アウシュヴィッツ、・・・・ (4)

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 アウシュヴィッツに拘束された元ポーランド・パルチザン(秘密抵抗組織)、後に初代博物館館長のスモーレンさんの2時間近くのお話からいくつかを書き留めます。彼はユダヤ人ではありませんでしたが、ポーランド政治犯として突然拘束されました。

*秘密抵抗組織は結成したがメンバーに実践歴がなく、ヒットラーのテロで多くの犠牲者を出した

*1940年4月15日、自宅に突然ゲシュタポが来訪し、連行された。2・3時間のつもりが、戻って来れたのは5年後だった

*1940年6月14日にポーランド政治犯728人がアウシュヴィッツ強制収容所に入れられたのが最初

*1941年ナチス司令官ヒムラーが来訪。増設命令により、10万人規模の第二(ビルケナウ)、4000人規模の第三(化学工場)収容所の建設に従事

*最も大切なことは、目と耳を使って「働いた振りをすること」だった

*1942年後半以降は、囚人番号は実際の入所者の半分程度、残りは「収容所」ではなく直接「ガス室」送りだった

*ポーランド人の村人は、5・6キロ離れた所に疎開させられた。収監されている人と一般ポーランド人が、抵抗行動で連帯していた。「収容所の様子を外へ伝える事」が最も価値のある活動だった。脱走して伝えるのが一番効果的ではあったが、見つかると銃殺刑だった。ナチス軍人は射殺すると3日間の休暇が与えられていた。「生きてこの現実を世界に伝える」ことこそ、最大のレジスタンス

*ビルケナウは湿地で、脱走しても臭いをけしてくれるので、ナチスの犬を使った追跡をかわす事だ可能だった

*ロシア軍が東から迫り、不安になったナチス親衛隊は、戦争責任を隠そうと「モーラ計画」を策定し、ビルケナウに収監した人々の皆殺しと施設の破壊を企てた

*1945年1月18日に死の行進が始まり、アルプスの近くまで移送された。5月6日にアメリカ軍により解放されて、5年ぶりに故郷に戻り、法学部学生となった。戦後はニュールンベルグ裁判で証人として出廷したが、ナチスの被告たちはウソをつくか押し黙っていて、謝罪の言葉は全くなかった。

*ビルケナウに到着間もない200枚の写真には、死体は写ってなく静かではあるが、現実は家族を探す絶叫が2・3時間は続いたはずである

*100万人以上の人が殺された事実を想像することは難しい

列車の引き込み線

列車の引き込み線

ビルケナウ収容所外から

ビルケナウ収容所外から

アウシュヴィッツ、・・・・ (3)

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 中谷さんの1時間半を越える説明から、幾つか印象に残ったフレーズを書き留めておきます。

*「よそ者」の自分には、このアウシュヴィッツの意義が一層理解できるhttp://www.hanmoto.com/bd/isbn978-4-7736-2907-1.html

*人道的に許せない、という視点ばかりではなく、20世紀のある時期に「国策として」実行された歴史的事実と認識して頂きたい

*一時の、或いは積年の「感情」だけではなく、ホロコーストには「仕組み・システム」が存在していた。自分たちと無縁の事ではない

*経済的インセンティブがシステムとして組み込まれていた事実、これは再び起こる可能性を暗示してもいる

*元所長ルドルフ・ヘスは家族とともにガス室近くの官舎に住んでいた。冷酷な人間という訳でもなかったらしく、官舎横には家庭菜園もつくっており、ナチス司令官ヒムラーと一緒に農業談義もよくしていたとの話もある。二人とも植物を愛でるタイプの人間でもあったのだ。一連の虐殺を個人的属性に帰するのは誤解のもとになるだけ。当事者は「職務」として実行しており、家に帰れば「良きパパ」だったに違いない 

*日本の平均的教育レベルの高さに期待している。ただ極限状態に追い込まれた時に、どの程度理性的に行動し得るのか、人間の本生の赴くままになってしまうのか、それが今もこれからも問われるのだろう

ガス室入口

ガス室入口

ヘス所長の官舎(右奥の建物)

ヘス所長の官舎(左奥の建物)

アウシュヴィッツ、・・・・ (2)

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 スモーレンさんのお話の後、アウシュヴィッツのもう一つの収容所ビルケナウにも行き、約2時間、一番奥まで熱心に歩いて見学をしました。ここはホロコースト終盤の「大量殺りく」を目的とした場をうかがい知るに十分な広大な敷地でした。「シャワー室」、「ガス室」、「焼却所」が一体化した建物にその意図を感じますし、人々が収容されていた施設もかなり劣悪です。また同時に、この活動の責任追及を恐れたナチスが、証拠隠滅を図るべく爆破した残骸が復元されるでもなくそのまま目の前に存在していることが、より一層ナチスの追い込まれた歴史的立場を象徴しています。

ビルケナウの鉄道と門
ビルケナウの鉄道と門

恥ずかしながらこれまでの私のイメージの中には、二つの場所が一つになっていることをビルケナウに来て初めて分かりました。

爆破されてもなお残る焼却炉他
爆破されてもなお残る焼却炉他

アウシュヴィッツ展示の説得力は、「そのまま」であることなのかもしれません。「復元」は本当に少なく、施設等の建物は当時のままであり、偶然に残った、或いはポーランド・レジスタンスがクラクフ経由でロンドンの臨時亡命政府に秘密裏に伝えた写真・メモ等の展示となっています。目の前の施設は全く無言の施設・展示物、人々の存在は白黒のやや色あせた写真の中だけです。それ故に、見学者個々の思考と想像力に依拠した問題提起となるのでしょう。「伝える」活動の重要性、「無かった」事にしようとする危険性、ふと世界共通の課題だと納得しました。

そして更に、量的な意味では、目の前には常識的には「大量の」施設、靴・髪の毛等の遺留品展示なのですが、それが極々一部であるという気の遠くなる犠牲者の数の多さを想像すると、一層今を生きる私たちにも恐怖が伝わってきます。
地元・近隣と思われる沢山の高校生の見学者の表情も真剣でした。

アウシュヴィッツ、・・・・ (1)

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 クラクフからバスで1時間半、アウシュヴィッツ強制収容所(国立オシヴィエンチム博物館)に到着しました。構内に一歩入って驚きました、何とも整然とした大学キャンパスを思い出させる光景だったからです。わずか60数年前に、本当にこの場所でホロコーストが起きたのか、とにわかには信じがたい静寂でした。

収容所構内

収容所構内

ここで唯一の外国人ガイド中谷剛さんの説明により約1時間半のツアーでした。内容は下記のアドレスにありますので、省略致します。http://www1.linkclub.or.jp/~ttakeshi/porhtml/pora01.html

「あとがき」からの引用です**************************

映画「夜と霧」の最後の字幕を紹介しておこう。

   遠ざかる映像の前で
   希望が回復したふりをする
   ある国のある時期の話と言い聞かせ
   絶え間ない悲鳴に 耳を貸さぬ我々がいる

 実際にアウシュビッツを訪れてみると、たぶんここで何も考えない人はいないと思う。しかし、ここで起こった出来事を、ある国のある時期の話なんだと、僕を含めてみんな少しは思ってしまっているだろう。
 ヒトラーがユダヤ人を迫害しようと考えたのは、歴史の中で急に現れた狂気的な発想というわけではない。ヒトラーがそれまでの人生の中で学んできたことの集大成で、そのような発想に至ったのだ。これは、それまでのヨーロッパの人々のユダヤ人に対する考え方というものとは絶対切り離すことはできないと思う。
 個人が持つちょっとした差別的な思いが、一気に突き進んでしまうと、こんな悲惨な歴史を作り出してしまうことになるのだ。そのことを意識して、個人それぞれが自分の中のそのような思いについて、もう一度振り返っておくということが、非常に大切なことだと感じた。

最後に、アウシュビッツに行く前に見るべき映画を書いておきます。「シンドラーのリスト」、「夜と霧」、「ライフ イズ ビューティフル」。特に「夜と霧」はアウシュビッツで撮影された映画です。映画というよりもドキュメンタリーみたいなものですが、DVDも発売されていますので、ぜひ行く前に見てください。

******************************引用おわり

彼の著書は読み応えがあります。http://www.hanmoto.com/bd/isbn978-4-7736-2907-1.html

 

午後は、ここで約5年間拘束されていた元ポーランド・レジスタンス(秘密抵抗組織)のスモーレン(88歳)さんが、約1時間半の講演でしたhttp://sanmarie.org/auschwitz。彼はこの博物館の初代館長も務めました。

ポーランド・レジスタンス:スモーレンさん

ポーランド・レジスタンス:スモーレンさん

ゲットー&オスカー・シンドラー

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  チェコのプラハから夜行列車で9時間半、ポーランドのクラクフに到着しました。マチの歴史はさて置き、市内にはユダヤ人ゲットー跡地の建物も保存されていて、広場には当時の住民を象徴する椅子のモニュメントもありました。 

クラクフ・ゲットー跡地のモニュメント

クラクフ・ゲットー跡地のモニュメント

映画「シンドラーのリスト:http://info.movies.yahoo.co.jp/detail/tymv/id11457」は、その真実性に批判もかなりあるようです。印象的なテーマ曲でした。映画に出てくるオスカー・シンドラーの工場も、このゲットーに程近い所です。現在は比較的小規模の展示ですが、映画公開の後に博物館建設に向けた活動のポスターも見ました。

シンドラー構内

シンドラー構内

シンドラー事務所窓から
シンドラー事務所窓から

映画の場面にも登場した入口から続く昇り階段を上がった右手に、シンドラーの事務室がありました。そこの窓から工場を望むことができます。

ナチスとの関わりが深かった故に、限られた自分の立場で命の救出が出来たのでしょう。
二度と戦争を起こさないためにも、世界規模の戦争の歴史を検証する場合、後で構図を確認すると同時に個別局面での多様な事実も見逃してはならないと思います、その動機はともかくとして。
「戦争を起こすのも人間なら、戦争に反対してそれを止める事が出来るのも人間である」、そこまでいう自信はなくても、立場にいるものにとっては「いのちを守る事ができるのも人間」とはいえるのではないでしょうか。
何が良くて何が悪いのか、そういった議論が意味を持つのかも含めて、なかなか一筋縄ではいきません。現場は沢山の問題提起を自分にしてくれます。

リディツェ村、さらにつづく

Posted by 秋山孝二
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 67年経た今、リディツェ村の悲劇を振り返る現場の光景です。日本であればゴルフ場と見間違いそうな美しい芝生と大きな木々ですが、この大地の下からは「いのち」の叫びが聞こえてきます。詳細はHPでも知ることができます。(日本語版はありません)http://www.lidice-memorial.cz/ 、http://www.obec-lidice.cz/

町の中心の教会から町のあった場所を望む

町の中心の教会から町のあった場所を望む

 村の中心にあった教会の場所から、昔の村を望みますとこんな感じです。一面芝生で保存されていて、所々に忘れ得ぬ悲劇の現場とモニュメントがメッセージを私たちに発信しています。

村の男性全員が虐殺され埋められた場所で

村の男性全員が虐殺され埋められた場所で

遠くに見える復興した「リディツェ村」
遠くに見える復興した「リディツェ村」

もう一つ、戦後間もなく復興されて新しく隣地に建設された「リディツェ村」を、昔の教会敷地を通しての眺望です。「復興する」活動により、過去の歴史を踏まえて生きようとする人たちの世界へのメッセージと受け止めました。

そして私たちは、次の訪問地ポーランド・クラクフへ移動しました。

リディツェ村で何が起きたのか

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 チェコの首都プラハから約30分の所に「リディツェ村http://www.geocities.jp/lenhartzstrasse/lidice.htm」があります。第二次世界大戦中に、ナチスドイツにより村の住民が老若男女多数処刑されて、或いは強制収容所に連行されました。広大なゆったりした平原で、以前村があったその場所には、今沢山の慰霊の像と当時の場所の説明、記念博物館等、辛くも生き残った方々の証言をもとに、二度と戦争を起こさないとういう強いメッセージを発信し続けています。

昨日ちょうど記念館の職員の方から説明を受けている時に、当時19歳で連行されて強制収容所に連行されつつも生き残った87歳の女性が私たちのそばを通り、しばし自らの体験を生々しく語って頂きました。

また、当時幼かった男性で、その後ドイツ人の家庭で育てられて、戦後故郷に戻り村長を務められた方からは、当時の様子とその後の人生、リディツェ村の復興他、今の私たちにも大変貴重なお話の数々を聴くことが出来ました。

リジッツェ村の犠牲
リジッツェ村の犠牲                        犠牲者であり、戦後村長に

戦後、連れ去られて殺された子供たちの記録をもとに、広く寄付を集めてその「像」が設置されていました。中央やや右の一番年少の男の子が三角形の最先端で、村の中心の教会の方を向き、目線をやや下にしていて、私達の胸を強く打ちます。また、後方中央やや左には、日本からの寄付を記念して、日本で鋳造されたおかっぱ頭の女の子もシンボルとして一群の一人として存在していました。

地元の親子が、子どもにしっかりこの悲劇を伝えておきたいとの願いでしばし像の前で語らっていました。ただ黙祷でした。
リジッツエ村の犠牲者、奇跡的に生き残り後の村長
リジッツエ村の犠牲者、奇跡的に生き残り後の村長

彼は静かに語り続けて、「自分は運が良かった。この悲劇を二度と起こしてはならなく、自分の辛い体験を若い次の世代に伝えなくてはならない」と、語気を強めてお話になりました。

メール環境が十分でないために、沢山のご紹介したい写真も掲載出来ません。訪問旅行終了後に、まとめて「特集」と致します。

今、プラハです

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 先ほど、プラハに着きました。今回、チェコ・ポーランドの訪問です。インターネット環境が良ければ、随時メッセージを送りたいと思っています。こちらの日没は今頃は午後11時過ぎとの事です。今午後9時過ぎですが、まだまだ明るいですね。

取りあえず、プラハに無事着きました。

加藤周一さんの志、品川正治さんの肉声に触れて

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多様な各地の活動

多様な各地の活動

  6月2日、東京の日比谷公会堂で講演会が開催されました。タイトルには「加藤周一さんの志を受けついで」とありました。開始1時間少し前に日比谷公園に行きましたが、何と500人を越える程の長蛇の列、入口が開いてから私が入るまでに15分位掛かりましたでしょうか。これまで何回も日比谷公会堂には行っていますが、こんなことは初めてでした。2階席の前から3番目に座りました。ご存知のようにここは2階席と1階席の数がそれぞれ1000席強で、ほぼ同数です。それだけ2階席がせり出している造りになっています。開会前には超満員、舞台右手に加藤周一さんの生前の笑顔の大きな写真が掲示され、ビデオ上映も開会前に放映されていました。

井上ひさし、大江健三郎、奥平康弘、澤地久枝のご講演、パートナーだった矢島翠さんのあいさつ、「さくら横ちょう」のうた等、盛沢山でした。http://www.eizoudocument.com/0106katou.html 

翌日の新聞では、大江健三郎の講演趣旨が主でしたが、私は澤地久枝さんのお話が印象的でした。ご自分がまだ学生時代、加藤周一の「ある晴れた日に」を読んでも、その青年医師のメッセージを読み取れなかった事、数十年後にやっと理解出来た事を恥じたと告白し、「今どきの若いものは・・、というのはやめよう!」と聴衆に向けて訴えました。若い人たちが立ち上がらなくて誰がやれるのか、とも。

事務局長の小森陽一さんは現在は東大教授ですが、北大のご出身ですね。

札幌での講演会
札幌での講演会

  一方札幌では、財団法人国際開発センターhttp://www.idcj.or.jp/top/aboutus_f.htm 会長、経済同友会終身幹事の品川正治さんの講演会が開催され、こちらも大変熱心な聴衆でいっぱいでした。ご自分の中国最前線での戦闘体験から、戦後を生きる人間として、「二度と戦争を起こさない国にすること」を信念とされて活動されています。

昨年のリーマン・ブラザーズの破綻、年末・年始の日比谷公園の派遣村についての前向きなご意見も印象的でした。最後に、「日本型資本主義の模索」について、困難な道ではあるけれど、暫くの間どう耐えていくかを真剣に考えれば、必ず確立できるはずとの信念も語られました。

私達へのメッセージは、「自分が主権者であること」を自覚して、選挙の一票の重みの再認識。そして今、「アメリカと日本は違う」ということにより、世界史を変える好機であり、それを決められるのは「主権者としての権利行使」以外あり得ないこと、子供・孫の世代の為にも、と力強くお話を結ばれました。

背筋の伸びた姿勢で2時間淡々とお話になるその姿に、品川さんのこれまでの生き方を見る思いでした。そして何よりも、経済界には殊のほか同じ志を持つ経営者が多い事も知り、経営者の立場から、国際社会における日本の主張の方向性を見つけた気がしました。奥様も札幌市立高女(現在の札幌東高)ご卒業とのことで、札幌との少なからずのご縁も感じた次第です。                              

愛生舘の「こころ」 (5)

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 松本良順先生が晩年大磯に住んでいた事は、前に書き記しましたが、先日仕事の合間に時間をつくって大磯に行ってきました。東京駅からJR東海道線で約70分、大磯駅から徒歩5分の所に妙大寺があり、その境内に松本順先生(後年に良順から順と名を変えている)のひと際背の高いお墓を見つけました。

大磯・妙大寺 松本順 墓

大磯・妙大寺 松本順 墓

 地元の観光協会の方に伺うと、ご自宅はこのお墓のある妙大寺の右隣だったそうです。海が見えて裏は山、閑静な住宅地でした。そこから海側に下って歩いて10分程度で照ヶ崎海岸です。1885年(明治18年)、大磯町のこの海岸を日本最初の海水浴場と定め、海水浴の振興による健康増進と大磯町の開発に尽力しました。実は私の勝手な思い込みで、「照ヶ崎海岸」というものですから、松を背景として砂浜に記念碑が建っていると信じていたのですが、現在はバイパス道路と防波堤で固められたその間に碑がありました。イメージとは違う雰囲気で残念でしたが、ある意味ではこの間の時代の変遷を象徴する光景かとも思ったりして、です。

松本順先生の他にも、この大磯町にはこれまで著名な方々が250人程も住まわれていたとか、地元の方も誇らしげに語っておられました。こんな絵ハガキもあったので、1枚100円で買って帰りました。正直に申し上げて、「松本順と愛生舘」を追いかけている私にとって、観光ギャラリーの中で「展示されている彼」には違和感を持ちましたね。地元大磯にとっては、「250人以上の著名人(?)」に価値を置いているのかと思ったりしてです。

大磯・観光絵はがき

大磯・観光絵はがき

先日、「幕末史」(半藤一利著)http://books.yahoo.co.jp/book_detail/AAT85730/ を読みました。本来であれば江戸幕府十四代将軍家茂を看取った松本順先生も、当然この中に記載されていなければならないのでしょう。

著者が、攘夷を唱えた時代に対して「熱狂的になってはいけない」と警告をしています。また「皇国」の本来の意味は、幕府が支配している日本に対する、朝廷が支配する日本、というくらいの意味であって、私たちが意識している天皇というほど、この時代の人たちは天皇を意識していなかったのではないでしょうか、とも語っています。

このような本を携えながら、歴史認識の新たな発見を多少期待して松本順先生の晩年の地を訪れましたが、少し掘り下げ不足でした。何かの機会に再度やり直します。

家族の絆、「浦崎信子をめぐる人たち」

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 昔、テレビドラマで「ルーツ」http://www.superdramatv.com/line/roots/という番組がありましたね、そうです、クンタ・キンテの物語です。家族のよって来たる所以を明らかにする事は、今を生きる人間の立ち位置を明確にします。経営者の最大の喜びは、ビジネスを通して沢山の素晴らしい方々とお会い出来る事であり、ここでご紹介する浦崎さんも私の尊敬する経営者のお一人です。

ご親族がそのルーツを丹念に時間を掛けて調査し、部外者の私にも、たくましく生きた時代、とりわけ沖縄・与那国・鹿児島・福岡のあらたな歴史の軌跡を知りました。まさに激動の中を、地域社会での確かな担い手としての証し、それぞれの「家系図」を根気よく追跡する事により、脈々と続く家族の絆に感動致します。そう子供たちを育てた親たちの世代のしっかりした教育にも敬意を表します。

平成17年4月1日発行

平成17年4月1日発行

この本の表紙を飾る与那国富士と呼ばれる「宇良部岳」、そして浦崎さんのあとがきも印象的でした。「母・信子のルーツ尋ねに始まるこの作業を経て、祖父と母、そしてふたりをめぐる人たちについて書いたが、いつの日か、父の足跡や私どもに大きな影響を与えた兄の足跡についても書き残せたら、と密かに念じている。また、若い親族の皆さんが、この小冊子に接して、自分の生まれ、育ちについて思いを深め、さらに自分と先祖について究めることができたら、望外の喜びである。・・・」

これを読まれる次の世代への期待も膨らみますね。起業してから短期間で株式公開を成し遂げて経営を担ってきた方と、こういうテーマでお話が出来る事、それ自体が私にとっては大変幸せでした。ほぼ同時代をこれまで生きながら、かなり違った人生の歩みにも大変興味いものがありました。貴重な本をお送り頂き、心から感謝申し上げます。

岡林信康の魅力は、今もなお!

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 「山谷ブルース」、「チューリップのアップリケ」、「がいこつの唄」、「私達の望むものは」等、思い出せば懐かしい歌の数々。どこかで目に飛び込んできた「岡林信康」の文字、そして先日のライブで久しぶりの姿でした。

60年代後半、騒然とする大都会の中で、一番口ずさむ回数の多かったのが彼の歌でしたね。歌詞は社会に対してのレジスタンス・強いメッセージなのですが、何となく危うく壊れそうな彼の歌声と雰囲気に共感しました。日比谷野外音楽堂でしたか、一度だけライブを聴きに行ったよな気がするのですが、定かではありません。http://www.youtube.com/watch?v=5hjOjJfTGko&feature=relatedhttp://www.youtube.com/watch?v=Pw4uN52SytE&feature=related、 http://www.youtube.com/watch?v=kjAI9V1G6bA&feature=related

「岡林信康ライブ」チラシより
「岡林信康ライブ」チラシより

40年ぶり位の彼の雰囲気は、何も変わっていませんでした。この間、突然雲隠れしたり、演歌に寄り添ったりの人生ではあったものの、私の人生の変遷と相俟って、ほぼ同じ時代を生きてきたという意味で、「何も変わっていなかった」と感じるのかもしれません。日本型「手拍子:前打ち」と外国型「ビート:後打ち」との違いとか、尺八・三味線・太鼓とのコラボとか、新鮮な試みも面白かったです。「俺、いち抜けた」も懐かしかったですね。

隣に70歳を越えるおばあさんが独りで私たちより前から座っていました。岡林ファンというのには何か違和感があったのですが、手拍子をするでもなく最初から最後までただじっと聴いていました。幅広い人気というのでしょうか。この秋に登別でライブがあるようで、いつまでも変わらぬうた声でいてほしい、そんな気になりました。

田舎の路線バスでは

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 札幌市内の公共交通の中で路線バスが民営化されましたが、路線の採算等で利用者側の使い勝手と運営企業側とのギャップが取りざたされている昨今です。

先日栃木県益子町で、定例のワグナー・ナンドール財団(タオ財団:http://wagnernandor.com/indexj.htm)の会合に出席する為にいつものようにJR宇都宮駅から路線バスに乗りました。1時間に一本程度のバスで、出発して10分程もすると乗客は数人となる路線、50分程で益子町に入ると、運転手さんに言うと路線上のどこでも降ろして貰えます。以前、1万円札しか持ち合わせがなく困ったなと思って相談したら、コンビニ前で臨時停車してくれて、80円のガムを買って小銭を作って再度乗ったこともあります。地元の方には、次に乗る時で良いよと言う場合もあると後で聞きました。

先日は、こんな光景がありました。宇都宮から益子行きのバスでしたが、走っていると反対側で手を振るおばあさんがいました。私はご挨拶がわりと窓から手を振り返すと、運転手さんも気がついたのでしょう、バスを止めました。すると道をゆっくり渡ってその方がバスに乗ろうとするではありませんか。「○○まで行くか?」との問いに、運転手さんは「行きますよ」と答えました。するとその方が安心したのか乗る前に靴のひもを地面で結び直そうとしました。すかさず運転手さんが「乗ってから車の中でやってよ」とまず乗る事を優しく促すのです。私と一緒だった友人とは顔を見合せて、「都会だったら知らんふりで間違いなく通り過ぎるよね」と。運転手さんの田舎道を走る余裕も感じた1コマでした。次に私たちが降りる段になり、一つ前の停留所を通過したので降車ボタンを押した途端、本当にその場に止まったのです、「ここで宜しいですか?」と言って。まさに「マイ・バス」感覚でした。

更に会議が終わっての帰り道、何せ1時間に一本ですから逃すわけにもいかずぎりぎりで通る到着時刻に間に合い、乗り込みました。暫くすると、小雨の中今度は通っている道沿いで女の子が楽器みたいな大きなケースを背負いながら手を振っていました。バスは一度は通り過ぎたのですが、直ぐに停車しました。私は押しボタン信号が赤にでもなったかと思っていましたら、隣の友人が後を振り向きながら、「今通り過ぎた女の子を待っているみたい」と教えてくれました。最後部座席だったので後を眺めると、その女の子が30メートル位先で何かを待ちながらしきりにバスの方も見ているのです。そして片側1車線の田舎道は、突然のバスの停車で後方にはあっという間に50メートル程の車の列、ただどの車もクラクションを鳴らすでもなく、追い抜く訳でもありません。そうこうしているうちに、やっと女の子が走ってバスに向かって来ました。同時にその後に妹のような更に小さい子がポーチのようなものを手にしながら追いかけて来ます。勘の良い私の友人は、「あの子は楽器の習い事に行こうとしたけれど、お財布を忘れて妹に家に取りに行かせていたのだ」と状況を即座に把握していました。その女の子はバスに、妹はお姉さんに、それぞれ無事間に合いました。息を切らして乗り込んだ女の子は、JR宇都宮駅手前の停留所で雨の中降りて行きました。しっかり荷物の中から折りたたみ傘を出してです。行きも帰りも、バスの乗客は勿論誰も停車に文句をいう人はいませんでした。

私は4歳の頃から札幌の市電に定期券で乗っていました。小さい頃は電車に待って貰うなどという事も出来ず、何回も停留所まで走ったりしていましたが、先日の光景に出合って何かたまらない懐かしさを感じました。今でも残っているのですね、あの当時のような運転手さんとお客さんの関係が。担い手が官でも民でも、公共交通のサービスの原点は、運転手さんの気持と余裕ある環境づくりでしょうか。

蛇足ですが、週末の羽田空港から浜松町のモノレール内です。まさに「マイ・モノレール」でした。全ての時間帯に車両を満席には出来ません。どう乗客を公共交通に誘導するか、その辺がまさに経営努力だと思うのです・・・。乗客の勝手を言わせてもらえば、空いている乗り物は「最高」です。

マイ・モノレール:週末の朝

マイ・モノレール:週末の朝

市民の熱い力に、ただ感動です!

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 秋山財団の「社会貢献活動助成」事業http://daily-ondanka.com/partnership/partnership?rm=detail&id=29 の報告会が、先日財団で行われました。6年前から始めたこの事業ですが、今年は報告団体数が多く、二日間の日程となりました。中標津からの高校生のみなさん他、財団理事・評議員・監事の方々のご参加もあり、熱心な報告の場となり、心から感謝致します。

2009(平成21)年度・秋山財団・社会貢献活動助成・報告会プログラム

 

5月23日(土)

 

 発     

助成年度と助成テーマ

出席者(★が発表者)、

敬称略

1

特定非営利活動法人・公共政策研究所

2007年「行政への市民参加の環境調査」

★水澤雅貴

2

特定非営利活動法人・交通倶楽部ゆうらん

(NPO法人・交通まちづくりコンソーシアムゆうらんに改名)

2007年「なまら便利なバスマップ第3版の発行と使い方講座の実施」

★松本公洋、内山到

3

北海道中標津農業高等学校

2007年「花と緑で彩る計根別ミルクランドまちづくり」

★川又竣・松崎愛、

杉田慎二

4

特定非営利活動法人・炭鉱(やま)の記憶推進事業団

2008年「空知産炭地域での高齢者の社会的活動促進モデル事業」

★吉岡宏高

5

たんぽぽ文庫

2008年「たんぽぽ文庫新しい子供の居場所作り事業」

★中野由美子、高橋雅子

6

間伐ボランティア「札幌ウッディーズ」

2008年「札幌市及び周辺地域における森林の保護と育成活動」

★中野常明

7

手引きの会ステッキ

2007年「視覚障がい者に対する優しい気持ちと共に生きる大切さを知ってもらう」

★三川博子、関谷洵子

今井寿満子

8

北海道学習障害児・者親の会「クローバー」

2007年「発達障害児・者への就労支援事業」

★永瀬次郎

9

強制連行・強制労働犠牲者を考える北海道フォーラム

2007年「東アジアの和解と平和づくりを担う、国境を越えた市民社会の育成」

★殿平真

 10

日高山脈ファンクラブ

2008年「日高山脈幌尻岳登山者排泄物除去推進事業」

★高橋健

 11

NPO法人・カラカネイトトンボを守る会

2007年「札幌市篠路福移湿原の埋立阻止、乾燥化防止、希少生物の保護」

★佐藤知宏・山本郁佳

 12

北海道千年の森プロジェクト

2007年「ポット苗づくり講習会・DVD作成並びに育苗

里親プロジェクト」」

★見延和俊

 

全体質疑

 

 

5月24日(日)■ 

13

特定非営利活動法人・日本のうらほろ

2007年「食を主とした都市住民と農山漁村との交流を

目指したまちづくり」

★近江正隆

14

特定非営利活動法人・北海道職人義塾大

2007年「こどもモノづくりマイスター事業」

★藤田和久

15

北海道ブックシェアリング

2008年「不要な図書を再利用するブックシェアリング活動」

★荒井宏明

16

特定非営利活動法人・教育キャリアプロデュース

2008年「豊成北翔土曜友の会サポート事業」

★三井貴之

17

NPO法人・ボラナビ倶楽部

2008年「月刊ボラナビ紙面特集・NPOな人」

★高山大祐

18

鍵盤ハーモニカアンサンブル「コロポックル」

2008年「ボランティア演奏活動」

★三宅英八郎

19

北広島コミュニティレストラン研究会

(地域食堂かえでに改名)

2008年「コミュニティレストランでまちを元気に」

★樫見由美子

20

特定非営利活動法人・レッドリボンさっぽろ

2008年「エイズ電話相談」

★本庄真美子

21

特定非営利活動法人・子育て支援ワーカーズプチトマト

2008年「ババジジ・ママパパ&こどもカフェ事業」

★喜多洋子

 22

北海道札幌南高等学校林

2007年「学校林を環境林として活用した昆虫の棲む森づくり」

★箱崎陽一

 23

特定非営利活動法人・あおいとり

2008年「農的くらしのレッスン・研究科第3期の企画・実施」

★永田塁・谷川真弓子

 

全体質疑

 

 

 

公募時の申請書では、なかなか日常の現実の活動が見えてきません。アメリカの民間財団には、「申請書だけで選考している財団は『レベル1』である(レベルが低い意味)」という言い伝えがあります。実際の活動を見抜き価値を評価するその眼力こそが、支援する民間財団の最高の価値であり、権威であるのでしょう。そんな「眼力」、「強いメッセージ性」を持った民間財団でありたい、と思っています。

活動助成というよりは「研究助成」というレベルの高い活動報告も多く、本当にこれからが楽しみだと思いましたし、私たちの財団の責任も大きくなっている事を痛感致しました。

 

 

ビー・アンビシャス!

Posted by 秋山孝二
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  毎年4月、「経済同友会http://www.doyukai.or.jp/全国セミナー」が、各地持ち回りで開催されています。今年は17年ぶりに札幌で2日間行われました。北海道は4月よりも5月の方が気候も宜しいということで5月になりました。私は、北海道経済同友会の幹事で、この6年間は毎年参加しています。その時々のテーマを振り返ると、その年の経営課題を推し計る事も出来ます。この数年、登録は1000人を越えていましたが、昨年9月以降の不況とごく最近のインフルエンザの影響で参加者数が心配されていました。しかし888人と予想を上回る登録参加数で、北海道人気の高さをあらためて感じました。2日目の締めのご挨拶で桜井代表幹事は、「20世紀的な規模の拡大を追い求める開催はもうやめにしましょう。21世紀は質の追求の時代で、我々の価値観も変革しなくてはなりません」と語りました。

今年のテーマは、「ビー・アンビシャス!-21世紀の新たな課題に挑む」でした。 

フォーラム参加者の紙袋
フォーラム参加者の紙袋

基調講演・分科会・特別講演のテーマは以下です。

基調講演「iPS細胞がつくる新しい医学」 京都大学教授 山中伸弥 氏

分科会1:「低炭素社会実現に向けた取り組みと日本の貢献」
分科会2:「資源問題に直面する日本の針路を考える」
分科会3:「東アジアの交流拡大を考える」
分科会4:「地域資源のブランド化を考える」

特別講演「動物園経営から学ぶもの」 旭山動物園 名誉園長 小菅正夫 氏

今のような時期に、全国から集まった経営者の方々と情報共有が行えたのは、大変有意義でした。

 主な経済団体には、経団連(地元では道経連:近藤会長)、日本商工会議所(地元では札幌商工会議所:高向会頭)、それに経済同友会(地元では北海道経済同友会:坂本・吉野代表幹事)がありますが、唯一経営者個人の登録である団体が経済同友会です。上場企業をはじめ企業経営者が個々の頭で考えての提言は、経団連の政治的・業界的立場を踏まえた発言とは一線を画しています。特に地球温暖化等の環境問題へのスタンスではかなり違っていると私は思います。

基調講演の山中先生のお話からは、日本とアメリカの研究環境の大きな違いを知る事が出来ました。

分科会パネラーの中でひときわ印象的だったのは、立命館アジア太平洋大学http://www.apu.ac.jp/home/学長モンテ・カセム氏(スリランカ出身)の発言でした。「教育はビジネスではない、志である」、「人材育成は迷いを希望にかえるものである」、「日本は世界から信頼されているが、友情を抱かれていない」等、ストレートに心に届くメッセージの数々に、会場内は興奮していました。

セミナー終わりの桜井代表幹事のご挨拶は、「今年のスイスで開催されたダボス会議でも、世界の方向性が大きく変わってきている。今までの価値観の限界を、各国・地域・ひとりひとりが認識しはじめている一方で、日本国内の経営者の意識の低さに、強い危機感を持っている。今回のセミナーは、次の新しい価値観は何かを探る議論だった。新しい時代の新しい価値観を求めて、今後も現実と真摯に向き合って努力して参りたい」とのメッセージでした。

ただセミナーを通して気になったのは司会者・パネラーの経営者の発言で、語尾が不明確、口の中でモゴモゴと言葉を飲み込んでしまう方が多かったこと、こういった会社の社員は社長のお話をいつもきっちり聞くことが出来ているのでしょうかね。そう言った事がこれまで指摘もされずに今日に至っている現実が危機的です。経営者はいつでも「裸の王様」になってしまいます。

1日目の懇親会では、ラーメン・カニ等地場産品に大行列で、800食以上用意した品があっという間になくなりました。翌日の朝、本州からいらっしゃった方々の会話をもれ聞くと、「ラーメン横丁に行ってきたよ」、「大通公園のライラックが綺麗でした」、「北大構内も良かったよ」、「ホテルの貸自転車で朝まわってきたけれど、すごく気持が良かった」、「地下鉄も便利で車両も大きいね」・・・・、あらためて札幌のマチを惚れ直しです。

来年のこのセミナーは、四月に土佐で開催されます。常に権力に対して勇気を持って活動していた心意気を、次年度開催地の代表の方が力強く語っていました。ひとくくりで「企業」とは言っても、21世紀の新しい価値観を模索する企業もあれば、相変わらず従来型の延長で経営する企業もあり、経営者の見識で結果も自ずから明確になるでしょう。「理念」が問われているのです。

 

札幌の国際交流の礎

Posted by 秋山孝二
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 読売新聞北海道支社主催第24回「ほっと茶論」で、「札幌の国際交流」と題して元札幌国際プラザ専務理事・杉岡昭子さん、池田食品社長(元札幌青年会議所副理事長)池田光司さんのご講演と鼎談がありました。

杉岡昭子さん
杉岡昭子さん

                     

杉岡昭子さんは、現在お母様の介護で、鳥取県に住まわれています。札幌の国際交流事業の基礎を創られた大変な功労者で、私自身、姉妹都市交流の担い手として、アメリカ・オレゴン州ポートランド、ロシア・ノボシビルスクとの経済活動の可能性調査等で、沢山の貴重な機会を与えて頂き、札幌とのネットワーク構築に少しは貢献出来たのではと思っています。このサイトの「’08.11.23:姉妹都市交流からの財産を活かしたい!」で少し紹介をしています。先日のお話からも、杉岡さんの前向きなご認識と今後への期待を込めた内容に、あらためて感動致しました。以下、印象に残ったメッセージを書き留めます。

*原田與作市長、「外国から一人いらっしゃれば10人でお迎えしなさい」

*姉妹都市交流ー>北方都市会議ー>国際協力への発展

*「あの国は」ではなく、「あの人がいる国」のはず:人と人との信頼の絆ーー当時の札幌は姉妹都市ネットワークでのリーダー

*姉妹都市交流を基盤に、経済・文化・スポーツとでの交流に発展:それを支えたホームステイ等の多様な札幌の「市民力」

*国際交流は役所だけでは無理、多様な市民の活動が不可欠

――今で言う「協働」の先駆けですね、ただ根底に市民活動への信頼と尊敬の念が今よりはるかに行政側にありましたね。

*コンベンション事業: 当時理解していた都市は皆無、四面楚歌の中「札幌がやる!」と手を挙げて、「まちづくり」の軸として先駆けて実践

*札幌の国際性: 1930年からの「宮様大会」、1950年からの「雪まつり」、そして1972年札幌冬季五輪、PMF等へ

*国際交流の土台「北方都市会議」――北方のくらしに根ざした“まちづくり”、第一回目は9カ国11都市の参加で、テーマは「冬と雪」、札幌市の除雪活動は先進的だった。66項目のテーマが提起されて、その中には「スタッドレスタイヤの使用」、「ナトリウム灯の街灯」等が含まれていた。特にこの会議の意義は、市役所内の技術部門への影響が大きかった事。国際交流が新たな段階へ進化していった

*苦労したことは、役所内の「前例がない」という反応:  人間が創ったものは壊せるのだ、という発想は大切。なぜなら国際交流はほとんどすべて「初めてのこと」ばかり

*国際交流における行政の役割――10年先を見据えての仕事、基盤づくりに責任を持つ

*経済界ともっと意見交換をすべきだった

*今、思う事: 北方都市会議では、会議の合い間合い間のコミュニケーションが重要、技術部門で英語の話せる人が必要、システム的な人材育成プログラムの必要性を痛感

*「時代」というものがある: その時代、その時代の課題と解決策、一度創ったものを切る勇気も必要。天神山ゲストハウス・姉妹都市コーナー等は、時代に沿った形での変遷と理解すべきで、価値が無くなった訳ではない。今関わっている人たちが考えて判断すべき。税金を使っているのだから、今その任にある方が責任ある判断をするのが最適である。

*女性の台頭――チャンスを与えるだけで十分、力ある人は必ず伸びてくる

出席した方々に杉岡さんの知った顔も多く、「まるで同窓会」と評されていましたが、参加者はとにかくお世話になった等、感謝の念を率直に語る方が殆どでした。私の時代は終わった、と控えめにお話をされていましたが、参加された多くの札幌市民の心の中には、しっかりと杉岡さんの情熱が受け継がれています。

グローバルな時代、今こそ地域が直接世界と結びつく絶好のチャンスです。こんな感じで時代背景をまとめる事も出来るのかと、先日の大学講義資料からの引用です。

*グローバル化:「地域」の位置づけの変化

国境が無くなる――> 「国」ではなく、「都市・地域」という単位で繋がる

キーワード: 個性(地域最適の実現:特色ある発展)、自立、競争、責任

 

「最初に井戸を掘った人を忘れるな!」、私の好きな言葉です。札幌の国際交流の礎は、間違いなく杉岡昭子さんによって築かれました。これからもお元気で、またお会い出来るのを楽しみにしています。今回の詳報は5月27日読売新聞朝刊で特集されるとの事です。

 

街に出れば、懐かしい人との出会い

Posted by 秋山孝二
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  札幌のまちは190万都市と言えども、中心部の繁華街を日中20分程も歩くと、必ず知った人に会うから面白いです。この数ヵ月間、駅の構内、地下鉄駅の通路他で、懐かしい人たちと「劇的に」お会いしました。

4月初めにJR札幌駅を地下鉄から北口方面に向かって歩いていると、昔の会社のMさんと思われる人が軽い足取りでやってくるではありませんか。思わず声を掛けるとあちらも「お久しぶりです」と、変わらぬ「笑顔」でご挨拶。「あと数ヵ月で定年となり、稚内勤務から札幌に戻り、暫く本社に居る事になりました」と。初めて会ったのはもう30年以上前になりますか、それ以来いつも若くて溌剌とした雰囲気の彼も定年というのは、俄かには信じられないのですが、時の流れは確かなのでしょう。素晴らしい笑顔のお陰で、一日中私は力を頂きました。彼の札幌での充実した生活を祈念しています。

それから間もなく、今度は朝の地下鉄円山公園駅の通路でした。公立高校の入学式の日で、お子さんと親と思われる姿が何組も通り過ぎて行きました。と向こうから来る若く見える男性、あちらも私を見ていたその時、「S・N」と思わずフルネームで呼びとめたのです。ほぼ同時に「しばらくです」と元気な声が返ってきました。今、会社で首都圏の営業部の幹部となって活躍している事、今年から娘さんが市立旭ヶ丘高校に入学した事を短い会話のやり取りで知りました。日に焼けて元気あふれる顔つきに、随分大人になったなと思うと同時に、これからも期待したい気持が湧いてきましたよ。

更に、かでる2・7でフォーラムがありその帰り道、大通公園を横切って歩いていると、後の方から男性の声で「秋山社長ではありませんか」と。振りむくと一瞬名前は出てこなかったけれども懐かしい笑顔の顔、そして隣には会社の同期の女性も。「今どこにいるの」と聞くと、「保険会社にいます」との返事でした。すぐに名前も思い出し、入社年月日を聞くと100周年後でしたから私が社長の時です。背の高い爽やかな彼は、当時入社1年後に新入社員への歓迎の辞か何かを述べた事で記憶に残っていました。10分以上も路上で話をしていましたかね、連絡先を聞いて別れましたが、その日も何かとても自分自身元気が出ていました。

先週の土曜日夜に、(株)スズケンhttp://www.suzuken.co.jp/出身者の会「ケンユー会」愛生舘支部の総会・懇親会が例年通り開催されました。1998年に(株)スズケンと(株)秋山愛生舘が合併した後、当時秋山愛生舘の出身者の会だった「愛進会」もスズケンの出身者の会「ケンユー会」と合併したのです。会社の合併は今では良くある話になりましたが、出身者の会(OB・OG会)も合併というのは大変珍しい事だと思いますね。多くの場合は、出身者というのは合併等には批判的、或いは現在の経営幹部をはじめとする現役に対しても否定的です。毎年ではありますが、先日は特に参加者も多く、現在の会社の状況・新しい取り組み・今後の展望等も本社の現役副社長から説明があり、出席した皆さんは大変興味を持って聴いていました。

10周年記念で作成した支部旗

10周年記念で作成した支部旗

昭和20・30年代に会社で仕事をした方々は、「自分にとって、会社で学んだ事が人生のすべてだった」とおっしゃっていました。古き良き時代と言ってしまえばそれでお仕舞いですが、お花見、海水浴、年末もちつき、新巻しゃけの12月ボーナス、会社が大家族のようで懐かしい時代でした。
50歳を越えてくると、体力的には確かに衰えを感じはしますが、思い出の分母は大きく拡がっているので、人との再会をはじめ沢山の体験に基づく多様なストーリーによって、繰り返し繰り返し自分自身で楽しめるみたいな、そんな充実した気分になるのが不思議です。特に人との思い出では、相手の成長と変化(決して老化とは言いません)も楽しめて一層物語に深みが増しますね。
先日の出身者の会では、「眉毛から額のあたりがお父さんそっくりになってきたわね」とか、悪ガキで倉庫・事務所で遊びまわった私を家族のように評した女性もいらっしゃいました。皆さん、会社を離れてもうかなりの年数が経ているにもかかわらず、懐かしい思い出・貴重な経験として心に残っている素晴らしさ、今会社で働く人々も是非将来そんな感動を持って頂きたいと祈るばかりです。
10周年を記念して撮影した集合写真の出来上がりが楽しみです。

レラ・フォーラム第7回~アフリカから見える世界~

Posted by 秋山孝二
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 酪農学園大学http://www.rakuno.ac.jp/は、黒澤酉蔵が唱えた「健土健民」思想、および学理に基づく実学教育を理念としています。

牛も歓迎してくれます

牛も歓迎してくれます

 

環境システム学部の森川純教授http://www.seeds-rakuno.com/seeds_detail.php?id=147の教え子たちが主催する「レラ・フォーラム」は、先日の例会で第7回を迎えました。今回も1年生から4年生の学生と社会人(経営者)が自主的に集まり、アットホームで不思議な雰囲気でお話を聴き、その後いつもの様にテーブルを囲んでの懇談会では貴重な意見交換でした。
例会時に私はいつも早めに大学キャンパスに行きます。それは生協の12時20分までの限定販売「ソフトアイスクリーム」を食べる為です。口の中でとろける様な、本当に最高のアイスクリームですよ。締切時間近くはいつも行列です。夏休み・冬休み中
休みの時もあり、これまでカラ振りも何回かあって残念でした。
先日は第7回、森川先生の「アフリカから見える世界」で、今までお聴きした事のないお話の数々は大変興味深い時間でした。
このシリーズ、来月は理事長の麻田信二さんで「農的に生きるとは?」です。2回目の登場となります。
森川先生のお話の中から
*1942年日本海軍がヒトラーの依頼により、偵察任務でイ号潜水艦をアフリカに派遣したーーマダガスカルの英国部隊を攻撃
一時的にアリューシャン・ミッドウエー・インド洋の制海権(?)――今回のソマリヤ沖の自衛隊派遣への危惧
*第二次世界大戦で、アフリカは植民地部隊として英国軍によって組織され、アジア戦線で日本軍と対峙
*「国際援助」は、アフリカは人材の貧困な低開発国という前提で行っているーー大きな認識の誤り、アフリカには豊富な人材
*アフリカと縁の深い商品:BMW、赤いバラ、タコ、携帯電話のレアメタル、印鑑、ワカメ、コンブ等
*アフリカとは何処か?地理学的な常識を疑ってみる
*時間と空間を飛び越える「Identity」と「Pride」
*アフリカ大陸自体の持つ多様性と共通性
*サハラ地帯は、5000年ほど前は水と緑と多様な生き物に恵まれていた世界
*意味深いことわざ「眼は食べなくても酸っぱいマンゴーが分かる」、「バナナはゆっくりと熟す」、「2頭の象が争うと泣くのは草」
*世界が変えてきたアフリカ、アフリカが変えてきた世界
これまでアフリカに関しては、恥ずかしい程無知な私でした。歴史・産業・文化等全ての部分においてです。人類の発祥の地、出発点の認識を新たにしたひと時でした。

愛生舘の「こころ」 (4)

Posted by 秋山孝二
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 愛生舘のロゴマーク(高松保郎の家紋)「三つうろこ」は北條氏の紋としても知られていますが、私にとってはこだわりの一つなのです。秋山家の家紋は「まるに平井筒」で、愛生舘のロゴとは異なっています。随分昔に、明治時代の支部開設時に贈られた「愛生舘北海道支部の大鏡」が、暫くの間物置に仕舞われていた時がありました。会社の倉庫と共に遊び場としていた物置、隠れ家のようにいろいろな古い家具等が置かれているややかび臭い空間で、私は幼い頃にこの愛生舘の剥げかけた「三つうろこ」のロゴを不思議な感じで見ていたのを何故か覚えています。

東京の愛生舘館主高松保郎の死去後に、北海道支部長だった初代秋山康之進(私の曽祖父)が1891(明治24)年に「秋山愛生舘」を設立した時も、会社は家紋ではなくこの「三つうろこ」を引き続き自社のロゴとして、明治・大正・昭和・平成時代を100年以上生きたのです。私にとって、ものごころついた時からこのロゴに象徴されるように、「秋山愛生舘」はファミリーとは別の大切な「事業」でした。と同時に、初代秋山康之進が愛生舘事業継承への強い意志を持っていたと感じざるを得ません。

愛生舘大鏡

愛生舘大鏡

まるに平井筒

まるに平井筒

 

 

初代 秋山康之進

初代 秋山康之進

君たちの出番だよ、経営学部での講義

Posted by 秋山孝二
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  私は、札幌学院大学商学部(今年度から経営学部に改組http://www.sgu.ac.jp/management/index.html )の客員教授として、時々講義をしています。

大学からの山並み
大学からの山並み

 先日は1年生200余名を対象に、「企業・組織と経営者の役割」と題して、経営の極めて基本的事項を伝えたつもりです。まだ、大学生活1か月少々のせいか、高校生の雰囲気も漂っていて、「経営」というテーマをどこの視点から、どの程度の深さまで語るのが適切なのか、若干の戸惑いもありましたが、別の意味では最初なので印象も強いはず、経営の面白さと楽しさも理解して貰いたいものとの欲張った気持もありましたね。「今という時代」、「日常活動としての経営」、「実際の社長の仕事とは?」、そして最後は「皆さんに期待する事」で結びとしました。今の閉塞する社会を打開するのは、間違いなくこの若い世代でしょう。

今年4月からの経営学部開設を記念して、数か月以内に「記念論文集」が電子情報で発行されると思います。そこに私も今回の講義と同じテーマ「企業・組織と経営者の役割」で投稿しています。この数年間、組織の責任ある立場の人間達の身の処し方に強い疑問を抱いていて、特に経営者の役割と責任の取り方について、こだわりを持っていました。「総無責任社会」とでも言えるような現状では、次を担う若い世代が全うに育つはずがありませんね。