1月1日は、毎年新鮮な気持になりますね。静かに家でこの日を迎えられる事に、まず感謝でしょうか。
私にとって、今年は自分のフィールドで再度しっかり結果を出していきたいと思っています。公益法人改革の方向性に沿って、秋山財団http://www.akiyama-foundation.org/ を新しいステージにのせて、一層の貢献が出来ればと気持を新たにしています。
1月1日は、毎年新鮮な気持になりますね。静かに家でこの日を迎えられる事に、まず感謝でしょうか。
私にとって、今年は自分のフィールドで再度しっかり結果を出していきたいと思っています。公益法人改革の方向性に沿って、秋山財団http://www.akiyama-foundation.org/ を新しいステージにのせて、一層の貢献が出来ればと気持を新たにしています。
先日は三角山FM放送http://www.sankakuyama.co.jp/で、恒例の丸山哲秀先生の8時間番組の中、1時間程お付き合いを致しました。娘の恩師でもありましたし、教育からの視点で共有する話題も多く、毎年先生とのひと時を楽しみしています。
番組の中で数年前は、「勝ち組」とか「負け組」とか言う社会は気に入りませんね、とお話をしていましたが、今年は派遣打ち切りとか、更に一層深刻な状況に、心を痛めていました。今年は、私たちの世代の間では、「自分たちはこれまで一生懸命目の前の仕事をしてきた気がするけれど、こんな社会しかつくる事が出来ずに、申し訳ない」、若い世代を前にそんな言葉をよく耳にしました。
一方自分たち自身は、五木寛之著「人間の覚悟」http://www.shinchosha.co.jp/book/610287/にある様に、覚悟を決める時期かと感じています。「下山の哲学を持つ」必要性を、私も強く意識した今年2008年でした。「林住期」を生きる、あるいは、「そもそもボランティアというのは、最後は『石もて追われる』存在であるべきなのだから」と五木寛之が語る言葉に、大変納得のいく感動を覚えます。
歴史的転換点の2008年、この時代に生きていた事を後で感謝するだろう程、私にとって今年は納得のいく年でした。課題も明確ですし、新しい時代を大胆に構想して、より良い社会づくりに少しでも貢献できれば、これ以上の喜びはありませんね。
「多様性」と言えば、世界の中の日本、あるいは学校教育においても、キーワードなのだと思います。もう4年ほど前になりますが、「どんなに障害が重くても地域の学校へ・連絡会議」の会報に書いたのが、以下の内容です。
―――この直近20数年、私はビジネスの世界で企業経営に携わり、仕事上沢山の国々・都市で数多くの市民・企業経営者・官僚・研究者に会う機会に恵まれ、日本という国・日本人に対する熱い期待を肌で感じて参りました。民族・宗教・思想の全く違う国際社会の多様な人々が寄せる期待感、しかしながらそれは過去の歴史の事実から、大きな不安感とも隣り合わせで存在する事もまた容易に推測されます。私たちが意識するしないにかかわらず、今の日本国・日本人は、国際社会の中で世界に貢献すべき責務を負っている気がします。事実、数多くのNGOの一員として、「こころざし」をもって地道に世界各地で活躍する日本人も増加していて、貢献の仕方も実に多彩で頼もしい限りです。
しかし、これまでの実績を基盤に、国際社会から喜ばれる将来の日本人の活躍を、今後も期待できるのでしょうか。私は正直に申し上げて、大いなる危惧を抱いています。
私は1970年代美濃部都政の末期に、東京都江戸川区で公立中学校の理科教員をしていました。聴力に障がいのある子供たちも含めたクラス編成、知的障がいの子供たちの特別クラスと一緒の学校で、私は5年間担任を受け持ち、実験を中心とした教科指導、バレーボール部の顧問等、忙しく充実した毎日でした。
当時は「校内暴力」が新聞紙上を賑わせていましたが、私の経験からは、「校内暴力」に限らず、地域内での他校生とのいざこざも多く、授業とか部活の他に、地域社会の中で“義務教育”に携わる者として、否応なしに責任を感じる場面も多々ありました。ただ、一連のいわゆる「暴力沙汰」も、当事者から言わせると「存在感の誇示」が本質の様で、一人の人間が大きく成長する過程で、大切な時期だったのでしょう。そんな「はみ出し」も学校教育の中で、個性として容認できていた、良き時代だったのかもしれません。
また、「運動会等の学校行事で、知恵遅れの子供たちと一緒では親戚から誤解をうける」とか、「耳が悪い子供と一緒のクラスでは、授業のレベルが下がるのでは」とか、毎年数人の保護者の方々から苦情を言われた事もありました。初めての担任の時、私自身、意思伝達では大いに不安で逃げたい気持にもなりましたが、伝えたい事を子供たちの目をしっかり見て話をしていくうちに、私は難聴児との会話に自信を深める事が出来ました。学級の生徒たちも、ほぼ私と同じように、彼・彼女らとの自然な会話を身につけていきました。
5年間の教員生活で私は、「異なった存在をありのままに認識する事」と、「心のふれ合いを創造するコミュニケーション」を、人生の出来るだけ早い時期から体験して育つ事の大切さを強く感じました。その事が同時に、「他と違う自分」の価値を意識する強い動機となり、人間として生きていく為には、「多様性の尊重」が社会の中で最も重要である事を生徒とともに学びました。「自立する個人の尊厳」とも言えましょうか。時あたかも「能力別学級編成」、「養護学校義務化」の流れの中で、私は反対の姿勢を明確にして、当時の組合幹部も含めた「抵抗勢力」と闘っていた時代です。
その後、教員を辞めて札幌に移り、自分の子供たちが体験した札幌の学校教育の現場から推察する最近の環境に、何か大変な危機を感じてしまうのは私一人ではないと思います。私が教員時代の雰囲気に比べて、全く更にひどく「均質化を目指す教育」へと逆行している、そんな危惧を抱いているのです。仕組みが理想的な教育環境ではないのが大きな問題というより、現場教員集団・PTAが、結果的に足並みそろえて「異質な事・人・物の排除」に懸命になっている姿、これは冒頭に申し上げた、国際社会が期待する「21世紀型日本人像」を創り出す事と全く逆行していると言わざるを得ません。
そんな危機感を抱きつつ、世界に羽ばたく価値のある「個性」を磨く場としての札幌・北海道に、限りない可能性を信じて、これからの若い世代にたまらない魅力を感じながら、私なりの活動を地道にしていきたいと思っています。―――
多様な「いのち」が存在できる世界、それは人間社会でも自然界でも、最も豊かで健康で価値のある事だと確信しています。
今年のG8サミットでは、環境問題が中心課題と大きくメディアでも取り上げられました。終わって発表された沢山の声明を冷静に読み返してみると、あれもこれもで、その後それぞれの関係する方々が都合よく「これがG8サミットの合意だ」と言っている様子を、8月以降のいくつかのフォーラム等で語っているのを目に致しました。
一般的に新聞を読んでいると、環境問題は即「気候変動:温暖化」と読み替えている場合が多いですね。勿論それは重要なテーマではありますが、私のような遅れてこの問題に関心を寄せる者としては、環境問題にはもう一つ、「生物多様性の保全」という視点がある事を忘れてはならないと思います。
洞爺湖で開催されたサミットとほぼ同じ時期に、札幌のコンベンションセンターで「市民サミット」が開催されて、海外・国内・地元のNGO及び市民が約3000人参加致しました。2010年に名古屋で開催される生物多様性条約締約国会議(COP10)を控え、国内でも生物多様性に関する動きや話題を見聞きすることが増えてきました。企業にとっても、環境や持続可能性に関する「温暖化の次の大きなテーマ」ともいわれています。市民サミット」の分科会でも熱気のこもった議論があったようで、クロージングセミナーでの報告では、名古屋に繋がる総括報告もなされました。
私にとって、環境関係の大切な情報は個人会員になっている下記から送られるものです。週何回も、世界からの膨大な情報が送信されるので、読みこなすのも大変ですが、それを支えるスタッフも素晴らしいですね。
http://www.japanfs.org/ja/
このJFSの代表のお一人、枝廣淳子さんは日本の誇るべき女性です。先日も英字新聞で「 Asia’s first lady of the environment」という見出しで紹介されていて、写真には「green queen」として大きく掲載されていました。http://search.japantimes.co.jp/cgi-bin/fe20081126sh.html
これから、生命科学をテーマとする秋山財団としても、この二つを視野に入れて「地球の健康」を考えていかなくてはならないと思っています。取り急ぎ、その一つ「気候変動:温暖化」について、下記の場で学んでいこうと思っています。http://daily-ondanka.com/thoughts/index.html
出張の合間に、時々相手の都合によりアポイントの時刻が変更になって、ポッカリ時間が空く時があります。先日も急に獲得できた時間があり、映画「私は貝になりたいhttp://www.watashi-kai.jp/」を見ました。中居正広・仲間由記恵が出演で人気と聞いていましたが、予想以上に映画館にも若い世代がかなり来ていました。
私にとっては50年程前のフランキー堺・新珠三千代出演http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD26185/cast.htmlを題名から思い出します。何だか幼い自分には大変怖い映画で、途中で出てきたか、テレビを見ていて途中で消したか、いずれにせよ最後までは見ていなかった記憶があったのです。先日も薄れた記憶を蘇らせるつもりもあり足を運びましたが、判決が下った後、再度呼ばれて死刑執行を言い渡された場面で、場内から「えっ!」という悲鳴とも言えない声があちこちで聞こえました。正直言って私は、ここで減刑或いは無罪はないだろうに、と中居ファンには冷たい言葉を心の中で浴びせていました。
その後、家に帰って妻とその話をしていると、今年の夏前に東京の親戚から、「私は貝になりたいの主人公の妹と同級生だった」との便りがあったとの事。嘆願書の署名を集めて歩いた妹との話に、私は「主人公の妹ではなくて奥さんだろう?」と訊きかえしたのです。ところが、確かに妹であるという事と同時に、今年の8月に、原作「私は貝になりたい―あるBC級戦犯の叫び 加藤 哲太郎 (単行本 - 1994/10/25)新品: ¥ 1,680 (税込)」に基づく中村獅童のテレビhttp://www.ntv.co.jp/watakai/が放映されたと、更に続きの話を聞きました。先日の映画館で悲鳴をあげた人たちは、今年8月のこのテレビドラマを見た方か、原作を読んだ方だったのかも知れないと、その時初めて気がつきました。
私は恥ずかしながら今回、その加藤哲太郎氏の著書と橋本淳氏の脚本とが、かなり違ったストーリーになっているのを知りました。著書を読むと著作権を巡っての争いもあった経過も記載されています。「似て非なるもの」というのはかなり厄介で、題名は同じでも、最初の設定が大幅に違うこと、途中からのストーリーが大きく違うこと、そしてその結果、物語のテーマが変わってくること、を感じました。加藤哲太郎氏の著書に基づくと、結果的にご本人は生還されることにより、家族の愛情とか絆とかが中心に据えられてくる感じ、同時に占領軍へのイメージも橋本氏の脚本とは大きく違ってくるような気がします。それに対して昔そして今回の一連の映画は、歴史及び社会の不条理・理不尽さが前面に出て、更には東京裁判それ自体への疑問という所にまで発展する方向さえ考えさせられます。脚本に特別な意図があったとは考えたくはないのですが・・・。現在は、原作の欄にはお二人のお名前が記載されています。
「戦争が引き起こす不条理」には変わりはありません。今回、ふとした時間から随分新しい発見をしました。
北海道のさる月刊誌、今月15日に発売なった新年号の「オモテ舞台から消えたあの人は今・・・」のタイトルの中で、なんと私の名前が掲載されています。ああいった見出しで掲載されるとは、考えもしませんでした。私は舞台から降りた気は何もないのに、ご親切にもその月刊誌からは「降ろされ、消され」ました。
私はこれまで、メディアの取材申し込みをお断りした事はありません。基本的にはどんな意図であろうとも、メッセージ発信の機会と前向きに捉えていました。しかしながら、昨今のメディア・記者の取材は、事実関係自体も怪しくなってきているので、当事者としては、明らかに事実と違う場合は訂正を強く要求したいですね。ただ、その手だてがありません。ひどいときには取材もなしで、あたかも言ったかのような記事を書いたり・・・。こちらの時間にも限りがある中で、良かれと思ってこれまで対応してきましたが、姿勢を変えた方が良いのかもしれないと思い始めています。その後始末の労力が大変ですからね。
以下、瑣末な事とは思いながら、今回の記事の中で事実と違う事を修正させて下さい。
1)“泡沫”扱い?: 普通、選挙では供託金(予め立候補前に選挙管理委員会に納める定額のお金)を納めます。’03札幌市長選挙の場合は240万円でした。選挙結果で自分の得票数が、有効投票数の10%以下だとこれが没収になります。私の場合は越えていましたので、後日戻って参りました。「泡沫」というのは、普通はこの供託金が没収の候補者を言うのだと思いますが。
2)「康之進」の襲名に関して?: 二代目は初代の娘婿、三代目は二代目の娘婿、その次の社長は二代目の娘(三代目の妻)ですから、男性の名前の襲名など有りようもないです。因みに私は、「英語のイニシャルがKで同じだからいいでしょう?」と良く分からない事を言って、襲名しなかったのです。
3)千葉県で中学教諭?: 東京都江戸川区です。大学の地元ではなく、敢えて江戸川を渡った他の場で力を試したいという心意気でしたので、この間違いは許せませんね。
4)東証1部への上場?: いきなり1部はありません。合併時は東証2部です。少しして1部の予定でした。スズケンは店頭登録から東証2部へと進み、現在は1部上場企業です。公開会社同士の合併という所に、意味があるのです。
5)その傷もすっかり癒えて?: この経験を傷といっては、本当に傷をお持ちの方に失礼です。私にとっては大変貴重な体験で、その後の人生・活動に大きなプラスの影響を与えてくれました。傷も癒えてどころか、貴重な経験で心からの感謝です。
6)創業の地(札幌市中央区大通り西5)?: 明治からの創業の住所にもこだわりを持っています。中央区南1条西5丁目です。大通り西5は電車通りをはさんで一つブロックが違います。ちなみにビルの名称も「秋山ビル」ではなく、「愛生舘ビル」です。
7)北海道に応援団は必要ない?: 応援団は必要ですが、応援をする素振りで評論だけするなら必要はないので、フィールドに降りてきてプレーをしろよ、と言ったのです。
以上の通りです。「まだ話題にしてくれるだけ存在感があるということだろう」という方もいますが、とてもそんな気にはなれませんね。月刊誌・週刊誌は売れて何ぼの世界でしょうが、最低限の信義は、取材する対象者及び読者に対しても必要だと思います。
海外旅行では、カルチャーショックというのが顕著ですが、日本国内でも結構感じる時もあります。先日、、横浜の市営地下鉄の車両には、「全席、優先席」との表示がありました。また、たまたま乗った私鉄車両の椅子に腰掛けて、少ししてからドアを何気なく見ると「女性専用車両」とピンクの文字で書いてありました。一瞬「アレッ」と思いましたが、「土・日は除く」ともその下にあり、ホッとしましたが。まあ、専用車は名古屋にも札幌にもありますからそれ程違和感はありませんが、以前なら「ここの椅子に座ってよいのかな」とか、「この車両に乗っていいのかな」などとは意識もしなかったのに、時代も変わってきていますね。
「全席、優先席」というメッセージは面白いですね。新千歳空港と札幌駅の空港ライナーという電車では、いつも限定された「優先席」を巡って面白い光景が見られます。私は、退屈な会議とか何となく本を読む気にならない電車内の時は、目の前で繰り広げられる光景を、舞台上の芝居に見立てて楽しんでいます。まさに「劇的」に、勝手に自分のシナリオにしながら観客気分となります。「優先席と書いてあるけれど、お年寄りが来たら代わればいいや」と言いながら、結局どんな人が来ても立つ気配のない人。そうかと思うと、空いている車内で、如何にも疲れている若者が優先席の横で立っている姿。「空いてるのだから座ってもいいのでは」と水を向ける事もしばしばです。
もう一つ、ある夜8時頃でしたが、東京の私鉄に乗っていると、一つの車両に居るお客さんの私以外の人全員が携帯電話と向き合っていました。風景が昔と一変している、寝てるか携帯電話操作中かの日本国民事情です。
電車といえば、昨年「それでも、ボクはやっていない」という映画が上映されていました。http://www.soreboku.jp/index.html なんとも恐ろしい映画でしたが、ある男性の若者は、「あれは若い男にとってはホラー映画だ」と言っていました。以前はそれ程感じなかったのですが、最近は都内のラッシュアワー時、電車内での人との距離は、私はどうも息苦しくてすぐに降りたくなります。いつでも犯罪者になってしまう、そんな身の危険(?)を感じる昨今です。
身内の高齢者を看取った何人かの方からお話を聴いていると、今の日本で高齢者への医療・看護・介護の研究および臨床例の蓄積が、本気で為されているのかどうか、強い疑問を抱く時が多いですね。急性疾患に対する治療については、沢山の臨床医師が興味を持ち、研究も進化しているのでしょう。また昨今では、慢性疾患についての研究にも大きな進歩が見られます。ただ、高齢者に対する医療・看護の現場、介護の現場は、それらに比べると余りに画一的であり、死にいたる過程への寄り添いがないと思うのです、特に病院内では。こうすると良かった、ああいう最期で本当に良かったのだろうか、と葬儀の後も自分を責め続ける数多くの残された家族の方々のお話に、日本の高齢社会の未熟さを感じます。残された家族の納得性に欠けるとでも言うのでしょうか、医療に従事する人々ばかりではく、宗教と日常生活の関係性とか、沢山の課題が山積しています。
日本のように、これ程のスピードで社会に占める高齢者の比率が増加した国は、歴史上にありません。従ってまだまだ本当に高齢者の幸せな最期、あるいは理想的な家族の看取りが実現するには、これから数十年の歳月が必要なのかも知れません。それまでは「諦め:あきらめ」と共に,気持の整理をつけなければならない辛い日々なのでしょう。
人生の終わりは百人百様です。病気によってもその過程が大きく変わりますし、家族の意向として命を長らえる事よりも、むしろ手術等は出来るだけ行わずに、自然体の最期を希望する場合もあるでしょう。ガンなどの場合は痛みの除去を最優先にして貰いたいとする場合も多いかと思います。その人の人生の終末は、究極の自主自立的意思かも知れません。自分の身内の経験からも感じるのですが、生前に何回もそんな人生の終局部分について、自然な形で明るく語り合える時間を持っていたいものと思いますね。
病院内で人工呼吸器等の人為的な方法で「生き延びさせられている」場合は別でしょうが、あらかじめの意思により自然体で最期を迎える高齢者というのは、亡くなる直前まで、想像以上に意識ははっきりしている気がします。ごく普通に会話をしていた、と看取った方から伺う場合が多いです。より長く生きるばかりではなく、その人らしい最期をどう遂げさせてあげるか、そんな事も「Quality of Life」の一環で、真剣に研究する価値があると思います。
「Quality of Life」で思い出しましたが、普通「生活の質」と多くの方が訳していますが、今から約28年前に、アメリカのビジネススクールで日本企業の人事政策を研究している大学教授が、これを「生き甲斐」と訳すのが最も適切であると私に語っておりました。アメリカ人の研究者から、「生き甲斐」という言葉が出てきて、あらためて精神的領域での奥行きを教わったような気がしました。
先日空港の売店でお茶を探していると、お店の人が「これは冷たいお茶で、こちらが暖かいお茶です」と指で示して教えてくれました。私はその冷たい方のお茶をじっと見ていたのですが、ラベルの間から見えるのはお茶の色ではなくて、無色透明な液体が入っているだけなのです。でもラベルには確かに「お抹茶」と書いてありました。「これはミネラルウオーターでしょ?」と再度聞き直してみても、けげんな顔の彼女でしたが、続けて「これはふたを開けると中の抹茶と内フタが下に落ちて、次に上のキャップをしっかり閉めて良く振ってからお飲み下さい」との説明。
「新しい商品ですか」と更にしつこく問うと、「いえもう数ヶ月前から販売しています」との返事でした。何だか大変時代に乗り遅れた気持になりました。言われた通りにキャップをひねり、閉じて、振って飲みました。中に緑色のプラスチックがカラカラと音を立てて残ったままになっていましたので、何となく違和感がありましたね。でも容器は捨てずに、今も机の上に飾って置いてあります。
最近の若い世代は、おにぎりの海苔は食べる直前に巻いて口に入れるのが普通とか。そんな文化はコンビニが世に出始めてからの極めて新しいスタイルでしょう?私もコンビニで買ったおにぎりはそうして食べはしますが、何かの時に家で作る時は、勿論、海苔をあらかじめ付けて持って歩きますが・・・・。
先ほどの「お抹茶」ですが、私の直感では、あまり売れないと思いますよ、暫く観察してみますが。
南原研究会http://nanbara.sakura.ne.jp/が毎年開催しているシンポジウムに参加しました。
今年のテーマは「南原繁と戦後教育改革~その現代的意義~」で、第一部は東京大学名誉教授 寺崎昌男先生の基調講演、第二部が「南原繁をめぐる人々(その3)」と題して、「前田多門」、「田中耕太郎」「河合道」「務台理作」「天野貞祐」について、それぞれ研究会メンバーがその功績他をレポートし、コーディネーターを成蹊大学教授の加藤節先生が務められました。
敗戦直後の荒廃の中、高い理念と構想力を持って臨んだ教育刷新委員会での議論を踏まえた当日の各研究者の発表は、大変内容が濃く、戦後教育の枠組みを決めた過程を再認識出来ました。明治以来の「教育勅語」をどう扱うか、従来の日本の人材育成を総括して、新しい時代を担う、言い換えれば制度の民主化を推進する主体の創造、自由で自立した人間の育成等への並々ならない情熱を感じました。どこかに原案が用意されていた予定調和ではなく、本当に喧々諤々たる議論の中から、教育基本法が世に誕生した経緯を認識しました。
昨年でしたか、それら誕生の議論に比べると余りに貧困な経緯で教育基本法の一部が改訂されました。関わった方々の教育観とも言えない思惑と駆け引きの中で、貴重な言葉の数々が削除され、改悪されましたね、恐ろしい事です。私は昔、教育現場にいた者として、教育の重要性を軽んじる今の政治家・学者に憤りを感じます。何年か前に、「最近の日本人の顔が醜くなった」とどなたかが書いていましたが、本質的議論なしのこの種の「改定」が続く事に大変な危機感を持ちますね。と同時にそうさせない活動を自分の出来るところから始めなくてはとも思います。
先日のシンポではフロアーとの意見交換の時間で、80歳代の方がご意見を述べていらっしゃいました。「今の方々は、教育勅語の文言だけを議論をされる傾向があるが、それが教育現場或いは社会でどのように使われていたか、を良く見極めなければなりません。本来の意味あいとは別に、それが権威・権力として有無を言わせず子供たちを管理・強制する手段として利用されていた事実を見逃してはなりません」と。
時代を踏まえた改革の議論、その中でやはり「原点の確認」が重要ですし、高い理念を掲げ続ける見識も大切なのだと再度感じた東京での時間でした。
出張で出歩いていると、沢山の考えさせられる場面に出会います。
ついこの間は、ある地方空港の搭乗口でこんな事がありました。
私はいつも飛行機ではANAを利用しています。ご存知の様に、搭乗の時に、まず「事前搭乗」があり、その次に「優先搭乗」があります。以前は「優先搭乗」だけでしたが、高齢の方とか幼いお子さんの方と頻度の多いビジネスの方が一緒だと追い抜かされたりサービスにならないとの判断で、これを二つに分けた経緯があります。「事前搭乗」は、ご高齢の方、妊娠中の方、事前搭乗をご希望される方と、ある意味では微妙なアナウンスでいつも始まります。今回は、見るからに頑丈そうな60代の男性が一人、このアナウンスの直後に搭乗口を通過しました。周辺に待つその後の「優先搭乗」組の一人がすかさず、「今の男がどうして事前搭乗なんだ!」とかなりきつい調子で係員に詰め寄りました。最初対応した若い男性の職員は、困った様子でしばし沈黙していると、近くにいたベテランと見える女性係員がはっきりした口調で言いました。「基本的にこの搭乗サービスは、お申し出のあった場合、障害者手帳等も確認して通って頂いています」と。プライバシーと申告とルールのギリギリの折り合いなのでしょうね。クレームをつけたやはり60歳代と見える男性は、その説明を聞いてすぐに「わかった」と引き下がりました。
実は私はこの一部始終を後の方から見ていたのです。事前搭乗の時に、ごく健常と見受けられる男性が確かな足取りで進んでいくのも「何なのだろう、あの人は」と思いながら私は傍観していました。ああいう人が何故「事前搭乗」なのか、と思っている矢先に、次の展開でした。詰め寄った男性に対してはあの言い方もないだろうに、と思いながらも、よくぞ言ったと拍手の共感もありました。
日本の場合、難しいですね「クラス分け」というのは。もう20年ほど前に、アメリカ・フロリダ州のディズニーワールドで、車イスの方々が全く別の列から最優先で全てのプログラムに入場するシステムに驚きました。片や一般の列は、1時間以上も待つ程であるというのにです。日本では、こんな事を並んでいる方々が許すのかなと、当時考えさせられました。今のアメリカはどうなっているか知りませんが、当時の市民レベルのモラルは徹底していました。この時、私と同じメンバーの一人が、水虫が悪化して、片足は草履で、そして車イスを使って広い敷地内を一緒に回っていたのです。並ぶ所に来た時、一般の列に車イスで並んでいたら、係員が同伴の私も含めて最優先の列に誘導しました。あまりの厚遇に、「水虫で車イスなのに、何か申し訳ないな」と本人も思った様で、見学後、出口のちょっと植木で陰になった場所で、車イスから降りたのです。まるでスーパーマンのクラーク・ケントの早変わりの様にです。分かる方にしか分からないでしょうが。
最近の札幌の地下鉄では、優先席は見事に空いています。たとえ若者が座っていても、それらしき方々が乗り込んでくるとすぐに席を立っている光景を見ます。以前とは「モラル」も随分向上してきているのでしょうね。
先日の空港の場面では、それぞれの男性がもう少し会話があれば、どうと言うこともないのでしょうが、どこかギスギスした感じでした。皆さん時間に追われているのか、もう少しおおらかでも宜しいのでは、と思う時がよくあります。
11月は作品展覧会、ライブ等、盛だくさんの催しでした。
渡会(わたらい)純介さんの「る・みえる展」は札幌市東区元町の茶廊法邑http://houmura.com/gallery.htmlでありました。フィルムにスクラッチを施した新しい技法の作品について渡会さんからご説明を伺い、踊るような楽しい作品が多く、見ていても音楽が聞こえてきそうな雰囲気でした。ロシアのエルミタージュ美術館内の劇場演奏で、映像としてコンサートとのコラボレーション作品も素晴らしかったですね。
法邑さんのお近くに、「元村開拓記念館」があり、以前から興味があったもので寄ってきました。私の曾祖母が元村出身でしたので、札幌っ子4代目としてはその「原点」を知っておきたかったのです。大友堀による札幌中央部(本府)との往来、国内各地・海外との交易等、積極的な活動の数々は知らない事も多く、興味深かったです。
続いては加藤祐子さんの「テキスタイルによる表現の個展:皮膜」は、札幌市西区八軒のレッドベリースタジオhttp://www.akai-mi.com/st.item.html で開催でした。最初ご案内のはがきを頂いた時は、「布の展示かな」程度で、どんな個展かイメージがつかめないまま足を運びました。行ってみると極めて立体的な作品の数々に驚きました。加藤さんから織る所からの工程の工夫等を伺い、あらためて自分の認識の無さを感じました。織物がこんなにも「動き」をもって存在している事に、新しい発見をしたひと時でした。
登別の白田路明http://con-sent.net/peace/shirata_michiaki/くんは、プロで若手の有望な津軽三味線奏者で、私もささやかながら応援しています。ふるさと登別で、今回は「疾風:はやて」というユニットで熱演でした。
吉田兄弟http://www.yoshida-brothers.jp/の弟、吉田健一さんも今回はプロデューサーとして、後半では舞台に登場しての演奏もありました。「疾風」は、青森・宮城・石川の若手5人のユニットで、それぞれに個性があり、いつも白田くん一人を聴いているのとはまた違った面白さでした。また、演奏をした吉田健一さんも本当に素晴らしかったですね。音の表現に奥行きがあるというのか、津軽三味線はどちらかというとガンガン弾くという感じですが、私は弱い音色とスローな旋律の時に、演奏者の違いが出るような気がします。先日の「月光」という曲は、津軽三味線の深い奥行きを感じました。彼が途中で語っていた、「自分たちは伝承と伝統を大切にしたい。伝承は先代の曲を後の世に伝えること、伝統は自分たちの解釈を加味して創造していくこと」と、若い彼の含蓄のある言葉でした。
白田くんは今、東京を拠点としてしっかりした活動を展開しています。札幌・北海道でのライブコンサートも何回かあり、来年1月には札幌で早速にライブの様です。伝統文化を、若い担い手が数多く受け継いで、それぞれ多様な解釈で一層創造的に発展させている姿に、心から感動します。自分が何かを為すことは勿論大切ですが、健気(けなげ)に道一筋で頑張っている人を応援する事でも、元気を貰えます。育ち行くものを見る楽しみとでも言うのでしょうか。
東京出張は頻繁にありますが、これまで午前10時過ぎの有楽町・新橋界隈を歩く機会はそうありませんでした。先日東京で、汐留方面から有楽町に向けて歩いているほんの少しの間に、人の行列を3か所も見ました。
まずは銀座7丁目辺りの高速道路下のすし屋さんの前。まだ朝の10時過ぎと言うのに、歩道に置いてあるベンチにお年寄りの男性が一人、文庫本を読みながら開店待ちの様子。その横にはおばさん達6人程が、かん高い話声で賑やかに立ったり座ったり。昼食を開店1時間以上前から並べる生活、一体この方たちはどんな暮らしをされているのだろうかと、通り過ぎながらも少々気になりました。今、日本国で最も恵まれた世代かもしれませんね。
次は有楽町駅の南のビル一階角で、10メートル程の列。何事かと入口を確認すると4階にある映画館へのエレベーター前からでした。ここは老いも若きもといった感じで、椅子もない場所で整然と時の過ぎるのを待っている風。ここの若者は、またどういう生活なのでしょうね。
そして信号を渡って向かい側の驚いた長蛇の列、長いばかりではなく幅も6人位の存在感でした。近寄って最後尾の案内プラカードを読むと、何とガード下にある年末宝くじ開店待ち(当初はパチンコ店だと思っていましたが、先日再度確認しましたら違っていましたので訂正致します)でした。およそ50メートルは有りましたでしょうか。ここも、老いも若きも、男も女もと言った具合でした。表情は皆さん、決して暗くはなかったですね。
折からの世界金融の100年に一度のクラッシュ。1929年世界大恐慌時に、何回も見た仕事を求めて並ぶアメリカの労働者の列と比べると、何と平和な風景なのでしょうか。そしてどこからやって来ているのか、出てくる人の数も凄いですね。一方で、北海道の地方都市の駅前通りは、昼間も夜も殆どがシャッター通りと化して、人の姿も珍しいのですよ。平和と言ってもいられない、格差の時代はこの日本にも本当にすでに到来している事は確実です。先日のセミナーでも、一昔前までの「一億総中流層」という日本社会はすでに崩壊して、年間で70名以上の餓死者も出ていて、貧困層の拡大は深刻になってきているとの事でした。
11月からホテルのロビーとか商店街ではもうクリスマスのイルミネーションでしたが、今年の年末は殊のほか寒さが身にしみるのではないでしょうか、温暖化とはいえ、いや温暖化故でしょうか。
年末から来年にかけては、恐らく驚くほど破たんする企業が多く、沢山の雇用削減となり、とりわけ若い世代の失業が急増すると思います。それをまだ認識していない雰囲気の先日の風景、あれらの列が白黒写真のように、職を求めての列に私には見えてきて、何とも重苦しい一日でした。
先日東京で、 「公益法人制度改革と市民社会の新たな展望
ー新公益法人制度施行と特定非営利活動促進法10周年を迎えてー」
http://www.kohokyo.or.jp/kohokyo-weblog/topics/images/sympo_pamph.pdf
と題してのシンポジウムが、(財)公益法人協会http://www.kohokyo.or.jp/主催で、300名を越える出席者を集めて開催されました。
2008年12月1日からは、民法第34条が110年ぶりに改定されて、新しい三法による公益法人制度が施行されます。またこの日は、特定非営利活動促進法施行10周年にもあたり、二重の意味で新しい時代のスタートとなります。シンポジウムは本当に素晴らしい講師の方々のご登壇と、集中した300名の参加者の熱気で時には過激な言葉も飛び出したりで、皆さんが当事者としての迫力もあり、大盛況でした。日本にも、本格的な民による公益活動の展開が期待されるのでしょう。
3年前になりますが、「民が担う公共」について、私は(財)公益法人協会の会報(2005.11.10)巻頭言に下記のように書きました。
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「北のいのちとともに――民間の公的こころざし」
財団法人 秋山記念生命科学振興財団 理事長 秋山孝二
7月の御殿場でのセミナーは、この間の「公益法人改革」の議論を臨場感に満ちて聴くことが出来た貴重なひと時であり、とりわけ「寄付金」を巡っての税制改革の方向性は、今回大きな一歩を踏み出した感があった。
9年前に当財団の初代理事長が逝去した直後、生前、役員に就任していた10数箇所の諸団体・大学等へお礼の意味合いもあり、私はささやかな寄付を行った。ある地元美術館からは「感謝状をお渡ししたいので、総会時に受け取りに来て頂きたい」とのご連絡だったが、私はどうしても都合が付かず欠席し、代理の者をやむなく出席させた。また郵送で幾つかの団体からも「感謝状」が相次いで送られて来た。そんな中、アメリカ・ハーバード大学の研究所からは所長名の手紙が届き、「生前の秋山喜代さんの当研究所に対するご尽力に感謝して、今回の寄付金を原資として『Kiyo Akiyama Award』を創設し、毎年大学院留学生を対象に日本への渡航費用の一部に当てるべく計画中であるが、賛否をお尋ねしたい」旨の内容であった。勿論、感謝状に価値が無いとは言わないが、正直に申し上げて受け取った複数の感謝状の扱いには大いに苦労した。一方「一民間人のこころざし」の価値に対する表現として記念の賞を創設し、名前を刻んで永く後世に残すアイディアに、寄付する者への配慮・奥深さ・裾野の広さを感じた次第である。
19年前に当財団は、医薬品卸売業(株)秋山愛生舘の創業100周年を前にして、当時の四代目社長が私財を投じて北海道地域・民間・助成財団として誕生した。当時巷では「売名的」、「税金逃れ」等、出捐者の「高く強い志」を理解するどころか、むしろ的外れ・誤解による批判的な評論が多く、設立に携わった私には不本意であり、公的補助金頼みの財団が殊の外多い北海道での「財団法人」のイメージを知らされた思いだった。
一連の公益法人改革で、寄付金を巡ってこれまでの積み重ねた議論の成果として大きく前進した法案に改訂されたとしても、日本の中で「民間の公共を思うこころざし」を正しく理解・評価する雰囲気が醸し出されない限り、本当の意味の「寄付文化」が根ざす事は難しいのではないか。
とは言え19年間私達は研究助成を続け、昨年からはNPO等への社会貢献活動助成も開始した。どの様な環境の中でも、21世紀の「生命科学」を心から慈しむ民間の志に最高の価値を見出して、「北のいのちとともに」愚直に自主・自立・持続可能な活動を続ける気持には何の迷いも無い。
先日のシンポでは、今回の三法についてかなり批判的意見も出はしましたが、何せ110年目の改革ですから、今後はこの間の理念をしっかり軸に据え、継続した議論を続けて改革の連鎖を創り出していく事が重要だと思います。私の企業経営者としての経験から言えば、「改革」はそう鮮やかに、瞬時に、劇的には参りません。勿論ある限られた時間幅との戦いではありますが、何回かの微修正と改革の連鎖により、迅速に新しい時代を創っていくのだと確信しています。そう言う意味では、これまで公益法人活動に関わってきた方々、これから担っていく方々の心意気が試されているに違いありません。あとは、それぞれの財団が、これまでの活動にプライドと自信を持って、新しい「民が担う公共」を押し拡げていくこと以外ないと思うのです。
以前から私は、学生とか若い世代の方々には、「『出る杭(くい)』ではなく『出過ぎた杭』に成れ!」とハッパをかけています。そして新しい時代は、辺境から蛮族によって創られる、そう信じています。
少し忙しい日が続き、自分と向き合う時間が減ると、途端にこのコラムの文面も上滑りになってしまいます。「上滑り」というのは、書きたい事は山ほどあるのに、まあこの辺でいいかと、早々に「公開」ボタンを押してしまうみたいな心理状態です。そうではいけないと思う自分とのしばしの葛藤? 時々後戻りしての「追伸・補足」を許して下さい。
演劇Part2です。先日は、中島公園横にある「シアターZoo」で、劇団TPSの「秋のソナチネ」のゲネプロを観ました。普段から沢山芝居を見ている方々と、終了後に一緒に、飲みながら、食べながら、しばし歓談しましたが、面白かったですね。それぞれの方が同じ芝居を見ても、かなり違った感想を持っていて、その理由が実にふところが深く、「そういう見方もあったのか」と、新たに見終わった芝居を楽しめるのですよ。特にゲネプロでは、公演に向けた願いも上乗せして、ピアノの上の日本酒がこぼれるのではと心配だったとか、割りばしの床に落ちた袋はすぐに片付けなきゃとか、ほんのちょっとの動作を見逃さない、少しのセリフの言い回しに納得がいかない等、自分の気がつかなかった箇所を指摘する皆さんの意見は、それを肴(さかな)に何時間でも飲めるからやめられないです。
芝居の最後は大事だと思いますね。言葉できっちり決めて貰いたい、終了した後思わず拍手をしてしまう、そんな芝居が理想的です。それと演出家の解説にも興味があります。観る前に解説は興ざめでしょうが、見終わった後の製作者のお話は面白いです。
昨年の光州市でのTPS公演でのこと。札幌では仕込み・ゲネプロ等は、まず見学する時間もないし、それ程興味もないのですが、海外公演では自分には時間もあるし、外国での舞台づくりにも好奇心から全く最初から「見学」していました。電動で移動させて観客席を作り、舞台の床から整えて、スピーカー・マイクの配置等、音響・照明が活躍していました。
「冬のバイエル」の最終場面、ピアノ上の祭壇のロウソクの炎に、演出の斉藤歩さんはこだわりを持ちました。ゲネプロ終了後、「あの炎は、やっぱり作ってきた豆球の光ではなくて、生のロウソクの火にしようや。作った火だと動きがないし、吹き消した時の余韻もない」と方針変更の弁。私は、ここにきて随分演出家というのも勝手な事を言うのだな、と思ってその場では聴いていました。案の定、その劇場では日本と一緒で、舞台上での火の取り扱いは規則上厳禁とか。ところがそれからがすごかったのですよ。その時の受け入れ責任者の光州演劇協会パク会長は、斉藤歩の意図を知り、直ぐに日曜日でお休みだった劇場責任者に電話をして説得し、許可を得たとの事でした。ちなみにその会場責任者の方は、2日間の本番の最中、ずっと舞台の裾で「監視」していましたが、パクさんの迅速な対応に恐れ入りました。劇場管理については、まあここでの本題ではなく、問題はそのロウソクの生の炎です。1日目公演の最終部分、ピアノの上に祭壇が用意されているのを見ると、確かに炎がかすかな空気の流れを感じてゆらゆら揺れて、それに連れて影の動きも出ていたのです。ただ、役者が吹き消した場面の後の白い煙は、注視していた私には殆ど見えなかったのですよ。やっぱり演出家がいくら拘ってみたところで、大きな舞台では何ぼのものか、と正直そう思ってその日の公演は終了しました。
翌日に再度ほぼ同じ席で観ていました。この日の終わりのその場面で驚いたのです。吹き消した炎の白い煙が、見事に上に立ち昇るではありませんか。明らかに昨日とは違うな、と不思議に思って、公演終了後に斉藤歩に聞きました。するとどうでしょう、彼は「昨日、生の炎を使ってみたけれど煙が見えなかったので、終了後に照明と相談して角度を変えてみたんです」と話してくれました。
「舞台を創る」、そんな心意気と執念をその時以来感じて、私は時間があれば、同じ芝居を何回も見るようになりました。その時の客席と創る芝居、日々進化していく芝居、簡単に「感動した」などと書いては申し訳ないくらい、「創作活動」というのは奥が深いのでしょうね。その辺が、映画よりも面白い所であり、観客へのインパクトが強いのだと思います。ある時はエネルギーを貰い、ある時はどっと疲れも出る、そんな意味合いでですね。
最近、札幌市の国際化について、長年携わって来ている方々と意見交換する機会がありました。札幌市は地方としては、大変国際交流活動の進んだまちでしたが、昨今何故かグローバルな時代にも関わらず、以前より海外との交流が停滞している感じがしているとの事です。
札幌で生まれ18歳まで育った私は、その後日本の幾つかのまちで暮らし、世界の沢山のまちを訪れました。とりわけ「姉妹都市交流」は私にとって貴重な体験で、其の中で1)80年代の米国オレゴン州ポートランド市、2)90年代前半のロシア・ノボシビルスク市への訪問は忘れられない想い出です。
オレゴン州ポートランド市: 昨今、「インターンシップ・プログラム(単位認定企業研修)」の役割と効用が新聞紙上でよく見かけます。教育実習の企業版とでも言えるのでしょうか、正式な単位認定となる企業実習です。今から20年前に、私達はポ市州立大学(PSU)の学部長他関係者の方々と、札幌の地場企業でのプログラムを提案・構築しました。まさに「手作り」のプログラムでした。
それに先立つ1985年11月、札幌市の要請を受けて若手経営者5名でポ市を訪問した際にそのきっかけは出来ました。ポ市の窓口はバド・クラーク市長(当時)直属の秘書室ジャン・ヴァン・ドメレンと市経済局でした。この訪問で他に「都市マッピングシステム」、「交通網データベース」の技術に接した私達は、将来の札幌を想像し目から鱗が落ちる思いでした。
翌1986年6月に地元法人会員14社が集まり、任意団体「IBEC:国際企業交流会・札幌」を設立しました。以来このプログラムでの受け入れ学生は15名、就職した学生は5名、留学生の交換プログラムでは127名、受け入れ企業は53社に及びました。ビザ取得・滞在施設の交渉・企業への依頼はじめ、人材育成の枠組み創りで貴重な体験の数々でした。
数年前に、市内で開催された「都心の交通連続フォーラム」でも、ポ市の「Metro:メトロ」を軸とした新しいマチづくりの報告を聞き、進化し続けてきたポ市の軌跡を改めて知りました。一方で、20年近くも前に私たちが札幌市長を訪問し、報告・提言した「Metro:メトロ」等の先進的まちづくりプランは、環境重視の今、市役所でどう政策に反映されたのか、忸怩たる思いもあります。ただの「交流」だけで、先進的試みから学ぶ姿勢が無ければ、イベントの連続で、蓄積するノウハウとはならないか、あるいは財産の持ち腐れでしょう。
ノボシビルスク市: 英語の「ニュー・シベリア」を意味する西シベリアの中心都市は、特に印象深い訪問でした。1990年8月に、「ノボシビルスク100年基金財団」と「札幌国際交流プラザ」とがノ市において盟約を交わし、ノ市は札幌の4番目の姉妹都市になりました。其の直後に12名からなる「第一回札幌国際交流プラザ経済・文化使節団」が初めて派遣される事になったのです。
1990年10月20日夕方、私は使節団の団長としてハバロフスクからイルクーツク経由で、緊張と期待のうちに、雪降るノボシビルスク空港に到着しました。空港では真紅のバラの花束が贈られ、地元ラジオ放送局の取材もありました。私自身、ロシアの大地に立った感動は今も忘れられません。使節団のメンバーは、日本語教育・音楽・演劇・美容・出版界等幅広く、夫々その後の交流に繋がる有意義な訪問だったようです。私はビジネススクールで4日間、延べ15時間の講義でした。英語からロシア語への通訳を介して、日本のビジネス環境・習慣・教育システム等を説明しました。参加者の方々の真剣な眼差しは忘れられません。
それから4年を経て、モスクワ・サンクトペテルブルク経由で再びノ市を訪問する機会が有り、急速に変貌するロシアの一端を実感しました。
「あの時のあの人は、今元気だろうか」と懐かしく思い出しながら、「このまちは最高さ!」と笑顔で語る姿も眼に浮かびます。限りない可能性を秘めた「札幌」のまちで、これからを担う若い世代が伸び伸び暮らせる環境を創る一助として、「いのちを育むまちづくり」の私の新しいチャレンジは、ささやかではありますが始まっているのです。
演劇はエネルギーを貰えるとは言うものの、ハズレの確率は映画よりも高いのではと思う時があります。映画は事前に評判等を知る術(すべ)があるのですが、演劇はあらすじは分かっても劇団のセンスとか役者の雰囲気は一発勝負の感じです。時々開始5分くらいして、「えーっ、これに2時間もつきあわされるの」と絶望的になる芝居もありますね。途中で退場する勇気もなく、前後左右のお客さんは結構楽しんでいる場合は、なお一人孤独と閉塞の空間の中で沈みこみます。でも、どんなに仕事で疲れていても、芸術で刺激される脳の部位は別のようで、かえってすっきりして会場を後にする状態が多いです。ですから、やめられませんね。
5年前に上場企業経営の修羅場から離れて、再度軸足をふるさとに置いてみると、日々の時の経過が新鮮で、周りの景色も人の表情も大きく変わって感じるから不思議です。ウイークデイに演劇・映画・ライブコンサートなど、想像も出来なかったライフスタイルの大転換を通じて、これまで忘れてきた「熟慮する時間」を、取り戻しつつある自分に気がつきます。
今年に入って足を運んだ映画の中に、印象に残る幾つかの作品があります。酪農学園大学で開催された有機農業全国会議での映画「赤貧洗うがごとき~田中正造と野に叫ぶ人々」、シアターキノでの映画「君の涙、ドナウに流れ」、「連合赤軍」、スガイでの映画「光州5・18」は、それぞれ思い出深い出来事であり、強いメッセージを感じました。そこに共通するキーワードは「勇気」と言えましょうか。
あさま山荘事件の時首都圏の大学生だった私は、友達の引越を手伝う為にJR駅周辺でレンタカーの軽四輪トラックを運転していました。映画の終盤で加藤少年が絶叫する「ただ、勇気がなかっただけじゃないか!」の言葉は、同時代を生きた自分に強烈に突き刺さり、繰り返し頭を駆け巡ります。
昨年、韓国光州市を訪問した時に、現地で全行程お世話になったパクさんは、1980年5・18光州抗争で立ち上がったあの高校生達と同世代で、友人も犠牲になった話をしてくれました。「光州は民主化の聖地」とふるさとを誇りに語るその姿に、スクリーンに登場する多様な2者関係とが重なり、一層のリアリティを映し出しました。民衆のリーダーに扮するアン・ソンギは、冷静な現状認識を表現し、韓国の「国民俳優」の風格を感じましたね。
いずれの映画にも共通する事、「事件」は「闘争」「抗争」であり、「動乱」は「革命」であり、人々のいのちを賭けた戦いの軌跡だったのでしょう。歴史はその意味を後に正しく理解する為にも、正確に記録されなければなりません。歴史的事実が歪曲されたり、無かった事になったりするのを、許すことは出来ません。逆に、歴史の因縁で不当に扱われた人物・作品については、きっちり再評価が必要だと思うのです。
戦う者の歌が聞こえるか、鼓動があのドラムと響き合えば
新たに熱いいのちが始まる、明日が来た時、そうさ明日が
列に入れよ我らの味方に、砦の向こうに世界がある
戦え、それが自由への道
(ミュージカル「レ・ミゼラブル」、「民衆の歌」の一部)
昨今の日本社会は、責任ある立場の人々がまるで傍観者のような立ち振る舞い。そして国民は無関心・無反応で思考停止です。少子化社会による人口減といった量的な問題以上に、「怒り」を忘れた国民は、質的劣化をきたしていて深刻だと思います。こんな構造の中で組織社会が腐敗します。今年、数多くあった様々な「告発」は、社会への問題提起であり、「偽装」を打ち破る出発点なのでしょう。告発する勇気ある人々と、それを支援する幅広い人々の集まりは、大きなうねりとなって世の中の改革の原動力だと信じています。
大雪との予報でしたが、10センチ以上積もると「あー、冬だ」という気がします。
昨日は早朝7時から、もう20年続く民間病院の理事長(院長)の皆様方との月一回の早朝勉強会でした。遅れてはいけないと朝6時過ぎには家を出ましたが、新雪で車も少なく、いつもとほとんど変わらない時間でかえって早めに到着しました。JR北海道が開発したDMV(http://www.jrhokkaido.co.jp/new/dmv/index.html)の貴重なお話に、予定の参加者も集まり、興味を持って皆さん聴きました。技術開発そのものの問題というより、今の日本の法体系の縦割り弊害が、一番の阻害要因だという印象でした。北海道の土地柄にあった鉄道・道路インフラの有効活用とまちづくりの視点から、是非実用化に漕ぎ着けて貰いたいです。全国からの問い合わせも多く、北海道での展開も一緒に考えたいものです。地域住民の応援も、実用化に向けた大きな力になる気がしました。
いったん家に戻り、それからまち中に行くのに、いつものように北海道神宮境内を地下鉄駅まで歩いていました。新雪の歩道は一本道になりますが、時々逆方向から人が歩いてくると、どちらからともなく脇に寄って歩き始めて、相手を通そうとします。長靴を履いている訳でもないので、脇に避けると靴が雪に埋まりながら歩いているのですが、それでも100%そうするのですよ。時々は「おはようございます」と挨拶もしますが、ほとんどの場合は無言で軽く会釈をしながらといった感じで。その時に、私は新渡戸稲造の「武士道」の一節が頭に浮かびました。
第6章「礼」--人とともに喜び、人とともに泣けるか:礼とは他人に対する思いやりを表現すること、で始まる一節。「礼義は優美な感受性として表れる」の項目で、日陰のない炎天下にいる所に、顔見知りの日傘を差した日本人が通りかかる場面の記述です。
時々、新渡戸稲造の「武士道」を、武士の心得と言ったふうに解説している方がいますが、本当に読んだことがあるのでしょうかね。英語で書かれたこの本は、日本文化を欧米に紹介するエッセーみたいな内容であり、これ程几帳面に日本人の風習を説明した文章をみた事がありません。日傘を取って同じ炎天下で語る姿、それにつづく文面では、「つまらないものですが・・・」と言って贈り物をする日本人の心等、実に繊細に、正確に説明している新渡戸稲造の眼差しを感じます。
寒い朝の雪道で、ふとそんな事を思い出しました。
私は、北海道演劇財団http://www.h-paf.ne.jp/の副理事長を務めています。昔、演劇に携わった訳でも何でもないのですが、東京で生活していたときから時々舞台を観に足を運んではいました。TPSはこの演劇財団のファンクラブで、毎月一回、「サロンの会」が催されて、役者とか演出家とか、その時々のゲストをお招きして交流を深めています。舞台で見る姿とはまた別の側面を垣間見て、芝居の楽しみは倍加します。
数年前から、この演劇財団活動は海外との交流が活発になっていて、私も時間の都合がつく限り、劇団と同行しては楽しんでいます。札幌で見る芝居と同じものでも、外国での公演では観客の反応がかなり違って、それ故に役者の演技も微妙に変化し、まるで別の雰囲気の芝居へと変身します。3年前にハンガリー・ブダペスト公演「亀、もしくは・・・」は、そんな変化を実感しましたね。毎回、劇場客席後方の端の席から、舞台と観客の両方を観察していました。札幌よりもよりはっきりした笑いに、役者も乗ってくる様子がよく分かりました。後日、出演したある役者に「最初は緊張していたようだけど、次第に乗ってきたのではないの?」と聞くと、彼は「いえ、いつもと何も変わりませんでしたよ」と、平静を装っていました。これが役者のプライドと言うのでしょうか。海外公演の後、再度札幌で同じ芝居を見ると、大きく成長した姿を確認出来て、本当に嬉しかったものです。進化する芝居を目の当たりにした時、たまらない魅力を感じます。有名な役者を観に行くというのも足を運ぶ大きな動機だとは思いますが、若い役者が経験を積むごとに成長して育つ姿を追うのも、また楽しみです。
昨年は、北海道文化財団と韓国光州市との交流プログラムの初回として、北海道演劇財団TPSが光州市で「冬のバイエル」の公演を行いました。その時の様子を演劇財団会報に寄稿しました。
10月12日から18日まで、韓国光州公演、ソウル演劇協会との交流協定調印の二つを目的に、TPSのカンパニーとともに参加しました。
光州市は1980年5・18光州民主化運動でも世界的に有名で、地元の方々も「民主化運動の聖地」として、誇りを持ってこの地を語っていたのが印象的でした。公演の合間のわずかに見つけた時間に、TPSのメンバーとともに、この時亡くなった10代の方々が数多く埋葬される共同墓地・記念館も訪問しました。
今年の「2007光州平和演劇祭」のテーマは「疎通」で、多様な方々とのコミュニケーションといった意味と理解いたしました。TPSの公演は、北海道文化財団様の推薦により今回実現し、9日間の演劇祭の一環として、二日間二公演で、合計400名のお客様が会場に足を運び、唯一の外国劇団でもあり、大変大きなインパクトを与えました。
初日公演の冒頭、光州演劇協会パク会長がお客様にご挨拶をしました。その時は言葉も判らずに過ごしましたが、終了後に木村さんからその趣旨を聞くと、「今日は子供さんも多くいらっしゃっています。万が一騒いだり、ぐずったりしたとしても、決して叩いたり叱ったりはしないで下さい。なぜなら、将来の韓国の演劇を創っていくのは彼らなのですから。」と語ったそうです。
もう一つの目的は、ソウル演劇協会との交流協定調印でした。毎年11月開催の「札幌劇場祭」と、5月開催の「ソウル演劇祭」をベースに、毎年交互に公演を行う事他、今後交流を深めて行く枠組みで合意しました。「札幌劇場祭」に参加の団体を代表して、北海道演劇財団の上澤理事長の代理として署名して参りました。早速11月末から12月上旬に、今年のソウル演劇祭で最優秀賞受賞の劇団「青羽」の公演が、シアターZooで予定されています。この間、現地で粉骨砕身ご努力頂いたKさんのご活躍に、心から感謝申し上げます。大きな事業のスタートには、必ずキーになる方々のご努力がある事を、あらためて認識し、感動致しました。
こうして、韓国の若い世代と札幌の演劇人の交流がスタートしています。先日16日、光州市からの「青い演劇村」による「音楽詩劇:阿娘別曲」を、琴似のコンカリーニョで見ました。満席の熱気の中で、韓国伝統音楽と旋律、身振り、オブジェ等を盛り込みつつも、ストーリーは懐かしさを感じる悲しい愛の物語。代表のオ・ソンワンさんは、昨年私たちが韓国を訪問した際に、空港まで出迎えてくれた方です。彼らの伝統の再解釈、現代化、大衆化への挑戦意欲を強く感じました。昨年11月のソウルからの劇団「青羽」の芝居でもそうだったのですが、独特の身振り・ステップ等で、どういう意味なのかを質問すると、その背景に韓国文化の奥深い伝統芸能がある事の説明を聴いて、一層作品を楽しむ事が出来ました。まさに演劇を窓口として、「交流」の真骨頂だと思います。今回は交流会には参加出来なかったのですが、昨年秋は公演直後の役者・演出家との交流会に出席して、舞台で見せる姿とは違った役者の美しさが魅力的でした。
先日の琴似では、終了後会場外で私が誘った若い経営者が言っていました。「何か元気を貰いました。映画とは違う同じ空間のすぐ近くで熱演する生身の姿から、エネルギーを感じました」と。
いつか近いうちに、発祥の地と言われる光州の「パンソリ」を生で聴きたいと思っています。
15日に世界平和アピール七人委員会http://worldpeace7.jp/:札幌大学講演会「洞爺湖サミット後の日本と世界」が開催されました。実行委員会の一人として関わり、武者小路公秀、土山秀夫、小沼通二、池田香代子、池内了の五人の講師の先生ともお話する事が出来て、大変内容の濃い数日でした。内容に関しては、いずれ後援していた北海道新聞紙上で紹介されると思いますので省略しますが、それぞれの講師の方々が、ご自身の確固たるフィールドに基づく、広い視野からのご意見・提言に、久しぶりの納得感を得た時間でした。
これに先立ち、14日午後には池田香代子さんが札幌西高を訪問して、40名程の高校生と交流会の企画があり、私も出席しました。池田香代子さんは、ご存知のように「世界がもし100人の村だったら」の著者です。都立西高出身の池田さんは、冒頭「私も西高出身です」と切り出して、一挙に生徒と接近して、その後もとても初めての出会いとは思えない自然なコミュニケーションに、彼女の眼差しの優しさを感じました。生徒からも「国際貢献で自分たちに何が出来るのか」といった率直な前向きな発言も多く、それに丁寧に答える姿にお人柄を再認識しました。
14日の夜は、武者小路公秀さんがミニフォーラム「国連・先住民族宣言の意義~反植民地主義の視点から」のテーマで講演されて、私も参加しました。国連大学副学長のご経験から、この宣言に至る長い道のり、「自己決定権」が認められた意義、文明の名の下の植民地化等、示唆に富むお話の数々に、時間軸の重みを強く感じました。翌日、グランドホテルにお迎えに行き、会場の札幌大学までタクシーでご案内の車中で、「G8サミット市民フォーラム北海道http://www.kitay-hokkaido.net/」の活動の数々を説明すると、所々で、「それは、素晴らしい活動でしたね」と、少し間合いを置いておっしゃられるお言葉に、独特の雰囲気があり、大変印象的でした。15日のお話の中で、国際課題解決の重要な担い手としてNGOの存在感が大変大きくなっている旨のご評価がありました。
15日には、また「第5回禁煙フォーラム」が北海道医師会、日本禁煙学会北海道支部他の主催で開催されて、その基調講演として、私が「G8サミット市民フォーラム北海道の取り組み」と題して、1時間のお話を致しました。禁煙とは直接関係は無かったのですが、今回のサミットに向けたNGOからの保健・医療分野での提言と、サミットの議長総括の内容とを比較して、MDGshttp://www.mofa.go.jp/Mofaj/gaiko/oda/doukou/mdgs.html の中で、保健・医療のテーマを日本が最も力を入れた分野であり、「洞爺湖国際保健行動指針」を策定した事等を説明しました。道医師会長他、幹部の先生もご出席されており、この分野での日本の貢献が、今後国際社会で一層期待されることを強調したつもりです。
17日には、グリーン九条の会発足記念~経済の視点から平和を考える「朗読劇と講演の集い」を開催しました。http://kitay-hokkaido.net/modules/piCal/index.php?action=View&event_id=0000000161 世話人の一人に私はなっていたのでいろいろな方にご参加を呼びかけました。米騒動から90年の今年、物語「浜に立つ女たち」(桂書房)を書かれた大成勝代さんと、朗読の女優岩倉高子さん、それに大成さんのご主人で南砺市立福光美術館長の奥野達夫さんに札幌までお越し頂きました。生きる為に立ちあがった浜の女性達とその後の運動の連鎖等、一貫して女性の強さにあらためて感動致しました。阻止した船の目的地が北海道だったことも少なからずの因縁であり、同時に日本における「米」の持つ意味が、ただの食糧だけではなく、生活・文化の基軸といった意味あいも感じました。
以上、この数日間、歴史から学ぶ数々の教訓の重みを感じながら、これらをじっくり咀嚼して、これからの活動の糧にして行きたいと思っています。素晴らしい活動をされている方々と、時間・空間を同じくして一緒に呼吸するひと時は、本当に何にも代えがたい貴重な体験ですね。