海軍記念日 @ 2019

Posted by 秋山孝二
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 5月27日は海軍記念日、「北海道全海軍英魂之碑 顕彰会」の慰霊祭が札幌護国神社で執り行われました。私の父の関係で毎年参列しています。今年は海上自衛隊余市防備隊からも指令・鈴木拓哉一等海佐ほかがご参加。この日に先立ち、慰霊碑の修復、周辺の清掃等をボランティアで行って頂いていたようです。反橋進宮司の祝詞では、多くの犠牲を経ての今の時代、平和への強いメッセージが奏上されました。また、参加されていた高校の大先輩で学校林財団の元理事長・横山末雄さんからは、隣席でご自身の予科練の体験をじっくりお聞きした貴重な時間となりました。

* これまでの記事ーー> http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E8%A8%98%E5%BF%B5%E6%97%A5

札幌護国神社

札幌護国神社

顕彰碑

顕彰碑(北海道全海軍英魂之碑顕彰会)

今年は海上自衛隊余市防備隊指令ほか

今年は海上自衛隊余市防備隊指令ほか

降旗

降旗

ラッパ

懐かしのラッパ

 戦争を自らの体験として刻み込んでいる参列の皆さんからは、「絶対に戦争はしてはならない」、「平和への強い願い」をヒシヒシと感じる時間でした。毎年減ってくる参列者、私のような遺族もあまり多くなく、戦争体験を受け継ぐことの難しさも少々気になりながら、しばし鎮魂の祈りを捧げました、毎年、私にとっても貴重な日・時間です。

海軍記念日 2017

Posted by 秋山孝二
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 毎年5月27日は「海軍記念日」で、札幌では「北海道全海軍 慰霊祭」が札幌護国神社で催されています。90歳を越える方によるラッパの奉納「国の鎮(https://www.youtube.com/watch?v=t8fXSsy2DJY)」は、今年も最後まで立派に演奏されました。

雨の中の慰霊祭

雨の中の慰霊祭

* http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E8%A8%98%E5%BF%B5%E6%97%A5

 今年はあいにくの雨にもかかわらず、90歳代と思われる皆さまのご参加も多く、しばし、北海道出身の戦争犠牲者の慰霊の時間となりました。

 北海道全海軍の「英魂の碑(https://nyh3boys.theblog.me/posts/210535」は、1978(昭和53)年 8月20日建立され、当初は「北海道全海軍の集い」という団体の例祭として開催されていましたが、発展的に解散して、以来、護国神社の例祭として毎年行われています。私の父はこの三代目の会長を務めました。

全海軍の慰霊の碑

全海軍の英魂の碑

 「全海軍の英魂の碑」以外にも、幾つかの闘いでの戦没者慰霊碑が、境内には建立されています。

ノモンハン、北千島

南方地域、北千島で

アッツ島、

アッツ島、ノモンハンで

沖縄戦で

沖縄戦で

* 沖縄慰霊の日――> http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E6%B2%96%E7%B8%84%E6%85%B0%E9%9C%8A%E3%81%AE%E6%97%A5

 昨今、政治の世界でいとも簡単に「戦い」だの「戦争」だの口にする輩がいますが、とんでもありませんね。毎年のこの慰霊祭に参列すると、今ある日本は多くの犠牲の基にあることを強く感じ、日本国憲法の下、戦後教育を受けた我々世代の責任をあらためて確認致します。

海軍記念日 2016

Posted by 秋山孝二
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 今年も海軍記念日(5月27日)に、札幌護国神社で慰霊祭が催されました。どうして私のブログに旭日旗?、と思われる方も多いかもしれませんが、戦後を生きてきた私にとっては、ここが「反戦」の原点です。私の父は「北海道全海軍の集い(http://kanazawa.jimbou.net/catalog/product_info.php/products_id/37600)」の会長を務めていました。

< 参考: 北海道全海軍英魂之碑 https://nyh3boys.theblog.me/posts/210535?categoryIds=25631

 昨年の様子はこちら――> http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=23518

札幌護国神社本殿で

札幌護国神社本殿で

 昨年よりも参列者は多く、終戦後71年を経て、なお海軍の絆は健在でした。昨今の新たな安保法制、直近の自衛隊演習場における実弾での射撃訓練等、自衛隊にとっては見過ごせない状況に、戦争体験を持つ方々、及び自衛隊OB達の複雑な心境を垣間見るやり取りもありました。戦争に一番身近にいるのは、やはり現役の自衛隊員なのでしょう。

 反橋宮司の鎮魂の詞は実に内容の深いものでした。

愛生舘の「こころ」 (14)

Posted by 秋山孝二
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 このブログのシリーズ「愛生舘の『こころ』」は、第13回を終えてしばらくお休みしていましたが、本当に久しぶりに再開致します。というのも、今年4月から始まる年度は、秋山財団設立30周年の節目の年になり、基本財産の出捐者・秋山喜代の遺志でまだ私が実現していない「愛生舘文庫」の創設に向けて、新たなスタートを切りました。

 これまでのシリーズ「愛生舘の『こころ』」はこちら――> http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E6%84%9B%E7%94%9F%E8%88%98%E3%81%AE%E3%80%8C%E3%81%93%E3%81%93%E3%82%8D%E3%80%8D

  この4年間、私は、秋山喜代の最後の住まいで、今は秋山財団事務所になっている建物倉庫の整理と、「愛生舘」にまつわる資料の収集・整理を空いた時間を見つけては行ってきたつもりです。なかなか進展していなかったのですが、昨年、助っ人を得て、資料収集も最後の局面を迎えつつあります。

 先日は、これまでも「古文書講座」等でお世話になっている青山学院大学名誉教授・片桐一男先生とご一緒に、松本順先生のご親族・松本和彦先生を訪問して参りました。貴重な資料をお借りできたので、さらに資料整理と分析・解読を進めていきます。

* 古文書講座 http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E5%8F%A4%E6%96%87%E6%9B%B8%E8%AC%9B%E5%BA%A7

松本和彦先生(左)、片桐一男先生(右)

松本和彦先生(左)、片桐一男先生(右)

 貴重な品いくつかも拝見しました、刻まれた文字に価値があります。

蘭畴は松本順先生

蘭畴は松本順先生

 松本順先生のご業績と愛生舘との繋がり、そして秋山財団がなぜ「愛生舘文庫」なのか、以前のブログから引用します。

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 片桐先生は冒頭、「世界の中で新しい国家建設が迫られている時期、必要とされていたのは『海軍力』で、それも緊急性を帯びていた。日本が独立国家として成り立っていく思想・技術、そしてそれを担う人材、すなわち『体力』をつける目的で長崎海軍伝習があった」、とおっしゃいました。そもそも蘭学が江戸時代に静かに研究されていたのは、北方ロシアの東方進攻・南下の脅威に対してその対抗的思想・哲学の必要性からと、先生から伺ったことがありました。

 以前にも書きましたが(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=1096)、その第二次海軍伝習(実質的な「医学伝習」)で松本順は中心的役割を担いました。ポンぺからのオランダ語を介した伝習を、集まった全国各藩の弟子たちに伝えることで、それ以降の近代医学・医療の基礎を築きました。

 松本順の功績のまとめとして 1) 持って生まれた資質を生涯を掛けて伸ばし続けた:ポンぺの伝習から総合的技術を取得、実践――野戦病院・衛生思想等

2) 人との出会い、ポイント3人:松本良甫(ポンぺからの伝習)、山県有朋(陸軍病院等の基準策定)、高松保郎(愛生舘事業)

3) 彼のしなかったこと:オランダに留学等で行かなかった、制度が出来るとバトンタッチ・チャンスの移譲

4) 彼の目指したこと:庶民への眼差し「愛生済民」――愛生舘三十六方、衛生思想の徹底、アジア・世界の体力向上

5) 彼の日常生活――身の回りをいつも「楽」にしておくこと

 最後のまとめで、片桐先生は、「松本順の活きた人間像が把握されていない、激動の歴史の中で埋もれていた原因は、激変する維新から明治時代では文字を通してのメッセージの伝達が難しかったのではないか、それは庶民の教育レベルが江戸時代よりもむしろ劣化していたことを意味している」、と看破されていました。

 牛乳の効用、海水浴の普及等、今では常識になっている健康増進・普及に関して最初の井戸を掘った人物、それが「初代陸軍軍医総監」等の評価以上の歴史的意味を、彼の人生から読み取ることが出来るのでしょう。

 翌日、私の手元に「松本順と北海道」という3部にわたる小論文を届けて頂いた札幌在住の医師・宮下舜一先生とお話をしました。講演会にもご出席頂き、先生の論文には、何と明治24年6月に、松本順が北海道(函館・小樽・札幌)に20日間程度来ている記録が、小樽では道内に在住していた弟子たちと一緒に撮影した記念写真まで掲載されていました。

 (株)秋山愛生舘が「愛生舘北海道支部」から独立したのが明治24年11月ですので、この時にどこかで初代秋山康之進と再会していた可能性は大変高いと思いました。引き続き調査・研究の必要がありますね、また一つ目の前に解き明かす課題が見つかりました。

 今回、私は片桐先生に敢えて「秋山愛生舘」ではなく、「愛生舘」についてお話をして頂きたいと事前にお願いを致しました。講演会に参加された道内の「シンパ」の方々には、「愛生舘事業をしっかり今の時代にも受け継いできたのは、唯一この北海道の地ではないか、どうしてもっとそれに言及しないのか!」と叱られそうですが、21世紀の今、広い意味で「愛生舘事業のこころざし:愛生済民」の原点回帰を、秋山財団的には記念すべき25周年を機に目指す、そう是非ご理解を頂きたいと思います。

 この講演会をキックオフとして、今後「愛生文庫」を軸とした資料室の創設も企画する予定です。ご関心のある方の率直なご意見もお待ちしています。 ~~~~~~~~~~~~~~ 引用おわり

 宣言をしてから4年以上経ってしまいましたが、今年・来年中には必ず創設しますので、乞うご期待!です。

秋山財団贈呈式 2015

Posted by 秋山孝二
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 秋山財団(http://www.akiyama-foundation.org/)の「贈呈式 2015」を開催しました。今年の特別講演は昭和史の第一人者・保阪正康さん、270人の聴衆で熱心にお聴き頂きました。

* http://www.akiyama-foundation.org/news/1362.html

 これまで保阪正康さんについては、このブログで何回も書いてきました。

* http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E4%BF%9D%E9%98%AA%E6%AD%A3%E5%BA%B7%E3%81%95%E3%82%93

特別講演 保阪正康さん

特別講演 保阪正康さんと座長の渡辺大助さん

昭和史

昭和史の第一人者

 特別講演に引き続き、今年度の贈呈式を行い、これまで最高の来賓の皆さまのご出席でした。冒頭の私のご挨拶です。

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 本日は、多数のご来賓のご臨席を賜り、またお手伝いに株式会社スズケン様より社員の皆様に駆けつけて頂き、当財団「2015年度贈呈式」を開催出来ますことは、大変光栄に存じ感謝申し上げます。

 秋山財団は1987(昭和62)年1月に設立以来、本年29年目を迎えました。お陰様でこの間、総額約87,000万円、1,247件の助成を行う事が出来ました。本日お集まり頂きました皆様をはじめ、これまで当財団に寄せられましたご指導・ご支援に対しまして、改めて心からの御礼を申し上げます。

 本年度の事業は、「選考委員会」におきまして厳正且つ公正な審議を経て、合計43名の受賞者・受領者に決まりました。詳細につきましては、このあと、各選考委員長よりご報告申し上げます。昨今、「公募・選考」というと、2020年東京五輪開催を巡って混乱が続いています。秋山財団は設立以来今日まで、「選考委員会」の透明性を最も大切にしており、それゆえ、理事会・評議員会でもその選考決定を尊重して、今日まで順調に事業を推進して参りました。

 本来ですとここで秋山財団の事業報告・近況報告などを申し上げるべきですが、保阪正康さんのお話しを伺い、今年は「戦後70年」の節目の年、秋山財団の理事長としての立ち位置、決意をお伝えしたいと思います。

 昨年この席で、私は195431日、アメリカが太平洋ビキニ環礁で強行した水爆実験と、その調査・検証に立ち向かった日本の22名の若き科学者についてお話し致しました。2013年(2年前)9月に放送されたNHKETV特集「海の放射能に立ち向かった日本人~ビキニ事件と俊鶻丸(しゅんこつまる)~」をご記憶の方も多いかと思います。

 更に今年は、尊敬する企業経営者の故・品川正治さん(2013829日享年89歳で死去。経済同友会・終身幹事 元日本火災海上保険社長)のお言葉をご紹介致します。「戦争を起こすのは人間、しかしそれを許さないで、止めることができるのも人間ではないか。天災ではない、なぜそれに気がつかなかったのか」、と。

 さて、研究者の皆様は、「学徒出陣」についてご存知でしょうか。19431021日、東京の明治神宮外苑競技場(「新国立競技場」建設予定地)で大規模な出陣学徒壮行会が雨の中挙行され、約2万5千人の学生が小銃を肩に行進しました。敗戦の時まで、動員された学徒兵の総数は13万人に及んだと推定されていますが、70年の時を経た今も、正確な出陣学徒数・戦没者数の実態は明らかではありません。学徒兵は主に文科系学生と農学部の一部(農学科、農業経済学科など)から徴兵されましたが、その他の理科系学生は徴兵が猶予され、陸・海軍の研究所などに勤労動員されたそうです。

 1943年(同年)1128日、北海道帝国大学においても出陣壮行式が挙行されました。ここから何名出陣したのか、戦没者数も、またこの歴史がどのように継承されているかについても私の手元に資料はありません。

 一方、小樽商科大学では、毎年8月15日に校内にある戦没者記念塔(学生・教員347名の名前が刻まれた墓石が納められている)の前で慰霊祭が行われています。

 近い過去に、日本の国を支えるはずの若い人材が、戦争遂行のために「投入」されていった歴史を忘れてはならないと思います。

 さて、秋山財団の助成事業は、「競争的資金」と位置付ける文部科学省の科研費とは一線を画し、とりわけ若き世代の育成の役割を担い続けたいと考えています。それは、一貫して貧困・疾病に苦しむ道民に寄り添い、微力ながら医薬品を通じて支えてきた秋山愛生舘の理念を継承する財団の姿と信じるからです。

本日ご出席の大学関係者、研究機関、そして受領者の皆さんに申し上げます。

 米国第35代大統領、合衆国史上最も若くして選ばれ、最初の20世紀生まれのジョン・F・ケネディの就任演説に、有名な一節があります。「米国誕生と共に灯されたたいまつは、新世代のアメリカ人に引き継がれた。世界の長い歴史の中で、自由が最大の危機にさらされているときに、その自由を守る役割を与えられた世代はごく少ない。私はその責任から尻込はしない、それを歓迎する。われわれがこの努力にかけるエネルギー、信念、そして献身は、わが国とわが国に奉仕する者すべてを照らし、その炎の輝きは世界を真に照らし出すことができるのである」と。

 私たち財団関係者は、北海道の研究者やプロジェクトの皆さんに夢を託しています。助成金には、29年間、秋山財団に寄せられた沢山の大切な志と篤い想い、期待が込められている事を忘れないで頂きたい、そして、今ほど、科学者の「勇気」が問われている時代はないのではありませんか。

 100年の時を越えて、北の生命と共に歩んで来た秋山愛生舘の歴史とDNAを受け継いだ財団です。生命と向き合い、道民のいのちと共にある科学、自然と共生する生命科学の進化の為に、貢献し続ける事をお誓い申し上げるとともに、本日ご列席の皆様には日頃のご支援、ご厚誼に感謝し、引き続きなお一層のご厚情を賜りますようにお願い申し上げて、私の挨拶と致します。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 挨拶 おわり

 詳細の報告は、後日、秋山財団HPに掲載されますのでご覧ください。ご参加頂いた皆さま方に心から御礼申し上げます。

戦後70年、私なりの思い(6)

Posted by 秋山孝二
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 何だかんだとこの時期思いを巡らせてはいますが、結局は番組・記事紹介に終始している私です。

 最後は、NHK総合テレビ「『終戦』知られざる7日間」です、16日に放映されました。8月15日では「終戦」しなかった事実を追い、実はこの7日間が占領政策、そして戦後日本の方向性を決めた、とのコメントは、大変興味深い視点でした。海軍の特攻の動き、「支那派遣軍」動向等、予断を許さない状況と連合国軍との交渉の中で、「戦闘停止命令」が出されたのは8月18日、その効力は8月22日からだったのです。

8月15日、中国大陸の日本陸軍

8月15日、中国大陸の日本陸軍

日本本土海軍軍令部の命令書

日本本土部隊へ・海軍軍令部の命令書

米国の事前の予想

米国の事前の予想

「戦闘停止命令」、最後まで曖昧な内容で

「戦闘停止命令」、しかし、最後まで曖昧な内容で

 この7日間を検証してみても、当時の日本国の責任ある人々の当事者能力の欠如が伺われます。満州事変、さらに遡って日露戦争の勝利から、日本の「軍国主義の結末をみる思い」とでも言うのでしょうか。始まりはほんの些細なことからですが。お盆が過ぎて、世間は通常の仕事モードになりました。連日の高校野球の熱戦ほか、経済活動も、日本が平和である、世界が平和であればこそできる訳ですよね。

 このシリーズ、最後は品川正治さんの言葉で終わりとします。「戦争を起こすのも人間、しかしそれを許さないで、止めることができるのも人間ではないか。天災ではない。なぜそれに気がつかなかったのか」。不戦の誓いを新たにしました。

* http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E5%93%81%E5%B7%9D%E6%AD%A3%E6%B2%BB

戦後70年、私なりの思い(2)

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 NHK総合テレビの特集「NHKスペシャル~戦後70年目の戦争と平和(http://www.nhk.or.jp/special/70years/」は盛りだくさんです。恥ずかしながら、「捕虜」、「従軍看護婦」、「少年兵」、「原爆投下直後」等、60年以上生きてきた私にとっても初めて知ることがあり衝撃でした。順不同ですが、いくつか書き留めます、まずは「発掘・日本人捕虜の肉声(http://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20150802」は見応えがありました。

 第二次世界大戦中、太平洋の激戦地で捕虜となった日本兵、連合軍の極秘の施設で尋問による『肉声」録音が、70年以上を経て初めて見つかったのです。NHK取材班は、入手した音源を、最新のデジタル技術で修復・解析。その内容は、殺すか殺されるかの戦場を生き抜いた日本人捕虜の壮絶な告白です。密室で、日本兵たちはひとりの人間として、自らの戦場と向き合っていました。そして、音源の分析から、捕虜となった日本兵と尋問が行われた「秘密尋問所」の場所を特定し、戦後、家族にすら伝えることのなかった密室での告白、現代に蘇った捕虜たちの肉声を通じて、歴史の闇に埋もれてきたもう一つの戦争が伝わってきました。

 旧帝国陸軍・海軍ばかりでなく、日本国民にすべからく「捕虜となることは恥ずべきもの」との社会通念が徹底しており、このような事実は永久に個人の心の中に仕舞い込まれていたのでしょう。市民を巻き込んだ戦争の現実では、「自決」と称して自ら命を絶つ人々はこれまでも報道されてきましたが、「捕虜」となった人の肉声は組織の一員というよりも、まさに一人の人間として戦争と向き合っている苦悩を感じさせます。「記録」の説得力、再現性等、多くの教訓を私たちに与えてくれます。

稲垣潤一

稲垣利一海軍主計大尉

 さらにホームページによると、アメリカ公文書博物館で発掘されたレコードは120枚、13時間の録音です。オーストラリアのブリスベーン郊外で録音が行なわれ、1942年から1945年まで、この施設は極秘の尋問所として使用されたそうです。マッカーサーはブリスベーンに拠点を築き、秘密組織のATIS連合軍翻訳通訳部隊を立ち上げました。そこでは日系人などを集め、日本兵の捕虜尋問や遺体の日記の翻訳を行い、オーストラリア軍の資料室に詳細情報が残されていました。特に重要な人物の尋問を密室で行っており、1105人の捕虜の尋問が行なわれました。

 残された音声の最初は海軍主計大尉・稲垣利一の尋問でした。稲垣は大変流暢な英語を話し、重要な捕虜と位置づけられていたようです。尋問で、稲垣は日本の軍国主義に不信感を示しています。東京帝国大学で外交官を目指し、海軍経理学校では中曽根康弘元首相と同窓。1942年8月、稲垣はニューギニアのブナに上陸、ポートモレスビー攻略を目指す無謀な作戦に参加、食料の供給が途絶え、兵士は次々と倒れ、連合軍の反攻の前に部隊は壊滅しました。稲垣は尋問で、部隊の悲惨な状況を話し、稲垣は自らも栄養失調とマラリアに倒れました。敵の兵士が近づき、稲垣は拳銃自殺を図りましたが泥水に濡れた拳銃は発砲されず、捕らえられた、その様子を証言しています。

 捕虜となった稲垣利一は日本語翻訳の仕事をATISから依頼されました。1943年10月14日の録音で、稲垣は一度受けた依頼を断わります。稲垣は頼まれた仕事は戦争を早く終わらせることは日本国民にはいいことだが、協力は裏切りになることで葛藤しています。稲垣は死にたいので、拳銃か薬を求めましたが、尋問官は責任を逃れる考えだと指摘し、説得を続け、日本の現状を伝え、早く戦争を終わらせるために協力を求めたのです。稲垣は決断を迫られ、苦しいと答えています。翌日、稲垣は仕事を受けると伝え、尋問は約半年に及び、協力を決断ました。

その後、本土決戦前の幾つかの戦い直前に投下された日本語の投降ビラは、彼らの仕事によるところが多いのでしょう。

連合国軍チーム

連合国軍チーム

ATIS作成の投降を促すビラ

ATIS作成の投降を促すビラ

稲垣の見識

稲垣利一の見識

 先月の保阪正康さんの小樽での講演で、日本に「軍事学」が存在していなかったとお話がありました。

* http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=24010

 「捕虜となって恥をさらすな」みたいな戦陣訓をまき散らしておきながら、戦場の市民を放ったらかしにして撤退・逃走する旧帝国軍隊の卑劣さを、私たちは忘れてはなりません。そして番組でも紹介されていましたが、「捕虜になった後に、どう応対するかを日本兵は教えられていなかった」とも。「解除の命令がない」ことも含めて、もはや「軍隊」という体を成していない酷い状況だったのですね。

 「戦争とは何か」、私たちが努力と妥協と折り合いを付けながら生きてきたこの70年、これからも日本を、決して「戦争をする当たり前の国」にしてはなりません、強くそれを再確認致しました。

海軍記念日 2015

Posted by 秋山孝二
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 5月27日は海軍記念日(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%)、この日に札幌護国神社(http://s-gokoku-jinja.sakura.ne.jp/index.html)では「北海道全海軍英魂之碑」顕彰会の例大祭が執り行われました。境内の彰徳苑(http://s-gokoku-jinja.sakura.ne.jp/1_syoutokuen.html)には、昭和53年に「北海道全海軍英魂之碑」が建立されています。

 私の父・秋山宏(旧姓野田)は、この「北海道全海軍の集い」の会長を務めていて、北海道の全ての海軍関係者の「集い」であることに誇りを感じていました。将来を展望して、永くこの鎮魂の意志を伝え続けるために、顕彰碑を建立し、会の発展的解消を提案し、平成20年に護国神社での例祭として会の転換を図りました。

 今年の例祭も各地から元海軍関係者、ご遺族ほか、多数の参列者でした。

 * これまでの「海軍」のこの部屋での記載――> http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E6%B5%B7%E8%BB%8D

全海軍の英魂の碑

護国神社神殿での祭事:奉納の舞い

護国神社神殿での祭事:奉納の舞い

 御身体がご不自由な方々もいらっしゃいましたが、背筋をしっかり伸ばし参列する姿を後ろから拝見し、それぞれの戦争を振り返り、若き時代の友の追悼と、今の時代の平和への祈りを受けとめた時間でした。戦争を最前線で体験しているが故に、平和の大切さ、有難さを痛感している皆さまなのでしょう、反橋宮司の奏上のお言葉も素晴らしく、今の政情を鑑みて、今年のこの例祭は、私にとって平和への一層の祈願となりました。「戦争を始めるのも人間、終わらせるのも人間」、故・品川正治さんのお言葉を思い出します。

降旗の儀

境内の彰徳苑で「降旗の儀」

ラッパの演奏とともに

慰霊碑の前では元帝國海軍・ラッパ奏者の渾身の演奏も

真珠湾攻撃と小樽人

Posted by 秋山孝二
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 先月の保阪正康さんに続いて(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=21798)、「歴史を学ぶ」シリーズ、今回は渡辺大助さんの講演「真珠湾の小樽人」でした、素晴らしかったですね。

講演案内より「真珠湾の小樽人」、12月8日に因んで

講演案内より「真珠湾の小樽人」、12月8日に因んで

本間さんの当時の記事

本間一飛曹さんの当時の記事

 渡辺大助さんは福島の放送局でお仕事をされていたので、1941年12月8日(月)朝6時20分から夜中12時までのNHKラジオニュース資料を丹念に説明しつつ、几帳面な取材に基づいた臨場感あふれるお話でした。12月8日一日で、大本営発表は10回あったそうです。午前7時の臨時ニュースは開戦を伝える有名な発表で、正午には君が代奏楽に続いて比較的冷静な「宣戦の大詔」奉読と続きましたが、夜の午後7時30分の談話、「宣戦の布告に当たりて国民に愬(うった)う」は、情報局次長・奥村喜和男による4分半のまさに「アジ演説」です、こんな放送が当時のNHKラジオから流れていたことに驚きを感じます。

 大本営発表と言えば、1941年12月8日から1945年8月15日まで、合計846回の発表があったそうで、12月8日から11日の間に36回、12月8日から月末までに88回と続いたそうです。緒戦の華々しい時期は回数も多く冗漫で、次第に戦況が悪化してくると事実と乖離した発表になり、更に敗戦近くの1945年6月から8月には、月2・3回とダンマリ・数行のコメントへと変化していきました、プロパガンダにもならない実にみっともない状況です。

 真珠湾攻撃では、第二次攻撃隊に被害が多かったようです。米海軍アリゾナが大爆発を起こした時に、それを上空から見ていたある日本海軍幹部が「ざまぁーみろ!」と吐き捨てるように言ったとか。数年後、同じ言葉をアメリカ軍から各戦線で日本軍兵士は浴びせられたとも。結局、戦争は憎しみの連鎖の上に始まり終わる、歴史からしっかり学ばなければならないとおっしゃっていました。

 終了後も、有志でさらにフォローアップの懇談会。石原慎太郎、石原裕次郎の昔の思い出話等、小樽ならではの貴重なお話の数々、歴史の奥行きとお酒にまさに「酔いしれた」ひと時でした、ありがとうございます!

演者の渡辺大助さん@懇親会

演者の渡辺大助さん@懇親会

懇親会終了後、参加者の一部の方々と

懇親会終了後、参加者有志と

サンプロ 9月例会 2014

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 異業種交流会「サンプロ」の9月例会が愛生舘サロン(http://aiseikan.net/salonで開かれました。これまでにも何回か書いています。

* http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=18511

* http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=753

 毎回、各参加者から示唆に富む話題提供があり、大変貴重なひと時です。今回は私からは、この数年ずっと参加している「寺島実郎経営戦略塾」、「リレー塾」から、今の各界の日本人リーダーに欠ける「歴史認識」、特に近代史について報告しました。

* 「ON THE WAY ジャーナル WEEKEND 月刊寺島実郎の世界」(http://www.jfn.jp/RadioShows/owj_tera

私のレジュメより~~~~~~~~~

~寺島文庫第5期リレー塾・第一回 講師 寺島実郎 より~

<日本>

アベノミクス 1)株高幻想 2)プチ・ナショナリズム症候群

――積み重ねてきた国際社会の中での日本の努力を一気にダメにする

政界、メディア、経済界、リーダーの見識の無さ:一番の原因は、「歴史認識の欠如」

――戦後教育における「近代史の欠落

――「日本史」、「世界史」に代わる「グローバルヒストリー」の概念

遡る歴史:戦後日本>20世紀>近代――>「17世紀オランダ

「近代史」 17世紀オランダの日本への影響 <別資料参照>

「近代」を理解するために「江戸期」の国家観を固める――本居宣長ほか

「近代」 1)デモクラシー(フランス革命、米独立戦争etc)個の自立、2)科学技術、3)資本主義 東インド会社(オランダ)

<ヨーロッパ・アメリカ>

2014年のヨーロッパは、「第一次世界大戦から100

――1914年 サラエボ事件

――4つの敗戦した帝國:ドイツ、オ・ハ二重帝国、オスマン、ロシア

――>中東の戦勝国(イギリス、フランスetc)による分割――ウイーンはロンドンへ1,254 km、イスタンブールへ1,255 km

ヨーロッパの中心だった:オーストリア・ハンガリー二重帝国(フランツ・ヨーゼフ、ハプスブルク家)

――現在のヨーロッパにイスラム教徒 1,500万人を超す(トルコから)

*二重構造 金持ちアラブと不法移民etc 抑圧されたアラブ

シュミット(ドイツ)、「21世紀はイスラムとの対話の時代」

現在の中東

1)アメリカの存在感の薄れ――イラク政策の失敗

アメリカ*エネルギー(原油、シェールガス)で世界一

*実体経済の回復 失業率6.1%、輸出No1「エネルギー」、

次世代ICT(ビッグデータ、クラウド)等戦略的産業の構築

2)地域パワーの台頭 イラン(シーア派)とトルコ(中央アジアを含む)

* プーチンのしたたかさ 中東の混乱―>オイル価格のアップ ――> ロシアへの追い風

日本   ロシアへのエネルギー依存――G7にも良い顔をしたい <矛盾を抱えている現実>

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ レジュメコピー おわり

 「17世紀オランダ」は、私にとっては蘭学研究の第一人者・片桐一男先生、さらには長崎での「第二次海軍伝習(=医学伝習)」、「愛生舘」へと繋がり、本当に不思議な歴史の縁を感じます。

* 片桐一男先生 http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E7%89%87%E6%A1%

* 医学伝習 http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E5%8C%BB%E5%AD%

歴史発見Vol.4 「帝國海軍」

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 「歴史発見」最新号(vol.4)「帝國海軍」特集号は、幅広い視点から日本海軍の姿を浮き彫りにしています。広告を見てすぐに買って読みました、知らなかったことも多く、興味深かったですね、零戦のパイロットが何を食べて操縦していたか等です。

 これまで、この欄に随分日本海軍のことについて書いています。

* http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E6%B5%B7%E8%BB%8D

特集号の表紙

特集号の表紙

HPからの引用~~~~~~

 好評発売中の「歴史発見」最新号(vol.4)「帝國海軍」特集号では、帝国海軍将兵の日常生活や服装にもスポットを当てています。もともとイギリス海軍の水兵の服だったセーラー服がどのように日本海軍に導入され、さらには女学生の制服として広まったかを図説した「セーラー服物語」、海軍ではどのような弁当が食べられていたのかを実際に再現した写真とともに紹介する「再現!海軍の弁当」。さらには、ちょっとマニアックですが、帝国海軍の戦艦と潜水艦のトイレがどんなものだったのかを、イラストを使って再現した「海軍の厠(かわや)」など、盛りだくさんの内容で、彼らの日常に迫ります!(編集部)

~~~~~~~~ 引用 おわり

当時の海軍省の徴募ポスター

当時の海軍省の徴募ポスター

 読み進んでいくと、兵学校教育のページに、私のブログから写真が引用されていました。

* http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=11740

父がの保管品から、兵学校当時の教科書です

父の保管品から、兵学校当時の教科書です

 兵学校の入学試験、それにしてもかなりの難問ですね。掲載してなかった物理、数学の問題も興味深々です。

 
 後半の「帝國海軍をめぐる新説・異説~太平洋戦争で日本が負けないシミュレーション:日本海軍の「回転ドア戦略」は面白かったですね。太平洋ではなくインド洋に注目して、戦略的に輸送路遮断により英国に圧力をかける仮説です。言い換えると、アメリカとの戦いではなく、英国・アメリカ軍との戦いに構図を変えていく戦略です。

 いずれにせよ、新鮮な視点からの海軍分析でした。下記のメッセージも載せておきます。

~~~~~~~~~~~

■ 歴史発見Vol.4 日本人なら知っておきたい帝國海軍(ご注文はこちらから)
http://rekishihakken.net/news/2074.html

~~~~~~~~~~~

しばし、札幌・平岸の「花粋」で

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 札幌市豊平区平岸の住宅街、和処「花粋(http://www7b.biglobe.ne.jp/~kasui/」で、しばし昔話に華が咲き、飲み過ぎました。

札幌市豊平区平岸の住宅街、和処「花粋」

札幌市豊平区平岸の住宅街、和処「花粋」

 広島県東広島市西条の酒「賀茂鶴(http://www.kamotsuru.jp/)は、最近の話題としては、オバマ大統領来日時に銀座のすし店で振る舞われたお酒として有名になっています(http://www.kamotsuru.jp/category/information/6013.html)。だから何なんだと言われそうですが、先日はその「大吟醸・特製ゴールド賀茂鶴180ml角瓶」を同じ状態で冷やして味見をしました。

戦艦大和でも採用、広島県西条の酒・大吟醸「賀茂鶴」特撰

戦艦大和でも採用、広島県西条の酒・大吟醸特性ゴールド「賀茂鶴」

二片の金箔の花びら

二片の金箔の花びら

 お料理の締めは特製デザート、最後まで手の込んだ和食創作料理でした。

デザートは金魚入り水槽?

デザートは金魚入り水槽?

 「賀茂鶴」は海軍との関係も深く、海軍兵学校が明治初期に東京・築地から広島県江田島に移転して以来、何かと話題になっていました。戦艦大和にも供されて、多くの海軍の方々にも親しまれたようです、恐らく私の父も飲んでいたのでしょう。そんな遠い昔に思いを馳せながら、先日は時間の過ぎるのを忘れて昔からのビジネスパートナーと一緒に楽しいひと時を過ごしました。

「キスカ撤退作戦」成功から70年

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 「キスカ撤退作戦(http://ww31.tiki.ne.jp/~isao-o/battleplane-16kisuka.htm)」成功から70年の今年、作戦完了の日7月29日に東宝映画「キスカ」鑑賞の「海鴎の集い」のご案内があり、参加しました。私の父はこの作戦で、旗艦「阿武隈」の通信長として参加し、司令部と艦隊・木村昌福司令官とのやり取りを含めて、重要な任務を担っていました。先日は、この作戦に南方戦線から招集された方、予科練生ほかの方々が集まられ、その後の懇親会でも当時の生々しいお話を伺うことができました。

ベーリング海での作戦航路

ベーリング海での作戦航路

 海軍士官だったお私の父について、2年前の8月、北海道新聞の終戦特集・5回連載記事でも紹介された「ビハール号事件」にからむ、これまでのこの欄での記載です(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E3%83%93%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%8F%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6)。

 この連載後、さらに関係するお話を聞こうと、様々な方とお会いしていますが、特に広島県呉市の「大和ミュージアム」館長・戸高一成さんとの面談は強く印象に残っています(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=11782)。その中で、再度思い出しておきたい戸高さんのお言葉を:

~~~~~~~昨年2月訪問時のまとめから 引用

* 組織と責任の取り方については、今の原子力発電所事故のその後の過程でも全く同様に、あいまいな構図を見て取れる。体制的に責任の所在が不明確。軍令部は天皇の参謀として大枠の命令は出すが、現地での戦略は現場の連合艦隊が行う。従って失敗しても責任が不明確になる。軍令部は現場が悪いと思い、現場の連合艦隊は方針そのものが悪かったと思う。だから失敗を次の戦略に活かすことができなかった。

* 戦後の反省会でも、「組織が悪かった」とは思っていても、その任を担っていた「個人の責任」とは最後まで考えていない所に、「責任を取る」、「責任を取らせる」発想が生まれてこないし、これは日本社会の特徴なのではないか、現代でも同様である。

* 日露戦争の日本海軍の完全勝利により、「無敵艦隊」との認識が続き、海軍には「負ける」という言葉がなかった。本来は、戦争遂行能力が無くなった時期に、戦いの終結を検討すべきが、誰もその勇気が無かった。最後まで「帝国海軍の面子」のためにだけ戦い続ける愚、「日本国の将来」と言った理念は見い出せない。

~~~~~~~引用 おわり

~~~~~~~もう一つ私のブログ(「錯誤・失敗」の責任)より

http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=11196

~~~~~~~引用 おわり

 最近、私は思うのです、太平洋戦争当時の「帝国海軍」の幹部たちは、実は悪い意味の「官僚」でしかなかったのではないか、と。「確固たる理念」とか、「国際社会の中での日本の位置づけ」とかのビジョンが、明治直後の創設期から時間の経過とともに失せていったのではないか、と。個々の人材のキャリアは、エリート教育として今と比べても海外任務も豊富で見聞も広く、当時としては最高の質・量だったのでしょうが、日清・日露戦争勝利からくる驕りと傲慢さによる「組織としての目的・理念」の退廃が目立ち、「戦争の大義」が何なのかはどこかへ消え、ただ、「組織維持」とか「メンツ」とかが最優先となっての展望なき状態でした。

参考:http://v.youku.com/v_show/id_XNTI0MTI4MjYw.html

 これは、海軍だけではありませんね。敗戦時の中国戦線での陸軍幹部の行動を検証しても、ただただ戦勝国への心証を良くしようとの目的で、様々の情報を自ら進んで提供している事実を知るにつけ、「幹部の退廃」と「組織の劣化」を痛感します。

 どうしても8月は戦争と向き合わざるを得ません。今の日本、戦後教育が置き忘れたエリート教育の欠如からくるものか、その上の世代の抜け殻のような虚ろな眼、どのセクターにも「優れた人物」を見出すことが難しい状況は、危ういですね。まさに、戦後の高度成長を担った方々は「総退陣!」なのでしょう。

よみがえる江田島教育

Posted by 秋山孝二
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 井上正美さん(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=11026)の新著、「企業経営におけるMSの真実」は、戦前の最後のエリート教育・「海軍兵学校の教育」を基礎に、戦後の企業経営の現場で活躍された著者の貴重な記述です。伝統的に日本社会の根幹にあった哲学の再評価と受け止めることもできます。

 戦後の高度成長を担った時代のリーダーたちは、これらのエリート教育を受けた方々だったのであり、それに比べて現在の20年を越える日本経済の体たらくを直視すると、私はこの閉塞した期間の経営者たちの見識に大いなる疑問をいだき、近代の歴史観欠如ほか、「戦後教育の限界」みたいなものを感じる昨今です。

井上正美さんの第二冊目の新著

井上正美さんの第二冊目の新著、戦前・戦後をつなぐ日本の「技術論」

  「海軍兵学校」については、これまでいろいろ書き留めてきました(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E5%85%B5%E5%AD%A6%E6%A0%A1)。

 この著書では、見開き2ページで完結する記述になっていて、学生にとっても大変読みやすい配慮を感じます。また、各章の冒頭には、「起」、「承」、「転」がまとめられて、その「結」がメインでその後に記載されている構成です。そして井上正美さんのメッセージは、最後144ページの最後の6行にまとめられています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

・・・。我が国の戦後史は「対米従属」と「自主路線」対立の70年であったが、筆者が拘わる「我が国のISO導入事象」は、小さくはあるがその縮図とみるのは大げさであろうか。畏友・大木浩は、巻頭言の推薦文の中で、「我々世代は国家の盛衰を重く視る傾向が強い」と述べている。企業が持つ自前の管理の仕組みが、国際規格からあらぬ影響を受けて信頼を失っては、企業百年の大計に支障をきたすのではないかと心配になる。マネジメントシステムも自主路線へ早急に復帰することを願いながら筆を擱く。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 と、ここまで書いた所で、私は昨今の「憲法改訂」論議を思い出します。私は決して今の日本国憲法を変えて「自主憲法(?)制定」などという立場ではありません。全く逆の「憲法擁護」論を支持します。憲法論議においては、今の憲法を強引に変えようとする勢力こそ「対米従属」なのですから。終戦直後、今の日本国憲法を制定してからすぐに、アメリカは講和条約調印の1951年以来、一貫して憲法改悪の圧力をかけ続けてきたのが、まさに戦後の日本の歴史です。軍事力でも核問題でも、アメリカはその自国の財政への圧迫を避けるために日本に肩代わりさせる意図は明確で、その環境整備のための「憲法改悪」です。この件については、また別の日にしっかり書いてみたいと思います。

 要するに、戦争責任とは別に、今の日本社会には健全なエリート教育が必要な気がするのです。敗戦まで長い間機能していた日本社会のリーダー養成システムが解体し、戦後は装置として、日本的な伝統・文化・技術等の全否定からスタートしたのではありませんか。そして、本来のエリートたちを戦争で多く失い、戦後のリーダーたちはごく一部の優れた人々を除き劣化していた、高度成長期を支えたのはまさに井上さん達のような若手世代だったのではないでしょうか。

 昨今の企業の現状を見るにつけて、私は新自由主義的な「人的資源の軽視」を強く感じるとともに、今こそ大切なのは、この著書にある日本的マネジメントシステムの再評価であり、人を育てる資本主義なのだと思います。

ドナルド・キーン博士、熱く語る

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  ドナルド・キーン(http://www.asahi.com/national/update/0308/TKY201203080224.html)博士が、北海道日米協会(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=8777)特別講演会席の講師でお越し頂きました。前日の札幌大学での講演会では、申し込みが3倍以上となり、大盛況だったようです。

D.キーン博士をお迎えして北海道日米協会・特別例会

D.キーン博士をお迎えして北海道日米協会・特別例会

講演されるD.キーン博士(90歳)

講演されるD.キーン博士(90歳)

  

 18歳の時にニューヨークで『源氏物語』と出会い、19歳でアメリカ海軍入り、4年間勤務して日本軍捕虜等の通訳を務めました。以来70有余年の日本人・日本語とのつき合い、古典から現代におよぶ日本文学を研究し、世界に伝えたコロンビア大学名誉教授・文化勲章受章者です、東日本大震災後、今年3月8日に日本国籍を取得(帰化)しました。それは長い日本への感謝の気持ちから、大きな打撃に苦しむ東北・日本人とともに生きることを決意されたからとのことでした。

 先生は、昨年仙台での講演で、以下のように語りかけました。~~~~松尾芭蕉の「奥の細道:http://www.bashouan.com/psBashou.htm」ゆかりの東北の地を56年前に旅した際、桜の季節の中尊寺金色堂(http://www.chusonji.or.jp/index.html)で深く心を動かされました。暗い森の中に輝く金色堂、東北の長い冬の後に森に咲く桜、私はその二つを愛しています。東北のことを考える時、何よりも象徴的な姿です。今回、東北の人たちを勇気づけることができるのならと思い、この講演をお引き受けしました~~~~~

 先日の札幌でのお話でも、長年日本と寄り添ってきた視座から、今の日本の若者が海外へ飛び出す意欲に乏しい様子等へカツを入れて、衰えない説得力で熱弁を奮っていました。間近で拝見すると、想像以上に小柄な姿、活字での存在感が大きいと言った方が良いのかも知れません、すぐに札幌から洞爺湖に向かわれる日程とか。

 いずれにせよ、満90歳、これからも益々お元気でご活躍されることを祈念しています。

小樽港から日本海へ(2)

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 ロシア共和国最大の港、ウラジオストク(Vladivostok)は、1860年に開拓が始まり、貿易、太平洋艦隊の拠点として発展してきて、街の名前はロシア語の「Vladi(東に)+Vostok(攻めよ)」で、まさにロシアのこの都市の位置づけを表して、存在感を増しています(http://4travel.jp/overseas/area/europe/russia/vladivostok/)。どこか、広島県呉市の雰囲気ですね。

霧のウラジオストクに早朝に入港:海軍艦船と建築中のつり橋

霧のウラジオストクに早朝に入港:海軍艦船と建築中のつり橋

 事前のレクチャーでも伝わっていましたが、とにかくロシア入国管理官の無愛想・無表情は際立っています。私が1991年に初めてハバロフスク経由でイルクーツク、ノボシビルスクを訪問した時、3年後にモスクワ経由でサンクトペテルブルグ、ノボシビルスクへ行った時、いずれも全く同じような印象でした。あれから20数年、商品、広告等、大きく変化し豊かにはなっていますが、入国管理・警察官は相変わらずです。

港近くの広場で

港近くの英雄広場で

  旧共産圏の街なかにある像は、どうしてこうも皆同じなのでしょうか。武骨で角の多い彫像、人は斜め上方に視線を向けて、「芸術性」からは遥かに遠い気がします。これが、歴史的な「勝利者」のイメージなのでしょうかね。

潜水艦博物館から乗ってきた船を臨む

潜水艦博物館から乗ってきた船を臨む

 第二次世界大戦で勇敢に戦ったという「潜水艦記念館」から、乗ってきた「レジェンド・オブ・ザ・シーズ」を臨むと、巨大ビルディングです。

 その後、海抜193mの「鷹ノ巣展望台」からウラジオストクの湾を一望にと、意気込んで階段を上がっていきましたが、目の前に広がるのはウラジオストク特有の「濃い霧」、5月は晴天が多いようですが、6月はこの「霧」が名物だとか、最高の「視界なき展望」でした。

 夕方午後6時過ぎに出港し、夜、インターネットラウンジでニュースを検索すると、「野田総理の原発再稼働の記者会見:http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2012060902000148.html」、「サッカーW杯予選・ヨルダン戦で6対0で勝利http://www.hokkaido-np.co.jp/news/sports/378787.html」等、こんな時に、のんびりのブログ掲載お許しを。

 この日は、お日柄が良かったのか、幾つかの場所で新郎・新婦の姿を見ました。写真撮影、式、披露宴、これはどの国でも同じ光景です。小樽を発って船でほぼ24時間、大陸・ロシアがこんなにも近いことに何か新鮮な驚きを感じます。モスクワ、サンクトペテルブルクもロシア、ウラジオストクもロシアです。

 港を出ると、またまた濃い霧の中を釜山に向けて、北朝鮮の沖を南下航行です。

戸髙一成館長とのお話から

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 広島県呉市の「大和ミュージアム:http://www.yamato-museum.com/concept/」、正式名称は「呉市海事歴史科学館」です。

 2年前にも訪問(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=4585)しましたが、今回は、館長・戸髙一成(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=9991http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=11196)さんとお会いして意見交換、いくつかアドバイスを頂くのが主たる目的でした。

大和ミュージアムから造船工場を望む

大和ミュージアムから造船工場を望む

玄関前:実物大の大和主砲砲身

玄関前:戦艦「陸奥」実物大の主砲身とスクリュ―

錨と

錨ほか

 これまで、一連のビハール号事件:http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E3%83%93%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%8F%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6」で、自分なりに歴史を検証してきたつもりですが、どうしても「戦犯裁判」の記録で、壁にぶち当たっていました。今後、B・C級戦犯裁判の証言記録を、どう追いかけていくか、その辺について貴重なアドバイスをたくさん頂きました。

 戸髙一成さんは、3年前の8月に、NHKスペシャル「日本海軍 400時間の証言:http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=1907」3回シリーズでも、高く評価されました。この番組の原点になった「海軍反省会」のテープを保管していることでも知られています。「海戦からみた日露戦争」、「海戦からみた日清戦争」、「海戦からみた太平洋戦争」等、著書もたくさんあり、館長ノート(ブログ:http://www.yamato-museum.com/concept/note/index.html)も興味深いです。今回は、初対面でしたが、テレビ・著書で私はあらかじめよく承知していたためか、或いは戸髙さんのお人柄なのか、初めてという気が全くしない、実に自然なやり取りでした。

 以下、お話から幾つか~~~~~~ 

* 戦争の反省: 敗因は、中枢にいた軍人たちが一番よく分かっている。「海軍反省会」等では、率直な意見が多く出されていたが、聞いた話が本になると、率直な発言が修正されるので、録音テープでの保管とした。なぜ戦争が起きたか、なぜ回避できなかったについて、現場の様子を伝えておかなければならないという認識で、この会は、1980(昭和55)年から1991(平成3)年まで131回開かれた。

* なぜか、海軍中枢に居た方々の会合に数多くお誘いを頂き、「反省会」の録音テープの発表に関しては、生前に発表されると本音が言えなくなる危惧もあり、20年を経て公にし、当初の参加者との約束を守った。

* 「反省会」は記憶の確認、責任の追及等、率直な発言が多かったが、自分たちは最善を尽くしたという言い訳的な発言も背景にはあった。

* 民間の商船撃沈、病院船攻撃、海に浮かぶ軍人・民間人の銃撃等は、戦争中にはどの海軍でも日常的に起きていた記録がある。「ビハール号事件」の場合は、救出して捕虜にした事態が、難しさを造り出したのだろう。戦争とは理不尽で、不条理。

* 「特攻」で逝った人を「英雄」と持ち上げるのは、これを命令した人たちの責任を回避するものであり、特攻の陰の部分だ。

* 海軍は国防の組織、国防は国民を守るための組織のはず、それを「特攻」という国民を殺す作戦を立案し実行し、本来の機能を失った。

* 日本の国は、国家と国民との間の「権利」、「義務」のバランスが甚だ悪かった。「徴兵」の義務を課する大前提として、国家はその国民のいのちを限りなく守る責任を負わなければならないはず。それが、戦後の「戦争責任」の議論にも強く影響してくる。

* 組織と責任の取り方については、今の原子力発電所事故のその後の過程でも全く同様に、あいまいな構図を見て取れる。体制的に責任の所在が不明確。軍令部は天皇の参謀として大枠の命令は出すが、現地での戦略は現場の連合艦隊が行う。従って失敗しても責任が不明確になる。軍令部は現場が悪いと思い、現場の連合艦隊は方針そのものが悪かったと思う。だから失敗を次の戦略に活かすことができなかった。

* 戦後の反省会でも、「組織が悪かった」とは思っていても、その任を担っていた「個人の責任」とは最後まで考えていない所に、「責任を取る」、「責任を取らせる」発想が生まれてこないし、これは日本社会の特徴なのではないか、現代でも同様である。

* 日露戦争の日本海軍の完全勝利により、「無敵艦隊」との認識が続き、海軍には「負ける」という言葉がなかった。本来は、戦争遂行能力が無くなった時期に、戦いの終結を検討すべきが、誰もその勇気が無かった。最後まで「帝国海軍の面子」のためにだけ戦い続ける愚、「日本国の将来」と言った理念は見い出せない。

* 軍は、本来は戦争をしないために存在する、抑止力としてあるにもかかわらず戦争を始めた。現実問題として、軍人・司令官の立場で、「戦争開始に反対」、「戦争を終結させる」ことの不可能なことをあらためて感じる。

~~~~~~~~~~~~~~~~以上、お話から

 

 インターネットで、「太平洋戦争」を検索をすると、実にたくさんのサイトが紹介されます。その中には、極端な戦争讃美、お決まりの懐古趣味、反戦一辺倒、個人を罵倒するような乱暴なブログ等、様々です。でも、今を生きる現役の私たちがしなければならないことは、これまでの多くの犠牲を無駄にしない「学び」から、二度と戦争を始めない国を創る議論を続け、実現することなのではないでしょうか、右翼も左翼もありません、人間としての基本として、です。そして、国際社会の中で生きている現在、それは一国では成し遂げることは不可能です、まさに「外交」の出番です。

 たくさんの海軍中枢の方々とお会いして、実際の生の声を聴いてこられた戸髙一成さんは、ほぼ戦後の同時代を生きてきた私の2年歳上です。今回お会いして、「戦争を語り継ぐ」ということ、「戦後生まれの世代の戦争との向き合い方」について、大きなヒントを得ました。先日、終り頃で、「何を知っているということより、史実をもとに自分の頭で考え続けることが大事だと思います」とおっしゃった言葉が、全てなのかもしれませんね。戸髙一成さま、お忙しい中おつき合い頂き、ありがとうございました。

 近いうちに、また検証を始めます、東京で、そして、ロンドンで、ですね!

江田島へ三たび、「旧海軍兵学校」

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 旧海軍兵学校は、現在は「海上自衛隊第一術科学校:http://www.mod.go.jp/msdf/onemss/」になっています。

 長崎での第一次海軍伝習(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=3148)を受けて、日本海軍創設の機運が高まり、まず築地にその人材育成の拠点が設立されました。1888(明治21)年、東京築地にあった海軍兵学校が広島県江田島に移転し、この江田島の地において教育が開始されました。当初生徒は、表桟橋に係留された学習船「東京丸」で起居していましたが、1893(明治26)年に赤レンガの生徒館が完成しました。以後、海軍兵学校は逐次拡充整備され、1945(昭和20)年12月1日に閉校されるまで、57年間にわたり、海軍士官養成の場としての歴史と伝統を築き上げました。

 終戦後は、11年間にわたり、米軍及び英連邦軍等が進駐して施設を使用しましたが、1956(昭和31)年1月、海上自衛隊がこれらを引き継ぎ、横須賀から術科学校が移転、1957(昭和32)年5月には「海上自衛隊幹部候補生学校」が独立開校し、翌年4月には、「海上自衛隊第1術科学校」が発足しました。

旧海軍兵学校校舎

旧海軍兵学校・生徒館

教育参考館

教育参考館

 インターネットで検索すると、たくさんの方が動画・写真等で紹介していますので、画像はそちらに譲ります。私はこれまで、父に絡んで何回か兵学校について書きました。今回の訪問で3回目、これまでと違う立場での見学に、新たな気づきもあり、三たび、身の引き締まる思いでした。

http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=1907

http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=3177

http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=5921

 

 今回はその後、レンタル自転車を借りて、江田島湾の向こう側の「軍艦利根資料館:http://homepage3.nifty.com/ki43/heiki9/tone/tone.html」にも足をのばしました、途中には、同じく攻撃を受けた「大淀」犠牲者の碑もありました。先日は、海岸沿いの強い寒風と峠の山坂でかなりきつい行程でしたが、昨年12月の兵学校76期の方々の「大淀」、「利根」のお話を伺い(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=11026)、今回訪問できてよかったです。

少し離れた「軍艦利根資料館」

少し離れた「軍艦利根資料館」

 重巡「利根」は、1944(昭和19)年10月のレイテ沖作戦の後に日本へ帰艦、その後呉に回航され、1945(昭和20)年2月に海軍兵学校練習艦となりました。1945(昭和20)年3月19日の米空母艦載機による空襲により小破、その後、この能美へ移動したものの、7月24日および28日の空襲により大破し、着底しました。この攻撃により、128名の乗員と17名の島民が亡くなったそうです。その頃、「利根」通信長だった私の父・野田宏は、兵学校の分隊監事として江田島に居り、広島への原爆投下を、この江田島で体験しました。

 6年前に父が亡くなった後、書棚を整理していましたら、当時使っていた教科書が数冊見つかりました。

左は「英語書簡文」(昭和16年8月)、右は「航海術五の巻:気象学」(昭和8年2月)の教科書

左は「英語書簡文」(昭和16年8月)、右は「航海術巻の五:気象学」(昭和8年2月)の教科書

 

 日本は、人材育成にかける情熱を持ちながら、日清・日露戦争を経て、戦略なき戦争遂行の陰で、国を担う尊い人材を多く失いました。

ペリー&マッカーサー

Posted by 秋山孝二
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 寺島文庫(http://www.terashima-bunko.jp/about.html)の今年最後の会が、「みねるばの森:http://terashima-bunko.com/」で開催されました。

 寺島実郎さんから、「2人のアメリカ人」の残した記念すべき品物の紹介があり、寺島文庫の一角に、「ミニ博物館コーナー」としてそれらが展示されていました。

 一つは、1853年に浦賀にやってきたマシュー・ペリーが、後年執筆した「日本遠征記:http://www.nansei-m.co.jp/web/32perry/sample/kaisetsu.html」特別版の実サイン入り原本です。当日、寺島さんは、学長をつとめる多摩大学(http://www.tama.ac.jp/guide/index.html)の本拠地の「多摩学:http://www.tama.ac.jp/guide/tamagaku.html」の由来から説明されました。 ペリーが当時のフィルモア大統領の親書を携えてというのは事実ではなく、「国書」とは実質的には「紹介状」とか「添え書き」程度のものだったようです。

ペリーの自筆サイン(左中央部)入り旅行記

ペリーの自筆サイン(左中央部)入り遠征記

拡大すると

拡大すると

 一方、マッカーサー元帥の記念は、オレンジ色のパーカー万年筆限定レプリカ(サイン入り)です。1945年9月2日、ミズーリ号艦上で降伏文書に調印した時に使った万年筆で、この時、ペリーが浦賀来航時に旗艦「サスケハナ号」に掲げていた星条旗も持参してきたそうです。なぜ万年筆がオレンジ色か、それは彼の母親のものでした。バージニア州ノーフォークにある「マッカーサー記念館:http://www.macarthurmemorial.org/」、彼の生誕地はアーカンソー州リトルロックですが、米国海軍の本拠地であると同時に、母親の生まれ故郷ということが大きな理由のようです。

 寺島さんは、三井物産のワシントン駐在時代に、ニューヨークのアストリアホテル(http://www.waldorfnewyork.com/index.cfm)の一室に居を構えていたマッカーサー夫人にお会いしていたそうです、歴史のつながりというか接点というか、面白いですね。

ミズーリ号で署名するマッカーサー

ミズーリ号で署名するマッカーサー

使用したサイン入りパーカー万年筆のレプリカ

使用したサイン入りパーカー万年筆のレプリカ

 

 この二人のアメリカ人、そしてアメリカという国の共通項は、1)「抑圧的寛容」、すなわち、圧倒的有利な状況では「優しく」「思いやりに満ちあふれ」、不利な状況では「猜疑心、嫉妬心」が異常に強くなること、2)「分断統治」を志向すること、のようです。2011年、沖縄基地問題でも、3・11東日本大震災の支援でも、それを裏付けるような姿勢が思い浮かびます。

 寺島実郎さんは、秋山財団の今年25周年記念講演会(http://www.akiyama-foundation.org/zoutei/)でお話をして頂きました。年明け早々に、「ブックレット」として発刊する予定です。また、リレー塾(http://www.terashima-bunko.com/bunko-project/relay.html)、FM放送(http://www2.jfn.co.jp/owj/tera/index.php)他、多くの政策の審議会等でもご活躍です。今年は特にお世話になりました、心から感謝申し上げます。

「錯誤・失敗」の責任

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comments: 2

 昨日、私は書きました、・・・・・・・・・・軍事力ばかりでなく、原子力政策においてもこの海軍の変質の歴史から学ぶことが多いと思います。そしてその「学び」は、これからの日本創造で生きて初めて「価値」となるのですよね、と。この部分について、戸髙さんは具体的事例で言及していますので、それを引用します。

 

* 巡洋艦「インディアナポリス」は、1945年7月26日に米本土から運んできた原爆をテニアン島に降ろして任務を終え、グアム島を経由してフィリピンのレイテに向かった。出港前の情報では、付近に日本の潜水艦が行動している恐れがあったので、日中はジグザグ航行を行っていたが、日没後は直進で進んでいた。深夜、日本の伊五十八潜水艦の魚雷攻撃で、「インディアナポリス」は十数分であっけなく姿を消し、SOSの発信さえも間に合わなかった。

* 乗員約1,200名のうち約300名が沈没時に戦死し、その後8月7日の救助完了までの間に多くが遭難し、結局300名程度が救助されたにすぎなかった。日本国内では、この撃沈は日本海軍潜水艦のあげた最後の金星としてのみ有名である。しかし、米国では、「インディアナポリス」の遭難は、海軍最大の悲劇として戦後に大きな問題となった。一隻の巡洋艦が、ほとんど敵の存在しないと思われていた海面で撃沈され、数々の不運が重ねって多くの生命が失われた。この事件の責任はいったい誰にあるのか?

* この「インディアナポリス」の事件は、終戦直後のアメリカ海軍と国民の間に重大な関心を呼び起こし、そのニュースは争って読まれた。多くのアメリカ人がこの事件について海軍内部に責任者が存在し、処罰されなければならないと考え、生き残った艦長は軍法会議にかけられ有罪とされた。大戦中にアメリカ海軍が喪失した軍艦の艦長が軍法会議にかけられたケースは他にない。

* この異例の裁判が引き起こされた最大の理由は、「将兵が死ななくてもよい場所で無駄に命を落としたのではないか?」ということにあった。この問題意識こそ、日米海軍、いや、日米両国の国家と軍隊と兵士の関係における最大の相違点だったのである。

* アメリカ国民は、義務として兵役につき、戦争に参加している。同時にすべての兵士は国家に対して、生命の安全に関して最善の努力を払うことを要求する権利を持っている。もし一人の兵士が戦死すれば、その遺族はその兵士の死が「意義ある死」であったかどうか(すなわち、無意味な作戦や無能な指揮による死ではなかったか、また十分な生活と最善の兵器が与えられていたか)を知る権利を持っていた。それがアメリカという国家と国民の契約だったのである。

* 「インディアナポリス」の場合を例にとると、死亡した乗員の遺族が太平洋艦隊司令長官のニミッツ提督に対して、責任者の早急な追及を行うように要求する手紙を送っている。これに対してニミッツは、ていねいな返事を書いている。さらに事件調査についても、「われわれは、自分たちの間違いを隠そうとは考えていない」と言明している。これは何ら特別の例ではなく、このような手紙は戦時中に軍の指揮者や、大統領がたびたび受け取ったものだった。また、海軍の内部でも同じように契約があった。「義務を果たした者には名誉を、果たさなかった者には罰を」である。すべての失敗について責任者が厳しく失態や怠慢を追及され、それぞれ処分を受けたものである。

* 戦いの中で得られた教訓、戦訓には兵士の血の代償が支払われている。そして、その教訓の活用は、次の戦いにおける血の代償の量を左右する。もし真剣に戦訓を得ようとすれば、それは冷厳な責任の追及となるのはやむを得ない。法廷で戦友のミスを追及することはアメリカ人にとっても、もちろん愉快なことではない。しかし今後、同じ過誤が繰り返されないために必要不可欠なこととされたのだ。

* ひるがえって、日本海軍のケースはどうであったろうか?1942年6月のミッドウェー海戦に敗れた第一航空艦隊の参謀長草鹿龍之介は、山本五十六司令長官に対して、ほとんど個人の感情レベルの懇願を行っている。そして山本長官も敗北の責任など全く念頭になく、「承知した」と答えている。さらに海戦の敗因については後に、形ばかりの戦訓委員会が設置されたが、その結果は極秘とされて一切公開されなかった。利用されることのない戦訓などに、一体何の意義があるだろうか。

* 日本海軍の指揮官や高級幕僚が、戦闘の重要な局面で重大な錯誤や失敗をおかし、以後の戦局を極めて不利なものとしたケースはミッドウェー作戦にとどまらず、海軍甲事件・海軍乙事件・台湾沖航空戦・レイテ沖海戦での栗田艦隊の反転など、枚挙にいとまがない。にもかかわらず、それらのケースの責任者で直接処分されたものがいないということは、一体何を意味するのだろうか。

* 太平洋戦争における日本軍の反省を記した書籍や雑誌を見ると、個々の戦闘の戦術的巧拙についての評価、あるいは戦略的な総論に偏したもの、または日本人の国民性、というような茫漠としたものなどが多く、将兵の義務、責任、そして権利といったものについての考察は、ほとんどない。

* しかし、軍隊の本体が人間の集団である以上、将兵の一人の人間としての権利と義務に基づく立場の確立こそ、精強な軍隊の第一歩であると考えるべきであり、日本軍についてもこの観点からの研究がさらに必要と思われる。

~~~~~~~~~~~~~~~~引用おわり

 

 大変長い引用で申し訳ありません。ただ、この数年、日本の戦争と向き合っていて、私がずっと心に引っかかっていた「責任の取り方、取らせ方」について、まさに上記の指摘に120%賛同致します。戦後の東京裁判に代表されるABC級裁判を批判する前に、日本国自体の命の価値に対して自ら指導者・幹部の責任を裁く当事者能力の欠如を指摘すべきだと思います。

 今月2日、この欄に私は書きました(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=11026)・・・・・・

・・・・・・・・私に15分程度のご挨拶の時間があったので、この場にお招き頂いた御礼と、連載記事の概略、及び今の気持を話しました。当初は、全く個人的興味だった「ビハール号事件」、戦闘日誌等の記録を調査した際、重要部分が切り取られていたこと、香港のB級戦犯法廷での日本海軍幹部の不誠実な証言、父の役割、一人責任を負って絞首台に立った第十六戦隊司令官・左近允尚正中将、そのご子息・左近允尚敏さまとの意見交換等、溢れ出る言葉を抑制しながらではありましたが、お話したつもりです。戦犯裁判とは言え、このままでは現場に責任が全て押しつけられて、本来の作戦立案等、責任ある幹部が誰一人として処罰されないという実に理不尽な経過に私が憤りを感じたこと、歴史の中に確かに記録・記憶されてしかるべき事実であること、戦争は未体験ながら、今を生きる世代として明らかにしておく責務等です。・・・・・・・

 今、原子力発電所の事故ほか国策に対して、全国で巻き起こるデモ・集会等の直接行動は、まさに体験した日本国民の、今と将来に向けた基本的人権の獲得行動であると思います。