新渡戸連続講座、今回は『札幌の農業』と題して、三部英二さんのお話でした。200万都市札幌はともすると消費都市と言われていますが、市内でも多様な農作物が作られていることをあらためて知りました。
* これまでの連続講座記事ーー> 秋山孝二の部屋 (akiyama-foundation.org)
* さっぽろの農業/札幌市 (city.sapporo.jp)
最後は新渡戸稲造の『農業本論』から言葉を引用されて終わりました。
新渡戸連続講座、今回は『札幌の農業』と題して、三部英二さんのお話でした。200万都市札幌はともすると消費都市と言われていますが、市内でも多様な農作物が作られていることをあらためて知りました。
* これまでの連続講座記事ーー> 秋山孝二の部屋 (akiyama-foundation.org)
* さっぽろの農業/札幌市 (city.sapporo.jp)
最後は新渡戸稲造の『農業本論』から言葉を引用されて終わりました。
先日の『モーニングショー|テレビ朝日 (tv-asahi.co.jp)』で紹介されていた災害復興の様子、宮城県女川町(女川町公式ホームページ (town.onagawa.miyagi.jp))の取り組みは大いに学ぶことがありました。2011・3・11の後に議会議員から町長にご就任された須田善明町長の解説、復興計画の担い手は基本的には20年後のまちづくりに責任を持てる30代・40代の方々が中心的で、それは60代の方々がそう提案してのことと。
当時提起されていた画一的な「巨大防潮堤」設置ではなく、むしろ持続可能な町の価値としての「海が見える景観」を軸とした復興計画でした。
今回の能登半島大地震においても、もちろん私たちもできるだけの応援はしますが、女川町のような実践を参考に、少しでも前を向いて立ち上がっていく地元の方々・活動に期待したいものです。
樋口季一郎(https://www.nids.mod.go.jp/military_archives/siryo/siryo_13.html)のお孫さんの樋口隆一さんのご講演を拝聴し、ご挨拶もさせて頂きました。
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* 樋口 季一郎(ひぐち きいちろう、1888年〈明治21年〉8月20日 - 1970年〈昭和45年〉10月11日)
日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。兵庫県淡路島出身。歩兵第41連隊長、第3師団参謀長、ハルピン特務機関長、第9師団長等を経て、第5方面軍司令官兼北部軍管区司令官。
第二次世界大戦前夜、ドイツによるユダヤ人迫害を逃れた避難民に満洲国通過を認め、「ヒグチ・ルート」と呼ばれた脱出路が有名。大戦中は麾下の部隊がアッツ島の戦い、ソ連対日参戦に対する抗戦(樺太の戦い、占守島の戦い等)を行った。
* https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/159110/#toc-1
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今回は、樋口中将と北海道防衛に焦点をあてたお話の数々、第5方面軍司令官兼北部軍管区司令官としてのアッツ島玉砕、キスカ島撤退作戦成功との関係で、一度お話を伺いたいと思っていましたので、大変貴重な時間、キスカに関連した私の父・秋山(旧姓野田)宏の話に関連してです。
* 「キスカ」関連記事ーー> 秋山孝二の部屋 (akiyama-foundation.org)
今年の元旦に地震災害のあった能登半島の各市町村の皆さん、1か月近く経ってもまだまだ復旧・復興の目途はたっていない様子ですが、現地の方々はそんな中でもたくましく前を向いてこれまでの日常を取り戻し頑張っているようで、私達が逆に勇気づけられる気がしています。
今朝のモーニングショーで紹介されていた「宗玄酒造(宗玄酒造株式会社 公式サイト /Sogen Official Web Site (sougen-shuzou.com))」の八木隆夫社長の絞り出すようなお言葉に感動しました。
マスメディアは、「悲嘆にくれる被災者」と言った先入観での報道がこの種の災害時は目立ちますが、実際の現場では気落ちしながらも必死で前を向いて頑張っている方々がいらっしゃることを私たちはもっと知るべきですよね。そういえば、発災直後の介護施設の女性責任者が、テレビ局記者の寒いし大変ですねとの問いかけに対して、笑顔で落ち着いた言葉で「私たちはこの場を離れることはございません、入居者も職員も変わらずこの状況の中でこれまでの日常を続けていくつもりです。」と語っていました、現場を預かる責任のあるお立場の方の至言です。
それにしても国・市町村役場の対応の遅さ、今更ながらにこれまでの災害から何を学んできたのか、学んでこなかったのか、目を覆うばかりの惨状です。私ど秋山財団が永らく応援してきた根本昌宏先生たちのプロジェクトは、まさに今回のような「厳冬期の災害」に向けた備えだったのですが。
札幌駅北口から直結する新たな舞台『北八劇場:一般財団法人 田中記念劇場財団 | (tmtf.jp)』がいよいよ今年5月にオープンします。先日は、芸術監督の納谷真大さんがニュースでインタビューを受けていました。
* これまでの関連記事ーー> http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E5%8C%97%E5%85%AB%E5%8A%87%E5%A0%B4
この劇場の杮(こけら)落しは『あっちこっち佐藤さん』、5月上旬公演予定です。
* ご参考にーー> SASARU Hokkaido | 札幌駅直結の小劇場「北八劇場」が誕生!演劇界隈の新しい歴史スタート!2024年春始動
2024年早々、千葉県館山市の家を訪問すべく、出張の合間を縫って東京駅八重洲南口からの高速バスで日帰りしました。朝6時前にも関わらず、すでに観光客ほか東京駅には人々の往来も多く、アフターコロナ禍の首都圏は賑わいを取り戻している感があります。
* これまでの「東京駅」関連記事ーー> 秋山孝二の部屋 (akiyama-foundation.org)
八重洲南口の切符売り場は、午前6時のオープン前からすでに人影もちらほら。
東京駅から館山までの約1時間40分のバス乗車中、東京湾の向こうには富士山もくっきりと見えたり、1月は特に空気も澄み切っていてきれいですね。
今回の出張、前日には外資系金融機関のミニセミナーがあり、その後の懇親会を終えていつものホテルに向かう途中、今年も東京タワーは健在、これからも何回も見るだろう景色でした。
* これまでの「東京タワー」関連記事ーー> 秋山孝二の部屋 (akiyama-foundation.org)
今年の年始は能登半島地震、飛行機事故等、波乱の幕開けでしたが、どうか1年間平穏な毎日となることを祈りたいですね。
今年は年明け1月、私の住宅地域の町内会「ごみステーション」の当番が回ってきています。当番数の関係で毎年一か月ずつの当番月がずれるシステム、今回は真冬となり、ごみ箱自体の整理清掃よりも周辺の雪かきは覚悟をしていました。
年末は雪が少なかった札幌で、このまま新しい年も過ぎてくれればと思ってはいましたが、そうはいかず、年始早々から本日までドカ雪、湿った雪、粉雪の毎日、深夜から早朝、日中と一日数回雪かきにステーションまで、ごみではなくプラスティックのスコップを持って奮闘しています。歩道、車道は除雪機・ブルトーザーが雪をはねていくのですが、ごみステーションのごみ箱周辺は逆に雪やまができてたりして、ごみ収集車の通路も開けたりでなかなか大変です。ただ、この地域ではそれぞれお住まいの方々が素晴らしく、ごみ出しのマナーは言うの及ばず、私が早朝に行くと既にどなたかが少し雪かきをやった形跡がしばしば。今朝も朝6時前に行くと、いつものご近所の男性が歩道の雪かき作業、朝のご挨拶ほか「当番大変ですね!とのお言葉もあり、私も「大当たりです!!」と笑いながら応えたり、朝からのやり取りに心が温まります。
一方、私が生まれて18歳まで育った街なかでは、昔から住んでいる人は誰もおらず、今では大小テナントビル等が林立する地区になり、町内会会員の減少に歯止めが掛からず、単一町内会・連合町内会活動の継続に困難をきたしている現実があります。町内の三吉神社さんの年番、北海道神宮の年番等のお役目は、どこの街なかの町内会も苦労しているのです。何と言ったらいいのか、「地域活動の活性化」とか、まちづくりではよく聞く言葉ですが、過疎のちいきだけでなく都会の中でもビルのテナントさんにとっては、地域への貢献といった言葉はもう死語になったのかもしれませんね。
* 三吉神社の例祭関連記事ーー> 秋山孝二の部屋 (akiyama-foundation.org)
比較的古くからの住宅地では高齢化、空き家問題が深刻になり、街なかでは町内会活動の担い手となる会員自体の減少だったり、それぞれ時代の変遷とともに地域の課題解決が迫られている気がします。
『seek | 札幌で演劇に関わる人のためのサイト (sapporoseek.art)』主催の札幌で演劇に関わる各世代を繋ぐプロジェクト、そのシリーズの一環で先ずは今年1月5日に続いて([1/5・1/16開催]札幌演劇いまとこれから01 シンポジウム「札幌の演劇史」 | seek (sapporoseek.art))、今回の対談が企画されました。
~~~~~~~~~~~~~~~~~HPより
札幌舞台芸術制作協議会(SEEK)について
「演劇」という狭い世界の話ではありますが、「演劇が盛んな地方都市は?」と問われれば、日本で演劇に関わる多くの人が「札幌」と答えるに違いありません。これまで不断の努力で「札幌スタイル」とも呼べる⺠間主導の演劇創造環境づくりを実現してきた先輩方には感謝してもしきれません。
これから先、この環境を守り、より良い状態で後の世代へ繋いでいくために、次の世代として手を取り合い、課題解決に取り組むべく新たな団体を立ち上げました。感染症の流行という予想しえなかった事態で打撃を受けているように、これから先も思いもよらない危機が訪れる可能性は否定できません。その時に柔軟に対応していけるように、日常的な情報交換と問題意識の共有ができるチームでありたいと考えています。
小室明子(ラボチ)
小島達子(株式会社tatt/ELEVEN NINES)
笠島麻衣(北八劇場/一般財団法人田中記念劇場財団事務局長)
佐久間泉真(弦巻楽団/札幌演劇情報サイトd-SAP 編集長)
鶴岡ゆりか(テアトロエクスプレス有限会社/演劇専用小劇場BLOCH)
清水友陽(公益財団法人北海道演劇財団芸術監督)
尾崎要(アクトコール株式会社)
太田真介(NPO法人コンカリーニョ)
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劇場のロビーには『札幌演劇シーズン (s-e-season.com)』の初回から今回までのパンフが展示されていました。それら全てを観てきた私にとっても感慨深いものがあります。
そして劇場内では世代を越えたトークセッションも。演劇シーズンプログラムディレクターの斎藤歩さんとNPO法人コンカリーニョ/札幌演劇シーズン実行委員会事務局の太田真介さんの対談。これまでを振り返り、冷静な総括、そして今後の展望について、これまでの実績、課題を踏まえた興味深いやり取りでした。
今年の年末年始は、「個人的には1年前に比べて穏やかな日々でしたが」と数日前には書きましたが、あらためて今振り返ると、1年前の年末・年明けは孫・母・姉の旅立ちが続きました。月日は確実に過ぎていき、それぞれの旅立ちを一周忌として法要を終えて区切りをつけ、姉を偲ぶ集まりも同時に身内で催しました。今、この世を生きている私たちは前を向いて歩みを進めることが最大の供養なのでしょうね。
一昨年末は孫の智帆、4歳4日で逝きました。
* 秋山孝二の部屋 » Blog Archive » 4年4日の輝く人生! (akiyama-foundation.org)
母は昨年1月20日、眠るように旅立ちました。
* 秋山孝二の部屋 » Blog Archive » 母、満99歳の大往生! (akiyama-foundation.org)
そして、その母を自宅で介護し続けていた私の姉も、母の葬儀を入院先の病室でZOOMで観ながら安心するかのように、昨年2月6日に亡くなりました。
* 秋山孝二の部屋 » Blog Archive » 姉・せつが永眠 (akiyama-foundation.org)
昨日は母の真言宗による法要の後に、別室で偲ぶ会を開いて、親族で在りし日のスライド・動画も上映しながら思い出を語り合うひと時となりました。
姉の一周忌の集まりは来月の命日当日、清田の自宅で昼食を囲みながら語り合う予定です。
右端奥ににギリギリ最年少の孫も写って?!!
東京の国際文化会館で開かれたハーバード大学ウェザーヘッド国際問題研究所日米関係プログラム(https://us-japan.wcfia.harvard.edu/)の新年会に参加しました。
* これまでの関連記事ーー> 秋山孝二の部屋 (akiyama-foundation.org)
現在のプログラムディレクターであるクリスティーナ・デイビス教授によると、コロナ禍で長らくリモートによる講義や発表となり、研究生たちの受け入れや交流が難しかったようですが、何とか昨年からは従来の形に戻ってきてるようです。3年ぶりの昨年は私は不参加でしたが、今年は久しぶりに出ることができました。
この「Program on U.S.-Japan Relations(旧日米関係研究所)」の初代ディレクターは、東アジア研究で著名な故エズラ・ボーゲル名誉教授です。戦後の日本経済の高度経済成長を高く評価して1979年に書いた書籍「ジャパン・アズ・ナンバーワン」が、日本でも特に著名です。今回もエズラ・ボーゲル先生からバトンタッチを受けた2代目のディレクター、スーザン・ファー教授もご参加で、交流会でお話をすることができました。昨年ご主人を亡くされて気落ちされていましたが、お住まいは以前の場所で変わらずとか。
以前にも書いていますが、1996年から『AKIYAMA AWARD』を設立して、博士課程の日本研究への助成を続けていて、昨年まで28回を重ねています。現在のクリスティーナ・デイビス所長は、その第一回目の受賞者で、私としても思い入れもひとしおです。
* AKIYAMA AWARDーー> https://us-japan.wcfia.harvard.edu/akiyama-award
今回は、セミナー開始前に1時間ほどデービス所長と藤平事務局長と個別に面談する時間も取って頂き、近況報告と今後のこの賞の展開について意見交換ができてよかったです。1980年代に北海道・マサチューセッツ州の姉妹都市締結を機会に、スーザン・ファー先生とお会いして以来、継続した関係を維持してきた歴史に、私は何ともこみ上げる感動を抱きながら会場を後にしました。
六本木の国際文化会館の玄関を出ると六本木ヒルズがそびえ立ち、鳥居坂は何回来ても急な坂ですね。
今年の正月は、個人的には1年前に比べて穏やかな日々でしたが、日本国内では元旦の能登半島地震、2日夕方の羽田空港滑走路での飛行機衝突事故等、とても「おめでとうございます」とご挨拶できない重大ニュースで幕を開けました。
つい先日は当初から予定の東京一泊出張で羽田空港に行きました。帰りは第二ターミナルで出発前の時間、C滑走路をよく見てみると、燃え落ちたJAL機の片付けもほぼ終わったのか滑走路は再開に向けての舗装修理に移っていたようです。
一方、いつも使っているANAラウンジ、昨年7月からは予約制での個室が新たに設置されて、リモート打ち合わせ等も遠慮なくできるブースが複数できています。数年前から実験的にラウンジ受付横にユニットが置かれていましたが、やはりリモート会議のニーズも増えてきているのかと。私はコロナ禍でこのラウンジでZOOMミーティングを席でやり取りしていたらスタッフから注意されたことがありました。
ANAdiamond会員のSUITE LOUNGEはどんどん拡張されてきて、昔のような特別なステイタスではなくなってきてるのでしょうね、それだけ皆さんの移動頻度が高くなってきている日本社会と言えるのかもしれません。今年もまた1年がスタートです、頑張りたいですね!
さて、今回の取材・撮影プロジェクト、いよいよ最終日は東京に移動しました。先ずは「愛生館事業」の発祥の地、神田岩本町の現在地に立っての納谷真大さんとのやり取り撮影です。東京の古地図を調べてみると、ここに「愛生館」の存在が確認できています。デジタルコンテンツではこの場面が一番最終になる予定です、まさにルーツを辿る物語の到達点として。
引き続いては松本順先生の四代後で、現在、順天堂大学医学部耳鼻咽喉科の主任教授・松本文彦先生との対談、一日の外来を終えての時間帯、医局応接室でお話を伺いました。内容はデジタルコンテンツ完成品をご覧頂きたいのですが、本当に心から感動するお話の数々、48歳の若さも相まって素晴らしいお人柄、今後に大いにご活躍を期待したいですね。
11月に医局の面談室でご挨拶した時の写真、秘書の方々の対応も丁寧で素晴らしく、12月の撮影も快くお引き受け頂きました。実は松本教授は2015年1月に訪問した松本和彦先生の三男、和彦先生は現役を退き、クリニックも閉院したとのご連絡あり、今後は文彦先生と会うようにとのご意向でした。
* 秋山孝二の部屋 »愛生舘の「こころ」 (14) (akiyama-foundation.org)
今回の取材の最後に、松本文彦先生の素晴らしいお話を伺い、ここでも愛生館事業のキーマンの松本順先生の今と出会った気がして心が躍りました。
デジタルコンテンツ制作の最終局面での撮影ツアー、素人の私が想像する以上に下見ほか撮影準備等で手間の掛かる作業だと分かりました。ただ、単に昔の歴史を調査するだけでなく、それが今の時代にもしっかり繋がって息づいていることを発信するのも、この『愛生館文庫』の狙いとする所でもあったので、現在ご活躍のそれぞれの方々にお会いしてお話を伺うことができたのは大きな収穫だったと思っています。歴史を繋ぎ、今の課題に正面から立ち向かって解決しようとする姿勢をいつまでも失いたくないものです。ご協力して頂いたすべての方々に感謝致します。
撮影二日目、まず最初は千葉市花見川区柏井の川口新之丞邸です。広大な敷地の正門前で、「愛生舘事業」の最初の一歩を踏み出した事業家であり投資家でした。
続いては同じく花見川区武石町、初代秋山康之進の実家・芝田家の菩提寺・真蔵院で中村住職との対談撮影でした。外での対談撮影・録画中に、恐らく成田空港から東京都心に向かうVIPを載せる大型ヘリコプターが次々と上空を通過して、そのエンジン音がこの場所の臨場感を高めたかも?です。また、ここでも私が千葉大学教育学部卒業とお伝えすると、住職の弟さんが千葉大学教育学部卒業で、千葉で教員、最後は近くの小学校校長で退職したとおっしゃっていました、またまたこれもご縁ですね。
* 真蔵院|千葉市花見川区武石町 真言宗豊山派寺院 (tesshow.jp)
芝田家のご親族、川村さんと畔上さん母子もご一緒に。
親戚の川村光さんご夫妻にはご自宅に招かれ、チーム全員、懇談のほか昼食をご馳走になりました。そして午後からは、佐倉市本町の順天堂記念館へ。佐倉市教育委員会学芸員の須賀隆章主任主事も来館されて詳細のご説明を頂きました。なぜ、順天堂創始者の佐藤泰然が佐倉の地にやってきたのか等、これまでの歴史とは少し違った観点からのお話が大変興味深かったですね。隣には今も順天堂医院があり、七代目の佐藤仁院長にも診療の合間でしたが、ご挨拶することができました。
この地も私は二回目でしたが、記念館内部での須賀さんの詳細なご説明をお聞きして、一層、佐倉藩の近代医学の先駆性を再確認した次第です。漢方医主体の江戸末期に、いち早くオランダから医学を学ぶ佐倉藩のセンスに見識を感じました。そこに『愛生館事業』の原点があり、それぞれの分野で人を得た事業と言えるのでしょうね。
この事業の『愛生済民(あいせいさいみん)』の理念に基づく近代公衆衛生の礎は、これらの先人によって明治期中期に始まり、今日の日本の健康増進に貢献しました。二日目も収穫の多い一日でした。
2023年12月に、『愛生館文庫デジタルコンテンツⅣ』作成のために、撮影チームと一緒に千葉県各地、東京に二泊三日の行程で行きました。
* デジタルコンテンツ一覧 - 秋山記念生命科学振興財団 (akiyama-foundation.org)
仕上がりの順番とは別に、撮影初日は秋山家の菩提寺・円応寺と今もその末裔が暮らす千葉県佐倉市臼井田を訪問。以前にも一度訪問していますが、今回はさらにその縁を深掘りすることができました。
本堂の正面には由緒ある開祖当時からの古看板。林祐行住職が探してくださった過去帳から、秋山新八の名前を確認しました。
私が千葉大学出身で学生時代に市川市のアパートに住んでいたこと、本籍地は今も市川市とお話をすると、ご住職の前職は何と市川市役所職員、お母様のご実家は私が通っていた西千葉キャンパスの隣とのこと、浅からぬご縁を感じた対談でした。対談の内容はデジタルコンテンツ完成したあかつきに。
そこから秋山家のお墓がある同じ佐倉市の吉見に移動し、現在もお元気な秋山二郎さんをお尋ねしました。以前一度お会いしていますが、変わらずお元気でした。
秋山家の複数のお墓は、以前はお寺の境内だった場所とか、バイパス工事とお寺の併合でもともとのお寺は移転し、現在はお墓だけが残っているとのことでした。このシリーズ「19」、「20」にも訪問時の記事を掲載しています。
2023年もあと二日で終わり、山あり谷ありの一年でしたが、私自身は何とか身体も健康で過ごすことができました。
今年もたくさん演劇に足を運びました。コロナ禍が開けて再開した感じの劇場でしたが、なかなかお客さんの入りはもとには戻っていない感もありました。それでもこの間しぶとく公演を続けてきた幾つかの劇団には頭が下がります。
『新渡戸の夢』と題しての自主映画がいよいよ年明けに上映開始、先日はその試写会が催されました。率直に言って『新渡戸の夢』と題するには少々断片的かも、むしろ『新渡戸の教育に掛ける思いを今に」みたいな方が適切なのでしょうか。
他にはテレビ番組から。
今年も年末はFM三角山放送に出演、丸山哲秀先生とのトークで一年の振り返り。
そして最後はやっぱりこの写真でしょうね、素晴らしいチームでした!
* 秋山孝二の部屋 » Blog Archive » 祝 WBC 侍ジャパン!! (akiyama-foundation.org)
どうか皆さま、よいお年をお迎えください!!
(公財)秋山記念生命科学振興財団(https://www.akiyama-foundation.org/)では、10年ほど前からこの財団の原点とも言える明治期に勃興した公衆衛生促進・健康増進を目的とした全国展開の『愛生舘事業』を深掘りすべく、時間を掛けて多くの資料収集・面談等を重ねて、2019年に『愛生館文庫』を財団建物内の一室に開設しました。
* 愛生舘の「こころ」 (21) (akiyama-foundation.org)
その後、資料室だけでなく「デジタルコンテンツ」を作成して、広く皆さんに発信しようと制作に取り組んできました。今回はその最終局面第4回として千葉・佐倉に撮影チームと一緒に取材に行きました。撮影というのはこれまでの訪問しての取材に比べて、下見、当日のカメラ・音響準備等、素人の私が想像する以上に大変な作業、今回も二泊三日、チームの皆さんには大変お世話になりました。ここではその一部を予告編程度にご紹介して、あとは秋山財団HPにある「デジタルコンテンツ(https://www.akiyama-foundation.org/bunko_contents)」、ブログ「愛生館のこころシリーズ(https://www.akiyama-foundation.org/kokoro)」を検索して頂けると嬉しいです。
今回の詳細は後日こちらに数回に分けてアップしますのでご覧ください。
* ブログ「愛生館のこころシリーズ(https://www.akiyama-foundation.org/kokoro)」
先日は、札幌駅北口の新たなマンション・テナントビルに併設された『北八劇場(https://tmtf.jp/)』の内覧会があり、私は評議員をお引き受けしているので、その前の懇談会に引き続き参加しました。
こけら落としの演目も決まり、年明け5月オープン、札幌にまた一つ200席規模の劇場が誕生です、楽しみですね。
12月8日といえば、日本がアメリカ・ハワイのパールハーバー奇襲作戦で太平洋戦争開始を思い出しますが、昨今では、ジョンレノンが殺された日として、多くの人々の心に刻まれているのかもしれません。
ジョン・レノンの「イマジン」、国家や宗教間の対立や憎悪の無意味さを訴えて1971年に発表されました。1980年12月8日、ジョンが銃弾に倒れた後、この曲の運命が大きく変わり始めたようです。戦争やテロなどで世界が揺らぐたびにイマジンは歌い継がれ、輝きを増していきましたね。
* イマジン Imagine 歌詞 和訳 意味 ジョン・レノン (worldfolksong.com)
1) あの日、ジョンを襲った悲劇
2) チェコの裏通りにあるレノンウォール
3) 9.11同時多発テロ
の3つの視点からイマジンが名曲になった経緯を探った興味深い番組でした。
そして、追悼の会では、『イマジン』の三番の「I wonder if you can」の「you」を「I」に代えて歌った人たちもいたようです。
Imagine no possessions
I wonder if you can
No need for greed or hunger
A brotherhood of man
Imagine all the people
Sharing all the world…
この歌がどうして放送禁止になるのか、全く理解ができませんが、とにかく多くの人たちに歌い続けられています。
演劇『オトン、死す(ELEVEN NINES「オトン、死ス!」 | ELEVEN NINES (eleven9.jp))』は、劇団イレブンナイン(ELEVEN NINES (eleven9.jp))主宰の納谷真大さんのリアルストーリーを戯曲化した作品『ワタクシ演劇』、当初は個人的なお話かと思いきや、親の旅立ちを経験している方、これから経験するであろう方、いろいろな事情でその瞬間に立ち会えなかった方、様々な思いでこの舞台を観劇して、多様な感想を終演後に会場で語り、SNSでもアップされています。リアルストーリーの普遍性なのでしょうね、素晴らしい作品でした。
コロナ禍の中でも舞台製作を続けてきた数少ない劇団、それぞれの役者の方々が伸び伸びと演じていた姿が印象的でした。