笠谷幸生さん 旅立ち

Posted by 秋山孝二
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 先日、永らく日本のジャンプ陣に貢献された笠谷幸生さんがお亡くなりになったとの報に接し、私も深い悲しみに沈みました。

 1972年の冬季オリンピック札幌大会は、私にとっても大変良き思い出です。というのもちょうど大学を1年間休学してアメリカ・カナダを旅行して帰国後、このオリンピック開催期間に札幌でスウェーデン大使館の方々の送迎車の運転手をやっていたり、開会式、70メートル級純ジャンプの競技場で応援をしていたからです。そして後に『日の丸飛行隊』と呼ばれるようになった金銀銅メダル独占の快挙を成し遂げたその場に私も居合わせたのです。また、彼のお兄様の笠谷昌生さんは冬季オリンピック長野大会で、審判員として日本選手団金メダルに貢献しました。

* 秋山孝二の部屋 » Blog Archive » 長野冬季五輪、感動の実話! (akiyama-foundation.org)

* 秋山孝二の部屋 » Blog Archive » 映画『ヒノマルソウル』 (akiyama-foundation.org)

*  ’71 北アメリカへの一人旅

http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E5%8C%97%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA

 この表彰式の現場にも私は居て大いに興奮したのを覚えています。その場に密集して立ってた観客は一生懸命に拍手していたのですが、手袋をしてだったので音が出にくく、それでも皆さん歓声を挙げて興奮していました、忘れられない時間でしたね。

 訃報は北海道新聞に一面ほか大きく記事掲載されていました。後で道新関係者の方にお聞きすると、笠谷選手逝去の記事扱いについては年代によってずいぶん異なっていたようで、私の世代周辺は大功労者だから当日は当然一面ほか、連日大きくその業績を取り上げるべきだと主張していたとか、若い世代はポカンとしていたそうです、面白いですね。

 いずれにせよ、日本のジャンプ陣をけん引してきた笠谷幸生さん、どうか安らかにお眠りください。

新渡戸十次郎 生誕200年祭(上)

Posted by 秋山孝二
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 毎年10月15日の『新渡戸稲造命日祭』、今年10月に予定されていた第四回『稲造サミット』は、いずれもコロナ禍の中、相次いで中止となりましたが、『新渡戸十次郎生誕200年記念大会』は、実行委員会の判断で感染防止体制を万全にして開催されました。私も第三部で稲造サミットの設立経緯等についてご報告させてもらいました!

* 『新渡戸稲造命日祭』関連記事ーー> http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E6%96%B0%E6%B8%A1%E6%88%B8%E7%A8%B2%E9%80%A0%E5%91%BD%E6%97%A5%E7%A5%AD

* 『稲造サミット』関連記事ーー> http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=INAZO%E3%82%B5%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%88

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新渡戸十次郎生誕200年記念大会

<役員のご紹介(敬称略・五十音順)>

十次郎生誕200年記念大会実行委員会 実行委員長  友田 博之

大会長

中野英喜    「幻の穴堰」ほかのオーナー、実業家

実行委員長

友田博之    三戸町教育委員会教育長

名誉大会長

新渡戸偉代   十次郎5代目子孫

委員

青山淳平    ノンフィクション作家

秋山孝二    (公財)秋山記念生命科学振興財団理事長ほか

伊藤一允    青森県文化財保護協会副理事長

岩本由輝    東北大・山形大・東北学院大名誉教授

大里康正    世界旅行作家・カメラマン・語学堪能

草原克豪    拓殖大名誉教授・財団法人英語教育協議会理事長

齋藤利男    弘前大学名誉教授・弘前学院大学教授

塩谷未知    青森中央学院大教授

下谷栄治    三沢おもちゃ病院院長ほか

神 重則    みちのく銀行地域創生部部長

高木まゆみ   株式会社また旅くらぶ代表取締役社長

館山紀大    青森市社会科副読本編集元委員長・青森市立筒井小学校元校長

田村まさよし  画家

福士順一    みきの保育園園長・青森県立南高校元校長

藤井 茂    財団法人新渡戸基金理事長・東北アメリカ協会会長ほか

蛇口剛義    南部(八戸藩)藩士蛇口伴蔵5代目御子孫・八戸高校元校長ほか

松沢幸一    株式会社明治屋代表取締役社長・前キリンビール社長ほか

< プログラム >

【第1部】

〇初めての新渡戸十次郎生誕祭にあたって

〇「現在の十和田市へ引き継がれた十次郎のまちづくり構想」

講師 青森県文化財保護協会副理事長 伊藤一允氏

〇「十次郎と辿る南部藩三戸城の歴史」~国の史跡目指して、東北最大級の城跡発掘調査から

講師 三戸町教育委員会 野田尚志氏

【第2部】

出版記念会

* 出版に寄せてのご挨拶 「本の泉社」社長 新舩海三郎氏

* 講演「それぞれの新渡戸稲造」著者 青山淳平氏 『十和田との出会い』

* フォーラム第3号刊行「第3回稲造サミット」に寄せて

(公財)秋山記念生命科学振興財団 理事長 秋山孝二氏

NPO法人 十和田歴史文化研究会 理事長 小笠原カオル氏

【第3部】

「台湾と、根っこでつながってる青森県」 交流構想を考える

パネリスト 友田博之氏、藤井茂氏、奈良哲紀氏

コーディネーター 神重則氏

研究書や古文書の解読、翻訳、勉強会、年表編纂部会

幕末南部藩及び台湾歴史文化探訪研修部会

~~~~~~~~~~~~~~~~~

 まずは冒頭ご挨拶から午前中の第一部の様子をご紹介。

中野実行委員長の開会ご挨拶

中野秀喜大会長の開会ご挨拶

実行委員長

友田博之 実行委員長

講演

ご講演

三戸教育委員会野田さん

三戸教育委員会野田尚志さん

 南部藩三戸城の歴史についてのご説明は大変興味深いものでした。

新渡戸の足跡 @ カナダ(1)

Posted by 秋山孝二
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 この数年間、「新渡戸稲造と札幌遠友学校を考える会(http://nitobe-enyu.org/」の活動を進めていて、どうしても行きたかった場所が、新渡戸の最期となったカナダのバンクーバーとヴィクトリアです。今回、前後の窮屈な日程を割いてやっと実現し、わずかバンクーバー三泊の滞在でしたが、お二人の方との面談、路線バス、電車、フェリー、そして連日20㎞の徒歩の探索は、実に濃密で、当時の地元の方々の新渡戸に寄せる熱い敬意と、それを今に伝える方々の活動を感じ取ることができました。まさに、「場所が放つメッセージ」そのものでした。

 私にとって最初のバンクーバー訪問は、今から47年前(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=3791)でした。今回は確か4回目のバンクーバー市内、今年は、「CANADA150(http://canada.pch.gc.ca/eng/1468262573081」のエンブレム他で溢れていました。

カナダ建国150周年

 1864年にシャーロットタウンのプロビンスハウスで最初の建国会議が開催され、 1867年、英領北アメリカ法により、オンタリオ、ケベック、ノバ・スコシア、ニュー・ブランズウィックがカナダ自治領に統合され、カナダ連邦が誕生しました。そして、2017年7月1日のカナダデー(建国記念日)、カナダは建国から150周年を迎えました(http://lifevancouver.jp/2017/06/summary/119946.html)。

 その後も今年はイベントがカナダ各地で開催予定です(http://torja.ca/special/canada150-event/)。

市内の通りの両サイドにも

市内の通りの両サイドにも

ウオーターフロントで

ウオーターフロントで

特集 HAWAII 2017 (1)

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 JTB企画の「プライド・オブ・アメリカで航くハワイ4島周遊クルーズ10日間(http://ebook.jtb.co.jp/book/?A2212#3」、四島巡りは天候にも恵まれて素晴らしい旅となりました。

 この船「プライド・オブ・アメリカ」は、1966年設立の「NORWEGIAN CRUISE LINE(NCL)(https://www.ncl.com/jp/ja/」所有、就航が2005年7月、総トン数が80,439トン、乗客定員は2,186名、乗組員数917名のアメリカ船籍の客船です。これから何回になるか分かりませんが、「特集 HWAII 2017」と題してご紹介致します。

* プライド・オブ・アメリカ号 https://www.ncl.com/jp/ja/cruise-ship/pride-of-america

ハワイ島コナ沖の停泊中のPOA

ハワイ島コナ沖に停泊中のPOA

上部にはサンデッキ、プール、ジャグジー

上部デッキにはサンデッキ、プール、ジャグジー

船首横

桟橋に停泊中、船首横

船内・デッキ5のフロントデスク&ロビー

船内・デッキ5のフロントデスク&ロビー

 この企画、実は数回チャレンジしても実現せず、今回4回目で。札幌からのハワイアン航空直行便でかないました。私にとって船旅と言えば、大きく以下の2回の体験があります。今回はこれまでで一番大きな船でしたが、今、世界中で就航しているのはさらに大型の22万トン級と聞いていますから、時代は変わってきていますね。もう一つ、今回は「ハワイ四島巡り」、私にとってはハワイの思い出は奥深いものがあり、最初は1971年の北アメリカ一人旅、それから新婚旅行、そして「JAIMS(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=18767)」での6か月研修等、人生のエポックメイキングな場となっています。

 1971年に横浜から乗った船は、1848年に設立された「アメリカン・プレジデント・ライン(APL:http://www.apl.com/wps/portal/apl/apl-home/about-us)」の船舶「プレデント・クリーブランド(http://yelec.web.fc2.com/ELEC8-2/ship/President-Cleveland/President-Cleveland.htm」で、アメリカで1948年に建造された16,000トンの貨客船。

 2012年に小樽港から乗った船は、運行会社「ロイヤル・カリビアン・インターナショナル(RCI:http://www.royalcaribbean.jp/cruise/rci/info/contents.do?contentsId=8)は、1969年に設立された世界最大規模の客船会社で、本社は米国マイアミにあり、2011年11月現在22隻の客船を保有しているそうです。船舶は「レジェンド・オブ・ザ・シーズ:http://www.royalcaribbean.jp/cruise/rci/ship/ship_detail.do?classCode=VI&shipCode=LG」、1995年就航の70,000トンの客船。しかし、残念ながら、2011年3月11日の日本での大震災、その後の原発事故による放射線の影響を考慮して、この時のクルージングを最後に、日本の港に寄港することはないとのことです、あまり日本では報道されてはいませんが。

’71 北アメリカへの一人旅

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* 小樽港から日本海へ

http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E5%B0%8F%E6%A8%BD%E6%B8%AF

北海道日米協会 新年例会 2017

Posted by 秋山孝二
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 北海道日米協会の新年例会が、今年も開かれました。昨年8月に新しく在札幌米国総領事館(https://jp.usembassy.gov/ja/embassy-consulates-ja/sapporo-ja/)の首席領事にご就任されたレイチェル・ブルネット-チェンさんも参加されました。ご出身はウィスコンシン州モンロー、日本との出会いは、ロータリークラブの交換留学生として埼玉県深谷市に滞在した時からだそうです。同じく米国外交官である夫ペリー・チェンさんと二人の娘さんとご一緒に赴任されているようです。

昨年8月に新しく着任した首席領事

昨年8月に新しく着任した首席領事

 新年例会はいつもミニライヴコンサート、今年はオーボエとピアノのアンサンブルでした。

オーボエ演奏

オーボエ演奏

 これまでの北海道日米協会の記事――> http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E5%8C%97%E6%B5%B7%E9%81%93%E6%97%A5%E7%B1%B3%E5%8D%94%E4%BC%9A

 今年の例会で大変興味深かったのは、トランプ新政権に対する参加者の感想でしょうか、首席領事は外交官ですから、「どんな政権であれ、草の根の人々の活動でこれまでの日米関係は築かれてきたので、変わらず素晴らしい関係性であることを信じます」みたいな冒頭のお話でした。各テーブルのアメリカ人からは、「ノーコメント」とか、「?」的なご意見が多かったような気がします、もちろん、お一人お一人とお話をした訳ではないのであくまでも印象に過ぎませんが。それに比べて、集まった日本人の中には、「私はトランプを尊敬している!」みたいな明らかに阿る発言をされる方がいたり(その方は食事が終わるやいなや部屋を出ていかれましたが)、何とも情けない状況も目の当たりにして、透き通るようなライブの響きに比べて、率直に言って後味の悪さを感じた例会でした。

 ベトナム戦争、イラク戦争ほか、数々の誤りを重ねてきたアメリカという国の国際社会での存在は別として、私にとってアメリカ人との交流は、19歳で貨客船でアメリカに渡って以来、たくさんの親交をベースに、どんな政権になろうとも、北海道日米協会の運営がどうあろうとも、一生変わらぬ宝物であることは確信しています。

* ’71 北アメリカへの旅――> http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E5%8C%97%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA

* KEVINのこと――> http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=KEVIN

ブログ、1,000本目です!!!

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 2008年10月16日から始めたこのブログ「秋山孝二の部屋」が、今回、めでたく6年目で1,000本を迎えました。量の問題よりもまずは良く続いたなと、率直に思います。

深まりゆく秋・札幌 2014

深まりゆく秋・札幌 2014

 スタートは、ちょうど「G8北海道洞爺湖サミット(http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/summit/toyako08/」が終了して、リーマンショック直後でした、何か残したいなとの自然な気持から。

 第一回はこちら――> http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=24

 最初は何も分からずにおっかなびっくり、ただただ文字だけを書き連ねていましたが、読まれた方が「写真もあったらいいね」とおっしゃったので、6か月経って初めて写真を挿入してみました、その第一回がこちら――> http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=799

 「予めのカテゴリー分けもままならず、最初からしばらくはアトランダムに垂れ流しになりますが、そのうちに整理していこうと思っています。取りあえずスタートを前に、『決意表明!』です。」と始めたのですが、今もってカテゴリー分けもできずに、垂れ流しです。途中、一時「コメント可」にした時期もあったのですが、スパムがひどくて今は「不可」にしています。ただ、Facebookも途中から活用し始めたので、時々はそちらにも投稿したり・・・。この6年間でインターネットの世界は格段に拡がり・奥行きを見せていますね、同時に少々忙しくなったりもして・・・。

 Facebookはメッセージのやり取りのスピードがかなり速く、ある環境系のオピニオンリーダーは、「内圧が上がらない内にアップするので、思考が浅くなるような気がします」とおっしゃっていましたが、私も全く同感です。ロジック以前の反射・反応のレベルでメッセージのやり取りが成立している、ノリのいい方向き(?)、そんな場と感じられます。

 自分のブログの中で、私的に「連載」で気に入っているものは以下の二つでしょうか。

* 愛生舘の「こころ」

http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E6%84%9B%E7%94%9F%E8%88%98%E3%81%AE%

’71 北アメリカへの一人旅

http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E5%8C%97%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA

 この間、「2011.3.11」が起こり、原発事故報道ではマスメディアへの不信でいっぱいでしたが、私はブログのお陰でインターネットの大海から検索機能で世界の知恵と出会う機会も多く、かなり正確な状況を把握できました。関西の新聞社の方、メディアの方から「写真を使わせて頂いて宜しいでしょか」とか、検索でアクセスし、引用で使って頂いた時もありますし、ご連絡がありその後も何回もお会いしている方もいらっしゃいます。一方、私の場合は未だにありませんが、特定のブログへのヘイトスピーチ、品の無い誹謗中傷も頻発し、情報社会の裏面、社会の病んでいる様子も垣間見ます。

 いつまでとか、出来るだけ長くとか、何も特段の目標は持ち合わせてはいません、自然体で書けなくなった時には静かに消えたいと思っています。今では書くことが「日常」になっているので、それまではお時間のある時にご覧い頂ければ大変嬉しいです、これからもよろしくお願いします!!

‘71 北アメリカへの一人旅 (5)

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 気がついてみると、もう7月です。昨夕、W杯サッカー岡田ジャパンが日本に戻り、記者会見の様子も昨晩・今朝のニュースでみましたが、岡田武史監督の心配りと懐の深さに、あらためて感動致しました。徹頭徹尾選手を主役に位置づける姿勢に、彼のリーダーシップと選手たちのフォロワーシップを感じました。最後まで素晴らしいパフォーマンスに感謝です!

 この表題シリーズの第一回目(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=2626)で私は、太平洋航路・APL(アメリカン・プレジデント・ライン)所属、「プレジデント・クリーブランド号:http://teikisen.blog84.fc2.com/blog-category-166.html」に乗船して、横浜大桟橋からハワイ・オアフ島ホノルル経由でサンフランシスコに行った、と書きました。

 当時は丁度、ボーイング747(ジャンボジェット)機が就航して間もなくで、人々の関心が大型旅客機に集まっていた時でしたが、「時間のある今、是非、船で太平洋を渡る経験をすべき」とアドバイスしてくれた方がいらっしゃいまして、貨客船の旅となりました。料金的には、片道では若干船(二等船室)の方が安かったような気がします。船旅は等級が厳格で、一等と二等ではデッキも食堂も全く別でした。ハワイで一時船を下りる時に、それまで船内では見なかった一等船客のインド人大富豪一行と初めて出合いました。

 一日が23時間、8日間でハワイ・オアフ島ホノルル港ピア10に到着、ここはあの1941年12月8日未明の日本海軍奇襲攻撃、真珠湾(パールハーバー)からもすぐ近くでした。入国手続きはここで行われるので、事前情報として、「怪しげで貧乏くさい人は、入国管理官から滞在期間を多く貰えない」と聞いていましたので、髪はしっかり分けて髭を剃り、下はバミューダ、上はスーツジャケットにネクタイという不思議な出で立ちで、着席の係官の前に向かったのを鮮明に覚えています。作戦は見事に成功し、6か月間の長期滞在日数を貰いました。

 横浜を出港してすぐ、台風を避ける為に予定航路から南下したので、丸1日余計にかかりました。遅れも半端ではありませんね。台風接近時は、船が数メートルも繰り返し上下し、部屋の丸い窓には鉄製のふたがはめられて緊張感も高まり、更に狭い室内は一晩中きしむ音で寝られませんでした。20数年前のアリューシャンもこんな海だったのかと、キスカ撤退作戦(http://ww31.tiki.ne.jp/~isao-o/battleplane-16kisuka.htm)に旗艦「阿武隈」の通信長として従事した父を思い出し、北と南の違いはあれ、「太平洋の嵐」を実感した貴重な体験でした。

アルバムから:台風接近の海上で

アルバムから:台風接近の海上で

 ホノルル一泊の後に、サンフランシスコに向けて出港しましたが、こちらは一転して気温は低いのですが穏やかな(退屈な?)海が続きました。一週間後の早朝にサンフランシスコ金門橋の下をくぐり、ベイブリッジを通過して湾の奥の桟橋に到着でした。朝もやの金門橋のライトとサンフランシスコのマチの灯を船のデッキから眺めた時、感動というよりも「アメリカに来てしまった」みたいな、震えのくるような不安な気持の方が強かったような気がします。

 一方今年1月に、幕末史研究会に参加した時、「咸臨丸子孫の会:http://www.kanrin-maru.org/」の方々とお話をする機会がありました。今年は咸臨丸が太平洋を渡って150周年の記念すべき年であり、自分たちの祖先が勇敢に太平洋を渡って、生きて帰って来たからこそ今の自分たちがある、そんな趣旨の自己紹介を聞き感動しました。咸臨丸(http://www.d9.dion.ne.jp/~senaun/pageBT11.html)は、アメリカから戻った後も、北海道とは大変縁の深い歴史を辿っています。そして更に、その研究会・交流会で、榎本武揚さんの曾孫で東京農業大学客員教授の榎本隆充さんとお会いして、リアルなお話を聞くことが出来て、幕末維新を身近に感じました。

 4月下旬に、榎本さんから、今度は「開陽丸(http://www.h6.dion.ne.jp/~kaiyou/)子孫の会」総会で、青山学院大学の片桐一男先生が特別講演をされる旨の連絡があり、1月に続き片桐先生のお話を伺いました。1月は「勝海舟と坂本龍馬」、今回は「榎本武揚と開陽丸」、いずれも幕末維新の激動期を生きた人々ですね。開陽丸も北海道とは縁が深く歴史に刻まれています。

 そして先日の「大和ミュージアム:http://www.yamato-museum.com/concept/」、何か今年は「船」、「太平洋」、「日本海軍」、「歴史」の縁が続き、ついでに私の太平洋横断の記憶もたどることができました。

 この2週間の船旅で、多くのカルチャーショックを受けた体験は、今も私の宝となっています。

‘71 北アメリカへの一人旅 (4)

Posted by 秋山孝二
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  一人旅での人と出会いは、時として砂漠の中のオアシスのように印象深いですが、長い年月を経ると次第に記憶も薄れてきます。そんな時に当時の写真が残っていると、辛くもその場面を頭の隅に留めてくれるから有り難いですね。

 そんな中で今でも鮮明に覚えている幾つかを書き留めましょう。最初の出会いは、横浜からハワイ・オアフ島経由サンフランシスコ行きの貨客船の中、アメリカ人ジニーです。まだ中学生くらいの女の子でしたか、船上で誕生日を迎えて数人で「ハッピー・バースデー」の歌でお祝いをしたような気がします。次がグレイハウンドバスのサンフランシスコからロスアンゼルス行の車内で、メキシコ系の男の子です。名前は忘れましたが、休憩のバス停で撮った写真がこれです。なぜかこんなポーズを自然に取ってカメラに収まりました。英語はほとんど通じなかった記憶があります。

シスコからロスのグレイハウンドで

シスコからロスのグレイハウンドで

  続いて記憶に鮮明なのは、アメリカンインディアンとの出会いです。バスは確かワイオミング州辺りだったかと思いますが、まずは体の大きい60歳くらいのおじさん、トーマス・ホワイトベアさん。アメリカンインディアンの歴史と言葉「ハオ・ニジ!(やあ、こんにちは)」を教えて貰いました。彼が別れ際に握手した時のグローブのようなごつい大きな手は忘れられません。もう一人名前は忘れましたがアメリカ・インディアンの当時同じくらいの女性でした。席が隣になり少しの時間でしたが、日本の説明を一生懸命した記憶があります。彼女は理解したのかどうか、ずっとケラケラ笑っていましたね。

 ニューヨークからカナダ・モントリオールまでのバスの便では、夜に終点のモントリオールに着く手前からはお客が私一人になり、運転手さんが「前においでよ」と言って、ずっと話をしていました。そして市内に入るとルートを変更してバスステーションではなくて直接バスの車庫に入り、そこから一緒に遅い夕食に行きました。彼は私に家族の写真も見せて、「これからも元気でよい旅を!」とYMCAまで送ってくれました。

 カナダでは秋も深まっていて、すでに気温もかなり下がっている時期でした。観光地でも有名なバンフで車道を歩いていると、下の写真にあるイギリス人に出合いました。名前は忘れましたが、日本人と知ると「日英同盟」の歴史も関係するのか(?)、大変親しく話しかけてきて、初めて会ったような気がしませんでした。

カナダ・バンフで英国人

カナダ・バンフで英国人

 更に別れた後に帰り路を歩いていると、トラックを運転する現地の夫婦が声をかけてきて、特にヒッチハイクをした訳ではないのですが、バンフ市内まで私を乗せてくれました。アメリカとは違った人の心の「優しさ」に、カナダの雄大な自然とともに感動したひと時でした。

‘71 北アメリカへの一人旅 (3)

Posted by 秋山孝二
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 一人旅をされた方は良くお分かりかと思いますが、旅の道中での人との出会いは、良くも悪くも印象に残るものです。一人気持が沈んでいる時には予期せぬ会話で大いに励まされ、或いはとんでもない状況の中で恐怖を感じる場合もあったりと。今年の冬季オリンピックが開催されたカナダ・バンクーバーという名を耳にすると、私は忘れられない旅の思い出があります。良いのか悪いのか、「不思議」という表現が一番ぴったりですね。勿体ぶるわけではありませんが、それを語る前に二つほどのストーリーを紹介しておかなければなりません。

 その1) この旅行、宿泊はYMCAが多く、大きな都市の施設では男性用フロアーと女性用フロアーがはっきり分かれていました。サンフランシスコのYMCAでは女性用フロアーとは知らずに(本当に知らずにです)歩いていて、ガードマンの大きな男に退去させられました。東海岸フィラデルフィアのYMCAだったと思います。路線パスで到着してチェックイン、その後部屋の外にある共同シャワー室(となりとの仕切りも何もなし)から帰って少しすると、部屋の電話が鳴りました。男の優しそうな声で「How are you?」に始まり、私の名前を聞き出し、それ以来「Koji」のはずなのになぜか「Kijo」と発音してしばし会話の後、私の部屋にやって来ました。アラブ系の若い大柄な男で、今では何を話したかは覚えてはいませんが、何回も「Kijo」を繰り返し部屋を出ていったのです。ここは、ただそれだけです。

 その2) 2週間後位でしょうか、ボストンの有名な公園、「ボストンコモン:http://www.cityofboston.gov/FreedomTrail/bostoncommon.asp」の池のほとりで、秋の昼に一人でベンチに座っていると、「・・・・boy?」とか何とか言って横の方から近づいてきた中年の黒人男性がいました。私は突然ではあり、咄嗟に「I am a boy!」と訳のわからない返事をした所、私の隣に座り、にじり寄ってくるではありませんか。私はその場を離れましたが、その瞬間は今でも忘れられません。周辺にはかなりの人がいた様な気がします。

 その3) そして、いよいよバンクーバーです。旅も2ヶ月半を過ぎて北アメリカ大陸を東から西へ、カナダを大陸横断バスで移動しながら、西海岸のバンクーバーまで到着。大陸を往復した高揚感と、カナダの雄大さに感動していた自分がいます。市内の有名な公園、「スタンレーパーク:http://vancouver.ca/PARKS/parks/Stanley/」で、晴天の日中に一人何となくベンチに座っていると、30歳前後の白人男性がニコニコしながら近寄ってきて、自然な話で楽しく会話をしていました。すると「もし良かったら、自分の家に来ないか?」と言われ、過去の経験もあるので、「もしや?」と思いはしましたが、多少の好奇心もあり車に乗って橋を渡り、高台の一軒家に一緒に行ったのです。家のリビングルームからは海も見えて、しばし日本の話とか、久しぶりに会話らしい会話で過ごしていると、しだいに彼(?)がソファーの私の横に近寄ってきて、何やら耳元で語りかけてくるではありませんか。これも経験かと、暫くリスニングのテストのようによく聞こえる英語を聴いていましたが、やはり自分の人生を考えて(?)、「I have to leave now !」で立ち上がりました。彼は変わらぬ優しい笑顔で分かったという感じで、私と最初に会った公園の場所まで送り届けてくれましたよ。私は立ち上がる時、ピストルか何かでも出てくるか、或いは多少の格闘も覚悟はしましたが、そんなことも無く公園に戻り、「不思議な体験」としてバンクーバーの名前とともに、今でも遠い記憶に残っています。

 その後、バンクーバーには数度行く機会があり、今ではそれ以降の新しい思い出に上書きされている部分もあり、時の流れを感じています。たわいの無い話、ここまでお読みいただいた方には、心から感謝致します。

旅を終えて、思うこと

Posted by 秋山孝二
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 ケープタウンから20時間以上飛行機を乗り継いで、昨晩遅く札幌の自宅に戻りました。今回のこの旅行では、帯広畜産大学マラウィ・プロジェクトチーム、小疇(こあぜ)浩先生、手塚雅文先生、河合正人先生、谷昌幸先生、現地コーディネーターの大山美砂子先生、教育研究部の牧孝幸さん、高橋真紀さんとお二人の学生さん、JICAマラウィ事務所の齊藤大輔さんには大変お世話になりました。

 そして同行ツアーのアースカフェ・チームとして旅行に参加した、(株)リープスの鈴木善人社長http://www.leaps.jp/、オグデザインオフィスの小椋代表http://tetsuya4444.com/(株)バイオマスソリューションの藤本達也社長http://twitter.com/tatsuya_fmにも多くのことを教えていただき、心から感謝致します。 

左から鈴木さん、小椋さん、私、藤本さん

ケープポイント近くで、左から鈴木さん、小椋さん、私、藤本さん

  良き仲間に恵まれたというか、各人のブログを見ても分かる通り、みなそれぞれ独自の立場から今回のアフリカをコメントしていて、自分にとっても大変勉強になりました。プランタイヤ最後の夕食で、18人の中で私が最年長参加者だと初めて知った時は、少々衝撃でしたね。10数年前まではどこの集まりでも「最年少」参加者だったのにーー。役回りで参加したのではなく、それぞれご自分のフィールドでの課題と興味をお持ちだったので、食事の時、待合時間での意見交換が本当に面白かったです、すべて出来ない理由の言い合いではなく前向きの話でした。

 ほんの一例としては、「出口(EXIT)戦略の重要性」。これは経営の話ではなく、食べ物の話であることを身をもって体験した方がいます。要するに口にした時に辛いとか辛くないばかりではなく、それ以上に出るときに刺激が自らの体が受け止られる範囲かどうかを予め考えることが大切という意味です(文字にすると大変難しく感じられますが・・・)。

 これからのそれぞれの活動に実に沢山のヒントを得ました。これまで「アースカフェ:http://www.akiyama-foundation.org/network/tema04.html」で、活動を積み重ねてきたその中から、いよいよネットワーク形成へのステージへと進化・発展する気配です。要するに結論を言えば、あらゆる活動は「担い手の育成」につきるのです。 

 もう一つだけ旅行中に感じたことを書き留めておきます、日本という国の「地盤沈下」。

 私が1971年に北アメリカ大陸を一人旅をしていた当時、日本は「エコノミックアニマル」と揶揄されて、ラジオ・カメラ等優れた商品を世界で販売しているけれど、まだまだ国際社会では2流扱いでした。それが80年代にエズラ・ヴォーゲル先生の「ジャパン・アズ・ナンバーワン」が世に出されてから一躍世界舞台にのし上がり、GDP世界2位として自他ともに上りつめていきました。

 今回札幌からマラウィまでの道のり、新千歳・羽田・成田・香港・ヨハネスバーグ・マラウィ(プランタイル)・ケープタウンの各空港の機能・設備を体感しても、日本国内の顧客不在は余りにも明らかでした。そして活動の担い手としても圧倒的中国人(中国語圏の人々)、英語圏としてのインド人等、アジアの中の日本人の存在の薄さを痛感します。そんな思いの私にとっては、やっと辿り着いた喜望峰に建つ「各都市への距離表示」はダメ押しでしたね。日本の都市が一つも入っていませんでした。「いや、地盤沈下ではなくもともとなかったのではないか」との指摘もあるかもしれませんが、そうだとしても日本の存在感の無さは否めません。

各都市までの距離表示

各都市までの距離表示

 最近、企業でも大学でも、海外で活躍したいという人材が減ってきていると聞いています。商社等でも今の若い世代は外国に行きたがらないというではありませんか。これから人口が減っていく日本社会、何とかこの辺で存在感の向上を、軍事力ではない国際貢献・安全保障として、食・農分野、環境分野で果たすことこそ「成長戦略」だと信じて疑いません。

‘71 北アメリカへの一人旅 (2)

Posted by 秋山孝二
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 第一回目で、「いつまでという予めの計画もなく、2・3人のアメリカに住む方々の連絡先と、ただ一人だけに訪問する旨を伝えていた以外は全くの行き当たりばったりで、・・・」と書きました。計画は無かったのですが、別に漂流していた訳ではありません、目的は持っていました。連絡先を貰ったアメリカに住む方のお一人は、ロスアンゼルスの日系二世Nさん。私は直接お会いしたことはなく、日本でお世話になっていた方の遠縁にあたる方でした。沢山の貴重なお話を伺った記憶があります。アメリカの日系人の方々のご苦労は、別の機会にしっかり書き留めたいと思っています。

 「ただ一人だけに」というのが、写真の女性M.Lです。日本に留学している時に札幌で会い、彼女とのやり取りで英会話の魅力を初めて知りました。違う世界が一気に拡がるというのか、「活きた英語」というのか、思いっきり表現出来ない苛立ちも同時にありながら、新しい世界に入るきっかけを貰いましたね。1年間の留学の後にアメリカに戻り、当時彼女はニューヨーク州オスウェゴ市にある州立大学の学生でしたhttp://www.oswego.edu/about/index.html。キャンパスの裏には五大湖の一つ、オンタリオ湖畔が広がっている素晴らしい景観の大学でした。ご承知のように、「ニューヨーク」と言った場合、「State」と「City」で場所が違います。いわゆる「9.11」のあったのは「New York City:NYC」です。

40年前、州立大学キャンパスで

40年前、州立大学キャンパスで

 この旅では、大学キャンパスで3日間程、一か月後に彼女の自宅のある小さな町で3日間程それぞれ滞在しました。現在二人の男の子の母で、今はバーモント州で暮らしていて、プロの画家・教室・ユニークな芸術品作成を続けていますhttp://www.meryllebowitz.com./bio.html。、数年前に上の子・ベンジャミンがガールフレンドと共に東京に来た時、私の長男を含めて昼食を一緒にしました。ガールフレンドが根っからの「ベジタリアン」で、日本食の「鰹だし」もダメとのことで苦労しました。お店の方によると、その様な場合は前の日までに言うと「昆布だし」に代えて出せますとのことでした、昨今のお店も対応力が問われているのですね。

 今、思い出しました。当時大陸をバスで移動していた時、宿泊先のYMCA館内でも、ラジオから流れていたのが’Mamy Blue (http://www.youtube.com/watch?v=nwVfci-YtMM&feature=related)’ でした。当初は曲の題名も分からず、その名を知ったのはずっと後ではありました。

 

‘71 北アメリカへの一人旅 (1)

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
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 先日の早稲田大学での上映会、後日掲載予定の「新渡戸国際塾」のフォーラムで、それぞれ若い方々がご自身の学生時代にヨーロッパ、アメリカに一人旅をされた経験を語り、その時の体験が後に大きな糧になったお話を聴いていて、私は永い間思い出すことのなかった19歳の時の「北アメリカ一人旅」を振り返るきっかけを得たような気がします。

 今からほぼ40年前、1971年9月10日、私は横浜港大桟橋からAPL(アメリカン・プレジデント・ライン)の貨客船プレジデント・クリーブランド号で、ハワイ経由で取り敢えずサンフランシスコを目指しました。大学の2年間(教養課程)を終了して休学届を出し、それ以前からホテル等でのアルバイトで貯めたお金を持っての出発でした。いつまでという予めの計画もなく、2・3人のアメリカに住む方々の連絡先と、ただ一人だけに訪問する旨を伝えていた以外は全くの行き当たりばったりで、不安でいっぱいでした。今考えると「勢い」というか、当時のしがらみのなさが自分の背中を押してくれた、それまでの19年間に何か区切りをつけたいみたいな、そんな気持ちだったのかもしれないですね。

 これから何回掛かるか分かりません。時間のある時にこの旅を思い起こしてみようかと、展望もなく初回をスタート致します。この旅ではほぼ毎日日記をつけていたのですが、今どこを探してもそれが見当たりません。ただほんの少しの写真はアルバムに残っていますので、それを手立てに思い出せれば良いのですが・・・。

APL:貨客船プレジデント・クリーブランド号

APL:貨客船プレジデント・クリーブランド号

 なんだかんだで結局はこの旅行、私は12月20日に日本に戻って来たのです。北アメリカ大陸(アメリカ・カナダ)では全て当時人気のあったグレイハウンド・バス(Greyhound Bus:http://www.greyhound.com/home/en/NewBuses.aspx)を使ってで、辿った道筋は大陸横断2回を含めて、下の地図の黒線となりました。