愛生舘の「こころ」 (30)

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 四街道市教育委員会から松本順、川口家繋がりでご紹介をして頂いた四街道市下志津新田の『近藤家』、代々守ってこられた古民家を訪問し、7代目の近藤貴子さんから深いお話を長時間伺うことができました。デジタル情報が少ないので、大変濃密なパンフレットをここに掲載して報告に代えさせて頂きます。

* 秋山孝二の部屋 » Blog Archive » 近藤家@四街道(上) (akiyama-foundation.org)

* 秋山孝二の部屋 » Blog Archive » 近藤家@四街道(下) (akiyama-foundation.org)

 松本順の揮毫はこちら、戊辰戦争・会津での戦いで旧幕府軍野戦病院で治療にあたった立場として、新選組ほか旧幕府側に対する世間の不当な評価への嘆きと痛烈な批判。。

 今回は、裏の里山、土蔵ギャラリーは時間がなくゆっくり見学できなかったので、再度時間を見つけて訪問することをお約束して帰りました、まさに「宝の山」といった感じの『邸宅美術館』でした。栃木県益子町の『ワグナー・ナンドール財団』に通じるコンセプトと受け止めました。

* 『(公財)ワグナー・ナンドール記念財団』ーー> 秋山孝二の部屋 (akiyama-foundation.org)

近藤家@四街道(上)

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 秋山財団の『愛生館文庫 - 秋山記念生命科学振興財団 (akiyama-foundation.org)では、デジタルコンテンツ作成で取材に行った先で新たな発見が生まれてきています、歴史の中の人々の繋がりには何か運命的な出会いを感じる昨今です。

 その一つ、四街道市の『近藤家近藤家住宅主屋ほか/千葉県 (chiba.lg.jp))』をご紹介します。四街道市下志津新田地区の中央部に位置、江戸末期に武州多摩郡から犢橋村(こてはしむら、現在の千葉市)に移り、さらにこの地に移り住んだとされている旧名主、旧千代田町長宅です。

 門には近藤登之助の表札、六代目登之助の名前は、江戸時代に浜松、気賀、金指の関所を守る旗本・近藤氏が代々襲名し、それにあやかっていたそうです。五代目貴義の弟・文内岱(ぶんないたかし)も気賀に縁があったとか。三代目・四代目の時代から、その旗本の子孫が千葉で「江戸屋」という呉服屋を営み、道路や医学校建設、銀行設立を支援し、親交があったため、浜松を訪ねて十四代用治氏とも現在歴史交流を続けているそうです。

門には近藤登之助の表札

門には近藤登之助の表札

 一歩入ると、広大な敷地の庭が広がり、奥には林の景観も。

 敷地内の隣には古民家に似合った賃貸のアパートも。

 主屋にはそれぞれ趣のある部屋が幾つもあり、由緒ある展示物が所狭しと並んでいました。とても一回の訪問では理解できないので、またお伺いすることをお約束しました。

 その中で、近藤家は川口家、松本家とも姻戚関係にあり、松本順(良順)揮ごうの掛け軸が目に留まりました、二行書です。幕末から明治に掛けての世の中の世情に対する彼の思いを表しています、新選組の近藤勇ほか旧幕臣たちへの思いを馳せてでしょうか。

* 川口家ーー> 秋山孝二の部屋 (akiyama-foundation.org)

* 松本順ーー> 秋山孝二の部屋 (akiyama-foundation.org)

さらに敷地の隣には、また貴重な歴史史料の展示もありました、(下)につづく。

愛生舘の「こころ」 (29)

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 さて、今回の取材・撮影プロジェクト、いよいよ最終日は東京に移動しました。先ずは「愛生館事業」の発祥の地、神田岩本町の現在地に立っての納谷真大さんとのやり取り撮影です。東京の古地図を調べてみると、ここに「愛生館」の存在が確認できています。デジタルコンテンツではこの場面が一番最終になる予定です、まさにルーツを辿る物語の到達点として。

 引き続いては松本順先生の四代後で、現在、順天堂大学医学部耳鼻咽喉科の主任教授・松本文彦先生との対談、一日の外来を終えての時間帯、医局応接室でお話を伺いました。内容はデジタルコンテンツ完成品をご覧頂きたいのですが、本当に心から感動するお話の数々、48歳の若さも相まって素晴らしいお人柄、今後に大いにご活躍を期待したいですね。

大学病院正面玄関で

大学病院正面玄関で

医学部付属病院一階ロビー

医学部付属病院一階ロビー

 11月に医局の面談室でご挨拶した時の写真、秘書の方々の対応も丁寧で素晴らしく、12月の撮影も快くお引き受け頂きました。実は松本教授は2015年1月に訪問した松本和彦先生の三男、和彦先生は現役を退き、クリニックも閉院したとのご連絡あり、今後は文彦先生と会うようにとのご意向でした。

* 秋山孝二の部屋 »愛生舘の「こころ」 (14) (akiyama-foundation.org)

 今回の取材の最後に、松本文彦先生の素晴らしいお話を伺い、ここでも愛生館事業のキーマンの松本順先生の今と出会った気がして心が躍りました。

 デジタルコンテンツ制作の最終局面での撮影ツアー、素人の私が想像する以上に下見ほか撮影準備等で手間の掛かる作業だと分かりました。ただ、単に昔の歴史を調査するだけでなく、それが今の時代にもしっかり繋がって息づいていることを発信するのも、この『愛生館文庫』の狙いとする所でもあったので、現在ご活躍のそれぞれの方々にお会いしてお話を伺うことができたのは大きな収穫だったと思っています。歴史を繋ぎ、今の課題に正面から立ち向かって解決しようとする姿勢をいつまでも失いたくないものです。ご協力して頂いたすべての方々に感謝致します。

愛生舘の「こころ」 (28)

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 撮影二日目、まず最初は千葉市花見川区柏井の川口新之丞邸です。広大な敷地の正門前で、「愛生舘事業」の最初の一歩を踏み出した事業家であり投資家でした。

延々と続く敷地

延々と続く敷地

 続いては同じく花見川区武石町、初代秋山康之進の実家・芝田家の菩提寺・真蔵院で中村住職との対談撮影でした。外での対談撮影・録画中に、恐らく成田空港から東京都心に向かうVIPを載せる大型ヘリコプターが次々と上空を通過して、そのエンジン音がこの場所の臨場感を高めたかも?です。また、ここでも私が千葉大学教育学部卒業とお伝えすると、住職の弟さんが千葉大学教育学部卒業で、千葉で教員、最後は近くの小学校校長で退職したとおっしゃっていました、またまたこれもご縁ですね。

* 真蔵院|千葉市花見川区武石町 真言宗豊山派寺院 (tesshow.jp)

 芝田家のご親族、川村さんと畔上さん母子もご一緒に。

 親戚の川村光さんご夫妻にはご自宅に招かれ、チーム全員、懇談のほか昼食をご馳走になりました。そして午後からは、佐倉市本町の順天堂記念館へ。佐倉市教育委員会学芸員の須賀隆章主任主事も来館されて詳細のご説明を頂きました。なぜ、順天堂創始者の佐藤泰然が佐倉の地にやってきたのか等、これまでの歴史とは少し違った観点からのお話が大変興味深かったですね。隣には今も順天堂医院があり、七代目の佐藤仁院長にも診療の合間でしたが、ご挨拶することができました。

学芸員の須賀隆章主任主事と記念館前庭・松本順のレリーフ前で

学芸員の須賀隆章主任主事と記念館前庭・松本順のレリーフ前で

 この地も私は二回目でしたが、記念館内部での須賀さんの詳細なご説明をお聞きして、一層、佐倉藩の近代医学の先駆性を再確認した次第です。漢方医主体の江戸末期に、いち早くオランダから医学を学ぶ佐倉藩のセンスに見識を感じました。そこに『愛生館事業』の原点があり、それぞれの分野で人を得た事業と言えるのでしょうね。

 この事業の『愛生済民(あいせいさいみん)』の理念に基づく近代公衆衛生の礎は、これらの先人によって明治期中期に始まり、今日の日本の健康増進に貢献しました。二日目も収穫の多い一日でした。

愛生舘の「こころ」 (25)

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 今回は数年ぶりに長崎大学医学部に足を運ぶことができました。長崎大学附属図書館の医学分館(https://www.lb.nagasaki-u.ac.jp/med/)で、長崎大学名誉教授の相川忠臣先生と学術情報部の松田綾主査と面談、松本良順についての深堀りのお話を伺いました。

 これまでも長崎大学、松本良順に関してはこのサイトでかなり記載しています。

* 長崎大学関連記事ーー>http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E9%95%B7%E5%B4%8E%E5%A4%A7%E5%AD%A6

* 松本順の関連記事ーー> http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E8%89%AF%E9%A0%86

医学部キャンパスに残る原爆投下後も残った礎石

医学部キャンパスに残る原爆投下後も残った礎石

 相川先生はこれまで私が知っている松本良順像とは違った視点からのお話と展示物の解説をして頂き、大変興味深く伺いました。「医学は長崎から~http://www.lb.nagasaki-u.ac.jp/siryo-search/ecolle/igakushi/」の歴史を学ぶと、幕末から明治初期の西洋医学の導入の格闘が読み取れ、一層、『愛生済民』の理念に基づく「愛生館事業」の重要性を再認識した時間となりました。

 上の写真にあるように、学んだ人々の年代は幅広く、小学生のような幼い子供たちも受講していたようです。オランダ人の先生は、歳を取った男たちよりもこの若い受講生に期待して熱心だったので、年上の受講生たちは先生に不満をぶつけたようだと相川先生は笑って説明して頂きました、教育的効果を考えると言葉の理解も含めて「当たり前」なのでしょうね。

助成財団セミナー 2020(下)

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 基調講演での私のプレゼンは、概略以下の通りです。

 当日スライドからの抜粋~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

< 助成財団が必要とするアウトリーチ活動を目指して >

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3.「愛生館」の理念

庶民への眼差し

愛生済民

アジア・世界の体力向上

「愛生館」事業~担い手は幕末・維新を生きた人々

〇松本順先生の全国的な健康増進事業

~司馬遼太郎の歴史小説胡蝶の夢

〇愛生館三十六方製剤 > 衛生思想の普及

〇愛生館北海道支部 から 秋山愛生舘 へ

2019.10.1 愛生館文庫開設 http://www.akiyama-foundation.org/news/3854.html

* 参考ーー「愛生舘のこころ」シリーズ http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E6%84%9B%E7%94%9F%E8%88%98%E3%81%AE%E3%80%8C%E3%81%93%E3%81%93%E3%82%8D%E3%80%8D

ーーーーーーーーーーーーーーー

5. 今、注力している活動

8期中期5ヶ年計画(20172021年度)より抜粋~

3)アウトリーチ活動を通じて

* 研究者地域の担い手とのコラボレーション企画学びの場(プラットホーム)の構築

次世代の育成・教育プログラム創設すると共に、地域社会変革モデルを積極的に提唱し、幅広い道民の合意形成を実現する。

ーーーーーーーーーーーーーーー

ネットワーキング!

~閉じた活動を外に開くこと   助成財団センター山岡理事長

受領者 & 秋山財団

大切にしていることは、人の繋がり(歴史・信頼)

プラットホームして持続可能な関係性構築

~~研究者、活動主体へのリスペクト!

~~財団のポジショニングの変更!

研究助成のアウトリーチ活動

〇 市民活動助成のコラボレーション

研究市民活動の相互交流

ーーーーーーーーーーーーーーーー

6今、思うこと

理念の具現化~未来像・2011から~

http://www.akiyama-foundation.org/vision

1)若い世代への助成

2生命科学のさらなる深化 ~全体知~

3)新しい時代の人と自然の調和

歴史のバトンを受け取り、そして、次に渡す!

ーーーーーーーーーーーーーーー

Ⅱ.30年目の決意2016

~ 秋山財団の原点 愛生済民

<立ち位置>

①地域: 「中央からの自立・自律性

②民間: 「官からの独立性、札幌農学校!

③生命科学: 「既成の学術領域」から解放 される“命・いのち”をテーマに

SDG、全体知、つながり

~生命地域(バイオリージョン):北海道~

ーーーーーーーーーーーーーーー

1)本来の「第三セクター」の立ち位置は?

3) 財団法人経営を学ぶ場の必要性

①他財団とのパートナーシップ構築

②「基本財産」に込める出捐者の意志の継承

(例) 愛生館文庫 <時代に合った翻訳>(https://www.akiyama-foundation.org/news/3854.html

4)秋山財団「第8期5カ年計画20172021年度)の視座

①助成金は「投資」 → 「託資」

②対応する → 提起する

* 主体は研究者、市民活動実践者

リーダーシップ よりも

パートナーシップ

フォロワーシップ

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秋山記念生命科学振興財団
アウトリーチ等の活動事例

たくさんの事例を写真入りで報告

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 抜粋 おわり

 その後のプログラムでは、アメリカでの事例ほか、日本の大手財団の様々なアウトリーチ活動の取り組みがご紹介されました。さらにそれに続いて、私を含めた登壇者がステージに着席して、フロアーからの質問にもお答えする時間も。私にもたくさんご質問が来ていて、その場では十分にお答出来ていなかったので、札幌に戻ってお一人ひとりにご返事を送信するつもりです、ただ、もう10日も経っているのに、まだ実行はできていませんが・・・。

 いずれにせよ、私にとっても大変貴重なひと時、特に質疑応答での私のかなり突っ込んだ、過激な(?)「民が担う公共」へのコメントは好評だったようで嬉しかったです、「出過ぎる杭は打たれない!」でしょうかね。このような機会を与えて頂いた山岡理事長、田中専務理事に感謝致します、ありがとうございます。

愛生舘の「こころ」 (18)

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 今年は夏の終わりから今日まで超多忙な毎日が続き、愛生舘の「大鏡」の分解検証についてご報告をするのがすっかり遅れてしまいました。

 秋山財団30周年を記念して、数年前から「愛生舘文庫」創設の一環で歴史のひも解きを続けていますが、8月終わりに、以前から保管してある「愛生舘北海道支部長に送られた大鏡」を、100年の時代を経て分解し、年代の特定を試みました。

* 「愛生舘北海道支部長に送られた大鏡」――> http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=1198

 まずは背板に残る貼り紙の一部を外側から再確認です、ほぼ、いつ頃の時刻表かは分かっています。

汽車の時刻表、年代特定の重要な資料

汽車の時刻表、年代特定の重要な資料

 「れきけん(http://nporekiken.com/)」の東田秀美さんに、ガラス店・職人の福田さんをご紹介して頂き、いよいよ分解を開始、ガラスを気遣いながら、慎重に背板の釘を一本一本抜いていきました。「れきけん」は、秋山財団のネットワーク形成事業助成で応援しています(http://www.akiyama-foundation.org/history/history_09)。

慎重に釘を抜いていく

慎重に釘を抜いて

 ガラスと背板の隙間に挟んであった新聞紙と思われていた紙は、実はポスターでした。新聞紙だといろいろ情報が読み取れると期待していたので少々残念でしたが、このポスターにも情報は満載で、「札幌松竹座」、「クラブ乳液」ほか、年代特定の大きな手掛かりの予感がしました。ただ、これはガラス製造時期、贈呈時期とは少し違い、送られた後に札幌で一度背板を外して入れられたものと推定できます。商品販売のプロモーションとして映画ご招待といった企画が当時から行われていた、また別の発見も面白かったですね。

ポスターには情報満載!

ポスターには情報満載!

 早速、製造メーカーを調べて検索し、このボトルとデザインから年代を特定できました。

製造メーカーに問い合わせて年代を特定!

製造メーカーに問い合わせて年代を特定!

 今回の一番の発見は、ガラス塗料の検証です。今現在、成分を分析して、この塗料が使用されていた年代を解き明かすことができると期待しています。鉛成分の毒性から、この分野での成分改良も現在まで随分進んでいるとのことも知りました。

初めて開陳された鏡の裏側

初めて開陳された鏡の裏側

 歴史は細部に宿る(?)、数回打ち直された鍵穴も見て取れます。間に挟まっていた先述の2枚の折りたたんだポスターも、贈られた以降に一度背板を外して安定させるために挿入されたものと推察できます。釘穴の後を検証すると、素人が打ち込んだようだと福田さんはおっしゃっていました。

複数回打ち直された釘穴の後

複数回打ち直された釘穴の後

鏡の塗料成分から年代を特定中!

鏡の塗料成分から年代を特定中!

 毎年夏に札幌に避暑で滞在されている片桐一男先生、愛生館文庫創設にお力を借りている山下秀子さんも、背板の細部の検証に集中していました。

背板の細部も検証しながら

背板の細部も検証しながら

 歴史の発掘は、まさに考古学と似た手法なのでしょうね、木製の鏡枠は時の経過を刻み、一つ一つの構成物からも時代時代の特徴を検証できる、本当にエキサイティングな時間でした。現在まだ財団事務所に分解したままに置いていますが、分析中の結果が分かり次第、また組み立てて永く大切に保管し、皆さまのお目にも触れるべく展示したいと思っています。

 永い眠りから息を吹き返した大鏡、本当に愛おしく思えた瞬間でした。

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愛生舘社宝「鏡」の解体調査状況について

解体年月日:平成28817

(秋山理事長、解体者福田ガラス店社長、片桐一男先生傍観、山下)

①裏板の調査について

●列車時刻表の年月日の調査

明治4232日第三種郵便物認可と書かれていることが判明。(但し、何枚かの紙が重なって貼られているため、鏡が出来た時期はそれより早と推定される)

②鏡と板の間から見つかったポスターについて

●札幌松竹座=1925(大正14年南4西3)改称、2年後に火事1929に改築、前身は大黒座として1897に開業)

●ポスターのホルモン含有クラブ乳液(旧中山太陽堂発売)

19311935/昭和6~10年以降に松竹座の広告媒体となったものである)

③愛生舘社宝「鏡」の製造年の特定

●松本順の栄典事項により明治26年から38年(正四位勲二等)に作られたものである。製造年の特定は、調査継続中。

④鏡(8mm)の裏止め塗装・レンガ色の種類の特定

文字を鏡の中に入れる製法について

●④並びに⑤は調査中

(参考)研きガラス(8mm)→鏡に加工(特注)したと考えられる(福田ガラス店社長)

・通常の規格寸法は36インチ×24インチである。

・愛生舘鏡の基板寸法=100インチ(2410mm)×75インチ(1905mm)

11月末を目処に調査を終了する予定

(平成28107日現在 山下)

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愛生舘の「こころ」 (17)

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 愛生舘に関する資料を探しに、岐阜県の「内藤記念くすり博物館(http://www.eisai.co.jp/museum/information/」を訪問しました。

 明治中期に始まる全国的な健康増進事業「愛生舘」の展開に尽力した人々が、この所、資料の裏付けもあり、かなり詳細に分かってきて興奮しています。愛生舘プロジェクトのスタートは高松保郎、お墨付きと医薬品情報提供者の松本順、出資で中心となった川口新之丞、支部設立ほか最先端の現場で活躍した初代秋山康之進、起業する要素を満たしてのスタートでしたが、間もなく出資者への約束不履行、設立リーダーの死去等で、わずか3年ほどで存亡の危機を迎えます。各支部設立の任の最後として、初代秋山康之進は自ら北海道支部長となり、川口新之丞の支援を得て、北海道の地で「愛生舘」事業を営み続け、理念の下に100年以上も北海道民の健康を医薬品を通じて守ってきたのです。

 この博物館では、愛生舘関連の資料は一つでしたが、当時の医薬品が庶民の間でどんな存在だったかを知ることができました。

愛生舘の広告

愛生舘の広告

右下をクローズアップすると「明治27年11月」の文字

右下をクローズアップすると「明治27年11月」の文字

上部の文言

上部の文言

 当時の薬局の店先を醸し出す雰囲気です。

帳場の復元

帳場の復元

 「くすり博物館」の2階では特別展示も。

特別展示「感染症の世界」

特別展示「感染症の世界」

 さらに特別コーナーとして内藤家思い出の品々。内藤豊次さま、祐次さまには、私の祖母・伯父・伯母はじめ、秋山愛生舘は大変お世話になりました。そして、この秋山財団設立時も、公益財団法人内藤記念科学振興財団(https://www.naito-f.or.jp/jp/index.php)の内藤晴夫さま、当時事務局長だった熊谷さまにご指導を頂きました、心から御礼申し上げます。

内藤祐次さんの会長室机ほか

内藤裕次さんの会長室机ほか

愛生舘の「こころ」 (16)

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 午後は、千葉市花見川区柏井の川口家(旧家)を訪問し、川口久子さまへのご挨拶と愛生舘事業関連のお話を伺いに参りました。当時のことを知る川口新之丞の娘さんの次男・川口和夫氏の妻・川口久子さまと、同居のご長男で新之丞の曾孫にあたる川口貴雄さまとお話をし、いろいろ新しい事実を知ることができました。

川口家の正面の門

川口家の正面の門

門横の敷地内には鳥居・神社も

門横の敷地内には鳥居・神社も

広大な敷地に母屋も重厚

広大な敷地に母屋も重厚

川口久子さま(右)とご子息の川口  さま(左)

川口久子さま(右)とご子息の川口貴雄さま(左)

川口

川口新之丞さま、42歳でご逝去

部屋の中には揮毫ほか歴史的作品がたくさん

部屋の中には揮毫ほか歴史的作品がたくさん:正面上は勝海舟の書

 川口家の蔵に保管されていた貴重な資料は、千葉市郷土博物館に寄託され、大切に保管されています。こちらでは、久子さまから、川口家のリアルなお話の数々を聴くことができました。家を継ぐことの難しさと価値みたいなものを、あらためて感じましたね。

 明治の初期、「くすり」に対する信頼がまだ社会的にない時代、松本順の処方による「お墨付き」三十六方製剤の販売会社「愛生舘」を立ち上げた高松保郎、それを財政的に支えた川口新之丞、その新之丞の下で支部創設の実務に携わった初代秋山康之進、やがて出資者と創業者との間に不信感が募り、「愛生舘」事業自体はほんの数年で終わりを迎えますが、すでに営業を始めていた北海道支部では、支部が自立して「秋山愛生舘」として、開拓時代の北海道民の健康を後方から支援するために、新之丞の熱い協力を得て、営業活動と商品供給を続けました。全国展開の夢はそのスタートからつまずきましたが、北海道で暖簾を守り、信頼を得た企業活動は100年以上続き、1997年、広域医薬品卸「スズケン」と合併して、明治の創業時の全国展開を果たし、その夢を実現するに至りました。

 古きを知り、私なりの何かストーリーの完結を見た清々しさを感じた一日でした。これからいよいよ、秋山財団30周年記念事業として「愛生舘文庫」の創設に向かいます!

愛生舘の「こころ」 (15)

Posted by 秋山孝二
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 初代秋山康之進と千葉の川口家との関係は、これまで一枚の領収証で繋がれているだけでした。この度、時間を作って千葉市亥鼻(いのはな)にある千葉市郷土博物館と川口家を訪問し、調査をして参りました。

まずは、千葉市立郷土博物館(http://www.city.chiba.jp/kyoiku/shogaigakushu/bunkazai/kyodo/kyodo_top.html)です。

復元したお城の中に郷土博物館

復元したお城の中に郷土博物館

 今回の訪問の目的は、秋山財団30周年の記念事業として、秋山記念財団内に「愛生舘文庫」創設の準備を進めている中、初代秋山康之進、松本順、川口家(雷鳴堂社長)川口新之丞との関連で、愛生舘事業に関する残遺資料の有無の確認・閲覧でした。

 川口家から数年前に、約15,000点の資料がこの郷土博物館に寄託されていると聞いていましたので、事前に知りたい範囲の情報をお伝えして、係の学芸員・土屋雅人さんにお願いして用意をして頂いていました。当日は段ボール10箱位ありましたでしょうか、綺麗に番号付き袋に整理された資料から、一点一点開封して記録をさせて頂きました。数々の貴重な新たなものがありましたが、その中から三点だけご紹介致します。

 初代秋山康之進の実父・芝田玄達は、川口家川口理右エ門さんの主治医でした。まずは、その診断書を数点見つけました、日付は「明治十壱年」とあります。多少虫食いの紙ですが、鮮明な文字の臨場感は素晴らしいです。

初代秋山康之進の実父・芝田玄達と川口理エ門さんとの関係

初代秋山康之進の実父・芝田玄達と川口理右エ門さんとの関係

 二つ目は、初代秋山康之進の印鑑証明と思われるもの。

初代秋山康之進の印鑑証明書

初代秋山康之進の印鑑証明書

 更には、初代秋山康之進が川口新之丞さん宛に出した書簡の封筒です、直筆の名前と折り方に注目です。

初代秋山康之進の直筆封書

初代秋山康之進の直筆封書

 今回、郷土歴史研究家・中澤惠子先生と学芸員・土屋雅人さんには、長時間本当にお世話になりました。何か歴史の扉が大きく開き、光が差し込んできた感動を覚えました。

郷土歴史研究家・中澤惠子先生と学芸員・土屋雅人さん

郷土歴史研究家・中澤惠子先生と学芸員・土屋雅人さん

 現在、世界の博物館では、資料のディジタル化が進み、インターネットによる検索機能で、全世界の博物館がネットワーク化される日も遠くないようです。今回の私たちの調査により、私たちがリクエストした資料もデジタル情報で保管されるようですので、また一段、アーカイブスとしての価値も高まるのかと期待が膨らみます。一つ一つの資料を丹念に調べていく大変根気のいる活動ではありますが、私自身、先代からの遺言の未実現活動として、秋山財団30周年の節目に、何とか完成させたいと強く感じた次第です。

 余談ですが、この博物館の場所、はるか45年前に、私が千葉大学の入学式が執り行われた場所であり、本当に久しぶりの訪問でしたが、別の意味で感慨無量でした。さらに、学芸員の土屋さん、同じく大関さんは、ともに千葉大学の後輩とのこと、何か浅からぬ「縁」に感動しました。

 土屋さんに送って頂き、午後からは花見川区の川口家を訪問しました。

愛生舘の「こころ」 (14)

Posted by 秋山孝二
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 このブログのシリーズ「愛生舘の『こころ』」は、第13回を終えてしばらくお休みしていましたが、本当に久しぶりに再開致します。というのも、今年4月から始まる年度は、秋山財団設立30周年の節目の年になり、基本財産の出捐者・秋山喜代の遺志でまだ私が実現していない「愛生舘文庫」の創設に向けて、新たなスタートを切りました。

 これまでのシリーズ「愛生舘の『こころ』」はこちら――> http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E6%84%9B%E7%94%9F%E8%88%98%E3%81%AE%E3%80%8C%E3%81%93%E3%81%93%E3%82%8D%E3%80%8D

  この4年間、私は、秋山喜代の最後の住まいで、今は秋山財団事務所になっている建物倉庫の整理と、「愛生舘」にまつわる資料の収集・整理を空いた時間を見つけては行ってきたつもりです。なかなか進展していなかったのですが、昨年、助っ人を得て、資料収集も最後の局面を迎えつつあります。

 先日は、これまでも「古文書講座」等でお世話になっている青山学院大学名誉教授・片桐一男先生とご一緒に、松本順先生のご親族・松本和彦先生を訪問して参りました。貴重な資料をお借りできたので、さらに資料整理と分析・解読を進めていきます。

* 古文書講座 http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E5%8F%A4%E6%96%87%E6%9B%B8%E8%AC%9B%E5%BA%A7

松本和彦先生(左)、片桐一男先生(右)

松本和彦先生(左)、片桐一男先生(右)

 貴重な品いくつかも拝見しました、刻まれた文字に価値があります。

蘭畴は松本順先生

蘭畴は松本順先生

 松本順先生のご業績と愛生舘との繋がり、そして秋山財団がなぜ「愛生舘文庫」なのか、以前のブログから引用します。

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 片桐先生は冒頭、「世界の中で新しい国家建設が迫られている時期、必要とされていたのは『海軍力』で、それも緊急性を帯びていた。日本が独立国家として成り立っていく思想・技術、そしてそれを担う人材、すなわち『体力』をつける目的で長崎海軍伝習があった」、とおっしゃいました。そもそも蘭学が江戸時代に静かに研究されていたのは、北方ロシアの東方進攻・南下の脅威に対してその対抗的思想・哲学の必要性からと、先生から伺ったことがありました。

 以前にも書きましたが(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=1096)、その第二次海軍伝習(実質的な「医学伝習」)で松本順は中心的役割を担いました。ポンぺからのオランダ語を介した伝習を、集まった全国各藩の弟子たちに伝えることで、それ以降の近代医学・医療の基礎を築きました。

 松本順の功績のまとめとして 1) 持って生まれた資質を生涯を掛けて伸ばし続けた:ポンぺの伝習から総合的技術を取得、実践――野戦病院・衛生思想等

2) 人との出会い、ポイント3人:松本良甫(ポンぺからの伝習)、山県有朋(陸軍病院等の基準策定)、高松保郎(愛生舘事業)

3) 彼のしなかったこと:オランダに留学等で行かなかった、制度が出来るとバトンタッチ・チャンスの移譲

4) 彼の目指したこと:庶民への眼差し「愛生済民」――愛生舘三十六方、衛生思想の徹底、アジア・世界の体力向上

5) 彼の日常生活――身の回りをいつも「楽」にしておくこと

 最後のまとめで、片桐先生は、「松本順の活きた人間像が把握されていない、激動の歴史の中で埋もれていた原因は、激変する維新から明治時代では文字を通してのメッセージの伝達が難しかったのではないか、それは庶民の教育レベルが江戸時代よりもむしろ劣化していたことを意味している」、と看破されていました。

 牛乳の効用、海水浴の普及等、今では常識になっている健康増進・普及に関して最初の井戸を掘った人物、それが「初代陸軍軍医総監」等の評価以上の歴史的意味を、彼の人生から読み取ることが出来るのでしょう。

 翌日、私の手元に「松本順と北海道」という3部にわたる小論文を届けて頂いた札幌在住の医師・宮下舜一先生とお話をしました。講演会にもご出席頂き、先生の論文には、何と明治24年6月に、松本順が北海道(函館・小樽・札幌)に20日間程度来ている記録が、小樽では道内に在住していた弟子たちと一緒に撮影した記念写真まで掲載されていました。

 (株)秋山愛生舘が「愛生舘北海道支部」から独立したのが明治24年11月ですので、この時にどこかで初代秋山康之進と再会していた可能性は大変高いと思いました。引き続き調査・研究の必要がありますね、また一つ目の前に解き明かす課題が見つかりました。

 今回、私は片桐先生に敢えて「秋山愛生舘」ではなく、「愛生舘」についてお話をして頂きたいと事前にお願いを致しました。講演会に参加された道内の「シンパ」の方々には、「愛生舘事業をしっかり今の時代にも受け継いできたのは、唯一この北海道の地ではないか、どうしてもっとそれに言及しないのか!」と叱られそうですが、21世紀の今、広い意味で「愛生舘事業のこころざし:愛生済民」の原点回帰を、秋山財団的には記念すべき25周年を機に目指す、そう是非ご理解を頂きたいと思います。

 この講演会をキックオフとして、今後「愛生文庫」を軸とした資料室の創設も企画する予定です。ご関心のある方の率直なご意見もお待ちしています。 ~~~~~~~~~~~~~~ 引用おわり

 宣言をしてから4年以上経ってしまいましたが、今年・来年中には必ず創設しますので、乞うご期待!です。

「八重の桜」、余韻覚めやらず

Posted by 秋山孝二
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 昨年のNHK大河ドラマ「八重の桜(http://www9.nhk.or.jp/yaenosakura/」は、私にとってこれまでで最も印象に残った番組でした。年始に総集編として2日間に渡り放映されて、録画でじっくり見ました、幾つか見逃していた回があったことも知りましたし、年が明けて、余韻覚めやらずですね。

 何といっても私にとって、戊辰戦争が、「愛生舘」の生みの親、松本順と密接な関係があるからです。ドラマの一場面でも繰り広げられた藩校「日新館」での負傷兵たちの看護、あの場で院長として指揮を執っていたのが、長崎でオランダ医学の一環で野戦病院医療を学んだ松本順その人だったからです、恐らく八重さんとともに活動していたものと、ドラマでは名前は出てきませんでしたが、私にはその姿がくっきり見えました。

 松本順と愛生舘との関係は、これまでたくさんこの欄で書いてきました。

< 松本順 http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E9%A0%86

 同時に、一昨年、3・11以降の初めての福島訪問の際に、会津若松市で一泊して、若松城、日新館ほかをゆっくり見学したことも記憶に新しかったからです。

* http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=12677

* http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=12692

 その時のブログにもあるように、ドラマを見ながら自分のその時の想いに確信を得ました。

~~~~~~~~~~~~~~ ブログからの引用

・・・・ 「ならぬことは ならぬものです」で結ばれる「什の掟」、日新館での教育は今の時代、一層価値があるメッセージですね。白虎隊と並んで紹介される場合が多いですが、私にとってはむしろ、松本良順と野戦病院院長の関係で記憶されています。戊辰戦争で幕府側の医師として、最後まで人々の治療にあたった彼は、戦いの後に捕われましたが、その後新政府にその類まれな近代医学の能力を高く評価され、近代医学の基礎を創り、初代の軍医総監として活躍しました。

・・・・ 近代日本への脱皮、その歴史は多くの命が失われる過程を経て、一歩一歩変わっていく時間の経過と理解すれば良いのでしょうか。日本人が、自分たちの「国」づくりを自分たちで必死に手に入れようとしていた真摯な姿を感じます。そんな歴史に対する「誠実さ」を、いつ日本人は失ってしまったのか、3・11の大震災、津波、原発事故による放射能汚染、この「機」を逃して復興しなければ、今、まさに社会の価値の方向転換をしなければ、あとは滅亡しかありません。

~~~~~~~~~~~~ 引用 おわり

 個々の俳優のインタビュー(http://www9.nhk.or.jp/yaenosakura/special/)でもたくさんの話題ですが、私としては特に、綾瀬はるか(八重)、西島秀俊(覚馬)、高島政宏(槇村)が興味深かったです。

 また、演出の加藤拓さんの言葉も含蓄があります、これまでの大河ドラマとはかなり違った視点であり、3・11以降の社会への問題提起とも受けとめます。このドラマで新政府を樹立した指導者たちが、日清・日露戦争を経て国際社会においてどんな日本国に誘導して行ったのか、その危険な芽がこのドラマからも読み取れるような気がするのです。まさに歴史に学べ、ですね。

~~~~~~~~~~~演出 加藤拓さんの言葉 HPからの引用

<他者の正義vs自分の正義>

今まで幕末物語といえば、新しい日本を目指すことにおける正義が描かれてきました。ところが今回は、その正義がある種の悲劇を生んでいきます。国を変えようとする正義を掲げるのが薩長ならば、奥羽越の人々にもまた、守らなければならない正義があったのです。

変えるための正義と守るための正義…他者の正義と自分の正義とのぶつかり合いによって、日本が分裂しかねない状態にまで追いこまれる。そのぶつかり合いをつぶさに描くのがこのドラマ前半の特徴です。そして、この衝突の最終局面が、最後まで抵抗を続けた会津藩において繰り広げられることになるのです。

それと同時に、僕らが9か月間の撮影で体感してきた未知の歴史が、今まさに既知の歴史に集約されようとしています。 “あの歴史の場面”がいよいよやってきた!この感覚の新鮮さが、つくり手としての僕らの気持ちを高揚させています。

<極限において放たれる八重の輝き>

撮影を前に、ここぞとばかりに綾瀬さんといろいろお話をしました。会津戦争という歴史の局面一瞬一瞬において、八重ならどう振る舞うか…と。

誤解を恐れずに言えば、この悲劇的な場面こそが、八重がいちばん輝きを放った瞬間です。極限の状況で放たれた八重の輝き、それがこの会津戦争を描くうえでの核になりました。女性でありながら銃をとり前線に立つことへの決意、少年兵を死地に赴かせることに反対しながらも、いざ共に戦うべき相手は老人兵や少年兵だったという皮肉。「自分が戦う以上はひとりも死なせない」という巨大な責任感と苦悩に襲われる八重の姿を、綾瀬さんが全力を投じて演じてくれました。

城が文字どおり崩れ落ちる瞬間まで、存分に戦い、存分に生き抜いた会津の人々。彼らがどう戦い、何を失い、何を得たのか…。八重はもちろんのこと、その家族や仲間、容保、家臣団…それぞれの正義をかけた戦いにご注目ください。

~~~~~~~~~~~ 引用 おわり
 

 このドラマに関わったすべての方々のメッセージに比べて、メディア界の貧困さも終わってみての評価から見て取れます、ただただ「視聴率」に拘っているだけの姿です。「視聴率」?、ドラマを観続けた私のような一視聴者には何の関係もないですよ、その作品テーマ、演出、俳優に興味があるのであって、他の人がどれほどライブで観ていたか、そんなことはドラマの評価のごくごく一部に過ぎないではありませんか。今の時代にこういった素晴らしい番組を作成したNHKに感謝するだけです。

 まるで昨今の「経済成長」論議で、株価上昇だけが経済の指標であるかのごとく語るメディアと同じレベルの貧困さです、社会の薄っぺらさとも言えましょうか、学びましょうよ、歴史から。 

 いずれにせよ、新しい国の方向性を創ることは、まさに価値観の「戦い」であり、「呻吟(しんぎん)」であり、ナチの暴虐を越えたヨーロッパ思想界のような過程を抜きには生まれることはないのかもしれないと、年始のまとまった時間にしばし黙想しました。

古文書講座 2013

Posted by 秋山孝二
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 今年で3回目の「古文書講座」は「愛生舘サロン」での開催でしたが、いよいよこのシリーズの最終回となりました。

 片桐一男先生には、一昨年の陸別訪問(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=9524http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=9531)、財団記念講演はじめ、「『愛生舘』のルーツ探訪」、「蘭学と北海道の歴史」等、この間、本当にお世話になっています。

 過年度分については、これまでにこの欄にも数回記載しています。

http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=9504

http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=10144

http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=13990

http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=15739

今年も満席の講座

今年も満席の講座

片桐一男先生のユニークな板書、今年は湿度が高く文字の乾きも遅かった!

片桐一男先生のユニークな板書、今年は湿度が高く文字の乾きも遅かった!

 一昨年、片桐先生から贈られた松本順先生の揮毫「発祥致福」、昨年額装しましたが、今年は文字、三ケ所の印文全ての解説文を贈呈して頂きました、印文の文字一字の解読に3年の月日を要したと。

解説文1ページ目、本文、印文の解読解説

解説文1ページ目、本文、印文の解読解説

解説文2ページ目、秋山財団の宝として

解説文2ページ目、秋山財団の宝として

 文字を通じての歴史の再発見、紙の奥に拡がる悠久の歴史の音・叫び、それに耳を傾けるひと時の集中した時間は、本当に「修行」のような体験でした。

第2回 古文書講座~片桐一男先生

Posted by 秋山孝二
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 昨年に引き続き(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=9504)、今年も片桐一男先生による「古文書講座」を開催しました。4日間と、昨年より1日短縮となりましたが、内容は古文書解読を重点的に講座は充実していました。

 講義の初日、昨年、片桐先生からご寄贈頂いた松本良順先生の書を、秋山財団で額に整えて、まず冒頭でご披露しました。今後、秋山財団事務所内に飾る予定です。

「発 祥 致 福」、松本順先生筆

「発 祥 致 福」、松本順先生筆

  今年の受講者の中には、昨年に引き続きの参加の方々も多く、一層熱心な講座でした。扱った文章が、当時の上司からの指示を仰ぐ文書等、実際のやり取りの書簡とかだったので、リアルな現場の様子も垣間見ることが出来てより興味をそそられました。

今年は解読を主に

今年は解読を主に

4日間、熱心な参加者

4日間、熱心な参加者

  昨年は、翌日早くに陸別に向けて札幌を発たねばならず(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=9524 、 http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=9531)実現しなかった懇親会が、今年は最終日講義終了後に、多くの参加者とともに片桐先生を囲んで和気あいあいの場となりました。皆さん、長年、古文書と向き合っている方ばかり、幕末から維新に掛けて、外国人訪問者とのやり取りにもお詳しく、あらためて北海道と諸外国との交流の歴史を知りました。ともすると「開拓使」からしか始まらない北海道の歴史ですが、幕末に、オランダ・ロシアとの交渉等、北海道の地の位置づけを再認識する貴重な文書に出会い、感動した4日間でした。

 片桐一男先生は、今年は7月上旬から3カ月間札幌に滞在し、北海道の素晴らし夏を満喫なさるとのこと、本当に心から御礼申し上げます、また、ご参加頂いた皆さまにも、感謝申し上げます、ありがとうございました。

陸別で、関 寛斎の足跡(1)

Posted by 秋山孝二
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 片桐一男先生のお供で、道東の陸別町(http://www.town.rikubetsu.hokkaido.jp/)を訪問し、関寛斎の足跡を辿りました(http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/23692625.html)。陸別町は「全国最低気温」の地として、天気予報等でもよく名前が出て来ます。今回、松本順と長崎海軍伝習・医学伝習(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E5%8C%BB%E5%AD%A6%E4%BC%9D%E7%BF%92)の延長上で、関寛斎の更なる功績を実感すべく足をのばし、予想通り、関寛斎の「北の大地」で果てしない夢の実現に向けた奮闘を体感しました。地元の斎藤省三さん、向井啓さん、大鳥居仁さんには、お休みの所ご案内頂き、心から感謝申し上げます。

関寛斎・埋葬の丘から陸別町方面を望む

郊外にある関寛斎・埋葬の丘から陸別町方面を望む

丘の頂上に置かれた墓碑

丘の頂上に置かれた墓碑

青龍山・史跡ユクエピラチャシ跡に建つ関寛翁碑

青龍山・史跡ユクエピラチャシ跡に建つ関寛翁碑

 上総国山辺郡中村(現在の千葉県東金市)に生まれ、儒者・関俊輔の養子となり、佐倉順天堂(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=4429)で医学を学びました。その後、長崎の第二次海軍伝習(医学伝習)に参画し、松本順と出会います。1年数カ月の勉学の後、奥羽、山梨、徳島と各地で地域医療の基礎を築き、明治35年に72歳で北海道・十勝国斗満(トマム)に入植して、自作農育成に力を注ぎました。開拓方針を、二宮尊親の二宮農場に求め、徳富蘆花との手紙のやり取り等多彩な活動でしたが、82歳の秋に、自らの命を絶った波乱万丈の人生でした。

大盛況!「夏季古文書講座」

Posted by 秋山孝二
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 公益財団法人 秋山記念生命科学振興財団(http://www.akiyama-foundation.org/)の25周年記念事業の一つ、「夏季古文書講座」が今週月曜日から5回開催されて、今晩で最終回を迎えます。連日熱心な受講者と相まって大盛況です。講師の片桐一男先生は、蘭学史・洋学史・日蘭文化交渉史の第一人者で、幕末・維新ほか、オランダ(阿蘭陀)との関係からみる日本のこの500年の歴史は興味深いです、以下、チラシからの転載です。

~~~~~~ 講師   青山学院大学名誉教授  片桐  一男 先生(洋学史研究会会長)

 

「『くずし字』の古文書(こもんじょ)が読めたらいいのになぁ」と思ったことはありませんか。取り上げます古文書教材は、「水書板」に「ふで」を使って『くずし字』の古文書の全文を書き写し、そのうえで、読解文を全文書き示しますので、初心者の老若男女、みんな楽しんで読めるようになります。

鎖国から開国への急激なショックで始まった長崎の海軍伝習と医学伝習は、日本の近代国家建設にどのように役立ったのか。

勝海舟と松本順の狙いと行動を示す古文書の読解を通じて、歴史の現場が鮮明に浮かび上がります。未公開古文書の読解を楽しんでください。

 

◎ プログラム(どの回からでも受講できます)

   

       

7月25日(月)

勝海舟の狙い ― 「愚存申上候書付」 ―

7月26日(火)

長崎の海軍伝習 ― 時間表・オランダ通詞・咸臨丸 ―

7月27日(水)

勝海舟の「蚊鳴餘言」 ― 世界のなかのトクガワ・ニッポン ―

7月28日(木)

長崎の医学伝習 ― ポンペ・松本順・養生所 ―

7月29日(金)

「愛生館」事業 ― 松本順と髙松保郎 ―

夜間講座にたくさんの受講者

夜間講座にたくさんの受講者

テキストとして:「咸臨丸」、「松本良順」

テキストとして:「咸臨丸」、「松本良順」

 これまで私にとっては少々敷居が高かった「古文書」ですが、片桐先生の分かりやすい解説により、「解読する楽しさ」を体験しています。日記というものから、本人の心証だけではなく、時代の様子、伝習の雰囲気等を読み解き、想像していくわくわく感とでも言うのでしょうか、新しい発見でした。個別の古文書を重ね合わせる、誤字を発見する、省略の記号を解釈する、そのプロセスの面白さは、かなりの根気も必要ですが、扉を一つづつ開けて新しい世界を知っていくような、素晴らしいひと時でした。

 鎖国から開国への急激な時代の変化の中で始まった長崎の「海軍伝習:http://www.mirai.ne.jp/~jkj8/nagasaki.htm」と第二次海軍伝習としての「医学伝習:http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=5595」は、日本の近代国家建設にどのように役に立ったのか、その一端を理解できたような気がします。

愛生舘の「こころ」 (12)

Posted by 秋山孝二
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 秋山財団の設立25周年プレ企画講演会(http://www.akiyama-foundation.org/what/index.php?year=2010&mon=08&day=06#27)で、「幕末・維新、いのちを支えた先駆者の軌跡~松本順と『愛生舘』事業~」と題して、青山学院大学名誉教授・片桐一男(http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/%95%D0%8B%CB%81@%88%EA%92j/list.html)先生が大変興味深いお話をされました。当日配布された資料も極めて貴重なものばかり、もしご必要な方は、秋山財団事務局までご連絡頂ければ、折り返し郵送か、PDFファイルでメール添付致します。

年譜を含めて全8枚の貴重な資料

年譜を含めて全8枚の貴重な資料

  1年半前に今回の講演を依頼して実現しました。素晴らしい内容で、あらためて「松本順」の波乱の人生を追いかけることが出来ました。当日会場には、自然科学系研究者の方々も多かったのですが、古文書を一字一字読み解いていくアプローチは、大変新鮮な印象を受けたと口々に語っていました。人生そのものへの興味を持った方のご参加は勿論大変嬉しいのですが、理系研究者と日頃接することの少ない人文科学分野との出会いも今回目論んだ意図でしたので、意義があったのかと喜んでいます。

 片桐先生は冒頭、「世界の中で新しい国家建設が迫られている時期、必要とされていたのは『海軍力』で、それも緊急性を帯びていた。日本が独立国家として成り立っていく思想・技術、そしてそれを担う人材、すなわち『体力』をつける目的で長崎海軍伝習があった」、とおっしゃいました。そもそも蘭学が江戸時代に静かに研究されていたのは、北方ロシアの東方進攻・南下の脅威に対してその対抗的思想・哲学の必要性からと、先生から伺ったことがありました。

 以前にも書きましたが(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=1096)、その第二次海軍伝習(実質的な「医学伝習」)で松本順は中心的役割を担いました。ポンぺからのオランダ語を介した伝習を、集まった全国各藩の弟子たちに伝えることで、それ以降の近代医学・医療の基礎を築きました。

 松本順の功績のまとめとして

1) 持って生まれた資質を生涯を掛けて伸ばし続けた:ポンぺの伝習から総合的技術を取得、実践――野戦病院・衛生思想等

2) 人との出会い、ポイント3人:松本良甫(ポンぺからの伝習)、山県有朋(陸軍病院等の基準策定)、高松保郎(愛生舘事業)

3) 彼のしなかったこと:オランダに留学等で行かなかった、制度が出来るとバトンタッチ・チャンスの移譲

4) 彼の目指したこと:庶民への眼差し「愛生済民」――愛生舘三十六方、衛生思想の徹底、アジア・世界の体力向上

5) 彼の日常生活――身の回りをいつも「楽」にしておくこと

 最後のまとめで、片桐先生は、「松本順の活きた人間像が把握されていない、激動の歴史の中で埋もれていた原因は、激変する維新から明治時代では文字を通してのメッセージの伝達が難しかったのではないか、それは庶民の教育レベルが江戸時代よりもむしろ劣化していたことを意味している」、と看破されていました。

 牛乳の効用、海水浴の普及等、今では常識になっている健康増進・普及に関して最初の井戸を掘った人物、それが「初代陸軍軍医総監」等の評価以上の歴史的意味を、彼の人生から読み取ることが出来るのでしょう。

 翌日、私の手元に「松本順と北海道」という3部にわたる小論文を届けて頂いた札幌在住の医師・宮下舜一先生とお話をしました。講演会にもご出席頂き、先生の論文には、何と明治24年6月に、松本順が北海道(函館・小樽・札幌)に20日間程度来ている記録が、小樽では道内に在住していた弟子たちと一緒に撮影した記念写真まで掲載されていました。

 (株)秋山愛生舘が「愛生舘北海道支部」から独立したのが明治24年11月ですので、この時にどこかで初代秋山康之進と再会していた可能性は大変高いと思いました。引き続き調査・研究の必要がありますね、また一つ目の前に解き明かす課題が見つかりました。

 今回、私は片桐先生に敢えて「秋山愛生舘」ではなく、「愛生舘」についてお話をして頂きたいと事前にお願いを致しました。講演会に参加された道内の「シンパ」の方々には、「愛生舘事業をしっかり今の時代にも受け継いできたのは、唯一この北海道の地ではないか、どうしてもっとそれに言及しないのか!」と叱られそうですが、21世紀の今、広い意味で「愛生舘事業のこころざし:愛生済民」の原点回帰を、秋山財団的には記念すべき25周年を機に目指す、そう是非ご理解を頂きたいと思います。

 この講演会をキックオフとして、今後「愛生文庫」を軸とした資料室の創設も企画する予定です。ご関心のある方の率直なご意見もお待ちしています。

広島・長崎で願う、反戦・平和

Posted by 秋山孝二
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  広島に行く機会があり、早朝の平和公園を歩くと祈りを捧げる方々の姿も見受けられました。

また、先日のNHKニュースでは

『“死の灰”の放射能 世界初の確認 http://www.youtube.com/watch?v=P6RE7s5LMfg』、

「長崎大学医学部」のフレーズが目に入りました。この創始者は「愛生舘のこころ」シリーズでご紹介している松本順先生です。原爆投下の60数年後にもなお発する放射線の姿に、一層その恐ろしさを感じます。

広島原爆ドーム

広島原爆ドーム

平和公園の誓い

平和公園の誓い

愛生舘の「こころ」 (5)

Posted by 秋山孝二
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 松本良順先生が晩年大磯に住んでいた事は、前に書き記しましたが、先日仕事の合間に時間をつくって大磯に行ってきました。東京駅からJR東海道線で約70分、大磯駅から徒歩5分の所に妙大寺があり、その境内に松本順先生(後年に良順から順と名を変えている)のひと際背の高いお墓を見つけました。

大磯・妙大寺 松本順 墓

大磯・妙大寺 松本順 墓

 地元の観光協会の方に伺うと、ご自宅はこのお墓のある妙大寺の右隣だったそうです。海が見えて裏は山、閑静な住宅地でした。そこから海側に下って歩いて10分程度で照ヶ崎海岸です。1885年(明治18年)、大磯町のこの海岸を日本最初の海水浴場と定め、海水浴の振興による健康増進と大磯町の開発に尽力しました。実は私の勝手な思い込みで、「照ヶ崎海岸」というものですから、松を背景として砂浜に記念碑が建っていると信じていたのですが、現在はバイパス道路と防波堤で固められたその間に碑がありました。イメージとは違う雰囲気で残念でしたが、ある意味ではこの間の時代の変遷を象徴する光景かとも思ったりして、です。

松本順先生の他にも、この大磯町にはこれまで著名な方々が250人程も住まわれていたとか、地元の方も誇らしげに語っておられました。こんな絵ハガキもあったので、1枚100円で買って帰りました。正直に申し上げて、「松本順と愛生舘」を追いかけている私にとって、観光ギャラリーの中で「展示されている彼」には違和感を持ちましたね。地元大磯にとっては、「250人以上の著名人(?)」に価値を置いているのかと思ったりしてです。

大磯・観光絵はがき

大磯・観光絵はがき

先日、「幕末史」(半藤一利著)http://books.yahoo.co.jp/book_detail/AAT85730/ を読みました。本来であれば江戸幕府十四代将軍家茂を看取った松本順先生も、当然この中に記載されていなければならないのでしょう。

著者が、攘夷を唱えた時代に対して「熱狂的になってはいけない」と警告をしています。また「皇国」の本来の意味は、幕府が支配している日本に対する、朝廷が支配する日本、というくらいの意味であって、私たちが意識している天皇というほど、この時代の人たちは天皇を意識していなかったのではないでしょうか、とも語っています。

このような本を携えながら、歴史認識の新たな発見を多少期待して松本順先生の晩年の地を訪れましたが、少し掘り下げ不足でした。何かの機会に再度やり直します。