酪農学園大学http://www.rakuno.ac.jp/は、黒澤酉蔵が唱えた「健土健民」思想、および学理に基づく実学教育を理念としています。
酪農学園大学http://www.rakuno.ac.jp/は、黒澤酉蔵が唱えた「健土健民」思想、および学理に基づく実学教育を理念としています。
愛生舘のロゴマーク(高松保郎の家紋)「三つうろこ」は北條氏の紋としても知られていますが、私にとってはこだわりの一つなのです。秋山家の家紋は「まるに平井筒」で、愛生舘のロゴとは異なっています。随分昔に、明治時代の支部開設時に贈られた「愛生舘北海道支部の大鏡」が、暫くの間物置に仕舞われていた時がありました。会社の倉庫と共に遊び場としていた物置、隠れ家のようにいろいろな古い家具等が置かれているややかび臭い空間で、私は幼い頃にこの愛生舘の剥げかけた「三つうろこ」のロゴを不思議な感じで見ていたのを何故か覚えています。
東京の愛生舘館主高松保郎の死去後に、北海道支部長だった初代秋山康之進(私の曽祖父)が1891(明治24)年に「秋山愛生舘」を設立した時も、会社は家紋ではなくこの「三つうろこ」を引き続き自社のロゴとして、明治・大正・昭和・平成時代を100年以上生きたのです。私にとって、ものごころついた時からこのロゴに象徴されるように、「秋山愛生舘」はファミリーとは別の大切な「事業」でした。と同時に、初代秋山康之進が愛生舘事業継承への強い意志を持っていたと感じざるを得ません。
私は、札幌学院大学商学部(今年度から経営学部に改組http://www.sgu.ac.jp/management/index.html )の客員教授として、時々講義をしています。
先日は1年生200余名を対象に、「企業・組織と経営者の役割」と題して、経営の極めて基本的事項を伝えたつもりです。まだ、大学生活1か月少々のせいか、高校生の雰囲気も漂っていて、「経営」というテーマをどこの視点から、どの程度の深さまで語るのが適切なのか、若干の戸惑いもありましたが、別の意味では最初なので印象も強いはず、経営の面白さと楽しさも理解して貰いたいものとの欲張った気持もありましたね。「今という時代」、「日常活動としての経営」、「実際の社長の仕事とは?」、そして最後は「皆さんに期待する事」で結びとしました。今の閉塞する社会を打開するのは、間違いなくこの若い世代でしょう。
今年4月からの経営学部開設を記念して、数か月以内に「記念論文集」が電子情報で発行されると思います。そこに私も今回の講義と同じテーマ「企業・組織と経営者の役割」で投稿しています。この数年間、組織の責任ある立場の人間達の身の処し方に強い疑問を抱いていて、特に経営者の役割と責任の取り方について、こだわりを持っていました。「総無責任社会」とでも言えるような現状では、次を担う若い世代が全うに育つはずがありませんね。
ペギー葉山の「学生時代」の歌詞、「ツタの絡まるチャペル」で有名な青山学院大学http://www.aoyama.ac.jp/に初めて行き、片桐一男先生http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/%95%D0%8B%CB%88%EA%92j/list.html ご夫妻と20数年ぶりにお会いしました。
片桐一男先生は、すでに「愛生舘のこころ(1)」でご紹介しましたように、「松本良順と愛生舘」の研究を長年されています。6年前に青山学院大学を退任された後も、毎年全国各地で講演をされています。その中で、長崎におけるオランダ人ポンぺと海軍伝習・医学伝習、そこでの勝海舟、松本良順との出会い、長崎大学医学部との関係等、実に興味深い歴史の研究で高い評価を得ています。
ポンペ・ファン・メールデルフォールト(1829-1908)はオランダの海軍軍医。東インド各地で勤務中に、オランダ海軍による日本の海軍伝習第二次教育派遣隊の一員として1856(安政4)年に長崎に渡来、松本良順やその弟子の幕医・諸藩医学生を教育しました。このあたりに関しては、司馬遼太郎著「故蝶の夢」http://machi.monokatari.jp/a2/item_1362.html にも、少し語られています。
日本の近代化のはじまりは、「1853年ペリー浦賀来港」と昔から歴史で習っていますが、実はその10年近くも前に、アメリカのキャプテンクーパーが捕鯨船団長として、日本人漂流民22名を救助して浦賀に寄港しているのです。その辺の詳細は、寺島実郎さんのラジオ番組 http://www2.jfn.co.jp/tera/archive_doga.htmlの中で、「2008年10月の動画その2Vol.2」で紹介されています。砲艦外交などではなく、極めて人道的な目的での訪問であり、日本人がアメリカを目の当たりにしたまさに最初でした。その他歴史をよく調べてみると、この前後にヨーロッパ各国要人の訪問も数多くあったと記録されています。
そんな中で、江戸時代の外国との窓口長崎では、ポンぺが海軍伝習・医学伝習で滞在し、特に「近代西洋医学の父」として数多くの事業の種を蒔き、歴史にその名を刻まれています。1858年伝染病治療、1861年養生所・医学所の設立(長崎大学医学部の原点)等とともに、1848年オランダ王国が民主主義に基づく憲法を制定した時代の影響も受けて、ポンぺはその民主主義に立脚した医療を施した、と記録に明記されています。
彼の医学教育伝習は5年間に渡り、解剖学から物理学、薬理学、生理学他全般に及んだ一方、その講義を筆写し、日本語で分かりやすく復講したのが、松本良順でした。学びに集どった延べ40名を越える幕臣伝習生・諸藩伝習生は、松本良順の言わば「弟子たち」であり、それ故に「近代西洋医学のもう一人の創立者松本良順」と、今でも語られているのです。1861年養生所・医学所設立時、初代頭取となりました。長崎大学医学部の創立者であり、現在も大学構内にポンぺとともに顕彰碑として配置されています。また、創立150周年記念事業として長崎医学同窓会が記念同窓会館を建て替え、「良順会館」となっています。http://www.med.nagasaki-u.ac.jp/med/top/message.html
その後、良順は江戸への帰還を命じられて、1963年緒方洪庵逝去の後の医学所(東京大学医学部の前身)の頭取となりました。1866年幕府軍が長州征伐で敗退した時、大阪城で病む将軍家茂公を治療し、その臨終も看取っています。幕府の海陸軍軍医制を編成し、総取締になり、15代徳川慶喜の信頼も厚かったようです。戊辰戦争では江戸城明け渡し後に会津に下り、藩校日新館に野戦病院を開設し、戦傷兵をポンぺ直伝の軍陣外科で治療を行いました。会津落城後捕えられましたが、ほどなく囚を解かれて、1870年早稲田に洋式病院を設立しました。
1871年、山県有朋の請いにより陸軍軍医部を編成し、1873年初代陸軍軍医総監に就任したのです。この後に、多くの医学啓蒙書を世に出して、その中で「通俗民間治療法」により一般人に衛生思想の心得を広めました。同時に、高松保郎が館主の「愛生舘」事業の目的、庶民への衛生思想と安価な薬の普及にも共鳴し、全面的な支援を行いました。医師の診療を受けられない貧しい人々のために、自分が処方した三十六方(種類)の薬を安く手に入るようしたのです。また、庶民に牛乳を飲む事を奨励したばかりでなく、日本に海水浴を定着させたのも松本良順であり、予防医学、健康増進の先駆けです。現在も湘南の大磯海岸に記念碑が建っています。
社会が混乱し、国をはじめとする官の政策では間に合わない明治維新前後の時代に、自立した民間活動として「愛生舘」事業のこころがあったこと、私は今、21世紀における「愛生舘」事業の再構築の原点を見つけた思いです。
4月5日、チェコの首都プラハでオバマ米大統領は演説し、これまでから大きく舵を切り、「核のない世界」の実現に向けた新政策を打ち出しました。包括的核実験禁止条約(CTBT)を米国が批准することをめざし、核兵器原料の生産を停止する新条約交渉など具体的な施策に取り組む意向表明でした。
その中で、その後私が出席した幾つかのフォーラムでも、演者が紹介していたフレーズが下記です。大統領就任後は封印していた「Yes,we can」を、この演説の15分過ぎに久しぶりに語り、大きな拍手を浴びていました。「歴史的演説」との評価もあるようです。
http://jinandtonic.air-nifty.com/blog/2009/04/post-c97d.html
・・・・ So today, I state clearly and with conviction America’s commitment to seek the peace and security of a world without nuclear weapons. (Applause.) I’m not naive. This goal will not be reached quickly –- perhaps not in my lifetime. It will take patience and persistence. But now we, too, must ignore the voices who tell us that the world cannot change. We have to insist, “Yes, we can.” (Applause.)
Human destiny will be what we make of it. And here in Prague, let us honor our past by reaching for a better future. Let us bridge our divisions, build upon our hopes, accept our responsibility to leave this world more prosperous and more peaceful than we found it. (Applause.) Together we can do it.・・・・・・・
演説の内容もさることながら、「この時代のこの時期に、こう言った格調高い演説をするリーダーを戴くアメリカ国民が羨ましい」とおっしゃる日本国民も多いです。何を言いたいかはお分かりでしょう!
そして更にです、ミシェル・オバマも魅力的ですね。先日彼女の生い立ちを語る本も読みました。近い過去のアメリカに、これ程の人種差別が存在していたこと自体も驚きですが、そういった中でたくましく生きてきた彼女のこれまでの人生と、その彼女が現アメリカ大統領の妻、ファーストレディである事に希望を抱きます。http://ameblo.jp/100312120618/entry-10115328324.html
クリント・イーストウッド主演「グラン・トリノ」http://wwws.warnerbros.co.jp/grantorino/、伝説のインタビュー「フロスト×ニクソン」http://www.frost-nixon.jp/ は面白かったですね。
「グラン・トリノ」は、「硫黄島からの手紙」にも通じる78歳のクリント・イーストウッドのメッセージを感じました。音楽も印象的でしたが、自らの命の価値をラストシーンで見せつける、以前日本映画でも同じ様な衝撃を受けたのを思い出しました。「武士道」にもつながるいのちの終わり方の価値とでもいうのでしょうか。
チラシには「俺は迷っていた、人生の締めくくり方を。少年は知らなかった、人生の始め方を」とありました。フォード車「グラン・トリノ」を媒介として、老人から若者への命の繋がりを受け止めたつもりです。日本車営業の息子、朝鮮での軍隊経験等、アジアとアメリカとのこの間の歴史でも、彼は何か課題を提起したかったのではないでしょうか。
「フロスト×ニクソン」は、1970年代を彷彿させました。フロストの髪型もそれを象徴していましたね。「マスメディアの王座に駆け上がろうとする男:フロスト」と、「政界の王座から引きずり降ろされた男:ニクソン」とのインタビュー番組を通しての迫真の対決の経過は、次第に双方の立場が変わっていく様子が分かり、映像の説得力を感じました。
現実として、大統領経験者でウオーターゲート・スキャンダルで権力の座を引きずり降ろされたニクソン、過熱するメディア競争の中でスポンサー探しに奔走しながらも巨大アメリカ市場への野心を燃やし続けるフロスト、ともに日本の同様な経験を持つ人物と比較して、良い意味でも悪い意味でも目的達成への激しさと気迫を感じます。それぞれのスタッフ(陣営)の切れのある能力と魅力、延々と続く会話にも飽きることもなく、あっという間の2時間少々でした。
今年2月に設立されたメディア・アンビシャスhttp://media-am.org/主催の「裁判員制度とメディア」が開催されました。今回は1)制度に対する提言、2)裁判員になる人への提言、3)メディアに対する期待と提言、を目的としたパネルディスカッションでした。
今月5月21日から実施される日本の裁判員制度は、アメリカ型の「陪審制」ともヨーロッパ型の「参審制」とも違った独自の制度とのことです。http://www.saibanin.courts.go.jp/introduction/
制度に対する課題の提起、期待する事等、パネラーの方から発言があり、その後フロアーからの質問に対してのコメントもありました。「市民感覚」をどう刑事裁判に取り入れるか、制度開始以降も慎重に推移を見極めて、制度の修正に対しても真剣な議論が必要な気がしました。また、メディアのこの制度に与える重要性も指摘され、昨今の一連の過剰報道に対する不信感も強く指摘されていました。以下、幾つかのキーワードを書きとめておきます。
*本来は、「小さな政府」=「小さな権力」、と思いこんでいたが、実は「責任のアウトソース化」に過ぎず、権力は保持するという グロテスクな姿の一つが、今回の裁判員制度である
*現在の絶望的裁判の改革に別の方法がないのか、という素朴な疑問。検察有利には変わりはない
*「量刑の判断」を裁判員に課すのは、過大な負担ではないか
*迅速な裁判の手段としてこの制度導入があるとすれば、拙速な裁判への懸念の方が重要。国家が行う人権侵害に対しては慎重であるべき
*「公判前審議」に市民を入れなくて良いのか
*自由に辞退できないのは、「苦役の強要」ではないか: 参加する権利とすべき
*守秘義務があまりにも広すぎるのは、むしろプロセスの検証が出来ずに密室化する
*メディアの立場としては、取材できる部分がほとんどない
*この制度がなぜ必要なのか、国民に説明できていない――棚上げして導入したのではないか
*裁判のワイドショー化に拍車をかける危険性とメディアの裁判員判断への影響力
*当局の“ほのめかす供述”という発表について、本来の意味を捜査側・メディア側は承知しているが、国民は理解していない
*国民・メディアは検察の正当性を注視し、裁く対象は被告人ではなく、検察そのものである
*捜査中心から公判中心の報道へ
*被疑者の人権、犯罪者の社会復帰等の更生保護が重要
*これまでのようなメディアと世論の熱狂の中で、どこまで「市民感覚」が理性的でいられるのか
*権力の質的変化を促すのではないか: すなわち刑罰の質が変化し、国家のあり方が変わる
一生に一度とは言え、量刑判断までに及ぶ新しい「裁判員制度」、どんな分野においても新しい社会制度導入には、念入りの慎重な周知徹底と時間が必要であったと思います。そして今となっては、「仕方がない」ではなく、導入後も改革すべきは速やかに発言し行動する責任が、国民にはあると思います。「思考停止」であってはなりません。これまで私は裁判の傍聴には何回も足を運んでいますが、あの場の強い違和感は「タコ壺」の雰囲気です。分かる人が分かれば良いと言ったメッセージが法廷から発信されています。今回の新しい制度が、これまでの裁判官の市民への姿勢、及び裁判そのものの改革の風穴となる事を願ってやみません。
昨年の北海道洞爺湖でのG8サミットを機会に 、一昨年・昨年・今年と、国内・海外のNGO等を中心とした市民活動も大変活発でした。その中で、特筆する新たな動きの一つが、「世界先住民族ネットワーク AINU」の設立です。http://www.hokkaido-np.co.jp/news/donai/161450.html
先月、「創立の集い」が札幌で開催されました。その場で、昨年の「G8サミット市民フォーラム北海道」の共同代表として、私はご挨拶を致しました。http://www.kitay-hokkaido.net/
・・・・・・・一昨年9月にこの場所で、キックオフ・ミーティングが行われました。その時、「先住民族サミット」の企画説明の冒頭に結城幸司さんが、「今回、アイヌはお客さんとしてでもゲストとしてでもなく、活動当事者としてフォーラムを開催する。そして、過去を見つめると同時に、自分の子供・孫たち世代のアイヌ民族が堂々と胸を張って生きていける、そんな社会にすべく活動したい。」と力強く語ったのを鮮明に覚えています。昨年7月の市民サミットオープニングでは、アイヌアートプロジェクトがお祈りの舞い、クロージングでは木幡カムイサニヒさんが、先住民族サミットの成果報告をされました。一連の活動を傍で見ていた私には、自信満々に感じていましたが、終了後の報告会で島崎さんのお話によると、「財政的にはハラハラドキドキの連続だった」とか。・・・・・・
サミット後、「先住民族サミット」で得た力を糧に、それを担った方々が、「アジア太平洋女性法律と開発フォーラム会議」への参加、「第8回世界の先住民族教育会議(WIPCE)」への参加http://www.cais.hokudai.ac.jp/event/e_kouen.html、「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会http://www.kantei.go.jp/jp/singi/ainu/index.html」に対する提言等、一まわりも二まわりも進化した活動を展開していますね。先日の集いでもDVDを見ながら、大きな自信を獲得された姿を再確認しました。来年カナダで開催予定の「第2回先住民族サミット」はじめ、今年も幾つかの国際会議への参加等が当面の活動になるのでしょう。先住民族の人権獲得は、当事者の方々ばかりではなく、北海道民、日本国民一人一人の再認識の問題ですし、今後の多様な価値を認める社会づくりへの必須課題として、教育の優先順位の高い課題でもあるに違いありません。
明治維新の歴史認識にも関係しますが、「愛生舘事業」の歴史的背景は、ある意味で現在の状況と大変似ているのではないかと思います。
先日、長年の私の友人からメールを貰いました。
―――明治維新は、厳密な意味ではフランスやロシヤみたいに迫害された民衆が自ら闘って自由を勝ち得た”革命”ではありませんでした。あくまでも政治の面で捉えれば、単に江戸幕府衰退と共に雄藩が政権を握ったに過ぎません。
開拓期、そうした薩長土肥の藩閥政府が横行する初期、民衆に医療・公衆衛生を持ち込んだ松本良順や高松保郎の思想の源流、その彼らを中心とする「愛生舘事業」の実践は、ある意味では、すなわち必ずしも新時代の変革は「政治」の舞台だけではないという意味で、後年、藩閥に反発して立ち上がる自由民権運動よりも更に先んじた自由平等主義の実践者たちであったろうと思われるのです。老若男女が心身共に病むこの21世紀の日本が失った、取り戻さなけれなばならないエスプリが、愛生舘のルーツに秘められている気がしてなりません。それは蘭学が内包する”博愛”とか”弱者救済”精神に基づいた学問・技術・文化などが、質実的な面で明治時代の民衆を支えたと言えます。政治の暗闇に光を当てたのではないでしょうか。近代への道は決して政治力だけではなかったはずです。
黒船来航に伴い幕府が設立した長崎伝習所、勝海舟や松本良順はじめ、幕末のインテリが学んだ”蘭学”に内包する哲学は、タオ財団のワグナー氏の言葉「それぞれ民族の違いの主張ではなく、いかなる共通点を探し求めるか」とする、作品「哲学の庭」に通ずるテーマと言えるでしょう。貴兄の言葉通り「いのち」とは平和そのもの、世界共通語であります故、「人類愛」を意味するキーワードでもあります。
(注)タオ財団http://wagnernandor.com/indexj.htm ――――
全国的な愛生舘事業の中で、特に北海道支部のミッションは、北海道開拓を担う屯田兵の後方支援、及び全国から入植してきた開拓移民の健康維持・向上でした。1891(明治24)年、東京神田の館主・高松保郎亡き後は、北海道支部長だった初代秋山康之進が自らの名前を掲げて自立し、「秋山愛生舘」となりました。愛生舘事業の理念は、自社販売していた「通俗民間治療法」の中に明確に示されています。「山間僻地までの医薬品供給、医師の診療を受けられない病人の救済、貧者・弱者への施薬、すなわち、利益追求ではなく、あくまでも民間の衛生・治療の便益を図る事を最優先にする」、それが事業の目的であると書かれています。この理念を継承し地場企業として、秋山愛生舘は北海道の地を基盤に、第二次世界大戦後1948(昭和23)年には株式会社として法人化し、私は1991(平成3年)6月に第五代目社長に就任し、1992(平成4)年には札幌証券取引所上場、1997(平成9)年に東京証券取引所市場第二部上場となりました。その後、(株)スズケンhttp://www.suzuken.co.jp/ と資本・業務提携を経て合併し、北海道は「愛生舘営業部」として、今も活動しています。
私は2002(平成14)年11月に(株)スズケン代表取締役副社長を退任しました。その後、故郷札幌に戻り、これまでの(株)秋山愛生舘の108年の活動を振り返り、持続する企業として3本の論文にまとめました。
「地域企業の持続的経営の分析」http://ci.nii.ac.jp/naid/110004813846以下、「地域企業の進化の分析」http://ci.nii.ac.jp/naid/110004813848/、「持続的経営論」http://ci.nii.ac.jp/naid/110006392571/と続きます。
一方、(株)秋山愛生舘の100周年事業の一環として、それに先立つ1987(昭和62)年1月に「(財)秋山記念生命科学振興財団」を設立しました。http://www.akiyama-foundation.org/ 「地域社会への貢献」という理念の実現は、医薬品販売の事業から更に発展して、愛生舘事業の理念を根幹に、財団の助成・育成事業として継承・進化しています。
何回になるかは分かりませんが、「愛生舘の『こころ』」シリーズを始めます。
人との出会いは、いつも劇的ですね。暫くの時間経過後に、何か気がつかなかった糸で結ばれていたのを感じる時があります。青山学院大学名誉教授の片桐一男先生http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/%95%D0%8B%CB%88%EA%92j/list.html は、そういった数少ない方のお一人です。
先日「幕末史研究会」http://blogs.yahoo.co.jp/bakumatsushiken/8871554.html に参加した方から、今年1月例会で配布された、「松本良順と『愛生舘』」という資料のコピーを頂きました。長崎海軍伝習所で行われた医学伝習で、蘭学のポンペから学んだ松本良順http://www.bakusin.com/ryoujyun.html。江戸に帰って取り組んだ衛生思想の普及活動、その実践である「愛生舘:あいせいかん」事業の狙い等がその内容です。後に初代陸軍軍医総監に就任した松本良順は、実父・佐藤泰然が創設した順天堂大学http://www.juntendo.ac.jp/ とも深い関わりがあります。20数年ぶりに、片桐一男先生のお名前を身近に拝見しました。
愛生舘事業というのは、松本良順処方の「愛生舘三十六方」(三十六種類の医薬品)と、著書「通俗民間治療法」の販売を行った民間事業体です。高松保郎が館主となり、1888(明治21)年に創設されて、本部は当初は東京市神田区駿河台北甲賀町、3年後の保郎の没後に神田岩本町に移り営業しました。売薬の三十六方は、輸入洋薬で、「通俗民間治療法」にはその三十六方の処方内容が平易に解説されて、医師不足で医療の行き届かない辺境の庶民に、親しみやすいように工夫が施されています。その全国的普及は当初からの目的であり、組織的に活動が展開されていました。
北海道で108年間続いた医薬品卸業、(株)秋山愛生舘のルーツは、まさにこの愛生舘事業にその原点があります。片桐先生は、この(株)秋山愛生舘のそもそもの事業主「愛生舘」に関する研究の第一人者です。松本良順先生と愛生舘との関係、館主高松保郎の人物像等、大変貴重な研究の数々を残されています。
北海道デザインマネジメントフォーラムと十勝農業イノベーションフォーラムhttp://t-afi.net/ が共催で、パネルトークセッションが開催されました。その中のパネラーの一人、鈴木善人さんhttp://www.leaps.jp/?page_id=3 は、十勝マネジメントフォーラムの代表者で、秋山財団のネットワーク形成事業の一つとして支援をさせて頂いてます。
各パネラーのお話で、「農業」と「経営」と「デザイン」というマルチな視点から現在の活動を捉えて、北海道農業の課題みたいなものも浮き彫りになったような気がします。食糧に対する国民の関心は、この所の安全・安心、自給率等の話題とともに、メディアでも大変注目されていますが、現場の担い手と言えばことの他高齢化し、実際に食物を口にする方々との距離は相変わらず隔たりがあるのが現状かと推察していました。
そんな中で、先日のフォーラムのパネラーの方々の実践とメッセージは、新しい時代を担う情熱に溢れて、大変今後に期待を抱かせる内容でした。批判・評論をする事は簡単ですが、こと農業に関しては、毎日の生活に直結する活動として、実践を伴っていなければ意味がありません。これまで良く言えば「聖域」、悪く言えば「タコ壺」と、かなり限定された方々の領域という印象が強かったのですが、最近は企業経営のイノベーションといった発想、「農業セクター」としての認識による投資家の注目度、農業の楽しさアピールによる「まちおこし」的発想等、一歩突き抜けた実践も多く見られるようになりましたね。年明けにある証券会社を訪問した時に、日本の地域農業への投資フォーラムでは、投資家の方々で満員盛況だったという話も聞きました。実体経済活動としての農業セクター、将来有望なセクター、そして、北海道の強みを活かす有望分野として、いま注目しないでいつするのでしょうか。
「生産者」と「消費者」といった従来型の枠組みではなく、「市民」とか「生活者」とかの新しい立ち位置から農業及び食の獲得を考えなおしたいものですね。全国各地に新しい活動の実績が数多く出現している事は、大変力強い動きだと思います。
以下、印象に残ったキーワードです。
* 農業者から農業経営者へ:「顧客を創造する」視点に立ち、自分の「強み」「弱み」、自分で売る、値段をつける意識へ
* 企業化への努力:何の為に活動しているか、「思い」を「形」に
* “もったいない”がキーワード:「遊び」の大切さ、面白がること、覚悟すること、東京有楽町「とかちの・・・」 http://r.gnavi.co.jp/p737100/ の実践
* 農業の魅力は、圧倒的な自然の魅力
日経BP社創立40周年記念シンポジウムが東京で開催されました。http://corporate.nikkeibp.co.jp/40th/
テーマは「日本を救うイノベーションの力」で、鈴木敏文氏、倉重英樹氏他が、大変示唆に富むお話をされました。経営者の話は実体験に基づき、大変分かりやすいですね。ある種当り前の言葉の中に、きらりと輝くフレーズが隠れていて、同じ場を共有出来て良かったと思う場合が多いです。以下、記憶に残る言葉を幾つか。
セブン&アイ・ホールディングス 代表取締役会長 最高経営責任者(CEO) 鈴木敏文 氏
変化の激しい顧客のニーズ、マーケットの動きを、実に正確な現状把握をされていました。動きをタイムリーに捉える体制と、その情報が鈴木会長に日々届いているという社内の情報共有に感動します。
* 2000年頃から「消費飽和」の進行、値下げしても価値がなければ売れない状態、そして今は、「購買意欲を刺激しなければ売れない」時代
* 「変化への対応」は、時間を掛けていては意味がない、2か月程度で対応策を仕上げて実施すべき
* ファミリーレストランの厳しさは、「ファミリーの崩壊」による所が最大の理由、一人・二人ブースの大幅増へ
* 消費は極めて心理的:「現金キャッシュバックセール」――今は、価格に対する信頼を失っている。「2割引」、「3割引」の表示は誰も信頼していない。「現金で返す」手ごたえ、お客さんが「ありがとうございます」とおっしゃる。「55品目下取りセール」――「捨てる」のではなく、「下取り」して換金する、等大盛況だったイベント
* ネットビジネスの伸びを踏まえた、リアル店舗とネットとの融合
* 消費パターンの変化が進行: 「変化への対応」と「基本の徹底」、それがイノベーションの力
シグマクシス 代表取締役CEO 倉重英樹 氏
IBM時代に、当時私が社長をしている札幌の会社にも訪問して頂きました。その時の情報に対する見識の高さは、今でも忘れる事が出来ません。その後、コンサルティング会社の経営幹部、そして起業と、そのたびに幅を一層広げて厚みを増したような気がします。新しい時代の企業における人的資源の重要性を良く認識されている印象を持ちました。
* スピードを上げる事は企業競争力を高める事だったが、人間をハムスター化する。人生のスピードにプレーキを掛ける必要
* イノベーションとは「多様性のシナジー効果」、企業の成長を個人の幸せにつなげる時代
* 規模の経済性・効率性追求の時代は、画一性マネジメントが機能する
* 協働の経済性・創造性追及の時代は、多様性マネジメントが機能する :価値の大転換
* ワークスタイルの変革は、従来は「スタンダード」&「ネゴシエーション」――組織人、最近は「プロフェッショナル」&「コラボレーション」――自立人、自律人
* 21世紀は「ひと」の時代――イノベーション、リーダーシップ、ライフワークバランス、コラボレーション等、みな「ひと」に絡む課題ばかり
* 能力とモチベーションにおいて、「楽しさ」は全ての源泉
評判の弘前のサクラを一目見たさに、出張のついでに足を延ばして行きました。来週から始まる桜まつりの準備で作業員の方が大勢、忙しそうに働いていました。すみずみまで良く見て回りましたが、当日現在で開花は間違いなくゼロでした。
岩木山は真白の美しい姿で圧倒的な存在感でしたね。弘前公園内の沢山のサクラの「木」も見事でした(?)!!地元のお酒2種もコクがあって美味しかったですよ。今回は下見、来年のサクラのお花見には、またゆっくり来てみたいですね、そんな期待感が一層膨らみました。
「じょっぱり:六花酒造(株)http://www.joppari.com/」、
「豊盃(ほうはい):三浦酒造(株)http://www.tutitatu.com/sake/houhai.html
今から6年前の秋山財団主催の講演会で、東京大学大学院・農学生命科学研究科教授・樋口広芳先生が、「鳥の渡りと地球環境の保全」http://www.justmystage.com/home/hhiguchi/index.html と題して特別講演をされました。シリーズの財団ブックレットとしてまとめてあります。その中で、この非武装地帯が多くの鳥の渡りにおいて重要な中継地となっている事実が、発信機を付けた渡り鳥と人工衛星によるデータで明らかになっている事を力説されていました。非武装地帯は立ち入り禁止区域で、ごく一部を除いて人間の活動は全て禁止されています。また、隣接する緩衝帯では、経済開発も強く規制されています。それゆえに皮肉にも、渡り鳥にとってはいわば聖域、安住の地になっているというのです。国境を越えた自然界にとって、非武装地帯はまさに地球上で数少ない理想的空間となっているのでしょう。そう言えば、昨年行った時も、道端に実に綺麗なキジを見つけました。
歌の「イムジン河」http://protestsongs.michikusa.jp/korean/imjin-river.html も懐かしいですね。ソウルから板門店に向かう途中で、しばし道路と並行して流れていました、この河があのイムジン河で向こう側が北朝鮮か、と。
「ふるさとをいつまでも 忘れはしない、イムジン河水清く とおとおと流る」、あの時代の香りですね。
この非武装地帯(DMZ)は、1953年7月、朝鮮戦争の休戦協定の締結とともに作られた区域で、南北それぞれ2キロメートルずつ(幅4キロ)、東から西まで総延長241キロメートル、総面積6,400万坪の広大な地域です。北朝鮮にとっての歴史認識では、今も交渉相手は国連軍(実質的にはアメリカ軍)しかなく、南北朝鮮問題ではないのでしょう。今一度きっちり振り返りたいのは、朝鮮戦争の位置づけと、更にさかのぼれば第二次世界大戦の日本とアジア諸国との関係性、そして戦後の構図だと思います。
今回の打ち上げ実験でも、ひとえにアメリカに対するデモンストレーションであり、日本への攻撃等と敢えて喧伝するのは、例によって日本メディアとそれを使って防衛予算を増額しようとする輩の思惑に違いありません。「誤探知?」と聞いた時に、とっさに私は「臭うな」と思いました。間違った事が不安なのではなく、これを材料に「システム整備・構築予算」の要求だの、日本の防衛力の不備等の議論の盛り上がりを期待する勢力の画策が「臭い(くさい)」のですよ。
今回は中央官庁の防衛省が「国防」の視点から対処・準備・喧伝し、東北地方をはじめとする各市町村が行政の「防災」の視点から現地で体制を取っていた、と理解出来るのではないでしょうか。自衛隊の活動を接点として、この違いを無意識にも、意図的にも混合してはならないと思います。
いずれにせよ、相変わらずの日本外交の貧弱さを痛感しています、公式発表はともかく、複数の人的パイプがないというか。外交上は、今こそ、東アジアにおける平和と安全に関して「非核化」をキーワードにして、日本は本来のリーダーシップを発揮する時だと思います。そして、一味違う視点として、自然科学者・環境科学者を中心として、たとえば「オホーツク海の生態系」、「北東アジアの大気汚染」、「朝鮮半島の生態系」といったテーマでの、周辺6・7カ国ネットワーク形成プロジェクトを、日本がリーダーシップを取って場の構築等は出来ないものでしょうか。
過去の歴史を受け止めながら、21世紀的テーマの新しい構想の中で平和の時代を創る、そんな時代なのだと強く思います。
このところ新聞記事で、「カジノ誘致でまちづくり」を何回か読みました。複数の北海道のまちが、町おこしの企画として検討している内容ですが、正確には、どなたかが町にそんなプランを持ち込んでいる、ということでしょう。以前札幌市にも議員数名から話があったと聞いています。
私は昨年9月に香港に出張する用事があり、台風接近中ではありましたが、ひととき自由な時間も出来たのでマカオに日帰りで足を延ばしました。その時にも道内の「カジノ誘致によるまちづくり」の企画が思い出されて、何か気になっていたのです。今、本気で「カジノ誘致」でまちを創ろうとお考えの方がいらっしゃるのなら、世界のカジノで成り立つまちを真剣にリサーチされているのか、お尋ねしたいのですよ。沢山の議員たち他の日本人が、「視察旅行?」でモナコ、ラスベガス等も訪問している事実もありますから。
マカオ観光局公式サイトには、『2005年7月、南アフリカで開催された第29回ユネスコ世界遺産委員会において、マカオの22の歴史的建造物と8カ所の広場が「マカオ歴史市街地区」として世界文化遺産に登録されました。中国の世界遺産としては31番目の登録であり、世界で三番目に多く世界遺産を持つ国となりました。』とあります。
約450年の長きにわたり、マカオでは中国とポルトガルの両国民が文化を融合・共有してきましたが、そもそもは16世紀半ばにポルトガル人航海士たちがマカオに居住を始めたことに始まります。遺産登録された歴史的建造物に教会が多いのはその証であり、彼らがもたらした西洋的な社会インフラ技術や建築遺産の数々が、中国の伝統的建築物に囲まれ完全な形で保存されている姿に、マカオの世界遺産たる価値があるようです。
また、観光パンフレットには、「マカオ歴史市街地区は世界遺産ではありますが、立ち入り禁止区域になったり入場料が必要になったということはありません。旅行者にとって世界遺産は観光の対象ですが、マカオ市民にとってここは今なお生活空間そのもの。また建築物・史跡など有形のものに限らず、様式、宗教的寛容さ、食文化など多くの無形文化が街とともに共存しています。マカオはまさに街全体が歴史・文化の博物館なのです。・・・・・・・・」とも書かれています。歴史と今の暮らしとの位置づけを表現していて、理想的な観光資源と読み取れました。
ところがです、すでに行かれていてご承知の方も多いとは思いますが、マカオのフェリー乗降場に近づくにつれてまず目に飛び込んで来るのは、金色に輝く異様な建物・ネオン群でした。観光局公式サイト・観光パンフレットとは大きく違い、外観がカジノ一色の違和感は、価値のあると言われている文化の融合・共有とは程遠く、喉の渇きを覚える光景でした。そして、外観だけではありません、簡単な見学ツアーで数十分、あるカジノの中を巡りましたが、パソコン操作によるゲーム台は、およそ面白さとは無縁な感じの無機質で、ただ一つトイレの立派さが際立っていました。人の体から出てくるものはどんな場所でも同じだというのにですよ。
アジアでカジノでのまちづくりを本気で構想するのなら、マカオを越えるようなプランになるのでしょうが、北海道のどんな都市も、あそこまで今ある資源を台無しにしてはいけないと思います。「目を醒ませ!」、思いつきならすぐに撤回すべきですし、まともにそんな企画を提案するのなら、もう一回顔を洗って出直して頂きたいと思いますね。とても責任のあるお話とは受け止められません。
人の話を聴いたあと、あるフレーズがずっと気にかかっている場合があります。
「メディア・アンビシャスhttp://media-am.org/」という任意団体が今年2月に始動しましたが、その時のゲストとして、東海テレビプロデューサーの阿武野勝彦さんがご講演をされました。彼の話の中で、自分が制作したドキュメンタリー番組を見たある方が、いとも簡単に「面白かったよ」と言ったというのです。阿武野さんはとっさに「一生懸命創った作品としての番組を、ただ消費された気がした」とおっしゃいました。私はその時の「消費」という言葉が、妙に心に残っていて、自分の中にある「使い捨て」の意味に近い「消費」に対する嫌悪感と共通なものを感じました。
「食」分野でも、スーパーマーケットの総菜売場が拡大しています。思い返せばもう40年も前ですが、私が学生時代に千葉県市川市で自炊生活をしていた時、コンビニも無かったし、スーパーに総菜売場などはそれ程無かったように思います。私は昔から、自分で調理するのは嫌いではなく、いや、むしろ一人で外食する方が、注文してから運ばれるまでの沈黙も含めて楽しくもなく、かなり自分のアパートで食べ物は作っていました。お皿に盛ることを省いて、鍋から直接食べたり、料理中に味見をしながら結構おなかが膨れたりではありましたが・・・。当時は、ニンジン・ジャガイモ等も一袋がかなり大きくて、一度買ってくると何日も保存するか、同じ食事を続けるか、それもまた良き思い出でした。
10年程前に、名古屋市内に単身赴任した時、学生時代と同様に私は住んでいたマンションの台所で自炊をしていましたが、学生時代とは違って、スーパーでの野菜・果物の一袋が、随分小さくなっている事、プラスチックトレイとか袋が極端に多くなっている事から、時代の変化を感じ取りました。同時に閉店時刻が深夜或いは24時間営業というお店の多いのにも驚きましたね。夜遅く出張から帰ってきても買い物が出来る便利さは確かに捨て難かったし、自分の部屋の小さな冷蔵庫の存在感は以前よりも格段に下がっていたように思います。それまでの間、札幌でもスーパーには家族と一緒に日常的にも行っていたのですが、全くの運転手或いは荷物持ちとして「ついて行っているだけ」の存在だったので気がつかなかったのでしょう。
この傾向は、私のアメリカでの経験でも同じでしたね。19歳でアメリカに初めて行った時と、それ以来度々アメリカに出張してスーパーマーケットの売り場を見た時とでは、「サラダバー」の出現とか、或いは逆に「COSTCO」のような倉庫の中に入って行ったような超大型店とかが出来てきて、大きな消費者の行動変化を感じました。
何を言いたいのかといいますと、「調理」というプロセスは、「食物」を作り出すただの手段のみならず、調達・調合・待機・熟成等の知的総合活動だと思うのですよ。その面白さ・価値を外部に簡単に「委託」して、安易に「食物」を手に入れる、そんな安っぽさを私は「消費」という言葉に強く感じるのです。買ってきてすぐ食べてお仕舞いみたいな、貴重な自分固有の食文化もへったくれもないではありませんか。たとえば、ゆで時間5分の乾麺を3分半の固めで食べるとか(これは文化といえる程のものではありませんが)、今日のつけタレは濃いめで食べようかとか、生産者の苦労に思いを寄せるとか、ですよ。あてがいぶちでは満足しない自分固有のスタイルというのがあるのではありませんか。
昨今の社会をこんな視点から振り返ると、同じような構図が見えてきます。例えば「教育」では、人を育てるというのはどんな場でも、本来は毎日向き合った中での格闘ですよね。喜怒哀楽、理屈では解決できない感情のぶつかり合いの連続でしょう?それ故に人間関係の微妙さ、社会の複雑さをその過程で学んで育つのだと思います。そのプロセスを本当にいとも簡単に他に手渡してしまう、自分の見えない場に遠ざける、せっかくの機会を手放してしまって、もったいないと言うか何というか。
メディアの情報もそんな気がします。最近の日本国民は、情報を「消費している」に過ぎないのですよ。「原材料」としての情報ではなくて、「総菜」としての情報に終始している、そんな感じです。提供者が悪いのか、消費者が悪いのか、意見の分かれる所かも知れませんが、奥行き・味わいがないのです。材料を使って自分流に解釈する、考える、組み立てる、そんな「構想力」を、優れた仲間とネットワークとともに、磨き続けたいものです。
平成20年度が終了しました。今振り返ってみても、、まさに歴史的な年度でした。昨年9月からの世界金融恐慌は、まだまだこれからも予断を許しません。一番心配するのは、日本国内の新聞・テレビ等のメディアが、その悪化していく状況に対して、理由もなく楽観的に過ぎるところです。日々の暮らしと世界経済が遮断されていて、空虚な笑いと騒々しさの中に、人々の価値観が「漂流」してしまっている気がするのです。そして何かの折にそんな事を口走ると、途端にバッシングにあうような雰囲気が蔓延していて、なお一層気持が滅入ってきます。
私は、だからと言って沈み込んでいる訳ではありません。むしろ全く逆で、向こう数年を厳しく予測するゆえに、今やらなければならない基本的な事が見えて来ているし、ここしばらくは、本来の経済活動を取り戻す過程と位置付けられると思うのです。現在の状況が、過去からの結果ではなく、未来の予兆と考える方法は、新しい視点の獲得として大変有効ですね。
異業種の方々との月例会「サンプロ21」は、いつも大変刺激になります。それぞれのフィールドでしっかりした理念の下に活動されている方々の姿は、自分にとって最高の学びの場です。
今月はたまたま、「札幌の農業」についての話題が続出し、まず、知らない現実に気がつきました。と同時に、何となくは想像していたことが、説得力のある統計数字で裏付けられたとも言えます。たとえば、農家数が激減していて、とりわけ兼業農家の減り方が顕著なこと。農産物販売金額規模別農家数では、年間200万円以下が圧倒的に多いこと。更に法人化率が、わずか1.7%とのことです。「都市近郊農業として何をしたいのか」、「顧客は誰なのか」等を明確にして、速やかに担い手の育成ととともに、農業経営の企業化支援が急務との報告がありました。190万人の人口を抱える大消費地に近接する優位性を活かして、新鮮な食物を提供出来る環境は、これからの持続可能性から言っても有望ではありませんか。
またある方は、これまでは「土地の売却先」が主たる興味となっているので、そうではなく、「農地は社会資本である」という大原則から、「札幌のインフラ」と考えるべきではないのか、と都市近郊農業の再生に、市民の意識改革と政策立案を指摘する意見も出ました。
3月15日の朝刊に、「きらら」時代に幕、という見出しで、「ななつぼし」が食味向上・耐冷性で優位に立って作付が逆転したと報道されていました。更に新品種の「ゆめぴりか」も今秋には登場予定で、世代交代も加速するとの予測も出ていました。北海道の水田がここに来て注目されていますが、水田のフル活用には「食」、「米粉」、「エタノール」の三つの用途を考慮するのが重要との報告も先日の会で提起されています。
「自給率の向上」と総論の概念的な話より、身近な自分たちの日常の食生活をどう変えていくのか、それが問われているのでしょう。アメリカのミシェル・オバマ大統領夫人が、ホワイトハウス内の芝生を剥がして、菜園を作り始めたとのニュースを目にしました。まさに、最も身近な「庭を耕す」ところから、持続可能な地球を考えるというメッセージを発信する、ただ者ではない雰囲気を感じさせますね。http://www.cnn.com/2009/POLITICS/03/20/white.house.garden/index.html
比較にはなりませんが、私自身、5年前からささやかな自宅の庭の一部を耕し始めています。ほぼ時を同じくして、札幌市西区小別沢にあるNPO法人あおいとり http://homepage.mac.com/onnn/ が企画・主催する「農的くらしのレッスン」http://homepage.mac.com/onnn/Aoitori/Lesson_Home.html を受講し、また千葉県鴨川市の鴨川自然王国が主催する「里山帰農塾」http://www.k-sizenohkoku.com/satoyama/satoyama_top.htmlにも参加して、座学・実習で学びました。今、「農的くらしのレッスン」卒業生を中心として、「庭しんぶん」http://homepage.mac.com/niwa_niwa_niwa/index.html も発行しています。
長く「企業戦士」だった私は、最も身近な「土」との対話を通して、遅ればせながら「持続可能な地球」を体験し始めています。始めた頃は収穫が楽しみでしたが、この所は種を捲いてから芽を出す瞬間の日々を愛おしく思います。友人には、広い土地を確保して、本格的に農作業を行っている方々も多く、新しい時代の到来を感じています。私の場合はまだまだぎこちなく、また今後農業に従事するつもりもありませんが、スーパーで食品を買い求めながら、「農的くらし」を目指してはいます。ただスケジュールがたて込んでくると、直ぐに昔の「勝とう負けまい」精神に逆戻りするのではありますが。ベランダ菜園、家庭菜園、週末農作業等、農的くらしは多様で、中でも「半農半X(エックス)」的ライフスタイルは、なかなか素晴らしい生き方のような気がします。