人の話を聴いたあと、あるフレーズがずっと気にかかっている場合があります。
「メディア・アンビシャスhttp://media-am.org/」という任意団体が今年2月に始動しましたが、その時のゲストとして、東海テレビプロデューサーの阿武野勝彦さんがご講演をされました。彼の話の中で、自分が制作したドキュメンタリー番組を見たある方が、いとも簡単に「面白かったよ」と言ったというのです。阿武野さんはとっさに「一生懸命創った作品としての番組を、ただ消費された気がした」とおっしゃいました。私はその時の「消費」という言葉が、妙に心に残っていて、自分の中にある「使い捨て」の意味に近い「消費」に対する嫌悪感と共通なものを感じました。
「食」分野でも、スーパーマーケットの総菜売場が拡大しています。思い返せばもう40年も前ですが、私が学生時代に千葉県市川市で自炊生活をしていた時、コンビニも無かったし、スーパーに総菜売場などはそれ程無かったように思います。私は昔から、自分で調理するのは嫌いではなく、いや、むしろ一人で外食する方が、注文してから運ばれるまでの沈黙も含めて楽しくもなく、かなり自分のアパートで食べ物は作っていました。お皿に盛ることを省いて、鍋から直接食べたり、料理中に味見をしながら結構おなかが膨れたりではありましたが・・・。当時は、ニンジン・ジャガイモ等も一袋がかなり大きくて、一度買ってくると何日も保存するか、同じ食事を続けるか、それもまた良き思い出でした。
10年程前に、名古屋市内に単身赴任した時、学生時代と同様に私は住んでいたマンションの台所で自炊をしていましたが、学生時代とは違って、スーパーでの野菜・果物の一袋が、随分小さくなっている事、プラスチックトレイとか袋が極端に多くなっている事から、時代の変化を感じ取りました。同時に閉店時刻が深夜或いは24時間営業というお店の多いのにも驚きましたね。夜遅く出張から帰ってきても買い物が出来る便利さは確かに捨て難かったし、自分の部屋の小さな冷蔵庫の存在感は以前よりも格段に下がっていたように思います。それまでの間、札幌でもスーパーには家族と一緒に日常的にも行っていたのですが、全くの運転手或いは荷物持ちとして「ついて行っているだけ」の存在だったので気がつかなかったのでしょう。
この傾向は、私のアメリカでの経験でも同じでしたね。19歳でアメリカに初めて行った時と、それ以来度々アメリカに出張してスーパーマーケットの売り場を見た時とでは、「サラダバー」の出現とか、或いは逆に「COSTCO」のような倉庫の中に入って行ったような超大型店とかが出来てきて、大きな消費者の行動変化を感じました。
何を言いたいのかといいますと、「調理」というプロセスは、「食物」を作り出すただの手段のみならず、調達・調合・待機・熟成等の知的総合活動だと思うのですよ。その面白さ・価値を外部に簡単に「委託」して、安易に「食物」を手に入れる、そんな安っぽさを私は「消費」という言葉に強く感じるのです。買ってきてすぐ食べてお仕舞いみたいな、貴重な自分固有の食文化もへったくれもないではありませんか。たとえば、ゆで時間5分の乾麺を3分半の固めで食べるとか(これは文化といえる程のものではありませんが)、今日のつけタレは濃いめで食べようかとか、生産者の苦労に思いを寄せるとか、ですよ。あてがいぶちでは満足しない自分固有のスタイルというのがあるのではありませんか。
昨今の社会をこんな視点から振り返ると、同じような構図が見えてきます。例えば「教育」では、人を育てるというのはどんな場でも、本来は毎日向き合った中での格闘ですよね。喜怒哀楽、理屈では解決できない感情のぶつかり合いの連続でしょう?それ故に人間関係の微妙さ、社会の複雑さをその過程で学んで育つのだと思います。そのプロセスを本当にいとも簡単に他に手渡してしまう、自分の見えない場に遠ざける、せっかくの機会を手放してしまって、もったいないと言うか何というか。
メディアの情報もそんな気がします。最近の日本国民は、情報を「消費している」に過ぎないのですよ。「原材料」としての情報ではなくて、「総菜」としての情報に終始している、そんな感じです。提供者が悪いのか、消費者が悪いのか、意見の分かれる所かも知れませんが、奥行き・味わいがないのです。材料を使って自分流に解釈する、考える、組み立てる、そんな「構想力」を、優れた仲間とネットワークとともに、磨き続けたいものです。
4 月 3rd, 2017 at 5:38 AM
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