今から約50年近く前、私が小学校5年から6年間、チェロを習った上原与四郎先生の喜寿のお祝いコンサートが開催されました。残念ながら私は他の用事で出席出来ませんでしたが、足を運んだ母・妻の話では、500名近くの聴衆で大盛況だったようです。
上原与四郎先生は、1933年水戸市生まれで、武蔵野音楽大学卒業後、今井正監督の映画「ここに泉あり:http://homepage1.nifty.com/Kinemount-P/kokoni-izumiari.htm)でも有名になった群馬交響楽団(http://www.gunkyo.com/)に1953年入団されました。1961年札幌交響楽団(http://www.sso.or.jp/)に創立と同時に入団され、13年間首席奏者をつとめられました。この間、札響の定期演奏会には第1回から1991年10月の第329回まで連続して出演されて、同団のインスペクターとしても20年余りに渡り活躍されました。札響に今ではファンクラブ(http://members3.jcom.home.ne.jp/sakkyoclub/index.html)も充実して、世界でも有数な交響楽団に成長し、札幌の文化の誇りとなっています。設立翌年から「財団法人」となり、昨今の公益法人改革(http://www.gyoukaku.go.jp/about/koueki.html)の中、昨年、北海道では第一号の「公益財団法人」への移行認定となって、新たな法人格としてスタートしています。蛇足ですが、私が理事長を務める秋山財団(http://www.akiyama-foundation.org/)は、第四番目の「公益財団法人」への移行認定でした。
今回のお祝いコンサートでは、プロ・アマ合わせて30名ほどの門下生が、チェロ・アンサンブルのために作られたオリジナル曲やアレンジを10曲演奏、最後には先生ご自身も2曲演奏されて、拍手喝采だったそうです。札響の現役団員のブログにも掲載されています(http://blog.livedoor.jp/arakihitoshi/archives/51491294.html)。
私は高校2年生の秋、上原先生から「音楽学校へ進学するのなら、そろそろ決断する時期ではないか」とお話があり、初めて自分の「進路」について真剣に考えました。私はこの時点で音楽への道を選択しきれずに、ある日曜日の午後、先生のご自宅に普通の進学(?)の道を選ぶ事をお伝えして、これまでの先生のご指導への感謝を申し上げにお邪魔したのを鮮明に覚えています。その後の自分の人生においても、一つの道を断念したみたいな、最初の決断だったような気がします。ろくに練習をしていないでレッスンに臨んでも、決して怒ることなく優しく教えて頂いた記憶だけが残っています。それが当時、運動もしながらチェロを続けられた理由だと、今も感謝しています。他の門下生も、皆さん同じような感想を後に語っていらっしゃいました。
それにしても当時から、札幌のクラシック音楽への関心は大変高かったような気がします。私は幼稚園生の時から南9条・荒谷正雄先生の札幌音楽院でヴァイオリンを習っていましたし、HBCジュニアオーケストラの活動も盛んでした。市民会館で行われる札響コンサートには、私も小学生時代から度々行っていました。当時から小・中学生はじめ、若い世代の聴衆も多く、スタートから幅広く愛着のある「市民の交響楽団」でしたね。
札幌市民会館では、チェロの巨匠:ロストロ・ポーヴィッチの公演が強く印象に残っています。大変大きな楽器で力強く鳴らす演奏は、今でも脳裏に焼き付いています。またピエール・フルニエの公演では、まぶしいばかりの銀髪が美しかったですね。貴族的な優雅な演奏に胸をときめかして聴き入りました。身近な所では今でも忘れられません、私が習っていた時、高校の1年先輩・平野秀清さんは、私より後から上原先生の門下生になられましたが、猛練習と才能で本当に表現も豊かで素晴らしい音色でした。桐朋学園大を卒業後、NHK交響楽団(http://www.nhkso.or.jp/)に入られ、活躍されました。
上原先生のご指導は、実は私だけではありませんでした。随分後になって私の4番目の子供が小学校の6年間、再び上原先生の門下生となり、何と親子2代でお世話になったのです。私は高校卒業後、大学・就職等で札幌を離れて住居を何回も変えましたが、その都度自分のチェロも一緒でした。でも、殆どケースを開けて弾く時はありませんでしたが・・・・。ただ側にいるという自己満足だけで今日まで過ごしています。
数多くの映画の名場面では、チェロの演奏が多く聞こえてきます。低音部の落ち着きと、高音部の豊かな表現力、ヨー・ヨー・マはじめ若い世代のチャレンジも魅力的です、チェロにまつわる思い出は尽きません。