎてみると、今年は戦争体験者は3名となっており、時の経過を痛感しました。その中のお一人の横山末雄さんは高校の大先輩、と同時に学校林財団の二つ前の理事長です。当日お元気なお姿で参加されてお話もすることができました。

<これまでの関連記事>

http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E8%A8%98%E5%BF%B5%E6%97%A5

 例祭終了後は参加者の皆さんが見守る中、海上自衛隊の方による恒例の日章旗の取り下ろしです。以前は降旗のラッパ吹奏と共にでしたが、その旧海軍の方も参加されていなかったので、今年は静寂の中の儀式となりました。

『バタフライエフェクト』(19)

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 『バタフライエフェクト』シリーズ、しばらく記載が滞りましたが、相変わらず興味深い話題の連続、以下に二つ続けてご紹介します。

危機の中の勇気

 2001年1月、新大久保駅のホームで転落した人を助けようとして命を落とした韓国人留学生イ・スヒョンさん、6年後の同じ日、またしても転落事故が起き、助けようと線路に飛び込んだ人がいて今度は助かりました。助けようとした人は6年前に亡くなったスヒョンさんの本を読んでいたとか。ひとつの勇気は次の誰かを動かす、サンフランシスコ大地震、関東大震災、ロンドン大空襲、同時多発テロ、東日本大震災、危機の中の物語、まさに勇気の連鎖です。

零戦 その後の敗者の戦い

 日本の工業技術の粋を集めながら、最後は特攻という悲劇的な作戦に使われた海軍の主力戦闘機「零戦」。戦後GHQにより日本の航空産業は解体され、零戦には火が放たれ、研究開発の一切が禁じられました。すべてを否定された技術者たちは、戦後の日本のために何ができるか探し続け、その後、世界初の胃カメラの実用化、新幹線の高速運転を可能にした技術、そして日本の宇宙開発の基礎を築いたロケット等、絶望から立ち上がった技術者たちの物語です。

<参考記事>

* 戦艦「大和」 http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=4585

* 戸髙一成さんと面談 http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=11782

NHK 『戦争特集』 二題

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 NHK・BS1スペシャル『歩兵第11連隊の太平洋戦争』は、昨年12月の再放送ですが、8月の終戦特集番組の中で一つの部隊の顛末を追いかけた優れた報道でした。

* 歩兵第11連隊ーー> http://burari2161.fc2web.com/hohei11rentai.htm

 大変歴史のある部隊で、編成後の初陣は「萩の乱」、続いて西南の役にも出陣し、日清戦争では平壌(ピョンヤン)を攻略したようです。その後、北清事変、日露戦争、シベリア出兵にも参戦、さらに日中戦争を経て南太平洋の戦いに向かい、敗戦を迎えます。幾多の危機を乗り越えて捕虜になり辛くも生き残った方々の貴重な証言が胸を打ちます。

 もう一つは、NHKスペシャル『太平洋戦争 1942 大日本帝国の分岐点(前編・後編』、80年前の1942年、明から暗へと一変した「大日本帝国」の分岐点を見つめた番組、アーカイブス映像とITによる多くの日記の言葉分析が相まって引き付けられました

* https://www.nhk.jp/p/special/ts/2NY2QQLPM3/episode/te/83RG8YMQV8/

* https://www.nhk.jp/p/special/ts/2NY2QQLPM3/episode/te/W6XZ8LQ3ZY/

 言葉の時間的推移、報道により国民の熱狂の度合いもうかがうことができます。

 言葉の関連の強弱と言葉の頻度の大小をITで可視化しています。

 一方、アメリカは当初から情報の戦略的意義を十分理解していて、日本軍の電報解読に注力をして、ことごとく作戦を事前に察知して戦況を有利に進めていました、まさに勝つべくして勝った戦いと言えましょうか。

 それに対して日本陸海軍は、ミッドウェー海戦の大敗北以降は特に情報統制と欺瞞が激しく、負けるべくして負けた戦争といえます。

 アメリカは開戦当初から、日本本土爆撃による戦意喪失を狙っていたようで、開戦して間もなくすでに日本本土に接近した空母から発進したB25による爆撃を試みおり、その16機の飛行航路も今回可視化されていました。本土への爆撃は、本来、本土に暮らす多くの庶民に戦争の危うさを伝える重要な出来事にもかかわらず、大本営はその被害を意図的に過小評価したばかりでなく、残骸も見当たらない敵機撃墜報道を平気で垂れ流した事実、そんな状況もこの番組では赤裸々に伝えていました。

 ここ数年、アーカイブ映像ばかりでなく、軍の日誌、個人の日記等の文字による記録をITで分析して可視化する試みが増えています。それらを基にした番組は、私たちに新たな歴史を教えてくれて貴重ですね。この時代に生まれた若者たち、兵士として徴用されて各地を死ぬまで転戦して消費された、時代に翻弄された人生を余儀なくされた、そんな表現は懸命に生きた兵士の方々を冒涜するものでしょうか。前線の多くの兵士たちに比べて、司令部他の陸海軍幹部たちの無責任さは、しっかり歴史に刻んで、多くの犠牲を出して負けるべくして負けた戦争責任をしっかり総括する必要があるでしょうね。

『バタフライエフェクト』(12)

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 映像の世紀『バタフライエフェクトシリーズ』、今回は『太平洋戦争“言葉”で闘った男たち』も素晴らしい視点からの番組でした。

* https://www.nhk.jp/p/ts/9N81M92LXV/episode/te/PN49VJZYJW/

 太平洋戦争の勝敗に大きな影響を及ぼしたのが、米軍が急いで養成した『日本語情報士官』、暗号読解や捕虜の尋問に当たった彼らは、戦争で戦力となっただけでなく、戦後の日本復興にも大きな役割を果たしました。「言葉」によって日本と闘い、そして日本との懸け橋となった男たちの物語です。「戦争」を始めて持続する底力とでも言うのでしょうか、もちろん戦争それ自体は絶対に起こしてはならないのですが、日本と戦う体制づくりには当時の日本とは雲泥の差を感じます。「戦時体制」への思慮の深さとでもいうのでしょうか。ドナルド・キーンさんもこの情報士官の一員だったのですね。

戦時下のテニアン島で日本人のための小学校を作ったテルファー・ムック

昭和天皇の戦後巡幸を進言したオーテス・ケーリ

川端康成のノーベル文学賞受賞に貢献したサイデンステッカー

 コロラド大学ボルダー校に設置された海軍日本語学校を修了し、その後に日本語情報士官として活躍した人たちは『ボルダー・ボーイズ』と呼ばれていたそうです。

 こちらの西口光一さんのブログに詳細が書かれています、それぞれの人物が語る言葉は胸に響きます。

* https://note.com/koichinishi/n/n92d8aa4661ba

海軍記念日 2022

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 5月27日は「海軍記念日」、毎年この日に札幌護国神社で『全海軍の慰霊祭』が執り行われます。1905(明治38)年のこの日、日露戦争の日本海海戦において東郷平八郎(1848~1934年)が率いる日本海軍連合艦隊が、ロシアのバルチック艦隊を撃滅し、日本が歴史的な大勝利を収めました。この勝利により両国間のポーツマス講和会議への道を開き、1945年までは勝利を記念して「海軍記念日」に制定されていました。一方、この海戦で大国ロシアを破ったことがその後の日本の戦争への道を突き進むきっかけとなったことも事実で、今を生きる私たちは冷静に歴史を検証しなければなりませんね。

 「北海道全海軍英魂之碑 顕彰会」は、私の父が「全海軍の集い」の会長の時、同窓会と違ってこのような集まりは先細りが懸念されると予測して、前向きに解散し、代わりに「顕彰会」として毎年この日に護国神社例祭として継続することの合意を得て今日に至っています。

* 私の父と海軍の関連記事ーー> http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E3%83%93%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%8F%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 今年も雨の中、しばし海軍関係者の慰霊の時間。ただ、今年はコロナ禍ということもあり例年にも増して参加者が少なく、戦争の記憶とともに時の流れを雨の音と共に少々寂しく感じておりました。

* これまでの関連記事ーー> http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E8%A8%98%E5%BF%B5%E6%97%A5

札幌護国神社境内

札幌護国神社境内

 そんな中、際立っていた女性が、昔ススキノでスナック『ネイビー』を経営していた近藤さん(黄色の服)でした。数週間前に私の自宅にも電話が掛かってきて、当時通っていた私の父ほか海軍関係者の方々の思い出等、先日もお会いするなり「お父様にそっくり」と笑顔で語っていらっしゃいました。

 反橋進宮司の祝詞は今年も大変真心こもった内容で感動し、玉串奉奠では私が最初に名前を呼ばれて大変恐縮しました。「今の日本の平和が多くの犠牲の下に成し遂げられている歴史を忘れてはなりません」というお言葉を嚙み締めていました。

NHKスぺシャル『台湾有事』

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 年末から年始にかけて、たくさんの興味深い番組を録画しましたが、なかなかそれをじっくり観る時間がないのが悩みです。その中で、コンパクトにまとまったこちらの番組、津軽海峡を中国・ロシア海軍が合同での航行を行ったとなると日本の南の話だけではないですね、まさに「有事」です。

NHKスぺシャル『台湾有事(https://www.nhk.jp/p/special/ts/2NY2QQLPM3/episode/te/LQY2PGJNV4/)』

 台湾を巡る歴史的認識・状況は、これまで私が続けて参加している寺島実郎戦略経営塾でも何回も取り上げられています。米中、中ロ、EU諸国等、日本を取り巻く世界情勢の激変と流動性は、目を離せないところまで来ているのでしょう。

 先日のシミュレーション(図上演習)の場面を垣間見ても、本当に大丈夫?と大いに不安を掻き立てられました。コロナ対応の鈍さ、無策、10年前の原発事故対応、日本国の危機管理体制の脆弱さは、政治の劣化と相俟って甚だ心もとないものですね。

 義理も人情もないなって、今更言われなくてもごく普通の市民でもとうの昔に分かっていることではありませんか!!引き続き注意を払って見つめていかなければなりません。

海軍記念日 @ 2019

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 5月27日は海軍記念日、「北海道全海軍英魂之碑 顕彰会」の慰霊祭が札幌護国神社で執り行われました。私の父の関係で毎年参列しています。今年は海上自衛隊余市防備隊からも指令・鈴木拓哉一等海佐ほかがご参加。この日に先立ち、慰霊碑の修復、周辺の清掃等をボランティアで行って頂いていたようです。反橋進宮司の祝詞では、多くの犠牲を経ての今の時代、平和への強いメッセージが奏上されました。また、参加されていた高校の大先輩で学校林財団の元理事長・横山末雄さんからは、隣席でご自身の予科練の体験をじっくりお聞きした貴重な時間となりました。

* これまでの記事ーー> http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E8%A8%98%E5%BF%B5%E6%97%A5

札幌護国神社

札幌護国神社

顕彰碑

顕彰碑(北海道全海軍英魂之碑顕彰会)

今年は海上自衛隊余市防備隊指令ほか

今年は海上自衛隊余市防備隊指令ほか

降旗

降旗

ラッパ

懐かしのラッパ

 戦争を自らの体験として刻み込んでいる参列の皆さんからは、「絶対に戦争はしてはならない」、「平和への強い願い」をヒシヒシと感じる時間でした。毎年減ってくる参列者、私のような遺族もあまり多くなく、戦争体験を受け継ぐことの難しさも少々気になりながら、しばし鎮魂の祈りを捧げました、毎年、私にとっても貴重な日・時間です。

海軍記念日 2017

Posted by 秋山孝二
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 毎年5月27日は「海軍記念日」で、札幌では「北海道全海軍 慰霊祭」が札幌護国神社で催されています。90歳を越える方によるラッパの奉納「国の鎮(https://www.youtube.com/watch?v=t8fXSsy2DJY)」は、今年も最後まで立派に演奏されました。

雨の中の慰霊祭

雨の中の慰霊祭

* http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E8%A8%98%E5%BF%B5%E6%97%A5

 今年はあいにくの雨にもかかわらず、90歳代と思われる皆さまのご参加も多く、しばし、北海道出身の戦争犠牲者の慰霊の時間となりました。

 北海道全海軍の「英魂の碑(https://nyh3boys.theblog.me/posts/210535」は、1978(昭和53)年 8月20日建立され、当初は「北海道全海軍の集い」という団体の例祭として開催されていましたが、発展的に解散して、以来、護国神社の例祭として毎年行われています。私の父はこの三代目の会長を務めました。

全海軍の慰霊の碑

全海軍の英魂の碑

 「全海軍の英魂の碑」以外にも、幾つかの闘いでの戦没者慰霊碑が、境内には建立されています。

ノモンハン、北千島

南方地域、北千島で

アッツ島、

アッツ島、ノモンハンで

沖縄戦で

沖縄戦で

* 沖縄慰霊の日――> http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E6%B2%96%E7%B8%84%E6%85%B0%E9%9C%8A%E3%81%AE%E6%97%A5

 昨今、政治の世界でいとも簡単に「戦い」だの「戦争」だの口にする輩がいますが、とんでもありませんね。毎年のこの慰霊祭に参列すると、今ある日本は多くの犠牲の基にあることを強く感じ、日本国憲法の下、戦後教育を受けた我々世代の責任をあらためて確認致します。

海軍記念日 2016

Posted by 秋山孝二
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 今年も海軍記念日(5月27日)に、札幌護国神社で慰霊祭が催されました。どうして私のブログに旭日旗?、と思われる方も多いかもしれませんが、戦後を生きてきた私にとっては、ここが「反戦」の原点です。私の父は「北海道全海軍の集い(http://kanazawa.jimbou.net/catalog/product_info.php/products_id/37600)」の会長を務めていました。

< 参考: 北海道全海軍英魂之碑 https://nyh3boys.theblog.me/posts/210535?categoryIds=25631

 昨年の様子はこちら――> http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=23518

札幌護国神社本殿で

札幌護国神社本殿で

 昨年よりも参列者は多く、終戦後71年を経て、なお海軍の絆は健在でした。昨今の新たな安保法制、直近の自衛隊演習場における実弾での射撃訓練等、自衛隊にとっては見過ごせない状況に、戦争体験を持つ方々、及び自衛隊OB達の複雑な心境を垣間見るやり取りもありました。戦争に一番身近にいるのは、やはり現役の自衛隊員なのでしょう。

 反橋宮司の鎮魂の詞は実に内容の深いものでした。

愛生舘の「こころ」 (14)

Posted by 秋山孝二
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 このブログのシリーズ「愛生舘の『こころ』」は、第13回を終えてしばらくお休みしていましたが、本当に久しぶりに再開致します。というのも、今年4月から始まる年度は、秋山財団設立30周年の節目の年になり、基本財産の出捐者・秋山喜代の遺志でまだ私が実現していない「愛生舘文庫」の創設に向けて、新たなスタートを切りました。

 これまでのシリーズ「愛生舘の『こころ』」はこちら――> http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E6%84%9B%E7%94%9F%E8%88%98%E3%81%AE%E3%80%8C%E3%81%93%E3%81%93%E3%82%8D%E3%80%8D

  この4年間、私は、秋山喜代の最後の住まいで、今は秋山財団事務所になっている建物倉庫の整理と、「愛生舘」にまつわる資料の収集・整理を空いた時間を見つけては行ってきたつもりです。なかなか進展していなかったのですが、昨年、助っ人を得て、資料収集も最後の局面を迎えつつあります。

 先日は、これまでも「古文書講座」等でお世話になっている青山学院大学名誉教授・片桐一男先生とご一緒に、松本順先生のご親族・松本和彦先生を訪問して参りました。貴重な資料をお借りできたので、さらに資料整理と分析・解読を進めていきます。

* 古文書講座 http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E5%8F%A4%E6%96%87%E6%9B%B8%E8%AC%9B%E5%BA%A7

松本和彦先生(左)、片桐一男先生(右)

松本和彦先生(左)、片桐一男先生(右)

 貴重な品いくつかも拝見しました、刻まれた文字に価値があります。

蘭畴は松本順先生

蘭畴は松本順先生

 松本順先生のご業績と愛生舘との繋がり、そして秋山財団がなぜ「愛生舘文庫」なのか、以前のブログから引用します。

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 片桐先生は冒頭、「世界の中で新しい国家建設が迫られている時期、必要とされていたのは『海軍力』で、それも緊急性を帯びていた。日本が独立国家として成り立っていく思想・技術、そしてそれを担う人材、すなわち『体力』をつける目的で長崎海軍伝習があった」、とおっしゃいました。そもそも蘭学が江戸時代に静かに研究されていたのは、北方ロシアの東方進攻・南下の脅威に対してその対抗的思想・哲学の必要性からと、先生から伺ったことがありました。

 以前にも書きましたが(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=1096)、その第二次海軍伝習(実質的な「医学伝習」)で松本順は中心的役割を担いました。ポンぺからのオランダ語を介した伝習を、集まった全国各藩の弟子たちに伝えることで、それ以降の近代医学・医療の基礎を築きました。

 松本順の功績のまとめとして 1) 持って生まれた資質を生涯を掛けて伸ばし続けた:ポンぺの伝習から総合的技術を取得、実践――野戦病院・衛生思想等

2) 人との出会い、ポイント3人:松本良甫(ポンぺからの伝習)、山県有朋(陸軍病院等の基準策定)、高松保郎(愛生舘事業)

3) 彼のしなかったこと:オランダに留学等で行かなかった、制度が出来るとバトンタッチ・チャンスの移譲

4) 彼の目指したこと:庶民への眼差し「愛生済民」――愛生舘三十六方、衛生思想の徹底、アジア・世界の体力向上

5) 彼の日常生活――身の回りをいつも「楽」にしておくこと

 最後のまとめで、片桐先生は、「松本順の活きた人間像が把握されていない、激動の歴史の中で埋もれていた原因は、激変する維新から明治時代では文字を通してのメッセージの伝達が難しかったのではないか、それは庶民の教育レベルが江戸時代よりもむしろ劣化していたことを意味している」、と看破されていました。

 牛乳の効用、海水浴の普及等、今では常識になっている健康増進・普及に関して最初の井戸を掘った人物、それが「初代陸軍軍医総監」等の評価以上の歴史的意味を、彼の人生から読み取ることが出来るのでしょう。

 翌日、私の手元に「松本順と北海道」という3部にわたる小論文を届けて頂いた札幌在住の医師・宮下舜一先生とお話をしました。講演会にもご出席頂き、先生の論文には、何と明治24年6月に、松本順が北海道(函館・小樽・札幌)に20日間程度来ている記録が、小樽では道内に在住していた弟子たちと一緒に撮影した記念写真まで掲載されていました。

 (株)秋山愛生舘が「愛生舘北海道支部」から独立したのが明治24年11月ですので、この時にどこかで初代秋山康之進と再会していた可能性は大変高いと思いました。引き続き調査・研究の必要がありますね、また一つ目の前に解き明かす課題が見つかりました。

 今回、私は片桐先生に敢えて「秋山愛生舘」ではなく、「愛生舘」についてお話をして頂きたいと事前にお願いを致しました。講演会に参加された道内の「シンパ」の方々には、「愛生舘事業をしっかり今の時代にも受け継いできたのは、唯一この北海道の地ではないか、どうしてもっとそれに言及しないのか!」と叱られそうですが、21世紀の今、広い意味で「愛生舘事業のこころざし:愛生済民」の原点回帰を、秋山財団的には記念すべき25周年を機に目指す、そう是非ご理解を頂きたいと思います。

 この講演会をキックオフとして、今後「愛生文庫」を軸とした資料室の創設も企画する予定です。ご関心のある方の率直なご意見もお待ちしています。 ~~~~~~~~~~~~~~ 引用おわり

 宣言をしてから4年以上経ってしまいましたが、今年・来年中には必ず創設しますので、乞うご期待!です。

秋山財団贈呈式 2015

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 秋山財団(http://www.akiyama-foundation.org/)の「贈呈式 2015」を開催しました。今年の特別講演は昭和史の第一人者・保阪正康さん、270人の聴衆で熱心にお聴き頂きました。

* http://www.akiyama-foundation.org/news/1362.html

 これまで保阪正康さんについては、このブログで何回も書いてきました。

* http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E4%BF%9D%E9%98%AA%E6%AD%A3%E5%BA%B7%E3%81%95%E3%82%93

特別講演 保阪正康さん

特別講演 保阪正康さんと座長の渡辺大助さん

昭和史

昭和史の第一人者

 特別講演に引き続き、今年度の贈呈式を行い、これまで最高の来賓の皆さまのご出席でした。冒頭の私のご挨拶です。

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 本日は、多数のご来賓のご臨席を賜り、またお手伝いに株式会社スズケン様より社員の皆様に駆けつけて頂き、当財団「2015年度贈呈式」を開催出来ますことは、大変光栄に存じ感謝申し上げます。

 秋山財団は1987(昭和62)年1月に設立以来、本年29年目を迎えました。お陰様でこの間、総額約87,000万円、1,247件の助成を行う事が出来ました。本日お集まり頂きました皆様をはじめ、これまで当財団に寄せられましたご指導・ご支援に対しまして、改めて心からの御礼を申し上げます。

 本年度の事業は、「選考委員会」におきまして厳正且つ公正な審議を経て、合計43名の受賞者・受領者に決まりました。詳細につきましては、このあと、各選考委員長よりご報告申し上げます。昨今、「公募・選考」というと、2020年東京五輪開催を巡って混乱が続いています。秋山財団は設立以来今日まで、「選考委員会」の透明性を最も大切にしており、それゆえ、理事会・評議員会でもその選考決定を尊重して、今日まで順調に事業を推進して参りました。

 本来ですとここで秋山財団の事業報告・近況報告などを申し上げるべきですが、保阪正康さんのお話しを伺い、今年は「戦後70年」の節目の年、秋山財団の理事長としての立ち位置、決意をお伝えしたいと思います。

 昨年この席で、私は195431日、アメリカが太平洋ビキニ環礁で強行した水爆実験と、その調査・検証に立ち向かった日本の22名の若き科学者についてお話し致しました。2013年(2年前)9月に放送されたNHKETV特集「海の放射能に立ち向かった日本人~ビキニ事件と俊鶻丸(しゅんこつまる)~」をご記憶の方も多いかと思います。

 更に今年は、尊敬する企業経営者の故・品川正治さん(2013829日享年89歳で死去。経済同友会・終身幹事 元日本火災海上保険社長)のお言葉をご紹介致します。「戦争を起こすのは人間、しかしそれを許さないで、止めることができるのも人間ではないか。天災ではない、なぜそれに気がつかなかったのか」、と。

 さて、研究者の皆様は、「学徒出陣」についてご存知でしょうか。19431021日、東京の明治神宮外苑競技場(「新国立競技場」建設予定地)で大規模な出陣学徒壮行会が雨の中挙行され、約2万5千人の学生が小銃を肩に行進しました。敗戦の時まで、動員された学徒兵の総数は13万人に及んだと推定されていますが、70年の時を経た今も、正確な出陣学徒数・戦没者数の実態は明らかではありません。学徒兵は主に文科系学生と農学部の一部(農学科、農業経済学科など)から徴兵されましたが、その他の理科系学生は徴兵が猶予され、陸・海軍の研究所などに勤労動員されたそうです。

 1943年(同年)1128日、北海道帝国大学においても出陣壮行式が挙行されました。ここから何名出陣したのか、戦没者数も、またこの歴史がどのように継承されているかについても私の手元に資料はありません。

 一方、小樽商科大学では、毎年8月15日に校内にある戦没者記念塔(学生・教員347名の名前が刻まれた墓石が納められている)の前で慰霊祭が行われています。

 近い過去に、日本の国を支えるはずの若い人材が、戦争遂行のために「投入」されていった歴史を忘れてはならないと思います。

 さて、秋山財団の助成事業は、「競争的資金」と位置付ける文部科学省の科研費とは一線を画し、とりわけ若き世代の育成の役割を担い続けたいと考えています。それは、一貫して貧困・疾病に苦しむ道民に寄り添い、微力ながら医薬品を通じて支えてきた秋山愛生舘の理念を継承する財団の姿と信じるからです。

本日ご出席の大学関係者、研究機関、そして受領者の皆さんに申し上げます。

 米国第35代大統領、合衆国史上最も若くして選ばれ、最初の20世紀生まれのジョン・F・ケネディの就任演説に、有名な一節があります。「米国誕生と共に灯されたたいまつは、新世代のアメリカ人に引き継がれた。世界の長い歴史の中で、自由が最大の危機にさらされているときに、その自由を守る役割を与えられた世代はごく少ない。私はその責任から尻込はしない、それを歓迎する。われわれがこの努力にかけるエネルギー、信念、そして献身は、わが国とわが国に奉仕する者すべてを照らし、その炎の輝きは世界を真に照らし出すことができるのである」と。

 私たち財団関係者は、北海道の研究者やプロジェクトの皆さんに夢を託しています。助成金には、29年間、秋山財団に寄せられた沢山の大切な志と篤い想い、期待が込められている事を忘れないで頂きたい、そして、今ほど、科学者の「勇気」が問われている時代はないのではありませんか。

 100年の時を越えて、北の生命と共に歩んで来た秋山愛生舘の歴史とDNAを受け継いだ財団です。生命と向き合い、道民のいのちと共にある科学、自然と共生する生命科学の進化の為に、貢献し続ける事をお誓い申し上げるとともに、本日ご列席の皆様には日頃のご支援、ご厚誼に感謝し、引き続きなお一層のご厚情を賜りますようにお願い申し上げて、私の挨拶と致します。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 挨拶 おわり

 詳細の報告は、後日、秋山財団HPに掲載されますのでご覧ください。ご参加頂いた皆さま方に心から御礼申し上げます。

戦後70年、私なりの思い(6)

Posted by 秋山孝二
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 何だかんだとこの時期思いを巡らせてはいますが、結局は番組・記事紹介に終始している私です。

 最後は、NHK総合テレビ「『終戦』知られざる7日間」です、16日に放映されました。8月15日では「終戦」しなかった事実を追い、実はこの7日間が占領政策、そして戦後日本の方向性を決めた、とのコメントは、大変興味深い視点でした。海軍の特攻の動き、「支那派遣軍」動向等、予断を許さない状況と連合国軍との交渉の中で、「戦闘停止命令」が出されたのは8月18日、その効力は8月22日からだったのです。

8月15日、中国大陸の日本陸軍

8月15日、中国大陸の日本陸軍

日本本土海軍軍令部の命令書

日本本土部隊へ・海軍軍令部の命令書

米国の事前の予想

米国の事前の予想

「戦闘停止命令」、最後まで曖昧な内容で

「戦闘停止命令」、しかし、最後まで曖昧な内容で

 この7日間を検証してみても、当時の日本国の責任ある人々の当事者能力の欠如が伺われます。満州事変、さらに遡って日露戦争の勝利から、日本の「軍国主義の結末をみる思い」とでも言うのでしょうか。始まりはほんの些細なことからですが。お盆が過ぎて、世間は通常の仕事モードになりました。連日の高校野球の熱戦ほか、経済活動も、日本が平和である、世界が平和であればこそできる訳ですよね。

 このシリーズ、最後は品川正治さんの言葉で終わりとします。「戦争を起こすのも人間、しかしそれを許さないで、止めることができるのも人間ではないか。天災ではない。なぜそれに気がつかなかったのか」。不戦の誓いを新たにしました。

* http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E5%93%81%E5%B7%9D%E6%AD%A3%E6%B2%BB

戦後70年、私なりの思い(2)

Posted by 秋山孝二
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 NHK総合テレビの特集「NHKスペシャル~戦後70年目の戦争と平和(http://www.nhk.or.jp/special/70years/」は盛りだくさんです。恥ずかしながら、「捕虜」、「従軍看護婦」、「少年兵」、「原爆投下直後」等、60年以上生きてきた私にとっても初めて知ることがあり衝撃でした。順不同ですが、いくつか書き留めます、まずは「発掘・日本人捕虜の肉声(http://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20150802」は見応えがありました。

 第二次世界大戦中、太平洋の激戦地で捕虜となった日本兵、連合軍の極秘の施設で尋問による『肉声」録音が、70年以上を経て初めて見つかったのです。NHK取材班は、入手した音源を、最新のデジタル技術で修復・解析。その内容は、殺すか殺されるかの戦場を生き抜いた日本人捕虜の壮絶な告白です。密室で、日本兵たちはひとりの人間として、自らの戦場と向き合っていました。そして、音源の分析から、捕虜となった日本兵と尋問が行われた「秘密尋問所」の場所を特定し、戦後、家族にすら伝えることのなかった密室での告白、現代に蘇った捕虜たちの肉声を通じて、歴史の闇に埋もれてきたもう一つの戦争が伝わってきました。

 旧帝国陸軍・海軍ばかりでなく、日本国民にすべからく「捕虜となることは恥ずべきもの」との社会通念が徹底しており、このような事実は永久に個人の心の中に仕舞い込まれていたのでしょう。市民を巻き込んだ戦争の現実では、「自決」と称して自ら命を絶つ人々はこれまでも報道されてきましたが、「捕虜」となった人の肉声は組織の一員というよりも、まさに一人の人間として戦争と向き合っている苦悩を感じさせます。「記録」の説得力、再現性等、多くの教訓を私たちに与えてくれます。

稲垣潤一

稲垣利一海軍主計大尉

 さらにホームページによると、アメリカ公文書博物館で発掘されたレコードは120枚、13時間の録音です。オーストラリアのブリスベーン郊外で録音が行なわれ、1942年から1945年まで、この施設は極秘の尋問所として使用されたそうです。マッカーサーはブリスベーンに拠点を築き、秘密組織のATIS連合軍翻訳通訳部隊を立ち上げました。そこでは日系人などを集め、日本兵の捕虜尋問や遺体の日記の翻訳を行い、オーストラリア軍の資料室に詳細情報が残されていました。特に重要な人物の尋問を密室で行っており、1105人の捕虜の尋問が行なわれました。

 残された音声の最初は海軍主計大尉・稲垣利一の尋問でした。稲垣は大変流暢な英語を話し、重要な捕虜と位置づけられていたようです。尋問で、稲垣は日本の軍国主義に不信感を示しています。東京帝国大学で外交官を目指し、海軍経理学校では中曽根康弘元首相と同窓。1942年8月、稲垣はニューギニアのブナに上陸、ポートモレスビー攻略を目指す無謀な作戦に参加、食料の供給が途絶え、兵士は次々と倒れ、連合軍の反攻の前に部隊は壊滅しました。稲垣は尋問で、部隊の悲惨な状況を話し、稲垣は自らも栄養失調とマラリアに倒れました。敵の兵士が近づき、稲垣は拳銃自殺を図りましたが泥水に濡れた拳銃は発砲されず、捕らえられた、その様子を証言しています。

 捕虜となった稲垣利一は日本語翻訳の仕事をATISから依頼されました。1943年10月14日の録音で、稲垣は一度受けた依頼を断わります。稲垣は頼まれた仕事は戦争を早く終わらせることは日本国民にはいいことだが、協力は裏切りになることで葛藤しています。稲垣は死にたいので、拳銃か薬を求めましたが、尋問官は責任を逃れる考えだと指摘し、説得を続け、日本の現状を伝え、早く戦争を終わらせるために協力を求めたのです。稲垣は決断を迫られ、苦しいと答えています。翌日、稲垣は仕事を受けると伝え、尋問は約半年に及び、協力を決断ました。

その後、本土決戦前の幾つかの戦い直前に投下された日本語の投降ビラは、彼らの仕事によるところが多いのでしょう。

連合国軍チーム

連合国軍チーム

ATIS作成の投降を促すビラ

ATIS作成の投降を促すビラ

稲垣の見識

稲垣利一の見識

 先月の保阪正康さんの小樽での講演で、日本に「軍事学」が存在していなかったとお話がありました。

* http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=24010

 「捕虜となって恥をさらすな」みたいな戦陣訓をまき散らしておきながら、戦場の市民を放ったらかしにして撤退・逃走する旧帝国軍隊の卑劣さを、私たちは忘れてはなりません。そして番組でも紹介されていましたが、「捕虜になった後に、どう応対するかを日本兵は教えられていなかった」とも。「解除の命令がない」ことも含めて、もはや「軍隊」という体を成していない酷い状況だったのですね。

 「戦争とは何か」、私たちが努力と妥協と折り合いを付けながら生きてきたこの70年、これからも日本を、決して「戦争をする当たり前の国」にしてはなりません、強くそれを再確認致しました。

海軍記念日 2015

Posted by 秋山孝二
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 5月27日は海軍記念日(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%)、この日に札幌護国神社(http://s-gokoku-jinja.sakura.ne.jp/index.html)では「北海道全海軍英魂之碑」顕彰会の例大祭が執り行われました。境内の彰徳苑(http://s-gokoku-jinja.sakura.ne.jp/1_syoutokuen.html)には、昭和53年に「北海道全海軍英魂之碑」が建立されています。

 私の父・秋山宏(旧姓野田)は、この「北海道全海軍の集い」の会長を務めていて、北海道の全ての海軍関係者の「集い」であることに誇りを感じていました。将来を展望して、永くこの鎮魂の意志を伝え続けるために、顕彰碑を建立し、会の発展的解消を提案し、平成20年に護国神社での例祭として会の転換を図りました。

 今年の例祭も各地から元海軍関係者、ご遺族ほか、多数の参列者でした。

 * これまでの「海軍」のこの部屋での記載――> http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E6%B5%B7%E8%BB%8D

全海軍の英魂の碑

護国神社神殿での祭事:奉納の舞い

護国神社神殿での祭事:奉納の舞い

 御身体がご不自由な方々もいらっしゃいましたが、背筋をしっかり伸ばし参列する姿を後ろから拝見し、それぞれの戦争を振り返り、若き時代の友の追悼と、今の時代の平和への祈りを受けとめた時間でした。戦争を最前線で体験しているが故に、平和の大切さ、有難さを痛感している皆さまなのでしょう、反橋宮司の奏上のお言葉も素晴らしく、今の政情を鑑みて、今年のこの例祭は、私にとって平和への一層の祈願となりました。「戦争を始めるのも人間、終わらせるのも人間」、故・品川正治さんのお言葉を思い出します。

降旗の儀

境内の彰徳苑で「降旗の儀」

ラッパの演奏とともに

慰霊碑の前では元帝國海軍・ラッパ奏者の渾身の演奏も

真珠湾攻撃と小樽人

Posted by 秋山孝二
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 先月の保阪正康さんに続いて(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=21798)、「歴史を学ぶ」シリーズ、今回は渡辺大助さんの講演「真珠湾の小樽人」でした、素晴らしかったですね。

講演案内より「真珠湾の小樽人」、12月8日に因んで

講演案内より「真珠湾の小樽人」、12月8日に因んで

本間さんの当時の記事

本間一飛曹さんの当時の記事

 渡辺大助さんは福島の放送局でお仕事をされていたので、1941年12月8日(月)朝6時20分から夜中12時までのNHKラジオニュース資料を丹念に説明しつつ、几帳面な取材に基づいた臨場感あふれるお話でした。12月8日一日で、大本営発表は10回あったそうです。午前7時の臨時ニュースは開戦を伝える有名な発表で、正午には君が代奏楽に続いて比較的冷静な「宣戦の大詔」奉読と続きましたが、夜の午後7時30分の談話、「宣戦の布告に当たりて国民に愬(うった)う」は、情報局次長・奥村喜和男による4分半のまさに「アジ演説」です、こんな放送が当時のNHKラジオから流れていたことに驚きを感じます。

 大本営発表と言えば、1941年12月8日から1945年8月15日まで、合計846回の発表があったそうで、12月8日から11日の間に36回、12月8日から月末までに88回と続いたそうです。緒戦の華々しい時期は回数も多く冗漫で、次第に戦況が悪化してくると事実と乖離した発表になり、更に敗戦近くの1945年6月から8月には、月2・3回とダンマリ・数行のコメントへと変化していきました、プロパガンダにもならない実にみっともない状況です。

 真珠湾攻撃では、第二次攻撃隊に被害が多かったようです。米海軍アリゾナが大爆発を起こした時に、それを上空から見ていたある日本海軍幹部が「ざまぁーみろ!」と吐き捨てるように言ったとか。数年後、同じ言葉をアメリカ軍から各戦線で日本軍兵士は浴びせられたとも。結局、戦争は憎しみの連鎖の上に始まり終わる、歴史からしっかり学ばなければならないとおっしゃっていました。

 終了後も、有志でさらにフォローアップの懇談会。石原慎太郎、石原裕次郎の昔の思い出話等、小樽ならではの貴重なお話の数々、歴史の奥行きとお酒にまさに「酔いしれた」ひと時でした、ありがとうございます!

演者の渡辺大助さん@懇親会

演者の渡辺大助さん@懇親会

懇親会終了後、参加者の一部の方々と

懇親会終了後、参加者有志と

サンプロ 9月例会 2014

Posted by 秋山孝二
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 異業種交流会「サンプロ」の9月例会が愛生舘サロン(http://aiseikan.net/salonで開かれました。これまでにも何回か書いています。

* http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=18511

* http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=753

 毎回、各参加者から示唆に富む話題提供があり、大変貴重なひと時です。今回は私からは、この数年ずっと参加している「寺島実郎経営戦略塾」、「リレー塾」から、今の各界の日本人リーダーに欠ける「歴史認識」、特に近代史について報告しました。

* 「ON THE WAY ジャーナル WEEKEND 月刊寺島実郎の世界」(http://www.jfn.jp/RadioShows/owj_tera

私のレジュメより~~~~~~~~~

~寺島文庫第5期リレー塾・第一回 講師 寺島実郎 より~

<日本>

アベノミクス 1)株高幻想 2)プチ・ナショナリズム症候群

――積み重ねてきた国際社会の中での日本の努力を一気にダメにする

政界、メディア、経済界、リーダーの見識の無さ:一番の原因は、「歴史認識の欠如」

――戦後教育における「近代史の欠落

――「日本史」、「世界史」に代わる「グローバルヒストリー」の概念

遡る歴史:戦後日本>20世紀>近代――>「17世紀オランダ

「近代史」 17世紀オランダの日本への影響 <別資料参照>

「近代」を理解するために「江戸期」の国家観を固める――本居宣長ほか

「近代」 1)デモクラシー(フランス革命、米独立戦争etc)個の自立、2)科学技術、3)資本主義 東インド会社(オランダ)

<ヨーロッパ・アメリカ>

2014年のヨーロッパは、「第一次世界大戦から100

――1914年 サラエボ事件

――4つの敗戦した帝國:ドイツ、オ・ハ二重帝国、オスマン、ロシア

――>中東の戦勝国(イギリス、フランスetc)による分割――ウイーンはロンドンへ1,254 km、イスタンブールへ1,255 km

ヨーロッパの中心だった:オーストリア・ハンガリー二重帝国(フランツ・ヨーゼフ、ハプスブルク家)

――現在のヨーロッパにイスラム教徒 1,500万人を超す(トルコから)

*二重構造 金持ちアラブと不法移民etc 抑圧されたアラブ

シュミット(ドイツ)、「21世紀はイスラムとの対話の時代」

現在の中東

1)アメリカの存在感の薄れ――イラク政策の失敗

アメリカ*エネルギー(原油、シェールガス)で世界一

*実体経済の回復 失業率6.1%、輸出No1「エネルギー」、

次世代ICT(ビッグデータ、クラウド)等戦略的産業の構築

2)地域パワーの台頭 イラン(シーア派)とトルコ(中央アジアを含む)

* プーチンのしたたかさ 中東の混乱―>オイル価格のアップ ――> ロシアへの追い風

日本   ロシアへのエネルギー依存――G7にも良い顔をしたい <矛盾を抱えている現実>

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ レジュメコピー おわり

 「17世紀オランダ」は、私にとっては蘭学研究の第一人者・片桐一男先生、さらには長崎での「第二次海軍伝習(=医学伝習)」、「愛生舘」へと繋がり、本当に不思議な歴史の縁を感じます。

* 片桐一男先生 http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E7%89%87%E6%A1%

* 医学伝習 http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E5%8C%BB%E5%AD%

歴史発見Vol.4 「帝國海軍」

Posted by 秋山孝二
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 「歴史発見」最新号(vol.4)「帝國海軍」特集号は、幅広い視点から日本海軍の姿を浮き彫りにしています。広告を見てすぐに買って読みました、知らなかったことも多く、興味深かったですね、零戦のパイロットが何を食べて操縦していたか等です。

 これまで、この欄に随分日本海軍のことについて書いています。

* http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E6%B5%B7%E8%BB%8D

特集号の表紙

特集号の表紙

HPからの引用~~~~~~

 好評発売中の「歴史発見」最新号(vol.4)「帝國海軍」特集号では、帝国海軍将兵の日常生活や服装にもスポットを当てています。もともとイギリス海軍の水兵の服だったセーラー服がどのように日本海軍に導入され、さらには女学生の制服として広まったかを図説した「セーラー服物語」、海軍ではどのような弁当が食べられていたのかを実際に再現した写真とともに紹介する「再現!海軍の弁当」。さらには、ちょっとマニアックですが、帝国海軍の戦艦と潜水艦のトイレがどんなものだったのかを、イラストを使って再現した「海軍の厠(かわや)」など、盛りだくさんの内容で、彼らの日常に迫ります!(編集部)

~~~~~~~~ 引用 おわり

当時の海軍省の徴募ポスター

当時の海軍省の徴募ポスター

 読み進んでいくと、兵学校教育のページに、私のブログから写真が引用されていました。

* http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=11740

父がの保管品から、兵学校当時の教科書です

父の保管品から、兵学校当時の教科書です

 兵学校の入学試験、それにしてもかなりの難問ですね。掲載してなかった物理、数学の問題も興味深々です。

 
 後半の「帝國海軍をめぐる新説・異説~太平洋戦争で日本が負けないシミュレーション:日本海軍の「回転ドア戦略」は面白かったですね。太平洋ではなくインド洋に注目して、戦略的に輸送路遮断により英国に圧力をかける仮説です。言い換えると、アメリカとの戦いではなく、英国・アメリカ軍との戦いに構図を変えていく戦略です。

 いずれにせよ、新鮮な視点からの海軍分析でした。下記のメッセージも載せておきます。

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■ 歴史発見Vol.4 日本人なら知っておきたい帝國海軍(ご注文はこちらから)
http://rekishihakken.net/news/2074.html

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