特集 HAWAII 2017 (3)

Posted by 秋山孝二
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 昼前にホノルルのピア2から乗船し、夜に出航してマウイ島カフルイに向かいます。乗船は午前11時30分からですが、時間前に桟橋に到着してチェックインした乗客のために、広大な室内倉庫の一角に舞台を設置して、歌とフラダンスのミニライブ。待ち時間をも楽しませようとのホスピタリティにいきなり感激しました。

船上からアロハタワー・真珠湾方面を

船上からアロハタワー・真珠湾方面を

 このアロハタワーも懐かしいですね。1971年に横浜からスタートして最初に着いた港(外国)がここの桟橋でした。入国管理官から長い滞在日数を貰うために、上はスーツの上着、下は短パンの妙なスタイルでした。あの真珠湾(パールハーバー)がこんな近くの場所だったのかと、あらためて自分の不勉強を恥ずかしく思ったことを覚えています。

逆サイドは遠くにダイアモンドヘッド

逆サイドは遠くにダイアモンドヘッド

 まだ乗客が少ない内に勝手に船内ツアー。予定の乗客がチェックインした後は、船内生活・規則のガイダンス、避難訓練、希望する食事で予約の必要なレストランの夕食選び等、クルージング開始にあたっての諸手続きであっという間に夜になりました。今回は入国手続き等のプロセスが無かった分、以前の小樽港出発時よりもチェックインはスムースだったような気がします。

デッキ13から一つ下のデッキ:チェス盤とサンデッキ

デッキ13から一つ下のデッキ:大きなチェス盤とサンデッキ

デッキ14

デッキ14

 今回のクルージングのルートは、オアフ島ホノルルマウイ島カフルイ(停泊)ハワイ島ヒロハワイ島カイルア・コナカウアイ島リフエ(停泊)オアフ島ホノルル、です。移動は夜で、日中はそれぞれの島に上陸しての観光、それ以外にも、ハワイ島ヒロからコナへの南回り航行中には、夜にキラウエア火山の溶岩が海に流れ落ちる様子を、カウアイ島リフエからオアフ島ホノルルに戻る時は、カウアイ島北側を敢えて航行して雄大なナパリコーストを海から見学等、クルージングならではのホットスポットもあります。

ハワイ諸島の地図

 夜、静かにホノルル港を出航し、翌朝、マウイ島カフルイに入港しました。朝日に炙り出されるハワイ諸島特有のなだらかな島の稜線が印象的です。

マウイ島カフルイ港に停泊

マウイ島カフルイに入港・停泊

特集 HAWAII 2017 (1)

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 JTB企画の「プライド・オブ・アメリカで航くハワイ4島周遊クルーズ10日間(http://ebook.jtb.co.jp/book/?A2212#3」、四島巡りは天候にも恵まれて素晴らしい旅となりました。

 この船「プライド・オブ・アメリカ」は、1966年設立の「NORWEGIAN CRUISE LINE(NCL)(https://www.ncl.com/jp/ja/」所有、就航が2005年7月、総トン数が80,439トン、乗客定員は2,186名、乗組員数917名のアメリカ船籍の客船です。これから何回になるか分かりませんが、「特集 HWAII 2017」と題してご紹介致します。

* プライド・オブ・アメリカ号 https://www.ncl.com/jp/ja/cruise-ship/pride-of-america

ハワイ島コナ沖の停泊中のPOA

ハワイ島コナ沖に停泊中のPOA

上部にはサンデッキ、プール、ジャグジー

上部デッキにはサンデッキ、プール、ジャグジー

船首横

桟橋に停泊中、船首横

船内・デッキ5のフロントデスク&ロビー

船内・デッキ5のフロントデスク&ロビー

 この企画、実は数回チャレンジしても実現せず、今回4回目で。札幌からのハワイアン航空直行便でかないました。私にとって船旅と言えば、大きく以下の2回の体験があります。今回はこれまでで一番大きな船でしたが、今、世界中で就航しているのはさらに大型の22万トン級と聞いていますから、時代は変わってきていますね。もう一つ、今回は「ハワイ四島巡り」、私にとってはハワイの思い出は奥深いものがあり、最初は1971年の北アメリカ一人旅、それから新婚旅行、そして「JAIMS(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=18767)」での6か月研修等、人生のエポックメイキングな場となっています。

 1971年に横浜から乗った船は、1848年に設立された「アメリカン・プレジデント・ライン(APL:http://www.apl.com/wps/portal/apl/apl-home/about-us)」の船舶「プレデント・クリーブランド(http://yelec.web.fc2.com/ELEC8-2/ship/President-Cleveland/President-Cleveland.htm」で、アメリカで1948年に建造された16,000トンの貨客船。

 2012年に小樽港から乗った船は、運行会社「ロイヤル・カリビアン・インターナショナル(RCI:http://www.royalcaribbean.jp/cruise/rci/info/contents.do?contentsId=8)は、1969年に設立された世界最大規模の客船会社で、本社は米国マイアミにあり、2011年11月現在22隻の客船を保有しているそうです。船舶は「レジェンド・オブ・ザ・シーズ:http://www.royalcaribbean.jp/cruise/rci/ship/ship_detail.do?classCode=VI&shipCode=LG」、1995年就航の70,000トンの客船。しかし、残念ながら、2011年3月11日の日本での大震災、その後の原発事故による放射線の影響を考慮して、この時のクルージングを最後に、日本の港に寄港することはないとのことです、あまり日本では報道されてはいませんが。

’71 北アメリカへの一人旅

http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E5%8C%97%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA

* 小樽港から日本海へ

http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E5%B0%8F%E6%A8%BD%E6%B8%AF

小樽港から日本海へ(5:最終)

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 今回のような本格的な船の旅は、私にとっては太平洋を横断して以来40数年ぶりです。以前、その時の様子を掲載しました。

* http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=2626

* http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=4431

 

 1971年の私の太平洋横断は、1848年に設立された「アメリカン・プレジデント・ライン(APL:http://www.apl.com/japan/documents/history.pdf)」の船舶「プレジデント・クリーブランド:http://www.apl.com/history/timeline/1947.htm」で、アメリカで1948年に建造された16,000tの貨客船。

 今回の日本海沿海ツアー、運行会社「ロイヤル・カリビアン・インターナショナル(RCI:http://www.royalcaribbean.jp/cruise/rci/info/contents.do?contentsId=8)は、1969年に設立された世界最大規模の客船会社です。本社は米国マイアミにあり、2011年11月現在22隻の客船を保有しているそうです。船舶は「レジェンド・オブ・ザ・シーズ:http://www.royalcaribbean.jp/cruise/rci/ship/ship_detail.do?classCode=VI&shipCode=LG」、1995年就航の70,000tの客船。

 時代も違い、自分も年齢を重ねたので、40年以上も前とは比較すること自体に無理がありますが、太平洋をハワイ・オアフ島を経由したとはいえ、2週間(実際は台風を避けた航路を取ったので1日遅れて15日間)の太平洋横断と、今回の日本海沿岸国寄港と、その趣きの違いが面白かったですね。

吹き抜けの「セントラム」では多彩なバンド演奏

吹き抜けの「セントラム」では多彩なバンド演奏

勢揃いのレストランスタッフ

勢揃いのレストラン・スタッフ

 1971年の初めての船旅は、「旅」を楽しむといった余裕は乗船時からありませんでした。横浜大桟橋に行くのも、出港して直後に港の灯台が離れていく時も、サンフランシスコ湾のゴールデンゲートブリッジの下をくぐった時も、不安でいっぱいだった自分を思い出します、。終ってみれば、たくさんの人との出会いと多くの体験で、一生忘れられない貴重な15日間ではありました。「My Favarite Drink:‘Jack Daniel’s’(http://www.jackdaniels.com/」も、ここで覚えたものです、19歳で毎晩、バーラウンジで飲んでいたのですから、今じゃ許されないでしょうかね、古き良き時代と言えましょうか。 

 今回は、乗客も乗組員も、中国、韓国、フィリピン、オーストラリア、アメリカ、ノルウェー等、アジア系、欧米系、多様な人々で賑やかでした。とりわけ中国系の方々は声が大きく、集団で動いているからでしょうか、どこに行っても目立つ存在でした。もう少し、周辺の環境に配慮する気持の余裕があるといいなと感じる場面も多かったです。

 「船旅は高い」と思っていらっしゃる方も多いようです、「世界一周・数カ月」みたいな旅は高額でしょうが、短い船の旅は食事代込みで、客船であっても飛行機のエコノミークラスの旅行と同じくらいに手軽です。夕方のドレスコードは、「ブラックタイ・オプショナル(フォーマル)」、「スマート・カジュアル」、「カジュアル」と、日によって明確で、アメリカの船はおおむねリラックスな雰囲気で堅苦しくもなく、クオリティの高いエンターテイメント・プログラムが充実しています。ただ一つだけ難点は、プリペイドのインターネット無線回線料が甚だしく(!)高く、使える場所は「インターネット・ラウンジ」だけで、今回USDで$300(!) かかりました。

 船のスタッフのエンターテイメント性は素晴らしいです。レストラン、バーラウンジ、客室等、笑顔も会話も、実に楽しく、船内では自分自身も随分笑顔が増えました、そう、最高の心地良さは「笑顔」です、ね!

客室ベッドには、日替わりでタオルで作った動物が

客室ベッドには、日替わりでタオルで作った動物が

 中国・北京のインターネット事情は相変わらずでした(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=5798)。今回もこのすぐ前の(4)を、実は北京のホテルからアップしようと試みましたが、このプログソフトの「編集」サイトへのアクセスが遮断されていて、いろいろな手立てで試みても出来ませんでした。かなりの「管理・監視下」にあるとしか考えられません、まあ、これ以上言及するのはやめておきましょう。

 ある方が、紺碧の穏やかな海を眺めながら、「平和な時代の海って、いいものね」とつぶやいていました、まさに同感ですね。360度海の圧倒的広さ、深さ、長い歴史を懐に収める寛容さ、毎日、海と向き合って、そんな「懐の深さ」に感動していました。陸にあがってしばらく経ちますが、まだまだ多少の船酔い状態、特に下を向いた時は地面が揺れています。

 今回のクルーズ、「どこに行ってきたの?」と聞かれれば、「日本海!」と言うでしょう、企画・実施は、(株)JTB北海道(http://www.jtb.co.jp/hokkaido/)でした、大木さん、加藤さん、坂東さん、お世話になりました。

 また、機会があれば「クルージング」したいですね、一連の報告、これで「終り」とします!

小樽港から日本海へ(4)

Posted by 秋山孝二
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 最終目的地、天津に到着、港から天津市内まで約50キロ、そこからは陸路で約2時間半、北京です。

 天津港の手前、1時間半くらいの海上ですが、ざっと目に入る船でも100隻以上は浮かんでいたでしょうか。ウラジオストク、釜山とは全く違う船舶の数です。

早朝の入港前、港付近で待機(?)の船舶群

早朝の入港前、港付近で待機(?)の船舶群

  一方、新築ターミナルビルは広大な建物、港の埋め立て地も果てしなく広がっていて、大陸中国の海の玄関口としての存在感を象徴するようです。天津市内まで50キロの道のりで、途中はコンテナ置き場等、スケールがケタ違いです。

天津港の広大な新ターミナルビル、記念式典の案内フラッグほか

天津港の広大な新ターミナルビル、記念式典の案内フラッグほか

 北京市内に入ると今度は極端な交通渋滞、人も自転車も車も、何と言ったら宜しいのか、「ルールもへったくれも無い!」、先へ先への「命がけのつばぜり合い」です。20年程前に、自転車が行きかっていた道路が、2年前よりさらに車が増えたような気がします。

2年前の中国訪問の感想を、以前、この欄に書き留めました:

* http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=5827

* http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=5904

 市内の后海(ホー・ハイ:http://www.w1.sunchildren.net/nihao/houhai/index.html)では、年配の方が、地面に達筆の書。地元の方々、中国人観光客で賑わっていましたし、池のほとりでのお茶も最高でした。夜はまた雰囲気が一変して、違った魅力があるようです。

北京市内、ホ―ファンで

北京市内、ホ―・ハイで

 今回、静かでゆったりの時間を過ごしてきた私にとっては、まるで180度の世界、中国の多彩な「今」を見せつけられた一日でした。翌日早朝は、北京空港から札幌・新千歳空港に向けて約3時間半、「日本海をひとっ飛び」です。

小樽港から日本海へ(3)

Posted by 秋山孝二
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 ウラジオストクを出てからほぼ24時間、途中はまた濃霧で、霧笛の航行が続きましたが、午後からは晴れて、小樽出港以来、濃紺の海を初めて見ました。

霧に包まれての航行が続く

霧に包まれての航行が続く

北朝鮮沖の海を北上する漁船、どこの国籍でしょうか?

北朝鮮沖の海を北上する漁船、どこの国籍?

 

  韓国・釜山港(http://www.youtube.com/watch?v=XzELRZn7XWk)です、早朝、水先案内人が乗り込み港に入りました。

釜山港に入港、1時間前

釜山港に入港、1時間前

  港で下船後、慶州へ。23基の新羅時代の古墳がある「大稜苑:http://www.pusannavi.com/miru/1069/」に到着、「天馬塚」内部の展示を見学。饅頭型の古墳の由来を知りました。そして次には、751年に建立された「仏国寺:http://www.tabijin.com/butkokuji.html」を訪れました、仏教文化の奥行きを垣間見た気がします。

慶州・佛国寺門

慶州・仏国寺門

佛國寺・大雄寺

仏国寺・大雄殿

  詳細の説明はほかのサイトのお任せするとして、全体の敷地の構造、それぞれの建物がかもし出す背景等、奥深い仏教世界を彷彿させる空間となっています。幾多の火災による消失、時代による破壊を経ながらも、繰り返し再現されて、今、目の前に存在する、その説得力が素晴らしいですね。

 夕方には、天津に向けて、船は港を後にしました。「釜山港に帰れ」、チョウ・ヨンピルはもちろんですが、チェウニの歌(http://www.youtube.com/watch?v=wtBlCg_KDTc&feature=related)もまた「いいね!」、です。

小樽港から日本海へ(2)

Posted by 秋山孝二
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 ロシア共和国最大の港、ウラジオストク(Vladivostok)は、1860年に開拓が始まり、貿易、太平洋艦隊の拠点として発展してきて、街の名前はロシア語の「Vladi(東に)+Vostok(攻めよ)」で、まさにロシアのこの都市の位置づけを表して、存在感を増しています(http://4travel.jp/overseas/area/europe/russia/vladivostok/)。どこか、広島県呉市の雰囲気ですね。

霧のウラジオストクに早朝に入港:海軍艦船と建築中のつり橋

霧のウラジオストクに早朝に入港:海軍艦船と建築中のつり橋

 事前のレクチャーでも伝わっていましたが、とにかくロシア入国管理官の無愛想・無表情は際立っています。私が1991年に初めてハバロフスク経由でイルクーツク、ノボシビルスクを訪問した時、3年後にモスクワ経由でサンクトペテルブルグ、ノボシビルスクへ行った時、いずれも全く同じような印象でした。あれから20数年、商品、広告等、大きく変化し豊かにはなっていますが、入国管理・警察官は相変わらずです。

港近くの広場で

港近くの英雄広場で

  旧共産圏の街なかにある像は、どうしてこうも皆同じなのでしょうか。武骨で角の多い彫像、人は斜め上方に視線を向けて、「芸術性」からは遥かに遠い気がします。これが、歴史的な「勝利者」のイメージなのでしょうかね。

潜水艦博物館から乗ってきた船を臨む

潜水艦博物館から乗ってきた船を臨む

 第二次世界大戦で勇敢に戦ったという「潜水艦記念館」から、乗ってきた「レジェンド・オブ・ザ・シーズ」を臨むと、巨大ビルディングです。

 その後、海抜193mの「鷹ノ巣展望台」からウラジオストクの湾を一望にと、意気込んで階段を上がっていきましたが、目の前に広がるのはウラジオストク特有の「濃い霧」、5月は晴天が多いようですが、6月はこの「霧」が名物だとか、最高の「視界なき展望」でした。

 夕方午後6時過ぎに出港し、夜、インターネットラウンジでニュースを検索すると、「野田総理の原発再稼働の記者会見:http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2012060902000148.html」、「サッカーW杯予選・ヨルダン戦で6対0で勝利http://www.hokkaido-np.co.jp/news/sports/378787.html」等、こんな時に、のんびりのブログ掲載お許しを。

 この日は、お日柄が良かったのか、幾つかの場所で新郎・新婦の姿を見ました。写真撮影、式、披露宴、これはどの国でも同じ光景です。小樽を発って船でほぼ24時間、大陸・ロシアがこんなにも近いことに何か新鮮な驚きを感じます。モスクワ、サンクトペテルブルクもロシア、ウラジオストクもロシアです。

 港を出ると、またまた濃い霧の中を釜山に向けて、北朝鮮の沖を南下航行です。

小樽港から日本海へ(1)

Posted by 秋山孝二
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 昨年の今頃予定していた、ロイヤル・カリビアン・インターナショナル(http://www.royalcaribbean.jp/cruise/rci/index.doの客船「レジェンド・オブ・ザ・シー(Legend of the Seas):http://www.royalcaribbean.jp/cruise/rci/ship/ship_detail.do?classCode=VI&shipCode=LG」のツアーが、1年遅れでやっと実現しました。昨年は、東電福島原発事故の放射能汚染情報により、船自体の日本への寄港がキャンセルになりましたので。

総トン数7万t、全長264m、乗客定員1800人

総トン数7万t、全長264m、乗客定員1800人

  夜7時過ぎから始まった「日本出国手続」には、日帰りツアーから戻った乗船客を含めて大勢の方々が長蛇の列、船内ロビーを通り抜けて50m以上はあったでしょうか、とても「豪華客船」の雰囲気ではありませんでしたね。2時間の予定が大幅に遅れて、全て終了して係官が船を下りたのが午後11時をまわっていました。

船内では「日本出国手続き」で長蛇の列

船内では「日本出国手続き」で長蛇の列

  埠頭でお見送りする地元の方々も遅くまで待ち続けていたようで気の毒でした。ノボリ、ハタを振っての「お気持」、お疲れさま!

予定を大幅に遅れて、小樽から出港

予定を大幅に遅れて、小樽から出港

  翌朝は日本海、「天気晴朗」とはいかず、「曇天」です、海上は「波高し」ではなく、「穏やか」です。次第に霧が濃くなってきて、霧笛を鳴らしながらの航行です。「霧の日本海!」、歌の題名にありましたっけ、「日本海は霧の中」でもいいですね。

翌朝の日本海、この後、霧笛を鳴らしながら航行

翌朝の日本海、この後、霧笛を鳴らしながら航行

吉村昭の世界

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 札幌の中島公園にある「北海道立文学館:http://www.h-bungaku.or.jp/」で、今、「吉村昭と北海道~歴史を旅する作家のまなざし~:http://www.h-bungaku.or.jp/index.html」の特別展が開催中です。
ポスターから
ポスターから

  昨年11月のこの欄に、私は松本良順(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=2682)について書きました。その後半部で:~~~~~~この辺りの歴史は、歴史小説で名高い吉村昭の2005年著「暁の旅人」http://shop.kodansha.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=276139 で詳細を知ることが出来ます。吉村さんは今から4年程前に、この本を携えて札幌の私の所を訪問されました。埼玉県の古文書館で調べて、愛生舘北海道支部の発祥の地を訪ねての調査だったようです。松本良順と新撰組近藤勇との交遊他、良順の情に熱い人柄がきめ細かく表現されています。~~~~~

 お亡くなりになる1年程前でした、お会いした時には新聞記者の取材のようでしたが、私は何かの用事で忙しく、実はあまりゆっくりお話が出来なかったのです。吉村さんが、「対象人物ゆかりの地で、地元の方にお墓に案内されるのには閉口します」とおっしゃったのを妙に記憶しています。今、考えてみると、松本良順のお話他を、たくさん聞くチャンスだったのに、貴重な機会を逸し実にもったいないことをしました。

 「暁の旅人」、書評もたくさんあります、 1)http://blog.livedoor.jp/shunp1/archives/51716512.html、2)http://pub.ne.jp/shisekihoumon/?entry_id=1691154、3)http://hos.sci.hokudai.ac.jp/mutter/2008/09/post-170.html、4)http://yaplog.jp/ashy_ashy/archive/337

 もう一つ、1988年の著書「帰艦せず」でも不思議なご縁を感じます。この作品は、北海道小樽港に巡洋艦「阿武隈」が入港した時に、失踪して帰艦しなかった一水兵の物語です。この巡洋艦「阿武隈」こそ、キスカ撤退作戦を成功させた後に、幌筵(ホロムシロ)を経由して小樽に寄港したのです。この艦の通信長をしていたのが私の父で、司令官だった木村昌福さんが、私の両親の結婚の仲人となった方です。

 吉村さんの作品は、「休暇」、「桜田門外ノ変」をはじめ、幾つか映画化されています(http://www.eigakyuka.com/http://www.sakuradamon.com/)。

 著書「戦艦武蔵」でノンフィクションの時代を拓き、不動の地位を築かれましたが、綿密な取材に基づく力強いタッチは、蝦夷地の取材でも存分に発揮されました。1959年に「鉄橋」が第40回芥川賞候補になって以来、度々候補になりましたが受賞を果たせず、そうこうしている内に、1965年に妻の津村節子が受賞しました。

 吉村昭資料室(http://www.geocities.jp/bunmei24jp/index.htm)では、更に詳細を知ることができますし、そんな吉村昭さんと少しでも時空を共有できたのは、私にとっては宝です。私は今回の特別展示期間中に、もう一度足を運ぶつもりです。