「愛生神社 例祭」、そして冬へ

Posted By 秋山孝二
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 札幌市中央区南1条西5丁目にあるテナントビル「愛生舘ビル(http://aiseikan.net/」は、明治時代から昭和42年まで(株)秋山愛生舘の本社でした。

これまでの「愛生舘ビル」関連記事

* http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=27586

* http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=27588

* http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=16586

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所在地: 〒060-0061 札幌市中央区南一条西五丁目8番地(南一条電車通り沿い南側)

アクセス: 地下鉄「大通駅」1番出口徒歩2分

構造: 鉄筋鉄骨コンクリート造り地上7階地下1階

延床面積: 4,713.20平方メートル

建築誌:

第一期工事 1955(昭和30)年11月 南側敷地に地下1階地上3階

第二期工事 1961・1962(昭和36・37)年 北側敷地に地下1階地上5階

第三期工事 1981(昭和56)年9月 地上7階に増築

設計・監理: 三菱地所株式会社  施行: 大成建設株式会社

所有者: 秋山不動産有限会社

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 新築以来、このビルの屋上には「愛生神社」神殿が設置されていましたが、永年の風雪で木造建屋が老朽化し、現在はコンパクトな形で4階ビル管理室に移設されています。本社時代は毎年11月3日に、秋山愛生舘創立記念日と同時に例祭を開催していました。現在も例祭は毎年11月3日前後に、南1条西8丁目の三吉神社(https://retrip.jp/articles/56824/)・佐藤千昭宮司により執り行われていますが、今年は少し遅れて先日、無事終了しました。愛生神社は、下記の三神様を祀っています。

一、倉稲御魂大神(ウカノミタマノオオカミ)…穀物・農耕・商工業の神様(http://www.kaiunnoyashiro.com/jinja-link/0-ukanomitamanokami.htm

一、大国主大神(オオクニヌシノオオカミ)…出雲大社の祭神・開拓の神様(https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E5%9B%BD%E4%B8%BB%E7%A5%9E-674555

一、少彦名大神(スクナヒコナノオオカミ)…出雲大社の祭神・薬の神様(http://japangod.dip.jp/%E5%B0%91%E5%BD%A6%E5%90%8D%E5%91%BD.html

今は愛生舘ビル4階管理室に

今は愛生舘ビル4階管理室に

 この機会に、この界隈について少々振り返ってみましょうか、愛生舘ビルHPから引用です:~~~~~~~~~~~~~

 アイヌの人たちが住んでいた蝦夷(えぞ)地は、明治2(1869)年に「北海道」と改称され、開拓使が置かれて、「札幌本府」の建設が始まったのが札幌の誕生の第一歩です。このときの判官・島義勇(しまよしたけ)は、円山の丘からはるか東方を見渡し、街づくりの構想を練ったといわれています。

 その後、明治8(1875)年、最初の屯田兵が入植し、先人たちは遠大な札幌建設計画に基づいて、鉄道を敷き、産業を興して、現在の原形となる市街地が形成されて、道都・札幌を築きました。大正11(1922)年の市制施行により「札幌区」が「札幌市」となり、近隣町村との度重なる合併・編入によって市域・人口が急速に拡大し、昭和45(1970)年には人口が100万人を突破、2年後の昭和47(1972)年に政令指定都市へ移行しています。同年の札幌冬季オリンピックの開催を機に、地下鉄などの新たな都市インフラの整備が進むなど飛躍的に成長を遂げ、人口190万人を有する大都市へと発展しました。

 このように急速な発展をしてきた札幌市ですが、人々の価値観やライフスタイルが多様化し、これまで増加の一途をたどってきた人口が平成27(2015)年をピークに初めて減少に転じることが見込まれる中で、従来の「量的な成長」から「質的な成長」をより重視する時期を迎えています。

 愛生舘ビルは、札幌の歴史のまさに原点・「本府」に位置し、今もこのまちの町内会は、「本府連合町内会」として開拓当時の意志、「本府の心」を受け継いでいます。

 ここは、明治24(1891)年創業の医薬品卸業・株式会社秋山愛生舘の本社があった場所です。すでに120年を越えた歴史を刻み、この街の変遷をじっと見つめ続けてきました。愛生舘ビル周辺の南1条電車通り界隈は、昔は自転車、原付バイク、トラックが頻繁に出入りする、まさに商業の拠点でした。昭和30年代には、玉木塗料店、山田文具店、そして、昨年まで続いた中山商店ほか、大勢の人が暮らし、小売店が連なる商業の拠点、人が集うにぎやかな街並みでした。

 ここのキーワードは、「大通公園」、「狸小路」、「駅前通り」、「南門通り」、「ススキノ」、「4丁目交差点」、「三吉神社」、「北海道神宮・頓宮」、「雪まつり」、「市電」・・・・、それぞれに歴史・文化の香り高いものばかりです。

昭和30年代の南1条・大通界隈(西から東方面を望む)HPより

昭和30年代の南1条・大通界隈(西から東方面を望む)HPより、手前中央部が愛生舘ビル

 ~南1条電車通り界隈~

* 「南1条電車通り」は、大正7(1918)年、札幌の最初の市電3路線の一つで、多くの市民の足として、100年近く毎日走り続けています。

* 「大通公園」は、公園であり、通りであり、イベント会場にもなります。冬の「雪まつり」を始め、今では春・夏・秋・冬に多彩な行事があり、札幌市民の集う場所で賑わっています。

* 「狸小路市場(西6丁目)」は、この地域の日々の買い物をする馴染みの場でした。

* 「ススキノ」は今も変わらぬ大歓楽街、昔も今も大人の場所です。

* 「駅前通り」は、まさに札幌駅から中島公園に至る札幌の顔です。

* 「南門通り」は、道庁南門に通ずる道で、終戦直後、進駐軍が札幌に駐屯した時に、ススキノ方面から道庁まで、電車通りを渡って行進があったそうです。

* 「風物誌」としては、2月の雪まつり(大通公園)、5月の三吉神社例大祭、6月のさっぽろまつり(札幌神社例大祭)、8月の盆踊り(狸小路)等でしょうね。

 <市電の歴史>

大正 7年   初めて3路線(南1条線、停公線、南4条線)・5.3㎞でスタート

昭和 6年   山鼻西線開通で23.4キロメートルへ

昭和33年   国内初の路面ディーゼルカー運行開始、道産ボギー車運行開始、藻岩山ロープウェイ営業開始

昭和34年   婦人子供専用電車運行開始

昭和46年   <地下鉄南北線開通(北24条~真駒内間12.1Km、14駅)>

大幅路線廃止: 苗穂線、豊平線、西20丁目線、北5条線、鉄北線、電車完全ワンマン化になる

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~引用 おわり

 「愛生神社」の例祭を終えると、札幌もいよいよ冬本番です。私にとっては生まれてから18歳まで暮らした場所、65年を経て周囲も変貌していますが、土地が放つメッセージは忘れたくないですね、まさに「SAPPOROっ子」としてのルーツですから。

2 Responses to “「愛生神社 例祭」、そして冬へ”

  1. 秋山孝二の部屋 » Blog Archive » 東京 新橋界隈ビルの屋上で Says:

    [...]  私の育った札幌市中央区南1条西5丁目でも、昭和30年代に新築したビルの屋上に「愛生神社」の小さな社が設置されていました。毎年11月に「愛生神社例大祭(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=28217)」という小さな(?)祭事を、近所の三吉神社さんの宮司さんにお越し頂き執り行っていました。今は、風雪で傷んだので、ビル管理室に神棚として移設して祀っています。ビル街になっても信じる昔のオーナーたちの心情なのでしょうか。因みに、余計なことですが、今の札幌三吉神社の佐藤千昭宮司は、私と高校同期です。三吉神社の例大祭は毎年5月14日・15日、同じ連合町内会として前夜祭ほか参列していますし、町なかの神社境内は多くの人々で賑わいます。 [...]

  2. 秋山孝二の部屋 » Blog Archive » 三吉神社例大祭 @ 2019 Says:

    [...] * 愛生神社関連記事ーー> http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=28217 [...]