Departure,幸せあれ!

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comments: 4

 3月1日は、北海道の公立高校の卒業式でした。私は、学校評議員と同窓会幹事長の関係で招待状を頂き、午前中の全日制卒業式と、夜の定時制卒業式に出席しました。ともに「荘厳な儀式」というよりも、溌剌とした「卒業生ライブ」に参加している感じで、楽しかったですね。

以前、同窓会会報にも書きとめたのですが、40年前の自分自身の卒業式は、本州の大学受験と発表の合い間で、実は私は出席していませんでした。昨年、全日制卒業式に初めて出席してみて、時の流れを強く感じました。今年もやはり同様に、自分の時代との違いを感じました。違いと言えば、開始前に校長室で受け取った学事報告の中の卒業生名簿、男子・女子が混在でした。私達の世代は、名簿は男女別が当たり前で、それも男子がいつも先でした。

全日制卒業式ではまず、会場に入って保護者席の存在感の大きさです。恐らくそれぞれの卒業生に複数の関係者が、この門出に同席しているのでしょう。更に、最後列壁際には、ビデオを構えた方々のまさに「壁」でした。小学校の運動会よりは少しは控えめに陣取っている風とは言えますが。会場の体育館に暖房が入っているのにも驚きでした。卒業式は寒いもの、と体に染みついていましたので。

午前10時、「卒業生入場!」の声、拍手に続いてやってくる主役の生徒たちの姿、とにかく華やかです。男生徒はブレザー・ネクタイが多く、数人は羽織・袴姿、ちょんまげ姿の将軍一名、着ぐるみ姿が一匹(?)。女生徒は一層多彩ですね、ドレス・袴・和服等色とりどりです。全道一斉卒業式なので、貸衣装の予約は1年くらい前に済ませていたとか、そして当日の美容室予約は午前5時45分だったと、終了後の控え室で、PTA役員の方がおっしゃっていました。制服姿の私たちの時代では、想像もつかない雰囲気です。

各クラスの代表が卒業証書を受け取り、そのまま降壇する生徒もいましたが、何人かは卒業に当たっての率直な言葉を述べていました。これまでの周囲の方々への、本当に心こもる感謝の言葉の数々、そして「今こそ、別れめ、いざ去らば」だけのフレーズを澄んだ声で歌った女生徒、水戸黄門の男生徒は「人生、苦もあり楽もある」と歌って、旅立つ心意気を伝えてくれました。式終了後に続いて、DVDで3年間の振り返り、入学式当時から一段と成長している姿も知る事が出来ました。

夜の定時制卒業式では、卒業生の人数は17人、3年で卒業される方もいるのですね。こちらは、一人一人に卒業証書が直接授与されました。生徒の方から握手を求める場面もあり、午前中とは違った感動を受けました。保護者席にも友人、職場の人と思われる方々も笑顔で着席していて、素晴らしかったです。入学時のDVDの場面から推測すると、やはり何人かの生徒は途中で教室を離れていったようです。卒業生が舞台に上がって、担任の先生に花束を贈呈するハプニングもあり、会場から暖かい拍手が沸き起こりました。もう一つ、出席者は「祝卒業」ののし紙つき「紅白大福もち」も受け取りました、懐かしいですね、紙の箱のアレです。企業の周年行事の時も、社員から最も要望の多いのがこの「紅白もち」でした。

昨年末、東京での同期会で、40年前の母校卒業式の新聞記事を持ってきた同期生がいました。彼は今、池袋の小学校の校長だそうです。小学校の校長?と、そんな年齢になった自分たちに、驚きもしましたが。5段抜き見出しは、「批判の高校  “先生たちは官僚だ” 改革、粉砕のビラも」。そして学生服姿の卒業生の答辞と式場に座る多くの卒業生を校長の背後から取った大きな写真の下には、「卒業生の答辞に、“高校教育批判”も出て、学校、父兄をヒヤリとさせた卒業式」との説明がありました。以前から気になっていたのですが、北海道では公式の場でも「父兄」とおっしゃる方が多いのには驚きです。東京都ではもう30年以上前に、教育の場で「父兄」は勿論ですが、「両親」「父母」でもなく、「保護者」という言葉は常識でしたが・・・。「母」他はどこへ行ってしまったのでしょうか。

記事では、その卒業生代表が「沖縄が返らず、ベトナム戦争も終わらない。また全国的に学園闘争が広がっているが、こうした深刻な問題について我々は無関心であってはならない。目をそむけず、責任ある行動をとることが問題解決への道だと思う。学校も在校生も自由な学園づくりにもっと積極的に取り組んでほしい」と述べたと書いてあります。時代を彷彿させますね。その後数年、卒業式は一層「教育批判」の場となっていたと、随分あとから聞きました。

それぞれの「DEPARTURE!」、おくりびとの思いも様々ですが、日本社会の改革の担い手になって欲しいですね。

君に幸せあれ!そう叫びたいです。

この地に眠る「いのち」から

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comments: 0

 「歴史を踏まえて、東アジアの真の和解を~2009年浅茅野発掘と別院遺骨問題の解決を目指して」をテーマにした集会が開催されました。

主催したのは、「強制連行・強制労働犠牲者を考える北海道フォーラム http://www.asajino.net/」で、秋山財団からも平成19年度と20年度、社会貢献活動助成で支援をしています。この市民活動の中心は、様々な分野や団体の方たちで、共同代表も多彩な顔ぶれですね。北海道華僑総会、韓国民団北海道地方本部、朝鮮総連北海道委員会、日本キリスト教会、浄土真宗等、国・宗教を越えています。個人の資格での参加として、特定の政治方針、宗教的信条に縛られることなく、「犠牲になった遺骨のご遺族を探して、遺骨をお返しすること」を目的とする市民運動にしようと合意してスタートしています。

ところで、北海道内の遺骨情報というのを、私は良く知りませんでした。この北海道の各地の寺院納骨堂に、記録とともに残されている場合も多々あるようです。根室市の寺院には、飛行場建設に伴う強制連行による朝鮮人犠牲者、老人ホームで亡くなられたとみられるご遺骨、美唄市の寺院には、炭鉱坑内事故の犠牲者、室蘭の寺院には、軍事工場に強制徴用されて、終戦直前に艦砲射撃によって犠牲になった朝鮮人犠牲者、そして道東猿払村の浅茅野(あさじの)飛行場建設現場横の土に眠る強制連行された朝鮮人、タコ部屋労働者のご遺体・遺骨等。この北海道に眠る、多数の「いのち」の足跡に対する無知を恥じる私です。

しかしながら活動は、それら犠牲者の身元を調査して探し出し、返還すれば済むという簡単なものではありません。ご遺族を探し当てる活動も大変な努力ですが、見つかったご遺族側として、直ぐに引き取るというお気持ちにはならないようです。経済的事情の他にも、全く理不尽にお亡くなりになり、そして60有余年も「放置されてきた」事実を、無かった事としてすぐに受け取るのが難しい現実である事は、私たちにも容易に理解出来ます。「遺骨をこのまま持ち帰ったのでは、謝罪を表明すべき人たちの責任が曖昧にされたままになる」という主張です。雇用していた企業の責任、日韓交渉時日本国政府の戦後賠償問題等、複雑な歴史からくる感情により、敢えて「持ち帰る事を断念する」ご遺族の行動に心が痛みます。

昨年7月9日に、G8サミット開催と時を同じく、国際シンポジウム「市民がつくる和解と平和」が札幌で開催されました。http://kitay-hokkaido.net/modules/event/index.php?lid=12&cid=2 韓国・中国・ドイツ・オーストラリアからゲストも出席されて、内容の濃い意見交換が行われました。

今年5月に、猿払村浅茅野で遺骨発掘事業が計画されています。2006年8月に、海外からの参加者も含めて300人を越えるワークショップが現地で開催されましたが、それ以来です。戦後を生きる日本国民として、海外の市民と連帯して、過去の歴史の犠牲者及びその家族の方々とどう向き合うのか、東アジアの新しい時代を切り拓く為にも、過去から逃げることなく真摯に考え、議論し、行動して行きたいものです。

「メディア・アンビシャス」、始動!

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comments: 0

 「メディア・アンビシャスhttp://media-am.org/」という任意団体が始動しました。

より良いと感じた番組や報道を応援し、それらが少しずつ増えていくこと、そのことがメディア状況の改善に少しでも役に立つ事を願って、活動を開始します。多面的な視点を持ち、志あるメディアと、携わる人たちを勝手に応援するもので、私も世話人の一人として関わります。23日に「設立の集い」がシアターキノhttp://theaterkino.net/で開催されました。

「光と影~光市母子殺害事件 弁護団の300日~」上映とシンポジウムでした。制作した東海テレビプロデューサーの阿武野勝彦さんのご講演とその後のパネルディスカッションでしたが、今年5月からの裁判員制度にも言及され、大変内容の濃いひと時でした。以下に印象に残る言葉を書き留めました。

*裁判員制度とメディアの関係は、大変重要になってくる。メディアの役割を徹底的に議論する必要性

*過剰な「忖度(そんたく):他人の気持ちを推し量ること」によりかたち作られる世論、それが異常なバッシングへ

*「分かりやすさ」と「単純さ」の違い、「パブリック・オピニオン」と「ポピュラー・センチメント」、世論と輿論、そして世間

*映画ドキュメンタリーの方がテレビドキュメンタリーより高級イメージ?

*刑罰に「仇討」概念を入れてはいけない

*「記者クラブ」の存在そのものが報道の「しばり」として機能――社会が持つ「横並び意識」

優れた番組や記事の表彰などを通して、質の高い報道を市民が支えようとするこの活動に、メディアリテラシーの大切さを思う多くの方々のご参加をお待ちしています。

「話を聴く姿勢」は基本ですよね

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comments: 0

 これまで私は、数多くのフォーラム・シンポジウムに参加していますが、来ている方々の「聴く姿勢」も実に様々ですね。

私はいつも開会の15分前には受付を済ませ、好きな座席、殆どの場合中央部分左側か右側サイドに座ります。先日のフォーラムでは、いつもの様に着席していましたら、開会前のアナウンスでは「満席の予定ですので、お詰め下さい」との司会の説明にもかかわらず、壁際の左隣が二つ空いていました。基調講演が始まって20分位したら、若い男性がやってきて私の二つ隣の壁側に座りました。講演がいよいよ主題の重要ポイントに入った所で、何気なく左に目をやると、何とその男性が壁に寄りかかり目を閉じて口を開けているのです。前方舞台右にお立ちになっている演者からは真正面ですので、さぞお気を悪くされているだろうな、と余計な心配でしばしハラハラでした。と同時に、こんな人物をこの貴重な講演会に出席させている団体のレベルも知れると言うものです。

そう言えば思い出すことがありました。もう20年以上前ですが、企業経営者時代に、毎年1月、あるコンサルタント会社が2泊3日で東京で開催している「年始経営フォーラム」に連続して出席していました。年の初めに政・財・学界の素晴らしい方々が、大変貴重なメッセージと時代のトレンドの数々を提供してくれて、毎年楽しみにしていたものです。ところが、数年経って気がつく事がありました。初日のスタート時で、毎年少なくとも1割は空席で3日間ともほぼ現れません。2日目になると2割以上が空席となります。多額の参加登録費を事前に支払って、上場企業が多く、一社から2名という所もありました。経営トップの方ばかりではなかったのですが、「経営者というのも突然の用事で大変だな」と最初は思っていたのです。ところが休憩時に主催者の方との何気ないお話の中では、会社には「出席している」事になっている場合がほとんどとか・・・・。それでは出席登録している人たちは何処へ(?)行ってしまっているのか、と疑問に思ったものでした。私は高い旅費を払って楽しみに来ているというのに、です。バブル華やかな頃でもありましが、企業を支える方々のモラルも緩んでいたのでは、と後になって、妙に納得した次第です。

そうかと思えば、昨年末の札幌での比較的少人数の講演会は、全く逆に大変引き締まった緊張感を受け止めました。どうしても前の会合の都合で冒頭からは参加出来ず、30分程遅れて会場に入りました。静かにドアを開けたその瞬間の会場内の雰囲気が、ピーンと張りつめた演者と若い世代の聴衆の一体感をかもしだしていました。息を堪えて空いている一つの席を見つけて着席し、充実したその後のお話を聞いておりました。

ある講演企画時に、事前に演者が、「午前中の人たちに集まって貰いたい」と言われました。話を聴いて、「良い話だった」と横になって寝てしまう様な夕食後のタイプ、あるいは「一服の清涼剤のようでした」と一言発してお仕舞いのような方々には、来て頂きたくないとのメッセージです。せいぜい午後3時位までの方々という感じでしょうか。

90年代後半に、「21世紀を語る」みたいなフォーラム・シンポが随分流行しました。そう言ったテーマには結構沢山人が集まっていましたが、時間のある方が集まる傾向も強く、そうするとどうしても年配の方が多くなります。年寄りがダメとは言いませんが、「この方は21世紀まで生きていられるのだろうか」と思われる方が、延々と質問と称してご意見を述べられるのには、何回も閉口致しました。

人の話を「聴く」のは、なかなか難しいものなのでしょうね。

お目出度過ぎですよ!

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comments: 0

 この所のニュースのドタバタを見えていると、何かを語らねばという以前に、認識のお目出度さに恐ろしさを覚えるのは、私一人ではないでしょう。政治家の云々を言っている暇は私にはありませんが、来日したクリントン長官に関しては、どうしても認識を間違えないようにしなくては、との強い危惧を抱きます。

メディアでは盛んに「最初の訪問に日本を選んだ(?)」、「日本重視のあらわれ(?)」との見出しですが、とんでもないという感じですね。同時にオバマ政権内での「知日派」に対しても、お目出度く「親日派」との思い込みが強すぎます。その立場立場での発言を冷静に吟味して対応しなければ、まさに国民は大変な犠牲を強いられます。メディアも深読みして貰いたいと思いますね。

「クリントン長官がアジアを最初の訪問先にしたのは『消去法』の結果だったといえる。米国の外交全体のなかで、オバマ政権の他の大物たちが手がけたために国務長官自身が少なくとも当面、すぐには踏み込めないという地域やテーマを除外していくと、残された地域は北東アジアと中南米だけだった。だが中南米にはベネズエラのチャベス政権はじめ反米の政府や国民感情を抱く国もあり、米国務長官のデビューの歴訪の対象としてはリスクが高すぎる。その点、北東アジアはわりに米国に友好的な諸国が多く、残された唯一の候補地域となった。」、「ましてクリントン長官は就任後すぐ、このアジア歴訪の途につく前に、ワシントンで英国やフランス、ドイツの外相と、それぞれ個別に会談しているのだ。」との報道も目にします。「日本が最初」ではないのですよ。

先日、証券会社の国際金融のプロから個別にお話を聴く機会がありました。新しい時代の基軸通貨はどうなるのか、国際金融の中で米ドルの位置づけは今後どうなるか、円高はどういう展開になるかについて、興味深いお話の数々でした。その中で、今世紀における米国の通貨政策の主たる対象通貨は、日本円ではなく中国元ではないかとの観測は、特に興味を引くものでした。先日のガイトナー財務長官の中国政府の為替介入への牽制等も、そうした背景からくるものだったと理解すると、腑に落ちます。そして、更に衝撃的なのは、日本の位置づけが「アメリカのポチ」、すなわち交渉を必要とする相手ではなく、いつでも言う事をきかせられる相手であると。

オバマ政権は急激に膨らんだ軍事費を何とか削減しようとするでしょう。それが「軍縮」を意味するのなら国際社会も歓迎ですが、極東における場合、仮に基地等の削減ではなくコストを日本国に肩代わりさせる戦略だとすると、日本は国際紛争へ否応なしに引きづり込まれる事になります。1400兆円を越える財源をさほどの交渉もなく引きずり出させる、そんな泥沼だけは避けなければなりません。アメリカ国債を買っている国では、日本を抜いて中国が初めてトップになりましたが、二重三重の意味合いで、「ポチ」で良いはずはありません。国際金融の視点からも、防衛の視点からも、本来の自立する「パートナー」である事こそ、真の「国益」だと思います。

随分前ですが、確かアメリカの陸軍幹部候補学校のカリキュラムだったと思いますが、リーダーの向き・不向きという項目で、能力の高い・低いがX軸、やる気の高い・低いがY軸をイメージして、どのタイプが最もリーダーに向いているのか、という問いがありました。普通は最も適性のあるタイプは、能力が高くかつやる気も高い人と答えるのですが、実は現実はそれではないそうです。リーダーが能力・意欲ともに高いと、部下が馬鹿に見えるのと誰もついていけない場合が多いそうです。正解は能力が高くやる気の低い(低い素振り?)人だそうです。その次は意外なのですが、能力が低くかつやる気も低い人、この場合は部下がこのままではいけないとの思いで危機感を持ち、結構人材が輩出される場合が多いそうです。最悪は、能力が低いのにやる気のある人だそうです。判断の間違いが多く、蛮勇タイプでやりたがり、無理が多くて犠牲者が増えるそうです。言わんとする所は、結局はリーダーは能力が高くなければいけない、なのですが・・・。この所のアメリカ・ロシア首脳とのやり取りを見ながら、思い出しました。

国のリーダーを選ぶのは、疑いなく投票を行う国民です。ワイドショーでさんざんこき降ろして、「ハイ、次のニュースです」では済まされません。国の民度は、リーダーをみれば一目瞭然です。夜明け前の暗さの中で、暫くは国民は我慢でしょうか。

富良野塾に思う

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comment: 1

 14日に富良野演劇工場での富良野グループ公演「屋根」http://www.furanogroup.jp/furanojyuku/index.html の千秋楽、昼・夜2回の公演を観てきました。17・18日には札幌公演も予定されていますね。富良野塾からはこれまでに300名を越える若い有能な役者・脚本家が育っています。勿論、芝居自身の面白さもありますが、私は倉本 聰さんの一番の功績は、今日までの人創りへの情熱だと思います。

「屋根」は、戦前・戦中・戦後の歴史を物凄いスピードで駆け抜けていく一つの家族の物語。濃密に時代時代が凝縮されていて、舞台とはいえ映像の世界でもありました。「川の流れのように・・・・」、「誰を恨むのでもなく・・・・」、「“屋根”が満天の星たちに語った物語・・・」、「熊を追い出しての自分たち人間の生活・・・」、「果たしてこの豊かさはいつまで続くのか?」、沢山のキーワードが、終演後も頭の中を駈け巡ります。そして、時代を越えた“本当の幸せ”とは?、のメッセージが分かりやすく伝わると同時に、場面場面の暗転は流した涙を拭くための気配りと、終わってから気がつきました。

今回やっと富良野の現地、富良野演劇工場に足を運ぶ事が出来ました。札幌駅バスターミナルから富良野駅前まで2時間50分、三日月食堂で懐かしいラーメンを食べて、富良野駅前から演劇工場までマイクロバスで10分、振りかえってみると札幌駅のバスに乗る所から、何か今回の芝居が始まっていたような気がします。富良野に近づくにつれて山並もそびえ立ち、駅前からは北の峯のスキー場も白い帯状に見えました。もう20年以上前でしたか、本州からのお客さんと一緒に滑りに来たのは。ダイナミックな素晴らしいスキー場だと感嘆していました。

会場入り口で防寒具に身を包み車の誘導をしている方が、どうも私の知っている方に似ていました。昼の部終演後には、その方がロビーで観客のお見送りをされていました。近寄ってお話をすると、何と今回の1か月公演の実行委員長をされているとか。実行委員長が率先して寒空の中車の誘導、地元の沢山の方々の協力・支援も受けての公演に、一層観劇、いや感激しました。

近年は、夏の観光客の方が多いそうですね。5年前に、私の東北の親戚たちとの「いとこの会」で、富良野のラベンダー園、美瑛のパッチワークの丘等を見て回りました。ラベンダーの畑は色も香りも写真以上でしたね。ラベンダーソフトアイスクリームも忘れられないし、経営者の富田さんは随分前からラベンダーの研究をされていた事も知りました。

昨日の早朝、ホテルから駅までのタクシー運転手が、「倉本さんの後が心配です」と言っていましたが、私は「沢山の若い方々が育ってきているではありませんか。むしろこれからが楽しみですよ」とお話をして、車を降りました。

1984年に設立した富良野塾は、富良野GROUPという創作のプロ集団として活動してきましたが、2010年の25期生卒塾をもって閉塾するそうです。この間の育成された数々の人材は、今羽ばたいていてこれからも活躍してくれるに違いありません。ホテルの窓から丘にある演劇工場の建物を見ながら、「担い手を育てる」価値を再認識し、私の夢は膨らみました。

あらためて「民」が担う「公共」

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comments: 0

 この所、「公益法人」という活字がメディアに再三登場しています。ある時は、「天下り」、「渡り」の受け皿として、そして「漢検」理事長の儲け過ぎ等、いつも悪役です。

昨年12月1日に公益法人改革三法が施行されました。その意味会いについては、この部屋の’08.11.28付で書いています。NGO・NPOに比べて、「財団法人」、「社団法人」が話題にのぼる時は、ほとんどいつもネガティブニュースとしてであり、20年以上財団法人に関わる私としては、大変残念に思っています。日本には沢山の優れた財団・社団も多く、実に堅実な活動を続けている事実を、出来るだけ多くの方々に知って頂きたいし、世界のすう勢として、民間の諸団体・NGOが国を越えて世界の課題に果敢にチャレンジしている現状を忘れてはならないと思います。常に「本物」を求める姿勢、あるいは「本物」を見極める眼力を養うとでもいうのでしょうか。メディアを筆頭に、そんなスタンスであって欲しいものです。

それにしても冒頭に掲げた事例は、日本社会の民度の低さを露呈していますね。「いかがわしい」の一言です。こういった「エセ公益法人」に対して、厳格な評価を下す勇気を日本国民が持たない限り、まだ残る「エセ公益法人」は生き長らえるし、今後も更に出現する危険性もあると思います。厳格な評価は、しかしながら、管理・監督を強める事によって為されるとは思いません。役所の仕事は所詮その場限りで、設立後の活動の評価などは期待するのも無理というものです。天下り先の確保という動機以上の、継続的評価をする気もないでしょう。日本に「民」が担う「公共」を定着させる唯一の方法は、優れた活動の継続と連鎖によって、地域の人々の信頼を得る事以外には無いのだと思います。行政は、その意味では「邪魔をしない」事が、最も重要なポイントです。

補助金の貰い上手な「公益法人」・NPO、極く限られた人しか知らない助成制度等、制度・基準の「透明性」も大切ですね。企業でも全く同じですが、日本社会は未だに「隠している方が得をする」、そんな社会なのではありませんか。

先日も助成財団センターhttp://www.jfc.or.jp/ のフォーラムで、演者がお話をされていました。国・自治体の官の政策としては、どうしても難しい分野の増大、対応の遅さ等に対して、グローバルな課題・ローカルの個別の課題への「民」の機動的な活動の価値は、これから更に拡がってくる事は間違いないでしょう。

「民主」と「愛国」

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comments: 0

今年の年始に一気に読もうと思っていましたが、正月の箱根駅伝とか他の面白いテレビに時間を費やして、机の上にそのままになっていました。1000ページの小熊英二著「民主と愛国」を、やっと読み終わりました。「戦後日本のナショナリズムと公共性」という副題もあり、永年、第2次世界大戦後を一度きっちり整理したいと思っていましたので、その中の「戦後知識人」について、今回は取り敢えず宿題を終えた気分です。

http://www.shin-yo-sha.co.jp/mokuroku/books/4-7885-0819-2.htm

価値の発掘、再評価という作業は、歴史認識に基づくものでしょう。私は今まで次から次と発生する目の前の事象に目を奪われて、20世紀の歴史をしっかり自分なりに振り返る時を持てませんでした。とりわけ第2次世界大戦の前後から今日までの歴史・思想の変遷を、あらためて自分なりに検証してみたいと思って、「東京裁判」に関する書籍、「戦後知識人」の足跡等について、この数年特に興味を持っておりました。

「東京裁判」については、それ自体の経緯と事実、そして世界の中での日本の枠組みとしての位置づけ、サンフランシスコ講和条約締結、国連加盟への一連の経緯について、より自分なりに整理をしたかったのです。靖国神社への総理の参拝、戦争責任の所在、組織活動責任の取り方・取らせ方等、現在にもつながる諸問題解決への沢山のヒントを得ました。日々の新聞記事・論評からは得られない確信みたいなものです。

「戦後知識人」については、私が大学に入学した1969年から40年、未着手の課題でした。18歳の時に札幌から首都圏に出てみて、吹き荒れる社会問題への学生たちの行動の時代、初めて「井の中の蛙」であった自分を自覚しました。大学入試それ自体が中止になったり、社会というのが変わるのだと実感しながら、札幌から汽車・連絡船・汽車を乗り継いで上野駅へ行った昔。

http://www.chiba-u.ac.jp/message/talk/36_akiyama.html

大学1年のある日、大学のある西千葉から遥か遠い東京都内の豊島公会堂に行きました。その日は、堀田善衛、大江健三郎、小田実の3人の講演会でした。恐らく私が「知識人」の話を直接聴いたのは、この時が初めてだったと思います。大江健三郎の話は訥々としていてなかなか聞き取りにくいお話で、文章で読むほうがはるかに理解しやすいな、と思ったものです。小田実は早口の大阪弁で、カン高い声でしたがストレートに心に響くものだったのを覚えています。

その後、数多くの集会・講演会に出かけました。その中で、丸山眞男、吉本隆明、江藤淳、等の戦後知識人の名前を繰り返し聞きはしましたが、じっくり著書を読む訳でもなく、時が過ぎていました。60年安保闘争以降の思想の流れの概略は理解していたつもりですが、「戦後民主主義」、「マッカーサー元帥の評価」、「日本国憲法」等の話題については、1945年直後から15年間の私なりの空白を強く感じて、自分の軸がぶれる時も多々あったように思います。そしてあの戦争をしっかり理解する為には、さらにその前の明治維新以降の歴史についての考察も必要なのだと感じました。宣戦布告への歴史は、決してあるひと時の熱病的なものではなく、歴史の「うねり」としてかなりの時間的幅があった事実、そしてそれ故に今の現状と将来に対しても、我々一人一人が自分の頭で考えて声を出していかなければ、同じ様な道を辿る危険性が十分にある、そう強く思うのです。

今回、この本を読み終えて、1)1955年を境にしてその前の「第一の戦後」、その後の「第二の戦後」と整理すると、同じ言葉の持つ意味あいが大きく変わっている事実、 2)戦争体験というものが実に多様であること、 3)自己体験により、その後の思想が大きく影響を受けること、別の言い方をすると逃れられない社会的制約要因を検証する大切さ、等で新しい気づきがありました。

「護られるべき祖国とは何か」という問いに対して、「『祖国』とは自分が信ずる原理であり、地縁・血縁と一致する必要はない。『ナショナル』でも『インターナショナル』でもない、『人間』の原理である」と答える知識人の言葉が印象的でした。今、世界金融恐慌の中、日本がこれまでのアメリカ一辺倒から、本来の先進国パートナーとして自立し、アジアの一員としてのポジショニングを取ろうとする時、やらなければならない事は明確なのではないでしょうか。

キューバ映画祭、そしてチェ・ゲバラ

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comments: 0

 今年は、日本・キューバ外交関係樹立80周年、キューバ革命50周年という記念すべき年で、関連したイベント企画が相次いで開催され、1月31日から2月6日までは、キューバ映画祭が札幌で大盛況で行われました。http://cubanfilmfes.web.fc2.com/index.html

ウイークデイの日中はなかなか足を運ぶのも難しかったのですが、期間中に「ハロー・ヘミングウェイ」、「低開発の記憶」等6本を見る事が出来ました。また、この映画祭とは別でしたが、チェ・ゲバラの2本の映画も見ました。http://che.gyao.jp/

キューバと私とのはじまりは、1994年、高校同窓会の幹事当番期だった時、エリオ・レベ率いる「オルケスタ・レベ」のライブコンサートを企画した事でしょうか。札幌の狸小路6丁目にあるライブハウス「HABANA」

http://homepage.mac.com/salsacubana/habana.html

の経営者K氏の企画(思いつき?)により、同窓会では初めてのライブとなりました。同窓会創立99周年という事で、賑やかにやろうよとスタートはしましたが、来日までの苦労他、今となっては素晴らしい思い出ではありますがかなり大変でした。日本へのビザがなかなかおりなく、一時は入国も危ぶまれる状況でした。30名程の大男が同窓会前日に空港からススキノのライブハウスに現れた時は、思わず大拍手でした、「よくぞ来てくれた!」と。当日の音楽も素晴らしく、老若男女問わず、思わず踊り始めていました。リーダーのエリオ・レベのサインは、今も私のウインドブレーカーの背中に大切に残こしています。帰国して数年後K氏から、レベがハバナでトラックに轢かれて亡くなった事を知りました。眼差しの優しい「レベおじさん」でしたので、大変心が痛みました。

キューバは、今では「農業」、「医療」等で大変話題になっていますが、キューバ革命後も苦労の連続と言ってよいのだと思います。アメリカに接近するが故の難しさ、ソビエト崩壊等、貧しさとの戦いの中から、国民のニーズを国の指導者がきっちり掴んでの国家政策に、あらためてカストロの指導力を感じます。ゲバラが英雄になり得たのも、その後のコンゴ・ボリビアでのゲバラの活動を振りかえってみても、各国における革命のリーダーの大切さを強く感じます。

ゲバラという人物は、どうしてあれ程「革命」に身を捧げ続けたのでしょうね。自国で医師として十分活動できる基盤を持ちながら、ただ「正義」の為とはどうしても思えません。常に「危うさ」を伴いながら、ある意味ではいつ死んでも不思議でない状況の中で、それを越えてでも実現しようとした事、そしてその強い動機は、今も私にとっては謎です。

昨年、ゲバラの娘さんが来日して、数か所で講演をされていましたね。私は直接出席する事は出来ませんでしたが、父としてのゲバラ像を語っている記事を読みました。

集中的にキューバの歴史・文化に浸ったこの10日間でした。

生物多様性フォーラムで、一歩前進

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comment: 1

 秋山財団の助成事業の中で、環境をテーマにした活動への助成が多く、昨年開始した「ネットワーク形成支援事業」でも、同様の傾向が見られます。それらを評価する為にも、私自身が見識を高める必要を感じて、この数年遅ればせながら環境分野の勉強を深めつつあります。「温暖化リスク」に続いて、有限会社イーズhttp://www.es-inc.jp/ が主催する「企業と生物多様性フォーラム」に参加しました。企業の環境関係部署の方々、環境へのコンサルティング会社の方々等、大変インテリジェンスを感じる「知的集団」というか、熱心な雰囲気のひと時でした。遅れて関心を持った私としては、みなさん先輩という気がして得るものが多かったです。

特に「いまなぜ生物多様性か」で、最新の世界・日本の動向を知ったこと、と

ミレニアム生態系評価http://www.biodic.go.jp/cbd/2006/pdf/1204_2_4.pdf

生態系サービス評価(ESR) http://pdf.wri.org/corporate_ecosystem_services_review_jp.pdf 

について知る事が出来て、ストンと腑に落ちました。「生物多様性」と「人間の幸せ」との間に、生態系の機能として「生態系サービス」という概念を想起する事により、人間と生物多様性との関係性が大変明確になりました。橋渡しの「言語」としての4種類も分かりやすいですね。そのイメージをつかむと、生物多様性の「保全」と「活用」が人類にとってのテーマだと浮き彫りになってきます。以下、当日の私のメモから印象に残るフレーズを幾つか。

*生物多様性のキーワードは、「つながり」と「バランス」、そして「つながり」を取り戻す活動であり、「戻す」よりも「先へ進む」事。「Resilience」という言葉が「温暖化リスク」と同様に、こちらでも出てきました。「しなやかな強さ」と訳しているそうです。

*環境問題の人類としての進化: 公害ーー>温暖化ーー>生物多様性

*アービン・ラズロー 「未来は予測するものではなく、創り出すもの」

*企業としてポイントは、「どこで見切って活動を開始するか」である

*企業で多様性のリスク・オポチュニティを分かりやすくする為には定量化(お金に換算する必要性)も大切、アメリカでは連邦法でクレジットの売買を市場で初めているとか。

*日産自動車(株)の取り組み事例では、「水問題」もテーマの一つ

先進的企業は、本業での技術開発ばかりではなく、水問題への考察・取り組みにも着手している事を初めて知りました。講師だった有限会社イーズの枝廣淳子さんは、日本の企業は基本的に大変真面目なので、課題の認識が明確になって方向性が定まると、几帳面に推進していく信頼感があるとお話をされています。先日集まられた企業の方々とお話をしていても、強くそれを感じました。ただ、日本の90%以上は中小企業で、この企業群が日本経済を支えている訳で、先日の意識レベルと活動を、どう地元で展開していけばよいのか、知恵のいる所だと思います。逆に、地場企業は、地域環境とは密接ですので、環境悪化等は現場感覚として持ちやすいとも思いますね。一番の壁は、従来型の「経済団体」幹部の意識変革かもしれず、当初は恐らく抵抗勢力として構造的にはなるのでしょう。子供・孫の世代の為に、あきらめずにやれる光を見出した先日のフォーラムに感謝です。

オバマ演説を語らなければ

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comment: 1

 アメリカのオバマ大統領就任演説から2週間以上が経ちました。新聞は一段落しましたが、まちの書店ではどこも「オバマ演説集」コーナーが複数あって、大変な反響ですね。語学テキストコーナーにも沢山積んでありました。

今度の演説で私が最も「凄み」を覚えたのは、大統領としての就任演説が、明確に選挙戦での演説から決別した事でした。この間候補者として支援者向けに発信された内容から、世界のリーダーとしてこの世紀の難局に向かう覚悟への転換をした人物の、「勇気」と「見識の高さ」と「言葉の重み」を感じました。以下、思うままに幾つかを。

1) メディア的には「8割の感動」とか、「失望の書き込み」とかの見出しもチラホラ散見しますが、私はそんな皮相な論評を越えるオバマ大統領の決意とメッセージを受け止めました。「試練」「再建への決意」「リーダーシップ」「多文化社会の強さ」等、これ以上ないという程吟味された短い言葉に凝縮した表現によって、濃い内容でした。正直に言いまして、テレビで見て、聴いている時にはそれほどまではそしゃくできませんでしたが、活字で後から読み直して見ると、凄いなと感じました。ブッシュ政権への厳しい評価も、「Change」を実質的に表していました。

2) 少なくとも勝利演説までの選挙戦の雰囲気を期待して集まった方々には、確かに予想外だったかも知れません。それをオバマ大統領は、敢えて今日からは違うのだと語るのではなく、その演説内容で全世界の人々を意識して表現した、とりわけ選挙で支援してくれた人々にも強いメッセージを伝えた、と思います。途中では「あれっ」と思わせて、終わってみれば「あっ、そうか」という感じでしょうか。それでも演壇に立つオバマ大統領と時間・空間をともに感動を共有したいと集まった方々は満足だったのです。

3) 20代の日本の若者が言っていました。昨年初めからオバマ氏のスピーチに興味を持って聴いていたが、最初の頃から人の心に染み入る英語が素晴らしかったし、それが進化していく様子も理解できた、と。それは何なのでしょうねとその方とも話していたのです。新大統領は日本的に良く言われる「笑顔が大切」というスタイルで演説はしませんよね。むしろ厳しい表情で間合いを取って語りかけるその雰囲気に、人々は引きつけられるのだと思います。ブッシュのあの品格の低い顔、言葉には、何人かのアメリカ人の友人も、「アメリカの恥」と言ってはばかりませんでした。

4) 日本人の翻訳者の方が、「久しぶりに国のリーダーの言葉に触れた気がした」と語る記事を読みました。その辺が語学コーナーにもオバマ大統領演説が登場する所以でしょうか。そう言えば、ここしばらく私は品格のある日本語に接する機会を持てずに居るような気がします。余談になりますが、これまで私が最も感動したお言葉、それは2000年の東京女子医科大学http://www.twmu.ac.jp/U/about-twmu/ab00spirit.html創立100周年記念式典での天皇陛下のご挨拶でした。当時医薬品卸会社の代表として、前方でそれをお聴きしていて、その深い内容とお言葉の美しさは今でも忘れられません。因みに宮内庁のスピーチライターは、中央官庁の中でも最高のレベルとか、後からある官僚の方から伺いました。

―――東京女子医科大学創立百周年記念式典
平成12年12月5日(火)(ホテルオークラ)

東京女子医科大学が創立百周年を迎えるに当たり,皆さんと共に,この記念式典に臨むことを,誠に喜ばしく思います。

東京女子医科大学は,当時低かった婦人の社会的地位の向上を願う女医吉岡彌生により明治33年東京女医学校として創立されました。医院の一室を教室にした生徒4人のささやかな学校の門出でありました。開校8年目にして生徒の一人,竹内茂代が医術開業の国家試験に合格し,初めて学校の卒業式が行われました。この医術開業試験の合格は学校中を喜びに浸らせるものでありましたが,卒業式に招かれた来賓の祝辞は女医の進出を祝福する発言とそれに反対する発言に分かれ,決して祝賀としてのみの行事とはなりませんでした。女性が生きる上において今日では考えられないような厳しい時代であったことが察せられます。東京女子医科大学の100年の歴史を振り返るとき,幾度も人々の無理解に傷つきつつ,本人の強い意志をもって様々な困難を乗り越え,その後の女医の道を切り開いていった吉岡彌生始め当時の女医の苦労がしのばれます。

東京女医学校は,吉岡校長始め,多くの人々の努力により,東京女子医学専門学校,東京女子医科大学と名称を変えつつ発展し,今日に至っています。その間,多くの医学,医療に携わる人々を世に送り,我が国の医学,医療に貢献した功績は大きく,ここに深く敬意を表します。

この100年の間に,吉岡彌生の女医学校創立の動機となった婦人の社会的地位も次第に変化を遂げてきました。昭和21年,戦後に行われた最初の衆議院総選挙で婦人参政権が初めて認められ,竹内茂代議員が誕生したことは,少年時代の私の記憶にもはっきり残っています。婦人参政権が認められたことは,戦後に行われた大きな改革の一つでありました。

今日,医学,医療は関連諸科学の発展とあいまって,非常な進歩を遂げています。この進歩により,人々の受ける恩恵は計り知れないものがありますが,一方進歩していく医学,医療に携わる人々の仕事に対する厳しい姿勢や人間性が,より深く問われるようになってきていることも事実であると思います。

東京女子医科大学が,そこに流れている至誠と愛の精神の上に立って,医学,医療を志す女性のために,また,医療を求める人々のために,今後とも大きな支えとなっていくことを願い,式典に寄せるお祝いの言葉といたします。――――――

5) 日本のメディアの扱いが、相変わらず浅薄でした。画面に登場するニュースキャスター・コメンテーターは、本当にオバマ大統領の演説をお聴きになったのでしょうかね。そんな時間もないほどに、テレビに出ずっぱりなのでしょう。コメントから逆にその人の品格と見識を知って(再確認して?)しまいます。その中で、「nikkeibp」で配信された「水野博泰の『話題潜行』from NY」は面白かったです。記者証を同僚に渡して、敢えて一市民の目線で列車で乗り込み、会場を往復しての取材は、臨場感あふれて印象的でした。終了後のゴミの山を見ての彼の感想にも共感しました、「アメリカ人は本当に変われるのか?」と。

6) 先月末のある新年の集まりで、自治体の保守系議員が挨拶でお話をされていました。「オバマ大統領の就任演説には本当に感動しました」と。乾杯の前の挨拶でしたが、「冗談じゃないぞ!あんたの立場はそんな事言っている場合じゃないだろう!」とつぶやいて隣の方と乾杯しました。日本の事は今日は言いたくない、そんな愚痴も言いたくなる保守本流日本国民の一人です。

これからが本番、沢山のネガティブ情報にさらされながらも、次々と政策決定をしている様子に、スタッフの実力も読み取れます。オバマ政権の中で、私としてはガイトナー財務長官に注目しています。

出版された、「ドナウの叫び」

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comment: 1

 下村徹著「ドナウの叫びhttp://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4344015908.html」 が昨年11月25日に出版されました。

2008年11月8日のこの欄に、「日本に帰化した芸術家、ワグナー・ナンドール」と題して私の叔父を紹介致しましたが、昨年末に彼の人生をたどったワグナー・ナンドール物語が出版されました。芸術家というと日本では、社会的には芸術・文化の世界を担う、或いは教育界で活躍する人々というような、ある限定されたイメージを持つのは私一人ではないと思います。しかしながら、ワグナー・ナンドールは、二度の敗戦、冷戦、動乱(革命)、政治犯としての指名手配等、時代の荒波に翻弄されながらも、希望を捨てず主体的にたくましく生きました。そして日本の武士道精神と出会い、日本人ちよと巡り合い、日本に帰化して、栃木県益子町でアトリエを構えて創作活動を続けた波乱万丈の人でした。

http://wagnernandor.com/indexj.htm  、http://kankou.4-seasons.jp/asobu/509.shtml

私はこれまでハンガリーには2回程行った事があります。最初は、この本にも登場するテーケシュ氏が中心となって、ナンドールの生まれ故郷ナジュバラド(現在はルーマニア領で名称もオラディア)で開催されたシンポジウムに参加の為に、もう一回は北海道演劇財団のハンガリー公演の同行でした。http://www.h-paf.ne.jp/ 今年の秋、3回目が実現するかもしれません。

ある時に、現在ハンガリーに設立されているワグナー・ナンドール財団の理事長から、日本ではどうしてハンガリー「動乱」と言うのでしょうね、と問われました。「動乱」とは辞書によると、世の中が騒がしく乱れること、と何の事かよく分かりませんね。彼は、1956年の出来事は明確にハンガリー「革命」ではないか、との主張でした。私は、日本の教科書では昔も今も確かに「ハンガリー動乱」であり、ハンガリー政府への配慮のつもりなのではありませんか、と曖昧に答えました。そうすると、「ハンガリー共産党政権は、1989年に崩壊しているのですよ」と更なる言及でした。

日本の教科書の歴史記述には、幾つか意図的な言い換えがありますね。最近では沖縄戦における日本軍の関与について、無かった事にさえなってしまいますので、要注意です。特に立場の違いによる戦いの歴史の記述では、「闘争」が「紛争」になったり、「革命」が「事件」となったりです。在った歴史事実を削除するのは論外としても、事実に基づいて時代とともに表現が変わる事(再評価)はあってもよいのではないか、と思います。

芸術分野も同じかも知れません。周辺諸国も含めたハンガリーにおいて、この10数年来ワグナー・ナンドールとその作品の再評価のうねりが高まっていて、実際に幾つかの街で彼の作品が広場・公園に新たな設置が始まっています。ブダペスト市内のゲレルトの丘に建てられた「哲学の庭」も、その一つです。ヨーロッパにおいては、日本に比べて彫刻作品は強いメッセージ性を持っていて、時代の評価も実に激しいものがあります。4年前のナジュバラドでのシンポも、ルーマニアの政変後に実現したイベントでしたし、開催前日にブダペストからマイクロバスでの5時間程の陸路で、途中途中で昔の同志をピックアップして乗せていく様子、ルーマニア国境を越える時の緊張感は、まるで映画の雰囲気でした。ソビエト崩壊による東欧の激変を実感しました。

広場に建つ彫刻作品は、民衆の心の支えだったり、運動のシンボルだったりする場合が多いですね。芸術家がそれだけ社会との関わりの中で重要な位置づけであり、それ故に迫害とか追放といった権力からの攻撃の的にもなってきたのでしょう。この本にも記述されていますが、ハンガリー動乱のリーダー達のその後の人生で、交通事故等の不慮の事故で亡くなる確率が異常に高いとか、何か言い知れない闇の世界を感じさせます。日本では、直近の戦争といえば第2次世界大戦ですが、そんな国は世界の中で実に数少ない恵まれた国なのかも知れません。

企業の温暖化リスク

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comments: 0

 先日東京で、「企業の温暖化リスク」に関するセミナーが開催され、日刊温暖化新聞http://daily-ondanka.com/のパートナー企業の方々が集まってのワークショップは、大変面白いものでした。

秋山財団http://www.akiyama-foundation.org/ も微力ながら活動の一環として、昨年パートナーの一員になりました。財団活動として、「生命科学の基本目標は、人類、そして地球の『健康』を確保する点にあると言えましょう。『健康』とは、人類が、世界が、平和を保つ状態だと思うのです。それは人間のコモンセンスに属すべきものであり、秋山財団の地味ではあっても着実な助成・育成活動が、北海道から日本へ、そして世界へ向けて、人類のそうしたコモンセンスの確立へと発展し、貢献する事を期待して止みません。」とメッセージを発信しています。

ワークショップでの意見交換・懇親会でのやりとりは、多様な参加者の世代・所属等により、終了してから反すうしてみても、大変奥深い内容でした。例えば、温暖化の因果関係は不確実性の中でどの程度説得力を持つのか、10年後の影響については偶然性が大きいが、10年単位での変動という時間軸ではかなりの裏付けを持つ事が出来るのではないか、合意形成の難しさ、危機の「見える化」の重要性、多様な要因の体系化等、キーワードの数々が次々に出されました。

温暖化というのは、平均値の上昇と言う以上に、変動幅の増大にそのリスクが潜んでいることもあらためて確認しました。また、科学的数字に過剰に依存しない事、変化への最適化だけではなく「しなやかさ」の必要性、頭の中に「未来の記憶」を蓄積しておく、と言った新鮮なフレーズに、当日集まった中では最高齢世代の私の頭も覚醒されましたね。

変動幅の増大に対して、「しなやかな強さ」での対応、それは時として効率化とか生産性向上とは相反する活動ともなること、そして「ムダ学」のススメ、すなわち一見ムダに見える事と本当にムダな事との違いを見極めること、の大切さも学んだつもりです。

会が終了した時に主催者の枝廣淳子さんが窓の暗幕を開けると、素晴らしい「夕日」が見えました。「ここは夕日が見える会議室で大好きです」と語りながら・・・。これまで会の終了時にこんな主催者の発言を聞いた事がありません。これが「しなやかな強さ」というのでしょうね、恐れ入りました。

津軽三味線白田くん、新春ライブ

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comment: 1

 津軽三味線の若手ホープ白田路明くんhttp://con-sent.net/peace/shirata_michiaki/が、若手3人とのコラボレーションで新春ライブ「和の世界」を行いました。「線の音」と題して、“・・・三味線、パーカッション、ベース、ピアノによるジャンルを越えた異色のコラボレーション。日本の伝統に創造と可能性を感じる音楽を、世代を越えた全ての皆様にお届けします・・・”とチラシには記されていました。

会場は、昨年からオープンした豊平区中の島のカムオンホール で、会場いっぱいのお客さんでした。http://cosmomaris-piano.com/concert/ooharae.img/map-sap.gif 津軽三味線のライブの時にいつも感じるのですが、聴きにくる比較的年配のお客さんは、高橋竹山に代表される津軽三味線のイメージを期待して会場に座っていて、若い方々は、まさに若いプレーヤーのパフォーマンスを「観に来る」風で席に着いています。昨年の登別の時も広い会場を見渡してみてもそんな雰囲気でした。何を言いたいかというと、1時間少々のライブ中に、時々お客さんが追いかけてもついていけない状態を見る気がしたのです。演奏がまずいのでは全然なく、新しい領域へのチャレンジが斬新で、大変不思議なコラボレイトに感動する一方、その挑戦に従来のイメージが強くて一緒に乗っていけないもどかしさみたいな、そんな場の空気を私は感じました。かえって白田くんが以前行ったヨーロッパ公演での若い観客の方が、そういったこだわりもなく、表に出した感動の表現が素直なのかなと思ったりします。

パーカッションと三味線は大変面白い境地を表現しますね。またピアノとのコラボレイトも新鮮でした。丁度ピアノの楽譜が見える角度でしたので、演奏とピアノの楽譜との関係も知る事が出来ました。あの簡単な楽譜でどうして沢山の音が紡ぎだせるのかと、驚きでした。

とにかく若い4人の前向きのエネルギーを受け止めて、帰り道は元気になりました。回を重ねる毎に進化していくプレーヤーを見るのは、ライブの醍醐味ですね、早速3月のライブも予約しました。

医療崩壊への処方箋

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comment: 1

 私は、医療経済研究機構http://www.ihep.jp/の個人会員になっています。なかなか時間がなく、講演会にも欠席が多いのですが、毎年、新春特別講座には出席しています。頭の整理に効果的で今年も面白かったです。

「医療へのアクセスと資源配分ー医療崩壊への処方箋を考えるー」との演題で、医師のきめ細かい分野別での養成、地域における医療の重要性と具体的方策等、示唆に富む提言の数々でした。

日本の医療というのは、これまでいろいろ言われてきていますが、相対的に世界の先進国と比べてみて、大変コストパフォーマンスの良い皆保険制度だと思っています。勿論、社会の高齢化の進行他、長い間の変化に適応した改革は日々必要であるのは間違いありませんので、設立当初のままの制度で良いという訳ではありません。ただ、基本的認識として、日本の良い所はきっちり守る姿勢とういのは、大切な事だと思うのです。昨今の議論を聴いていると、何もかにも悪いみたいな議論が多く、またまた危機感を持ってしまいますね。個別の不満・不安と制度の良し悪しの議論が、ぐちゃぐちゃになっている様な気がします。

夕張などでもそうですが、北海道の医療現場は、今危機的です。地方は病院がどんどん撤退して、広域連合としての基幹病院も残らず、結局は札幌圏の大病院までの搬送を前提とした仕組みへと移行しています。先日の講座でも、「医師不足が医療の崩壊の原因であると言われているけれど、本当にそうなのか」との問いかけが、パネラーの臨床医からありました。イタリア・ギリシアなどは人口千人当たりの医師数は日本の倍くらいいますが、医療の質が高いとは決して思えません。どうも医療の荒廃の原因を誤った認識から始めている気がします。もう一つしばしば語られる財源論です。「他の予算をもっと社会保障に回せ!」というものですよ。これも当日の報告の中でもありましたが、02年から08年だけを見ても、公共事業は大幅に減っていて、防衛・文教科学費も数字上は削減です。ただ社会保障費が18兆3000億円から21兆8000億円と、大幅に増加しているのが現状です。言いたい事は、これまでの政策では「偏在」という概念が欠落しているのだと思います。医療へのアクセスと資源配分のミスマッチというのでしょうか。今、まさに政治の出番なのですが・・・。

今後の医療政策として、幾つか印象に残った言葉を列挙致します。

*急性期病院の外来について、他の社会資源による代替を考えては――開業医が施設としての病院を支える、或いは勤務医が地域医療を支える、といった施設と担い手の流動化を図る事により、資源配分の適正化を図る

*在宅医療は4輪駆動――医師・看護師・薬剤師・歯科医師とのコラボレイト

*政策は理想ではなく、実現可能性が最も重要

*新しい法律、新しい政策、新しい制度導入には、世の中に理解されるような一体感づくりが必要。介護保険導入時の粘り強いシンポジウム・国民との対話の経過に比べて、「後期高齢者」問題で批判を浴びた一件の唐突さ。

*まずは「救急医療」を軸にあるべき地域医療体制を構築していく事が大切。

私は以前から主張しているのですが、医療問題を「医療費からの視点」だけから語るのは、地域住民にとっては大変迷惑な話です。偏在があるので、特に北海道のような過疎(札幌圏以外)と過密(札幌)が同居する都道府県では、「北海道」として出てくる数字ではどのまちの実態も示してはいません。費用としてだけ認識してしまうと、「削減」という発想しか出て来ません。社会に「必須の機能」とか、「まちづくりの要」という認識を持つと、もっと幅広い議論が出来ると思います。逆に言えば、「充実した医療体制のまち」で、沢山の人が安心を求めて移住してくるに十分な動機があるに違いありません。自治体の方々にはそう提案しています。

「まじめの崩壊」、同感ですね

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comments: 0

 東京の地下鉄駅構内にある立ち読みしやすい書店で、和田秀樹著「まじめの崩壊」(ちくま新書)を見つけました。http://www.junkudo.co.jp/detail2.jsp?ID=0109681990 「・・・世界からまじめな国民と評価されていた日本人は、いつからこのようにふまじめな国民になってしまったのでしょうか・・・」。この所私が感じている気持とぴったりのフレーズに、しばし(と言うにはかなり長い時間でしたが)立ち読みをしました。

企業でも、教育機関でも、警察・役所等の公務員集団でも、何か昔と違った雰囲気を日頃感じていた私です。社会の前提条件がこの数十年で実は大きく変わって来ているのではないか、若い世代の価値観が自分の時代とは大きく違っているのでは等、自分だけがそう感じているのか、潜在的な疑問がこの間どんどん自分の中に湧き上がり、挙句の果てには、この所の各セクターのていたらくを見るにつけて、本来戦後の時代を担う有能な人材を、第二次世界大戦で日本は大量に失ってしまったのではないか、とも思うに至ったりしました。戦争で失った資産は、その時の直接的損害ばかりではなく、それ以降の歴史にも強い影響を与えるのだという自分なりの確信でした。

昔は「暗黙の信頼」があった人々・組織が、今の時代は確認、或いは無い状態として事に臨まなければ、大変な間違いを起こしてしまう、そんな危機感を持つのです。以前外国に出張した時に、ホテルの支払い、お釣りの金額、品物の値段、乗物の時間・予約、レストランの注文等、日本で生活している時には「確認」作業など殆どしていなかった自分としては、確認の連続で慣れるまで随分と疲れたのを思い出します。それだけ忘れ・間違いが多いというか、携わっている人たちのレベルが低かったというか、とにかく日本国内程スムーズに正確には事が進みませんでした。仮にそれを自分が怠ってクレームをつけると、逆に確認をしなかったお前が悪い、に近い反撃にあったものです。帰国する度に、「日本の業務レベルは本当に安心で、いちいち確認という余計な手間がいらない、素晴らしい社会だ」と思ったりしていました。

ところがこの所の日本で感じる総体のレベルの低下と言うのでしょうか、いい加減な対応というのでしょうか、金融機関窓口業務での信じられないミスとその後のあきれる対応、経営レベルのモラルの低さ等を目の当たりにすると、どうも日本も世界なみに落ちてきていると強く思っていました。そしてその大きな要因が、個々の日本人の価値観・哲学の変化だと気が付き始めています。この本を読んで、メランコ人間とシゾフレ人間の比率が、劇的に変化してきている日本社会を知り、現状認識としては納得のいくヒントを得たような気がします。どちらが良いか悪いかというよりも、大きな変化を認識する必要がありそうです。

著者のメディアの批判にも共感します。最近の「お笑い系番組」の氾濫は一体何なのでしょうか。いえ、もっと正確に言うと「全てのニュースをお笑い系にしてしまっている」という方が正確かも知れません。視聴者が求めるからとはとても思えない、話題を「お笑い系」でお茶を濁し、思考停止に誘導しているようです。「世論形成」などという高邁な理念がある訳でもなく、野次馬以下でしょう。マスメディアは何かと言うと「公共的な報道という活動に従事している」とよく言いますが、くだらない電波の無駄遣い的番組を量産しておいて、それはないでしょうと私は思いますね。

こういった変化している日本社会で、旧来型の「きまじめさ」を信条として生きていくのは、信じられない程ストレスが溜まるのですが、「異端児」、「頑固者」と言われようが、保守本流の日本国民(?)としてと、少々力んで声を発していきたい気持です。

「課外授業~ようこそ先輩~」、長淵剛編

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comment: 1

 NHKテレビの「課外授業~ようこそ先輩」は、数日間の授業で生徒たちが変わっていく様子を目の当たりに出来て大変感動的です。正月早々この番組では、長淵剛が母校鹿児島南高の3年7組で授業を行いました。http://www.nhk.or.jp/kagaijugyou/archives/archives281.html

秋葉原事件について生徒たちに感想を求めた彼は、その答えを聞きながら明らかにいらだっている様子でした。そして丁寧に語りつつ、当時現場で周りを囲んでいた群衆が傍観者を決め込んでいる姿を指摘して、今回の授業のテーマ「叫び」へと導く場面は素晴らしかったですね。卒業を数か月に控える高校3年生にとって、小学校・中学校の義務教育年限の卒業とは一味違う不安が心をよぎるのでしょうか。「社会」への旅立ちとも受け取れる時期に、長淵剛に出会えた生徒たちは幸せです。この授業を受けてどんどんと引き込まれて変わっていく様子が、それぞれの生徒たちの表情から読み取れました。

納得のいかない高校時代を過ごした私にとって、長淵剛のようなメロディと詩で思いを表現できる人は大変うらやましいです。番組の中で、生徒たちからの言葉・詩をもとに曲「卒業」を作り上げていく一連の作業は、あれもこれも盛り込むのではなく、むしろ限りなく無駄な言葉を削ぎ落とし、出来るだけシンプルな表現へと仕上げていく活動だと受け止めました。

私も彼のCDは何枚か持っています。一番新しいものは、アルバム「KEEP ON FIGHTING」ですが、もう5年前のものとなりました。その中の曲「傷ついた鳥」http://music.yahoo.co.jp/shop/p/53/237438/Y018417

「しあわせになろうよ」http://bestcd2.blog97.fc2.com/blog-entry-1010.htmlは、特に印象的です。

傷ついた鳥 ・・・青く広がるのはいったい誰の空、よせてかえすはいったい誰の海、翔べないこの鳥を私は抱きしめて、朝の光をにらみつけてみた、自由に翔べるさ、きっと自由に翔べるさ、そう信じてまた、生きていくのでしょう・・・

「ずぶぬれ」とか、「どしゃぶり」と言った表現を好む一方で、詩ににじみ出るすべての「いのち」への眼差しの優しさに強く惹かれます。ライブはエネルギーにあふれていますが、先日の授業でも見られたように、個々人へ迫るストレートさというか透明感を、先日のテレビで、埠頭での女生徒たちとの会話、大風呂での男生徒たちとの語らいを通しても感じました。魅力的な優しさですね。

長淵剛にとっては、桜島・錦江湾が原風景なのでしょう。私にとっては、藻岩山・豊平川・大通り公園等が原点です。ふるさと札幌を離れて活躍している多くの方々も、恐らくそれらが心の原風景となっているに違いありません。

長淵剛の魅力を再認識致しました。http://www.nagabuchi.or.jp/live/sakurajima/interview_01.html

オレゴン・ポートランドの知人から

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comment: 1

 アメリカ・オレゴン州ポートランド市のヘンリー上野夫妻とは、もう20年以上のお付き合いになります。年始のご挨拶状で

「・・・ポートランドにも何年ぶりに本格的な冬がやって来ました。4・5日雪が降り続いています。全く久しぶりの寒さなので、一般の人はもとより若者たちは戸惑っています。・・・私どもはお陰様で元気です。二人とも80歳を過ぎました。凄いことです。幸せです。これからも数々の社会奉仕に頑張ります。」

数年前に札幌にいらっしゃった時、昼食をご一緒にしました。その時は奥様が空港で足を捻挫されて、歩くのにも不自由だったので心配していましたが、その後回復されてお元気な様子で安心しました。それ以上に「幸せです!」と80歳を超えたご夫婦がきっぱり宣言される所に、私は心温まる思いです。

札幌で食事をした時に、ブッシュ政権に話が及びました。私が「私の知っているアメリカ人、日本人で、ブッシュを支持する人は一人もいないですよ」と、事の弾みに口にしましたら、猛烈な反論にあいました。政権或いは政治の話題に対する真剣味の違いに少し戸惑った事を覚えています。食事後、「お食事中にあまり適当な話題ではなかったですね」と上野さんにお詫びを言われ、私こそ恐縮してしまいました。

20数年前に、ポートランド日系人会が企画する高齢者ホーム「憩荘(いこいそう)テラス」へ、札幌の経済人も寄付をしました。完成後数年経って見学に行きましたが、その時にも入居している多くの高齢の方々からお礼を言われました。「決して現地の日系人だけの為の施設ではありません。人種・民族を問わず、地域で高齢者を見守ることは大切だと思います。なぜならこの地域に大きな貢献をされた方々ですから・・・」と、中心になっていた方の言葉は印象的でした。月並みな表現ですが、「感謝の気持」を持ち続けることの美しさ、なのでしょう。

書き込みテスト

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comments: 0

7日よりシステム不調により、メッセージが送信できない状態です。この間、「課外授業~ようこそ先輩~、長淵剛編」、と「オレゴン・ポートランド市の知人から」を公開したつもりでしたが、何処かに消えました。しばしの間、中断致します。

変わりつつある時代を感じて

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comments: 0

 正月は、普段あまり見ないCMもテレビで目にすると、時代の変化を感じます。

“油田から太陽光の時代”、“省エネ30%”、“すべてのいのちの為の環境づくりに・・・”、“水と土と空と、人のために”等、数日間で繰り返し放映されていたCMです。CSR(コーポレート・ソーシャル・レスポンスビリティ:企業の社会貢献)の一環として、宣伝広告が位置づけられ始めて時間が経っているからなのでしょうか。これまでと比べて、環境保全への貢献とか、いのちの大切さといったフレーズの頻度が格段に増えているような気がします。勿論番組のスポンサーを出来る企業は大企業なのだとは思いますが、商品とか企業のダイレクトな宣伝から、地球を大切にする企業姿勢の広報へと大きくシフトしていると実感します。ある人は、「単に商品・企業を売らんかなの目敏い商売根性さ」とバッサリ言い放つのかもしれませんが、私から見ると、リスクをしょっている企業の、時代を読む先見性と受け止めましたが・・・・。

私は、この「リスクを取っている」という立ち位置が、大変重要だと思うのです。誰も助けはしてくれない、自分たちで状況変化に適応していく以外に、生き残る術はない、そんな緊張感を持ち続けている姿勢です。今の日本の政治家・官僚には、この立ち位置を感じません。公務員一般にも感じる危機感の欠如と言ってもいいのかもしれません。自分の給与・暮らしと世の中の景気とか経済状況とが全く連動していない連中、彼らが語る言葉の軽さと現実とのズレ、眼差しの冷たさは、しかしながら近いうちに必ず反撃を食らうに違いありません。