愛生舘の「こころ」 (26)

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comments: 0

 長崎大学附属図書館の医学分館に続いて、相川先生にご案内して頂き、隣の『良順会館』を久しぶりに訪問しました。

* http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E8%89%AF%E9%A0%86%E4%BC%9A%E9%A4%A8

 以前訪問した時は、何かのイベントがあったと記憶していて、中をゆっくり見学できなかったのですが、今回は静かな館内をご案内して頂き、あらためて松本良順先生のご功績を理解することができました。

玄関ロビーのレリーフ

玄関ロビーのレリーフ

 会館前の庭には歴代の貢献された方々の誌も。

 更に、医学部の建物ロビーには、ポンぺの医師としての心構えが、肖像と共に掲載されていました。相川先生によると、入学式・卒業式ほか、医学生を前にした式典では必ずこの理念が語られてきているとのお言葉です、伝統を受け継ぐとはこういうことなのでしょうね。

<ポンぺの言葉~建学の基本理念>

 「医師は自らの天職をよく承知していなければならぬ。ひとたびこの職務を選んだ以上,もはや医師は自分自身のものではなく,病める人のものである。もしそれを好まぬなら,他の職業を選ぶがよい。」

 限られた時間ではありましたが相川先生のお話は深く、私自身、『愛生舘文庫』を更に充実させるたくさんのヒントを得た気がします、ありがとうございました。

愛生舘の「こころ」 (8)

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comment: 1

 <資料編> ポンぺ、松本良順に関する資料は、良順会館展示室と医学部図書館にかなりありました。

 良順会館の入口すぐには、レリーフと彼の書・絵も展示されていました。

松本良順レリーフ

松本良順レリーフ

  

書

 

絵

 開所時の長崎医学伝習所のスケッチです。

 

もう一つ、「愛生舘」の出版物としてあらたに「国家幸福之種蒔」も見つかりました。

「通俗民間治療法」とあらたに見つかった「国家幸福之種蒔」

「通俗民間治療法」とあらたに見つかった「国家幸福之種蒔」

  この辺りの歴史は、歴史小説で名高い吉村昭の著「暁の旅人」http://shop.kodansha.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=276139 で詳細を知ることが出来ます。吉村さんは今から4年程前に、この本を携えて札幌の私の所を訪問されました。埼玉県の公文書館で調べて、愛生舘北海道支部の発祥の地を訪ねての調査だったようです。松本良順と新撰組近藤勇との交遊他、良順の情に熱い人柄がきめ細かく表現されています。

愛生舘の「こころ」 (7)

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comments: 0

<外回り編 > 

行ってきました長崎は、その日も雨でした。

 ポンぺ・松本良順の医学伝習を追いかけて、いつか長崎と思っていましたが、早い時期に実現致しました。長崎大学医学部キャンパスの図書館で、特別展示室を係の方にご案内して頂き、貴重な資料の数々に出会うことが出来ました。

まずは外回りから:現在の医学部キャンパスの正門右に、2年前の150周年記念で立てられた「良順会館」です。当日は学会が開催されていて、沢山の研究者の方々の往来があり、メーカーの展示ブースも設営されていました。

医学部正門横・良順会館

医学部正門横・良順会館

良順会館・前庭

良順会館・前庭

 現在は裏になっていますが、原爆投下当時の正門がそのままの状態で今も残っています。

旧医学部正門

旧医学部正門

爆風で傾いたままの左門石

爆風で傾いたままの左門石

  医学部から程近い場所に、「爆心地記念塔」がありました。この地点の真上でプルトニウム型原子爆弾が炸裂したのです。この周辺一帯が平和公園http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/kouen/heiwa/heiwatop.htmlとなっています。

爆心地・大学から200メートルの地点

爆心地(左黒柱)・大学から200メートルの地点

平和祈念像

平和祈念像

愛生舘の「こころ」 (6)

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comments: 0
 怒涛のような9月を過ごし、しばらくぶりに「愛生舘」についての話題に戻ります。ポンぺ・松本良順・長崎大学医学部に関して、今年の5月13日のこの欄「愛生舘の『こころ』(3)」で下記のように書きました。

・・・そんな中で、江戸時代の外国との窓口長崎では、ポンぺが海軍伝習・医学伝習で滞在し、特に「近代西洋医学の父」として数多くの事業の種を蒔き、歴史にその名を刻まれています。1858年伝染病治療、1861年養生所・医学所の設立(長崎大学医学部の原点)等とともに、1848年オランダ王国が民主主義に基づく憲法を制定した時代の影響も受けて、ポンぺはその民主主義に立脚した医療を施した、と記録に明記されています。

 彼の医学教育伝習は5年間に渡り、解剖学から物理学、薬理学、生理学他全般に及んだ一方、その講義を筆写し、日本語で分かりやすく復講したのが、松本良順でした。学びに集どった延べ40名を越える幕臣伝習生・諸藩伝習生は、松本良順の言わば「弟子たち」であり、それ故に「近代西洋医学のもう一人の創立者松本良順」と、今でも語られているのです。1861年養生所・医学所設立時、初代頭取となりました。長崎大学医学部の創立者であり、現在も大学構内にポンぺとともに顕彰碑として配置されています。また、創立150周年記念事業として長崎医学同窓会が記念同窓会館を建て替え、「良順会館」となっています。http://www.med.nagasaki-u.ac.jp/med/top/message.html・・・・・・

 

 私は更にこの辺りを知りたくて、元長崎大学学長で医学部長でもあられた土山秀夫先生にお伺いをしてみました。土山先生は平和7人委員会のメンバーhttp://worldpeace7.jp/のお一人で、昨年11月に北海道にもお越しになりました。http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20090810/202138/?P=1

http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20090817/202599/?P=1

http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20090820/202961/

 今年8月の長崎市長による「平和宣言」の起草委員長もお務めになったことを、土山先生からのお手紙で知りました。先生から北海道立図書館にある「長崎医学百年史」に詳しい旨をご連絡頂き、先日取り寄せて読みました。

長崎医学百年史より

長崎医学百年史より

  それによりますと、この江戸時代末期の医学的背景の手掛かりを知ることが出来ます。漢方医学が本流であり、蘭学は禁止令の時代に蘭方の教育を受けるには、海軍伝習のためとせざるを得ない事情が理解出来ます。海軍伝習の世話係をしていた勝麟太郎(後の勝海舟)にもかなり反対された経緯も記載されていて、結局はポンぺの講義を聴くのは伝習生である松本良順一人として、他の者は、良順の聴講に陪席する即ち付添い人として講義に列席するという形にしたようです。

 ポンぺの講義は従来行われてきたような素読式の医学教育とは全くやり方を異にして、自然科学による近代的な教育方法でした。この点からしても、我が国の医学教育に全く画期的な形態を示したもので、それ以来今日に至るまで、日本の医学教育はこのポンぺ式に準拠しているといえるのでしょう。まさに「最初に井戸を掘った人」でした。更に解剖実習、時を同じくして長崎に勃発したコレラに対してはその予防法を長崎奉行に上申したばかりでなく、率先して学生を指揮して予防と治療にあたりました。これはその後の我が国の伝染病予防の指針となりました。

 ポンぺには沢山の功績がありますが、簡単にまとめると次の点でしょうか。

1) 旧来の医学教育方法の全面的改革

2) 学科制度の確立

3) 医学校への病院付設を必須とした

ポンぺ、松本良順は、パイオニアとしてまさに歴史の転換点に貢献した人物だったのですね、更に興味が湧いてきましたので、引き続き調べていきたいと思っています。松本良順が処方した医薬品群の「愛生舘三十六方」にも、そんな先駆的勢いをあらためて感じ取ります。

愛生舘の「こころ」 (3)

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comments: 3

 ペギー葉山の「学生時代」の歌詞、「ツタの絡まるチャペル」で有名な青山学院大学http://www.aoyama.ac.jp/に初めて行き、片桐一男先生http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/%95%D0%8B%CB%88%EA%92j/list.html ご夫妻と20数年ぶりにお会いしました。

ツタの絡まるチャペルで

ツタの絡まるチャペルで

片桐一男先生は、すでに「愛生舘のこころ(1)」でご紹介しましたように、「松本良順と愛生舘」の研究を長年されています。6年前に青山学院大学を退任された後も、毎年全国各地で講演をされています。その中で、長崎におけるオランダ人ポンぺと海軍伝習・医学伝習、そこでの勝海舟、松本良順との出会い、長崎大学医学部との関係等、実に興味深い歴史の研究で高い評価を得ています。

ポンペ・ファン・メールデルフォールト(1829-1908)はオランダの海軍軍医。東インド各地で勤務中に、オランダ海軍による日本の海軍伝習第二次教育派遣隊の一員として1856(安政4)年に長崎に渡来、松本良順やその弟子の幕医・諸藩医学生を教育しました。このあたりに関しては、司馬遼太郎著「故蝶の夢」http://machi.monokatari.jp/a2/item_1362.html にも、少し語られています。

日本の近代化のはじまりは、「1853年ペリー浦賀来港」と昔から歴史で習っていますが、実はその10年近くも前に、アメリカのキャプテンクーパーが捕鯨船団長として、日本人漂流民22名を救助して浦賀に寄港しているのです。その辺の詳細は、寺島実郎さんのラジオ番組 http://www2.jfn.co.jp/tera/archive_doga.htmlの中で、「2008年10月の動画その2Vol.2」で紹介されています。砲艦外交などではなく、極めて人道的な目的での訪問であり、日本人がアメリカを目の当たりにしたまさに最初でした。その他歴史をよく調べてみると、この前後にヨーロッパ各国要人の訪問も数多くあったと記録されています。

そんな中で、江戸時代の外国との窓口長崎では、ポンぺが海軍伝習・医学伝習で滞在し、特に「近代西洋医学の父」として数多くの事業の種を蒔き、歴史にその名を刻まれています。1858年伝染病治療、1861年養生所・医学所の設立(長崎大学医学部の原点)等とともに、1848年オランダ王国が民主主義に基づく憲法を制定した時代の影響も受けて、ポンぺはその民主主義に立脚した医療を施した、と記録に明記されています。

彼の医学教育伝習は5年間に渡り、解剖学から物理学、薬理学、生理学他全般に及んだ一方、その講義を筆写し、日本語で分かりやすく復講したのが、松本良順でした。学びに集どった延べ40名を越える幕臣伝習生・諸藩伝習生は、松本良順の言わば「弟子たち」であり、それ故に「近代西洋医学のもう一人の創立者松本良順」と、今でも語られているのです。1861年養生所・医学所設立時、初代頭取となりました。長崎大学医学部の創立者であり、現在も大学構内にポンぺとともに顕彰碑として配置されています。また、創立150周年記念事業として長崎医学同窓会が記念同窓会館を建て替え、「良順会館」となっています。http://www.med.nagasaki-u.ac.jp/med/top/message.html

その後、良順は江戸への帰還を命じられて、1963年緒方洪庵逝去の後の医学所(東京大学医学部の前身)の頭取となりました。1866年幕府軍が長州征伐で敗退した時、大阪城で病む将軍家茂公を治療し、その臨終も看取っています。幕府の海陸軍軍医制を編成し、総取締になり、15代徳川慶喜の信頼も厚かったようです。戊辰戦争では江戸城明け渡し後に会津に下り、藩校日新館に野戦病院を開設し、戦傷兵をポンぺ直伝の軍陣外科で治療を行いました。会津落城後捕えられましたが、ほどなく囚を解かれて、1870年早稲田に洋式病院を設立しました。

1871年、山県有朋の請いにより陸軍軍医部を編成し、1873年初代陸軍軍医総監に就任したのです。この後に、多くの医学啓蒙書を世に出して、その中で「通俗民間治療法」により一般人に衛生思想の心得を広めました。同時に、高松保郎が館主の「愛生舘」事業の目的、庶民への衛生思想と安価な薬の普及にも共鳴し、全面的な支援を行いました。医師の診療を受けられない貧しい人々のために、自分が処方した三十六方(種類)の薬を安く手に入るようしたのです。また、庶民に牛乳を飲む事を奨励したばかりでなく、日本に海水浴を定着させたのも松本良順であり、予防医学、健康増進の先駆けです。現在も湘南の大磯海岸に記念碑が建っています。

社会が混乱し、国をはじめとする官の政策では間に合わない明治維新前後の時代に、自立した民間活動として「愛生舘」事業のこころがあったこと、私は今、21世紀における「愛生舘」事業の再構築の原点を見つけた思いです。