この全国公演を北海道演劇財団http://www.h-paf.ne.jp/もお手伝いしています。主演の中村雅俊は私と同じ年齢、企画・原案の堤幸彦もほぼ同じ年齢、脚本・演出の鴻上尚史は年下です。会場には若い世代のお客さんも予想以上に多く、ロビーには「キーワードの解説」と称して、「シュプレヒコール」「バリケード封鎖」「「ナンセンス!」等の言葉の丁寧な説明が掲示されていました、隔世の感でしたね。
芝居の冒頭からあの時代の記録フィルムで一気にタイムスリップです。この舞台が大学ではなく高校である設定が、一層面白さを増しているのでしょう。「自主的文化祭」とか、「主体性」とか、今の高校生には何を言っているのか理解が難しいですね。一方、「ムカつく」とか「ラップ」は、今でも私には違和感があります、理解しているつもりではいますが。
この数年私はある高校の「評議員」をやっていまして、年数回校長室で、今の学校教育に関して校長・教頭に意見具申を行う機会があります。「具申」といっても、むしろ私たちが現在の現場教育の説明を受ける場面が多いのですが、特に「総合学習」のプログラムには大変斬新で目を見張るものがあります。この芝居を見ていて、もし今私が高校のある教室で現役高校生と語る場面があるとすると、中村が扮する「山崎」同様の存在かと思わず一人で苦笑いでした。
会場で配布された「ごあいさつ」の中で、鴻上尚史さんが書いているフレーズで全く同感な部分がありましたので、引用します。
ーーーーーーーーーーーーーーーーアナログで、つまりフィルムで撮った写真は、時間の経過とともに劣化します。色が落ちたりセピア色が強くなったり、輪郭がぼやけたりします。けれどデジタルで撮った写真は劣化しません。ビデオテープも同様で、昔買った名画のビデオテープは段々古くなります。10年経ってもう一度見る時、私たちは物語と共に“時間”も同時に体験するのです。けれどDVDになった作品は、もう時間が忍び込むことはありません。
人間の記憶は時間と共に劣化します。色鮮やかだった記憶は段々とぼんやりしてきます。どんなに忘れたくないと思っていも、どんなにこの瞬間を永遠に覚えておきたいと思っていても、人間の記憶は劣化します。私たちは哀しいけれど時間に振り回される存在なのです。
色褪せていく写真も、輪郭がぼやけていくビデオテープも、そういう意味でまさに人間の記憶と対応していました。色褪せた写真は、「過去」とは何かを具体的に人間に教えてくれました。「過去」とは記憶の色が落ち、輪郭がぼやけるということ。けれどデジタル写真は人間の時間を無視します。DVDに記録された風景はどんなに時間が経っても人間の記憶とは無関係に鮮やかであり続けるのです。
時間に振り回されることが哀しいと書きましたが、時間と共に記憶が色褪せていくからこそ、生きていこうと思えるのです。時間と共に劣化しない情報に囲まれながら生きていくことは、たぶん、無意識に息苦しい人生を送るということだと思います。そして、劣化しない映像を見ていると、現在の自分の身体が劣化していることを強烈に意識させられます。永遠を前にして、自分の存在が必ず劣化して死ぬ存在だと突きつけられるのです。十代か二十代、自分の人生が永遠に続くと“誤解”できる間は、デジタルの永遠を愛せるのだと思います。そして、いつの間にかデジタルの永遠は、自分の人生の有限を鮮明に教えてくれるようになるのです。ーーーーーーーーーー引用おわり
時の経過と記録映像と人間の記憶について、輪郭がぼやけていく、色が褪せる、そのことが生きていく糧になる、最近つくづく私はそう感じます。忘れるメカニズムを人間に備えたこと、それは「いのちの最高のシステム」だと思います。コンピューターの「Delete」とは違う、まさにぼやけていく微妙な感じですよ。
「ヘルメットに書きたい言葉は?」との質問に、出演した役者の方々がそれぞれ自分なりの言葉を書いていました。「Never Say Never」、「PEACE」、「生きろ!」・・・・etc。もし今、私に問われれば、私は「絆:きずな」と書きたいですね。
11 月 2nd, 2010 at 8:37 AM
[...] まわるまわるよ、時代はまわる、そんな時代をひた向きに生きた人生の軌跡は、節目の今年、人々に多くのメッセージを与えます。昨年7月に書いたこの欄を思い出しました(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=1600)。 [...]