しおりには、「彼が逝ってから26年。全学連委員長として1960年の安保闘争を指揮、その後の生き方からも伝説的な存在だった彼のふるさとは函館です。唐牛健太郎とは、どんな人間だったのか。60年安保から50周年の今年、激動の日々を駆け抜けた男の47歳の生涯を辿ってほしいと企画しました。・・・・・・」と書かれています。彼については、真偽のほどは分かりませんが、その後いろいろなメッセージが世に伝えられていますね、同じ函館出身の田中清玄(http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4163475508/isisnejp-22/ref=nosim)との関係等でも。展示会場の関係者の方は、「予想以上の反響で、あらためて彼の47年の人生の価値を確認しました」とおっしゃっていました。
一方東京では、それから過ぎること約10年、1965年の日韓条約締結時代から70年安保前夜、1968年、三派全学連の委員長になった同志社大学・藤本敏夫と歌手・加藤登紀子の物語「青い月のバラード」(加藤登紀子著)が,最近、演劇として上演されました(http://www.puremarry.com/aoi.html)。
公演初日には加藤登紀子さんご本人とお母さま・お姉さまも観客としてご出席でした。終演後、舞台上に促されて歩んだ登紀子さんは、「ただ感動で、涙が出ました」以外は多くを語らず、ここは役者たちの舞台、と示すかのようなプロ歌手の沈黙で、観客に一層の感動を与えました。
登紀子さんは、1960年6月15日は高校生として国会へのデモに参加し、藤本さんは関西でテニスコートに居たそうです。彼の風貌は、唐牛健太郎の田舎的雰囲気とは大きく異なり、お洒落でそれまでの学生運動の闘士のイメージとは違いますね。どこか都会的でマフラーとコートが似合い、映画俳優のようで、その後の「農的くらし」と言っても、何となく違和感が私にはありました。これも時代の反映なのかもしれません。
千葉県鴨川市にある「鴨川自然王国:http://www.k-sizenohkoku.com/」は、藤本さんと登紀子さんが築いた新しいフィールド、多くの方々がその理念に共鳴して活動しています。私自身もこれまで数回、「帰農塾:http://www.k-sizenohkoku.com/satoyama/satoyama_top.html」ほかのプログラムに参加して、間近で登紀子さんとお話を何回もさせて頂いています。「TOKIKO WORLD:http://www.tokiko.com/」も活発ですが、鴨川でのプログラムの中、田植え等でお世話になった石田三示さんは、現在衆議院議員でご活躍ですね。
まわるまわるよ、時代はまわる、そんな時代をひた向きに生きた人生の軌跡は、節目の今年、人々に多くのメッセージを与えます。昨年7月に書いたこの欄を思い出しました(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=1600)。