戦後70年、私なりの思い(5)

Posted by 秋山孝二
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 戦後70年の節目の年、重要なコメントが続きます。

* 2015.8.14 安倍談話(http://www.kantei.go.jp/jp/97_abe/discource/20150814danwa.html

* 2015.8.15 天皇陛下追悼式 http://saigaijyouhou.com/blog-entry-7597.html

 終戦以来既に70年、戦争による荒廃からの復興、発展に向け払われた国民のたゆみない努力と、平和の存続を切望する国民の意識に支えられ、我が国は今日の平和と繁栄を築いてきました。戦後という、この長い期間における国民の尊い歩みに思いを致すとき、感慨は誠に尽きることがありません。

 ここに過去を顧み、さきの大戦に対する深い反省と共に、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心からなる追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。

* フランスメディアの報道:http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150814/k10010190411000.html

~~~~~~~~~~~~~~~~~

* 「談話」と言うと、思い出すメッセージがあります。ドイツのワイツゼッカー大統領の戦後40周年の節目の演説です。安倍首相のそれと歴史の認識とそれへのコミットメントに大きな違いを感じてしまいます。自国のトップを誇りに思えない、何とも鬱陶しい自分です。

~~~~~~~~~~~~~~~~~ 演説の引用

・・・・・・・人間の一生、民族の運命にあって、40年という歳月は大きな役割を果たしております。当時責任ある立場にいた父たちの世代が完全に交替するまでに40年が必要だったのです。

 われわれのもとでは新しい世代が政治の責任をとれるだけに成長してまいりました。若い人たちにかつて起ったことの責任はありません。しかし、(その後の)歴史のなかでそうした出来事から生じてきたことに対しては責任があります。

 われわれ年長者は若者に対し、夢を実現する義務は負っておりません。われわれの義務は率直さであります。心に刻みつづけるということがきわめて重要なのはなぜか、このことを若い人びとが理解できるよう手助けせねばならないのです。ユートピア的な救済論に逃避したり、道徳的に傲慢不遜になったりすることなく、歴史の真実を冷静かつ公平に見つめることができるよう、若い人びとの助力をしたいと考えるのであります。

 人間は何をしかねないのか——これをわれわれは自らの歴史から学びます。でありますから、われわれは今や別種の、よりよい人間になったなどと思い上がってはなりません。

 道徳に究極の完成はありえません——いかなる人間にとっても、また、いかなる土地においてもそうであります。われわれは人間として学んでまいりました。これからも人間として危険に曝されつづけるでありましょう。しかし、われわれにはこうした危険を繰り返し乗り越えていくだけの力がそなわっております。

 ヒトラーはいつも、偏見と敵意と憎悪とをかきたてつづけることに腐心しておりました。

 若い人たちにお願いしたい。他の人びとに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。ロシア人やアメリカ人、ユダヤ人やトルコ人、オールタナティヴを唱える人びとや保守主義者、黒人や白人これらの人たちに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。

 若い人たちは、たがいに敵対するのではなく、たがいに手をとり合って生きていくことを学んでいただきたい。民主的に選ばれたわれわれ政治家にもこのことを肝に銘じさせてくれる諸君であってほしい。そして範を示してほしい。

自由を尊重しよう。
平和のために尽力しよう。
公正をよりどころにしよう。
正義については内面の規範に従おう。

今日5月8日に際し、能うかぎり真実を直視しようではありませんか。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 演説の引用 おわり

* 現代の日本の若者も語ります http://iwj.co.jp/wj/open/archives/258019

 改めて節目の年に考えるべき第一は「アジアにおける日本の加害責任」、第二は「戦争被害」とりわけ「原爆被害」でしょうね。ただ、この両方の立場を曖昧にして、あの戦争から逃避する姿勢が大きな問題を先送り、未解決のまま残してきたのではないでしょうか。日本がアジアにおける「戦争責任」と真摯(しんし)に向き合っていたら・・・。加害責任を認めて謝罪したうえで原爆投下の非を問えば、核廃絶にむけての日本の主張は説得力を持ってきたはずです。日米安保体制下で自立した姿勢をとることも可能だったでしょうし、日本国憲法の平和主義も、もっと積極的姿勢を求めていたのではないでしょうか。でも、まだ未来に希望を捨ててはおりません。

 戦前も戦後も、ひとえに国際社会における「外交の稚拙さ」が、戦争を引き起こし、戦争から学ぶことなく、これからまた戦争をする「普通の国」へと突き進む気がします。今、自分を含めた市民の声を日々の行動に変えていく、そんな歴史の大きな岐路に立っている実感を持ちます。

戦後70年、私なりの思い(1)

Posted by 秋山孝二
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 今年は日本にとって「敗戦後70年」の節目の年、正月早々から様々なメディアで特集が組まれていて、この8月は例年以上に、新聞、テレビ、インターネット等で優れた記事・番組を目にしています。見逃し、読み飛ばしも多い中、自分なりにこの「戦後」を振り返り、久しぶりのシリーズで追いかけて、今後への道筋を見出していきたいと思います、私自身の生きてきた時代そのものですから、いつにも増して注目しています。

 まずは、今年年始の天皇陛下のメッセージから

* http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=22092

 残念ながら、年初に危惧した通り、安倍政権は暴走を続け、国会議員の劣化等も相俟って、将来の日本の国の姿を決める「安保法制」議論は全く理解不能で極めて危険な状態で推移し、今後も目が離せません。

 下のコメントは、今年、安倍首相が春にアメリカを訪問した時に、私が原稿として手元に温めていたものです、題して「安倍首相の米国訪問に思う」です。結局、この記事をコピーしたまま掲載するにはあまりの醜さに憤りが強すぎて、仕上げられず今に至っていました。

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民主主義の成熟した日本かどうか。

<米国連邦議会上下両院合同会議における安倍総理大臣演説>

「希望の同盟へ」 (2015年4月29日(米国東部時間))

http://www.mofa.go.jp/mofaj/na/na1/us/page4_001149.html

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 今、振り返ってみると、その後の日本の国会でのやり取りの分かりにくさに比べて、このアメリカ上下両院合同会議での安倍の「高らかな表明」が、この政権及び支える勢力のまさに「本音」なのでしょうね。「希望の同盟へ」(?)(!)、実に、どこの国の代表者かと思わせるほど卑屈で愛国の精神のかけらも無い内容です。これが本音なら、どうして日本国会においてそう言わないのでしょうか。まさに「日本国民をなめるなよ!!!」ですね。

 安保法制ばかりでなく、基地問題等の日米地位協定、TPP、原発再稼働等、これまで戦後日本の政治が辛うじてアメリカとのパワーバランスの中で守り生き抜いてきた自主・自立をかなぐり捨て、アメリカの「ある勢力」への「従属」を心地よしとして心底「魂」を売り渡す、そんな現政権・与党の姿を目の当たりにして、私自身の「リベラル保守」的立場、愛国心と人間としての尊厳からは許し難い暴挙だと思います。本来の「親米」を自認する私、長いアメリカのリベラルとの信頼もあり、「アメリカ」と一括りにはできない多様性を実感するものですから。

以上のようなスタンスから、私は再度、過去の戦争を見直してみたいと思っていました、このシリーズにお付き合い下さい。

寺島塾 2015春 in 奈良(3)

Posted by 秋山孝二
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 奈良の散策は西ノ京方面も。昨年訪問した薬師寺、足を延ばして唐招提寺(http://www.toshodaiji.jp/垂仁天皇御陵(http://travel.biglobe.ne.jp/tguide/spot/s13369.html、そして松伯美術館(http://www.kintetsu-g-hd.co.jp/culture/shohaku/でした。

 昨年(2014年)3月の薬師寺訪問の様子はこちら:

* http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=19195

* http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=19395

* http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=19364

 唐招提寺は、HP(http://www.toshodaiji.jp/)からの引用ですが、南都六宗の一つである律宗の総本山です。多くの苦難の末、7回目で来日をはたされた鑑真大和上は、東大寺で5年を過ごした後、新田部(にたべ)親王の旧宅地(現在の奈良市五条町)を下賜されて、天平宝字3年(759)に戒律を学ぶ人たちのための修行の道場を開きました。「唐律招提」と名付けられ鑑真和上の私寺として始まった当初は、講堂や新田部親王の旧宅を改造した経蔵、宝蔵などがあるだけでした。金堂は8世紀後半、鑑真和上の弟子の一人であった如宝の尽力により、完成したといわれます。現在では、奈良時代建立の金堂、講堂が天平の息吹を伝える、貴重な伽藍となっています。

雨に煙る唐招提寺金堂

雨に煙る唐招提寺金堂

鑑真大和尚のお墓に続く境内で

鑑真大和尚のお墓に続く境内で

 垂仁天皇御陵(http://travel.biglobe.ne.jp/tguide/spot/s13369.html)は、広大な水と緑のひっそりと眠るスポットで。

小雨の中の前方後円墳

小雨の中の前方後円墳

 更に足を延ばして松伯美術館(http://www.kintetsu-g-hd.co.jp/culture/shohaku/)、「いのちの輝き」上村松篁展(前期)です。HPにもあるように、自然への深いまなざしと伝統に学ぶ勤勉な姿勢を持ち続け清澄で気品ある独自の画風を確立した上村松篁。いのちの輝きを詠い続け、画家として人として見事な98年間の生き様に触れる機会となりました。上村松園・松篁・淳之の作品を集めての展示を前に、しばし日本の「いのちの輝き」に浸った時でした。後で知りましたが、この美術館は近鉄の名誉会長であった、佐伯勇氏の邸宅敷地に建設されたそうですね。

玄関前のアプローチ

玄関前のアプローチ

特別展「いのちの輝き」のご案内

特別展「いのちの輝き」のご案内

 こころの原点を見つめる散策となりました。

打ち破る、変える力って?

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 ここ数年、いくつかの集まりに出席していて、つくづく日本の組織の新陳代謝への疑問を感じます、急にどうしたと思われるかもしれませんが、例えば、会合とか式典での冒頭あいさつ、ひどいものが多いのですよ、お年寄りの繰り返しと延々と続く挨拶、不適切な言葉・フレーズの使用、それ以上にそういった人の役回りを変えられない組織の硬直性とでも言うのでしょうか、呆れる場面に出くわすと、思わず日本の今の社会、古い体制とか仕組みを打ち破る力、変える力はどこに存在して、或はどう育成していくか、暗澹たる気持になるのです。ワンフレーズでは「新陳代謝を促す装置の欠如」でしょうか。

 国際会議でこうなってくると、「日本の恥」と感じてしまうのは言い過ぎでしょうか。ただひたすら、不適切な言葉・内容を上手に通訳してくれ、敢えて訳さないでと祈るばかりの状態となります。

 人前で話をするというのは、メッセージの伝達であり、コミュニケーションの原点です。特に多くの聴衆への挨拶・演説は、誰にでも与えられる場ではなく、ことさらに吟味された言葉・内容でなければならないはずです。その貴重な機会で、意味のないどころか酷いものであれば、それこそ会自体を台無しにする犯罪性を帯びるものです。

 昨年のある大きな会合、会長職の年配の方が全体会議、昼食交流会時、懇親パーティで連日のご挨拶でした。まずは全てに同じ方に挨拶を割り振る運営側のセンスの無さが指摘されますが、どなたが原稿を書かれたのか、或は全く関与していないのか、全てが長すぎて気持よくそれ以降の次第が進行できなく、そもそも話の内容がゼロに近い(少なくとも私にとっては)のです。芝居でもそうですが、冒頭の「ツカミ」は大変重要で、会議のかなりの雰囲気を形作ります、形式的な時間潰しではないのです。

 また、今年のあるフォーラムでは、恐らく事務局が会長の冒頭の話が長くなると予想して原稿を渡してありました。それを読み終えて、私は今日は短く終わると思いきや、「さて、」と始まって延々とそこから15分、曖昧な語尾でどうでもよい持論を展開し始めたのです。こうなるともうただ「忍」の一字で時の過ぎるのを待つしかないですね。やがてご本人は、何事もなかったように「簡単措辞ですが」と言い放って降壇しました。

 考えてみると、お話の内容以前に、人事的に組織を代表する方がもう賞味期限が切れている場合が多いのかもしれません。その組織を代表するのですから、これまでにはもちろん輝かしい実績と足跡を残されていることに疑いはないのですが、人間は必ず衰えるものですし、ご本人の名誉の為にも、ピーク時に拍手喝采の中で舞台から降りて頂く「仕組み」を組織は持っている必要があると思います、本来は「任期」というのがそれなのでしょうが、機能していません。「勲章」の授与等は、昔はその機能を果たしていたのでしょうが、今では、それを受け取ってもなお現役職位に留まり続ける方が多くて困ります、高齢化の弊害ですね。とにかく、組織の長の若返りを急がないと、特に国際会議等での日本のステイタスは低落するばかりです。若い世代にもっともっとチャンスを与えていかなくては、です。

 この点、外国は実に躍動的です。登壇される方々のお話はコンパクトな中にメッセージを詰め込んだ小気味よい内容が多いような気がします。まずは圧倒的に短くせいぜい3分程度でしょうか、挨拶される方の持論の展開ではなく、それ以降に続く会合の趣旨等と関連するものが多いですね。言葉が吟味されてなおかつユーモアに満ちて、会に臨む姿勢の違いを感じます。

 日本のガラパゴス化は、組織形成にも顕著なのでしょうか。

 一方で、これまでの話でよく吟味されているなと思った事例は以下の通りです、日本語の簡素な美しさを感じます:

* 宮内庁HPより~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

平成27年 新年

  昨年は大雪や大雨,さらに御嶽山の噴火による災害で多くの人命が失われ,家族や住む家をなくした人々の気持ちを察しています。また,東日本大震災からは4度目の冬になり,放射能汚染により,かつて住んだ土地に戻れずにいる人々や仮設住宅で厳しい冬を過ごす人々もいまだ多いことも案じられます。昨今の状況を思う時,それぞれの地域で人々が防災に関心を寄せ,地域を守っていくことが,いかに重要かということを感じています。

  本年は終戦から70年という節目の年に当たります。多くの人々が亡くなった戦争でした。各戦場で亡くなった人々,広島,長崎の原爆,東京を始めとする各都市の爆撃などにより亡くなった人々の数は誠に多いものでした。この機会に,満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び,今後の日本のあり方を考えていくことが,今,極めて大切なことだと思っています。

  この1年が,我が国の人々,そして世界の人々にとり,幸せな年となることを心より祈ります。

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* 2015年4月 パラオ訪問時の晩餐会での天皇陛下ご挨拶から~~~~~~~~~~

  ミクロネシア地域は第一次世界大戦後、国際連盟の下で、日本の委任統治領になりました。パラオには、南洋庁が設置され、多くの日本人が移住してきました。移住した日本人はパラオの人々と交流を深め、協力して地域の発展に力を尽くしたと聞いております。クニオ・ナカムラ元大統領はじめ、今日貴国で活躍しておられる方々に日本語の名を持つ方が多いことも、長く深い交流の歴史を思い起こさせるものであり、私どもに親しみを感じさせます。


  しかしながら、先の戦争においては、貴国を含むこの地域において日米の熾烈(しれつ)な戦闘が行われ、多くの人命が失われました。日本軍は貴国民に、安全な場所への疎開を勧める等、貴国民の安全に配慮したと言われておりますが、空襲や食糧難、疫病による犠牲者が生じたのは痛ましいことでした。ここパラオの地において、私どもは先の戦争で亡くなったすべての人々を追悼し、その遺族の歩んできた苦難の道をしのびたいと思います。

  また、私どもは、この機会に、この地域の人々が、厳しい戦禍を体験したにもかかわらず、戦後に慰霊碑や墓地の管理、清掃、遺骨の収集などに尽力されたことに対して心から謝意を表します。

・・・・・・・・・・・・・
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* 沖縄県知事選挙の菅原文太 https://www.youtube.com/watch?v=8PFTMiaHXAc

2015年、敗戦から70年の節目

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 新年明けましておめでとうございます、皆さまに於かれては如何お迎えでしょうか。元旦の札幌は、気温は低めながら陽射しを浴びての穏やかなスタートです。

 今年は、1945年の敗戦から70年の節目を迎え、一層「戦争をしない国づくり」に正面から向き合う重要な年となりそうです。今の政治状況では、国際社会の私たちの立ち位置は、政治に期待するどころか火種ばかりを振りまいて全く信頼ができません。むしろ、これまでに培ってきた民間企業・市民同志による信頼と実績に基づいた関係性を大切にしていきたいものです。

 そして、もう一つ、宮内庁には頑張ってもらいたいですね。今朝の報道の天皇陛下のメッセージも、今年の冒頭のご挨拶としては素晴らしく時機を得たものだと思います(http://www.hokkaido-np.co.jp/news/dogai/583555.html)。

宮内庁HPより~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

天皇陛下のご感想

平成27年

 昨年は大雪や大雨,さらに御嶽山の噴火による災害で多くの人命が失われ,家族や住む家をなくした人々の気持ちを察しています。また,東日本大震災からは4度目の冬になり,放射能汚染により,かつて住んだ土地に戻れずにいる人々や仮設住宅で厳しい冬を過ごす人々もいまだ多いことも案じられます。昨今の状況を思う時,それぞれの地域で人々が防災に関心を寄せ,地域を守っていくことが,いかに重要かということを感じています。

 本年は終戦から70年という節目の年に当たります。多くの人々が亡くなった戦争でした。各戦場で亡くなった人々,広島,長崎の原爆,東京を始めとする各都市の爆撃などにより亡くなった人々の数は誠に多いものでした。この機会に,満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び,今後の日本のあり方を考えていくことが,今,極めて大切なことだと思っています。

 この1年が,我が国の人々,そして世界の人々にとり,幸せな年となることを心より祈ります。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ HP からの引用おわり

 私的には、今年は「札幌遠友夜学校記念館」建設に向けた資金集めの正念場、夜学校の理念を今の時代的な解釈を加えてどんな事業を展開していきたいのかを含めて、幅広く広報活動にまい進して参りたいと思っています。そして、昨年から新たに引き受けた(公財)北海道演劇財団と(一財)北海道札幌南高等学校林の理事長を含めて、従来の諸団体の理事長等の任に恥じないように誠心誠意頑張って参り所存です。

* (公財)北海道演劇財団 http://www.h-paf.ne.jp/kouhou-39.pdf

* (一財)北海道札幌南高等学校林 http://www.rikka-forest.jp/

 今年も札幌の地下歩行空間には、高校の後輩たちによる力強い書が公開されています。

札南高・書道部による今年の干支「羊」です!

札南高・書道部による今年の干支「羊」です!

 今年も宜しくお付き合い下さい!!

奈良で学ぶ (1)

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 「第3期寺島戦略塾(http://terashima-bunko.com/bunko-project/strategic-management.html」、今回は奈良・薬師寺(http://www.nara-yakushiji.com/index.html)で山田法胤管主の特別講義でした。

* http://www.nara-yakushiji.com/guide/soryo.html

山田の講義

山田法胤管主の特別講義の会場「まほろば会館」、舞台奥には神様が

 講義に先立ち、大谷徹奨執事(http://www.tetsujo.net/index.php)による薬師寺のご説明とご案内も印象的でした。特別なお部屋にご案内して頂き、間近で拝見することも出来ました。

 薬師寺は「法相宗[ほっそうしゅう]」の大本山です。天武天皇により発願(680)、持統天皇によって本尊開眼(697)、更に文武天皇の御代に至り、飛鳥の地において堂宇の完成を見ました。その後、平城遷都(710)に伴い現在地に移されたものです。(718)
現在は平成10年よりユネスコ世界遺産に登録されています。

さんの説明とご案内

大谷徹奨執事の説明とご案内

薬師寺境内の梅も満開

薬師寺境内の梅も満開

玄奘三蔵

玄奘三蔵院

HPより~~~~~~~玄奘三蔵(http://www.nara-yakushiji.com/guide/genjyosanzo.html

 玄奘三蔵(600または602~664)は中国・隋の時代に生まれ、唐の時代に盛名を馳せた仏法僧です。いまでは、三蔵法師といえば玄奘三蔵のことを指すようになっていますが、もともとは釈迦の教えの「経」、仏教者の守るべき戒律の「律」、経と律を研究した「論」の三つを究めた僧を三蔵といい、普通名詞なのです。したがって大勢の三蔵法師がいましたが、なかでも玄奘はきわめて優れていたので、三蔵法師といえば玄奘のこととなりました。

~~~~~~~~~ 引用 おわり

つづく

航空発祥の地 in 所沢

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 8月は「戦争特集の月」と数回前のこの欄に書きました(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=17629)。今年はなぜか「零戦」関連の話題が多いですね。

 先日は、埼玉県所沢にある「所沢航空発祥記念館(http://tam-web.jsf.or.jp/contx/modules/tinyd1/index.php?id=1」を訪問しました、ニュース映像でも紹介されています(http://www.nikkei.com/video/?bclid=67379774001&bctid=584058891002&scrl=1)。映像で零戦の操縦席に座っているのが、金髪の男性というのは違和感がありますね、「今はお前たちの零戦ではない」と言わんばかり、ここはアメリカ人的には譲れないところなのでしょうか。

航空発祥の地:日本で最初の飛行場

航空発祥の地:日本で最初の飛行場がこの地に建設

特別展:堀越二郎の生涯

特別展:堀越二郎の生涯

展示されている「零戦」

展示されている現物の「零戦」

「零戦」操縦席の照準器からみる敵戦闘機

「零戦」操縦席の照準器からみる敵戦闘機

 見ているうちに、2010年6月に訪問した「大和ミュージアム:http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=4585」を思い出しました。いずれも「日本の技術」に敢えて焦点を当てて、それを支えた技術者たちの紹介でした。

 一方、「零戦」といえば、映画「風たちぬ:http://kazetachinu.jp/」も話題沸騰ですね、先日の札幌でも若い方々を中心にかなりの観客でした。こちらも「戦争」をテーマにしたというよりも、技術者のロマンと愛情、流れる曲も含めて、「生きねば」をテーマに夢にあふれた作品でした。すでに580万人以上を動員し、ベネチア国際映画祭コンペティション部門にノミネートされました。声の出演者が重厚で、随所のキメ台詞が見事でした。

映画のHPから引用です~~~~~~~~~~~~~

この作品の題名「風立ちぬ」は堀辰雄の同名の小説に由来する。ポール・ヴァレリーの詩の一節を堀辰雄は“風立ちぬ、いざ生きめやも”と訳した。この映画は実在した堀越二郎と同時代に生きた文学者堀辰雄をごちゃまぜにして、ひとりの主人公“二郎”に仕立てている。後に神話と化したゼロ戦の誕生をたて糸に、青年技師二郎と美しい薄幸の少女菜穂子との出会い別れを横糸に、カプローニおじさんが時空を超えた彩どりをそえて、完全なフィクションとして1930年代の青春を描く、異色の作品である。

~~~~~~~~~~~~~~~引用 おわり

 映画では、こちらも今、話題です、「終戦のエンペラー:http://www.emperor-movie.jp/」。「風たちぬ」から比べると観客の平均年齢は少々高め。劇中に登場する関屋宮内庁次官は、この映画のプロデューサー・奈良橋陽子さんの祖父(関屋貞三郎/奈良橋の母方)にあたり、共同プロデューサーで息子の野村祐人さんの曾祖父にあたるそうですね。お父様(奈良橋一郎)も外交官で、奈良橋さんにも幼い頃から、「些細な行き違いからはじまる誤解や喧嘩、ひとりひとりがそれぞれ平和を願う立場を理解すれば、戦争はなくせる」とよく語られていたようです。そんなメッセージも込めての映画と受け止めました。ハリウッドの視点から「昭和天皇」を表現する方が、日本国内的タブーが少なくて新鮮ですね。

 アニメとフィクションは、ドキュメンタリーと違って歴史的事実を軸にはしていますが多彩なストーリーが組み込まれて、かえって奥深い作品になっていると思います。歴史研究者とかドキュメンタリー作家の方々も、「こういう解釈が出来るのか」と、新しい気づきがあったのではと感じます。「映画作品」としての面白さ、違った視点からの新鮮な物語、硬直しがちな歴史に何か揺さぶりとスパイスを与えてくれるようで面白かったです。

 今年、2013年も8月が終わろうとしています。私にはまだ戦争、とりわけB・C級戦犯裁判を巡って調査・検証の宿題が残っています。引き続きイギリスの裁判記録を求めて、何とか扉を開けられる手立てを考えなければなりません・・・・・。

「キスカ撤退作戦」成功から70年

Posted by 秋山孝二
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 「キスカ撤退作戦(http://ww31.tiki.ne.jp/~isao-o/battleplane-16kisuka.htm)」成功から70年の今年、作戦完了の日7月29日に東宝映画「キスカ」鑑賞の「海鴎の集い」のご案内があり、参加しました。私の父はこの作戦で、旗艦「阿武隈」の通信長として参加し、司令部と艦隊・木村昌福司令官とのやり取りを含めて、重要な任務を担っていました。先日は、この作戦に南方戦線から招集された方、予科練生ほかの方々が集まられ、その後の懇親会でも当時の生々しいお話を伺うことができました。

ベーリング海での作戦航路

ベーリング海での作戦航路

 海軍士官だったお私の父について、2年前の8月、北海道新聞の終戦特集・5回連載記事でも紹介された「ビハール号事件」にからむ、これまでのこの欄での記載です(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E3%83%93%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%8F%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6)。

 この連載後、さらに関係するお話を聞こうと、様々な方とお会いしていますが、特に広島県呉市の「大和ミュージアム」館長・戸高一成さんとの面談は強く印象に残っています(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=11782)。その中で、再度思い出しておきたい戸高さんのお言葉を:

~~~~~~~昨年2月訪問時のまとめから 引用

* 組織と責任の取り方については、今の原子力発電所事故のその後の過程でも全く同様に、あいまいな構図を見て取れる。体制的に責任の所在が不明確。軍令部は天皇の参謀として大枠の命令は出すが、現地での戦略は現場の連合艦隊が行う。従って失敗しても責任が不明確になる。軍令部は現場が悪いと思い、現場の連合艦隊は方針そのものが悪かったと思う。だから失敗を次の戦略に活かすことができなかった。

* 戦後の反省会でも、「組織が悪かった」とは思っていても、その任を担っていた「個人の責任」とは最後まで考えていない所に、「責任を取る」、「責任を取らせる」発想が生まれてこないし、これは日本社会の特徴なのではないか、現代でも同様である。

* 日露戦争の日本海軍の完全勝利により、「無敵艦隊」との認識が続き、海軍には「負ける」という言葉がなかった。本来は、戦争遂行能力が無くなった時期に、戦いの終結を検討すべきが、誰もその勇気が無かった。最後まで「帝国海軍の面子」のためにだけ戦い続ける愚、「日本国の将来」と言った理念は見い出せない。

~~~~~~~引用 おわり

~~~~~~~もう一つ私のブログ(「錯誤・失敗」の責任)より

http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=11196

~~~~~~~引用 おわり

 最近、私は思うのです、太平洋戦争当時の「帝国海軍」の幹部たちは、実は悪い意味の「官僚」でしかなかったのではないか、と。「確固たる理念」とか、「国際社会の中での日本の位置づけ」とかのビジョンが、明治直後の創設期から時間の経過とともに失せていったのではないか、と。個々の人材のキャリアは、エリート教育として今と比べても海外任務も豊富で見聞も広く、当時としては最高の質・量だったのでしょうが、日清・日露戦争勝利からくる驕りと傲慢さによる「組織としての目的・理念」の退廃が目立ち、「戦争の大義」が何なのかはどこかへ消え、ただ、「組織維持」とか「メンツ」とかが最優先となっての展望なき状態でした。

参考:http://v.youku.com/v_show/id_XNTI0MTI4MjYw.html

 これは、海軍だけではありませんね。敗戦時の中国戦線での陸軍幹部の行動を検証しても、ただただ戦勝国への心証を良くしようとの目的で、様々の情報を自ら進んで提供している事実を知るにつけ、「幹部の退廃」と「組織の劣化」を痛感します。

 どうしても8月は戦争と向き合わざるを得ません。今の日本、戦後教育が置き忘れたエリート教育の欠如からくるものか、その上の世代の抜け殻のような虚ろな眼、どのセクターにも「優れた人物」を見出すことが難しい状況は、危ういですね。まさに、戦後の高度成長を担った方々は「総退陣!」なのでしょう。

会合の「品位」みたいなもの

Posted by 秋山孝二
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 6月は、様々な会合の「総会シーズン」で、私が所属する会も例外ではありません。ある会では一会員として、あるものは役職がつく責任者として関わっているものが増えてきています。

 以前、地場企業の代表取締役の時は、上場会社としての株主総会の準備に追われ、数回のリハーサル等、まるで舞台の役者並み?一方で私は40歳代でも50近くの「公職?」に名を連ねていて、折角なら何とかして欠席はしたくないとの思いも強く、この時期の時間割は大変なものでした。企業合併に際し1998年から名古屋に代表取締役副社長として単身赴任する時には、「これからは札幌には居りませんので」と、断りの決まり文句で幾つかは減らすことになりました。ただ、その後2002年末に札幌に戻った後は、「今度はずっと札幌に居るのだろうから」と反撃にあって、また引き受けざるを得ない(ネガティブな表現お許しを)状況になりました。

 でも、そんなお誘いを引き受けて、地元で腰を落ち着けて多くの市民活動、公益活動に関わっていると、企業経営者だった時に置き忘れた課題・活動への気づきも多く、今は多忙な中でも感謝の気持がふつふつと湧いてくるから不思議ですね、特に、経済界ではお目に掛かれない新しい分野での素晴らしい人たちとの出会いは、生きていて良かったと素直に言えるほど感動します、自分自身の「宝」です。

 今年も、先週から今週にかけてがこのシーズンの大きな山場でした。その中で、集まっている方々の「品位」というか、ある「レベル」というか、何と表現したらいいのでしょうか、会終了時に思わず横にいた役員の方と笑顔で納得し合った会がありました。一つは「一般財団法人 北海道札幌南高学校林:http://www.rikka.net/officer/」と「六華同窓会:http://www.rikka.net/」です。ただ、高校の同窓関連の宣伝で言っているのではありません、両方のこれまでの長い活動が、財政基盤等ほか幾つかの将来的課題を抱える転換期であり、数年前からこれらの活動と組織改革に真正面から取り組み、若い世代の同窓生とともに今年「結果を出した」、それを実感したからなのです。

 数年間一緒に、ほぼ毎月食べ物・飲み物を持ち寄って議論した私より一回り近く若い後輩たち、そして先日、新しい方向性を示した改革案を全会一致で承認して頂いた先輩を含めた現在の役員の方々の見識等が素晴らしかった。今年の集まりは今までで最高の参加者数となり、会が終わって帰り際に、「どの期の人たちも実に端的な発言の中でメッセージを伝えていたね」とか、「財務体質が随分改革されて良くなったね」とのお褒めの言葉を頂戴して、これまでの労苦が報われるとともに、一緒に議論をしてきた若手の「仲間」たちにも、心から感謝したい気持でした。

 昨今、「納得のいく会議」というのが実に少ないのですよね、本当に。やたらどうでも良いことを長々と時間つぶしのように説明する役員、毎回同じことを繰り返す高齢の「元(!)有識者」、以前にも書きましたがまさに人の時間を盗むような「時間泥棒」的会合の山々には閉口しますが、この一週間は何か心が清々しい、6月の札幌の青空のようなのです。

 「一般財団法人 北海道札幌南高学校林」の活動については、特筆するこちらをご覧下さい(http://www.dokyoi.pref.hokkaido.lg.jp/hk/ksi/grp/01/061hakozaki.pdf)。長年この活動を続けていて、今年それが評価されて、「内閣総理大臣表彰」を受け(http://www.env.go.jp/press/file_view.php?serial=21975&hou_id=16569)、天皇陛下ご臨席の下、表彰式に富田校長、定時制生徒も参列し、その後の懇親会では陛下から直々のご質問もあったとか、「学校林はどこにあるのですか?」と。急なご質問に対して富田校長は、「ハイ、清田区にあります」と、極めてローカルな迷返答だったとのご自身のご報告もありました。

 自分が責任者とかパネラーとか運営側として舞台上に立っている集まりでは、いつもこの欄に掲載しているような写真が撮れないのが残念なのです。私の「雄姿!」が記録としてここに残らない、それもまた、「渦中にいた証」としての勲章だと自分に言い聞かせることにしています。

映画「100年の谺(こだま)」

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 映画 「100年の谺(こだま):http://taigyaku-movie.net/」上映会が、先日、市民300名の超満員で大盛況でした。内容は大変重く、多くの問題を私たちに突きつけて、歴史と真摯に向き合う姿勢をあらためて認識しました。 

 この映画では、「大逆事件」の犠牲者たちが何を考え、何をしようとしたかを明らかにするとともに、事件に対する日本の文学者達の数少ない反響を、当時フランスで起こったドレフュス事件との対比でも検証しています。

 第二次世界大戦後になって、大逆事件は再審の厚い壁に阻まれてきましたが、事件の真相が明らかになってくるにつれて、各地で犠牲者の名誉回復や顕彰をする活動が生まれ、現在に至っています。HPには、「大逆事件とはなんだったのか? 国家と司法、国家と人権、国家と私たち…、100年たった現在もなお、それは、私たちの胸の中に谺(こだま)のように 重い問として残りつづけている」、と書かれています。作品は以下の通りです。

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<主なスタッフ>

企画:白井堯子・富田玲子・藤原智子 脚本:藤原智子 演出:田中啓 演出補:山崎欽毅 撮影:松田重箕

CG:田中龍雄 朗読:高橋理恵子 語り:根岸朗 音楽:松島美毅子 制作:千原卓司

企画:「大逆事件」製作委員会 製作:イメージブレーン

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 幸徳秋水については、これまでこの欄に2回程書きました。高知県四万十市中村を訪問した時には、幸徳秋水のお墓にも足を運ぶことができました。

* 土佐で:http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=3916

* NHKテレビで:http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=11674

 

 インターネットで検索すると、千原卓司(上映委員会事務局http://www.saiban-kenpo.org/hatugen/backnumber/120910.html )さんのコメントが心に残ります。

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 実際に起こってもいない天皇暗殺計画をフレームアップし、彼らを死刑や無期懲役にし、迫害したり一家離散の責め苦を負わせたのです。その裁判が行われた大審院では、審理を非公開とし、証人申請はすべて却下し、翌年には早々と判決を言い渡しています。死刑判決を下した24名のうち12名を、間髪を入れず、処刑したのです。これが大逆事件の大要です。

 大逆事件当時は、予審判事が起訴して公判判事が公判にあたっていたわけですが、まさに両者が結託してほとんどの被告人を判事がつくったストーリー通りに有罪にしていきました。そのことに対しては当時からすでに違法との指摘があったようです。映画の中にも出てきますが、石川啄木も怒りを感じて「日本はダメだ」と日記に書いています。

 この事件はいまも、国家権力というものに私たち一人ひとりの市民がどう対峙していくかを問うているように思います。国家が権力だなんて、日常的にはピンとこない人が私も含めてほとんどだと思いますので、ぜひ一緒に考えていきたいと思っています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~ コメント引用おわり

 翌日の地元紙に、この上映会の記事が掲載されて、そこで大逆事件を「冤罪」とする記述がありましたが、「冤罪」というのは、ある事件が実際起こり、その犯人に全く関係の無い人が何らかの力でされることなのではありませんか。実際に起こってもいない「でっち上げ計画」により逮捕して事件に仕立て上げるのは、それ以上の「犯罪」だと思います。以前、鹿児島県警察による「志布志事件」も全く同じ構図でしたね、大逆事件は昔の話ではなく、まさに今の時代にも発生することを、私たちは肝に銘じる必要があるでしょう。

 今回の上映会に、弁護士の皆さんも多く参加されていました。これまで関係者の地域、宗教界は、名誉回復等、事件の不当性を形で撤回する活動をされてきていますが、日本の司法、とりわけ裁判所、弁護士は、これまで自分たちのフィールドで、どれだけ努力をされたのでしょうか。名誉回復、再評価等、自身のフィールドできっちり歴史を上書きする活動こそが、誠実に向き合うことだと思います。

学校林100周年沿革誌

Posted by 秋山孝二
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 北海道札幌南高の学校林(http://www.rikka.net/officer/)は、今年度で100周年を迎え、今、その「100年沿革誌」の編纂の大詰めを迎えています。私は編纂委員会の一委員として、この間関わってきていますが、3月末の出版を目標に、最終の議論を年明けから行っています。

 学校林については、これまで何回か書いてきています。

* http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=6209

* http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=13836

 

 この学校林は、1911(明治44)年、当時皇太子だった大正天皇のご来道を記念して行われた造林を機に、当時の学校長山田幸太郎先生の構想により設立され、現在では「一般財団法人 北海道札幌南高等学校林」が運営しています。白旗山山麓の約121haに及んでおり、毎年一年生が枝打ち作業に行く他、山菜採り、キノコ狩りといった散策会も行われています。又、国蝶であるオオムラサキの繁殖計画、その繁殖するエゾエノキの植樹ほか科学部のフィールドとしても活用されており、平成18年度全日本学校関係緑化コンクール学校林活動の部で北海道の高校では初となる「特選(農林水産大臣賞)」を受賞しました。

 沿革誌には、その設立から今日までの経緯、及びこれまでに関わって来られた多くの先輩諸氏からの寄稿、さらには今後の「グランドデザイン」についてもその概略を記載する予定です。「未来は予想するものではなく、創り出していくものである」を合言葉に、これまでの先人のご尽力に感謝しながら、これからの世代に託す夢も含めて、歴史を紡ぐ作業として努力したいと思っています。明治・大正・昭和・平成と、100年の歴史を見続けたこの森の木々は、自らの樹木の変遷としてその時間を記憶しています。

 「グランドデザイン」の理念には、以下のフレーズを書き留めるつもりです。3月末発刊、乞うご期待!!

~~~~~~~~~~~~~~~~~~学校林は、白旗山の一部をなし、複雑な沢や尾根をもつ多様性と魅力のある森林です。この森を潤した水は、厚別川から石狩川へ、そして日本海へと注ぎ、海の命とつながる位置にあります。そして学校林は、教育の場であり、同窓や地域の交流の場であり、自然資源を生み地域経済に資する場であり、世代間の架け橋でもあります。連綿と続く札幌尋常中・札幌中・札幌一中・札幌一高・札幌南高の歴史とともに歩んできた学校林は、これからも六華同窓の縁とともに、美しく豊かに続いていきます。学校林は、参加型の共有資源『コモンズの森』、いわば六華みんなの森、「六華フォレスト」です。~~~~~~~~~~~~~~~~~

2012年の大みそかに思う

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 2012年もいよいよ大みそか、皆さまにとって今年はどんな年でしたか?

 私は前半はいいペースで動いていましたが、夏過ぎからは少しずつの無理なスケジュールが影響し次第に過密になってきて、思索の時間が不足となり、年末はもうヘトヘト感で大いに反省しています。パネラーとか司会とか、ステージに立つ機会も多かったですね。気持はまだまだ旺盛なのですが、仕事の整理がつかない状態、机の上はかつてない程に資料の山、散らかってしまいました。ただ、私の能力減退というよりも、関わってきた一つ一つのテーマ・活動が「つながり」はじめて、これまでのカテゴリー分けでは収拾がつかなくなってきたような、そんな意味では「嬉しい悲鳴」とふり返っています。

 私にとって印象的な出来事は、北海道日本ハムファイターズの活躍です。この「部屋」でもこれまでたくさんコメントをしました(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%83%8F%E3%83%A0%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%BA)。今年は特に栗山監督の初年度の挑戦でしたが、実に立派だったし、ことに臨む姿勢から多くの事柄を学びました。ダルビッシュの札幌ドームでの記者会見に始まり、メジャーでの活躍も含めて、私の元気の素でした、ありがとうございました。

 活動としては、「エネルギーチェンジ100プロジェクト」ですね、これについてもここで何回も書きました(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E3%82%A8%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%82%AE%E3%83%BC%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%82%B8100)。来年は是非、北海道での「再生可能エネルギー円卓会議」を構築したいと思っています。

 もう一つの来年に向けての挑戦は、人材育成の原点、「新渡戸稲造・遠友夜学校」を札幌の教育の柱にしていく活動です。新渡戸稲造についてもここで何回も書きました(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E6%96%B0%E6%B8%A1%E6%88%B8%E7%A8%B2%E9%80%A0)。今年は「生誕150年」でしたが、私自身は動きが取れませんでしたので、来年の「没後80年」には札幌のまちづくりとコラボレーションし、幅広い方々の参画を得て、「事業」を構築していくのが夢であり、正夢としたいですね。

 

 今年は「大正100年+1」でした。別の言い方をすると「明治天皇没後100年(http://www.asahi.com/national/update/1203/TKY201212030227.html)」、「昭和87年」で、そして「明治144年」とも。あと13年で「昭和100年」、2025年です。そんな時間軸で今を捉えて見ると、新しい歴史の気づきも生まれてきます。

 こんなテレビも気になりました、NHK教育テレビ(http://www.nhk.or.jp/nihonjin/schedule/index.html)。歴史を多面的にしっかり振りかえる、いつの時も忘れない姿勢でありたいですね。

 秋山財団も26周年を終えて、来年はさらに飛躍して参ります。これまでの資産を「つなぐ」をキーワードに、研究助成での「アウトリーチ活動」、活動助成での「ネットワーク形成」を主要テーマに、これからもイノベーションを継続して参ります。今年一年、多くの皆さまにご支援・ご指導頂き、心から感謝申し上げます、皆さま、どうかよいお年をお迎え下さい!

師走の山陰は、今(2)

Posted by 秋山孝二
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 鳥取県西伯郡(さいはくぐん)大山(だいせん)町(旧名和町)御来屋(みくりや)駅は、旧山陰本線で最も古い駅だそうです。

 その近くの浜にある「後醍醐天皇御腰掛け岩(http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E133.29.50.318N35.30.30.016&sw=6)」です。

鳥取県大山町御来屋駅近く

鳥取県大山町御来屋駅近く

  海の中にあった岩を陸上に引き上げてお祀りしているそうです。

歴史をストーリーとして語り継ぐ、素晴らしいです!

歴史をストーリーとして語り継ぐ、地域の知恵ですね

 続いては「名和神社:http://www.genbu.net/data/houki/nawa_title.htm」で、名和長年を祀って、名和一族以下42名を合祀しています。名和長年は、鎌倉時代末に隠岐国から脱出した後醍醐天皇を迎えて倒幕に功があり、南北朝時代には南朝について戦った武将です。歴史的人物もこの神社に多数お参りしてきた記録が残っていて、御来屋駅はその意味でも由緒ある駅として有名です。

 名和神社の旧社格は「別格官幣社」。建武中興十五社(http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/sonota/kenmu15/kenmu1.html)の一社で、現在の名和靖恭宮司としばし懇談の時を持ち興味深いお話でした、社紋は名和氏の独占「帆懸船」がユニークでした。ここの鎮守の森でさえも、最近のまちづくりの道路開発、乱開発により、その保全に危機が訪れているそうです、何とも、歴史への挑戦であり冒とくですね。

名和神社表参道

名和神社表参道

正面から御社を

正面から御本殿

 とにかく、北海道と比べて、さかのぼる歴史の時間軸が違います。どんより曇ったこの日でしたが、日本海の向こうからやってきた多くの人々の足跡をたどるような不思議な時間を「味わい」ました。

キッシュさん親子、日本に寄せる心

Posted by 秋山孝二
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 この欄に、何回も登場しているキッシュ・シャンドールさんは、15年以上も駐日ハンガリー大使館(http://www.mfa.gov.hu/kulkepviselet/JP/jp/)に勤務されていた元外交官です。奥さまは学校で日本語の教師をつとめられると同時に、ハンガリーで日本語の国家試験の問題作成にも当たられています。お嬢様のレイカさんは、完璧な日本語を駆使してプロの通訳としてご活躍中、10年前の7月に天皇・皇后両陛下がハンガリー・ブダペストをご訪問された時(http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/speech/speech-h14e-easterneurope.html#HUNGARY)には、美智子妃殿下の公式通訳をされました。とにかく敬語の使い方ほか、正確で優しい彼女の日本語に接して、あらためて日本語の美しさを感じ取ります。ブダペストでご活躍の息子さんは、コンピューターのエンジニア、やはり日本語に堪能で、とにかくキッシュさん一家の日本に寄せる熱い気持には、こちらが感動します。

レイカさん、シャンドールさん、堅田さん、お疲れ様でした

レイカさん、シャンドールさん、堅田さん、お疲れ様でした

 これまで、いくつか書きました:

* 2年前に札幌で開催されたフォーラム(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=6371

* 同じ年、東京中野区の哲学堂公園に建立された「哲学の庭」一周年記念フォーラム(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=6768

* 昨年のルーマニア・ハンガリー訪問での式典&フォーラム(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=10355、 http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=10423

 毎回、キッシュさんは中心になってご準備をされて、お世話になっています。札幌の劇団がハンガリーを訪問した時も、ワグナー・ナンドール関係の訪問でも、笑顔を絶やさず、そのホスピタリティには学ぶことばかりです。

 「外交官」と言えば、私はこれまでたくさんの「外交官」にお会いしてきましたが、正直に言って、どこか「尊大な」方が多く、親しみを感じることが難しかったですね。外国でお仕事をされていると、数々の外交特権があり、仕事を終えられた後も何かその「特権から抜けられない人格」となってしまうのでしょうか。特に、戦後の経済成長を成し遂げた日本国の経済力を背景に仕事をされたきたゆえなのかもしれません。

 ある北欧の国の日本大使館の外交官(ある省から大使館に出向中)は、夕食をご一緒中に突然パスポートか身分証明書を私に見せて、「この番号があると、レストランで代金を踏み倒すこともできるんだ!」と。私は思わず、「はぁ、それで?」と言ってしまいました。

 また、アメリカのある都市に駐在の総領事は、企業訪問を続けていた私に、「最近の民間外交も御熱心ですな~」と、冷やかな笑いで言い放ちました、真剣な企業訪問を薄っぺらな「外交」と一緒にされてはたまりません、第一に「民間外交」という言葉自体、何と侮蔑した表現ではありませんか。一方、ヨーロッパで大使館勤務を経験されてワインにお詳しい方は、「私は大使館勤務で、ヨーロッパのワインを殆ど試してみました」と誇らしげ。「ワイン通」を自称する方で、ご自分のお金で飲んで経験を積んだ方は数少ないですね、特に外交官の場合は、「国民の税金」でしょう、その国民への感謝の気持も全く感じていない、何がワインの味ですか。これまでの「くそ~っ」と思った体験を書き始めたら止まらないので、この辺にしておきましょう。

 そんな中で、キッシュ・シャンドールさんは、トランシルバニアと日本の関係では際立った造詣の深さです。その成り立ち、歴史認識、人への思い等です。知識と人柄が調和した「品格」をお持ちと言えば宜しいのでしょう。

キッシュさん(左)に感謝です

キッシュさん(左)に感謝です:成田ビューホテル前庭の「道祖神」像で

 キッシュ・シャンドールさん、レイカさん、これからも宜しくお願い致します!

テーケシュ・ラズロー氏、来日!

Posted by 秋山孝二
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 欧州連合(EU:http://www.deljpn.ec.europa.eu/modules/union/development/)・欧州委員会(http://www.deljpn.ec.europa.eu/modules/union/institution/commission/)の副委員長だったルーマニアのテーケシュ・ラズローさんが、初めて来日しました、私とは2004年以来、久しぶりの再会です。

 1989年のティミショアラの集会(http://blog.goo.ne.jp/azianokaze/e/9b41d4b8aaefbf91438dd4e8738601de)は、ルーマニアのチャウシェスク政権崩壊のきっかけとなりました。昨年、私が式典・フォーラムで訪問したナジュバラド(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=10353)は、彼の本拠地です。このティミショアラの集会後、初めての外国メディアの取材が1990年の日本のNHKで(http://www.nhk.or.jp/archives/nhk-archives/past/2005/h060313.html)、20周年の2009年にもドキュメンタリー番組で新たな取材もありました。これを記念したHPも出来ています(http://timisoara1989.ro/en/)。

初来日のテーケシュ・ラズロー氏

初来日のテーケシュ・ラズロー氏

 今回の彼の訪日の主たる目的は、益子にあるワグナー・ナンドール記念財団(http://wagnernandor.com/indexj.htm)での「ハンガリアン・コープス:http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=10357」の除幕式出席です。昨日は、地元益子町(http://www.town.mashiko.tochigi.jp/)の大塚朋之町長、ハンガリーのワグナー・ナンドール・フーマーナ財団のキッシュ・シャンドール理事長ほか、大勢の方々が参集されました。昭和天皇の誕生日、ナンドールとちよの結婚記念日と、おめでたい日のイベントでした。

益子での除幕式

益子での除幕式

大塚朋之・益子町長

大塚朋之・益子町長

キッシュ・シャンドールさんと通訳・お嬢様のレイカさん

キッシュ・シャンドールさんと通訳・お嬢様のレイカさん

 テーケシュさんはご挨拶の中で、「トランシルバニアにはこれまで政治的転換点が三度ありました。最初は、1848~49年の『オーストリアからの独立運動』、2度目は1956年の『ハンガリー革命(日本では動乱と言っているが)』、そして、1989年の『ティミショアラでの集会』を契機としたルーマニアの社会主義体制の崩壊です」と。この「ハンガリアン・コープス」像は、3つの革命で人類の自由獲得のために戦った人々の象徴であることを強調しました。

 ワグナー・ナンドールの生まれ故郷・ナジュバラドと歴史への関わりでの共通点(1956年ハンガリー動乱と1989年ティミショアラ)で始まる人間関係の織り成す物語は、まるでドキュメンタリー番組のようです。トランシルバニアの歴史から見ると、ルーマニアにおけるハンガリー人への弾圧と差別は、計り知れないものがあったのでしょう、彼の言葉の端はしから聞こえてきました、「ルーマニア人を恨んだことは一度も無かった、ただルーマニアの政権は、ひどいものだった」と。

 また、チャウシェスク政権下での、巧妙なハンガリー人排除政策(http://yosukenaito.blog40.fc2.com/blog-date-20091217.html)についても、幾つかの実例で示されました。歴史の転換点のど真ん中にいた彼が、「第二次世界大戦でともに敗戦した日本とハンガリー」、「戦う」、「立ち上がる」と語る時、今の日本ではあり得ない骨太のリーダーの姿を見た気がします。同じ時代を生きてきた私の人生と重ね合わせ、「歴史」を創ってきた堂々たる人間の生きざまを感じました。

戸髙一成館長とのお話から

Posted by 秋山孝二
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 広島県呉市の「大和ミュージアム:http://www.yamato-museum.com/concept/」、正式名称は「呉市海事歴史科学館」です。

 2年前にも訪問(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=4585)しましたが、今回は、館長・戸髙一成(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=9991http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=11196)さんとお会いして意見交換、いくつかアドバイスを頂くのが主たる目的でした。

大和ミュージアムから造船工場を望む

大和ミュージアムから造船工場を望む

玄関前:実物大の大和主砲砲身

玄関前:戦艦「陸奥」実物大の主砲身とスクリュ―

錨と

錨ほか

 これまで、一連のビハール号事件:http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E3%83%93%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%8F%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6」で、自分なりに歴史を検証してきたつもりですが、どうしても「戦犯裁判」の記録で、壁にぶち当たっていました。今後、B・C級戦犯裁判の証言記録を、どう追いかけていくか、その辺について貴重なアドバイスをたくさん頂きました。

 戸髙一成さんは、3年前の8月に、NHKスペシャル「日本海軍 400時間の証言:http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=1907」3回シリーズでも、高く評価されました。この番組の原点になった「海軍反省会」のテープを保管していることでも知られています。「海戦からみた日露戦争」、「海戦からみた日清戦争」、「海戦からみた太平洋戦争」等、著書もたくさんあり、館長ノート(ブログ:http://www.yamato-museum.com/concept/note/index.html)も興味深いです。今回は、初対面でしたが、テレビ・著書で私はあらかじめよく承知していたためか、或いは戸髙さんのお人柄なのか、初めてという気が全くしない、実に自然なやり取りでした。

 以下、お話から幾つか~~~~~~ 

* 戦争の反省: 敗因は、中枢にいた軍人たちが一番よく分かっている。「海軍反省会」等では、率直な意見が多く出されていたが、聞いた話が本になると、率直な発言が修正されるので、録音テープでの保管とした。なぜ戦争が起きたか、なぜ回避できなかったについて、現場の様子を伝えておかなければならないという認識で、この会は、1980(昭和55)年から1991(平成3)年まで131回開かれた。

* なぜか、海軍中枢に居た方々の会合に数多くお誘いを頂き、「反省会」の録音テープの発表に関しては、生前に発表されると本音が言えなくなる危惧もあり、20年を経て公にし、当初の参加者との約束を守った。

* 「反省会」は記憶の確認、責任の追及等、率直な発言が多かったが、自分たちは最善を尽くしたという言い訳的な発言も背景にはあった。

* 民間の商船撃沈、病院船攻撃、海に浮かぶ軍人・民間人の銃撃等は、戦争中にはどの海軍でも日常的に起きていた記録がある。「ビハール号事件」の場合は、救出して捕虜にした事態が、難しさを造り出したのだろう。戦争とは理不尽で、不条理。

* 「特攻」で逝った人を「英雄」と持ち上げるのは、これを命令した人たちの責任を回避するものであり、特攻の陰の部分だ。

* 海軍は国防の組織、国防は国民を守るための組織のはず、それを「特攻」という国民を殺す作戦を立案し実行し、本来の機能を失った。

* 日本の国は、国家と国民との間の「権利」、「義務」のバランスが甚だ悪かった。「徴兵」の義務を課する大前提として、国家はその国民のいのちを限りなく守る責任を負わなければならないはず。それが、戦後の「戦争責任」の議論にも強く影響してくる。

* 組織と責任の取り方については、今の原子力発電所事故のその後の過程でも全く同様に、あいまいな構図を見て取れる。体制的に責任の所在が不明確。軍令部は天皇の参謀として大枠の命令は出すが、現地での戦略は現場の連合艦隊が行う。従って失敗しても責任が不明確になる。軍令部は現場が悪いと思い、現場の連合艦隊は方針そのものが悪かったと思う。だから失敗を次の戦略に活かすことができなかった。

* 戦後の反省会でも、「組織が悪かった」とは思っていても、その任を担っていた「個人の責任」とは最後まで考えていない所に、「責任を取る」、「責任を取らせる」発想が生まれてこないし、これは日本社会の特徴なのではないか、現代でも同様である。

* 日露戦争の日本海軍の完全勝利により、「無敵艦隊」との認識が続き、海軍には「負ける」という言葉がなかった。本来は、戦争遂行能力が無くなった時期に、戦いの終結を検討すべきが、誰もその勇気が無かった。最後まで「帝国海軍の面子」のためにだけ戦い続ける愚、「日本国の将来」と言った理念は見い出せない。

* 軍は、本来は戦争をしないために存在する、抑止力としてあるにもかかわらず戦争を始めた。現実問題として、軍人・司令官の立場で、「戦争開始に反対」、「戦争を終結させる」ことの不可能なことをあらためて感じる。

~~~~~~~~~~~~~~~~以上、お話から

 

 インターネットで、「太平洋戦争」を検索をすると、実にたくさんのサイトが紹介されます。その中には、極端な戦争讃美、お決まりの懐古趣味、反戦一辺倒、個人を罵倒するような乱暴なブログ等、様々です。でも、今を生きる現役の私たちがしなければならないことは、これまでの多くの犠牲を無駄にしない「学び」から、二度と戦争を始めない国を創る議論を続け、実現することなのではないでしょうか、右翼も左翼もありません、人間としての基本として、です。そして、国際社会の中で生きている現在、それは一国では成し遂げることは不可能です、まさに「外交」の出番です。

 たくさんの海軍中枢の方々とお会いして、実際の生の声を聴いてこられた戸髙一成さんは、ほぼ戦後の同時代を生きてきた私の2年歳上です。今回お会いして、「戦争を語り継ぐ」ということ、「戦後生まれの世代の戦争との向き合い方」について、大きなヒントを得ました。先日、終り頃で、「何を知っているということより、史実をもとに自分の頭で考え続けることが大事だと思います」とおっしゃった言葉が、全てなのかもしれませんね。戸髙一成さま、お忙しい中おつき合い頂き、ありがとうございました。

 近いうちに、また検証を始めます、東京で、そして、ロンドンで、ですね!

岡寺、飛鳥寺&橿原神宮

Posted by 秋山孝二
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 今年は辰年、「龍蓋寺:http://www4.kcn.ne.jp/~balance/の名の奈良県飛鳥地方「岡寺」を訪問しました。私は今年61歳で「大厄年」、この最古の厄払いのお寺については、以前から寺島実郎さんも一押しで、いつか機会があればと思っていましたが、今回、やっと足を運ぶことができました。「岡寺」には実際、龍に蓋をしたといわれる「龍蓋池」も本堂の前にひっそりと。雪が降る寒風の中、レンタル自転車で約3時間走り回り、岡寺に向かう急な坂では自転車を押して登り、帰りは逆に急過ぎて乗るのが危険で、また自転車を支えて途中まで降りました。何のために自転車を岡寺入口まで持っていったのか、後から思えば我ながらよく分からなかってのですが、心地良い疲れではありました。

岡寺本堂

岡寺本堂ほか

岡寺、本来は「龍蓋寺」、龍に蓋をした池

岡寺、本来は「龍蓋寺」、龍に蓋をした池

 

 「岡寺」から5分程度でしたか、「飛鳥寺:http://www.asuka-tobira.com/asukakyo/asukadera.htm」、ここは596年に蘇我馬子が発願して創建された日本最古のお寺です。「飛鳥寺」の大仏の前でしばし立つと、左右の顔の表情が違うことに気がつき、空間まるごと歴史を刻んでいて、まるで別の時間が悠々と流れていて落ち着きましたね。この飛鳥地方全体については、「飛鳥資料館:http://www.nabunken.go.jp/asuka/」で一目瞭然、大変立派な資料展示でした。

日本最古の大仏

日本最古の大仏

 

 実は、飛鳥地方探索の前日夕方は、ひと気のない「橿原神宮:http://www.naranet.co.jp/kashiharajingu/」を歩きました。「パワースポット」と言われて、インターネット検索すると多様な紹介がされていますが、ひとそれぞれの感じ方が大切でしょうね。

橿原神宮:本殿を望む

橿原神宮:本殿を望む

 畝傍山の南東麓、約50万平方メートルもの広大な土地に建てられた檜皮葺き(ひわだぶき:檜の樹皮の屋根)で素木(しらき)造りの本殿と神楽殿、玉砂利の参道、背景の深い森の緑と穏やかな稜線のコラボは、時の流れを包み込み、壮大な物語を感じさせます。初代天皇であると伝えられる神武(じんむ)天皇が、橿原宮で天下を治めたという「日本書紀」の記述に基づき、1890(明治23)年に建てられました。祭神は神武天皇とその皇后・媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)で、本殿(重要文化財)は京都御所の賢所(かしこどころ)を移築したものです。 

 

 昨年は「秋山財団創設25周年」を記念してルーツをたどる活動で忙しく、今回は日本国のルーツを確認し、貴重な時間を過ごしました。「場のもつ説得力」、ここでもまた「歴史」を感じ取りました。

映画「英国王のスピーチ」

Posted by 秋山孝二
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 今年、第83回アカデミー賞(http://www.wowow.co.jp/extra/academy/)で、映画「英国王のスピーチ:http://kingsspeech.gaga.ne.jp/」が、作品賞・監督賞・脚本賞・主演男優賞など4冠に輝きました。同じくノミネートされていた「ソーシャル・ネットワーク:http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD16880/」は、脚本賞・編集賞・作曲賞の3つで、評論家筋では「圧勝」とのことです。

3人の表情が象徴的なポスター

3人の表情が象徴的なポスター

 吃音症に苦しみ、満足にスピーチ出来ない英国のアルバート王子(コリン・ファース)が、やがて国王ジョージ六世(現在のエリザベス女王の父)として、第二次大戦の開戦に、国民に向け感動的なラジオ・スピーチをする、あまりにも先が見え見えのストーリーではあります。コリン・ファースの「自信なげ」な感じが次第に変わっていく様子が分かりやすく、ドラマチックに盛り上がっていました。

 脚本の73歳、デヴィッド・サイドラーに負うところが大きいのでしょうね、本人自身も吃音症でこの作品への思い入れもあり、同時にジェフリー・ラッシュ、ヘレナ・ボナム・カーターの演技が素晴らしかったです。この作品がこんなに魅力的なのは、アルバート王子、妻、オーストラリア人治療士ローグが創り出す対立、和解、信頼が、的確に表現されているからでしょう。

 それと、映画前半は「治療する者と治療される者」「王室と平民」といった分かりやすい対立関係で、次第に、一歩踏み込んだ「人間と人間」に進化していく構図。「伝えるべきことがある!」とジョージ六世が叫び、ローグは国王の覚悟を確認しました。「あなたは勇敢な人だ」、「私に話して」、ローグの短い言葉に力を感じます。終盤、スピーチ直前の国王が語るローグへの感謝の言葉と、それを受けとめたローグの表情が印象的でした。

 ラストは、演説後にバッキンガム宮殿バルコニーから国民に手を振るジョージ六世の後姿、それを見つめるローグの微妙な表情も良かったですね。スピーチは感動的でも、戦争がこれから始まる、まさに前途多難な時代です。先日のロイヤルウエディングで、お二人が手を振っていたあの場所ですよね。

 大英帝国の国王と王室が、実はドイツ系であるということは背景として知っておく必要があります。第一次世界大戦ではドイツと戦い、しかもまたヒトラーの台頭によってドイツとの戦いが不可避のものとなってきたとき、国民感情への配慮を迫られました。この状況のさなかに国王に即位することを余儀なくされ、国民に向けてラジオ越しにスピーチをしなければならなかったジョージ六世の心中を察すると、さらに映画を深く味わえます。

 ヨーロッパ映画の厚みは、各国の皇室がそれぞれ深い姻戚関係にあることに由来するのかもと思えます。この映画を観終わってから、インターネット検索で調べてみると、映画のシーンにロシア皇帝であったニコライ二世の肖像画が出てきたようですね、私は見逃しましたが。

 

 映画とは直接関係はありませんが、英国王室メディアとして、「The Royal Channel:http://www.youtube.com/user/theroyalchannel?blend=4&ob=4」の広報サイト、つい先日は久しぶりの「ロイヤル・ウエディング」も盛り上がったようです。因みに日本の皇室広報は、「宮内庁HP:http://www.kunaicho.go.jp/」でしょうか、日本の映像・芸術センスはこんなものではありませんが、何かお役所仕事的(?)サイトで、雰囲気の違いを感じますね。

 それでも2年前この欄(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=470)に書きましたが、日本の宮内庁のライターは中央官庁ではピカイチとの評価も。また、皇室を警護する皇宮警察等、幅広い国民を意識したソフトな雰囲気を演出し、たとえば、数年前に札幌に天皇・皇后両陛下がお越しになった時は、地元警察も先導パトカーから情況をあらかじめ集まっている市民に解説する等、普通の警備とは大きく異なった雰囲気づくりをしていました。これも皇室の強い意向と伺ったことがあります。この度の震災で、先日避難所を訪問された時の両陛下のご様子を拝見し、「皇室」の強い意思と品格を感じました、特に直接語られた肉声によるお言葉の力を。

 今回、この映画による王室当事者の内側に迫る内容に、英国という国の懐の深さを垣間見た気がします。

シネマの風景~懐かしの映画

Posted by 秋山孝二
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 「北の映像ミュージアム(http://kitanoeizou.net/modules/official/index.php/main/shushi.html)」の10周年記念事業「シネマの風景フェスティバル」が札幌狸小路5丁目の札幌東宝プラザで7日間開催されました。ロビーには懐かしい映画ポスターも貼られて、レトロな雰囲気も漂い、お客さんも若干平均年齢は高めでしたが大盛況でした。来年以降の継続開催の期待も高まります。

北の映像ミュージアム10周年記念パンフレットより

北の映像ミュージアム10周年記念パンフレットより

ロビー:懐かしの映画ポスター

ロビー:懐かしの映画ポスター

2階ロビー:懐かしの映画ポスター

2階ロビー:懐かしの映画ポスター

 私はその中で、「赤いハンカチ:http://www.youtube.com/watch?v=0KMLJz44a38&feature=related」と「網走番外地:http://www.youtube.com/watch?v=CFnYmKUBvgw」の二本を見るにとどまりましたが、往年の大スター達の若かりし頃の姿を目の当たりにして、興奮しましたね。題名と歌は以前から何回も聞いていましたが、当時私はまだ幼なかったこともあり、これまで見たことがありませんでしたので良い機会でした。

 「赤いハンカチ」は、1964年の日活作品です。今でいう「刑事もの」で、パンフレットによると、日活ムードアクション最盛期の傑作だそうです。石原裕次郎、浅丘ルリ子、二谷英明、金子信雄、芦田伸介ほかの出演です。浅丘ルリ子の若かりし頃の魅力はすごいですね、芦田伸介の渋さもひきつけます。またダム工事宿舎、飲み屋街での裕次郎の「赤いハンカチ」を歌う場面も印象的です。随所に「北へ流れる北海道」の場面も映し出されて、雰囲気も盛り上がっていました。

 「網走番外地」は、1965年の東映作品です。白黒映画で、高倉健、南原宏治、丹波哲郎、田中邦衛、そして嵐寛寿郎ほかの出演です。高倉健の人気を決定付けた現代アクションのヒットシリーズ第一作、とパンフレットにはあります。網走市を中心とした北海道ロケによる背景の数々は、荒涼とした雰囲気と冬の厳しさが伝わり、素晴らしいですね。

 中でも嵐寛寿郎(アラカン:http://movie.goo.ne.jp/cast/97746/)の扮する「鬼寅」の存在感は際立っていました。彼は、鞍馬天狗、新東宝映画の明治天皇役など、幼い頃の記憶にも鮮明でした。気品というか風格というか、「映画俳優の誇り」みたいなもの感じます。

 それにしても、映画というのはこんなにも時代を映し出すものなのだとあらためて感じましたね。会話の言葉、やり取りのテンポ、今のコンピューターグラフィックによる映画よりも、はるかに違和感なく染み入ります。「溜めがある」とでもいうのでしょうか、見る側に考える時間をあたえてくれるみたいな、そんな「優しさ」を感じさせる「シネマの風景」でした。

懐かしい名、「ウェイン・グレツキー」

Posted by 秋山孝二
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 第21回冬季オリンピックhttp://www.joc.or.jp/vancouver/が、カナダ・バンクーバーで開催されました。開会式の様子をほんの少しだけテレビで見ましたが、懐かしい姿と注目する人がいました。 

 まずは、最終聖火ランナーだったウェイン・グレツキー(Wayne Douglas Gretzky、1961年1月オンタリオ州生まれ )です。今から20数年程前でしたでしょうか、北海道と姉妹州のカナダ・アルバータ州、エドモントン市を訪問した時のことです。市長秘書の少し年配の女性が、市内を自分で運転されて案内中に、アイスホッケーの話で盛り上がりました。すると突然、ハンドルを握りながら飛び上がらんばかりの大きな声で、「ウェイン・グレツキーは最高!!」と絶叫したのです。地元の「エドモントン・オイラーズ」に所属している時で大変な人気でした。その後何回か北米大陸に出張しましたが、スポーツ番組では何回も彼の名前を聞きました。引退後はNHLフェニックス・コヨーテズの共同経営者兼ヘッドコーチを務めているようです。これまでのどの選手よりも偉大なプレーヤーだったようですね、人格的にも尊敬されていました。アメリカ・ロスアンゼルスのチームに移籍した時は、大変な喪失感だったとの話も後に聞きました。

彼の有名な言葉です、”A good hockey player plays where the puck is. A great hockey player plays where the puck is going to be.” 

   もう一人、私が注目した人物がいます。カナダの第27代総督、ミカエル・ジャン総督(Michaëlle Jean, 1957年ハイチ・ポルトープランス生まれ)です。新聞・テレビでもその姿が映っていましたが、グレーのスーツに身を包み、素晴らしい笑顔で「開会宣言」をされました。 五輪開会式での開会宣言は、「開催国の国家元首によっておこなわれる」とオリンピック憲章に明文化されており、国王、大統領もしくは準じる立場の方が開会宣言を行っています。1972年の札幌オリンピックでは、札幌真駒内競技場での開会式、私も観客席に居ましたが、昭和天皇が開会宣言をされました。

 ミカエル・ジャン総督は、先日大地震のあったハイチ・ポルトープランス出身の移民です。今の心境は大変複雑なはずですが、あの素晴らしい笑顔は実に魅力的でした。http://www.canadainternational.gc.ca/japan-japon/bilateral_relations_bilaterales/gg-priorities-priorites.aspx?lang=jpn

 冬のオリンピックには、北海道出身の選手が多いせいもあり、まるで自分の教え子が出場しているような雰囲気で応援にも熱が入るのですが、今回は正直言ってかなり冷静ですね。優勝に絡むような選手の実力ではないからです。決して選手をバカにしているのではありません。ここまでの日々の努力には拍手を惜しみませんし、是非頑張って貰いたいと強く思っています。ただ、メディアが大騒ぎする程の実力はないことも、予め十分知っておいてあげないと、終了後に日本に帰国する彼らがかわいそうだと思うからなのです。全員胸を張って空港に戻って欲しいし、「よく頑張ったね」と、メダルを取った取らないにかかわらず讃える国民の声も大切だと思います。

 それにしても一連のバブリーな「メディア」の報道は一体何なのでしょうか。かなり前からお祭り気分で自分たちだけがはしゃいでいる姿は吐き気がします、この厳しい時代に沢山のスタッフを派遣しての大騒ぎ、毎回のこととは言え、いい加減にやめていただきたいですね。長野オリンピック以降、ろくに選手育成政策も打ち出さずに、結局は個人と所属する団体の献身的努力のみに依存しての選手育成、これでは若い世代も気の毒です。

 メダルの数とか何とかよりも、それぞれの選手がベストを尽くして悔いのない思い出として頂きたいなと、心から祈念しています。