<国際連盟事務次長として活躍の時代編>
新渡戸稲造がここジュネーブで国際連盟事務次長を務めていたことは、当時の国際社会において、日本国民として誇りとすべきことですが、昨今その功績自体を認識している方々が極めて少なく残念に思っています。ただ歴史の流れ的には、彼が事務次長を7年間で退任して間もなく、日本は国際連盟を脱退し、国際社会から孤立して戦争への道を突き進むことになります。 現在も国際連合ヨーロッパ本部の機能は、実質的には国連(UN)の機能の7割であり、それがジュネーブに集約されています。国際連盟時代から換算すると、世界の平和・安全をつかさどる機関としての場の力を歴史に刻んでいました。まさに、「場が放つメッセージ」でした。
約1時間の内部ツアーで、領土問題解決として歴史的にも成功した事例として「オーランド裁定」をガイドの職員はその模様を描いた絵画の前で説明しました。残念ながら説明の中にはその中心的人物の「新渡戸稲造・事務次長」の名前は出てきませんでしたが、私は誇り高かったですね。
ご存じのように、オーランド諸島は、バルト海、ボスニア湾の入り口に位置するフィンランドの自治領の島々で、住民のほとんどはスウェーデン語を話します。フィンランドは、ロシアから分離独立しましたが、その際に、スウェーデンとフィンランドの間のバルト海にあるオーランドは、スウェーデン語を話す住民がほとんどであることから、1921年、オーランド諸島がスウェーデンに属するのか、フィンランドに属するのかで両国の間に紛争が起きました。 時の国際連盟事務次長の新渡戸稲造が、この紛争を「新渡戸裁定」をもって収めたのです。オーランド諸島はフィンランドに属しますが、公用語はスウェーデン語とし、フィンランドの軍隊の駐留は認めず自治領とする、粘り強い交渉を続けてこの裁定で合意をしました、日本的にいえば、「大岡裁き」でしょうか。 このジュネーブのヨーロッパ本部敷地内には数多くの会議場があります。その中の大会議場の一つは、天井のデザインもグローバルでユニークでした。
さらに別棟の会議場は、第二次世界大戦後の朝鮮戦争をはじめとした数々戦争の停戦協定を議論し、締結した場所でした。
昨日のジャントゥーに続いて、今回の新渡戸稲造の活躍した場を訪問することが出来て、何とも言えない感動を覚えました。と同時に、それ以降、日本人、或は日本国民の中で、彼を越える見識と教養を兼ね備えた真の「国際人」として、誰の名前を挙げられるでしょうか。今、まさに平成の新渡戸稲造はどこに、と言った気持で帰りの電車でしばし黙考でした。