TPS、サハリンで初公演!

Posted by 秋山孝二
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  札幌のプロ劇団「TPS:http://www.h-paf.ne.jp/tps/tps.html」が、アントン・チェーホフ生誕150周年記念で、サハリンのチェーホフ劇場で「秋のソナチネ:http://www.h-paf.ne.jp/tps/kanou.html#aki」公演をしました。これまでハンガリー(ブダペストほか)、韓国(光州・ソウル)、ルーマニアでも海外公演を行っています(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=97)。今回、私は同行できませんでしたが、先日帰国報告会が開催されて、東欧・韓国とは一味違ったロシアの舞台事情を聴くことが出来ました、大変興味深かったですね。

当日プログラムの表紙

当日プログラムの表紙

  TPSはこれまでチェーホフ作品を国内で多数上演していて、今回生誕150周年の演劇祭「チェーホフの秋」に招待されました。2日間で500人以上が来場し、地元でも拍手喝さいだったようです。劇場前の道路は穴ぼこだれけでも、10数万人のマチに立派な劇場が存在する、それだけでもロシアにおける芸術・文化の位置づけを感じますし、その伝統が観客のレベルの高さを創り上げているのでしょうね。日本の、いや札幌市の政策は、もっともっと芸術・文化の振興に本気になってもらいたいものです。

 サハリン国際チェーホフ劇場のヤーナ・チェーホワさんは、「モスクワなどから来ている劇団の公演をたくさん観てきたサハリンの観客も、『秋のソナチネ』を観て心が奪われた。洗練された演技、シーンにふさわしい音楽の演奏によって、チェーホフの作品に基づいた多くの公演よりチェーホフの雰囲気に通じていたと言える」と、絶賛するコメントをメディアに寄せていました。

サハリン公演を終えた出演者たち

サハリン公演を終えた出演者たち

翻訳・カーチャさん、チェロ・土田英順さん、女優・宮田圭子さん、

翻訳・カーチャさん、チェロ・土田英順さん、女優・宮田圭子さん、

 報告会では、ロシアの劇場・舞台を取り巻く事情も垣間見られて楽しかったですね。特に土田英順さんがいつになく怒っていました、「どうして劇場にあんなに人がいるのか!」と。劇場には200人を越えるスタッフ(?)がいて、それぞれ受け持ちの仕事が縦割りで分担されていたようです。「人が多いとそれぞれに仕事を作るだけだ!」とも、かなり厳しい口調でおっしゃっていましてね。戸のカギを開ける担当も、扉ごとに違う人が現れる(?)、日本では一人で賄っている多くの仕事を、それぞれ違う劇場スタッフが入れかわり立ちかわり行っている、出演する役者も準備作業をどんどんやる姿に驚いた様子、そんな状態だったそうです。 

 メディアの取材もかなり多かったり、歓迎パーティーの設営もあったりと、昨年のルーマニア・ハンガリー公演と比べて、今回は受け入れがかなりしっかりしていたと言えるのかも知れません。いずれにせよ、若い劇団員にとって海外公演でそれぞれの国の演劇事情、観客の反応を肌で知ること、驚きと苦労を体験する、そのことが何より肥やしになりますね、お疲れさまでした!!

ノーベル化学賞受賞に思う

Posted by 秋山孝二
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 2010年のノーベル化学賞を鈴木章・北海道大(http://www.hokudai.ac.jp/)名誉教授、根岸英一・米パデュー大(http://www.purdue.edu/)特別教授ら3人が受賞しましたが、特に北海道大学の鈴木先生は鵡川町ご出身の道産子(どさんこ)で大変身近なせいでしょうか、いつもとは一味違った感動を覚えますし、誇り高いですね。「HOKKAIDO」がまた世界ブランドになりました。

 昨年11月9日のこの欄(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=2583)に、ノーベル賞の理念ほかを書き留めました。本来の意図が十分日本では伝わっていない部分もあり、特にノーベル平和賞の位置づけについては、中国の反応を見ていると、彼らも十分把握していないのではないか、と思われますね。国際社会の中で、なぜ今回、劉暁波さんにノーベル平和賞が授与されたのか(http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20101008-OYT1T01158.htm)を、冷静に受け止めるべきだと思いますし、同時にノルウェーのノーベル委員会の決定にも敬意を表します、受賞理由が実に明快です。

 2001年に名古屋大学の野依良治先生がやはりノーベル化学賞を受賞された時(http://www.natureinterface.com/j/ni05/P24-28/)に、北大薬学部の先生が、「この分野は、日本の研究レベルが世界をリードしている」とおっしゃっていました。今回それを証明するかのように、お二人の先生が幅広い分野への応用を可能にする技術で受賞でした。ただ、懸念されることは、これまでの受賞者もそうですが、その殆どの研究が1970年代に為されている成果であることです。

 2000年代小泉政権時代に、国の自然科学に対する研究費が大幅に傾斜配分されて、基礎研究等への「投資」が必ずしも十分にはされていません。高等教育機関への資金も他の先進諸国に比べて、大変見劣りのする金額となっています。独立行政法人化により、研究の成果を近視眼的に追及されるとった弊害も指摘されています。政権交代後の「仕分け」でそうなったという方がいますが、それは事実と違います。間違いなく、小泉政権時代の「競争原理の導入」が直接の契機です。

 今回の受賞をきっかけに、自然科学系研究への関心が高まり、基礎研究分野でも日本の力を発揮して貰いたいものです。秋山財団の24年間の研究助成が、少しでもお役に立っていればとささやかな期待もしたいですね。そして、今後の助成活動にも大きな励みとなりました。ノーベル賞受賞だけがゴールでは勿論ありませんが、研究者の皆さん、これからのご活躍を祈念しています!!!

ビハール号事件(1)

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  私は今、自分の時間を以前よりも持つことができるので、明治維新から今日までの近代の歴史を振り返りながら、検証らしきことをしています。特に、戦後のA・B・C級戦犯の検証、実際に足を運び、ヨーロッパでのナチスによるホロコースト、中国での日本軍による数々の事実を自分の目で確認し、新たな歴史的課題も見えてきました。

 そんな中、ある意味では思いもよらなかったのですが、ごく身近に私の知らない一つの「事件」があったことが最近分かりました。それは、旧日本海軍の重巡洋艦「利根:http://military.sakura.ne.jp/navy/c_tone2.htm」による「ビハール号事件」です。これから何回になるか分かりません、身内にも関係する重要な事実ですので、どんな展開になるか予想もつきませんが、追いかけてみようと思っています。

 これまでこの欄に数回書いている通り、私の父は4年前に亡くなりました。海軍兵学校66期卒で、キスカ撤退では旗艦「阿武隈」の、レイテ沖海戦では重巡洋艦「利根」の通信長として作戦に従事しました。その後、広島県江田島の海軍兵学校分隊監事で終戦を迎えました。

 没後に、私たち家族の発案で追悼集「絆」を発刊し、その中で私は父の思い出として次のように書きました。~~~~~

・・・・一方で私は、海軍兵学校時代の生活、キスカ撤退作戦、レイテ沖海戦等の最前線の経験を何回も聴いていた。とりわけキスカ撤退作戦での木村昌福司令官の勇気ある決断に関しては、旗艦「阿武隈」の通信長として身近にその現場を体験して、企業経営者としても社内報等で「バランスの重要性」として繰り返し強調していた。

 ある時に、自宅2階の自室で、戦争で生き残った者の苦しみについて静かに語ったことがあった。沢山の人間が戦争で無くなった悲しみは私には容易に感じても、父が言う生きて帰って来た人間の「その後の苦しみ」というのは、つい最近まで理解できなかった。ススキノのカラオケでも軍歌を歌う気にはなれない、戦争を賛美していた人間が戦後途端に反戦論者になっているのは許せない、今でも戦争が起これば自分は戦地に赴く、と戦争を巡る場面では、父はかなり頑固なこだわりを持ちつづけていた様な気がしている。

 そんな父ではあったが、入院中の夜中のベッドで、「火事だ、火事だ、水を」とうわ言の様に叫んでいる様子を聞いた時、それが戦艦の甲板での消火活動ではないか、と直感した時があった。自ら志願した海軍将校の人生ではあっても、心の底に沈む恐怖の存在を、私は数少ない場面ではあったが父の心の中に見た思いで、強い衝撃を受けた。・・・・・ ~~~~~~~~~

 4年前にこれを書いた時、私は勿論今回の「サ号作戦」については知る由もなく、ただ、「うわ言」に衝撃を受けていた、そんな自分でした。昭和19年に、キスカ撤退作戦の後、父は重巡洋艦「利根」の通信長として作戦に従事し、インド洋上での通商路破壊作戦(サ号作戦)に参加しました。そこで起きたのが「ビハール号事件」です。父は終戦後、海軍施設の進駐軍の接収・移管業務を済ませて、札幌に移りました。昭和22年に香港の戦犯裁判の証人として、ほぼ1年間程(その後、2・3カ月だと分かりました)、香港に滞在していたことは分かっていますが、それがどんな裁判だったのか、その辺りがこの事件を知る多少の手掛かりになります。私は、父からキスカ撤退作戦、レイテ沖海戦については話を聴いていましたが、インド洋上での作戦は一度も聴いた記憶がありません。

 4年前に青山淳平・著『海は語らない―ビハール号事件と戦犯裁判(http://www.7netshopping.jp/books/detail/-/accd/1102322644)』(光人社刊)が出版されたのを最近知り、すぐに読んでみました。「なぜ捕虜は処刑されたか、救助した捕虜111名、うち65名をその後殺害した衝撃の真相。英国商船乗員乗客「処分」事件」、或いは「英国戦争裁判・香港法廷の実情」とも書かれています。この本には私の父の名が、まるで映画のシーンを見るかのように数か所リアルに出ていました。

 私は、まずは自分で過去の資料を調べようと思い、先日市ヶ谷の防衛省に行ってみました(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=5391)。そこの職員に問い合わせた所、戦史・艦日誌等は市ヶ谷にはなく、別の場所に所蔵されていて、閲覧も出来ることが分かりました。何かの機会に時間を取って調べようと思っています、なかなか時間的都合もあり難しい作業になりそうですが、しっかり真実を見極めたいですね。

 戦争の検証は他人事ではなく、自分の家族の人生の検証になってきました。

経済成長と医療を考える

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  医療経済研究機構(http://www.ihep.jp/)による第16回シンポジウム「経済成長と医療を考える」が開催されました。

 ○ 基調講演: 『医療政策の難しさを考える~中医協委員としての経験から~』

          伊東 光晴 氏 (医療経済研究機構 所長)

 ○ パネルディスカッション

  コーディネーター:南 砂 氏 (読売新聞東京本社 編集委員:http://www.odh.or.jp/minami/minamisuna.html

  パネリスト:河北 博文 氏 (河北総合病院 理事長:http://kawakita.or.jp/honin/rijichou.html

         島崎 謙治 氏 (政策研究大学院大学 教授:http://www.grips.ac.jp/jp/files/shimazaki_kenji.html

         邊見 公雄 氏 (全国自治体病院協議会 会長:http://www.jmha.or.jp/outline/outline01.html

パネルディスカッション

パネルディスカッション

 今回のこのフォーラム、さらなる経済成長を見込むことが難しい現状の中で、国民皆保険を堅持しつつ、量・質ともに十分な医療を提供し続けるためには、どのような改革が必要か、医療提供側と医療を享受する側から議論を深めることが目的でした。

 更に、2010年6月18日に閣議決定された菅政権の「新成長戦略:http://www.kantei.go.jp/jp/sinseichousenryaku/sinseichou01.pdf」、その中で「強みを活かす成長分野:(2)ライフ・イノベーション」で、医療自体が経済をけん引するという発想をどう考えるか、「混合診療の拡大」、「メディカルツーリズムの推進」等をどう受け止めるか。

 最後に、「国民皆保険制度の将来像」についてもパネリストは展望されていました。

 「医療」自体が日本の経済成長を「けん引」する力があるかどうかについて、経済成長は枠の拡がりをもたらす必要があり、社会保障・医療は所得の再分配であり、皆さん少々懐疑的ではありましたが、「医療」、「教育」が日本の基幹事業であることに認識の違いはありませんでした。そしてこの10年程は、どちらもまともな議論も無く推移していることに、大変な危機感をにじませています。私自身、教育基本法の改訂では、今の政治家たちの見識の無さに憤りを感じました。

 久しぶりに河北先生とお会いしましたが、相変わらずの論客ぶりでした。想い出します、20数年前に、河北先生を含む東京の病院経営者の皆さんと、当時の「JCAHO:現在はJoint Commission(http://www.jointcommission.org/)」はじめシカゴ大学病院管理学講座、ServiceMaster社(http://www.servicemaster.com/)他、アメリカの医療現場を訪問しました。突っ込んだ意見交換のやり取りは、今でも忘れられません。

新渡戸の理念を受け継いで・・・

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 札幌市内には、新渡戸稲造・メアリーのゆかりの地が、幾つかあり、その中の一つ、札幌市中央区にある「Let’s中央」内の「遠友夜学校記念室:http://www.city.sapporo.jp/kyoiku/youth/enyuyagakko/index.html」も貴重な場です。ここは、1894(明治27)年に創立された遠友夜学校の跡地です。

札幌市Let's中央内・遠友夜学校記念室

札幌市「Let's中央」玄関横で

  資料室内には、新渡戸稲造自身の書が掲げられています。

 まずは「学問より実行」、これは「知ることよりも実行すること」の意で、更に実行るすることよりも自分が自分として存在することに価値がある、と続きます。

学問より実行

学問より実行

  次は、「去華就實」、「うわべだけの華やかさを取り去り、実質のともなった確かな人格形成」を説きました。

去華就實

去華就實

  更に、「心清者福也」、「心が清く誠実な者は、結局は幸せな人生を送ることができる」と言った意味でしょうか。

心清者福也

心清者福也

  最後は、「With malice toward none, With charity for all !」、アメリカ合衆国第16代・リンカーン大統領の言葉で、「何人にも悪意を抱くことなく、慈愛をもって生きよ!」です。

リンカーンの言葉より

リンカーン大統領の言葉より

 パンフレットには、「札幌のボランティア活動の原点がある」と書かれています。1944(昭和19)年の閉校まで、50年に渡って多くの方々の支援によって支えられました。不十分な教育制度のすき間を埋めながら、希望の灯りをともし続けた、まさに新渡戸稲造・メアリーの崇高な理念と、市民の共感が結実した貴重な教育実践だと思います。「生きる力」を育てる目的の「リベラル・アーツ教育」、その出発点が、軍国主義への道を走る時代にこの札幌の地にあった意義を、今私たちはしっかり噛みしめるべきですね。

新渡戸稲造と妻メアリーの精神

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  「現代を生かす新渡戸稲造と妻メアリーの精神(こころ)――教育と平和」と題して、東京女子大学(http://www.twcu.ac.jp/)前学長・湊晶子先生のご講演でした。湊先生は、秋山財団の一つの事業「新渡戸・南原賞:http://www.akiyama-foundation.org/nitobe/」で、その運営委員会メンバーのお一人です。この賞を秋山財団が受け継いだ経緯は一昨年のこの欄に掲載しています(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=35)。

素晴らしいご講演でした

素晴らしいご講演

  前日の夜は、お忙しい中お時間をとって頂き、夕食をご一緒にする機会もあり、じっくりお話を伺うことができて光栄でした。昨日のご講演も含めて、体が感動で震えるとでも言うのでしょうか、素晴らしいメッセージの数々でした。

 新渡戸稲造はご承知の通り、初代の東京女子大学・学長、湊晶子先生は、新渡戸稲造の妻メアリーの研究でも有名な方です。札幌ANAホテル玄関横に、1891年1月1日にアメリカで結婚されてすぐに帰国、札幌農学校教授となった時の官舎跡碑があります。写真の2階窓から姿を見せているのがメアリー夫人です。別件ですが、この年に秋山愛生舘が地元企業として創業しています。恐らく札幌の街中のどこかで、新渡戸稲造・メアリーと初代秋山康之進が出会っていたかも知れません。

札幌ANAホテル玄関横のパネル

札幌ANAホテル玄関横のパネル

 1894年に遠友夜学校(http://www.city.sapporo.jp/kyoiku/youth/enyuyagakko/index.html)を創立し、初代校長に稲造が、没後妻メアリーが就任しました。 

 湊先生は、第13代の学長、卒業生では初めてで、女性では安井てつ先生に次いで2番目です。新渡戸稲造とメアリーの教育者としての足跡、特に女子教育への造詣、平和主義者としてのメッセージを語られました。著書では、『新渡戸稲造と妻メリー』、『女性を生きる』ほか多数あります。以下昨日のお話からいくつかを。

* 稲造はジャンヌ・ダルクが好きだった?――大学に所蔵されている資料のかなりの部分は彼女に関わるもの

* 二人が実践した「リベラル・アーツ教育」は、いわゆる「一般教養」などではなく、「自信」と「喜び」を通して得られる「生きる力」そのものである

* 知識として教えられることをすべて忘れた後に残っているものが教養である

* 人はどこか動じないところ、譲れぬという断固とした信念がなければならない

* 「太平洋の橋」として、『武士道』を英語で出版した。副題は「Sole o Japan:日本の心」、「武士の心得」を書いたものではない

 湊先生は、最後に「二人から現代へのメッセージ」とおっしゃって、講演を結ばれました

1) 一人称で語れるわたしに ―― To know, to do, to be :知ることよりも実行すること、実行することよりも私が私として存在することがまず大切で、価値がある

2) 責任を取り得る人物に ―― 「自分を治める」こと :Personality(人格)のないところにはResponsibility(責任)は生じない :別の表現では、「孤独に勝て」と

3) 平和をつくり出す人に ―― 「寛容の精神」、「私と公と公共」の理念を :当時は「滅私奉公」に象徴されるように「公=国家」だったが、本来は「公=個の集合体」であるはず、そして「つくり出す」のは、「参画する」ことから始まる

2004年に姿を消しましたが、左下に太平洋もありました

2004年に姿を消しましたが、左下に太平洋もありました

 お札から姿は消えましたが、私たち北海道の人間の心の原点として、再度その「精神(こころ)」を見つめ直したいものです。ゆかりのある場所は、大切に保存し、札幌市民として一層誇り高い場所としていきたいですね。

 湊晶子先生、貴重なお話の数々をありがとうございます、心から感謝申し上げます。

愛生舘の「こころ」 (13)

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 大阪に出張のついでに、少し足を伸ばして、以前から一度行きたかった東大阪の「司馬遼太郎記念館:http://www.shibazaidan.or.jp/」を訪問しました。

 地元ボランティアの方々が管理・運営されていました。多様な植物の茂るお庭を通り、圧巻は記念館内の天井までの大書架に収納されている数多い著書の存在、地下ホールのビデオも彼の立ち位置を理解する手立てとなります。

「沖縄に住む人は原倭人の姿」、「時空の旅人」、「可視的な過去」、「本土が沖縄に復帰する」、「土地は社会のもの」等、印象に残る言葉の数々、心に沁みます。

庭から書斎を眺める

庭から書斎を眺める

記念館のエントランス

記念館のエントランス

   地下1階の壁に掛けられた「21世紀を生きる君たちに:http://gogodiet.net/Forkids.htm」の全文、素晴らしい文章ですね。分かりやすく、眼差しが優しく、率直に訴えるメッセージ、司馬遼太郎の原稿と校正の過程が分かる資料も挿入された著書を、記念に買いました。

 パンフレットには、「見ていただくと同時に、この空間で、司馬作品との対話あるいは自分自身との対話を通じて何かを考える、そんな時間をもっていただければ、と思います。この記念館は、展示品を見るというより何かを感じ取ってただく場所でありたいと念じています。・・・・」と書かれています。資料のメモ書き、付箋のついたそのままの状態の本は、司馬遼太郎の取材・執筆に対する真摯な姿勢を感じます。
 
 この記念館のそばに、実はもう一つ尋ねてみたい場所がありました。今年7月に美瑛町に行った時、砦のような「新星館」を訪問し、大島館長にお会いしました(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=4855)。その大島館長の本業が、東大阪の司馬遼太郎記念館近くのお好み焼き屋「伊古奈」と聞いていました。先日、少し探して見つけましたが、残念ながら今年1月で閉店し、隣で喫茶店として新たなスタートのようです。 

「伊古奈」は1月に閉店していました

「伊古奈」は1月に閉店していました

 なぜ、司馬遼太郎記念館が「愛生舘の『こころ』(13)」か?彼の著書「胡蝶の夢:http://webkohbo.com/info3/bakumatu_menu/turedure03.html」に、松本良順(順の前の名)が登場するからです。良順の人生について、長崎での医学伝習、第14代将軍徳川家茂の臨終に大阪城で立ち会ったこと、新撰組土方歳三との出会い等、臨場感いっぱいです。

 書斎の前庭に立つと、司馬遼太郎さんが戸の向こうから現れて来るような気がする程、「そのまま」でした。

旅の余韻(3)

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 「これでお仕舞い」といって続けるのは、学生時代の千葉県稲毛海岸の潮干狩りみたいです(分かる人にしか分からない?)。

 手元にある写真を見ていると、「旅の余韻(3)」となってしまいました。北京と東北部の点の訪問でしたが、それぞれの光景が忘れられません。

* ハルピンの中央大街(キタイスカヤ通り):まさにロシアの雰囲気です。中秋節を前にして月餅(げっぺい)の大量販売がすごかったのですが、結局買いそびれました。

* ハルピンのスターリン公園での集会:未だに「スターリン」名を戴く公園は珍しいですね。像の奥は松花江(しょうかこう)で、冬は凍結してトラックでも横断できるそうです。大洪水の水位を記録した設計の記念碑、河岸の公園でそれぞれにくつろぐ市民の姿、素晴らしい光景でした。

* 北京の胡同(フートン):昔の風情をを偲ばせます。地元の若者が多かったような気がします。

* 北海道はブランド?:胡周(フートン)に並ぶ店の中に、「北海道」を名乗っている人気の店を見つけました。たこ焼きみたいな商品を売っていました。

「北海道」がブランドなのでしょうね

「北海道」がブランドなのでしょうね

 日本に戻ると、わずか一週間の留守の間に夏からすっかり秋になっていました。更に、まとまって新聞を読み返すと、中国漁船問題が連日大きな見出しと記事に。その言葉が「屈する」だとか「弱腰」だとか、何とも感情的文言が多く驚きます、どの新聞もですよ。大使館前のちょっとしたデモで、「中国世論」みたいな報道はやめてほしいですね、あの天安門広場・故宮の人の「群れ」から見れば、そんなに大げさな話ではないでしょう。

 歴史問題(犯罪)を直視しないその裏返しで、アジア関連での反射的・感情的表現の氾濫が目立ちます。大きく変わってきている世界情勢、新しい時代の「枠組み」づくりには、新しい担い手たちの登場が必要な気がします。

 9月も今日で終わり、旅の余韻は、今度こそ、本当に区切りとします。

私達には夢がある!旅の余韻(2)

Posted by 秋山孝二
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 札幌市北京事務所・角田貴美所長にご紹介して頂き、今の北京を肌で感じることが出来ました。 

 まずは、今中国で活躍する若手ビジネスマン二人との濃密な意見交換 でした。「過去の歴史を認識した上で、しっかり前を向いて一緒に歩いて行ける若者との輪を広げていきたい」、と情熱を傾ける角田さんのご推薦だけあって、30代後半の若い二人は、「私達には夢があります!」と目を輝かせて約2時間意見交換をしました。本当に久しぶりの感動でした。数日間の私自身の重たい気持を取り払うような前向きな言葉と表情に、「確実に新しい時代がやって来ている」ことを実感致しました。

 彼らは十分日本語が上手ですが、友人には一度も日本に行ったことはないけれど、もっと言葉が上手で事情に詳しい者がいると。その友人はアニメとゲームで日本語を覚え、東京・秋葉原のどの店で何を売っているか、全てインターネットから情報を手に入れて承知しているとのことでした、新しい時代の到来ですね。

 次は、広大な景山公園(http://www.joyphoto.com/japanese/abroad/2002beijing/keizan.html)、天壇公園(http://www.arachina.com/attrations/beijing/tiandanpark/index.html)等のコミュニティの原点の場に感動でした。カラオケ大会、京劇のけいこ、軍事将棋に興じる一群、それぞれ地元市民が自然な形で人だかりを作り、一緒に楽しんでいる様子は、日本では近年見ることが出来ない光景です。「音が大きすぎてうるさい!」、「芝生が傷む!」等、モンスタークレーマーの申し入れで、昨今、居心地が悪くなっている札幌の公園ですが、どうしてそんな雰囲気になってしまったのでしょうか。とにかく、市民の間にコミュニケーションが自然な形で創り上げられているのですね、札幌も是非そんなマチにしたいものです。

カラオケを囲む200人以上の市民

カラオケを囲む200人以上の市民

京劇の練習

京劇の練習

 三つ目は角田さんのお勧めだったので、夜にツアーメンバーで行った「LEDによる壮大なアニメ(長さ200メートル、幅20メートル、高さ20メートル?)」の巨大天井スクリーンです。「This is China!」と言わんばかりの象徴的な場所でしたね、故宮⇒抗日記念館⇒LED天井通り、それぞれ時代を代表する北京のシンボルなのでしょう。

LEDでの天井映像(200メートル×20メートル)

LEDでの天井映像(200メートル×20メートル)

  最後は、街なかのファストフード店の看板です、しっかり翻訳(?)しての漢字名は、当て字が絶妙ですね。

ケンタッキーフライドチキン

ケンタッキーフライドチキン

マクドナルドハンバーガー

マクドナルドハンバーガー

スターバックス珈琲

スターバックス珈琲

 「China、 Now」、今の中国を間近に見ることが出来ました、次回行くと、また大きく変わっているのでしょう。ツアーメンバーの皆さん、お世話になりました!

なお続く旅の余韻(1)

Posted by 秋山孝二
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 今回の訪問先は、それぞれ重い場所ばかりでしたが、北京の「中国人民抗日戦争紀念館:http://j.people.com.cn/94638/94658/7131285.html」で、当時、現地に点在する村に対して、日本軍の「『集団部落』化の強制」という施策が目に飛び込んできました。「限界集落」を設定し、「平成の大合併」と称しての村の合体を促した最近の動きとダブリました。永年その地に暮らす人々の居住地を、意思に反して強制的に移動・変更することは出来ません。まして武器と刀で追い立てての強制移住は、恨み・憎しみを増幅するだけになったのでしょう。

 もう一つ、10数年前に訪問した時は、今回よりも毛沢東の存在感があったような気がします。今回私の目に触れた彼の肖像は、通貨の人民元紙幣の中、天安門の大きな肖像画、そして瀋陽の広場での巨大な像だけでした。「タクシーを止めようとしている姿」、「賭けごとは五元までですよと言っている姿」とか、地元の方から冗談も出る程、その意味あいも昔とは随分変わってきているのかもしれません。時の流れとでもいうのでしょうか。 

西方を向く巨大な毛沢東像

瀋陽:西方を向く巨大な毛沢東像

  関東軍731部隊の敷地内記念館では、「マルタ」と称されて「実験材料」となった中国人犠牲者の名を刻んだ墓標の回廊も忘れられません。

犠牲者の名前一覧の回廊

犠牲者の名前一覧の回廊

  そして、昨年のアウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所でも象徴的だった鉄道引き込み線が、ここにも敷かれていました。この上を一体何度「マルタ」を運ぶ列車が通り抜けたかと考えると、胸が詰まる思いです。

「マルタ」を運んだ引き込み線

「マルタ」を運んだ引き込み線

中国:瀋陽、北京で

Posted by 秋山孝二
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 この欄は、本来、北京で滞在した「北京飯店:http://www.chinabeijinghotel.com/en/index.html」からアップしようとしましたが、今回の旅行で最も高級(五つ星)だったホテルで意外にも回線が上手くつながらず、少し遅れてしまいました。「高級」とは言っても、この件でフロントに連絡した際のホテル側の対応たるや、日本では考えられない高圧的な態度でスピードも無く、日本の三流以下ですよ、サービス業における中国の後進性を目の当たりにしました。「伝統」、「歴史」は今の優れたサービス価値につながって初めて意味を持ってくるはずです。別に私は、この所の事件によって中国に対して感情的に言っているのではありません。

 瀋陽では、「“九・一八”歴史博物館:http://www.918museum.org.cn/」を訪問しました。1931(昭和6)年9月18日午後10時20分頃、瀋陽市(当時は「奉天」)北の柳条湖で満鉄(南満州鉄道株式会社:http://web1.kcn.jp/mantetu/)線路上爆発が起き、日本でいう「満州事変」、そして以降、対中国との15年戦争の始まりとなりました。瀋陽市では、毎年9月18日午後9時18分に全市一斉に車は止まり、クラクションをならし、この博物館敷地内にあるつり鐘もつくようです。

博物館前広場に建つモニュメント

博物館前広場に建つモニュメント

  「勿忘国恥:古い歴史を忘れるな!」の文字で始まる展示は、今を生きる両国国民にとって、以降の忌まわしい歴史となりますが、眼をしっかり見開いて留めておかねばなりません。広大な博物館には事の始まりだけではなく、抗日戦争を戦った中国人の歴史、関東軍731部隊、平頂山虐殺、溥儀の即位、戦犯裁判等、幅広い内容で、最後は日本人有志から贈られた「中国養父母感謝碑」で結ばれています。

 そして1956年7月1日から20日にかけて瀋陽で行われた「中国最高人民裁判所特別軍事法廷:http://japanese.china.org.cn/jp/txt/2010-09/06/content_20873810.htm」は、日本人戦犯28名の公開裁判を行い、その場所が市内に残っています。現在はかなりさびれた映画館跡となっていますが、近いうちに修復・保存されて記念館となるそうです。この裁判では絞首刑は一人もいなく、最高刑で懲役18年、それも数年後の恩赦で大幅に刑期が短縮され、日本に戻って来ています。この間収容されていたのが、先の撫順の「戦犯管理所」です。

1956年7月から20日間、軍事法廷が開催された場所

1956年7月から20日間、軍事法廷が開催された場所

 

 北京に移動して、「中国人民抗日戦争紀念館:http://j.people.com.cn/94638/94658/7131285.html」を訪問しました。

紀念館正面

紀念館正面

  ハルピン・撫順・瀋陽と廻ってここに来ると、ここは何か「総集編」とでも言うのでしょうか、そんな感じですね。1937年7月7日、盧溝橋での日中両軍の衝突で事実上始まった日中戦争、更に時間軸を拡げて15年戦争という捉え方、そしてこの館の建設意図は、「抗日戦争の歴史的意義」ですね。すなわち抗日戦争はアヘン戦争依頼、中国人民により外国侵略に対抗する戦争の中で初めて完全勝利した民族解放闘争であり、それ故に巨額の投資をしたのでしょう。「日本軍の暴挙」を説明する場は他と同様ですが、後半の「道得れば助け多し」で表現される「国際支援を得た闘い」というフレーズは新しい意図を感じました。最後は、「歴史を戒めの鑑として、未来に目を向ける」と結ばれています。

1945年9月9日:南京での日本軍降伏調印の場の再現

1945年9月9日:南京での日本軍降伏調印の場の再現

  日本人は、「第二次世界大戦はアメリカに負けた」意識が大変強く、「中国に負けた」とはあまり感じていない(思いたくない?)のではないでしょうか。それも「アメリカの物量に負けた」という総括が主体ですので、その誤った意識が戦後の高度成長期を経てバブル期まで影響しているように思います。戦後の軍事法廷もA・B・C級戦犯裁判はある程度関心を持っていますが、中国本土での戦犯裁判についてはかなり認識も薄いですね。中国にはなぜ負けたのでしょうか?総括がまだ済んでいないような気がします。

盧溝橋

盧溝橋

 盧溝橋の写真、橋の右手には水があり左手は水が枯れている、本来は「水が枯れている」のですが、この記念すべき場では風景的に水があった方が良いという判断(誰の判断かは判りませんが)で、水の汲み入れ工事を行ったそうです。「環境後進国」のイメージはまずい(?)との判断でしょうか。

 重たい「歴史の検証」の旅は、ひとまずこれで終わりました。今回も旅システム(http://www.tabisystem.com/の企画で、お世話になりました。

中国:瀋陽郊外の撫順で

Posted by 秋山孝二
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 瀋陽(旧満州時代の奉天)は札幌の姉妹都市でもあり、人口700万人の大都市です。街の中心部は地下鉄工事はじめ、大型建設プロジェクトのクレーンが林立し、郊外では高層マンション建設が数多く進んでいます。

 瀋陽から約1時間半、工業都市・撫順の高台にある平頂山遺骨館(http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou09/kaihou095.html)を訪問しました。その会議室で、奇跡的に生き残ったヨウ・ギャク・フンさんの証言と質疑応答は初めて聴く事柄が多く、実に重いひと時でした。今年87歳を迎えるヨウさんは、大変明確なお言葉で、当時の様子をしっかりと語られました。日本兵が突然夜にやって来た時、日本刀をかざすその姿は一生忘れられない、と。家族24人のうちで生き残ったのは6人だけで、今生きているのは自分一人、生きている人間がこの惨劇を語らなければならない「責任」を強く感じている、と静かにお話をされました。

 また、今も当時の憲兵隊・兵士たちに対する憎しみは消えないが、その後謝罪に来た元日本兵もいるし、今生きている若い世代とは、しっかり平和を築くために日中友好への努力をしなければならない旨を語っていました。ヨウさんは今月末に来日予定で、札幌にもお越しになるそうです。

奇跡的に生き残ったヨウ・ギャク・フンさんの証言

奇跡的に生き残ったヨウ・ギャク・フンさんの証言

 証言を聴いた後、隣の遺骨館に行きました。ガラスの窓の下に並ぶおびただしい数の人間の遺骨は、あるものは刀のキズあり、あるものは一見して障害を持った方とわかり、母親と子と思われる情況もありました。本多勝一の「中国の旅:http://www.amazon.co.jp/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%97%85-%E6%9C%9D%E6%97%A5%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%9C%AC%E5%A4%9A-%E5%8B%9D%E4%B8%80/dp/4022608056」で公になり、当時は彼への個人的バッシングも含めて、大変な論議があったようです。

発掘された800体以上の遺骨

発掘された800体以上の遺骨

  

 続いて、撫順戦犯管理所(http://www.geocities.jp/t111313/china-n-e/senpan.index.html)です。今年6月に新装オープンした奥の展示館は、ことの外新しいデザインで、注目を集めます。周恩来の見識の高さ、人物の大きさにあらためて感動しますね。めまぐるしく変わる時代に、この場所の機能・名称も何回か変わっています。その後、ここに滞在した日本人が帰国して「中帰連:http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/other/gaiyou.htm」を結成し、日中国交回復にも大いに尽力されました。数年前に発展的に解消して、新たな活動を展開しています。

今年6月に新装オープンした展示館

今年6月に新装オープンした展示館

 昨年訪問したアウシュヴィッツでお話されたポーランド・レジスタンスのスモーレンさんは、「アウシュヴィッツで今、何が起こっているかの事実を伝えることが最高のレジスタンスだ」と、そして奇跡的に生還した後は、「生き残った者の責任として、自分の経験を社会に伝えていく、それが命を落とした人間達の願いでもあるだろう」と私たちに語りかけました(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=1457http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=1501)。

 今回のヨウさんも、全く同じく「生き残った者の『責任』」というメッセージを残されました。私は「証言を聴いた者の責任」を強く感じます。平頂山のあの場所には悪夢の再現で行きたくはない、とおっしゃりながら来て頂いたことに、あらためて心からの感謝を申し上げます。一方で、日本では「そんな事実はなかった」、「3000人の犠牲者はねつ造」といったレベルでの一部の議論に、特有の責任回避・転嫁を感じます。記録・資料を焼却・廃棄しておいて、一体何を語ることが出来るのか、そんな憤りにも近い思いをここでも感じてしまいます。

中国:ハルピンで

Posted by 秋山孝二
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 昨年6月、プラハ・アウシュヴィッツ他を訪問したグループで、今年は中国に「検証の旅」です。

 韓国・仁川(インチョン)空港、香港空港はアジアのハブとして目を見張りますが、15年ぶりに行った北京空港もそれを上回る広大な敷地・建物で、まさに中国の勢いを象徴するかのようでしたね、オリンピック・万博を目標に国家的プロジェクトで整備したのでしょう。でも、訪れるお客にとって、必ずしも「大きいことは良いことだ」ではない辺りが、難しい所ですね。空港でのインターネット・アクセスは大変便利ではありますが。

国内線のロビー:面としての広大さを感じます

国内線のロビー:面としての広大さを感じます

 深夜にハルビン市内のホテルに到着して、早速部屋でインターネットに接続しましたが、日本では見られる幾つかのサイトがアクセスを拒否されました。事前に多少は聞いていましたが、何かのスクリーニングが掛っている様子です。

 

 旧関東軍731部隊(http://sakura4987.exblog.jp/4958898/)の本部が置かれていた場所は、ハルピンから約1時間の場所です。広大な敷地は今も残されて陳列館となり、その周辺には関連施設で終戦直前に自ら破壊した発電所跡、凍傷研究所等跡もそのまま、訪問当日は高校生・大学生と思われる団体も見学に来ていました。部隊が建設した発電所は実に頑丈で、自ら破壊する時も爆破では困難だったようで、3本の煙突のうち1本だけの破壊で退却したようです。裏に回って建物の壁を見ると太い鉄筋が何本も入っていて、皮肉にも「耐震偽装建築」とは比較にならない当時の軍関係建築への予算を測り知ることが出来ます。インターネット検索では、様々な立場からのコメントも読むことが出来ますので、ここで掲載することは省略します。

旧陸軍731部隊本部入口で
旧関東軍731部隊本部入口で

敷地併設の発電所跡:自ら破壊して撤退

敷地併設の発電所跡:自ら破壊して撤退

凍傷実験所

凍傷実験所

 すでにこの部隊の目的等は、1997年アメリカ政府の膨大な情報公開により明らかになっています、今回あらためて衝撃を受けたのは、昨年のアウシュヴィッツと同様に、「政策」として明確な意図を持って軍と医学会が組織的にかなりの期間実践したこと、そしてその間多大な犠牲をもたらして得た膨大な「医学的(?)情報」が、戦後戦争責任を裁く裁判における免罪の取引として、すべてアメリカに提出されていたことです。数年前から、関わった方々が80歳に近くなってきたからか、この件に関する証言も数多く世に公開されています。

 「政策」としてという意味は、例えば「対ソ戦」を想定した寒地での人間対応力実験、資源の少ない日本が戦争に勝利する戦略としての大量破壊兵器として「細菌兵器」の開発、自国内では出来ない「医学的」臨床実験等です。

 8月のNHKドキュメンタリーシリーズで放映された「広島・長崎への原爆投下」に関する番組で、誰よりも早く爆弾投下直後(2日後?)に日本の軍医師団が、診療目的ではなく調査目的で現地入りして、放射線障害等の貴重なデータを取得し分析し、それを731部隊同様に占領軍に提出したとの証言でした。 そしてその意図が、終戦後少しでも占領軍の心証を良くしようとの思惑からだった、とも。

 更に731部隊に責任を負う幹部たちの終戦後に就いた役職も展示されていましたが、皆戦後日本の要職が実に多く、彼らの戦争責任に対する認識、許す社会の民度の低さ等、アウシュヴィッツとは違い、同じく戦後日本を生きてきている自分自身との関係性から一層重たいものがあります。戦後の数多くの戦争裁判の検証でも、アメリカ他の連合国の思惑等、しっかり認識していく必要性を感じます。

 もう一つ、資料とかデータに関する日本人の独特の考え方ですね。国際社会では、「資料が無い」というのは、その後の検証・交渉では致命的に不利になるのは常識にもかかわらず、ただひとえに自らの「保身」、「責任回避」の為に、それを焼却・破壊して無かったことにしようとするメンタリティ、その程度の責任感・覚悟での仕事の遂行というのでしょうか。何だか何で言って、「国」、「国民」の為になどという言葉は全くみられません。これは今の社会でも、全く変わっていないから更に課題は重いですね。戦争中の様々な残虐行為、安保・沖縄密約、事実を無かったことにしようとするそのことが、歴史に対する冒とくですし、それを乗り越えて進化しようとする力をそぐものです。私たちの世代の責任は、とにかく事実を事実として認識して、二度と同じような過ちを繰り返さない社会づくりを日頃から地道にすることしかないのでしょう。

 もう一つ、ハルピン市内の「東北烈士紀念館:http://www.mediabahn.co.jp/china/tiiki/tohokud7.html」では、抗日戦争で戦った女性戦士「趙一曼」に関する展示・説明が印象的でした。信念に生きる一人の女性の姿、また一人の子供へ託す自らの意思といのちの連鎖、今、中国・ハルピンに居ることを忘れて、無言でしばしたたずむばかりでした。

朝日地球環境フォーラム2010

Posted by 秋山孝二
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 今年で第3回目、「朝日地球環境フォーラム2010:水と緑と太陽と」が開催されました(http://www.asahi.com/eco/forum2010/)。混み合うとの事前メール案内があったので、約1時間前に会場のホテルに行きました。入口付近でビラ(冊子)を配る市民団体風の方々、受け取って後で読むと「武田薬品湘南工場跡・湘南研究所建設」に反対する内容(http://www.shounan.biz/)でした。

 会場入り口は物々しく、空港と同じ手荷物検査機による警備でガードマンも数多く配置され、その中をくぐり抜けてやっと「一般・公募出席者」の座席にたどり着きました。オープン前の舞台に向かった光景が下の写真です。私たち「一般(?)」の前は、「講師席」、「講師関係者席」、「特別招待席」、「関係者席」の各札が張り巡らされて、前方全て、全席の3割くらいはこれらに割り当てられていましたでしょうか。 

ある種、異様な光景でした

開始前、ある種、異様な光景でした

  ちなみに、フォーラムが始まり、「講師席」、「講師関係者席」は6割程度埋まり、それ以外の指定枠はほとんど空席のままでした。別の目的を意図したと思われる奇妙な光景でした。翌日の紙面では、勿論、ただ演壇上だけが掲載されていましたが・・・・。現場に居なければ分からない臨場感(?)でしたね。

 フォーラム・パネル参加者(http://www.asahi.com/eco/sympo2010/speakers/index.htm

 パネラーの皆さんはそれぞれ論客ぞろい、オリビア・ラム(http://globe.asahi.com/feature/090525/01_1.html)さんは特に魅力的でした。アメリカのパトリック・クローニン(http://amesei.exblog.jp/10543824/)さんは、新しい日米関係を象徴する「グリーン同盟:Green Alliance」を提唱しましたが、風貌からは「環境系」というより「国家安全保障系」という感じではありました。

 武田薬品工業(株)(http://www.takeda.co.jp/about-takeda/message/article_88.html)の長谷川閑史(やすちか)社長は、冒頭に「日本は水に恵まれていると思っている人たちが多いが、大変な間違いである。食料の外国からの大量輸入は、取りも直さずそれぞれの国・地域の水を消費して初めて成り立っていることを認識しなければならない。そう考えると、日本人をまかなう「淡水」は枯渇の危機にある」と語られました。公益社団法人経済同友会・副代表幹事でもあり、昨年の経済同友会・全国会議が札幌で開催された時(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=1272)に、個人的にご挨拶をさせて頂きました。原子力発電へのコメントには違和感がありましたが、グローバル経済での豊富な経験に基づき、含蓄のあるコメントでした。

 パネルディスカッションの前に、京都造形芸術大学教授・Earth Literacy Program代表・竹村真一先生のデモンストレーションでした。デジタル地球儀「触れる地球:(http://www.elp.or.jp/video/tangibleEarth/index.html)」を使ってのパフォーマンス(!)は強く印象に残りましたね、本当に宇宙からリアルな地球を眺めている感じでした。2年前のG8・洞爺湖サミット開催時、留寿都の国際メディアセンター(IMC)で「五つの触れる地球:http://www.tangible-earth.com/tearoom/」を見ましたので、久しぶりの再会でした。秋山財団もパートナー企業で参加している「日刊温暖化新聞」にも登場しています(http://daily-ondanka.com/thoughts/tkmr_01.html)。

 「水問題」は、「食糧問題」、「エネルギー問題」、「安全保障問題」であり、国際社会の中での未来に向けた議論が必要なのでしょう。「Natural Security」、「Green Alliance」等、いろんな言葉が飛び交っていました、この分野で日本のイニシアティブは、本当に重要だと思います。朝日新聞社のこのような取り組みに敬意を表します。

映画「キャタピラー」の迫力!

Posted by 秋山孝二
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  若松孝二(http://www.wakamatsukoji.org/blog/)監督、映画「キャタピラー:http://www.wakamatsukoji.org/」は大変な迫力でした。すでにご承知のように、寺島しのぶは、2010年ベルリン国際映画祭コンペティション部門・銀熊賞最優秀女優賞を受賞しています。み終わって、夫役・大西信満(しま:http://www.stereosound.co.jp/hivi/detail/feature_843.html)にも何か賞を差し上げたい気持です、「ド迫力」とはこのことでしょうね。久しぶりにスクリーンの映像に釘づけになりました。

 ちなみにベルリン国際映画祭は、ドイツのベルリンで毎年2月に開催される国際映画製作者連盟 (FIAPF) 公認の国際映画祭。カンヌ国際映画祭(http://www.festival-cannes.com/jp.html、ヴェネツィア国際映画祭(http://www.labiennale.org/it/Home.html?back=trueと並び、世界三大映画祭のひとつに数えられています。

 ラストの歌、元ちとせ(http://www.hajimechitose.com/)の「死んだ女の子:http://www.youtube.com/watch?v=EmsRNQ57f1M」も実に素晴らしい。この歌は坂本龍一がプロデュースを手掛け、原爆投下から60年にあたる2005年8月6日に広島の原爆ドームの前で行われたパフォーマンスで一躍有名になり、今回主題歌に取り上げられたとか。どちらも個性あふれるメッセージに打たれます。

寺島しのぶの迫力

寺島しのぶの迫力

  若松孝二監督は、学生時代から同じ「孝二」で気にはなっていましたが、当時は何となく暑苦しく、独善的な印象という思い込みも私にあり、作品もほとんど見てはいませんでした。2年前の彼の作品「実録・連合赤軍あさま山荘への道程:http://www.indierom.com/dengei/secret/gin_navi/48.htm」は、そんな私の思い込みを払しょくし、同時代を生きた私に違和感なく染み入りました。そして今回のこの「キャタピラー」、映画祭の賞を取った話題作だからではなく、戦争の現実、生き残って祖国に戻った人間・家族の苦しみみたいな新しい切り口で、今を生きる人間への痛烈な問題提起でした。正義のための戦争などないという若松監督の強い思いは十分伝わってきましたし、狭い薄暗い部屋での胸に突き刺さる夫婦の会話から、「生きる」、「生きている」ことの現実も明快でした。

 映画を封切直後に観た知人は、2時間前に行ってもかなり混んでいたと言っていましたので少々心配しましたが、先日は何とか待ち時間も無く観ることが出来ました。ただ、観る側の体調も万全にしておかないと、強烈なメッセージを受け止めきれない気もしました。とにかく、「映像の力」を感じた凄い映画でした。

もう一つの25周年記念

Posted by 秋山孝二
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 秋山物流サービス(株)(http://www.suzuken.co.jp/company/group/info02.html)の創業25周年記念社員大会が札幌で開催され、ご招待を受けて出席しました。CSRの一環で秋山財団にも記念寄附を頂き、感謝に堪えません。

 この集会は、 川口敏史・新社長が新しく就任し、新体制のキックオフの意味も含めて、160名を越える社員、スズケン本社(http://www.suzuken.co.jp/)幹部、スズケンロジコム(http://www.suzukenlogicom.com/)幹部が一堂に会して、大変気迫の溢れる雰囲気でした。私にとっても久しぶりの「企業系モード」で、30分程お祝のメッセージも述べさせて頂きました。これまでの25年間を振り返ると、当日直前まで次から次へとたくさんの想い出が私の頭を駆け巡り、この間創り上げてきた価値の大きさを再確認した次第です。

私の伝えたかったメッセージは以下の通りです~~~

 * 25周年お祝い――過去を懐かしむだけでは、ただの「ノスタルジア」

 * 2002年11月に私はスズケン退社:以後も気持は常にスズケングループとともに

 * 「物流」への着目:スズケン社内報8月号「SMILE」――構造改革:MS力と物流力で勝負する

           川口社長は「物流管理・企画力とお得意さまとの信頼関係」
           私は蘇る記憶:医薬品卸業の「安定・安全供給」―――差別優位性ある機能
 
 * これまでの功労者: 最初に井戸を掘った人は誰か?

       ――’85 (有)総健物流 旭運輸武田社長ご夫妻 

       ――’91 秋山物流サービス(株)としてステップアップ

           大成建設エンジニアリング部(http://www.taisei.co.jp/index.html)木村さん、井上さん他

           :「配送効率」、「積載率」、「ABC分析」等

       ――猪股淑郎さん:組織基盤の整備、社員のモチベーション向上

 

 * 「愛生舘」のこころ: 愛生済民――広く庶民の生命をいとおしみ、いのちを救うこと

 
 * リーダーシップはフォロワーシップがあって初めて発揮されること

 

~~~~~~~~~~~

 「会社のあゆみ」を説明された村上理恵さんは、冒頭に25年前に大曲の物流センター建設着工直前、三代目秋山康之進が日記につづった文面を引用して、「物流」の原点を見つめ直す素晴らしい内容でした。

 

 スローガン表彰で今年度「最優秀賞」に選ばれた苫小牧の西島さんも、センスの良さとストレートなメッセージが印象的でした。「基本」がキーワードでしたでしょうか。今、契約社員・パートを含めて全道合わせて460名にもならんとする大所帯、新しい川口社長の陣頭指揮の下で、更なる飛躍をしてくれると期待しています。

 

 久しぶりにお会いした若いスズケン本社幹部のみなさま、難しい時代ですがどうか「勇気」を持って思いっきり活躍して下さいね。あなた方ならきっと成し遂げられますし、この業界、スズケングループの他に誰がやり遂げる力を持っているでしょうか!今日、沢山の元気をくれた皆さまに、心から感謝申し上げます。 

 

愛生舘の「こころ」 (12)

Posted by 秋山孝二
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 秋山財団の設立25周年プレ企画講演会(http://www.akiyama-foundation.org/what/index.php?year=2010&mon=08&day=06#27)で、「幕末・維新、いのちを支えた先駆者の軌跡~松本順と『愛生舘』事業~」と題して、青山学院大学名誉教授・片桐一男(http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/%95%D0%8B%CB%81@%88%EA%92j/list.html)先生が大変興味深いお話をされました。当日配布された資料も極めて貴重なものばかり、もしご必要な方は、秋山財団事務局までご連絡頂ければ、折り返し郵送か、PDFファイルでメール添付致します。

年譜を含めて全8枚の貴重な資料

年譜を含めて全8枚の貴重な資料

  1年半前に今回の講演を依頼して実現しました。素晴らしい内容で、あらためて「松本順」の波乱の人生を追いかけることが出来ました。当日会場には、自然科学系研究者の方々も多かったのですが、古文書を一字一字読み解いていくアプローチは、大変新鮮な印象を受けたと口々に語っていました。人生そのものへの興味を持った方のご参加は勿論大変嬉しいのですが、理系研究者と日頃接することの少ない人文科学分野との出会いも今回目論んだ意図でしたので、意義があったのかと喜んでいます。

 片桐先生は冒頭、「世界の中で新しい国家建設が迫られている時期、必要とされていたのは『海軍力』で、それも緊急性を帯びていた。日本が独立国家として成り立っていく思想・技術、そしてそれを担う人材、すなわち『体力』をつける目的で長崎海軍伝習があった」、とおっしゃいました。そもそも蘭学が江戸時代に静かに研究されていたのは、北方ロシアの東方進攻・南下の脅威に対してその対抗的思想・哲学の必要性からと、先生から伺ったことがありました。

 以前にも書きましたが(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=1096)、その第二次海軍伝習(実質的な「医学伝習」)で松本順は中心的役割を担いました。ポンぺからのオランダ語を介した伝習を、集まった全国各藩の弟子たちに伝えることで、それ以降の近代医学・医療の基礎を築きました。

 松本順の功績のまとめとして

1) 持って生まれた資質を生涯を掛けて伸ばし続けた:ポンぺの伝習から総合的技術を取得、実践――野戦病院・衛生思想等

2) 人との出会い、ポイント3人:松本良甫(ポンぺからの伝習)、山県有朋(陸軍病院等の基準策定)、高松保郎(愛生舘事業)

3) 彼のしなかったこと:オランダに留学等で行かなかった、制度が出来るとバトンタッチ・チャンスの移譲

4) 彼の目指したこと:庶民への眼差し「愛生済民」――愛生舘三十六方、衛生思想の徹底、アジア・世界の体力向上

5) 彼の日常生活――身の回りをいつも「楽」にしておくこと

 最後のまとめで、片桐先生は、「松本順の活きた人間像が把握されていない、激動の歴史の中で埋もれていた原因は、激変する維新から明治時代では文字を通してのメッセージの伝達が難しかったのではないか、それは庶民の教育レベルが江戸時代よりもむしろ劣化していたことを意味している」、と看破されていました。

 牛乳の効用、海水浴の普及等、今では常識になっている健康増進・普及に関して最初の井戸を掘った人物、それが「初代陸軍軍医総監」等の評価以上の歴史的意味を、彼の人生から読み取ることが出来るのでしょう。

 翌日、私の手元に「松本順と北海道」という3部にわたる小論文を届けて頂いた札幌在住の医師・宮下舜一先生とお話をしました。講演会にもご出席頂き、先生の論文には、何と明治24年6月に、松本順が北海道(函館・小樽・札幌)に20日間程度来ている記録が、小樽では道内に在住していた弟子たちと一緒に撮影した記念写真まで掲載されていました。

 (株)秋山愛生舘が「愛生舘北海道支部」から独立したのが明治24年11月ですので、この時にどこかで初代秋山康之進と再会していた可能性は大変高いと思いました。引き続き調査・研究の必要がありますね、また一つ目の前に解き明かす課題が見つかりました。

 今回、私は片桐先生に敢えて「秋山愛生舘」ではなく、「愛生舘」についてお話をして頂きたいと事前にお願いを致しました。講演会に参加された道内の「シンパ」の方々には、「愛生舘事業をしっかり今の時代にも受け継いできたのは、唯一この北海道の地ではないか、どうしてもっとそれに言及しないのか!」と叱られそうですが、21世紀の今、広い意味で「愛生舘事業のこころざし:愛生済民」の原点回帰を、秋山財団的には記念すべき25周年を機に目指す、そう是非ご理解を頂きたいと思います。

 この講演会をキックオフとして、今後「愛生文庫」を軸とした資料室の創設も企画する予定です。ご関心のある方の率直なご意見もお待ちしています。

富山、話題の「ライトレール」ほか

Posted by 秋山孝二
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  富山はこれまで通過を含めて3回程訪問しています。ただ、いずれもそれぞれの目的の為だけに行きましたので、いわゆる「観光スポット」にはほとんど足を運べずにいました。今回は、言わば初めての観光でしたね。妻のいとこが二家族、富山市内で暮らしていて、それぞれと久しぶりに再会する目的もあり、背中を押してくれました。

称名滝を臨む

称名滝を臨む

  新千歳空港から神通川の河川敷にある富山空港に到着して、すぐに南東の立山・室堂(むろどう)方面を目指しました。富山地鉄立山線・終点の立山駅を過ぎて行くと、「称名滝(しょうみょうだき):http://www.tate-yama.com/travel/syou/syou.htm」を臨む展望台に着きました。その先から滝下までの遊歩道は通行止めでしたので、この展望台からしばし眺めていました。3000メートル級の山々を源流とし落差350メートルの大量の水は、「落差日本一」とのことです。当日は、真夏の渇水期でしたが、それでも滝の水は勢いよく落ちて周囲の空間と共に大自然の迫力でした。見学後の帰り道、ものすごい落雷・雷雨でしたので、一挙に落ちる滝の水・沢の水かさも増していたことでしょう。

 翌日は朝から町なか観光です。富山といえば、今有名なのは「セントラム(CENTRAM):http://www7.city.toyama.toyama.jp/topics/20091208.html」、「ポートラム(PORTRAM):http://portram.zening.info/index.htm」ですね。

 「環状線:セントラム(http://kttri.jp/wadai/?p=412)」は一周25分くらいで料金は一律200円です。正確にはこの路線を「富山地方鉄道富山都心線」と言うようで、市内中心部を一方通行ですが循環しています。時節柄、「おわら風の盆」のラッピングで走っていました。

セントラム「風の盆」ラッピング車両

セントラム「風の盆」ラッピング車両

 今、札幌でも路面電車が延長の方向で検討されていて、「SAPPORP CITY TRAM」の議論が深まりつつあります。先日のある研究会では市の部長が、富山、諸外国の事例等を紹介していましたし、一カ月前の私が属する本府(ほんぷ)連合町内会・役員会では、市の担当課長らが来て、延長について説明しました。ただニュアンスは少し違っていて、札幌オリジナルの「札幌スタイル:http://www.city.sapporo.jp/keizai/sapporo-style/gaiyou.html」にこだわった路面電車の延長を検討中と語っていましたが。私が18歳まで育ったこの連合町内会のど真ん中を、昔から、そして今も路面電車が走っていますので、自ずから関心は高いですね。

 もう一つの「ポートラム」は、正式名称は「富山港線(廃止JR線の再利用)」で、2006年までJR西日本の路線を第三セクター・富山ライトレール(株)(http://www.t-lr.co.jp/)が譲り受けて路面電車化して、ライトレール(LRT)を走らせて話題になっています(http://www.youtube.com/watch?v=Sx71h_16F-U)。バスの乗り換えもホームの向かいで移動距離も更に拡がり、利便性に富んでいます。

JR路線のライトレール(右)と隣接するバス停

旧JR路線を活用したライトレール(右)と隣接するバス停

  ライトレールで富山駅北口から乗ると終着駅「岩瀬浜」に着きます。岩瀬は、江戸時代から明治にかけて、北前船交易での回船問屋が隆盛を誇り、日本海有数の港町として発展しました。今も北前船の文化が香るお屋敷が多く残っています。

北前船・豪商森家

北前船回船問屋・森家

 そう言えば、1918(大正7)年7月22日の夜から始まった「米騒動」は、米の値段が高騰する中、ここから少し東の魚津港での出来事で、北海道へ運ぶ米の輸送を阻止する目的でした。翌月上旬に大阪朝日新聞が、「越中女一揆」と大々的に報道し全国的に知られる所となり、歴史的転換点となりました。米を運んで行った北前船は、帰りは北海道から昆布等の海産物を持ち帰り、それらを使った様々の地場名産品を世に出しました。

 富山は、路面電車、日本海物流と、北海道と歴史的にも深い関係性を感じます。

越中八尾、おわら風の盆

Posted by 秋山孝二
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  「越中八尾、おわら風の盆(http://www.yatsuo.net/kazenobon/)」は印象的でした。毎年9月1・2・3日に開催され、私としては10数年ぶりの2回目となります。「かくも叙情豊かに、気品高く、唄い踊り継がれる・・・」とあるように、笛・太鼓なしの胡弓・三味線のゆったりした「越中おわら節:http://www.youtube.com/watch?v=wfrMDksk8u0」と優雅な踊りは、坂道を夜遅くまで11の地区で続いてました。1985年に高橋治の小説「風の盆恋歌」で一躍全国版になったと聞いています。石川さゆりの「風の盆恋歌:http://www.youtube.com/watch?v=YCwYc0s-Gg0&feature=related」、咲いてはかない酔芙蓉(すいふよう)、のフレーズもいいですね。

有名な灯篭

小路を飾る灯り

 前回はツアーの一員として、観光バスで富山市内からコンパクトに見学。あまりに効率的で「はい次、はい次!」の世界、かえって印象の薄いものでしたね。今回は妻がインターネットで検索して、「エコロの森:http://www.ecolonomori.com」による新しい企画への参加申し込み、滞在時間もたっぷり取っての素晴らしい体験で、代表の森田由樹子さんは札幌出身で親近感もあり、新しいタイプのツアー企画に意欲を燃やされていました。ただ「見て来ましたの消費」ではなく、時間を掛けて初めての人ともお話が出来て、「体験としての資産」となりました。

独特の踊り

独特の踊り

 午後3時くらいから、夕食をはさんで夜10時過ぎまで町なかに滞在し、その間たくさんの場で踊りを楽しみ、一方、長い階段を登って高台の城ヶ山(じょうがやま)公園から町のパノラマ、八尾観光会館(http://www.yatsuo.net/kankou/KAIKAN/index.html)では曳山展示館・カイコの伝統産業等の展示で、歴史的にも町の経済の底力を理解できました。JR越中八尾駅のすぐ前に、現在、店舗を予定している「AGRIひばり」代表・長谷川充さんのスペースを休憩拠点とさせて頂き、長谷川さんは若者の人材育成の場にしたいと今年秋完成後の夢も語っていました。またそこのスタッフでお手伝いをされていた南砺市商工会・利賀村事務所(http://www.shokoren-toyama.or.jp/~toga/)の松岡幸治さんとも、「演劇によるまちおこし」について貴重なお話をすることが出来ました。お忙しい中、感謝致します。

城ヶ山公園から諏訪町方面の展望

城ヶ山公園から諏訪町方面の展望

  札幌に帰ってみると新聞にはこんな記事もありました(http://www.asahi.com/national/update/0903/TKY201009030217.html)。ただ忙しく「観に行く」から不平・不満も出るのでしょうね、その土地の芸術・文化にゆっくり触れる・学ぶ気持が少しでもあれば、旅行会社に文句は言っても、地元の方への批判は明らかに筋違いでしょう。でも多いですね、最近この種の観光客が、「安くて美味いものが食いたい」という都会の消費者(?)みたいな。

 夜中に八尾から50分の山の道を他のお客さんと一緒にジャンボタクシーで移動し、南砺市利賀(とが)村、民宿「中の屋:http://toga-nakanoya.com/index.html」に到着しました。オーナーの中西邦康さんは、「百姓」を続けながら若者の「農的くらし」プランによる体験実習にも情熱を傾け、地元の多くの団体の代表もつとめていらっしゃいます。マスターズ陸上の1500メートル・駅伝でも現役で優勝を重ねて、玄関・居間には数多くの賞状・メダル・写真も掲載されていました。

 家の前には「古代米」、「地元米」、「酒米」が有機栽培で元気に生育中です。有機栽培は今年から挑戦とのことでしたが、長い間の豊富な経験を持った「百姓」でも、技術は全く別物とそのご苦労を語っていました。翌日はゆっくり中西さんの「農への思い」をお聴きしながら朝食、そして近くを散策です。演劇でも大変有名な利賀村(http://www1.tst.ne.jp/togapk/)ですので、関連施設も見学したかったのですが、距離もあり、また次の機会にしました。

八幡宮境内:杉の巨大な御神木

八幡宮境内:坂上・杉の巨大な御神木

  「中の屋」さんから近くの参道を通り、八幡宮境内、「8.4メートルの木の周り」と記されている「坂上の杉の御神木(http://www.hitozato-kyoboku.com/sakaue-oosugi.htm)」に到着です。遠くの山並みも朝日に照らしだされて美しく、清々しい午前でした。昼前に、八尾へ帰る昨夜通った道を戻りましたが、何と何と大変な山道だったことが分かりました。崖あり、湖の横あり、連続のS字カーブありで、随分山を登っていたのです。

 二日間、八尾での夕食、利賀村での朝食では、地元高原野菜を使った料理が大変美味しかったですね。特にみょうが、独特の歯ごたえのある豆腐、手造り味噌による味噌汁、元祖スイカ、とにかく新鮮で素材の味が素晴らしかったです。

 「越中おわら節」、「風の恋盆歌」を聴きながら、八尾の町並み、利賀の山並みを繰り返し思い出すでしょう。森田さん、中西さん、長谷川さん、松岡さん、お会い出来て嬉しかったです。皆さま大変お世話になりました、ありがとうございます!

「棟梁展」、堂宮大工の世界

Posted by 秋山孝二
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  「竹中大工道具館(http://www.dougukan.jp/)25周年記念巡回展:棟梁」が札幌でも開催されました。私の永年の友人・Mさんがメールで「今日午後7時まで」と連絡をしてくれたので、足を延ばしてじっくり見て来ました。

展示会入口で

展示会入口で

  「鍛え抜かれた技と心をもって職人集団を束ね、数百年の風雪に耐える寺院や神社を築きあげる堂宮(どうみや)の大工棟梁。千年の伝統を受け継ぎ、難事業に信念を持って立ち向かうその姿は、変動の激しい現代社会において、より魅力的に映ります・・・」、この棟梁展に寄せて、主催者が挨拶で述べていましたが、まさにその通りの素晴らしい内容でした。

 時代を超えて受け継ぐ「堂宮大工」の歴史的価値と実像を目の前にして、「修行の人生」、「人材育成の極意」等を、西岡常一(http://eco.goo.ne.jp/life/eco/tanbouki/tanbouki021225_2.html)と小川三夫(http://www.city.yaita.tochigi.jp/tannki-keisai/simineiyosyou-taidan-toryo.htm)の活動から知ることが出来ました。

 いわゆる今風の、設計と施工が別れている「大工」の頭とは違い、昔は設計・積算(見積)・施工をすべて棟梁が仕切っていました、「棟梁は何でもやる」ですね。堂宮の棟梁は、技術の伝承ばかりではなく、弟子をはじめ材木屋・石工・建具師・左官・瓦師・葺師など様々な職人をまとめ上げる統率力も必要とされていたようです。

 展示では、時代を超えて建つ歴史的建造物も、一つ一つの地道な仕事の積み重ねから成っていることがよく理解出来ました。原寸図を描く作業、様々な曲線の型板づくり、刃物を研ぐ作業、木組み、そして式祭。技術の軌跡と同時に、歴史と伝統文化を強く感じました。

 最後のコーナーの映像作品では、「唐招提寺・金堂の平成大修理の記録集:http://www.toshodaiji.jp/shuri_gaiyou.html」、「平城宮跡・第一次大極殿の復元工事の記録:http://www.nabunken.go.jp/site/daigoku.html」、そしてつい先月訪問した「函館奉行所の復元の記録:http://www.hakodate-bugyosho.jp/」もじっくり見ました。とにかく、「技術の伝承」を超えた棟梁の実像に感動を受けました。