「八重の桜」、余韻覚めやらず

Posted by 秋山孝二
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 昨年のNHK大河ドラマ「八重の桜(http://www9.nhk.or.jp/yaenosakura/」は、私にとってこれまでで最も印象に残った番組でした。年始に総集編として2日間に渡り放映されて、録画でじっくり見ました、幾つか見逃していた回があったことも知りましたし、年が明けて、余韻覚めやらずですね。

 何といっても私にとって、戊辰戦争が、「愛生舘」の生みの親、松本順と密接な関係があるからです。ドラマの一場面でも繰り広げられた藩校「日新館」での負傷兵たちの看護、あの場で院長として指揮を執っていたのが、長崎でオランダ医学の一環で野戦病院医療を学んだ松本順その人だったからです、恐らく八重さんとともに活動していたものと、ドラマでは名前は出てきませんでしたが、私にはその姿がくっきり見えました。

 松本順と愛生舘との関係は、これまでたくさんこの欄で書いてきました。

< 松本順 http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E9%A0%86

 同時に、一昨年、3・11以降の初めての福島訪問の際に、会津若松市で一泊して、若松城、日新館ほかをゆっくり見学したことも記憶に新しかったからです。

* http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=12677

* http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=12692

 その時のブログにもあるように、ドラマを見ながら自分のその時の想いに確信を得ました。

~~~~~~~~~~~~~~ ブログからの引用

・・・・ 「ならぬことは ならぬものです」で結ばれる「什の掟」、日新館での教育は今の時代、一層価値があるメッセージですね。白虎隊と並んで紹介される場合が多いですが、私にとってはむしろ、松本良順と野戦病院院長の関係で記憶されています。戊辰戦争で幕府側の医師として、最後まで人々の治療にあたった彼は、戦いの後に捕われましたが、その後新政府にその類まれな近代医学の能力を高く評価され、近代医学の基礎を創り、初代の軍医総監として活躍しました。

・・・・ 近代日本への脱皮、その歴史は多くの命が失われる過程を経て、一歩一歩変わっていく時間の経過と理解すれば良いのでしょうか。日本人が、自分たちの「国」づくりを自分たちで必死に手に入れようとしていた真摯な姿を感じます。そんな歴史に対する「誠実さ」を、いつ日本人は失ってしまったのか、3・11の大震災、津波、原発事故による放射能汚染、この「機」を逃して復興しなければ、今、まさに社会の価値の方向転換をしなければ、あとは滅亡しかありません。

~~~~~~~~~~~~ 引用 おわり

 個々の俳優のインタビュー(http://www9.nhk.or.jp/yaenosakura/special/)でもたくさんの話題ですが、私としては特に、綾瀬はるか(八重)、西島秀俊(覚馬)、高島政宏(槇村)が興味深かったです。

 また、演出の加藤拓さんの言葉も含蓄があります、これまでの大河ドラマとはかなり違った視点であり、3・11以降の社会への問題提起とも受けとめます。このドラマで新政府を樹立した指導者たちが、日清・日露戦争を経て国際社会においてどんな日本国に誘導して行ったのか、その危険な芽がこのドラマからも読み取れるような気がするのです。まさに歴史に学べ、ですね。

~~~~~~~~~~~演出 加藤拓さんの言葉 HPからの引用

<他者の正義vs自分の正義>

今まで幕末物語といえば、新しい日本を目指すことにおける正義が描かれてきました。ところが今回は、その正義がある種の悲劇を生んでいきます。国を変えようとする正義を掲げるのが薩長ならば、奥羽越の人々にもまた、守らなければならない正義があったのです。

変えるための正義と守るための正義…他者の正義と自分の正義とのぶつかり合いによって、日本が分裂しかねない状態にまで追いこまれる。そのぶつかり合いをつぶさに描くのがこのドラマ前半の特徴です。そして、この衝突の最終局面が、最後まで抵抗を続けた会津藩において繰り広げられることになるのです。

それと同時に、僕らが9か月間の撮影で体感してきた未知の歴史が、今まさに既知の歴史に集約されようとしています。 “あの歴史の場面”がいよいよやってきた!この感覚の新鮮さが、つくり手としての僕らの気持ちを高揚させています。

<極限において放たれる八重の輝き>

撮影を前に、ここぞとばかりに綾瀬さんといろいろお話をしました。会津戦争という歴史の局面一瞬一瞬において、八重ならどう振る舞うか…と。

誤解を恐れずに言えば、この悲劇的な場面こそが、八重がいちばん輝きを放った瞬間です。極限の状況で放たれた八重の輝き、それがこの会津戦争を描くうえでの核になりました。女性でありながら銃をとり前線に立つことへの決意、少年兵を死地に赴かせることに反対しながらも、いざ共に戦うべき相手は老人兵や少年兵だったという皮肉。「自分が戦う以上はひとりも死なせない」という巨大な責任感と苦悩に襲われる八重の姿を、綾瀬さんが全力を投じて演じてくれました。

城が文字どおり崩れ落ちる瞬間まで、存分に戦い、存分に生き抜いた会津の人々。彼らがどう戦い、何を失い、何を得たのか…。八重はもちろんのこと、その家族や仲間、容保、家臣団…それぞれの正義をかけた戦いにご注目ください。

~~~~~~~~~~~ 引用 おわり
 

 このドラマに関わったすべての方々のメッセージに比べて、メディア界の貧困さも終わってみての評価から見て取れます、ただただ「視聴率」に拘っているだけの姿です。「視聴率」?、ドラマを観続けた私のような一視聴者には何の関係もないですよ、その作品テーマ、演出、俳優に興味があるのであって、他の人がどれほどライブで観ていたか、そんなことはドラマの評価のごくごく一部に過ぎないではありませんか。今の時代にこういった素晴らしい番組を作成したNHKに感謝するだけです。

 まるで昨今の「経済成長」論議で、株価上昇だけが経済の指標であるかのごとく語るメディアと同じレベルの貧困さです、社会の薄っぺらさとも言えましょうか、学びましょうよ、歴史から。 

 いずれにせよ、新しい国の方向性を創ることは、まさに価値観の「戦い」であり、「呻吟(しんぎん)」であり、ナチの暴虐を越えたヨーロッパ思想界のような過程を抜きには生まれることはないのかもしれないと、年始のまとまった時間にしばし黙想しました。

福島の「今」を行って

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 「2011.3.11」以降、私は被災地のごく一部ですが、時間を見つけては訪問しています。昨年は東京出張の折に、足を延ばして東北新幹線で郡山に、そこから会津若松方面に向かいました(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=12699)。今年は3月に宮城県仙台市荒浜地区、名取市閖上地区(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=16071)、そして先日、郡山に行く用事があり、札幌から飛行機で直接福島空港へ、郡山、福島市、相馬、南相馬、飯館、二本松等、西部を通りながら放射線量測定もしてきました。

 測定した器械は昨年同様です。 「エステーエアカウンターS:http://www.st-c.co.jp/air-counter/」は、「ガンマ(γ)線だけの測定」で、以下の数値の単位は「μSv/h : マイクロシーベルト・パー・アワー」です。この器具では、「0.05」以下は、みな「0.05」での表示となります。今回「0.05」で表示された地点は、恐らくそれよりもさらに低い数値だと推測されますね。

 私たちが細心の注意を払わなければならないのは、「放射線量測定」といっても、何を測って、何を測っていないかを明確にすることであり、諸条件の違いで「放射線量」が意図的に誘導される危険を織り込まなければなりません、科学的に「諸条件を明確にして発表すること」の重要性ですね。大学時代に「物性物理学」専攻だった私、実験を繰り返してデータを収集・分析し、考察を経て卒業論文を書き上げた人間のこだわりでもあります。

 人体への影響を警告するためには、福島県の線量の高い区域では「α線」、「β線」も入れて測定するべきなのでしょう。「γ線」のみだと70μSv/hだけれど、「α線」と「β線」を足すと500μSv/h越えという例も福島ではあったとも聞きます。α核種とβ核種は離れれば安全とは言いますが、体内に取り込んだら離れられない、「内部被曝」として人体への危険性は消えません。より楽観視しやすい指標で発表・判断するのは科学的ではなく、誘導・プロパガンダです。

 「内部被曝」については、皆さんご存知の肥田舜太郎医師が広島原爆による被爆から、この間60年以上語り続けていました(http://www.uplink.co.jp/kakunokizu/)。今年2月発刊の新著「被爆と被曝:放射線に負けずに生きる」では、放射線障害研究の歴史の根深さを知ります、教育・研究分野でのこのテーマで、国際的責任を日本は果たさなければなりません。

 知人のMさんからFBで教えてもらいました、たとえば条件が違うとこんなに数値は変わってきます。――><福島県相馬市 道の駅のアスファルト表面> アスファルト表面に直に置くと数値が急激に上がるのは、「β線」によるもの。空間線量測定に「β線」は含まれていません。

https://www.youtube.com/watch?v=jCG527ruCgc&feature=youtube_gdata_player

福島市信夫山公園・護国神社

福島市信夫山公園・護国神社

二本松城城壁前

二本松城城壁前

南相馬海岸線南部から南を望む

南相馬海岸線から南を望む

 放射線の被曝に「安全値」というのは無いとは思いますが、国の基準でいわれている「1ミリシーベルト/年間」を今回測定した1時間当たりに換算すると下記の数値となります:

1mSv/y÷365÷24×10^3≒0.114μSv/h

今回の各ポイントの測定値(γ:ガンマ線だけ)です。測定器具は昨年のものと全く同じです。~~~~~~~~~~~~~~

福島空港・外           0.09

郡山市内・外           0.14

福島・信夫山公園        0.38

大波   (115号線沿い)   0.46

相馬市内             0.32

南相馬市内           0.43

飯館村(12号線沿い)       0.62 ~ 0.91

川俣町              0.36

二本松城跡            0.24

~~~~~~~~~~~~~ 昨年の測定値

福島県会津若松市の「鶴ヶ城」にも線量計が設置されています(http://www.aizukanko.com/news/index.cfm#wn97)。因みに、鶴ヶ城公園本丸内の放射線量、5月25日正午は、「0.12 μSv/h」 です。

単位 <μSv/h : マイクロシーベルト・パー・アワー>

郡山駅前・外         0.24

郡山駅・内            0.14

猪苗代                 0.08

会津若松市内          0.05

宇都宮駅・外           0.09

茨城空港・外           0.12

~~~~~~~~~~~~~~ 昨年の測定値 おわり

 さらに今、東京電力福島第一発電所事故現場では、汚染水が大量に海に漏れ出しています(http://www.youtube.com/watch?v=uEWO6FfUwJo)。海外メディア、研究者は、この海洋汚染を強く懸念していて、日本が国を挙げて対処しようとしていない現状に大変な危機感をつのらせています(http://rt.com/news/fukushima-apocalypse-fuel-removal-598/)。

 今回、ごくわずかの時間でしたが、「除染」作業をする人々、あちこちにあるブルーシートを被せた土地ほか、放射能汚染の続く現地に滞在して、この状況を医療機関でのエックス線照射、放射線管理区域と同一視する方々のセンスを疑います。環境に広く放出された、匂いも、色も無い、いわゆる五感では感知できない放射線、それが今も継続して漏洩している現状、このまま放置すれば日本国民の分断が続き、人心は一層混乱するでしょう。

 一方で、ただ危機感だけを募っていても、今現在そこに暮らしている方々もいます。その方々とどう寄り添えるのか、外の人間として考える責任もあります。私自身は、「飯館村放射能エコロジー研究会(http://iitate-sora.net/)」に注目していて、今年のフォーラムにも参加しました(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=16313)。

 今の状態は、福島県を中心とした「広大な国土の喪失」です。日本政府の国際社会での責務完遂、今、東電には当事者能力無しの中で、任にある方々の本気の原発事故収束への全力投球、それしか国際社会から信頼を回復し、日本国を救う道はありません。

2013.3.11、仙台で (1)

Posted by 秋山孝二
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 今の自分にとって、「3・11と向き合い続けること」は、まずは被災地の現実をしっかり見ることだと思っています。この2年間、昨年の福島県会津若松への出張(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E4%BC%9A%E6%B4%A5%E8%8B%A5%E6%9D%BE)、八戸での「いとこ会:http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=14515」と、2回東北に足を運びましたが、今年は320名の「全国経済同友会東日本大震災追悼シンポジウム」に参加して、しばし3・11以降の復興と向き合う機会を得ました。

岩手、仙台、福島の各経済同友会代表幹事からの現況報告

岩手、仙台、福島の各経済同友会代表幹事からの現況報告

  現状報告は、いろいろ課題はあるものの、三地域とも大変前向きな内容でした、むしろ終盤のフロアーからの質問で、「本当の姿にしっかり目を向けていないのではないか」と言った指摘もあったり。たとえば、「アンケート調査を基にした対応ではなく、現場の生の声を聴くべき」、「国の法律が有事の災害時対応には対応できていないので、法律改定を提起すべき」、「スピード感の欠如」、「何も変わっていない、何もない現状を直視すべき」、「予算の金額、契約の金額で復興は測れない、新しい指標はないものか、物が出来て人が住んで初めて復興ではないのか」、とかです。

 全体として共通する印象としては、経営者のお話は分かりやすいということでしょうか。日々の経営の中で、延々と議論だけでは何も解決しない、とにかく状況打破のために果敢に挑戦している現場を感じました。

 報告終了後に、追悼式典が行われ、14時46分、全員での黙とう、あらためて犠牲となった御霊への祈りでした。

 引き続きの分科会、私は「原子力災害の克服に向けて」に参加し、以前から注目していた児玉龍彦先生のお話も間近で聴くことができました。2011年7月27日の衆議院厚生労働委員会での陳述は伝説となっています(http://www.youtube.com/watch?v=O9sTLQSZfwo)、「国会の怠慢」、「子どもを守らなくて何の国家か」と憤る姿は、まさに自然科学者の信念なのでしょう、当時、鬼気迫るものを感じました。

パネラーの児玉龍彦先生とコーディネーターの冨山和彦社長

パネラーの児玉龍彦先生とコーディネーターの冨山和彦社長

  今回の児玉龍彦先生は、2011年の現実の危機感、緊急性の指摘と比べて、現状では、継続的にしっかり放射線量を測定して、この間の変遷を住民が納得できる手立てを与えることに重点を置かれていました。「今回の原発事故は、かつてない規模の『環境汚染』である認識をもつこと。当事者の意見をしっかり聴き、ち密な作業が重要。結論が先に決まっている議論が多過ぎ」、「データを継続的に示し、説明し続ければ、何を心配し、何は安心できるかを理解できる」等です、近距離で初めてお会いしましたが、児玉先生の笑顔は本当に素晴らしいですね。

 そして、「20世紀のチェルノブイリ事故とは違って、21世紀の日本の科学技術と経済を結集すれば、必ず除染と地域の復興は成し遂げられる」との自信にあふれるご発言に、場内は大きな感動でした、日本の自然科学者の矜持です!

 一方、マスメディアもテレビ・新聞でも特集でいっぱい、2013年3・11の地元紙夕刊の一面です。

薩摩と会津への訪問、因縁ですね

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 何も意識していなかったのに、後で振り返ると「そうだったんだ!」と妙に因縁を感じる時があります。 3月・4月と私自身が全く別の目的で訪問した土地、鹿児島と福島、そう言えば幕末から明治に掛けて以来の「薩摩」・「会津」の微妙な関係でした。

薩摩:http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E8%96%A9%E6%91%A9

会津:http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E4%BC%9A%E6%B4%A5

 会津若松の訪問で、掲載し忘れた1枚の写真です、「フクシマ」を実感しました。

中学校の校庭の一角に大熊町、双葉町の木造仮設住宅

鶴ヶ城よこ、中学校の校庭の一角に、大熊町、双葉町の一時避難所・木造仮設住宅

 

 そんな折、外岡秀俊(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=12165)さんの最近の著書、「複合震災」と「震災と原発 国家の過ち」はメッセージ満載です。たまたま「震災と原発 国家の過ち」を読み直していると、「第4章 東北とは何か」に、実に興味深いことが書かれています。少々長い引用になりますがお許し下さい。放言で辞任に追い込まれた松本龍復興担当相のやり取りに絡んでです。

 

~~~~~~~~~~ここから引用

 中央の権力を笠に着て、被災地の首長を見下し、威嚇する。果てはマスコミを恫喝する。こうした人物が、復興基本法でできた重要ポストに就いたこと自体が驚きだった。

 だが数ある放言のなかで、私がもっとも気になったのは、「九州の人間だから、東北の何市がどこの県とかわからんのだ」という発言だった。これには訳がある。

 学生のころ、仙台市に拠点を置く『河北新報』の社長に、話をうかがったことがある。社長は、東北ブロック紙の現状について語る前に、新聞の紙名の由来を説明した。「東北には、『白河以北一山(ひとやま)百文(もん)』という言い伝えがあります。戊辰戦争で負けてのち、薩長は東北を蔑み、福島県の白河の関から北には、何の価値も無いといった。意地でもその逆境を撥ね返してやる、とつけたのが、『河北新報』の名前です」

 この「白河以北一山百文」の出典は定かではない。東北をめぐる近代の言説をつぶさにたどった河西英通氏の『東北』『続・東北』(中公新書)によれば、1878年8月23日の『近時評論』誌の記事が、最初の記述だろうという。

 一般には、戊辰戦争の際に、官軍の将校が発した言葉という説が流布している。しかし河西氏の文献考証から、この言葉は、「一山:いちざん」と号した岩手出身の原敬が、1918年に首相に就任した前後、それまで「賊軍」「朝敵」とされてきた東北の名誉回復の機運が高まって、「官軍スローガン」説がつくられた、と推測している。

 いずれにせよ、東北では、「白河以北」という言葉は、西南日本による、いわれなき蔑視と差別を象徴する言葉なのである。

・・・・・・・・高橋富雄氏は『地方からの日本学 地方(じかた)日本学――方法と実践』(歴史春秋出版)の中で、一章を設け、「東北呪詛(じゅそ)」の響きをもつ「白河以北」の言葉がうまれる3つの要因を分析している。

 第一は、自然の要因である。弥生型生産様式としての稲作農耕は、暖国西南には適合しても、寒冷な東北には不向きだった。縄文時代には日本の中心だった東北も、その後は冷害、凶作、飢饉の常襲地帯になり、その運命は人為を超えていた。

 第二は歴史の要因だ。これは第一の要因が18・19世紀に長期的な天災となって顕在化したことを指す。宝暦、天明、天保と続いた凶作は未曽有の飢饉となって東北を襲い、「東北一円無一物」が常態化した。戊申戦争が惨憺たる敗戦に終わったのも、その経済的基盤に弱点があったからだ。

 しかし、「白河以北」が明治維新による「東北断罪」の言葉になったのは、直接には第三の政治の要因による。会津、仙台、南部をはじめとする「皆敵奥州」は、賊国として一切の政治的な特権を停止、剥奪され、その後も、政治的には「軟禁状態」、経済的には「禁治産者状態」に置かれた。

 高橋氏は、後に原敬がいうように、「戊辰戦争は政見の異同のみ」であった、という。それは原理的には五分と五分のたたかいで、「勝者」が「敗者」を断罪する覇道ではなく、結果に優劣を求めることをしないフェアな武士道によって遇するべきだった、という。

 だが、こうして「白河以北」に結晶化した「遅れた東北」のイメージは、歴史的には、より深い古代の地層から長い時間をかけて析出されたものだった。・・・・・・・・・・・・・・ 

 このように歴史をたどったうえで、高橋氏は、「東北的なもの」とは、「日本文化、あるいは日本史における未知なるものを典型的に代表するもの」だと定義する。

 縄文以来、東北の根に生き続けている元始的なもの、変わらないものは、「近代」のモノサシから見れば「遅れた」存在に映るかもしれない。しかし、文明が行き詰ったときに、新しい文明や文化を創造するエネルギーをもたらすものは、つねに旧来の「歴史」を超える超近代の「元始」であった、「東北的なもの」には、近代が行き詰ったときに、「もうひとつの日本」を構想する重要なカギが隠されているのではないか。

 高橋氏の基調講演は、「東北的なもの」の可能性を問いかけて終わっている。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~引用 おわり

 

 最後のフレーズに力がありますね。外岡氏は、「文学が被災者に希望を与えるのではなく、被災者が希望であることを教えるのが文学であることを知った」とまえがきで語っています、豊富な読書と知識、高い見識に裏付けられた、実に鋭い考察だと思いました。3年前の9月に、私も友人たちと青森・弘前・大間を旅行し、確かな東北の歴史は目に焼き付いています。

http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=2170

http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=2172

http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=2203

http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=2175

http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=2250

 

 5月の「メディアアンビシャス:http://media-am.org/」例会で、外岡秀俊さんをゲストスピーカーにお招きしています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

日時 5月15日(火)午後7時から(午後6時には開場しています)

場所 愛生舘ビル (札幌市中央区南1西5北西角、市電沿いビル:入
口は二つありますが、南側入り口から入った右手奥、 1階会議室)

講師 元朝日新聞 外岡秀俊さん(昨年3月末で朝日新聞を退社し、
ふるさと札幌に拠点を移して活動中)

テーマ 「大災害とメディア」、「マスコミとフリーの違い」等について
     ~~朝日を退職してゆっくり札幌で活動と思っていた矢先の
3・11、以前の阪神淡路大震災、中国の四川大震災等の取材経験を
踏まえて、今年になって出版した2冊の本も大変読み応えのある内容
でした。 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 例会の場で、彼の捉える今回の大震災・津波・原発被害について、さらに突っ込んだメッセージを期待したいですね。

測定しました、数か所の放射線量

Posted by 秋山孝二
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 以前から、札幌での放射線量を測ったことはありましたが、先日、北関東を移動中に数か所、新しい線量計でガンマ線だけですが測定してみました。

  「エステーエアカウンターS:http://www.st-c.co.jp/air-counter/」は、ガンマ(γ)線だけの測定で、以下の数値の単位は「μSv/h : マイクロシーベルト・パー・アワー」です。この器具では、「0.05」以下は、みな「0.05」での表示となります。札幌を含めて、今回「0.05」で表示された地点は、恐らくそれよりもさらに低い数値だと推測されますね。

 福島県会津若松市の「鶴ヶ城」にも線量計が設置されています(http://www.aizukanko.com/news/index.cfm#wn97)。因みに、鶴ヶ城公園本丸内の放射線量、5月25日正午は、「0.12 μSv/h」 です。

  単位 <μSv/h : マイクロシーベルト・パー・アワー>

札幌市内           0.05

羽田空港           0.05

アクアライン          0.05

千葉県館山市       0.05

東京駅地下          0.09

郡山駅前・外      0.24

郡山駅・内         0.14

猪苗代              0.08

会津若松市内     0.05

宇都宮駅・外       0.09

茨城空港・外       0.12

飛行機内              0.46

 傾向としては、郡山が高く、内陸に行くに従って低くなる傾向、それもバス・電車ともに、トンネルを抜けると格段に変化する気がします。茨城空港もやや高い、そして一番驚くのは飛行機の通路側座席で測った時の「0.46」という数値です。電車の座席も高いと聞いたことがありますが、飛行機内座席も同じ傾向があるのでしょうか、これについてはもう少し調べてみようと思います。

 今さらの気もしますが、線量の違いは見た目には全く分かりませんね、気温・湿度等とは違って、人間の五感では判別できない「放射線量の怖さ」が分かります。もちろん、線量「0.00」状態を望むわけではありません。おおよその「安全の目安的数値」はあるとは思いますが、瞬間的数値の意味だけでなく、「内部被曝」を含めた体内への長期的影響も懸念される「放射能汚染」、医療・研究機関のように狭い管理された空間ではない「環境」においては、「安全基準」はあり得ない、やはり人間の手には負えないものと理解すべきですね、そんな現場感をあらためて強くしました。何を言いたいのかというと、今回の爆発事故で環境に放出された放射線量と、病院等でのX線被曝を比較して、「大丈夫、安心です!」と喧伝する解説者・メディアがナンセンスだと、声を大にして叫びたいのです。

 それともう一つ、定時定点観測を継続的に公開していくことが重要です。「大丈夫」とか、「安全です」とか言うのではなく、淡々と現実の「数値」を掲載すること、そして、それを個々の人間が判断するレベルの見識を持つことが、3・11以降の日本で暮らす人々に必要なのだと思います。富山でお会いした金岡祐一先生(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=12594)が、おっしゃっていました、「正確なデータを継続的に公開すれば、世界の良質な研究者が信頼するその数値を基に、多くの貴重な考察・コメントを寄せてくれる時代でしょう」、「『風評被害』を言うのであれば、『風評加害』も同時に存在するはず」、と。 

 データに基づくしっかりした議論を、これからも身につけたいですね。