愛生舘の「こころ」 (26)

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comments: 0

 長崎大学附属図書館の医学分館に続いて、相川先生にご案内して頂き、隣の『良順会館』を久しぶりに訪問しました。

* http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E8%89%AF%E9%A0%86%E4%BC%9A%E9%A4%A8

 以前訪問した時は、何かのイベントがあったと記憶していて、中をゆっくり見学できなかったのですが、今回は静かな館内をご案内して頂き、あらためて松本良順先生のご功績を理解することができました。

玄関ロビーのレリーフ

玄関ロビーのレリーフ

 会館前の庭には歴代の貢献された方々の誌も。

 更に、医学部の建物ロビーには、ポンぺの医師としての心構えが、肖像と共に掲載されていました。相川先生によると、入学式・卒業式ほか、医学生を前にした式典では必ずこの理念が語られてきているとのお言葉です、伝統を受け継ぐとはこういうことなのでしょうね。

<ポンぺの言葉~建学の基本理念>

 「医師は自らの天職をよく承知していなければならぬ。ひとたびこの職務を選んだ以上,もはや医師は自分自身のものではなく,病める人のものである。もしそれを好まぬなら,他の職業を選ぶがよい。」

 限られた時間ではありましたが相川先生のお話は深く、私自身、『愛生舘文庫』を更に充実させるたくさんのヒントを得た気がします、ありがとうございました。

愛生舘の「こころ」 (25)

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comments: 0

 今回は数年ぶりに長崎大学医学部に足を運ぶことができました。長崎大学附属図書館の医学分館(https://www.lb.nagasaki-u.ac.jp/med/)で、長崎大学名誉教授の相川忠臣先生と学術情報部の松田綾主査と面談、松本良順についての深堀りのお話を伺いました。

 これまでも長崎大学、松本良順に関してはこのサイトでかなり記載しています。

* 長崎大学関連記事ーー>http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E9%95%B7%E5%B4%8E%E5%A4%A7%E5%AD%A6

* 松本順の関連記事ーー> http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E8%89%AF%E9%A0%86

医学部キャンパスに残る原爆投下後も残った礎石

医学部キャンパスに残る原爆投下後も残った礎石

 相川先生はこれまで私が知っている松本良順像とは違った視点からのお話と展示物の解説をして頂き、大変興味深く伺いました。「医学は長崎から~http://www.lb.nagasaki-u.ac.jp/siryo-search/ecolle/igakushi/」の歴史を学ぶと、幕末から明治初期の西洋医学の導入の格闘が読み取れ、一層、『愛生済民』の理念に基づく「愛生館事業」の重要性を再認識した時間となりました。

 上の写真にあるように、学んだ人々の年代は幅広く、小学生のような幼い子供たちも受講していたようです。オランダ人の先生は、歳を取った男たちよりもこの若い受講生に期待して熱心だったので、年上の受講生たちは先生に不満をぶつけたようだと相川先生は笑って説明して頂きました、教育的効果を考えると言葉の理解も含めて「当たり前」なのでしょうね。

愛生舘の「こころ」 (21)

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comments: 4

 秋山財団の一室に開設した『愛生舘文庫(http://www.akiyama-foundation.org/news/3854.html』は、秋山財団25周年にその開設準備活動を始めましたが、7年を経て、この10月にスタートすることができました。これまでの経過については、以下の「愛生舘の『こころ』」シリーズに掲載してきました。

* 愛生舘の『こころ』シリーズーー> http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E6%84%9B%E7%94%9F%E8%88%98%E3%81%AE%E3%80%8C%E3%81%93%E3%81%93%E3%82%8D%E3%80%8D

 北海道の皆さんには「秋山愛生舘」で馴染み深い会社ですが、実はその前には明治初頭から中期に始まった全国的健康増進の「愛生館」事業の存在があったのです。今回の「愛生館文庫」は、地場企業化以前のこの「愛生館」の創設の背景、関わったキーマン達に焦点を当てて、日本の近代における医学・薬学・公衆衛生等の黎明期を再確認する意味合いが主たる目的です。

11月27日北海道新聞朝刊に掲載!

11月27日北海道新聞朝刊に掲載!

 これまでの私のブログの記事の中に以下のような記載があります~~~~~~~~~~~~~ 引用

私の永年の友人からのメール―――明治維新は、厳密な意味ではフランスやロシヤみたいに迫害された民衆が自ら闘って自由を勝ち得た”革命”ではありませんでした。あくまでも政治の面で捉えれば、単に江戸幕府衰退と共に雄藩が政権を握ったに過ぎません。

 開拓期、そうした薩長土肥の藩閥政府が横行する初期、民衆に医療・公衆衛生を持ち込んだ松本良順や高松保郎の思想の源流、その彼らを中心とする「愛生舘事業」の実践は、ある意味では、すなわち必ずしも新時代の変革は「政治」の舞台だけではないという意味で、後年、藩閥に反発して立ち上がる自由民権運動よりも更に先んじた自由平等主義の実践者たちであったろうと思われるのです。老若男女が心身共に病むこの21世紀の日本が失った、取り戻さなけれなばならないエスプリが、愛生舘のルーツに秘められている気がしてなりません。それは蘭学が内包する”博愛”とか”弱者救済”精神に基づいた学問・技術・文化などが、質実的な面で明治時代の民衆を支えたと言えます。政治の暗闇に光を当てたのではないでしょうか。近代への道は決して政治力だけではなかったはずです。

 黒船来航に伴い幕府が設立した長崎伝習所、勝海舟や松本良順はじめ、幕末のインテリが学んだ”蘭学”に内包する哲学は、タオ財団のワグナー氏の言葉「それぞれ民族の違いの主張ではなく、いかなる共通点を探し求めるか」とする、作品「哲学の庭」に通ずるテーマと言えるでしょう。貴兄の言葉通り「いのち」とは平和そのもの、世界共通語であります故、「人類愛」を意味するキーワードでもあります。

(注)タオ財団http://wagnernandor.com/indexj.htm ――――メールおわり

衛生書「通俗民間療法」(左)、大鏡(右:高さ1.5m)

 全国的な愛生舘事業の中で、特に北海道支部のミッションは、北海道開拓を担う屯田兵の後方支援、及び全国から入植してきた開拓移民の健康維持・向上でした。1891(明治24)年、東京神田の館主・高松保郎亡き後は、北海道支部長だった初代秋山康之進が自らの名前を掲げて自立し、「秋山愛生舘」となりました。愛生舘事業の理念は、自社販売していた「通俗民間治療法」の中に明確に示されています。「山間僻地までの医薬品供給、医師の診療を受けられない病人の救済、貧者・弱者への施薬、すなわち、利益追求ではなく、あくまでも民間の衛生・治療の便益を図る事を最優先にする」、それが事業の目的であると書かれています。この理念を継承し地場企業として、秋山愛生舘は北海道の地を基盤に、第二次世界大戦後1948(昭和23)年には株式会社として法人化し、私は1991(平成3年)6月に第五代目社長に就任し、1992(平成4)年には札幌証券取引所上場、1997(平成9)年に東京証券取引所市場第二部上場となりました。その後、(株)スズケンhttp://www.suzuken.co.jp/ と資本・業務提携を経て合併し、北海道は「愛生舘営業部」として、今も活動しています。

 私は2002(平成14)年11月に(株)スズケン代表取締役副社長を退任しました。その後、故郷札幌に戻り、これまでの(株)秋山愛生舘の108年の活動を振り返り、持続する企業として3本の論文にまとめました。

「地域企業の持続的経営の分析」http://ci.nii.ac.jp/naid/110004813846以下、「地域企業の進化の分析」http://ci.nii.ac.jp/naid/110004813848/、「持続的経営論」http://ci.nii.ac.jp/naid/110006392571/と続きます。

 一方、(株)秋山愛生舘の100周年事業の一環として、それに先立つ1987(昭和62)年1月に「(財)秋山記念生命科学振興財団」を設立しました。http://www.akiyama-foundation.org/ 「地域社会への貢献」という理念の実現は、医薬品販売の事業から更に発展して、愛生舘事業の理念を根幹に、財団の助成・育成事業として継承・進化しています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 引用おわり

 そして、今月、オープン後の初めての企画として、「連続講座~愛生館文庫の集い~」をスタートして、記念すべき第一回として新祐一さんをお招きしてのミニフォーラムでした。(株)秋山愛生舘の社内報『愛輪』の創刊号から最終号まで、全てを保管してこの愛生館文庫に寄託して頂き、さらにご自身の書き下ろしの会社人生の著書も。

スズケンの幹部たち

スズケンの幹部たち

 秋山財団1階の『愛生舘文庫』でご講演の後は、2階でさらにその続きのフォローアップ懇談会、参加の皆さんは懐かしい思い出話と当時の一生懸命だった自分自身を振り返り、何とも感動のひと時でした。これから、数か月毎に連続して講師を招いての開催を決めて、取り急ぎ次回は2月開催となりました。

 これからが楽しみです!

「八重の桜」、余韻覚めやらず

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comments: 0

 昨年のNHK大河ドラマ「八重の桜(http://www9.nhk.or.jp/yaenosakura/」は、私にとってこれまでで最も印象に残った番組でした。年始に総集編として2日間に渡り放映されて、録画でじっくり見ました、幾つか見逃していた回があったことも知りましたし、年が明けて、余韻覚めやらずですね。

 何といっても私にとって、戊辰戦争が、「愛生舘」の生みの親、松本順と密接な関係があるからです。ドラマの一場面でも繰り広げられた藩校「日新館」での負傷兵たちの看護、あの場で院長として指揮を執っていたのが、長崎でオランダ医学の一環で野戦病院医療を学んだ松本順その人だったからです、恐らく八重さんとともに活動していたものと、ドラマでは名前は出てきませんでしたが、私にはその姿がくっきり見えました。

 松本順と愛生舘との関係は、これまでたくさんこの欄で書いてきました。

< 松本順 http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E9%A0%86

 同時に、一昨年、3・11以降の初めての福島訪問の際に、会津若松市で一泊して、若松城、日新館ほかをゆっくり見学したことも記憶に新しかったからです。

* http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=12677

* http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=12692

 その時のブログにもあるように、ドラマを見ながら自分のその時の想いに確信を得ました。

~~~~~~~~~~~~~~ ブログからの引用

・・・・ 「ならぬことは ならぬものです」で結ばれる「什の掟」、日新館での教育は今の時代、一層価値があるメッセージですね。白虎隊と並んで紹介される場合が多いですが、私にとってはむしろ、松本良順と野戦病院院長の関係で記憶されています。戊辰戦争で幕府側の医師として、最後まで人々の治療にあたった彼は、戦いの後に捕われましたが、その後新政府にその類まれな近代医学の能力を高く評価され、近代医学の基礎を創り、初代の軍医総監として活躍しました。

・・・・ 近代日本への脱皮、その歴史は多くの命が失われる過程を経て、一歩一歩変わっていく時間の経過と理解すれば良いのでしょうか。日本人が、自分たちの「国」づくりを自分たちで必死に手に入れようとしていた真摯な姿を感じます。そんな歴史に対する「誠実さ」を、いつ日本人は失ってしまったのか、3・11の大震災、津波、原発事故による放射能汚染、この「機」を逃して復興しなければ、今、まさに社会の価値の方向転換をしなければ、あとは滅亡しかありません。

~~~~~~~~~~~~ 引用 おわり

 個々の俳優のインタビュー(http://www9.nhk.or.jp/yaenosakura/special/)でもたくさんの話題ですが、私としては特に、綾瀬はるか(八重)、西島秀俊(覚馬)、高島政宏(槇村)が興味深かったです。

 また、演出の加藤拓さんの言葉も含蓄があります、これまでの大河ドラマとはかなり違った視点であり、3・11以降の社会への問題提起とも受けとめます。このドラマで新政府を樹立した指導者たちが、日清・日露戦争を経て国際社会においてどんな日本国に誘導して行ったのか、その危険な芽がこのドラマからも読み取れるような気がするのです。まさに歴史に学べ、ですね。

~~~~~~~~~~~演出 加藤拓さんの言葉 HPからの引用

<他者の正義vs自分の正義>

今まで幕末物語といえば、新しい日本を目指すことにおける正義が描かれてきました。ところが今回は、その正義がある種の悲劇を生んでいきます。国を変えようとする正義を掲げるのが薩長ならば、奥羽越の人々にもまた、守らなければならない正義があったのです。

変えるための正義と守るための正義…他者の正義と自分の正義とのぶつかり合いによって、日本が分裂しかねない状態にまで追いこまれる。そのぶつかり合いをつぶさに描くのがこのドラマ前半の特徴です。そして、この衝突の最終局面が、最後まで抵抗を続けた会津藩において繰り広げられることになるのです。

それと同時に、僕らが9か月間の撮影で体感してきた未知の歴史が、今まさに既知の歴史に集約されようとしています。 “あの歴史の場面”がいよいよやってきた!この感覚の新鮮さが、つくり手としての僕らの気持ちを高揚させています。

<極限において放たれる八重の輝き>

撮影を前に、ここぞとばかりに綾瀬さんといろいろお話をしました。会津戦争という歴史の局面一瞬一瞬において、八重ならどう振る舞うか…と。

誤解を恐れずに言えば、この悲劇的な場面こそが、八重がいちばん輝きを放った瞬間です。極限の状況で放たれた八重の輝き、それがこの会津戦争を描くうえでの核になりました。女性でありながら銃をとり前線に立つことへの決意、少年兵を死地に赴かせることに反対しながらも、いざ共に戦うべき相手は老人兵や少年兵だったという皮肉。「自分が戦う以上はひとりも死なせない」という巨大な責任感と苦悩に襲われる八重の姿を、綾瀬さんが全力を投じて演じてくれました。

城が文字どおり崩れ落ちる瞬間まで、存分に戦い、存分に生き抜いた会津の人々。彼らがどう戦い、何を失い、何を得たのか…。八重はもちろんのこと、その家族や仲間、容保、家臣団…それぞれの正義をかけた戦いにご注目ください。

~~~~~~~~~~~ 引用 おわり
 

 このドラマに関わったすべての方々のメッセージに比べて、メディア界の貧困さも終わってみての評価から見て取れます、ただただ「視聴率」に拘っているだけの姿です。「視聴率」?、ドラマを観続けた私のような一視聴者には何の関係もないですよ、その作品テーマ、演出、俳優に興味があるのであって、他の人がどれほどライブで観ていたか、そんなことはドラマの評価のごくごく一部に過ぎないではありませんか。今の時代にこういった素晴らしい番組を作成したNHKに感謝するだけです。

 まるで昨今の「経済成長」論議で、株価上昇だけが経済の指標であるかのごとく語るメディアと同じレベルの貧困さです、社会の薄っぺらさとも言えましょうか、学びましょうよ、歴史から。 

 いずれにせよ、新しい国の方向性を創ることは、まさに価値観の「戦い」であり、「呻吟(しんぎん)」であり、ナチの暴虐を越えたヨーロッパ思想界のような過程を抜きには生まれることはないのかもしれないと、年始のまとまった時間にしばし黙想しました。

第2回 古文書講座~片桐一男先生

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comments: 0

 昨年に引き続き(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=9504)、今年も片桐一男先生による「古文書講座」を開催しました。4日間と、昨年より1日短縮となりましたが、内容は古文書解読を重点的に講座は充実していました。

 講義の初日、昨年、片桐先生からご寄贈頂いた松本良順先生の書を、秋山財団で額に整えて、まず冒頭でご披露しました。今後、秋山財団事務所内に飾る予定です。

「発 祥 致 福」、松本順先生筆

「発 祥 致 福」、松本順先生筆

  今年の受講者の中には、昨年に引き続きの参加の方々も多く、一層熱心な講座でした。扱った文章が、当時の上司からの指示を仰ぐ文書等、実際のやり取りの書簡とかだったので、リアルな現場の様子も垣間見ることが出来てより興味をそそられました。

今年は解読を主に

今年は解読を主に

4日間、熱心な参加者

4日間、熱心な参加者

  昨年は、翌日早くに陸別に向けて札幌を発たねばならず(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=9524 、 http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=9531)実現しなかった懇親会が、今年は最終日講義終了後に、多くの参加者とともに片桐先生を囲んで和気あいあいの場となりました。皆さん、長年、古文書と向き合っている方ばかり、幕末から維新に掛けて、外国人訪問者とのやり取りにもお詳しく、あらためて北海道と諸外国との交流の歴史を知りました。ともすると「開拓使」からしか始まらない北海道の歴史ですが、幕末に、オランダ・ロシアとの交渉等、北海道の地の位置づけを再認識する貴重な文書に出会い、感動した4日間でした。

 片桐一男先生は、今年は7月上旬から3カ月間札幌に滞在し、北海道の素晴らし夏を満喫なさるとのこと、本当に心から御礼申し上げます、また、ご参加頂いた皆さまにも、感謝申し上げます、ありがとうございました。

会津・日新館の教育

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comment: 1

 以前、「愛生舘の『こころ』(3):http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=1096」でも書いたのですが、会津藩校・日新館(http://www.nisshinkan.jp/)には、機会があればいつか行ってみようと思っていました、今回、激しい雨と風の中、やっと実現しました。本来はお城の横にあったのですが、戊辰戦争で焼き払われ、今は天文台跡を残しては場所を移しての復元となっています。

最古の訓練用プール

最古の訓練用プールほか

「論語」の教育も

「論語」の教育も

  教育の理念はこちら(http://www.nisshinkan.jp/about)に詳しく書かれています。長期計画として、すべては「人材の育成」に尽きるのですね。江戸時代の各藩は、基本的な軸を外していません、今の時代と比べて・・・。

什の「掟」

什の「掟」

 「ならぬことは ならぬものです」で結ばれる「什の掟」、日新館での教育は今の時代、一層価値があるメッセージですね。白虎隊と並んで紹介される場合が多いですが、私にとってはむしろ、松本良順と野戦病院院長の関係で記憶されています。戊辰戦争で幕府側の医師として、最後まで人々の治療にあたった彼は、戦いの後に捕われましたが、その後新政府にその類まれな近代医学の能力を高く評価され、近代医学の基礎を創り、初代の軍医総監として活躍しました。

陸別で、関 寛斎の足跡(2)

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comment: 1

 町の郊外のゆかりの地を巡り、一方、旧陸別駅付近には、関寛斎翁像等、その中で「関寛斎資料館:http://www13.plala.or.jp/doutounavi/sekikannsaisaito.html」は豊富な資料展示でした。

旧陸別町駅前に建つ「関寛翁之像」

旧陸別町駅前に建つ「関寛翁之像」

町の中心部・関寛斎資料館入口

町の中心部・関寛斎資料館入口

内部の豊富な展示物群

内部の豊富な展示物群

  波乱万丈な関寛斎の一生は、その才能を評価して登用した人々、多くの人との出会い、北海道に新天地開拓の意欲に燃えて渡って来た意欲等、数々の感動物語です。長崎医学伝習から松本良順を慕い、人生の歩み方にもそれを検証することが出来ます。

旧陸別駅前のそば屋さん「秦(はた)食堂」

旧陸別駅前のそば屋さん「秦(はた)食堂」

 駅前の大きなおそば屋「秦食堂」、息子さんの秦秀二くんは、(株)秋山愛生舘に新卒で入社し営業で活躍、私が社長時代に退社し、実家のそば屋を継ぐために陸別に行きました。当時、陸別に向かう直前に挨拶に来た時のことをはっきり覚えています。先日お世話になった時にも、地元青年会主催のお祭りの合い間に駆けつけてくれて、久しぶりに会うことが出来ました。松本良順、関寛斎、陸別、愛生舘、秋山愛生舘、秦くん、秋山財団、何か時間・空間を越える不思議な関係性を感じます。

 それにしても、内容の濃い、素晴らしい訪問となりました、陸別の皆さま、ご説明、ご案内等お時間を取って頂き、心から感謝申し上げます。

大盛況!「夏季古文書講座」

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comments: 2

 公益財団法人 秋山記念生命科学振興財団(http://www.akiyama-foundation.org/)の25周年記念事業の一つ、「夏季古文書講座」が今週月曜日から5回開催されて、今晩で最終回を迎えます。連日熱心な受講者と相まって大盛況です。講師の片桐一男先生は、蘭学史・洋学史・日蘭文化交渉史の第一人者で、幕末・維新ほか、オランダ(阿蘭陀)との関係からみる日本のこの500年の歴史は興味深いです、以下、チラシからの転載です。

~~~~~~ 講師   青山学院大学名誉教授  片桐  一男 先生(洋学史研究会会長)

 

「『くずし字』の古文書(こもんじょ)が読めたらいいのになぁ」と思ったことはありませんか。取り上げます古文書教材は、「水書板」に「ふで」を使って『くずし字』の古文書の全文を書き写し、そのうえで、読解文を全文書き示しますので、初心者の老若男女、みんな楽しんで読めるようになります。

鎖国から開国への急激なショックで始まった長崎の海軍伝習と医学伝習は、日本の近代国家建設にどのように役立ったのか。

勝海舟と松本順の狙いと行動を示す古文書の読解を通じて、歴史の現場が鮮明に浮かび上がります。未公開古文書の読解を楽しんでください。

 

◎ プログラム(どの回からでも受講できます)

   

       

7月25日(月)

勝海舟の狙い ― 「愚存申上候書付」 ―

7月26日(火)

長崎の海軍伝習 ― 時間表・オランダ通詞・咸臨丸 ―

7月27日(水)

勝海舟の「蚊鳴餘言」 ― 世界のなかのトクガワ・ニッポン ―

7月28日(木)

長崎の医学伝習 ― ポンペ・松本順・養生所 ―

7月29日(金)

「愛生館」事業 ― 松本順と髙松保郎 ―

夜間講座にたくさんの受講者

夜間講座にたくさんの受講者

テキストとして:「咸臨丸」、「松本良順」

テキストとして:「咸臨丸」、「松本良順」

 これまで私にとっては少々敷居が高かった「古文書」ですが、片桐先生の分かりやすい解説により、「解読する楽しさ」を体験しています。日記というものから、本人の心証だけではなく、時代の様子、伝習の雰囲気等を読み解き、想像していくわくわく感とでも言うのでしょうか、新しい発見でした。個別の古文書を重ね合わせる、誤字を発見する、省略の記号を解釈する、そのプロセスの面白さは、かなりの根気も必要ですが、扉を一つづつ開けて新しい世界を知っていくような、素晴らしいひと時でした。

 鎖国から開国への急激な時代の変化の中で始まった長崎の「海軍伝習:http://www.mirai.ne.jp/~jkj8/nagasaki.htm」と第二次海軍伝習としての「医学伝習:http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=5595」は、日本の近代国家建設にどのように役に立ったのか、その一端を理解できたような気がします。

吉村昭の世界

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comments: 0
 札幌の中島公園にある「北海道立文学館:http://www.h-bungaku.or.jp/」で、今、「吉村昭と北海道~歴史を旅する作家のまなざし~:http://www.h-bungaku.or.jp/index.html」の特別展が開催中です。
ポスターから
ポスターから

  昨年11月のこの欄に、私は松本良順(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=2682)について書きました。その後半部で:~~~~~~この辺りの歴史は、歴史小説で名高い吉村昭の2005年著「暁の旅人」http://shop.kodansha.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=276139 で詳細を知ることが出来ます。吉村さんは今から4年程前に、この本を携えて札幌の私の所を訪問されました。埼玉県の古文書館で調べて、愛生舘北海道支部の発祥の地を訪ねての調査だったようです。松本良順と新撰組近藤勇との交遊他、良順の情に熱い人柄がきめ細かく表現されています。~~~~~

 お亡くなりになる1年程前でした、お会いした時には新聞記者の取材のようでしたが、私は何かの用事で忙しく、実はあまりゆっくりお話が出来なかったのです。吉村さんが、「対象人物ゆかりの地で、地元の方にお墓に案内されるのには閉口します」とおっしゃったのを妙に記憶しています。今、考えてみると、松本良順のお話他を、たくさん聞くチャンスだったのに、貴重な機会を逸し実にもったいないことをしました。

 「暁の旅人」、書評もたくさんあります、 1)http://blog.livedoor.jp/shunp1/archives/51716512.html、2)http://pub.ne.jp/shisekihoumon/?entry_id=1691154、3)http://hos.sci.hokudai.ac.jp/mutter/2008/09/post-170.html、4)http://yaplog.jp/ashy_ashy/archive/337

 もう一つ、1988年の著書「帰艦せず」でも不思議なご縁を感じます。この作品は、北海道小樽港に巡洋艦「阿武隈」が入港した時に、失踪して帰艦しなかった一水兵の物語です。この巡洋艦「阿武隈」こそ、キスカ撤退作戦を成功させた後に、幌筵(ホロムシロ)を経由して小樽に寄港したのです。この艦の通信長をしていたのが私の父で、司令官だった木村昌福さんが、私の両親の結婚の仲人となった方です。

 吉村さんの作品は、「休暇」、「桜田門外ノ変」をはじめ、幾つか映画化されています(http://www.eigakyuka.com/http://www.sakuradamon.com/)。

 著書「戦艦武蔵」でノンフィクションの時代を拓き、不動の地位を築かれましたが、綿密な取材に基づく力強いタッチは、蝦夷地の取材でも存分に発揮されました。1959年に「鉄橋」が第40回芥川賞候補になって以来、度々候補になりましたが受賞を果たせず、そうこうしている内に、1965年に妻の津村節子が受賞しました。

 吉村昭資料室(http://www.geocities.jp/bunmei24jp/index.htm)では、更に詳細を知ることができますし、そんな吉村昭さんと少しでも時空を共有できたのは、私にとっては宝です。私は今回の特別展示期間中に、もう一度足を運ぶつもりです。

愛生舘の「こころ」 (13)

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comment: 1

 大阪に出張のついでに、少し足を伸ばして、以前から一度行きたかった東大阪の「司馬遼太郎記念館:http://www.shibazaidan.or.jp/」を訪問しました。

 地元ボランティアの方々が管理・運営されていました。多様な植物の茂るお庭を通り、圧巻は記念館内の天井までの大書架に収納されている数多い著書の存在、地下ホールのビデオも彼の立ち位置を理解する手立てとなります。

「沖縄に住む人は原倭人の姿」、「時空の旅人」、「可視的な過去」、「本土が沖縄に復帰する」、「土地は社会のもの」等、印象に残る言葉の数々、心に沁みます。

庭から書斎を眺める

庭から書斎を眺める

記念館のエントランス

記念館のエントランス

   地下1階の壁に掛けられた「21世紀を生きる君たちに:http://gogodiet.net/Forkids.htm」の全文、素晴らしい文章ですね。分かりやすく、眼差しが優しく、率直に訴えるメッセージ、司馬遼太郎の原稿と校正の過程が分かる資料も挿入された著書を、記念に買いました。

 パンフレットには、「見ていただくと同時に、この空間で、司馬作品との対話あるいは自分自身との対話を通じて何かを考える、そんな時間をもっていただければ、と思います。この記念館は、展示品を見るというより何かを感じ取ってただく場所でありたいと念じています。・・・・」と書かれています。資料のメモ書き、付箋のついたそのままの状態の本は、司馬遼太郎の取材・執筆に対する真摯な姿勢を感じます。
 
 この記念館のそばに、実はもう一つ尋ねてみたい場所がありました。今年7月に美瑛町に行った時、砦のような「新星館」を訪問し、大島館長にお会いしました(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=4855)。その大島館長の本業が、東大阪の司馬遼太郎記念館近くのお好み焼き屋「伊古奈」と聞いていました。先日、少し探して見つけましたが、残念ながら今年1月で閉店し、隣で喫茶店として新たなスタートのようです。 

「伊古奈」は1月に閉店していました

「伊古奈」は1月に閉店していました

 なぜ、司馬遼太郎記念館が「愛生舘の『こころ』(13)」か?彼の著書「胡蝶の夢:http://webkohbo.com/info3/bakumatu_menu/turedure03.html」に、松本良順(順の前の名)が登場するからです。良順の人生について、長崎での医学伝習、第14代将軍徳川家茂の臨終に大阪城で立ち会ったこと、新撰組土方歳三との出会い等、臨場感いっぱいです。

 書斎の前庭に立つと、司馬遼太郎さんが戸の向こうから現れて来るような気がする程、「そのまま」でした。

愛生舘の「こころ」 (11)

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comment: 1

 3ヶ月ぶりのこのシリーズです。千葉県佐倉市は、堀田藩の地元として、歴史を語る町並みを今も見ることができます。佐倉順天堂記念館(http://www.geocities.jp/bane2161/kyuusakurajyuntendou.html)、旧堀田邸(さくら庭園)、武家屋敷、国立歴史民族博物館(歴博:http://www.rekihaku.ac.jp/)を散策しながら、藩を挙げて鎖国社会の中でも広く海外から学ぼうとする情熱に感動します。「西の長崎」、「東の佐倉」と、外国の文化・知識等を貪欲に吸収しようとする姿勢で名をはせて、多くの国際センスあふれる人材を幕末・維新でも輩出しています。

佐倉順天堂医院の門

佐倉順天堂医院の門

門の礎石

門の礎石

  「佐倉順天堂」は、天保14年(1843)に佐藤泰然が開いた蘭(オランダ)医学の塾兼診療所で、現在の順天堂大学の源流です。「愛生舘」事業の構想の主・松本良順は佐藤泰然の実子でしたが、松本家に養子となり、一貫して幕臣として活躍し、長崎第二次海軍伝習でオランダのポンぺから蘭(オランダ)医学を弟子40数名とともに学び、日本の近代西洋医学の基礎を創りました。

藩主堀田家の邸宅

旧藩主・堀田家の邸宅

  旧堀田邸は、明治時代に佐倉に移り住んだ旧佐倉藩主・堀田正倫の邸宅と、明治洋式の芝生の庭園です。邸宅の幾つかの部屋には、松本良順の書が掲げられていました。訪れた時は映画の撮影か何かで、スタッフとモデルの方で庭は賑わっていました。昨年から3年間、年末に放映される「坂の上の雲」のロケでも、この邸宅の居間、大きな掛け軸のある部屋でも収録され、その場面は今年末にオンエアだそうです。

  一方、まちの西部・旧佐倉城址公園に隣接して「国立歴史民族博物館(歴博)がそびえ建っています。「壮大な規模を有する歴史の殿堂(?)」のフレーズを目にしましたが、似たような名前「国立民族学博物館(みんぱく:http://www.minpaku.ac.jp/)は、大阪にある別の施設です。全館冷房が効いて、原始・古代から始まり6つの展示室も十分なスペース、特に第6展示室「現代」は、特別展示もあり力が入っているのでしょうか。ただ、何か突き抜けるメッセージが足りないのですよ、「戦争反対」が届いてこないみたいな、展示物と見学者との間に厚過ぎるガラスの壁、時々は曇りガラスの壁を感じます。

 率直な疑問は、この国立博物館が何故この佐倉市にあるのか、真っ先にそれを知りたかったですね。沢山の外国人ツアーと思われるグループも来ていましたが、どう説明していたのかは分かりません。先の地元の3つの施設は、見学者の為に「三館共通入館券」も販売して連携をとりながら、堀田藩の因って来るゆえんと歴史的価値を懇切丁寧に発信していました。

 別の意味で、縦割り行政の印象を受け、その現状が何にも代えがたい「現代」を展示しているようで、そんな言い方はあまりに皮肉っぽいでしょうかね。しかし、行政の在り方がどうであれ、地域に暮らす市民は毎日しっかり生きてきたというように、この佐倉の地に人が育つ風土を実感しました。

愛生舘の「こころ」 (10)

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comments: 0

 STVラジオ・毎週日曜日午後5時からの番組「ほっかいどう百年物語」で、2008年10月19日、私の曽祖父「初代秋山康之進」が取り上げられ、今回、中西出版から「第十集」として出版されました。東京・神田岩本町に本部を置き、全国展開した「愛生舘」事業の理念に基づき、北海道支部長として北海道開拓に携わる人々の後方支援としての「健康」に貢献しました。支部を開設して2年後に館主・高松保郎が亡くなり、その後も「愛生舘」の商号を堅持して、「明治」「大正」「昭和」「平成」の時代に活動を続けたのは全国で北海道の地だけでした。

第十集・表紙:右上肖像が初代康之進

第十集・表紙:右上肖像が初代康之進ラジオ番組でも放送されました

 医薬品と衛生書の普及に尽力した様子をリアルに再現したラジオでしたが、本になるとまた別の記録として貴重ですね。取り上げて頂いた関係者の皆さまに感謝致します。

 一方、先日は、青山学院大学名誉教授・片桐一男先生とお会いして、今年9月8日の秋山財団講演会に向けた打ち合わせをして、演題は「松本良順と愛生舘」と決まりました。これまでのこのシリーズで掲載しましたが、民間の健康予防・増進活動の先駆者だった松本良順が、「愛生舘」事業を興した時代背景等について、更に医療・健康分野における近代化の始まりといったテーマにも言及して頂けると期待しています。秋山財団創立25周年記念講演に相応しい、原点を見つめ直す内容となるでしょう。

 幕末から明治の蘭学等を幅広く研究されている片桐一男先生は、北海道とロシアの関係性にも注目をしているとのお話をお聞きしました。ラックスマン――レザノフ――プチャーチンの流れ、当時の日本にとって「北方」からの脅威は、ペリー来航以前から日本への歴史的圧力だったとのご認識でした。

 それにしても古文書を読み解く研究は、大変な忍耐と好奇心がないと難しいですね。達筆な文章を前後関係及び時代背景からその意図を読み取り、時には誤字・脱字からもその人となりを推測する想像力も必要のようです。先日の東京・吉祥寺での幕末史研究会、「勝海舟から龍馬へ:http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=3148」でも感銘を受けました。

愛生舘の「こころ」 (9)

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comments: 2

  昨年5月に「愛生舘の『こころ』 (3)」で次のように書きました。

・・・・・片桐一男先生は、すでに「愛生舘のこころ(1)」でご紹介しましたように、「松本良順と愛生舘」の研究を長年されています。6年前に青山学院大学を退任された後も、毎年全国各地で講演をされています。その中で、長崎におけるオランダ人ポンぺと海軍伝習・医学伝習、そこでの勝海舟、松本良順との出会い、長崎大学医学部との関係等、実に興味深い歴史の研究で高い評価を得ています。・・・・・・・

 今年初めての「幕末史研究会:http://blogs.yahoo.co.jp/bakumatsushiken/MYBLOG/yblog.html?m=lc&p=1」が、先日東京・吉祥寺で開催されました、第172回目です。片桐一男先生によるシリーズ3回目の講義で、大勢の聴衆で会場は熱気につつまれていました。一昨年の「長崎海軍伝習」、昨年の「松本良順と愛生舘」に続く、今回の「勝海舟から坂本龍馬へ」、副題は「その、外への眼差し」とありました。

昨年と今年の資料より

昨年と今年の資料より

 「松本良順と愛生舘」に関してはすでに昨年書いていますので、重複は避けます。今回のメインは勝海舟の海軍伝習が近代的海軍の建設のみならず、科学技術の習得、そして単なる「学問」の伝習ではなく「文化」を学ぶ場であったこと、更には国家・社会の理解の必要性を指摘していた事実を、片桐先生の解説で彼の著書「蚊鳴(ぶんめい:「文明」をかけている)よ言」から知ることが出来ました。江戸城の無血開城を実質的にやり遂げた人物の哲学を垣間見る思いで、勝海舟のすごさを感じましたね。

 講義終了後の交流会が、また大変興味深かったのです。参加者が多彩で、勝海舟・坂本龍馬・榎本武揚の直系子孫の方々、渡米した咸臨丸の乗組員の子孫の方々等、幕末から明治を肌で感じるお話の数々でした。幕末・明治維新がそんな遠い時代ではなかったとの実感です。 それぞれの方々が、時代の中で祖先を心から「誇り」と認識している、その眼差しがさわやかなひと時でした。

 今年9月8日の秋山財団講演会では、財団設立25周年記念として「松本良順と愛生舘」の演題で、片桐一男先生にご講演をして頂くことになっています。秋山記念生命科学振興財団の設立趣旨の中に、「愛生舘の理念」の継承が謳われています。長崎の医学伝習で得たものを、実際の近代日本で展開しようと松本良順が試みた事業、そもそも「愛生舘事業」とはどんな理念だったのか、今年は大変興味深い年になりそうです。

 今の混とんとする時代には、原点を見つめる視座が何事にも必要だと思いますね。

愛生舘の「こころ」 (8)

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comment: 1

 <資料編> ポンぺ、松本良順に関する資料は、良順会館展示室と医学部図書館にかなりありました。

 良順会館の入口すぐには、レリーフと彼の書・絵も展示されていました。

松本良順レリーフ

松本良順レリーフ

  

書

 

絵

 開所時の長崎医学伝習所のスケッチです。

 

もう一つ、「愛生舘」の出版物としてあらたに「国家幸福之種蒔」も見つかりました。

「通俗民間治療法」とあらたに見つかった「国家幸福之種蒔」

「通俗民間治療法」とあらたに見つかった「国家幸福之種蒔」

  この辺りの歴史は、歴史小説で名高い吉村昭の著「暁の旅人」http://shop.kodansha.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=276139 で詳細を知ることが出来ます。吉村さんは今から4年程前に、この本を携えて札幌の私の所を訪問されました。埼玉県の公文書館で調べて、愛生舘北海道支部の発祥の地を訪ねての調査だったようです。松本良順と新撰組近藤勇との交遊他、良順の情に熱い人柄がきめ細かく表現されています。

愛生舘の「こころ」 (7)

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comments: 0

<外回り編 > 

行ってきました長崎は、その日も雨でした。

 ポンぺ・松本良順の医学伝習を追いかけて、いつか長崎と思っていましたが、早い時期に実現致しました。長崎大学医学部キャンパスの図書館で、特別展示室を係の方にご案内して頂き、貴重な資料の数々に出会うことが出来ました。

まずは外回りから:現在の医学部キャンパスの正門右に、2年前の150周年記念で立てられた「良順会館」です。当日は学会が開催されていて、沢山の研究者の方々の往来があり、メーカーの展示ブースも設営されていました。

医学部正門横・良順会館

医学部正門横・良順会館

良順会館・前庭

良順会館・前庭

 現在は裏になっていますが、原爆投下当時の正門がそのままの状態で今も残っています。

旧医学部正門

旧医学部正門

爆風で傾いたままの左門石

爆風で傾いたままの左門石

  医学部から程近い場所に、「爆心地記念塔」がありました。この地点の真上でプルトニウム型原子爆弾が炸裂したのです。この周辺一帯が平和公園http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/kouen/heiwa/heiwatop.htmlとなっています。

爆心地・大学から200メートルの地点

爆心地(左黒柱)・大学から200メートルの地点

平和祈念像

平和祈念像

愛生舘の「こころ」 (6)

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comments: 0
 怒涛のような9月を過ごし、しばらくぶりに「愛生舘」についての話題に戻ります。ポンぺ・松本良順・長崎大学医学部に関して、今年の5月13日のこの欄「愛生舘の『こころ』(3)」で下記のように書きました。

・・・そんな中で、江戸時代の外国との窓口長崎では、ポンぺが海軍伝習・医学伝習で滞在し、特に「近代西洋医学の父」として数多くの事業の種を蒔き、歴史にその名を刻まれています。1858年伝染病治療、1861年養生所・医学所の設立(長崎大学医学部の原点)等とともに、1848年オランダ王国が民主主義に基づく憲法を制定した時代の影響も受けて、ポンぺはその民主主義に立脚した医療を施した、と記録に明記されています。

 彼の医学教育伝習は5年間に渡り、解剖学から物理学、薬理学、生理学他全般に及んだ一方、その講義を筆写し、日本語で分かりやすく復講したのが、松本良順でした。学びに集どった延べ40名を越える幕臣伝習生・諸藩伝習生は、松本良順の言わば「弟子たち」であり、それ故に「近代西洋医学のもう一人の創立者松本良順」と、今でも語られているのです。1861年養生所・医学所設立時、初代頭取となりました。長崎大学医学部の創立者であり、現在も大学構内にポンぺとともに顕彰碑として配置されています。また、創立150周年記念事業として長崎医学同窓会が記念同窓会館を建て替え、「良順会館」となっています。http://www.med.nagasaki-u.ac.jp/med/top/message.html・・・・・・

 

 私は更にこの辺りを知りたくて、元長崎大学学長で医学部長でもあられた土山秀夫先生にお伺いをしてみました。土山先生は平和7人委員会のメンバーhttp://worldpeace7.jp/のお一人で、昨年11月に北海道にもお越しになりました。http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20090810/202138/?P=1

http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20090817/202599/?P=1

http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20090820/202961/

 今年8月の長崎市長による「平和宣言」の起草委員長もお務めになったことを、土山先生からのお手紙で知りました。先生から北海道立図書館にある「長崎医学百年史」に詳しい旨をご連絡頂き、先日取り寄せて読みました。

長崎医学百年史より

長崎医学百年史より

  それによりますと、この江戸時代末期の医学的背景の手掛かりを知ることが出来ます。漢方医学が本流であり、蘭学は禁止令の時代に蘭方の教育を受けるには、海軍伝習のためとせざるを得ない事情が理解出来ます。海軍伝習の世話係をしていた勝麟太郎(後の勝海舟)にもかなり反対された経緯も記載されていて、結局はポンぺの講義を聴くのは伝習生である松本良順一人として、他の者は、良順の聴講に陪席する即ち付添い人として講義に列席するという形にしたようです。

 ポンぺの講義は従来行われてきたような素読式の医学教育とは全くやり方を異にして、自然科学による近代的な教育方法でした。この点からしても、我が国の医学教育に全く画期的な形態を示したもので、それ以来今日に至るまで、日本の医学教育はこのポンぺ式に準拠しているといえるのでしょう。まさに「最初に井戸を掘った人」でした。更に解剖実習、時を同じくして長崎に勃発したコレラに対してはその予防法を長崎奉行に上申したばかりでなく、率先して学生を指揮して予防と治療にあたりました。これはその後の我が国の伝染病予防の指針となりました。

 ポンぺには沢山の功績がありますが、簡単にまとめると次の点でしょうか。

1) 旧来の医学教育方法の全面的改革

2) 学科制度の確立

3) 医学校への病院付設を必須とした

ポンぺ、松本良順は、パイオニアとしてまさに歴史の転換点に貢献した人物だったのですね、更に興味が湧いてきましたので、引き続き調べていきたいと思っています。松本良順が処方した医薬品群の「愛生舘三十六方」にも、そんな先駆的勢いをあらためて感じ取ります。

愛生舘の「こころ」 (5)

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comments: 0

 松本良順先生が晩年大磯に住んでいた事は、前に書き記しましたが、先日仕事の合間に時間をつくって大磯に行ってきました。東京駅からJR東海道線で約70分、大磯駅から徒歩5分の所に妙大寺があり、その境内に松本順先生(後年に良順から順と名を変えている)のひと際背の高いお墓を見つけました。

大磯・妙大寺 松本順 墓

大磯・妙大寺 松本順 墓

 地元の観光協会の方に伺うと、ご自宅はこのお墓のある妙大寺の右隣だったそうです。海が見えて裏は山、閑静な住宅地でした。そこから海側に下って歩いて10分程度で照ヶ崎海岸です。1885年(明治18年)、大磯町のこの海岸を日本最初の海水浴場と定め、海水浴の振興による健康増進と大磯町の開発に尽力しました。実は私の勝手な思い込みで、「照ヶ崎海岸」というものですから、松を背景として砂浜に記念碑が建っていると信じていたのですが、現在はバイパス道路と防波堤で固められたその間に碑がありました。イメージとは違う雰囲気で残念でしたが、ある意味ではこの間の時代の変遷を象徴する光景かとも思ったりして、です。

松本順先生の他にも、この大磯町にはこれまで著名な方々が250人程も住まわれていたとか、地元の方も誇らしげに語っておられました。こんな絵ハガキもあったので、1枚100円で買って帰りました。正直に申し上げて、「松本順と愛生舘」を追いかけている私にとって、観光ギャラリーの中で「展示されている彼」には違和感を持ちましたね。地元大磯にとっては、「250人以上の著名人(?)」に価値を置いているのかと思ったりしてです。

大磯・観光絵はがき

大磯・観光絵はがき

先日、「幕末史」(半藤一利著)http://books.yahoo.co.jp/book_detail/AAT85730/ を読みました。本来であれば江戸幕府十四代将軍家茂を看取った松本順先生も、当然この中に記載されていなければならないのでしょう。

著者が、攘夷を唱えた時代に対して「熱狂的になってはいけない」と警告をしています。また「皇国」の本来の意味は、幕府が支配している日本に対する、朝廷が支配する日本、というくらいの意味であって、私たちが意識している天皇というほど、この時代の人たちは天皇を意識していなかったのではないでしょうか、とも語っています。

このような本を携えながら、歴史認識の新たな発見を多少期待して松本順先生の晩年の地を訪れましたが、少し掘り下げ不足でした。何かの機会に再度やり直します。

愛生舘の「こころ」 (3)

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comments: 3

 ペギー葉山の「学生時代」の歌詞、「ツタの絡まるチャペル」で有名な青山学院大学http://www.aoyama.ac.jp/に初めて行き、片桐一男先生http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/%95%D0%8B%CB%88%EA%92j/list.html ご夫妻と20数年ぶりにお会いしました。

ツタの絡まるチャペルで

ツタの絡まるチャペルで

片桐一男先生は、すでに「愛生舘のこころ(1)」でご紹介しましたように、「松本良順と愛生舘」の研究を長年されています。6年前に青山学院大学を退任された後も、毎年全国各地で講演をされています。その中で、長崎におけるオランダ人ポンぺと海軍伝習・医学伝習、そこでの勝海舟、松本良順との出会い、長崎大学医学部との関係等、実に興味深い歴史の研究で高い評価を得ています。

ポンペ・ファン・メールデルフォールト(1829-1908)はオランダの海軍軍医。東インド各地で勤務中に、オランダ海軍による日本の海軍伝習第二次教育派遣隊の一員として1856(安政4)年に長崎に渡来、松本良順やその弟子の幕医・諸藩医学生を教育しました。このあたりに関しては、司馬遼太郎著「故蝶の夢」http://machi.monokatari.jp/a2/item_1362.html にも、少し語られています。

日本の近代化のはじまりは、「1853年ペリー浦賀来港」と昔から歴史で習っていますが、実はその10年近くも前に、アメリカのキャプテンクーパーが捕鯨船団長として、日本人漂流民22名を救助して浦賀に寄港しているのです。その辺の詳細は、寺島実郎さんのラジオ番組 http://www2.jfn.co.jp/tera/archive_doga.htmlの中で、「2008年10月の動画その2Vol.2」で紹介されています。砲艦外交などではなく、極めて人道的な目的での訪問であり、日本人がアメリカを目の当たりにしたまさに最初でした。その他歴史をよく調べてみると、この前後にヨーロッパ各国要人の訪問も数多くあったと記録されています。

そんな中で、江戸時代の外国との窓口長崎では、ポンぺが海軍伝習・医学伝習で滞在し、特に「近代西洋医学の父」として数多くの事業の種を蒔き、歴史にその名を刻まれています。1858年伝染病治療、1861年養生所・医学所の設立(長崎大学医学部の原点)等とともに、1848年オランダ王国が民主主義に基づく憲法を制定した時代の影響も受けて、ポンぺはその民主主義に立脚した医療を施した、と記録に明記されています。

彼の医学教育伝習は5年間に渡り、解剖学から物理学、薬理学、生理学他全般に及んだ一方、その講義を筆写し、日本語で分かりやすく復講したのが、松本良順でした。学びに集どった延べ40名を越える幕臣伝習生・諸藩伝習生は、松本良順の言わば「弟子たち」であり、それ故に「近代西洋医学のもう一人の創立者松本良順」と、今でも語られているのです。1861年養生所・医学所設立時、初代頭取となりました。長崎大学医学部の創立者であり、現在も大学構内にポンぺとともに顕彰碑として配置されています。また、創立150周年記念事業として長崎医学同窓会が記念同窓会館を建て替え、「良順会館」となっています。http://www.med.nagasaki-u.ac.jp/med/top/message.html

その後、良順は江戸への帰還を命じられて、1963年緒方洪庵逝去の後の医学所(東京大学医学部の前身)の頭取となりました。1866年幕府軍が長州征伐で敗退した時、大阪城で病む将軍家茂公を治療し、その臨終も看取っています。幕府の海陸軍軍医制を編成し、総取締になり、15代徳川慶喜の信頼も厚かったようです。戊辰戦争では江戸城明け渡し後に会津に下り、藩校日新館に野戦病院を開設し、戦傷兵をポンぺ直伝の軍陣外科で治療を行いました。会津落城後捕えられましたが、ほどなく囚を解かれて、1870年早稲田に洋式病院を設立しました。

1871年、山県有朋の請いにより陸軍軍医部を編成し、1873年初代陸軍軍医総監に就任したのです。この後に、多くの医学啓蒙書を世に出して、その中で「通俗民間治療法」により一般人に衛生思想の心得を広めました。同時に、高松保郎が館主の「愛生舘」事業の目的、庶民への衛生思想と安価な薬の普及にも共鳴し、全面的な支援を行いました。医師の診療を受けられない貧しい人々のために、自分が処方した三十六方(種類)の薬を安く手に入るようしたのです。また、庶民に牛乳を飲む事を奨励したばかりでなく、日本に海水浴を定着させたのも松本良順であり、予防医学、健康増進の先駆けです。現在も湘南の大磯海岸に記念碑が建っています。

社会が混乱し、国をはじめとする官の政策では間に合わない明治維新前後の時代に、自立した民間活動として「愛生舘」事業のこころがあったこと、私は今、21世紀における「愛生舘」事業の再構築の原点を見つけた思いです。

愛生舘の「こころ」 (2)

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comment: 1

 明治維新の歴史認識にも関係しますが、「愛生舘事業」の歴史的背景は、ある意味で現在の状況と大変似ているのではないかと思います。

先日、長年の私の友人からメールを貰いました。

―――明治維新は、厳密な意味ではフランスやロシヤみたいに迫害された民衆が自ら闘って自由を勝ち得た”革命”ではありませんでした。あくまでも政治の面で捉えれば、単に江戸幕府衰退と共に雄藩が政権を握ったに過ぎません。

 開拓期、そうした薩長土肥の藩閥政府が横行する初期、民衆に医療・公衆衛生を持ち込んだ松本良順や高松保郎の思想の源流、その彼らを中心とする「愛生舘事業」の実践は、ある意味では、すなわち必ずしも新時代の変革は「政治」の舞台だけではないという意味で、後年、藩閥に反発して立ち上がる自由民権運動よりも更に先んじた自由平等主義の実践者たちであったろうと思われるのです。老若男女が心身共に病むこの21世紀の日本が失った、取り戻さなけれなばならないエスプリが、愛生舘のルーツに秘められている気がしてなりません。それは蘭学が内包する”博愛”とか”弱者救済”精神に基づいた学問・技術・文化などが、質実的な面で明治時代の民衆を支えたと言えます。政治の暗闇に光を当てたのではないでしょうか。近代への道は決して政治力だけではなかったはずです。

 黒船来航に伴い幕府が設立した長崎伝習所、勝海舟や松本良順はじめ、幕末のインテリが学んだ”蘭学”に内包する哲学は、タオ財団のワグナー氏の言葉「それぞれ民族の違いの主張ではなく、いかなる共通点を探し求めるか」とする、作品「哲学の庭」に通ずるテーマと言えるでしょう。貴兄の言葉通り「いのち」とは平和そのもの、世界共通語であります故、「人類愛」を意味するキーワードでもあります。

 (注)タオ財団http://wagnernandor.com/indexj.htm  ――――

衛生書「通俗民間療法」(左)、大鏡(右:高さ1.5m)

衛生書「通俗民間療法」(左)、大鏡(右:高さ1.5m)

 

 

 全国的な愛生舘事業の中で、特に北海道支部のミッションは、北海道開拓を担う屯田兵の後方支援、及び全国から入植してきた開拓移民の健康維持・向上でした。1891(明治24)年、東京神田の館主・高松保郎亡き後は、北海道支部長だった初代秋山康之進が自らの名前を掲げて自立し、「秋山愛生舘」となりました。愛生舘事業の理念は、自社販売していた「通俗民間治療法」の中に明確に示されています。「山間僻地までの医薬品供給、医師の診療を受けられない病人の救済、貧者・弱者への施薬、すなわち、利益追求ではなく、あくまでも民間の衛生・治療の便益を図る事を最優先にする」、それが事業の目的であると書かれています。この理念を継承し地場企業として、秋山愛生舘は北海道の地を基盤に、第二次世界大戦後1948(昭和23)年には株式会社として法人化し、私は1991(平成3年)6月に第五代目社長に就任し、1992(平成4)年には札幌証券取引所上場、1997(平成9)年に東京証券取引所市場第二部上場となりました。その後、(株)スズケンhttp://www.suzuken.co.jp/ と資本・業務提携を経て合併し、北海道は「愛生舘営業部」として、今も活動しています。

私は2002(平成14)年11月に(株)スズケン代表取締役副社長を退任しました。その後、故郷札幌に戻り、これまでの(株)秋山愛生舘の108年の活動を振り返り、持続する企業として3本の論文にまとめました。

「地域企業の持続的経営の分析」http://ci.nii.ac.jp/naid/110004813846以下、「地域企業の進化の分析」http://ci.nii.ac.jp/naid/110004813848/、「持続的経営論」http://ci.nii.ac.jp/naid/110006392571/と続きます。

一方、(株)秋山愛生舘の100周年事業の一環として、それに先立つ1987(昭和62)年1月に「(財)秋山記念生命科学振興財団」を設立しました。http://www.akiyama-foundation.org/ 「地域社会への貢献」という理念の実現は、医薬品販売の事業から更に発展して、愛生舘事業の理念を根幹に、財団の助成・育成事業として継承・進化しています。

愛生舘の「こころ」 (1)

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comment: 1

 何回になるかは分かりませんが、「愛生舘の『こころ』」シリーズを始めます。 

人との出会いは、いつも劇的ですね。暫くの時間経過後に、何か気がつかなかった糸で結ばれていたのを感じる時があります。青山学院大学名誉教授の片桐一男先生http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/%95%D0%8B%CB%88%EA%92j/list.html は、そういった数少ない方のお一人です。

松本良順:秋山愛生舘100年誌より

松本良順:秋山愛生舘100年誌より

先日「幕末史研究会」http://blogs.yahoo.co.jp/bakumatsushiken/8871554.html に参加した方から、今年1月例会で配布された、「松本良順と『愛生舘』」という資料のコピーを頂きました。長崎海軍伝習所で行われた医学伝習で、蘭学のポンペから学んだ松本良順http://www.bakusin.com/ryoujyun.html。江戸に帰って取り組んだ衛生思想の普及活動、その実践である「愛生舘:あいせいかん」事業の狙い等がその内容です。後に初代陸軍軍医総監に就任した松本良順は、実父・佐藤泰然が創設した順天堂大学http://www.juntendo.ac.jp/ とも深い関わりがあります。20数年ぶりに、片桐一男先生のお名前を身近に拝見しました。

愛生舘事業というのは、松本良順処方の「愛生舘三十六方」(三十六種類の医薬品)と、著書「通俗民間治療法」の販売を行った民間事業体です。高松保郎が館主となり、1888(明治21)年に創設されて、本部は当初は東京市神田区駿河台北甲賀町、3年後の保郎の没後に神田岩本町に移り営業しました。売薬の三十六方は、輸入洋薬で、「通俗民間治療法」にはその三十六方の処方内容が平易に解説されて、医師不足で医療の行き届かない辺境の庶民に、親しみやすいように工夫が施されています。その全国的普及は当初からの目的であり、組織的に活動が展開されていました。

高松保郎:秋山愛生舘100年誌より

高松保郎:秋山愛生舘100年誌より

北海道で108年間続いた医薬品卸業、(株)秋山愛生舘のルーツは、まさにこの愛生舘事業にその原点があります。片桐先生は、この(株)秋山愛生舘のそもそもの事業主「愛生舘」に関する研究の第一人者です。松本良順先生と愛生舘との関係、館主高松保郎の人物像等、大変貴重な研究の数々を残されています。