明日に架ける橋、・・・

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 サイモン&ガーファンクル札幌公演が札幌ドームで開催されました。

ポール・サイモンとアート・ガーファンクルは現在ともに67歳で16年ぶりの日本公演、そして最後の来日公演になるだろうとの前評判でした。それ故かどうか、7月10日の東京ドームをはじめとして当初4会場すべてがドームで、計20万人を動員予定との主催者の発表、更に1回の追加公演が東京武道館で決まり、チケットも2万円と大幅にアップしても満席だったようです。

'73アルバム「青春の軌跡」

先日の札幌ドームも1万人以上の聴衆でしたでしょうか。席は後方でしたので実物は小さくしか見えませんでしたが、ドームの野球バージョン外野手センター位置の舞台から発せられる音とメッセージは、壮大な空間全体に拡がり、あっという間の2時間超でした。初めから終わりまで、そして30分程のアンコールの最後まで、自分のあの時代の心情と重なって素晴らしいステージでした。

特に終わりの「明日に架ける橋」は、これまでレコード・CDで聴いた中で本当に最高でした。家に戻って検索すると多くの方のブログでも今回のツアーライブの批評が掲載されていました。アート・ガーファアンクルの音域が狭まった、衰えていた等とも、やたらにマニアックな評もあり、どうしてそうこき下ろすのかと不快でもありました。確かに40年前とは変わっていはいましたが、その変わり様が私にはこれまでの最高だったと感じました。自分の時代とともに彼らも11歳から出会ってからの変遷を通じてあの日を迎えて、ともに同じ時間・空間を共有出来た、そんな感動でした。昔買ったS&Gのレコードアルバムを久しぶりに取り出して、これまた久しぶりのプレーヤーに電源を入れて懐かしく聴いていました。

http://www.youtube.com/watch?v=GYKJuDxYr3I&feature=related これは発売当初のライブからです。冒頭に「New song」と紹介しています。

先日のライブはこちらの方に近かったです。http://www.youtube.com/watch?v=Bv0gU197IKk&feature=related

Like a bridge over trouble water,I will lay me down !

 

ここまで書き留めた所で私の携帯に突然の訃報が飛び込んできました、私より7年も年下の後輩が急逝したと。

葬儀に参列してご友人の弔辞を聞き更に驚きました。彼も先日のS&Gのライブに行っていて、「明日に架ける橋」に感動していたというのです。つい数日前の同じライブで同じ歌に感動していた人間が今はもういない、何とも言えない喪失感にしばし呆然としています。

「明日に架ける橋」とS&Gが言っていたではないか、と叫びたい気持もある一方、数か月前に続けて彼に会いながら大した言葉も交わすことなく過ごしてしまった無念さもあります。心からご冥福をお祈り致します。

地球建築士、松本洋さん

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 東京都港区六本木に国際文化会館http://www.i-house.or.jp/jp/があります。松本重治さんはその設立に深く関わり、二代目の当財団理事長に就任されて、1989年にお亡くなりになりました。そのご子息・松本洋さんはついこの間まで理事でしたが、私の叔母が理事長をつとめるワグナー・ナンドール・アートギャラリーhttp://wagnernandor.com/indexj.htmの活動で、この所数回お会いしてアドバイスを貰っています。

先日著書「地球建築士―国際交流・協力の五十年」http://www.hakurosya.com/kentikusi.htmを送って頂き、早速読みました。これは札幌に本社があり、翻訳者・山本光伸社長の柏艪舎http://www.hakurosya.com/information.htmlからからの出版です。

松本洋さんが訪問した国・まち・出会った人は、75カ国に及び、とりわけ日本では少ないアフリカ・南アメリカの方々との出会いが多いのが特徴でしょうね。

お父様のお話として、留学されていたイェール大学の歴史学教授朝河貫一博士は、「日本の本物の国際人は、本物の日本人でなければならない。国際人という人種はいない。大切なのは、どこの国にも立派に通用する日本人を育てることである」という信念を持たれていた、と。

また1929年京都で開催された第3回太平洋問題調査会国際会議(IPR:The Institute of  Pacific Relations)では、新渡戸稲造ともこの会議に一緒に参加しました。今でいう純民間の国際的NGO(非政府組織)です。リーダーだった新渡戸稲造の開会の言葉として、「世界は地中海沿岸の内海的文明から太平洋沿岸の大洋的文明へと移行しようとしている」と語り、文明の大きな転換期にあるという認識と、そこにおいては民間のNGOの役割が重要な役割を握るという見解を述べたのです。

不幸にも日本は、その後最悪のシナリオで戦争に向かいましたが、戦後まもなく「愚かなあやまちを繰り返さない」構想を基盤に、松本重治はロックフェラー財団、ライシャワー教授ら日米の多くの方々の協力もあり、「I・HOUSE(The International House of Japan):国際文化会館」を建設し、活動母体としての(財)国際文化会館を立ち上げました。最初の理事には南原繁も就任しています。

その活動の一つで2006年度に終了しましたが、「社会科学国際フォローシップ事業」は、新渡戸精神を現代に継承する優れたプログラムでした。

札医大のリレー講座で寺島実郎さんが、松本重治さんの言葉を引用されていました。「日米関係は米中関係である、国際文化会館創設者・松本重治の看破」と。

歴史の一コマ一コマの中に、優れた国際性を持たれた方々が活躍された事実を再認識するだけでも、今を生きる我々に大きな勇気を与えてくれます。2006年4月に、外観はそのままに内部を再生して、国際文化会館は生まれ変わってオープンしました。六本木の景観は大きく変わってはいますが、この会館の果たすべき役割は益々重要な価値を持ってきているに違いありません。

松本洋さんと出会い、タオ財団・新渡戸稲造・南原繁他、秋山財団の基盤と相通じる「こころざし」に驚くとともに、この一冊の本から理念の脈々と生き続ける証を得た感じです。

光り輝く、札医大公開リレー講座

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 6回にわたり、札幌医科大学で「医療人育成センター開設記念:リレー講座http://www.sapmed.ac.jp./gakum/koukaikouza/index.html」が開催されました。あまりの内容の豊富さにその後何回も読み直し、6月22日に最終回が終了したのですが私の手元に永くメモを置き過ぎました。この講座は寺島実郎さんと札医大今井浩三学長の信頼関係と固い絆に基づいて開講に漕ぎ着けました。

寺島実郎さんが責任監修で「世界の構造転換の中で、日本のあり方を考える――国際的視野を兼ね備えた人間性豊かな医療人を目指して――」とのサブタイトルもついています。寺島さんはこの種の講演を是非「午前中の人々:将来を担う世代」に聴いてもらいたい、といつもおっしゃっています。今回は基本的にはこれから医療を目指す学生・院生・大学関係者対象で、特別の一般市民枠の中で私は参加致しました。毎回400席以上の会場が満席で、またそれぞれの内容が豊富で、まさにテーマの通り「世界の中ので日本を考える」スケールの大きな哲学でした。

リレー講座チラシ

リレー講座チラシ

 詳細はHPでご覧頂けますが、寺島さん・中村さんのお話から思いつくままを書き留めます

中村桂子さんhttp://www.brh.co.jp/youkoso/aisatsu/

*人間は生きものであり、自然の一部である

*“生きていること”、これがあらゆる議論のベースであり、その為にはどんなことが出来るのか、を考えるべきである。日本列島の自然の中で生まれた日本文化を意識して、新しい価値をさがす。

*今日の基本的課題は 1)地球環境問題、 2)人心の荒廃、この二つは全く同じ原因である

*機械論的世界観から生命論的世界観へ:20世紀は「機械と火の時代」、21世紀は「生命と水の時代」、或いは20世紀は分析・還元、21世紀は統合

*時間と関係を組み込んだ知――地球上の生きものはすべて38億年前に誕生した細胞から生まれた仲間、現存の生態系はいかにして生まれ、どのような性質を持っているか、を探究することが重要

*生きものは「循環」「組み合わせ」「可塑性:かそせい」、これを活かした継続的社会づくり

 

寺島実郎さん http://www2.jfn.co.jp/tera/archive_doga.html

*自分自身を相対化できる人:「自分とは何だろう」を問う人――これを「知識人」という

*世界史の中で「北海道とは何か」――>極東ロシアとの関係を深耕すべき

*ロシアから北海道を見ると、北海道の世界史的存在は何か、が見えてくる

*今や世界は「構造転換」――アメリカの視点を変える必要がある。政治構造、経済構造、文化構造等

*「日米関係」は「米中関係」である:国際文化会館http://www.i-house.or.jp/jp/index.html創設者・松本重治の看破

*プロジェクト・エンジニアリングの必要性、「全体最適」が問われている

*日本人の知恵と覚悟が問われている

このシリーズ自体が大変示唆に富んだものであったとともに、一連のお話をこれからの医療を担う方々が直接聴衆としてその場にいたこと、これが二重の喜びでした。世界の構造変革の中で、私たちもこれまでの着眼を変えなければなりません。そして「日本的伝統・価値・ライフスタイル」の見つめ直しと再評価が、あらゆる発想の原点になるのだと思います。「大局的に捉える」ことを学びました。

一級の芸術作品でした

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  先日ある晴れた日に、自宅のドウダンツツジの生け垣をそろえようと久しぶりに近くに寄って見た所、何とスズメバチの巣が出来ているではありませんか。まだソフトボール大の大きさでしたが、数匹のハチが出たり入ったり。巣の写真では上方部が陰になっていますが、これは葉によるもので、ほぼ完全な球形でした。一匹のハチが巣の右上方にとまっています。外側の模様がブラウンを基調とした素晴らしい曲線のデザインで、思わず見とれてしまいました。

庭のハチの巣
庭のハチの巣

妻は大学時代ミツバチの研究で卒業論文を書いたので、ハチに関してはいつも教えられています。綺麗などと感心してはいられなく、仲通りの人が歩くちょうど顔の高さなので、特に子供たちにとっては大変危険とのこと。専門の駆除業者に連絡して昨日取り除いて貰いました。

その担当者の方によると、これは「コガタスズメバチ」の巣だそうです。「コガタ」はハチが小型ではなく、巣が小型とか。ハチ自身は北海道では2番目の大きさだそうで、巣はコロニーが拡大するにつれて大型になるのですが、夏が短い北海道では大きな群れを創るには至らない、それだけを養える環境がないとでも言うのでしょうか。どこか人間社会と似ている気がします。この作業には昨年までは市の補助金もあったそうですが、実費はかなりのコストでした。またこの専門業者に行きつくまでに、何と4か所も電話のタライ回し、最後は担当者が「ハチ駆除業務についての同意書」を提出して、「同意確認書」にサイン・押印を求められました。担当の方は大変プロフェッショナルだったのですが、補助金行政の名残でしょうか、およそサービス業の仕事手順とは思われませんでしたが・・・。除去後の責任問題へのクレームがあったのかと想像致します。

巣と言えば最近カラスの巣が財団事務所前の木に出来て、ひと月程前に除去して貰いました。また私の前の家にもカラスの巣が出来て、やはり取り除いたようです。山に近いせいか、気候の変動か、鳥の巣づくり・ハチの巣づくりにも変化があるようで、都会は住みにくくなってきているのでしょうか、それともまだ札幌の場合は自然がそばにあると言うべきなのでしょうか。

巣を失くしたハチは暫くその場所に戻ってくるそうです。ホームレスとなってこれからどうするのか気がかりではありますが、人間社会との折り合いの中で、この矛盾を受け入れるしかないのでしょうね。

「かんてんパパ」はとなり組

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 しばらく前の日経ビジネス「ひと劇場」に、伊那食品工業

http://www.kantenpp.co.jp/corpinfo/speech/index.html会長の塚越寛さんの言葉がありました。5年程前でしたか、札幌市中央区宮の森にある秋山財団のとなりに札幌店を移転されて、そのご挨拶にわざわざ長野県の本社からお出で頂き、しばし会社の経営理念・方針を伺いました。

となりの札幌店

となりの札幌店

成長の秘密は「社員の幸せ」との見出しで書かれているこの記事を読みながら、当時塚越社長のお言葉を思い出しています。経営方針として、「売り上げや利益は目的ではなく、企業経営の手段に過ぎない。企業の成長とは、去年より今年、今年より来年と、社員が幸せや豊かさを感じられるようになること」と、明快に語られていました。1958年の創業以来、48年間にわたって堅調に増収・増益を続けてきましたが、2005年の突然の寒天ブームがかえってそれ以後の反動に出くわしたようです。以下、塚越語録から幾つかです。

*業績が悪くなると、すぐに賃金カットやリストラに走る会社もありますが、目的と手段を取り違えているのではないでしょうか。

*利益は「ウンチ」です、健康な人は自然に良いウンチが出るでしょう。それと同じで、健康な企業からは、良い利益が出るものだと思っています。利益は企業の健康さの結果です。

*健康な会社とは何か、それはバランスが取れていることです。

*最終的な経営目標は、大きくなることではなく、永続することです。その為には、社員を大切にする、仕入先を大切にする、研究・開発をする、社会貢献する、のです。

*永続することが目標だから革新にも積極的になれます。時代の変化に応じて革新できない企業に、明日はありません。

 

隣に移ってきてから毎朝、「かんてんパパ」の社員の方々が、面する仲通と向こう三軒両隣を丁寧にほうきで掃いています、移転してから毎日ですよ。当初は「自分の家の前は自分でやりますから・・・」と申し上げたのですが、「どうかお気になさらずに。全社で社員の環境教育のために行っていますので。この地域で私どももお世話になりますから」との所長のお言葉でした。

塚越会長はまた、写真のセミプロで、毎年会社のカレンダーではご自分で撮影された季節ごとの風景が見事です。

7月の写真:ノウゼンカズラと中央アルプス宝剣岳

7月の写真:ノウゼンカズラと中央アルプス宝剣岳

企業経営にとって50年というのは山あり谷ありの激動の連続だと思います。そんな時代の変化の中で、「変えるもの」、「変えないもの」、「座標軸となるもの」をその時の経営者が的確に判断して結果を出して業績という評価につなげる、この仕事に求められる課題の重さを、私は塚越寛さんの人生を垣間見てあらためて感じています。「かんてんパパ」の社員は、幸せですね。

弾む、帯広で!ネットワーク形成事業(2)

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  ネットワーク形成事業の一つ、「第5回 アースカフェ:http://t-afi.net/」が帯広で開催されました。

今回のテーマは「感じる十勝農業――畑作4品の意義再考:若手農業者からのイノベーション」です。

(株)K’s FARM(梶農場): http://ksfarm.jp/ 代表取締役 梶宗徳さんとその仲間たち多数が案内人となり、フィールド・トロリー・ツアー、“倉庫カフェ”での創作料理会食、畑作4品の意義再考で、本当にエネルギッシュな数時間でした。とにかく20代の若い担い手達の溌剌とした表情・身のこなしに、プロの誇りを感じました。

若き担い手たち

若き担い手たち

若き担い手達

若き担い手達

 北海道デザインマネジメントフォーラムの方々もご参加で、「経営×デザイン=地域産業の未来を創る」視点から、農業とデザインとのコラボレイトを提案されていました。

今回の企画は、「十勝おやじの背中を超える会:事務局が(株)ノースプロダクションhttp://www.north-production.co.jp/」と「CROPS」の二つのメンバーが協力して開催されました。若い世代の「群れ」に、21世紀を感じましたね。

麦畑の中で

麦畑の中で

強い緑の色彩で、カメラも圧倒されてしまいました(変な画像で申し訳ありません)。

課題は多いと彼らは問題点を把握しています。交流会でも意見交換がありましたが、麦の流通の問題他、生産現場を直視しすることにより、まだまだ改革できる部分が沢山あるような気がしています。生産者・消費者といった枠組み自体が、すでに時代遅れなのだと思いますね。北海道の基幹産業は第一次産業であることを再認識して、21世紀的産業構造の再構築を展望するヒントを得ました。これからも彼らとの接点を持ち続け、ともに進化し続けたいと強く思いました。

皆さん、お疲れ様でした、そして、感謝です!

弾む、釧路で!ネットワーク形成事業(1)

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 秋山財団では、昨年度から「ネットワーク形成事業:http://www.akiyama-foundation.org/network/」への助成を始めました。5つのテーマでスタートして、今年度はそれぞれ2年目を迎えています。今年度は更に一つテーマを増やし、「世界先住民族ネットワークAINU:http://www.win-ainu.com/index.html」の活動を応援します。これまでフォーラム・ワークショップ・現地調査等活動も大変多彩です。この事業の共通する目的は、今まで異なったフィールド・視点で活動されている方々がテーブルを囲み議論・交流し、ネットワークを形成して新しい価値の創造と担い手の育成です。

先日、このうちの二つのフォーラムとワークショップが釧路・帯広で相次いで開催され、私も参加しました。一つは釧路で「社会起業研究会」、もう一つは帯広で「十勝イノベーションフォーラム:http://t-afi.net/」です。

「社会起業フォーラム in 釧路」では、釧路公立大学小磯修二学長が基調講演をされて、

名古屋からNPO法人アスクネット代表理事:http://www.ask-net.org/毛受(めんじょう)芳高さん、

札幌から(有)ジェイイック代表取締役:http://jicc-ltd.com/top.html島田昌幸さん、

浦幌町から(株)ノースプロダクション代表取締役:http://www.north-production.co.jp/近江正隆さん、

がパネラーで参加されました。参加者は若い方々も多く、雰囲気はかなりパワフルで、私も気合いを入れてお話を聴いていましたが、終わった後はかなりの疲労感でした。それだけパネラーの方々の発する力が強かったのかと同時に、あらためて自分の体力の衰えを感じました。地元で起業を目指す相原真樹君(http://blog.livedoor.jp/rasin/ もこの企画の準備から当日のコメントまで、釧路の若者にとって「挑戦できる地域にしたい」と大奮闘していました。これからが楽しみです。

心に残る言葉の数々でした。

*地域に生態系を創る、「よそ者」の視点、大人と若者と、資本力のある人と組む、学生が関われる仕組みづくり、・・etc

*やりたいことを見つける、出会いの場の提供、キャリアを描く場、挑戦の場づくり

*活動の幅を拡げて継続していくにはどうすればよいのか

*ソーシャルビジネスに必要な人的資源: 地域の中に 1)リーダー、2)プレーヤー、3)プロデューサー(裏方)

*イベント・フォーラムの取り組みは多いが、必要なのは「政策=仕組み」

*地域社会の中で仕組みは何か:地についた営みにするには、プロデューサー活動が重要

社会起業フォーラム・イン・釧路

社会起業フォーラム・イン・釧路

その中で、近江正隆さんhttp://www.omimasataka.com/ は今、話題の人になっています。東京都目黒のご出身ですが、浦幌町で漁師を目指して北海道にやって来ました。翌週の帯広でもまたお会いし、その志と地元への熱い眼差しに感動致しました。

近江さんのパンフレットから

近江さんのパンフレットから

釧路から「狼煙:のろし」があがることを期待しています!

蘇るとき、「僕たちの好きだった革命」

Posted by 秋山孝二
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公演パンフより
公演パンフより

 この全国公演を北海道演劇財団http://www.h-paf.ne.jp/もお手伝いしています。主演の中村雅俊は私と同じ年齢、企画・原案の堤幸彦もほぼ同じ年齢、脚本・演出の鴻上尚史は年下です。会場には若い世代のお客さんも予想以上に多く、ロビーには「キーワードの解説」と称して、「シュプレヒコール」「バリケード封鎖」「「ナンセンス!」等の言葉の丁寧な説明が掲示されていました、隔世の感でしたね。

芝居の冒頭からあの時代の記録フィルムで一気にタイムスリップです。この舞台が大学ではなく高校である設定が、一層面白さを増しているのでしょう。「自主的文化祭」とか、「主体性」とか、今の高校生には何を言っているのか理解が難しいですね。一方、「ムカつく」とか「ラップ」は、今でも私には違和感があります、理解しているつもりではいますが。

この数年私はある高校の「評議員」をやっていまして、年数回校長室で、今の学校教育に関して校長・教頭に意見具申を行う機会があります。「具申」といっても、むしろ私たちが現在の現場教育の説明を受ける場面が多いのですが、特に「総合学習」のプログラムには大変斬新で目を見張るものがあります。この芝居を見ていて、もし今私が高校のある教室で現役高校生と語る場面があるとすると、中村が扮する「山崎」同様の存在かと思わず一人で苦笑いでした。

会場で配布された「ごあいさつ」の中で、鴻上尚史さんが書いているフレーズで全く同感な部分がありましたので、引用します。

ーーーーーーーーーーーーーーーーアナログで、つまりフィルムで撮った写真は、時間の経過とともに劣化します。色が落ちたりセピア色が強くなったり、輪郭がぼやけたりします。けれどデジタルで撮った写真は劣化しません。ビデオテープも同様で、昔買った名画のビデオテープは段々古くなります。10年経ってもう一度見る時、私たちは物語と共に“時間”も同時に体験するのです。けれどDVDになった作品は、もう時間が忍び込むことはありません。

人間の記憶は時間と共に劣化します。色鮮やかだった記憶は段々とぼんやりしてきます。どんなに忘れたくないと思っていも、どんなにこの瞬間を永遠に覚えておきたいと思っていても、人間の記憶は劣化します。私たちは哀しいけれど時間に振り回される存在なのです。

色褪せていく写真も、輪郭がぼやけていくビデオテープも、そういう意味でまさに人間の記憶と対応していました。色褪せた写真は、「過去」とは何かを具体的に人間に教えてくれました。「過去」とは記憶の色が落ち、輪郭がぼやけるということ。けれどデジタル写真は人間の時間を無視します。DVDに記録された風景はどんなに時間が経っても人間の記憶とは無関係に鮮やかであり続けるのです。

時間に振り回されることが哀しいと書きましたが、時間と共に記憶が色褪せていくからこそ、生きていこうと思えるのです。時間と共に劣化しない情報に囲まれながら生きていくことは、たぶん、無意識に息苦しい人生を送るということだと思います。そして、劣化しない映像を見ていると、現在の自分の身体が劣化していることを強烈に意識させられます。永遠を前にして、自分の存在が必ず劣化して死ぬ存在だと突きつけられるのです。十代か二十代、自分の人生が永遠に続くと“誤解”できる間は、デジタルの永遠を愛せるのだと思います。そして、いつの間にかデジタルの永遠は、自分の人生の有限を鮮明に教えてくれるようになるのです。ーーーーーーーーーー引用おわり

時の経過と記録映像と人間の記憶について、輪郭がぼやけていく、色が褪せる、そのことが生きていく糧になる、最近つくづく私はそう感じます。忘れるメカニズムを人間に備えたこと、それは「いのちの最高のシステム」だと思います。コンピューターの「Delete」とは違う、まさにぼやけていく微妙な感じですよ。

「ヘルメットに書きたい言葉は?」との質問に、出演した役者の方々がそれぞれ自分なりの言葉を書いていました。「Never Say Never」、「PEACE」、「生きろ!」・・・・etc。もし今、私に問われれば、私は「絆:きずな」と書きたいですね。

広島・長崎で願う、反戦・平和

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  広島に行く機会があり、早朝の平和公園を歩くと祈りを捧げる方々の姿も見受けられました。

また、先日のNHKニュースでは

『“死の灰”の放射能 世界初の確認 http://www.youtube.com/watch?v=P6RE7s5LMfg』、

「長崎大学医学部」のフレーズが目に入りました。この創始者は「愛生舘のこころ」シリーズでご紹介している松本順先生です。原爆投下の60数年後にもなお発する放射線の姿に、一層その恐ろしさを感じます。

広島原爆ドーム

広島原爆ドーム

平和公園の誓い

平和公園の誓い

前田一歩園財団への期待

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 釧路に久しぶりに行く用事があり、前日に阿寒湖畔まで足を延ばして、以前から訪問したかった「(財)前田一歩園財団 http://www.ippoen.or.jp/index.htm 」さまを訪問しました。前田三郎理事長は、秋山財団の創設期から評議員会議長としてご指導を頂き、これまでの一歩園財団の活動と今後の展開、特に顕彰事業と体験型事業についての抱負を伺うことが出来ました。阿寒湖畔の広大な土地を今日までしっかり守り育ててこられたご見識と、その理念の実現に向けたひた向きなご努力に心から敬服致します。初代の前田正名さまと東郷平八郎との写真他、貴重な歴史の一コマがホームページでご覧頂けます。 

財団事務所・門

財団事務所・門

庭園

庭園

これほど明確な理念を掲げられている財団法人を私は知りません。明治の人の「志の高さ」に感動するとともに、今もなお地道に活動されている一歩園財団の役員・職員の皆様のご努力から学ぶ事がらは実に多いです。今後のご活躍を祈念致します。

作田くん、頑張ってるね!

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 先日の道新朝刊札幌圏版の活字が目に飛び込んできました。

「W杯100キロマラソン日本代表 札幌チームの男女健闘、団体・作田さん金、太田さん銅」の見出しと、ジャパンの活字入りユニホームに金メダルを掲げる写真も一緒でした。「マラソン・作田」の文字に、私は瞬時に記憶が蘇りました。

彼は大学卒業後に、医薬品卸業の(株)秋山愛生舘に入社しました。面接時の様子を今でもはっきり覚えています。透明感のある前向きな雰囲気に、当時面接・採用担当の一員として是非採用したいと決めました。入社後に順調に育って営業職へと転身し、市内の支店で実績をあげていたある時に、「マラソンをもっと続けたいので、退社して大学時代からお世話になっている指導者のいるM百貨店に移りたい」旨の意思を採用担当課長経由で聞き、大きな衝撃を受けました。通勤の行き帰りもリュックサックを背負いランニングの毎日だっと聞いていました。まだ若い人間が前向きな動機で自分の人生を転進しようとする時、私自身の辿ってきた道からも、立場としては気持ちよく送り出してあげるのがベストなのだと自分に言いきかせて承諾致しました。

数年たった夏の暑い日、北海道マラソンでした。自宅から10分程度の場所が当時35キロ前後のコースになっていて、私の子どもを連れて何年か続けて応援に行っていました。そう言えば有森裕子さんがオリンピックで復活したきっかけをつくった時も同じ場で応援して、少年のような彼女のリズム感あふれる走りを見ていました。事前に作田くんが走るのを新聞か何かで分かっていたと思うのですね、地元ではかなり期待の選手との報道だったと思います。本当に暑い日差しの中で、自転車の先導部隊の後、彼が先頭の比較的早い集団の中で走る姿を見つけました。思わず大きな声で「作田、ガンバレ!」と辺りも気にせず私は連呼しました。彼の視線も気のせいかこちらに少し向いたようにも見えたのですが、汗をかいて光る黒褐色の肌としっかりした目線で前を向いて走るその姿に、涙が出てくるほど感動したのを今でも忘れられません。

翌日の新聞で結果を見ると20位との事でした。早速会社の本人宛に祝電を打ちました、35キロ付近で走る姿を見て感動したことも含めてです。初心を貫徹して走り続ける彼の生き方にも拍手を送ったつもりでした。数日後に、移ったM社の当時のI社長にある会合で会う機会があり、「先日の北海道マラソンで作田くんが頑張りましたね」とお祝いの気持で話しかけた所、その社長は「20位じゃ宣伝にも何にもなりやしないよ」との返事。私は怒りを堪えきれずにその場を離れました、「お前なんかに作田の努力が分かるはずないじゃないか!」。

彼の妹さんも確か(株)秋山愛生舘に勤めていらっしゃって、その同僚から後日何かの時に、彼が私からの祝電を自分の部屋の壁に貼っているとの情報を得ました。私の気持が伝わったと再度感激した次第です。

今回の100キロマラソンでは28カ国から180人以上の参加があったとか。記事によると「世界にはまだまだ年上の代表選手がいました。今回の経験を次に生かしたい」と抱負をの述べています。本当にコツコツと地道な努力の積み重ねで、よく20年以上も過酷なマラソンを走り続けているものだと、頭の下がる思いです。

作田くん、これからもあなたらしい人生を歩み続けて下さいね、この度は本当におめでとうございます!

「世襲」論議に思う

Posted by 秋山孝二
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 相変わらず政治を中心に「世襲」論議が騒がしいですね。どうも良く理解できないメディア記事の原因は、メディアの扱いに強い先入観念があるのと同時に、当事者である親・子どもが明解にモノを語っていないことによるものだと思います。政治の舞台は国のリーダーを視野に入れた議論でなければならないにもかかわらず、一般論としての「世襲」を扱おうとする姿勢にも疑問があります。私も企業経営に関しては「世襲」の一人なので一連の論議には興味はありますが、強い違和感を持つものです。

6月14日(日)の北海道新聞生活欄「香山リカのひとつ言わせて」で、「世襲議員、パパに反発したら?」と題してコラムが掲載されていました。「親の仕事を受け継ぐ子ども側は、抵抗を感じないのだろうか」と、エディプス・コンプレックスの気概を訴えています。

政治の世界はさておき、私も受け継ぐ側がもっと積極的に自分の意思を発信すべきだと思うのです。親側にはいろいろな思いがあるのでしょうね。出来の悪い子供と分かっていれば、何とか苦労しないように自分の築いた財産を与えたいとか。或いは自分は仕事一筋で家族を顧みなかった人生のせめてもの罪滅ぼしみたいな気持で、得た地位・名誉等の財産を譲ろうとするとかですね。いずれにせよ、子供を持つ親は、子どもがいくつになってもどんなに離れて暮らしていても、心配の種は尽きないという構図は容易に理解出来ます。それとは正反対に、親子が様々な理由により反発し合っている方が、この種の問題においてはかえって分かりやすいのかもしれません。

問題は親の気持ちに対して、これからを間違いなく担う子ども側がどう受け止めてどう自分の人生を方向づけるのかを、しっかり語る事なのだと思います。私の場合、大学進学時は自らの意思で教師を志し、しかしながら希望の大学の入試は直前で中止となり、思ってもみなかった大学に入学。そして地元に就職するのが常識的だったにもかかわらず、隣の東京都で公立中学校の新卒教師としてスタートしました。しばらくして実家の札幌から、「札幌に来て会社経営に携わって貰えないか」との話があり、約1年間自分なりに模索して、結局小学校教員だった妻と子供一人(当時)ともども札幌に行く事になりました。妻にとっては必ずしも納得のいく転進ではなかったはずです。

幼いころから実家の仕事を継ぐ事は全く告げられていなかったので、私はその話があった時には戸惑いましたが、経営者の家庭として24時間365日会社の仕事に没頭する祖母・伯父・伯母・父の姿は焼き付いてました。会社に入ってからは、当時の経営トップ(身内)の理解もあり、私の希望に沿って現場を幅広く見て各部署の各年齢層の社員・取引先他と接しながら、2年間ほど時間を掛けての日々を送りました。

入社時は勿論「将来の社長」を約束されていた訳ではありませんが、800人規模の同族会社で働く人々の私を見る眼は、普通の社員とは違っていましたね。私自身はその視線を自分への期待と独りよがりに解釈してはいました。どこの部署に行っても暖かく迎えられたと今でも思っていますし、その時に新米の私に話してくれた沢山の会社に対する注文は、その後経営トップになった時にも大いに役に立ちました。準備の期間或いは見極めの時間が必要ですね、双方にです。そこで将来の「覚悟」が難しければ、世襲で引き受けるのを辞退する選択肢も用意すべきです。お互いの不幸を避ける意味でも。

もう一つ日本的ともいえるのでしょうか、「よそ者排除」の社会の雰囲気もこの世襲論議に影響していると思います。「経験がない」、「どこの馬の骨か分からない」みたいな排除の論理が強い世界ほど、世襲が多いですね。今のように変革が待ったなしで必要な時代には、まさにこの「よそ者」が担い手となって新しい価値観と問題意識で改革の実行を期待されているのだと確信しています。

政治やビジネスの世界には時代時代の課題があり、それに立ち向かう担い手もその解決の最適者でなければ上手くいきません。遺伝子を共有していることは間違いないですが、舞台としての時代が同じではないのですね。どんな世界でも、従ってあくまでも候補者の一人としての存在と位置づけるべきであって、それしかないとの思い込みは当該組織の弱体化を意味すると思います。土壇場で「問題解決」という最優先課題を見失う、覚悟もないまま自分自身を見失う、根拠もなく過信するこども側も不幸です。その辺りが歌舞伎等の芸術分野での世襲との大きな違いではないでしょうか。

ところで今年の秋山財団の贈呈式に先立つ特別講演会では、香山リカさんをお招き致します。9月10日(木)午後2時から札幌プリンスホテルパミール館の予定です。また近づきましたらご案内もします。

戻っても、なお続きます

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 21日にワルシャワから飛行機を乗り換えて札幌に到着しました。旅行中のこのコラムに対して、多くの方から直接メールも頂きまして心から感謝致します。こちらに戻るやいなや、折からの総会シーズンで会議・会議の連続により時差をぼやく暇もありません。メールへのお答えという意味で、また幾つかエピローグの意味合いからも追加メッセージを。

* 今回の旅行は、誰の企画でどいうったメンバーだったのか、というご質問が届きました。札幌の旅行会社「旅システム: http://www.tabisystem.com/」から企画旅行のお誘いがあり、直ぐに参加を決めました。メンバー総勢13名(女性7名、男性6名)、年齢・職業・主義・主張も大変多様な、皆さん旅慣れた方々ばかりでした。永年の実績から現地ガイドの方々も選りすぐりで、深い背景の説明も多く、大学の講義を何コマも受けてきた印象でしたね。

* 現地ガイドの中谷さんの説明は、もっともっと沢山の凝縮した内容でしたが、今振り返ると私のメモはあまりに総括的でした。質疑応答の中で、アウシュヴィッツのアジアからの訪問者数のお話がありました。中国からが最も多く、次が韓国、日本は3番目で年間7000人程度とか(当初400人と書きましたが私の聞き間違いでした)。出発前に私とお会いした何人かの方からは、「知人で行った人がいる」と聞いていましたので、かなり多いのかと思っていました。そして、日本の通常の観光旅行プログラムでは、2か所合わせて移動時間も含めてせいぜい2時間程度とか。今回の私達の訪問は、意見交換を含めて約7時間でした。

* ある方からは、関係する幾つかのサイトをご紹介して頂きました。その中からリディツェ村の子供たちの像の詳細の映像と音楽です。http://www.youtube.com/watch?v=hvnEXPJG2To&feature=related こんな編集も出来るのかと感動いたしました。さらにこれに付随してリストにある多くのサイトも見る事が出来て、あらためてインターネットの機能の凄さを感じますね。ご連絡を頂いたMさんに感謝致します。

* クラクフからその後ワルシャワに向かいました。そこの「ワルシャワ蜂起博物館」、「コルチャックの墓」、「キューリー博物館」、「ゲットー跡地」も興味深かったですね。特にワルシャワ蜂起のソ連に対する評価は、ポーランドにおいても劇的に変わっているのを知りました。

* 途中経由した韓国インチョン空港は、以前にも何回か降り立ってはいますが「アジアのハブ空港」を目指すスケールを感じます。また大韓航空機内で出たエコノミー機内食「ビビンバ」は素晴らしかったです。何かの大賞を獲得したとか。

仁川空港ロビーコンコース
仁川空港ロビーコンコース

* 家に戻ってかなりの時間を費やして留守の間の新聞を読みました。何だか国内のチマチマした目先の記事ばかりで辟易しましたね。天気予報で例えていえば、「今日・明日が、雨か晴れか曇りか、」の予測、或いは「雨は午前9時からか、午前9時半からか、を延々と議論している風」ばかりで、何とも超ドメスティックで些細なその事が鬱陶しく感じました。

* メール環境は、この数年で随分良くはなりました。ただ、プラハの旧市街にあったホテルでは、ロビーに2台パソコンがあるだけで、いつも誰かが占有していました。朝時差もあって午前4時頃起きてロビーに駆けつけ、やっとラインを使う事が出来ましたが、暫くして後ろを振り向くと数人が待っている様子、ゆっくりも出来ずに切り上げました。クラクフは無線で無料で実に簡単、ワルシャワは一日はタダでしたが、二日目からは有料でした。韓国のインチョン空港では、普通の搭乗待合ロビーでも無料無線ラインが使用出来て便利でした。

 

上場会社はこれからが株主総会シーズンでしょうね。以前の上場会社代表取締役時代では、株主総会の準備でこの時期の海外旅行などは考えられもしませんでした。あらためて貴重な時間の獲得に感謝したい気持です。

アウシュヴィッツ、・・・・ (5)

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入口で

入口で

アウシュヴィッツに関して、まだまだ沢山の生々しいお話を今回聴きましたが、取り急ぎまとめたつもりです。

ナチスの隔離・大量殺りく計画では、当初は逮捕後の収容が困難という理由で収容所建設が始まりました。施設的には収容所・ガス室・焼却所等を作りましたが、次第にその順番ではなく移送後すぐにガス室といった場合がほとんどだったようです。

また死因も「病死」という場合は、実際は薬殺だったようです。病院の機能は治療の場ではなく、フェノールで殺されたりガス室の一歩手前の場所だったとの貴重な証言もあります。

収容所には130万人を越えるユダヤ人、ロシア軍の捕虜が5万人、12カ国からのロマ・シンティ(Roma・Sinti:最初はジブシーと書きましたが差別用語と知り、ドイツ語圏のジプシーの意味で変えました)もかなりの数でした。隔離から大量虐殺へと一気に進んでいったナチスドイツの政策から、私たちは多くの教訓を学ばなければならないと思います。

今回苦難の体験を経た方々のお話を真近で聴く機会を得て、私はあらたな課題を背負った気がしています。皆さん「運が良かっただけですよ」とおっしゃっていましたが、生き残った者の果たさなければならない課題も明確に自覚されているのでしょう。

生きて伝える価値と、映像をはじめとした記録の意義も再認識致しました。取り敢えずこの関連は終了致します。

アウシュヴィッツ、・・・・ (4)

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 アウシュヴィッツに拘束された元ポーランド・パルチザン(秘密抵抗組織)、後に初代博物館館長のスモーレンさんの2時間近くのお話からいくつかを書き留めます。彼はユダヤ人ではありませんでしたが、ポーランド政治犯として突然拘束されました。

*秘密抵抗組織は結成したがメンバーに実践歴がなく、ヒットラーのテロで多くの犠牲者を出した

*1940年4月15日、自宅に突然ゲシュタポが来訪し、連行された。2・3時間のつもりが、戻って来れたのは5年後だった

*1940年6月14日にポーランド政治犯728人がアウシュヴィッツ強制収容所に入れられたのが最初

*1941年ナチス司令官ヒムラーが来訪。増設命令により、10万人規模の第二(ビルケナウ)、4000人規模の第三(化学工場)収容所の建設に従事

*最も大切なことは、目と耳を使って「働いた振りをすること」だった

*1942年後半以降は、囚人番号は実際の入所者の半分程度、残りは「収容所」ではなく直接「ガス室」送りだった

*ポーランド人の村人は、5・6キロ離れた所に疎開させられた。収監されている人と一般ポーランド人が、抵抗行動で連帯していた。「収容所の様子を外へ伝える事」が最も価値のある活動だった。脱走して伝えるのが一番効果的ではあったが、見つかると銃殺刑だった。ナチス軍人は射殺すると3日間の休暇が与えられていた。「生きてこの現実を世界に伝える」ことこそ、最大のレジスタンス

*ビルケナウは湿地で、脱走しても臭いをけしてくれるので、ナチスの犬を使った追跡をかわす事だ可能だった

*ロシア軍が東から迫り、不安になったナチス親衛隊は、戦争責任を隠そうと「モーラ計画」を策定し、ビルケナウに収監した人々の皆殺しと施設の破壊を企てた

*1945年1月18日に死の行進が始まり、アルプスの近くまで移送された。5月6日にアメリカ軍により解放されて、5年ぶりに故郷に戻り、法学部学生となった。戦後はニュールンベルグ裁判で証人として出廷したが、ナチスの被告たちはウソをつくか押し黙っていて、謝罪の言葉は全くなかった。

*ビルケナウに到着間もない200枚の写真には、死体は写ってなく静かではあるが、現実は家族を探す絶叫が2・3時間は続いたはずである

*100万人以上の人が殺された事実を想像することは難しい

列車の引き込み線

列車の引き込み線

ビルケナウ収容所外から

ビルケナウ収容所外から

アウシュヴィッツ、・・・・ (3)

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 中谷さんの1時間半を越える説明から、幾つか印象に残ったフレーズを書き留めておきます。

*「よそ者」の自分には、このアウシュヴィッツの意義が一層理解できるhttp://www.hanmoto.com/bd/isbn978-4-7736-2907-1.html

*人道的に許せない、という視点ばかりではなく、20世紀のある時期に「国策として」実行された歴史的事実と認識して頂きたい

*一時の、或いは積年の「感情」だけではなく、ホロコーストには「仕組み・システム」が存在していた。自分たちと無縁の事ではない

*経済的インセンティブがシステムとして組み込まれていた事実、これは再び起こる可能性を暗示してもいる

*元所長ルドルフ・ヘスは家族とともにガス室近くの官舎に住んでいた。冷酷な人間という訳でもなかったらしく、官舎横には家庭菜園もつくっており、ナチス司令官ヒムラーと一緒に農業談義もよくしていたとの話もある。二人とも植物を愛でるタイプの人間でもあったのだ。一連の虐殺を個人的属性に帰するのは誤解のもとになるだけ。当事者は「職務」として実行しており、家に帰れば「良きパパ」だったに違いない 

*日本の平均的教育レベルの高さに期待している。ただ極限状態に追い込まれた時に、どの程度理性的に行動し得るのか、人間の本生の赴くままになってしまうのか、それが今もこれからも問われるのだろう

ガス室入口

ガス室入口

ヘス所長の官舎(右奥の建物)

ヘス所長の官舎(左奥の建物)

アウシュヴィッツ、・・・・ (2)

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 スモーレンさんのお話の後、アウシュヴィッツのもう一つの収容所ビルケナウにも行き、約2時間、一番奥まで熱心に歩いて見学をしました。ここはホロコースト終盤の「大量殺りく」を目的とした場をうかがい知るに十分な広大な敷地でした。「シャワー室」、「ガス室」、「焼却所」が一体化した建物にその意図を感じますし、人々が収容されていた施設もかなり劣悪です。また同時に、この活動の責任追及を恐れたナチスが、証拠隠滅を図るべく爆破した残骸が復元されるでもなくそのまま目の前に存在していることが、より一層ナチスの追い込まれた歴史的立場を象徴しています。

ビルケナウの鉄道と門
ビルケナウの鉄道と門

恥ずかしながらこれまでの私のイメージの中には、二つの場所が一つになっていることをビルケナウに来て初めて分かりました。

爆破されてもなお残る焼却炉他
爆破されてもなお残る焼却炉他

アウシュヴィッツ展示の説得力は、「そのまま」であることなのかもしれません。「復元」は本当に少なく、施設等の建物は当時のままであり、偶然に残った、或いはポーランド・レジスタンスがクラクフ経由でロンドンの臨時亡命政府に秘密裏に伝えた写真・メモ等の展示となっています。目の前の施設は全く無言の施設・展示物、人々の存在は白黒のやや色あせた写真の中だけです。それ故に、見学者個々の思考と想像力に依拠した問題提起となるのでしょう。「伝える」活動の重要性、「無かった」事にしようとする危険性、ふと世界共通の課題だと納得しました。

そして更に、量的な意味では、目の前には常識的には「大量の」施設、靴・髪の毛等の遺留品展示なのですが、それが極々一部であるという気の遠くなる犠牲者の数の多さを想像すると、一層今を生きる私たちにも恐怖が伝わってきます。
地元・近隣と思われる沢山の高校生の見学者の表情も真剣でした。

アウシュヴィッツ、・・・・ (1)

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 クラクフからバスで1時間半、アウシュヴィッツ強制収容所(国立オシヴィエンチム博物館)に到着しました。構内に一歩入って驚きました、何とも整然とした大学キャンパスを思い出させる光景だったからです。わずか60数年前に、本当にこの場所でホロコーストが起きたのか、とにわかには信じがたい静寂でした。

収容所構内

収容所構内

ここで唯一の外国人ガイド中谷剛さんの説明により約1時間半のツアーでした。内容は下記のアドレスにありますので、省略致します。http://www1.linkclub.or.jp/~ttakeshi/porhtml/pora01.html

「あとがき」からの引用です**************************

映画「夜と霧」の最後の字幕を紹介しておこう。

   遠ざかる映像の前で
   希望が回復したふりをする
   ある国のある時期の話と言い聞かせ
   絶え間ない悲鳴に 耳を貸さぬ我々がいる

 実際にアウシュビッツを訪れてみると、たぶんここで何も考えない人はいないと思う。しかし、ここで起こった出来事を、ある国のある時期の話なんだと、僕を含めてみんな少しは思ってしまっているだろう。
 ヒトラーがユダヤ人を迫害しようと考えたのは、歴史の中で急に現れた狂気的な発想というわけではない。ヒトラーがそれまでの人生の中で学んできたことの集大成で、そのような発想に至ったのだ。これは、それまでのヨーロッパの人々のユダヤ人に対する考え方というものとは絶対切り離すことはできないと思う。
 個人が持つちょっとした差別的な思いが、一気に突き進んでしまうと、こんな悲惨な歴史を作り出してしまうことになるのだ。そのことを意識して、個人それぞれが自分の中のそのような思いについて、もう一度振り返っておくということが、非常に大切なことだと感じた。

最後に、アウシュビッツに行く前に見るべき映画を書いておきます。「シンドラーのリスト」、「夜と霧」、「ライフ イズ ビューティフル」。特に「夜と霧」はアウシュビッツで撮影された映画です。映画というよりもドキュメンタリーみたいなものですが、DVDも発売されていますので、ぜひ行く前に見てください。

******************************引用おわり

彼の著書は読み応えがあります。http://www.hanmoto.com/bd/isbn978-4-7736-2907-1.html

 

午後は、ここで約5年間拘束されていた元ポーランド・レジスタンス(秘密抵抗組織)のスモーレン(88歳)さんが、約1時間半の講演でしたhttp://sanmarie.org/auschwitz。彼はこの博物館の初代館長も務めました。

ポーランド・レジスタンス:スモーレンさん

ポーランド・レジスタンス:スモーレンさん

ゲットー&オスカー・シンドラー

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  チェコのプラハから夜行列車で9時間半、ポーランドのクラクフに到着しました。マチの歴史はさて置き、市内にはユダヤ人ゲットー跡地の建物も保存されていて、広場には当時の住民を象徴する椅子のモニュメントもありました。 

クラクフ・ゲットー跡地のモニュメント

クラクフ・ゲットー跡地のモニュメント

映画「シンドラーのリスト:http://info.movies.yahoo.co.jp/detail/tymv/id11457」は、その真実性に批判もかなりあるようです。印象的なテーマ曲でした。映画に出てくるオスカー・シンドラーの工場も、このゲットーに程近い所です。現在は比較的小規模の展示ですが、映画公開の後に博物館建設に向けた活動のポスターも見ました。

シンドラー構内

シンドラー構内

シンドラー事務所窓から
シンドラー事務所窓から

映画の場面にも登場した入口から続く昇り階段を上がった右手に、シンドラーの事務室がありました。そこの窓から工場を望むことができます。

ナチスとの関わりが深かった故に、限られた自分の立場で命の救出が出来たのでしょう。
二度と戦争を起こさないためにも、世界規模の戦争の歴史を検証する場合、後で構図を確認すると同時に個別局面での多様な事実も見逃してはならないと思います、その動機はともかくとして。
「戦争を起こすのも人間なら、戦争に反対してそれを止める事が出来るのも人間である」、そこまでいう自信はなくても、立場にいるものにとっては「いのちを守る事ができるのも人間」とはいえるのではないでしょうか。
何が良くて何が悪いのか、そういった議論が意味を持つのかも含めて、なかなか一筋縄ではいきません。現場は沢山の問題提起を自分にしてくれます。

リディツェ村、さらにつづく

Posted by 秋山孝二
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 67年経た今、リディツェ村の悲劇を振り返る現場の光景です。日本であればゴルフ場と見間違いそうな美しい芝生と大きな木々ですが、この大地の下からは「いのち」の叫びが聞こえてきます。詳細はHPでも知ることができます。(日本語版はありません)http://www.lidice-memorial.cz/ 、http://www.obec-lidice.cz/

町の中心の教会から町のあった場所を望む

町の中心の教会から町のあった場所を望む

 村の中心にあった教会の場所から、昔の村を望みますとこんな感じです。一面芝生で保存されていて、所々に忘れ得ぬ悲劇の現場とモニュメントがメッセージを私たちに発信しています。

村の男性全員が虐殺され埋められた場所で

村の男性全員が虐殺され埋められた場所で

遠くに見える復興した「リディツェ村」
遠くに見える復興した「リディツェ村」

もう一つ、戦後間もなく復興されて新しく隣地に建設された「リディツェ村」を、昔の教会敷地を通しての眺望です。「復興する」活動により、過去の歴史を踏まえて生きようとする人たちの世界へのメッセージと受け止めました。

そして私たちは、次の訪問地ポーランド・クラクフへ移動しました。