散華の世代からの問い

Posted by 秋山孝二
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 NHK特集「散華の世代からの問い 〜元学徒兵吉田満の生と死〜」は、1980年に放映された作品、例年8月の戦争特集の中で、心に響く作品でした。語り手の加賀美幸子さんの声も若い!
HPより~~~~~~~~~~~~~

 九死に一生を得た吉田満は、戦後に「戦艦大和ノ最期」を書き、目撃した悲劇を現代に伝える語り部の役割を果たした。彼の著書につづられた戦没学徒兵の手記に現代の風景を重ね、吉田の問いの意味を探る。遺稿から…「妹よ、清純に生きていけ。心の最も美しいところであなたを愛し続けてきた兄の最後の言葉を忘れないでくれ。」「敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるか。いま目覚めずしていつ救われるか。」

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吉田(よしだ みつる、1923年〈大正12年〉1月6日1979年〈昭和54年〉9月17日)は、日本の作家。日本銀行職員。キリスト者。

 大日本帝国海軍における戦時体験をもとにした戦記を残すとともに、日本銀行職員の要職を歴任する傍ら、「戦中派」として独自の著作活動や言論活動を続けた。代表作の『戦艦大和ノ最期』は、映画化、長時間テレビドラマ化もされ、海軍での上官であった臼淵磐も吉田の著作を通しても広く知られるようになった。

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 異なった視点からの回想の言葉、特に臼淵大尉の「三バカ:万里の長城、ピラミッド、戦艦大和」の発言は衝撃的でした。

* これまでの戦艦大和の記事ーー> 秋山孝二の部屋 (akiyama-foundation.org)

* これまでの海軍兵学校関連記事ーー> 秋山孝二の部屋 (akiyama-foundation.org)

しばし、札幌・平岸の「花粋」で

Posted by 秋山孝二
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 札幌市豊平区平岸の住宅街、和処「花粋(http://www7b.biglobe.ne.jp/~kasui/」で、しばし昔話に華が咲き、飲み過ぎました。

札幌市豊平区平岸の住宅街、和処「花粋」

札幌市豊平区平岸の住宅街、和処「花粋」

 広島県東広島市西条の酒「賀茂鶴(http://www.kamotsuru.jp/)は、最近の話題としては、オバマ大統領来日時に銀座のすし店で振る舞われたお酒として有名になっています(http://www.kamotsuru.jp/category/information/6013.html)。だから何なんだと言われそうですが、先日はその「大吟醸・特製ゴールド賀茂鶴180ml角瓶」を同じ状態で冷やして味見をしました。

戦艦大和でも採用、広島県西条の酒・大吟醸「賀茂鶴」特撰

戦艦大和でも採用、広島県西条の酒・大吟醸特性ゴールド「賀茂鶴」

二片の金箔の花びら

二片の金箔の花びら

 お料理の締めは特製デザート、最後まで手の込んだ和食創作料理でした。

デザートは金魚入り水槽?

デザートは金魚入り水槽?

 「賀茂鶴」は海軍との関係も深く、海軍兵学校が明治初期に東京・築地から広島県江田島に移転して以来、何かと話題になっていました。戦艦大和にも供されて、多くの海軍の方々にも親しまれたようです、恐らく私の父も飲んでいたのでしょう。そんな遠い昔に思いを馳せながら、先日は時間の過ぎるのを忘れて昔からのビジネスパートナーと一緒に楽しいひと時を過ごしました。

巨大戦艦「大和」、「武蔵」の最期

Posted by 秋山孝二
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  少し前になりますが、8月の終戦特集、NHKBSプレミアム「巨大戦艦 大和:~乗組員たちが見つめた生と死~(http://kamikaze412.blog.fc2.com/blog-entry-311.html)」は、多くの取材に裏付けられた素晴らしい番組でした。

 NKKHPより:(http://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2012041894SA000/)~~~~~

 

昭和20年4月7日、戦艦大和は米軍機の集中攻撃を受け3000人を超える命と共に海に沈んだ。なぜ大和は、生還を許されない特攻作戦を命じられたのか。乗組員は、どのような思いで最後の出撃に臨んだのか。元乗組員など、現在も健在な大和関係者40人以上を徹底的に取材。明らかになったのは、想像を越えた最後の瞬間の壮絶さ。生き残った人々が抱え続けた苦悩の深さだった。迫真の証言とドラマで描く戦艦大和の全貌~~~~~~~~~~~~~~~~~

■ナビゲーター

 瀬戸康史

■キャスト

 津川雅彦(宇垣纏),佐野史郎,谷村美月,高橋和也,長谷川初範,斎藤歩,岡田浩暉,辻本祐樹,黒田福美岸田タツヤ

■内容

第一章 決戦兵器大和の誕生

第二章 家の誉、村の誉、第三章 戦場の“大和ホテル”

第四章 ゆらぐ“浮沈神話”

第五章 人間デ在ル可キカ 軍人デ在ル可キカ

第六章 大和ハ死ニ場所ヲ得タ

第七章 沖縄特攻 乗組員たちの闘い

第八章 洋上の生と死と

第九章 失われた命 残された命

第十章 誉の村の戦後

終章 戦後67年 それぞれの“大和”

斎藤歩の朗読

斎藤歩の朗読

「大和」の雄姿

「大和」の雄姿

「大和」と「武蔵」

「大和」と「武蔵」

レイテ海戦で「武蔵」の最期

レイテ沖海戦で沈みゆく「武蔵」

 

 これまでに戦艦「大和」については、この欄に2回下記ました。

* http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=4585

* http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=9991

 乗り組んだ方々も多くは90歳代となり、生の声を聴ける時間も限りがあり、こう言った番組は貴重な記録です。

「海戦」からみた日本の戦争

Posted by 秋山孝二
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 今年は、私にとって「戦争」と向き合った記憶に残る年となりました(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=11094)。今月11日にも書きましたが、「日本海軍の変遷」から検証して、新しい気づきがありました。

 数年前から、歴史認識として「戦争責任」検証の旅で、アウシュヴィッツ等のヨーロッパ・中国東北部を訪問し、今年8月は北海道新聞に、旧海軍の私の父に絡む「ビハール号事件:5回連載」の記事も掲載されました。この間、旧海軍の多くの方々と出会い、貴重なお話、或いは著書を読むことが出来ました。その中から海軍に関係する二つを紹介致します。

 一つは、今年夏に知人の大沼芳徳さんから送って頂いた伊藤和雄著「まさにNCWであった日本海海戦:http://janafa.com/book-35/page-13.pdf」です、「NCW:Network Centric Warfare(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%AF%E4%B8%AD%E5%BF%83%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84)」は、簡単に言うと「ネットワーク中心の戦い」で、近年、米海軍大学校長のアーサー・セブロフスキー中将の講演ほか、アメリカ軍オリジナルの構想と理解されているようですが、実は、日露戦争の日本海海戦が「NCW」だったという視座の興味深い本でした。

 ペリーから送られた電信機に始まり、明治維新以降、海底電信ケーブル、軍用水底線、海軍望楼、三六式無線電信機等、新しく創設された日本海軍のインフラ整備・開発が、実は今日言う「NCW」そのものだったのです。日本海海戦の勝利の分析も、「情報優位」の下で、連合艦隊が主導的に戦ったからこそ、機力(ハードウエア)と術力(ソフトウエア)の僅かな差が大きな結果となってあらわれた、著者はそう断言しています。さらに、戦勝の要因として言われている、敵前大回頭(T字ターン)、砲の門数・口径、装甲の暑さ、下瀬火薬の優越度は、勝敗を左右した決定的要因ではなく、「情報優位」の傘の下に存在した数ある要因のひとつに過ぎない、とも。この勝因総括・分析の誤りが、実はそれから37年後の太平洋戦争での大敗北へとつながります、ある意味で歴史の必然として、です。

 幕末から明治にかけて、本来の「近代国家の建設」への熱き思いと、情報・通信ネットワークの重要性を本能的に理解した優れたリーダー達の見識を、私たちはしっかり史実として記憶しておかなければならないのでしょう、その後の時代を検証すればする程ですね。

 

 もう一つは、戸髙一成著「海戦からみた太平洋戦争」です。戸髙さんはご存知のように、「呉市海事歴史科学館館長(通称大和ミュージアム:http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=4585」で、同時に海軍史研究家でも著名な方です。私は全く同感する部分が多かったので、少し長くなりますが引用させて下さい。

* 太平洋戦争では、連合艦隊は早期の艦隊決戦を追求し続け、その作戦が破綻して戦力を使い果たした後は、いたずらに特攻作戦のみによって戦死者を増やすだけに終始した。あえて日本海軍の失敗や欠陥に目を向けることが、現在の日本人にとって有益と考えるのである。

* マリアナの攻防で艦隊を失った日本海軍は、ことの重大さに苦悩していた。もはや日米の戦力差は決定的なものであり、通常の攻撃では、日本側に勝ち目はなくなっていたのである。米軍のレーダーは安定した性能で日本機の接近を探知し、十分な余裕を持って邀撃(ようげき)戦闘機を差し向けている。また、幸運にも邀撃戦闘機群の網を逃れ、米艦隊に突入できた飛行機も、小型レーダーを内蔵し、飛行機に接近しただけで炸裂するVT信管を装備した高角砲弾の弾幕に包まれて撃墜されてしまう。

* 当時、日本海軍では、この米艦隊の対空砲火の命中率が異常に高いことに気づかず、単に対空機銃と高角砲が多い、つまり物量の差があるといった程度の認識しかなかった。この、「米軍イコール物量」という図式は、日本の軍人の頭の中に深く染み込んだ観念で、これはワシントン条約で日本の海軍が対米6割に抑えられた時からの長い歴史を持った観念であった。これらの物量に対抗するには、米艦隊を上回る戦力を集中して対抗すべきであったが、日本海軍にはすでにその力はなく、力を蓄積するだけの資源も時間もなかったのである。

* では、何もない日本海軍に残された道は何であったか。それは「天佑神助」を当てにすることと、「大和魂」を持ち出すことだけだったのである。合理的な作戦がすべて破綻した時、残っていた作戦が非合理であったことは、或いは自然なことだったのかもしれない。

* 1945年の戦艦大和の最期となった「沖縄特攻」のとき、出撃にあたって連合艦隊司令部から与えられた命令がある。この命令を起案したのが誰なのかはっきりしないが、命令文が示すものは、この特攻艦隊の出撃が、「海軍の伝統を発揚」するために命じられたものである、ということであった。付帯的に付けられた「皇国無窮の礎を確立」することとともに、そこには何ら遂行中の戦争に対する戦術展望もなければ、全てを失った後に対する考慮も読み取ることはできない。この作戦目標は「戦果」ではなく、「日本海軍の栄光」の伝統発揚のためだったのである。日本海軍にとっては、「海軍あって国家なし」と言われても仕方のない命令文である。海軍は、ただ「輝ける伝統」という幻を守るために多くの艦艇と人命を米軍の攻撃の前に差し出したのであろうか。

* いかに軍事技術が発達しようとも、戦争に至る原因の多くは、古来変わるものではなく、基本的には、国家間の政策・利害の衝突に過ぎない。これは、本質的には、外交交渉で解決されるべきものであり、戦争は、いわば交渉失敗の結果なのである。

* このような、外交的敗北によって始まった太平洋戦争は壊滅的な敗北で終り、日清戦争に始まった「日本の五十年戦争」も幕を閉じた。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~引用おわり

 「外交」と「戦争」と言えば、クラウゼヴィッツ(http://kotobank.jp/word/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%BC%E3%83%93%E3%83%83%E3%83%84)の「戦争論」を思い出します。日本海海戦を担った指導者たちと、太平洋戦争時の海軍指導部の質・見識の差とでも言うのでしょうか、この80年近くで変遷していった日本海軍から考察する歴史は、しかし、今も進行形であると思いますね、指導者の劣化、それを見過ごす国民の民度の低さとお任せ民主主義の跋扈です、教育の敗北と言っても良いかもしれません。

 今の日本は2008年統計で、「53隻の駆逐艦保有」、これは米軍第7艦隊の2倍であり、「護衛艦52隻、哨戒艦9隻、機雷艦31隻、潜水艦16隻など152隻、43.7万トン保有」、世界第2位の海軍です。それをコントロールする指導者は育っているのでしょうか。軍事力ばかりでなく、原子力政策においてもこの海軍の変質の歴史から学ぶことが多いと思います。そしてその「学び」は、これからの日本創造で生きて初めて「価値」となるのですよね。

「大和ミュージアム」のメッセージ

Posted by 秋山孝二
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 広島県呉市にある戦艦大和の情報集積施設「大和ミュージアム:http://www.yamato-museum.com/concept/」は、正式には「呉市海事歴史科学館」と言います。

一階ホールにある全長26.3メートル(10分の1)モデル

一階ホールにある全長26.3メートル(10分の1)モデル

科学技術の集積

科学技術の集積

  「沖縄戦」、「海軍」等との関係からも、私は以前からこの施設を機会があれば訪問したいと思っていました。呉市の施設として(現在は指定管理者制度により民間企業コンソーシアムが運営)今年は開設5周年を迎え、戦争武器の戦艦「大和」というよりも、日本の科学技術の結集「大和」の視点から展示が企画されていて、地元に根差す科学・製造技術の伝統他、予想を上回る貴重なメッセージを受け取りました。先日の佐倉の国立博物館(http://www.rekihaku.ac.jp/)、東京九段の靖国神社・遊就館(http://www.yasukuni.jp/~yusyukan/)とは、かなり趣を異にしています。

 日本海軍の礎として、愛生舘シリーズでも掲載した「長崎海軍伝習所」、勝海舟、小栗上野介(おくりこうづけのすけ:http://www.cocoyoko.net/history/h100000074.html)にも言及されていました。

長崎海軍伝習所

長崎海軍伝習所

  呉は海軍工廠のまちとして栄え、戦後は伝統的技術と新しい技術のコラボレイトでタンカー製造等も含めて経済成長を支えてきました。パンフレットにもあるように「呉の歴史」は、良かれ悪しかれ明治以降の日本の近代化の歴史でもあります。大上段からただ評論するのではなく、地域の教育、文化、観光への寄与を目的として、科学技術創造立国を目指す日本の将来に向けて、その担い手の子供たちにも科学技術の価値を届けたいという意図を感じました。

  向かいの「海上自衛隊呉史料館(http://www.jmsdf-kure-museum.jp/index.php):通称てつのくじら館」にも寄りました。日本の潜水艦製造技術の歴史、機雷除去を主とする掃海活動の歴史等、技術的側面からの説明・展示が興味深かったですね。

海上自衛隊呉資料館・入口

海上自衛隊呉史料館・入口(展示用潜水艦「あきしお」)

  「いつも反戦とか叫んでいるお前が、なぜ戦艦大和、潜水艦なんだ!」と言われそうですが、私にとって「日本海軍」の歴史は、父の影響もあり幼い頃から興味深く感じており、幕末・維新に始まった基礎から、日本海海戦、ロンドン・ワシントン軍縮会議、太平洋戦争、、海軍解体、戦後の海上自衛隊設立等、引き続き歴史の脈絡として注目をしています。

 これまで江田島の旧海軍兵学校(http://www.mod.go.jp/msdf/mocs/mocs/index.htm)には2回程足を運んでいますが、呉はいつも通過でした。今回しばし滞在できて、呉というまちが、戦後「平和産業港湾都市」として再生してきた歴史も知り、新鮮な視座を与えてくれました。