古代メキシコ・オルメカ文明

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  日本メキシコ交流400年記念(http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/mexico/j_mexico400/index.html)、「マヤへの道:古代メキシコ・オルメカ文明展(http://www.asahi.com/event/olmeca/)」が開催されています。

池袋サンシャインシティでの展示会

池袋サンシャインシティでの展示会

入口正面の巨大石彫(レプリカ)

入口正面の巨大石彫(レプリカ)

  オルメカ文明は紀元前1500 年頃、マヤ以前の謎の文明で、メキシコ湾岸地方に突然あらわれた新大陸でもっとも初期の古代文明と言われています。文明を築いたのはベーリング海峡を渡ってきたモンゴロイドの人びとで、巨大な石を彫刻し、土造りのピラミッド神殿などを築く建築技術、ヒスイなどの玉石を精緻に加工する技術をもっていました。マヤ文明(http://www.2012crisis.com/mayabunmei/)など中米古代文明に共通する美術様式や宗教体系などから、新大陸の「母なる文明」とよばれているそうです。

 築いた人々もモンゴロイド、アジアとの関係性も知ることができて、大変興味深い展示でした。出張中に急に獲得できた時間、目に飛び込んできた「マヤ以前の謎の文明」のフレーズ、近い場所でのこのようなイベントは、「大当たり!」ですね。

「第7回新渡戸・南原賞」受賞式

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  今年の秋山財団「第7回新渡戸・南原賞」受賞式が、先日東京で開催されました。2年前に当財団でお引き受けした事業です(http://www.akiyama-foundation.org/nitobe/)が、今年の受賞者は、

*北海道大学名誉教授・三島徳三(http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BB%B0%C5%E7%C6%C1%BB%B0)さん

*成蹊学園専務理事・加藤節(http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/creator/2421704.html)さん

です。この事業の鴨下重彦代表がおっしゃっていますが、「この賞は受賞された方々のご活躍で一層価値が高まっていく」のです。今年の贈呈式・祝賀会にも、素晴らしい方々が駆けつけて来られました。

資生堂相談役 池田守男 氏

資生堂相談役・第3回受賞者 池田守男 さん

元東京大学総長 佐々木毅 氏

元東京大学総長 佐々木毅 さん

韓国・成蹊大学教授 李 静和(リ・ジョンファ) 氏

韓国・成蹊大学教授 李 静和(リ・ジョンファ) さん

朝日新聞論説委員 辻 篤子 氏

朝日新聞論説委員 辻 篤子 さん

前東京女子大学学長 湊 晶子 さん

当事業運営委員(前東京女子大学学長) 湊 晶子 さん

 それぞれの先生方からは、貴重なメッセージの数々を頂きました。「賞の存在意義、それは社会に対する強いメッセージの発信であり、積み重ねることで価値が高まっていくのでしょう」、「時代と人間」、「実践と理念」、「思索と思考する姿」、「密かに闘っている人々への熱いメッセージ」等、心に響く言葉がご来賓の方から発せられました。

 2年前に、この事業を引き受けるに当たって、お墓参りと故郷巡礼に行ったのを思い出しました(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=35)。新渡戸稲造、南原繁、お二人は大変困難な時代に生きた稀有な人物ですが、その哲学と信念は今の時代に一層学ぶ価値があるように思います。先日の受賞者・関係する方々のお話から、現在の日本を憂う気持と強い危機感と同時に、若い世代育成への並々ならぬ意気込みを感じ、日本の「良心」に勇気づけられました。

トヨタ財団から学ぶ

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 日本での民間財団活動をこの間リードしてきた「 トヨタ財団(http://www.toyotafound.or.jp/)」、先日、「アジア隣人プログラム・研究助成プログラム助成金・贈呈式」、それに先立つ「ミニシンポ:http://www.toyotafound.or.jp/00topics/topics01/2010-1015-1023-4.html」が開催されました。

贈呈式前のミニ・シンポジウムで

贈呈式前のミニ・シンポジウムで

  報告者の3名の方々は、地道なこれまでの活動を淡々と、極めて具体的に報告されました。それぞれの内容は大変濃かったし、こういった活動を選考するトヨタ財団の選考眼、見識にも学ぶところが多いですね。お金を出す側・受け取る側の関係で終わるのではなく、いつも語られる「パートナーとして共に歩む」の姿勢がしっかり貫かれている、その辺りがメッセージとして的確に伝わってくるような気がします。

* 渡辺幸倫:相模女子大学学芸学部講師(http://www.sagami-wu.ac.jp/yukinori-watanabe.html

* 綾部真雄:首都大学東京人文学研究科准教授(http://sites.google.com/site/wwwshajin/Home/staff/stuff_ayabe

* 坂東あけみ:ベトナムの子ども達を支援する会事務局長(http://www.normanet.ne.jp/~jannet/kaiin_hashin/houkoku090918_ml74_01.html

 以下、印象に残った言葉を幾つか~~~~~~

 (渡辺) 個別面接によるライフヒストリーは、類型化してモデルを創ろうとするのではなく、100人の多様性を大切にしたい。“人はそれぞれの人生の主人公”だから

 (綾部) “明るい未来を見せる”、それは「文化」の力。少数民族の「エスニック・セキュリティ」は、国家のセキュリティからはみ出す。 「文化」は、危機に対処するための技術

 (坂東) 親の子どもに対する愛情は世界共通、立ちあがりの時は社会がどうサポートするのか、が重要

 

 トヨタ財団は、「公益財団法人」としてあらたなスタートを切り、「よりよい未来を構築するために」と、新しいきずなを求めて更なる挑戦を始めました(http://202.218.52.67/00topics/topics01/2010-0913-1019-4.html)。これまで多くの研修・フォーラムで、トヨタ財団幹部、プログラムコーディネーターの方々とお会いしてきましたが、いつも芯の通った哲学をお持ちで、新しい「気づき」を得ていた私です。来年創立25周年を迎える秋山財団(http://www.akiyama-foundation.org/)としては、これからも学んでいきたいその明確な理念と高い理想ですね。

ロビーコンサート in アサヒビール

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 企業メセナでは先駆的なアサヒビールのCSR(http://www.asahibeer.co.jp/csr/philosophy/index.html)活動、そして芸術文化財団の加藤種男・事務局長(http://eco.goo.ne.jp/business/keiei/keyperson/46-1.html) は今日までけん引してきたパイオニア的存在です。 

 毎回、秋山財団にもご案内を頂いていますが、先日20年目を迎えたロビーコンサート、今回は第14回「死んだ男の残したものは:http://www.asahibeer.co.jp/news/2010/0914.html」でした。ご存じのように、亡くなった武満徹さんの曲に因む作曲家たち、当日配布の資料にはコーディネートされた池田逸子さんが次のように書かれています。「本日のプログラムは、そうして『明日』を信じて音楽を創りつづけ、それらを残して死んでいった男(作曲家)たちの作品を中心に構成した、いわば直球勝負のプログラム・・・・・」

 冒頭と間に挟まれたそれぞれのアレンジ、武満徹「死んだ男の残したものは」が素晴らしく、私は特に、坂田明のサックス、立花千春のフルート演奏が印象的でした。この曲については、以前のこの欄にも少し書きました(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=4084)。

コンサートのシラシ

コンサートのシラシ

アサヒビール本社ロビーで

アサヒビール本社ロビーで

  会場には常連と思われる方々が多く、普段は本社ロビーのこの場所が、不思議な音楽空間になっていました。途中休憩の「缶ビール」も一段と美味しかったです。

 入場料は「市民パトロネージュ制」と書かれ、更に「お帰りの時に、お客様のお気持に見合った入場料をお支払いください。金額の多寡は問いません。集まった入場料は、出演者の今後の活動をサポートするため、全額出演者にお渡しします」とありました。

 パイオニアの果敢な活動の継続は、「民が担う新しい公共」のモデルとして、常に勉強になります。今後の財団のご活躍を期待しています。

ヒグマから北海道を見直しました!

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 北海道市民環境ネットワーク(通称・きたネット: http://www.kitanet.org/index.html)と、一般財団法人セブンイレブン記念財団(http://www.7midori.org/)との共催「北海道環境活動交流フォーラム」が、昨年に引き続き(http://www.kitanet.org/event/index.htm#work2009)、札幌円山動物園(http://www.city.sapporo.jp/zoo/index.html)で開催されました(http://www.kitanet.org/event/index.htm#work2010)。

幅広いパネリストで大盛況

午後のプログラム:幅広いパネリストで大盛況

  今年は、国際生物多様性年スペシャル『北海道の生物多様性を考える』、「ヒグマのいまを知る、豊かな自然の道しるべとして」と題して、多面的な視座からの意見交換でした。このところ本州で、ツキノワグマが人を襲う被害(?)が大々的の報道されていますが、生物多様性の視点からは、かなり違った現実と受け止めるべきではないでしょうか。クマと人との距離感を間違った人間の暮らしとでも言えるのかもしれません、メディアにそんな見識を求めたいですね。

 クマとの付き合いかたは、アラスカでの活動を基に作成された手引き翻訳版としての 「クマとの調和したくらし:http://www.oshima.pref.hokkaido.jp/os-ksktu/kuma/LivingInHarmonyWithBears_J1%201p-16p.pdf」が、大変参考になります。

 分科会の一つでは、昨年に引き続きエゾシカ問題も新しい切り口で議論されたようです。私は後半部分しか参加できませんでしたが、ただ「対策」に追われるのではなく、エゾシカがなぜこんなに増えてしまったのか、の検証もして欲しかったですね。生態系の頂点「オオカミ」の絶滅が直接的な理由であるとか、どこかでエゾシカ・ヒグマ・オオカミ等、「生態系」をめぐる多様な議論も今後期待したいです。

ガールズ・パワーで、エゾシカ問題をかみくだく!

分科会:ガールズ・パワーで、エゾシカ問題をかみくだく!

 ヒグマは、ツキノワグマより世界的にははるかに広い生息分布で、しかも北海道はその南限として、大変コンパクトなエリアに多数のヒグマが存在する、言い換えればヒグマが広く動き回らなくても生息できる「豊かな多様性・生産性のある生態系」を育む貴重な大地であることを知りました。

 もう15年以上前になりますが、私はアラスカ・キーナイ半島(http://www.silverfinguides.com/japanese/)に「キングサーモンほかの釣り」に行きました。ある一日は小型水上飛行機で離れた湖に着水し、そこに流れ入る小川の河口付近で7時間程の紅シャケ釣りでした。機内でパイロットが、「一つだけお願い、もし釣ったシャケをクマと争ったら、クマに譲ってやって下さい!」と言ったので、私も含めて大笑いをして「面白いジョークをいうパイロットだね」と、湖面から離陸して7時間後に迎えに来る飛行機の姿を見送ったのです。

 ところがですよ、釣りを始めて30分もしない内に、何と何と山からいろんな種類のクマが続々(!)と私たちの方に降りて来るではありませんか。一堂、足は震え胃は痛み、ある人はツルっと滑って全身ずぶ濡れ、記念にカメラを回していた人のビデオを後日見ると、画面が震えで揺れているのが分かります。「大変なことになったな」と、私は動揺しました、もう釣りどころではありませんでした。ガイドの腰にはライフルの弾が6発用意されていましたが、到底そんな数では足りません。実は後でアメリカ人に聞くと、それは釣り人を守るというよりも、事故が起きて紛争になった時のアリバイ(体制は整えていた?)だとおっしゃる方もいたりして・・・・。総数〆て20頭以上はやって来たでしょうか、「お邪魔しました」の世界でしたね。

 結局は、勿論何の事故も無く、予定通り釣りを続けて戻りましたが、多くのクマたちが本当に至近距離を、まるで私たちの存在を無視するように自然体で通り過ぎていくその姿に驚きを感じました。先日フォーラムの講演を聴いていて、アラスカでそのような「人との共生の環境」を創り出す永年の活動を知り、あらためてこれまでの努力の賜物なのだと理解しました。

 札幌・北海道は、ヒグマと「共存する知恵」を身につける、世界に類を見ない貴重な場だと強く思いました。ただ「射殺」を繰り返すだけでは、あまりに知恵が足りません。北海道におけるヒグマとヒトとの関係は、イコール「人間と野生との関係」が試されている、そんな気がしてきます。

TPS、サハリンで初公演!

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  札幌のプロ劇団「TPS:http://www.h-paf.ne.jp/tps/tps.html」が、アントン・チェーホフ生誕150周年記念で、サハリンのチェーホフ劇場で「秋のソナチネ:http://www.h-paf.ne.jp/tps/kanou.html#aki」公演をしました。これまでハンガリー(ブダペストほか)、韓国(光州・ソウル)、ルーマニアでも海外公演を行っています(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=97)。今回、私は同行できませんでしたが、先日帰国報告会が開催されて、東欧・韓国とは一味違ったロシアの舞台事情を聴くことが出来ました、大変興味深かったですね。

当日プログラムの表紙

当日プログラムの表紙

  TPSはこれまでチェーホフ作品を国内で多数上演していて、今回生誕150周年の演劇祭「チェーホフの秋」に招待されました。2日間で500人以上が来場し、地元でも拍手喝さいだったようです。劇場前の道路は穴ぼこだれけでも、10数万人のマチに立派な劇場が存在する、それだけでもロシアにおける芸術・文化の位置づけを感じますし、その伝統が観客のレベルの高さを創り上げているのでしょうね。日本の、いや札幌市の政策は、もっともっと芸術・文化の振興に本気になってもらいたいものです。

 サハリン国際チェーホフ劇場のヤーナ・チェーホワさんは、「モスクワなどから来ている劇団の公演をたくさん観てきたサハリンの観客も、『秋のソナチネ』を観て心が奪われた。洗練された演技、シーンにふさわしい音楽の演奏によって、チェーホフの作品に基づいた多くの公演よりチェーホフの雰囲気に通じていたと言える」と、絶賛するコメントをメディアに寄せていました。

サハリン公演を終えた出演者たち

サハリン公演を終えた出演者たち

翻訳・カーチャさん、チェロ・土田英順さん、女優・宮田圭子さん、

翻訳・カーチャさん、チェロ・土田英順さん、女優・宮田圭子さん、

 報告会では、ロシアの劇場・舞台を取り巻く事情も垣間見られて楽しかったですね。特に土田英順さんがいつになく怒っていました、「どうして劇場にあんなに人がいるのか!」と。劇場には200人を越えるスタッフ(?)がいて、それぞれ受け持ちの仕事が縦割りで分担されていたようです。「人が多いとそれぞれに仕事を作るだけだ!」とも、かなり厳しい口調でおっしゃっていましてね。戸のカギを開ける担当も、扉ごとに違う人が現れる(?)、日本では一人で賄っている多くの仕事を、それぞれ違う劇場スタッフが入れかわり立ちかわり行っている、出演する役者も準備作業をどんどんやる姿に驚いた様子、そんな状態だったそうです。 

 メディアの取材もかなり多かったり、歓迎パーティーの設営もあったりと、昨年のルーマニア・ハンガリー公演と比べて、今回は受け入れがかなりしっかりしていたと言えるのかも知れません。いずれにせよ、若い劇団員にとって海外公演でそれぞれの国の演劇事情、観客の反応を肌で知ること、驚きと苦労を体験する、そのことが何より肥やしになりますね、お疲れさまでした!!

ノーベル化学賞受賞に思う

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 2010年のノーベル化学賞を鈴木章・北海道大(http://www.hokudai.ac.jp/)名誉教授、根岸英一・米パデュー大(http://www.purdue.edu/)特別教授ら3人が受賞しましたが、特に北海道大学の鈴木先生は鵡川町ご出身の道産子(どさんこ)で大変身近なせいでしょうか、いつもとは一味違った感動を覚えますし、誇り高いですね。「HOKKAIDO」がまた世界ブランドになりました。

 昨年11月9日のこの欄(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=2583)に、ノーベル賞の理念ほかを書き留めました。本来の意図が十分日本では伝わっていない部分もあり、特にノーベル平和賞の位置づけについては、中国の反応を見ていると、彼らも十分把握していないのではないか、と思われますね。国際社会の中で、なぜ今回、劉暁波さんにノーベル平和賞が授与されたのか(http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20101008-OYT1T01158.htm)を、冷静に受け止めるべきだと思いますし、同時にノルウェーのノーベル委員会の決定にも敬意を表します、受賞理由が実に明快です。

 2001年に名古屋大学の野依良治先生がやはりノーベル化学賞を受賞された時(http://www.natureinterface.com/j/ni05/P24-28/)に、北大薬学部の先生が、「この分野は、日本の研究レベルが世界をリードしている」とおっしゃっていました。今回それを証明するかのように、お二人の先生が幅広い分野への応用を可能にする技術で受賞でした。ただ、懸念されることは、これまでの受賞者もそうですが、その殆どの研究が1970年代に為されている成果であることです。

 2000年代小泉政権時代に、国の自然科学に対する研究費が大幅に傾斜配分されて、基礎研究等への「投資」が必ずしも十分にはされていません。高等教育機関への資金も他の先進諸国に比べて、大変見劣りのする金額となっています。独立行政法人化により、研究の成果を近視眼的に追及されるとった弊害も指摘されています。政権交代後の「仕分け」でそうなったという方がいますが、それは事実と違います。間違いなく、小泉政権時代の「競争原理の導入」が直接の契機です。

 今回の受賞をきっかけに、自然科学系研究への関心が高まり、基礎研究分野でも日本の力を発揮して貰いたいものです。秋山財団の24年間の研究助成が、少しでもお役に立っていればとささやかな期待もしたいですね。そして、今後の助成活動にも大きな励みとなりました。ノーベル賞受賞だけがゴールでは勿論ありませんが、研究者の皆さん、これからのご活躍を祈念しています!!!

ビハール号事件(1)

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  私は今、自分の時間を以前よりも持つことができるので、明治維新から今日までの近代の歴史を振り返りながら、検証らしきことをしています。特に、戦後のA・B・C級戦犯の検証、実際に足を運び、ヨーロッパでのナチスによるホロコースト、中国での日本軍による数々の事実を自分の目で確認し、新たな歴史的課題も見えてきました。

 そんな中、ある意味では思いもよらなかったのですが、ごく身近に私の知らない一つの「事件」があったことが最近分かりました。それは、旧日本海軍の重巡洋艦「利根:http://military.sakura.ne.jp/navy/c_tone2.htm」による「ビハール号事件」です。これから何回になるか分かりません、身内にも関係する重要な事実ですので、どんな展開になるか予想もつきませんが、追いかけてみようと思っています。

 これまでこの欄に数回書いている通り、私の父は4年前に亡くなりました。海軍兵学校66期卒で、キスカ撤退では旗艦「阿武隈」の、レイテ沖海戦では重巡洋艦「利根」の通信長として作戦に従事しました。その後、広島県江田島の海軍兵学校分隊監事で終戦を迎えました。

 没後に、私たち家族の発案で追悼集「絆」を発刊し、その中で私は父の思い出として次のように書きました。~~~~~

・・・・一方で私は、海軍兵学校時代の生活、キスカ撤退作戦、レイテ沖海戦等の最前線の経験を何回も聴いていた。とりわけキスカ撤退作戦での木村昌福司令官の勇気ある決断に関しては、旗艦「阿武隈」の通信長として身近にその現場を体験して、企業経営者としても社内報等で「バランスの重要性」として繰り返し強調していた。

 ある時に、自宅2階の自室で、戦争で生き残った者の苦しみについて静かに語ったことがあった。沢山の人間が戦争で無くなった悲しみは私には容易に感じても、父が言う生きて帰って来た人間の「その後の苦しみ」というのは、つい最近まで理解できなかった。ススキノのカラオケでも軍歌を歌う気にはなれない、戦争を賛美していた人間が戦後途端に反戦論者になっているのは許せない、今でも戦争が起これば自分は戦地に赴く、と戦争を巡る場面では、父はかなり頑固なこだわりを持ちつづけていた様な気がしている。

 そんな父ではあったが、入院中の夜中のベッドで、「火事だ、火事だ、水を」とうわ言の様に叫んでいる様子を聞いた時、それが戦艦の甲板での消火活動ではないか、と直感した時があった。自ら志願した海軍将校の人生ではあっても、心の底に沈む恐怖の存在を、私は数少ない場面ではあったが父の心の中に見た思いで、強い衝撃を受けた。・・・・・ ~~~~~~~~~

 4年前にこれを書いた時、私は勿論今回の「サ号作戦」については知る由もなく、ただ、「うわ言」に衝撃を受けていた、そんな自分でした。昭和19年に、キスカ撤退作戦の後、父は重巡洋艦「利根」の通信長として作戦に従事し、インド洋上での通商路破壊作戦(サ号作戦)に参加しました。そこで起きたのが「ビハール号事件」です。父は終戦後、海軍施設の進駐軍の接収・移管業務を済ませて、札幌に移りました。昭和22年に香港の戦犯裁判の証人として、ほぼ1年間程(その後、2・3カ月だと分かりました)、香港に滞在していたことは分かっていますが、それがどんな裁判だったのか、その辺りがこの事件を知る多少の手掛かりになります。私は、父からキスカ撤退作戦、レイテ沖海戦については話を聴いていましたが、インド洋上での作戦は一度も聴いた記憶がありません。

 4年前に青山淳平・著『海は語らない―ビハール号事件と戦犯裁判(http://www.7netshopping.jp/books/detail/-/accd/1102322644)』(光人社刊)が出版されたのを最近知り、すぐに読んでみました。「なぜ捕虜は処刑されたか、救助した捕虜111名、うち65名をその後殺害した衝撃の真相。英国商船乗員乗客「処分」事件」、或いは「英国戦争裁判・香港法廷の実情」とも書かれています。この本には私の父の名が、まるで映画のシーンを見るかのように数か所リアルに出ていました。

 私は、まずは自分で過去の資料を調べようと思い、先日市ヶ谷の防衛省に行ってみました(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=5391)。そこの職員に問い合わせた所、戦史・艦日誌等は市ヶ谷にはなく、別の場所に所蔵されていて、閲覧も出来ることが分かりました。何かの機会に時間を取って調べようと思っています、なかなか時間的都合もあり難しい作業になりそうですが、しっかり真実を見極めたいですね。

 戦争の検証は他人事ではなく、自分の家族の人生の検証になってきました。

経済成長と医療を考える

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  医療経済研究機構(http://www.ihep.jp/)による第16回シンポジウム「経済成長と医療を考える」が開催されました。

 ○ 基調講演: 『医療政策の難しさを考える~中医協委員としての経験から~』

          伊東 光晴 氏 (医療経済研究機構 所長)

 ○ パネルディスカッション

  コーディネーター:南 砂 氏 (読売新聞東京本社 編集委員:http://www.odh.or.jp/minami/minamisuna.html

  パネリスト:河北 博文 氏 (河北総合病院 理事長:http://kawakita.or.jp/honin/rijichou.html

         島崎 謙治 氏 (政策研究大学院大学 教授:http://www.grips.ac.jp/jp/files/shimazaki_kenji.html

         邊見 公雄 氏 (全国自治体病院協議会 会長:http://www.jmha.or.jp/outline/outline01.html

パネルディスカッション

パネルディスカッション

 今回のこのフォーラム、さらなる経済成長を見込むことが難しい現状の中で、国民皆保険を堅持しつつ、量・質ともに十分な医療を提供し続けるためには、どのような改革が必要か、医療提供側と医療を享受する側から議論を深めることが目的でした。

 更に、2010年6月18日に閣議決定された菅政権の「新成長戦略:http://www.kantei.go.jp/jp/sinseichousenryaku/sinseichou01.pdf」、その中で「強みを活かす成長分野:(2)ライフ・イノベーション」で、医療自体が経済をけん引するという発想をどう考えるか、「混合診療の拡大」、「メディカルツーリズムの推進」等をどう受け止めるか。

 最後に、「国民皆保険制度の将来像」についてもパネリストは展望されていました。

 「医療」自体が日本の経済成長を「けん引」する力があるかどうかについて、経済成長は枠の拡がりをもたらす必要があり、社会保障・医療は所得の再分配であり、皆さん少々懐疑的ではありましたが、「医療」、「教育」が日本の基幹事業であることに認識の違いはありませんでした。そしてこの10年程は、どちらもまともな議論も無く推移していることに、大変な危機感をにじませています。私自身、教育基本法の改訂では、今の政治家たちの見識の無さに憤りを感じました。

 久しぶりに河北先生とお会いしましたが、相変わらずの論客ぶりでした。想い出します、20数年前に、河北先生を含む東京の病院経営者の皆さんと、当時の「JCAHO:現在はJoint Commission(http://www.jointcommission.org/)」はじめシカゴ大学病院管理学講座、ServiceMaster社(http://www.servicemaster.com/)他、アメリカの医療現場を訪問しました。突っ込んだ意見交換のやり取りは、今でも忘れられません。

新渡戸の理念を受け継いで・・・

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 札幌市内には、新渡戸稲造・メアリーのゆかりの地が、幾つかあり、その中の一つ、札幌市中央区にある「Let’s中央」内の「遠友夜学校記念室:http://www.city.sapporo.jp/kyoiku/youth/enyuyagakko/index.html」も貴重な場です。ここは、1894(明治27)年に創立された遠友夜学校の跡地です。

札幌市Let's中央内・遠友夜学校記念室

札幌市「Let's中央」玄関横で

  資料室内には、新渡戸稲造自身の書が掲げられています。

 まずは「学問より実行」、これは「知ることよりも実行すること」の意で、更に実行るすることよりも自分が自分として存在することに価値がある、と続きます。

学問より実行

学問より実行

  次は、「去華就實」、「うわべだけの華やかさを取り去り、実質のともなった確かな人格形成」を説きました。

去華就實

去華就實

  更に、「心清者福也」、「心が清く誠実な者は、結局は幸せな人生を送ることができる」と言った意味でしょうか。

心清者福也

心清者福也

  最後は、「With malice toward none, With charity for all !」、アメリカ合衆国第16代・リンカーン大統領の言葉で、「何人にも悪意を抱くことなく、慈愛をもって生きよ!」です。

リンカーンの言葉より

リンカーン大統領の言葉より

 パンフレットには、「札幌のボランティア活動の原点がある」と書かれています。1944(昭和19)年の閉校まで、50年に渡って多くの方々の支援によって支えられました。不十分な教育制度のすき間を埋めながら、希望の灯りをともし続けた、まさに新渡戸稲造・メアリーの崇高な理念と、市民の共感が結実した貴重な教育実践だと思います。「生きる力」を育てる目的の「リベラル・アーツ教育」、その出発点が、軍国主義への道を走る時代にこの札幌の地にあった意義を、今私たちはしっかり噛みしめるべきですね。

新渡戸稲造と妻メアリーの精神

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  「現代を生かす新渡戸稲造と妻メアリーの精神(こころ)――教育と平和」と題して、東京女子大学(http://www.twcu.ac.jp/)前学長・湊晶子先生のご講演でした。湊先生は、秋山財団の一つの事業「新渡戸・南原賞:http://www.akiyama-foundation.org/nitobe/」で、その運営委員会メンバーのお一人です。この賞を秋山財団が受け継いだ経緯は一昨年のこの欄に掲載しています(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=35)。

素晴らしいご講演でした

素晴らしいご講演

  前日の夜は、お忙しい中お時間をとって頂き、夕食をご一緒にする機会もあり、じっくりお話を伺うことができて光栄でした。昨日のご講演も含めて、体が感動で震えるとでも言うのでしょうか、素晴らしいメッセージの数々でした。

 新渡戸稲造はご承知の通り、初代の東京女子大学・学長、湊晶子先生は、新渡戸稲造の妻メアリーの研究でも有名な方です。札幌ANAホテル玄関横に、1891年1月1日にアメリカで結婚されてすぐに帰国、札幌農学校教授となった時の官舎跡碑があります。写真の2階窓から姿を見せているのがメアリー夫人です。別件ですが、この年に秋山愛生舘が地元企業として創業しています。恐らく札幌の街中のどこかで、新渡戸稲造・メアリーと初代秋山康之進が出会っていたかも知れません。

札幌ANAホテル玄関横のパネル

札幌ANAホテル玄関横のパネル

 1894年に遠友夜学校(http://www.city.sapporo.jp/kyoiku/youth/enyuyagakko/index.html)を創立し、初代校長に稲造が、没後妻メアリーが就任しました。 

 湊先生は、第13代の学長、卒業生では初めてで、女性では安井てつ先生に次いで2番目です。新渡戸稲造とメアリーの教育者としての足跡、特に女子教育への造詣、平和主義者としてのメッセージを語られました。著書では、『新渡戸稲造と妻メリー』、『女性を生きる』ほか多数あります。以下昨日のお話からいくつかを。

* 稲造はジャンヌ・ダルクが好きだった?――大学に所蔵されている資料のかなりの部分は彼女に関わるもの

* 二人が実践した「リベラル・アーツ教育」は、いわゆる「一般教養」などではなく、「自信」と「喜び」を通して得られる「生きる力」そのものである

* 知識として教えられることをすべて忘れた後に残っているものが教養である

* 人はどこか動じないところ、譲れぬという断固とした信念がなければならない

* 「太平洋の橋」として、『武士道』を英語で出版した。副題は「Sole o Japan:日本の心」、「武士の心得」を書いたものではない

 湊先生は、最後に「二人から現代へのメッセージ」とおっしゃって、講演を結ばれました

1) 一人称で語れるわたしに ―― To know, to do, to be :知ることよりも実行すること、実行することよりも私が私として存在することがまず大切で、価値がある

2) 責任を取り得る人物に ―― 「自分を治める」こと :Personality(人格)のないところにはResponsibility(責任)は生じない :別の表現では、「孤独に勝て」と

3) 平和をつくり出す人に ―― 「寛容の精神」、「私と公と公共」の理念を :当時は「滅私奉公」に象徴されるように「公=国家」だったが、本来は「公=個の集合体」であるはず、そして「つくり出す」のは、「参画する」ことから始まる

2004年に姿を消しましたが、左下に太平洋もありました

2004年に姿を消しましたが、左下に太平洋もありました

 お札から姿は消えましたが、私たち北海道の人間の心の原点として、再度その「精神(こころ)」を見つめ直したいものです。ゆかりのある場所は、大切に保存し、札幌市民として一層誇り高い場所としていきたいですね。

 湊晶子先生、貴重なお話の数々をありがとうございます、心から感謝申し上げます。

愛生舘の「こころ」 (13)

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 大阪に出張のついでに、少し足を伸ばして、以前から一度行きたかった東大阪の「司馬遼太郎記念館:http://www.shibazaidan.or.jp/」を訪問しました。

 地元ボランティアの方々が管理・運営されていました。多様な植物の茂るお庭を通り、圧巻は記念館内の天井までの大書架に収納されている数多い著書の存在、地下ホールのビデオも彼の立ち位置を理解する手立てとなります。

「沖縄に住む人は原倭人の姿」、「時空の旅人」、「可視的な過去」、「本土が沖縄に復帰する」、「土地は社会のもの」等、印象に残る言葉の数々、心に沁みます。

庭から書斎を眺める

庭から書斎を眺める

記念館のエントランス

記念館のエントランス

   地下1階の壁に掛けられた「21世紀を生きる君たちに:http://gogodiet.net/Forkids.htm」の全文、素晴らしい文章ですね。分かりやすく、眼差しが優しく、率直に訴えるメッセージ、司馬遼太郎の原稿と校正の過程が分かる資料も挿入された著書を、記念に買いました。

 パンフレットには、「見ていただくと同時に、この空間で、司馬作品との対話あるいは自分自身との対話を通じて何かを考える、そんな時間をもっていただければ、と思います。この記念館は、展示品を見るというより何かを感じ取ってただく場所でありたいと念じています。・・・・」と書かれています。資料のメモ書き、付箋のついたそのままの状態の本は、司馬遼太郎の取材・執筆に対する真摯な姿勢を感じます。
 
 この記念館のそばに、実はもう一つ尋ねてみたい場所がありました。今年7月に美瑛町に行った時、砦のような「新星館」を訪問し、大島館長にお会いしました(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=4855)。その大島館長の本業が、東大阪の司馬遼太郎記念館近くのお好み焼き屋「伊古奈」と聞いていました。先日、少し探して見つけましたが、残念ながら今年1月で閉店し、隣で喫茶店として新たなスタートのようです。 

「伊古奈」は1月に閉店していました

「伊古奈」は1月に閉店していました

 なぜ、司馬遼太郎記念館が「愛生舘の『こころ』(13)」か?彼の著書「胡蝶の夢:http://webkohbo.com/info3/bakumatu_menu/turedure03.html」に、松本良順(順の前の名)が登場するからです。良順の人生について、長崎での医学伝習、第14代将軍徳川家茂の臨終に大阪城で立ち会ったこと、新撰組土方歳三との出会い等、臨場感いっぱいです。

 書斎の前庭に立つと、司馬遼太郎さんが戸の向こうから現れて来るような気がする程、「そのまま」でした。

旅の余韻(3)

Posted by 秋山孝二
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 「これでお仕舞い」といって続けるのは、学生時代の千葉県稲毛海岸の潮干狩りみたいです(分かる人にしか分からない?)。

 手元にある写真を見ていると、「旅の余韻(3)」となってしまいました。北京と東北部の点の訪問でしたが、それぞれの光景が忘れられません。

* ハルピンの中央大街(キタイスカヤ通り):まさにロシアの雰囲気です。中秋節を前にして月餅(げっぺい)の大量販売がすごかったのですが、結局買いそびれました。

* ハルピンのスターリン公園での集会:未だに「スターリン」名を戴く公園は珍しいですね。像の奥は松花江(しょうかこう)で、冬は凍結してトラックでも横断できるそうです。大洪水の水位を記録した設計の記念碑、河岸の公園でそれぞれにくつろぐ市民の姿、素晴らしい光景でした。

* 北京の胡同(フートン):昔の風情をを偲ばせます。地元の若者が多かったような気がします。

* 北海道はブランド?:胡周(フートン)に並ぶ店の中に、「北海道」を名乗っている人気の店を見つけました。たこ焼きみたいな商品を売っていました。

「北海道」がブランドなのでしょうね

「北海道」がブランドなのでしょうね

 日本に戻ると、わずか一週間の留守の間に夏からすっかり秋になっていました。更に、まとまって新聞を読み返すと、中国漁船問題が連日大きな見出しと記事に。その言葉が「屈する」だとか「弱腰」だとか、何とも感情的文言が多く驚きます、どの新聞もですよ。大使館前のちょっとしたデモで、「中国世論」みたいな報道はやめてほしいですね、あの天安門広場・故宮の人の「群れ」から見れば、そんなに大げさな話ではないでしょう。

 歴史問題(犯罪)を直視しないその裏返しで、アジア関連での反射的・感情的表現の氾濫が目立ちます。大きく変わってきている世界情勢、新しい時代の「枠組み」づくりには、新しい担い手たちの登場が必要な気がします。

 9月も今日で終わり、旅の余韻は、今度こそ、本当に区切りとします。

私達には夢がある!旅の余韻(2)

Posted by 秋山孝二
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 札幌市北京事務所・角田貴美所長にご紹介して頂き、今の北京を肌で感じることが出来ました。 

 まずは、今中国で活躍する若手ビジネスマン二人との濃密な意見交換 でした。「過去の歴史を認識した上で、しっかり前を向いて一緒に歩いて行ける若者との輪を広げていきたい」、と情熱を傾ける角田さんのご推薦だけあって、30代後半の若い二人は、「私達には夢があります!」と目を輝かせて約2時間意見交換をしました。本当に久しぶりの感動でした。数日間の私自身の重たい気持を取り払うような前向きな言葉と表情に、「確実に新しい時代がやって来ている」ことを実感致しました。

 彼らは十分日本語が上手ですが、友人には一度も日本に行ったことはないけれど、もっと言葉が上手で事情に詳しい者がいると。その友人はアニメとゲームで日本語を覚え、東京・秋葉原のどの店で何を売っているか、全てインターネットから情報を手に入れて承知しているとのことでした、新しい時代の到来ですね。

 次は、広大な景山公園(http://www.joyphoto.com/japanese/abroad/2002beijing/keizan.html)、天壇公園(http://www.arachina.com/attrations/beijing/tiandanpark/index.html)等のコミュニティの原点の場に感動でした。カラオケ大会、京劇のけいこ、軍事将棋に興じる一群、それぞれ地元市民が自然な形で人だかりを作り、一緒に楽しんでいる様子は、日本では近年見ることが出来ない光景です。「音が大きすぎてうるさい!」、「芝生が傷む!」等、モンスタークレーマーの申し入れで、昨今、居心地が悪くなっている札幌の公園ですが、どうしてそんな雰囲気になってしまったのでしょうか。とにかく、市民の間にコミュニケーションが自然な形で創り上げられているのですね、札幌も是非そんなマチにしたいものです。

カラオケを囲む200人以上の市民

カラオケを囲む200人以上の市民

京劇の練習

京劇の練習

 三つ目は角田さんのお勧めだったので、夜にツアーメンバーで行った「LEDによる壮大なアニメ(長さ200メートル、幅20メートル、高さ20メートル?)」の巨大天井スクリーンです。「This is China!」と言わんばかりの象徴的な場所でしたね、故宮⇒抗日記念館⇒LED天井通り、それぞれ時代を代表する北京のシンボルなのでしょう。

LEDでの天井映像(200メートル×20メートル)

LEDでの天井映像(200メートル×20メートル)

  最後は、街なかのファストフード店の看板です、しっかり翻訳(?)しての漢字名は、当て字が絶妙ですね。

ケンタッキーフライドチキン

ケンタッキーフライドチキン

マクドナルドハンバーガー

マクドナルドハンバーガー

スターバックス珈琲

スターバックス珈琲

 「China、 Now」、今の中国を間近に見ることが出来ました、次回行くと、また大きく変わっているのでしょう。ツアーメンバーの皆さん、お世話になりました!

なお続く旅の余韻(1)

Posted by 秋山孝二
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 今回の訪問先は、それぞれ重い場所ばかりでしたが、北京の「中国人民抗日戦争紀念館:http://j.people.com.cn/94638/94658/7131285.html」で、当時、現地に点在する村に対して、日本軍の「『集団部落』化の強制」という施策が目に飛び込んできました。「限界集落」を設定し、「平成の大合併」と称しての村の合体を促した最近の動きとダブリました。永年その地に暮らす人々の居住地を、意思に反して強制的に移動・変更することは出来ません。まして武器と刀で追い立てての強制移住は、恨み・憎しみを増幅するだけになったのでしょう。

 もう一つ、10数年前に訪問した時は、今回よりも毛沢東の存在感があったような気がします。今回私の目に触れた彼の肖像は、通貨の人民元紙幣の中、天安門の大きな肖像画、そして瀋陽の広場での巨大な像だけでした。「タクシーを止めようとしている姿」、「賭けごとは五元までですよと言っている姿」とか、地元の方から冗談も出る程、その意味あいも昔とは随分変わってきているのかもしれません。時の流れとでもいうのでしょうか。 

西方を向く巨大な毛沢東像

瀋陽:西方を向く巨大な毛沢東像

  関東軍731部隊の敷地内記念館では、「マルタ」と称されて「実験材料」となった中国人犠牲者の名を刻んだ墓標の回廊も忘れられません。

犠牲者の名前一覧の回廊

犠牲者の名前一覧の回廊

  そして、昨年のアウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所でも象徴的だった鉄道引き込み線が、ここにも敷かれていました。この上を一体何度「マルタ」を運ぶ列車が通り抜けたかと考えると、胸が詰まる思いです。

「マルタ」を運んだ引き込み線

「マルタ」を運んだ引き込み線

中国:瀋陽、北京で

Posted by 秋山孝二
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 この欄は、本来、北京で滞在した「北京飯店:http://www.chinabeijinghotel.com/en/index.html」からアップしようとしましたが、今回の旅行で最も高級(五つ星)だったホテルで意外にも回線が上手くつながらず、少し遅れてしまいました。「高級」とは言っても、この件でフロントに連絡した際のホテル側の対応たるや、日本では考えられない高圧的な態度でスピードも無く、日本の三流以下ですよ、サービス業における中国の後進性を目の当たりにしました。「伝統」、「歴史」は今の優れたサービス価値につながって初めて意味を持ってくるはずです。別に私は、この所の事件によって中国に対して感情的に言っているのではありません。

 瀋陽では、「“九・一八”歴史博物館:http://www.918museum.org.cn/」を訪問しました。1931(昭和6)年9月18日午後10時20分頃、瀋陽市(当時は「奉天」)北の柳条湖で満鉄(南満州鉄道株式会社:http://web1.kcn.jp/mantetu/)線路上爆発が起き、日本でいう「満州事変」、そして以降、対中国との15年戦争の始まりとなりました。瀋陽市では、毎年9月18日午後9時18分に全市一斉に車は止まり、クラクションをならし、この博物館敷地内にあるつり鐘もつくようです。

博物館前広場に建つモニュメント

博物館前広場に建つモニュメント

  「勿忘国恥:古い歴史を忘れるな!」の文字で始まる展示は、今を生きる両国国民にとって、以降の忌まわしい歴史となりますが、眼をしっかり見開いて留めておかねばなりません。広大な博物館には事の始まりだけではなく、抗日戦争を戦った中国人の歴史、関東軍731部隊、平頂山虐殺、溥儀の即位、戦犯裁判等、幅広い内容で、最後は日本人有志から贈られた「中国養父母感謝碑」で結ばれています。

 そして1956年7月1日から20日にかけて瀋陽で行われた「中国最高人民裁判所特別軍事法廷:http://japanese.china.org.cn/jp/txt/2010-09/06/content_20873810.htm」は、日本人戦犯28名の公開裁判を行い、その場所が市内に残っています。現在はかなりさびれた映画館跡となっていますが、近いうちに修復・保存されて記念館となるそうです。この裁判では絞首刑は一人もいなく、最高刑で懲役18年、それも数年後の恩赦で大幅に刑期が短縮され、日本に戻って来ています。この間収容されていたのが、先の撫順の「戦犯管理所」です。

1956年7月から20日間、軍事法廷が開催された場所

1956年7月から20日間、軍事法廷が開催された場所

 

 北京に移動して、「中国人民抗日戦争紀念館:http://j.people.com.cn/94638/94658/7131285.html」を訪問しました。

紀念館正面

紀念館正面

  ハルピン・撫順・瀋陽と廻ってここに来ると、ここは何か「総集編」とでも言うのでしょうか、そんな感じですね。1937年7月7日、盧溝橋での日中両軍の衝突で事実上始まった日中戦争、更に時間軸を拡げて15年戦争という捉え方、そしてこの館の建設意図は、「抗日戦争の歴史的意義」ですね。すなわち抗日戦争はアヘン戦争依頼、中国人民により外国侵略に対抗する戦争の中で初めて完全勝利した民族解放闘争であり、それ故に巨額の投資をしたのでしょう。「日本軍の暴挙」を説明する場は他と同様ですが、後半の「道得れば助け多し」で表現される「国際支援を得た闘い」というフレーズは新しい意図を感じました。最後は、「歴史を戒めの鑑として、未来に目を向ける」と結ばれています。

1945年9月9日:南京での日本軍降伏調印の場の再現

1945年9月9日:南京での日本軍降伏調印の場の再現

  日本人は、「第二次世界大戦はアメリカに負けた」意識が大変強く、「中国に負けた」とはあまり感じていない(思いたくない?)のではないでしょうか。それも「アメリカの物量に負けた」という総括が主体ですので、その誤った意識が戦後の高度成長期を経てバブル期まで影響しているように思います。戦後の軍事法廷もA・B・C級戦犯裁判はある程度関心を持っていますが、中国本土での戦犯裁判についてはかなり認識も薄いですね。中国にはなぜ負けたのでしょうか?総括がまだ済んでいないような気がします。

盧溝橋

盧溝橋

 盧溝橋の写真、橋の右手には水があり左手は水が枯れている、本来は「水が枯れている」のですが、この記念すべき場では風景的に水があった方が良いという判断(誰の判断かは判りませんが)で、水の汲み入れ工事を行ったそうです。「環境後進国」のイメージはまずい(?)との判断でしょうか。

 重たい「歴史の検証」の旅は、ひとまずこれで終わりました。今回も旅システム(http://www.tabisystem.com/の企画で、お世話になりました。

中国:瀋陽郊外の撫順で

Posted by 秋山孝二
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 瀋陽(旧満州時代の奉天)は札幌の姉妹都市でもあり、人口700万人の大都市です。街の中心部は地下鉄工事はじめ、大型建設プロジェクトのクレーンが林立し、郊外では高層マンション建設が数多く進んでいます。

 瀋陽から約1時間半、工業都市・撫順の高台にある平頂山遺骨館(http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou09/kaihou095.html)を訪問しました。その会議室で、奇跡的に生き残ったヨウ・ギャク・フンさんの証言と質疑応答は初めて聴く事柄が多く、実に重いひと時でした。今年87歳を迎えるヨウさんは、大変明確なお言葉で、当時の様子をしっかりと語られました。日本兵が突然夜にやって来た時、日本刀をかざすその姿は一生忘れられない、と。家族24人のうちで生き残ったのは6人だけで、今生きているのは自分一人、生きている人間がこの惨劇を語らなければならない「責任」を強く感じている、と静かにお話をされました。

 また、今も当時の憲兵隊・兵士たちに対する憎しみは消えないが、その後謝罪に来た元日本兵もいるし、今生きている若い世代とは、しっかり平和を築くために日中友好への努力をしなければならない旨を語っていました。ヨウさんは今月末に来日予定で、札幌にもお越しになるそうです。

奇跡的に生き残ったヨウ・ギャク・フンさんの証言

奇跡的に生き残ったヨウ・ギャク・フンさんの証言

 証言を聴いた後、隣の遺骨館に行きました。ガラスの窓の下に並ぶおびただしい数の人間の遺骨は、あるものは刀のキズあり、あるものは一見して障害を持った方とわかり、母親と子と思われる情況もありました。本多勝一の「中国の旅:http://www.amazon.co.jp/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%97%85-%E6%9C%9D%E6%97%A5%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%9C%AC%E5%A4%9A-%E5%8B%9D%E4%B8%80/dp/4022608056」で公になり、当時は彼への個人的バッシングも含めて、大変な論議があったようです。

発掘された800体以上の遺骨

発掘された800体以上の遺骨

  

 続いて、撫順戦犯管理所(http://www.geocities.jp/t111313/china-n-e/senpan.index.html)です。今年6月に新装オープンした奥の展示館は、ことの外新しいデザインで、注目を集めます。周恩来の見識の高さ、人物の大きさにあらためて感動しますね。めまぐるしく変わる時代に、この場所の機能・名称も何回か変わっています。その後、ここに滞在した日本人が帰国して「中帰連:http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/other/gaiyou.htm」を結成し、日中国交回復にも大いに尽力されました。数年前に発展的に解消して、新たな活動を展開しています。

今年6月に新装オープンした展示館

今年6月に新装オープンした展示館

 昨年訪問したアウシュヴィッツでお話されたポーランド・レジスタンスのスモーレンさんは、「アウシュヴィッツで今、何が起こっているかの事実を伝えることが最高のレジスタンスだ」と、そして奇跡的に生還した後は、「生き残った者の責任として、自分の経験を社会に伝えていく、それが命を落とした人間達の願いでもあるだろう」と私たちに語りかけました(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=1457http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=1501)。

 今回のヨウさんも、全く同じく「生き残った者の『責任』」というメッセージを残されました。私は「証言を聴いた者の責任」を強く感じます。平頂山のあの場所には悪夢の再現で行きたくはない、とおっしゃりながら来て頂いたことに、あらためて心からの感謝を申し上げます。一方で、日本では「そんな事実はなかった」、「3000人の犠牲者はねつ造」といったレベルでの一部の議論に、特有の責任回避・転嫁を感じます。記録・資料を焼却・廃棄しておいて、一体何を語ることが出来るのか、そんな憤りにも近い思いをここでも感じてしまいます。

中国:ハルピンで

Posted by 秋山孝二
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 昨年6月、プラハ・アウシュヴィッツ他を訪問したグループで、今年は中国に「検証の旅」です。

 韓国・仁川(インチョン)空港、香港空港はアジアのハブとして目を見張りますが、15年ぶりに行った北京空港もそれを上回る広大な敷地・建物で、まさに中国の勢いを象徴するかのようでしたね、オリンピック・万博を目標に国家的プロジェクトで整備したのでしょう。でも、訪れるお客にとって、必ずしも「大きいことは良いことだ」ではない辺りが、難しい所ですね。空港でのインターネット・アクセスは大変便利ではありますが。

国内線のロビー:面としての広大さを感じます

国内線のロビー:面としての広大さを感じます

 深夜にハルビン市内のホテルに到着して、早速部屋でインターネットに接続しましたが、日本では見られる幾つかのサイトがアクセスを拒否されました。事前に多少は聞いていましたが、何かのスクリーニングが掛っている様子です。

 

 旧関東軍731部隊(http://sakura4987.exblog.jp/4958898/)の本部が置かれていた場所は、ハルピンから約1時間の場所です。広大な敷地は今も残されて陳列館となり、その周辺には関連施設で終戦直前に自ら破壊した発電所跡、凍傷研究所等跡もそのまま、訪問当日は高校生・大学生と思われる団体も見学に来ていました。部隊が建設した発電所は実に頑丈で、自ら破壊する時も爆破では困難だったようで、3本の煙突のうち1本だけの破壊で退却したようです。裏に回って建物の壁を見ると太い鉄筋が何本も入っていて、皮肉にも「耐震偽装建築」とは比較にならない当時の軍関係建築への予算を測り知ることが出来ます。インターネット検索では、様々な立場からのコメントも読むことが出来ますので、ここで掲載することは省略します。

旧陸軍731部隊本部入口で
旧関東軍731部隊本部入口で

敷地併設の発電所跡:自ら破壊して撤退

敷地併設の発電所跡:自ら破壊して撤退

凍傷実験所

凍傷実験所

 すでにこの部隊の目的等は、1997年アメリカ政府の膨大な情報公開により明らかになっています、今回あらためて衝撃を受けたのは、昨年のアウシュヴィッツと同様に、「政策」として明確な意図を持って軍と医学会が組織的にかなりの期間実践したこと、そしてその間多大な犠牲をもたらして得た膨大な「医学的(?)情報」が、戦後戦争責任を裁く裁判における免罪の取引として、すべてアメリカに提出されていたことです。数年前から、関わった方々が80歳に近くなってきたからか、この件に関する証言も数多く世に公開されています。

 「政策」としてという意味は、例えば「対ソ戦」を想定した寒地での人間対応力実験、資源の少ない日本が戦争に勝利する戦略としての大量破壊兵器として「細菌兵器」の開発、自国内では出来ない「医学的」臨床実験等です。

 8月のNHKドキュメンタリーシリーズで放映された「広島・長崎への原爆投下」に関する番組で、誰よりも早く爆弾投下直後(2日後?)に日本の軍医師団が、診療目的ではなく調査目的で現地入りして、放射線障害等の貴重なデータを取得し分析し、それを731部隊同様に占領軍に提出したとの証言でした。 そしてその意図が、終戦後少しでも占領軍の心証を良くしようとの思惑からだった、とも。

 更に731部隊に責任を負う幹部たちの終戦後に就いた役職も展示されていましたが、皆戦後日本の要職が実に多く、彼らの戦争責任に対する認識、許す社会の民度の低さ等、アウシュヴィッツとは違い、同じく戦後日本を生きてきている自分自身との関係性から一層重たいものがあります。戦後の数多くの戦争裁判の検証でも、アメリカ他の連合国の思惑等、しっかり認識していく必要性を感じます。

 もう一つ、資料とかデータに関する日本人の独特の考え方ですね。国際社会では、「資料が無い」というのは、その後の検証・交渉では致命的に不利になるのは常識にもかかわらず、ただひとえに自らの「保身」、「責任回避」の為に、それを焼却・破壊して無かったことにしようとするメンタリティ、その程度の責任感・覚悟での仕事の遂行というのでしょうか。何だか何で言って、「国」、「国民」の為になどという言葉は全くみられません。これは今の社会でも、全く変わっていないから更に課題は重いですね。戦争中の様々な残虐行為、安保・沖縄密約、事実を無かったことにしようとするそのことが、歴史に対する冒とくですし、それを乗り越えて進化しようとする力をそぐものです。私たちの世代の責任は、とにかく事実を事実として認識して、二度と同じような過ちを繰り返さない社会づくりを日頃から地道にすることしかないのでしょう。

 もう一つ、ハルピン市内の「東北烈士紀念館:http://www.mediabahn.co.jp/china/tiiki/tohokud7.html」では、抗日戦争で戦った女性戦士「趙一曼」に関する展示・説明が印象的でした。信念に生きる一人の女性の姿、また一人の子供へ託す自らの意思といのちの連鎖、今、中国・ハルピンに居ることを忘れて、無言でしばしたたずむばかりでした。

朝日地球環境フォーラム2010

Posted by 秋山孝二
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 今年で第3回目、「朝日地球環境フォーラム2010:水と緑と太陽と」が開催されました(http://www.asahi.com/eco/forum2010/)。混み合うとの事前メール案内があったので、約1時間前に会場のホテルに行きました。入口付近でビラ(冊子)を配る市民団体風の方々、受け取って後で読むと「武田薬品湘南工場跡・湘南研究所建設」に反対する内容(http://www.shounan.biz/)でした。

 会場入り口は物々しく、空港と同じ手荷物検査機による警備でガードマンも数多く配置され、その中をくぐり抜けてやっと「一般・公募出席者」の座席にたどり着きました。オープン前の舞台に向かった光景が下の写真です。私たち「一般(?)」の前は、「講師席」、「講師関係者席」、「特別招待席」、「関係者席」の各札が張り巡らされて、前方全て、全席の3割くらいはこれらに割り当てられていましたでしょうか。 

ある種、異様な光景でした

開始前、ある種、異様な光景でした

  ちなみに、フォーラムが始まり、「講師席」、「講師関係者席」は6割程度埋まり、それ以外の指定枠はほとんど空席のままでした。別の目的を意図したと思われる奇妙な光景でした。翌日の紙面では、勿論、ただ演壇上だけが掲載されていましたが・・・・。現場に居なければ分からない臨場感(?)でしたね。

 フォーラム・パネル参加者(http://www.asahi.com/eco/sympo2010/speakers/index.htm

 パネラーの皆さんはそれぞれ論客ぞろい、オリビア・ラム(http://globe.asahi.com/feature/090525/01_1.html)さんは特に魅力的でした。アメリカのパトリック・クローニン(http://amesei.exblog.jp/10543824/)さんは、新しい日米関係を象徴する「グリーン同盟:Green Alliance」を提唱しましたが、風貌からは「環境系」というより「国家安全保障系」という感じではありました。

 武田薬品工業(株)(http://www.takeda.co.jp/about-takeda/message/article_88.html)の長谷川閑史(やすちか)社長は、冒頭に「日本は水に恵まれていると思っている人たちが多いが、大変な間違いである。食料の外国からの大量輸入は、取りも直さずそれぞれの国・地域の水を消費して初めて成り立っていることを認識しなければならない。そう考えると、日本人をまかなう「淡水」は枯渇の危機にある」と語られました。公益社団法人経済同友会・副代表幹事でもあり、昨年の経済同友会・全国会議が札幌で開催された時(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=1272)に、個人的にご挨拶をさせて頂きました。原子力発電へのコメントには違和感がありましたが、グローバル経済での豊富な経験に基づき、含蓄のあるコメントでした。

 パネルディスカッションの前に、京都造形芸術大学教授・Earth Literacy Program代表・竹村真一先生のデモンストレーションでした。デジタル地球儀「触れる地球:(http://www.elp.or.jp/video/tangibleEarth/index.html)」を使ってのパフォーマンス(!)は強く印象に残りましたね、本当に宇宙からリアルな地球を眺めている感じでした。2年前のG8・洞爺湖サミット開催時、留寿都の国際メディアセンター(IMC)で「五つの触れる地球:http://www.tangible-earth.com/tearoom/」を見ましたので、久しぶりの再会でした。秋山財団もパートナー企業で参加している「日刊温暖化新聞」にも登場しています(http://daily-ondanka.com/thoughts/tkmr_01.html)。

 「水問題」は、「食糧問題」、「エネルギー問題」、「安全保障問題」であり、国際社会の中での未来に向けた議論が必要なのでしょう。「Natural Security」、「Green Alliance」等、いろんな言葉が飛び交っていました、この分野で日本のイニシアティブは、本当に重要だと思います。朝日新聞社のこのような取り組みに敬意を表します。

映画「キャタピラー」の迫力!

Posted by 秋山孝二
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  若松孝二(http://www.wakamatsukoji.org/blog/)監督、映画「キャタピラー:http://www.wakamatsukoji.org/」は大変な迫力でした。すでにご承知のように、寺島しのぶは、2010年ベルリン国際映画祭コンペティション部門・銀熊賞最優秀女優賞を受賞しています。み終わって、夫役・大西信満(しま:http://www.stereosound.co.jp/hivi/detail/feature_843.html)にも何か賞を差し上げたい気持です、「ド迫力」とはこのことでしょうね。久しぶりにスクリーンの映像に釘づけになりました。

 ちなみにベルリン国際映画祭は、ドイツのベルリンで毎年2月に開催される国際映画製作者連盟 (FIAPF) 公認の国際映画祭。カンヌ国際映画祭(http://www.festival-cannes.com/jp.html、ヴェネツィア国際映画祭(http://www.labiennale.org/it/Home.html?back=trueと並び、世界三大映画祭のひとつに数えられています。

 ラストの歌、元ちとせ(http://www.hajimechitose.com/)の「死んだ女の子:http://www.youtube.com/watch?v=EmsRNQ57f1M」も実に素晴らしい。この歌は坂本龍一がプロデュースを手掛け、原爆投下から60年にあたる2005年8月6日に広島の原爆ドームの前で行われたパフォーマンスで一躍有名になり、今回主題歌に取り上げられたとか。どちらも個性あふれるメッセージに打たれます。

寺島しのぶの迫力

寺島しのぶの迫力

  若松孝二監督は、学生時代から同じ「孝二」で気にはなっていましたが、当時は何となく暑苦しく、独善的な印象という思い込みも私にあり、作品もほとんど見てはいませんでした。2年前の彼の作品「実録・連合赤軍あさま山荘への道程:http://www.indierom.com/dengei/secret/gin_navi/48.htm」は、そんな私の思い込みを払しょくし、同時代を生きた私に違和感なく染み入りました。そして今回のこの「キャタピラー」、映画祭の賞を取った話題作だからではなく、戦争の現実、生き残って祖国に戻った人間・家族の苦しみみたいな新しい切り口で、今を生きる人間への痛烈な問題提起でした。正義のための戦争などないという若松監督の強い思いは十分伝わってきましたし、狭い薄暗い部屋での胸に突き刺さる夫婦の会話から、「生きる」、「生きている」ことの現実も明快でした。

 映画を封切直後に観た知人は、2時間前に行ってもかなり混んでいたと言っていましたので少々心配しましたが、先日は何とか待ち時間も無く観ることが出来ました。ただ、観る側の体調も万全にしておかないと、強烈なメッセージを受け止めきれない気もしました。とにかく、「映像の力」を感じた凄い映画でした。