ペリー&マッカーサー

Posted by 秋山孝二
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 寺島文庫(http://www.terashima-bunko.jp/about.html)の今年最後の会が、「みねるばの森:http://terashima-bunko.com/」で開催されました。

 寺島実郎さんから、「2人のアメリカ人」の残した記念すべき品物の紹介があり、寺島文庫の一角に、「ミニ博物館コーナー」としてそれらが展示されていました。

 一つは、1853年に浦賀にやってきたマシュー・ペリーが、後年執筆した「日本遠征記:http://www.nansei-m.co.jp/web/32perry/sample/kaisetsu.html」特別版の実サイン入り原本です。当日、寺島さんは、学長をつとめる多摩大学(http://www.tama.ac.jp/guide/index.html)の本拠地の「多摩学:http://www.tama.ac.jp/guide/tamagaku.html」の由来から説明されました。 ペリーが当時のフィルモア大統領の親書を携えてというのは事実ではなく、「国書」とは実質的には「紹介状」とか「添え書き」程度のものだったようです。

ペリーの自筆サイン(左中央部)入り旅行記

ペリーの自筆サイン(左中央部)入り遠征記

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 一方、マッカーサー元帥の記念は、オレンジ色のパーカー万年筆限定レプリカ(サイン入り)です。1945年9月2日、ミズーリ号艦上で降伏文書に調印した時に使った万年筆で、この時、ペリーが浦賀来航時に旗艦「サスケハナ号」に掲げていた星条旗も持参してきたそうです。なぜ万年筆がオレンジ色か、それは彼の母親のものでした。バージニア州ノーフォークにある「マッカーサー記念館:http://www.macarthurmemorial.org/」、彼の生誕地はアーカンソー州リトルロックですが、米国海軍の本拠地であると同時に、母親の生まれ故郷ということが大きな理由のようです。

 寺島さんは、三井物産のワシントン駐在時代に、ニューヨークのアストリアホテル(http://www.waldorfnewyork.com/index.cfm)の一室に居を構えていたマッカーサー夫人にお会いしていたそうです、歴史のつながりというか接点というか、面白いですね。

ミズーリ号で署名するマッカーサー

ミズーリ号で署名するマッカーサー

使用したサイン入りパーカー万年筆のレプリカ

使用したサイン入りパーカー万年筆のレプリカ

 

 この二人のアメリカ人、そしてアメリカという国の共通項は、1)「抑圧的寛容」、すなわち、圧倒的有利な状況では「優しく」「思いやりに満ちあふれ」、不利な状況では「猜疑心、嫉妬心」が異常に強くなること、2)「分断統治」を志向すること、のようです。2011年、沖縄基地問題でも、3・11東日本大震災の支援でも、それを裏付けるような姿勢が思い浮かびます。

 寺島実郎さんは、秋山財団の今年25周年記念講演会(http://www.akiyama-foundation.org/zoutei/)でお話をして頂きました。年明け早々に、「ブックレット」として発刊する予定です。また、リレー塾(http://www.terashima-bunko.com/bunko-project/relay.html)、FM放送(http://www2.jfn.co.jp/owj/tera/index.php)他、多くの政策の審議会等でもご活躍です。今年は特にお世話になりました、心から感謝申し上げます。

「海戦」からみた日本の戦争

Posted by 秋山孝二
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 今年は、私にとって「戦争」と向き合った記憶に残る年となりました(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=11094)。今月11日にも書きましたが、「日本海軍の変遷」から検証して、新しい気づきがありました。

 数年前から、歴史認識として「戦争責任」検証の旅で、アウシュヴィッツ等のヨーロッパ・中国東北部を訪問し、今年8月は北海道新聞に、旧海軍の私の父に絡む「ビハール号事件:5回連載」の記事も掲載されました。この間、旧海軍の多くの方々と出会い、貴重なお話、或いは著書を読むことが出来ました。その中から海軍に関係する二つを紹介致します。

 一つは、今年夏に知人の大沼芳徳さんから送って頂いた伊藤和雄著「まさにNCWであった日本海海戦:http://janafa.com/book-35/page-13.pdf」です、「NCW:Network Centric Warfare(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%AF%E4%B8%AD%E5%BF%83%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84)」は、簡単に言うと「ネットワーク中心の戦い」で、近年、米海軍大学校長のアーサー・セブロフスキー中将の講演ほか、アメリカ軍オリジナルの構想と理解されているようですが、実は、日露戦争の日本海海戦が「NCW」だったという視座の興味深い本でした。

 ペリーから送られた電信機に始まり、明治維新以降、海底電信ケーブル、軍用水底線、海軍望楼、三六式無線電信機等、新しく創設された日本海軍のインフラ整備・開発が、実は今日言う「NCW」そのものだったのです。日本海海戦の勝利の分析も、「情報優位」の下で、連合艦隊が主導的に戦ったからこそ、機力(ハードウエア)と術力(ソフトウエア)の僅かな差が大きな結果となってあらわれた、著者はそう断言しています。さらに、戦勝の要因として言われている、敵前大回頭(T字ターン)、砲の門数・口径、装甲の暑さ、下瀬火薬の優越度は、勝敗を左右した決定的要因ではなく、「情報優位」の傘の下に存在した数ある要因のひとつに過ぎない、とも。この勝因総括・分析の誤りが、実はそれから37年後の太平洋戦争での大敗北へとつながります、ある意味で歴史の必然として、です。

 幕末から明治にかけて、本来の「近代国家の建設」への熱き思いと、情報・通信ネットワークの重要性を本能的に理解した優れたリーダー達の見識を、私たちはしっかり史実として記憶しておかなければならないのでしょう、その後の時代を検証すればする程ですね。

 

 もう一つは、戸髙一成著「海戦からみた太平洋戦争」です。戸髙さんはご存知のように、「呉市海事歴史科学館館長(通称大和ミュージアム:http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=4585」で、同時に海軍史研究家でも著名な方です。私は全く同感する部分が多かったので、少し長くなりますが引用させて下さい。

* 太平洋戦争では、連合艦隊は早期の艦隊決戦を追求し続け、その作戦が破綻して戦力を使い果たした後は、いたずらに特攻作戦のみによって戦死者を増やすだけに終始した。あえて日本海軍の失敗や欠陥に目を向けることが、現在の日本人にとって有益と考えるのである。

* マリアナの攻防で艦隊を失った日本海軍は、ことの重大さに苦悩していた。もはや日米の戦力差は決定的なものであり、通常の攻撃では、日本側に勝ち目はなくなっていたのである。米軍のレーダーは安定した性能で日本機の接近を探知し、十分な余裕を持って邀撃(ようげき)戦闘機を差し向けている。また、幸運にも邀撃戦闘機群の網を逃れ、米艦隊に突入できた飛行機も、小型レーダーを内蔵し、飛行機に接近しただけで炸裂するVT信管を装備した高角砲弾の弾幕に包まれて撃墜されてしまう。

* 当時、日本海軍では、この米艦隊の対空砲火の命中率が異常に高いことに気づかず、単に対空機銃と高角砲が多い、つまり物量の差があるといった程度の認識しかなかった。この、「米軍イコール物量」という図式は、日本の軍人の頭の中に深く染み込んだ観念で、これはワシントン条約で日本の海軍が対米6割に抑えられた時からの長い歴史を持った観念であった。これらの物量に対抗するには、米艦隊を上回る戦力を集中して対抗すべきであったが、日本海軍にはすでにその力はなく、力を蓄積するだけの資源も時間もなかったのである。

* では、何もない日本海軍に残された道は何であったか。それは「天佑神助」を当てにすることと、「大和魂」を持ち出すことだけだったのである。合理的な作戦がすべて破綻した時、残っていた作戦が非合理であったことは、或いは自然なことだったのかもしれない。

* 1945年の戦艦大和の最期となった「沖縄特攻」のとき、出撃にあたって連合艦隊司令部から与えられた命令がある。この命令を起案したのが誰なのかはっきりしないが、命令文が示すものは、この特攻艦隊の出撃が、「海軍の伝統を発揚」するために命じられたものである、ということであった。付帯的に付けられた「皇国無窮の礎を確立」することとともに、そこには何ら遂行中の戦争に対する戦術展望もなければ、全てを失った後に対する考慮も読み取ることはできない。この作戦目標は「戦果」ではなく、「日本海軍の栄光」の伝統発揚のためだったのである。日本海軍にとっては、「海軍あって国家なし」と言われても仕方のない命令文である。海軍は、ただ「輝ける伝統」という幻を守るために多くの艦艇と人命を米軍の攻撃の前に差し出したのであろうか。

* いかに軍事技術が発達しようとも、戦争に至る原因の多くは、古来変わるものではなく、基本的には、国家間の政策・利害の衝突に過ぎない。これは、本質的には、外交交渉で解決されるべきものであり、戦争は、いわば交渉失敗の結果なのである。

* このような、外交的敗北によって始まった太平洋戦争は壊滅的な敗北で終り、日清戦争に始まった「日本の五十年戦争」も幕を閉じた。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~引用おわり

 「外交」と「戦争」と言えば、クラウゼヴィッツ(http://kotobank.jp/word/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%BC%E3%83%93%E3%83%83%E3%83%84)の「戦争論」を思い出します。日本海海戦を担った指導者たちと、太平洋戦争時の海軍指導部の質・見識の差とでも言うのでしょうか、この80年近くで変遷していった日本海軍から考察する歴史は、しかし、今も進行形であると思いますね、指導者の劣化、それを見過ごす国民の民度の低さとお任せ民主主義の跋扈です、教育の敗北と言っても良いかもしれません。

 今の日本は2008年統計で、「53隻の駆逐艦保有」、これは米軍第7艦隊の2倍であり、「護衛艦52隻、哨戒艦9隻、機雷艦31隻、潜水艦16隻など152隻、43.7万トン保有」、世界第2位の海軍です。それをコントロールする指導者は育っているのでしょうか。軍事力ばかりでなく、原子力政策においてもこの海軍の変質の歴史から学ぶことが多いと思います。そしてその「学び」は、これからの日本創造で生きて初めて「価値」となるのですよね。

66回目の6・23

Posted by 秋山孝二
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 今年は66回目の沖縄「慰霊の日」です(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=4402)。

 1年を経ても日米安保条約に基づく沖縄基地問題は、転換を迎えてはいません。

http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=8525

http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=4575

 「歴史から学ぶ」、今こそ実践したいですね。

北海道日米協会の総会で

Posted by 秋山孝二
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 北海道日米協会(http://www.plaza-sapporo.or.jp/citizen/meikan/060.html)の年次総会が、パフォーマンス・午餐とともに開催されました。私は以前から会員ではありましたが、この10年くらいはほぼ休眠状態でした。昨年から伊藤義郎会長体制の下、理事に就任して、これからは少し時間を割いて尽力しようと思っています。

伊藤義郎会長のご挨拶

前方に揃う役員・来賓:伊藤義郎会長のご挨拶

  総会に引き続いて、北海道インターナショナルスクール(http://www.his.ac.jp/)の生徒たちによる歌と踊りで、「サバナ・サバ」ほか、元気溢れるパフォーマンスでした、スワヒリ語で「少しずつ」を意味するそうです。6月4日には西区ちえりあホールで、「グリオーアフリカの語りべー」が予定されています、今、アフリカは熱いようですね!

インターナショナルスクールの生徒たちによるライブ

インターナショナルスクールの生徒たちによるライブ

 

 少し前に、「来月札幌で下記の講演会を予定しています」と、ご案内をしました。日米協会の会員でありながら、「さらば日米同盟」というタイトルの講演会を主催するには、少し説明がいるのかも知れませんね、何か矛盾すると思われる方もいらっしゃるでしょうが、日米関係は極めて重要であるがゆえのこのテーマでの開催です。沖縄はじめ駐留する米軍基地に象徴されるように、従来の安保条約下の軍事的な片肺同盟ではなく、本来の幅広い「日米同盟関係」を目指し、構築し直して進む選択が重要だと思います。

~~~~~グリーン九条の会 第4回講演会̶ 経済の視点から平和を考える~~~~~~~~̶
天木 直人 氏 「さらば 日米同盟~平和国家日本を目指す最強の自主防衛政策~」

と き:2011年6月25日(土)
開場13:30 開演14:00
ところ:りんゆうホール 札幌市東区北9条東2丁目りんゆう観光3F
TEL:011-742-4233
会 費:1,000円
主 催:グリーン九条の会
協 賛:(株)りんゆう観光

連絡先 グリーン九条の会
〒003-0831 札幌市白石区北郷1条7丁目5-8 白鳥方   green9zyonokai@gmail.com
お問い合わせ、参加申し込みは、郵送か、メールでお願いします

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 最近の日米関係と言えば、大震災後の米軍海兵隊・海軍「トモダチ作戦:http://www.youtube.com/watch?v=zYErfIN4ELY&feature=relatedhttp://www.youtube.com/watch?v=Vj6gg5vMEHk&feature=related」でしょうか。放射能汚染の中、いち早い無人偵察・撮影機の映像に基づく救出作戦行動は、日本の自衛隊とともに光る活躍でした。ただ、だからと言って沖縄の米軍基地の必然性につなげるのはあまりに軽率・ナイーブだと感じますが。実は、1923(大正12)年9月1日の関東大震災(http://www.ads-network.co.jp/zatugaku/saigai-07.htm)でも、当時としては信じられないような米軍による災害支援があったそうです。当時は安保条約に基づく日米同盟など存在していなかった時代にもかかわらず、ですね。

 プロパガンダに流されることなく、冷静に現状を捉えて、間違いない日本の歩むべき道を選択しなければなりません、今の政治情況そしてここしばらくは、内閣・国会ともに、それらを構成する連中の能力からいって、この重要な決断を委ねることは出来ません。自分たちの船は我々で漕いで行くしかないではありませんか、オールを放してはいけない時期なのだと私は思います、今、岐路に立っているのですから。昨年の映画「INVICTUShttp://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=3298」、中島みゆきの「宙船(そらふね)http://www.youtube.com/watch?v=vGVTiCg8DNI」ですよ。

~~~~その船を漕いでゆけ おまえの手で漕いでゆけ、おまえが消えて喜ぶ者に おまえのオールをまかせるな~~~~~

映画「太平洋の奇跡」

Posted by 秋山孝二
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 今年は、日米開戦(1941年)から70年、映画「太平洋の奇跡~フォックスと呼ばれた男:http://www.taiheiyo-no-kiseki.jp/index.html」は日米のスタッフ・キャスト合同の話題作で、印象深かったですね。

 「歴史に埋もれた真実の物語」とチラシにあった通り、私自身恥ずかしながらこう言った事実を知りませんでした、サイパンは玉砕だったと思っていて、です。さらに、この真実がアメリカ人の元海兵隊員ドン・ジョーンズによって明らかになったこと、原作者が戦後に来日して取材を重ねて書きあげた著書であることに、少し残念な気もします。彼は、大場栄大尉の戦いぶりに強い感銘を受けたとも、本人の言葉として語られています。あとがきには、「多くの人たちが、自分たちの父や祖父や叔父たちが、国を守るために戦った精神について何も知りませんでした。もっと驚いたことは、その人たちがしたことに、何の尊敬の念も払っていないことです。私は、このことをとても残念に思います」と記されているそうです。

 竹野内豊が演じた大場大尉は、太平洋戦争の激戦地サイパン島で、わずか47人の兵力で4万5000人もの米軍を巧妙な戦略で翻弄し、“フォックス”と畏敬の念を込めて呼ばれていました。ただ、当時の日本兵にあって、「自決するより生きて戦うことを選べ!」という信念を貫き、終戦後の12月に戦没者を弔うべく軍歌を歌いながら投降したという史実を知る日本人は、驚くほど少ないのも事実です。

 竹野内をはじめ、作品にかかわったすべてのスタッフ、キャストが伝えたかったことは、「日本人の誇り」だったのでしょうね。俳優、監督の弁(http://dogatch.jp/cinema/taiheiyo/special/)は、大変興味深いです。

* 大場栄大尉役の竹野内豊: 「生きて、日本に帰ろう」、赤ん坊に言うセリフ「生きろ!」

* ハーマン・ルイス大尉役のショーン・マクゴーウァン: 「優秀な軍人は戦争を求めない、戦うのは平和を求める時だけ」

 映画にはいくつか印象的なシーンがありますが、私は、投降後、米軍のジープに乗りながら、敵だったアメリカ軍人に対して、「ただ無心に戦っただけ。私はこの島で、誉められるようなことは何もしていません」と、静かに語っている場面が一番でしたね。もう一つ、アメリカ軍の当初の指揮官・ポラード大佐が、日本兵のメンタリティを「理解出来ない!!」と繰り返し叫び、「上官たちがどうして決戦前夜に自ら命を絶つのか」等、たくさんの質問をルイス大尉に浴びせる場面も面白かったです、恐らく多くのアメリカ人、いや現代の日本人でも抱く疑問かもしれません。

 この映画をみ終わってから、インターネット検索で映画の周辺情報を読んでいますと、実に多彩で、さらに興味を増しますね。以前にも書いたのですが、演劇(芝居)にも映画作品程の周辺情報があれば、誘いやすいし、もっと広くファンを集められるような気がするのですが、これからの課題でしょう。

 竹野内豊(http://www.youtube.com/watch?v=FG3pQiT-d4Y&NR=1&feature=fvwp)の今回の好演は、これまでのイメージを変えるのに十分だったとの評価です。私は、もう少しあくが強くても良かったのかな、と思いましたが。日本軍と現地民間人との葛藤も、沖縄での現実を含めて、見逃してはならないです、軍隊は「何のために、誰を守るために戦っていたのか」、ですね。

メディア・アンビシャス大賞!!

Posted by 秋山孝二
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  優れた報道を勝手に褒めたたえて表彰するメディア・アンビシャス(http://media-am.org/)の、今年度の公開選考会が50名以上の参加者で開かれました。当日は映像系ノミネート作品4本を5時間かけて上映し、活字系ノミネート記事5つをそれぞれの会員が推薦講評、投票の結果、得票順に「メディア・アンビシャス大賞」、「メディア賞」、「アンビシャス賞」を決定し、それ以外のノミネート作品は「入賞」としました。

公開選考会の案内チラシ

公開選考会の案内チラシ

<活字部門>   *ノミネート5作品の中から1作品を選んで投票

メディア・アンビシャス大賞: 「いのち 自死3万人の時代に」(北海道新聞)
メディア賞:            「追跡・累犯」(毎日新聞)
アンビシャス賞:         「ヤマトよ偽善だ/沖縄は怒り疲れ虚脱」(朝日新聞)
入賞:               「フリーター労組が国賠訴訟」(北海道新聞)
入賞:               「現代かわら版 ウラン渇望 ソ連の原爆開発と日本」(北海道新聞)

 大賞には、「自殺」をテーマにした連載作品が選ばれました。この作品は第1部から第4部までの隔月の長いシリーズで、「自殺をどう減らすか」を目的に企画され、残された遺族、医師、電話相談員等の思いや、うつ病の現実、保護活動の動きなど多様な視点を伝えています。テーマ的には不幸にも新しいものではないのですが、「統計数値の外で消えるいのち」、「数値の奥に続く多くの苦悩」ほか、日本社会の病理に正面から向き合った内容が評価されました。

 メディア賞には、犯罪と福祉のはざまに陥って再犯を繰り返す「累犯」を長期間のシリーズで追跡した作品が選ばれました。福祉からこぼれ落ちてきた知的障害者、高齢者が多いことに注目するなど、その視点の新しさが称賛されました。

 アンビシャス賞には、基地問題をめぐる沖縄の現場と日本メディアの偽善を伝えた作品が選ばれました。「政治のせいだけにはできない、メディアの責任も大きい」として、大手メディアが自らメディア批判に切り込んで、「記者魂」を感じたとの高い評価があり、ぜひこれからもこの姿勢を続けてほしいという期待を込めた受賞となりました。

 

<放送部門>     *4作品鑑賞者は上位作品から順に4点/3点/2点/1点を付け、
               3作品鑑賞者は同様に3点/2点/1点、
               2作品鑑賞者は同様に2点/1点、
               1作品鑑賞者でその作品に投票したい場合は1点を付け、
               その得点を合計する方法で行いました。

メディア・アンビシャス大賞: 「あるダムの履歴書~北海道・沙流川地域の記録~」(NHK制作)
メディア賞:           「雨はすべてを洗い流す 在宅死に向き合う三家族の絶望と再生の記録」(UHB制作)
アンビシャス賞:        「NICU その先の現実~医療と福祉のはざまで~」(STV制作)
入賞:              「英霊か犬死か~沖縄から問う靖国裁判~」(琉球朝日放送制作)

 大賞には、「違法ダム」として残り続ける二風谷ダムの歴史とアイヌの人々の思いを描いた作品が選ばれました。圧倒的な長期間取材に基づく説得力が支持されての受賞となりました。

 メディア賞には、在宅死を選択した家族模様を描いた作品が選ばれました。従来のドキュメンタリーにはなかった表現方法や、日常の中にある「死」を描いている点などが評価されました。林先生の言葉、「その人の人生を知らなければ本当の治療は出来ない」は、看取りの真髄なのでしょうね。

 アンビシャス賞には、NICUを出た後に障害児に対する十分な支援や受け入れ機関がないまま、苦しい生活を強いられる家族を描いた作品が選ばれました。現実を報告するだけでなく、「現状改善のためにどうすべきか」を提案している点が支持されました。また被写体との距離も的確で、改めてメディアスタッフの信頼感、コミュニケーションの大切さも教えられた作品でした。

 これ以外の入賞作品も大変素晴らしい内容で、4作品とも非常に僅差でした。

 制作者の方もお招きした授賞式を、2月7日(月)夜・シアターキノ(http://theaterkino.net/)で行う予定です。詳しい制作の背景や会員の評価などもさらに聞けると思います。私も世話人の一人として、この機会に一つの作品・記事を何回も観たり読んだりしました。最初より2回目、3回目にさらに新しい気づきが有る場合も多く、メディアの力を感じます、奥が深いものですね。

2010年、少しの満足!

Posted by 秋山孝二
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 今年は、私にとっては情報発信をする機会に恵まれました。この欄は勿論ですが、北海道新聞の1年間の「新聞評」担当、パネルディスカッションのパネラー、札幌劇場祭審査員等です。「新聞評」は、辛口でと担当の方から言われて多少意気込んで取り組みましたが、多くの新聞等も読まなくてはとても辛口での論評は難しく、予想以上の作業でしたね。でも、本当にたくさんの方からの反応も直接頂き、手応えがかなりあったので嬉しかったです。

北海道新聞「新聞評」・担当3回(各1300字)で、以下その抜粋:

<2月上旬掲載>・・・・・・未来は予測するものではなく創り出すものであり、激変期にありながら「従来型」の視座に固執では感動はない。特に「東アジア共同体」構想の国際社会での意味、4つの密約等について、編集には座標軸と原点を示す「覚悟」と「勇気」を期待したい。

<6月上旬掲載>・・・・・・「APEC札幌会合まで1ヶ月」(5日朝刊)、「日本酒外交舞台で存在感」(17日夕刊)に接して、2年前のG8北海道洞爺湖サミットの記憶が蘇った。私は留寿都・国際メディアセンター(IMC)にNGO枠でしばし滞在し、海外からを含めて4000名を越える報道関係者の活きた取材・発信現場を垣間見た。NGOメンバーの記者会見等を含めた真摯で積極的な情報提供活動、市民メディアの的確な課題把握力、日本の映像メディアの浅薄さ、そして質・量ともに贅を尽くしたセンター内の無料飲食メニュー等である。国際会議で大切な地元の姿勢は、上滑りな「おもてなしの心」ではなく、しっかりした議論に裏付けられたメッセージの発信であり、日本のマスメディアに今問われているのは、目の前の状況から課題を認識・抽出する感性と能力なのではないだろうか。

<10月上旬掲載>・・・・・・・・・昨年、足利事件の菅家利和さんが釈放されたのは、元局長が逮捕されるわずか10日前である。多くのメディアは、今年3月に菅家さんの無罪判決が出た時、「捜査の全面可視化」を提起する一方、裁判員制度の導入も踏まえて事件報道のあり方に関して、捜査中心から公判中心へ基本的に転換したはずではなかったのか。本紙には、発表依存の報道から脱却し、以前、道警裏金報道で見せたような、果敢な取材に基づく調査報道の復活を期待したい。

<10月・新聞週間特集(800字)として>~~~~~~~~~

 メディアとしての「新聞」の危機は、諸外国の事例で頻繁に語られている。日本では、発行部数の多さ、テレビと内容的に同期している点、広告料の構成比の違い等、特有の環境があり、必ずしも同じ道をたどるとは思えない。ただ、本来の新聞の強みを関係当事者が見失った時、衰退が始まるのだろう。

 先月の記事で、私が数社を比較して注目した一行の見出しがある。2010年版防衛白書・閣議報告は「沖縄海兵隊の役割強調」(10日夕刊)、他紙は「防衛白書、薄い民主色」(11日朝刊)と、一歩踏み込んで沖縄普天間問題の迷走との関連を表現していた。また青森県六ケ所村の使用済み核燃料再処理工場問題で、本紙が「再処理工場2年延期」(10日夕刊)とした記事が、他紙では「核燃 展望なき操業延期」(11日朝刊)だった。「安心・安全」への国民の高い関心に応える見出し、記事になっているかどうか、考えていただきたい。

 私はこよなく新聞を愛する読者として、期待を込めて望むことがある。一つは、「時代を展望して」、「流れを読んで」と難しいことを言うつもりはないが、少なくともリアルな現場から発せられる「今」を伝えてもらいたい。現場を深く掘る取材によって、「時代の空気」を読者に提供できないものだろうか。もう一つは、「たれ流し」のごとき発表報道ではなく、徹底した取材を基に、主語の明確な検証・調査報道を行ってほしい。発表報道の偏重は、いずれテレビやインターネットへ取って代わられる自滅行為ではないか。

 戦前、新聞は「上から目線」の国民教育機能で、権力の監視機能とは大きく性格を異にしており、さらに「報道」が「宣伝」に変わっていった。検証・調査報道の意義は、出来事には時間がたってから分かることがあり、安保・沖縄関連の「密約」でも明らかなように、当時「報道されなかったこと」の意味も、後に検証すると重要性を再認識することができるということである。

 市民の視点を貫き、立ち位置を明確にするためにも、記事の検証企画・調査報道にこだわって頂きたい。冷戦後の国際社会、政権交代後の日本社会、今、新しい時代に会社としての「覚悟」が問われているような気がする。

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パネラーとして: 

8月「札幌の芸術都市構想フォーラム」http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=5134

12月「社会起業研究会フォーラム」http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=6770

 

劇場祭審査員として:

11月札幌劇場祭審査員講評:http://www.s-artstage.com/2010/tgr/2010/12/936/

 

 いずれも多くの皆さま方からご批判、お褒めを頂き、私自身大変励みとなりました。世の中まだまだ先の見えない混とんとした時期が続きますが、やらなければならない事がたくさんあります、来年も一日一日丁寧に生きていきたいものと心に決めています。今年1年、この欄を読んで頂いた方には心から感謝申し上げます。どうか、良いお年をお迎え下さい。

愛生舘の「こころ」 (13)

Posted by 秋山孝二
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 大阪に出張のついでに、少し足を伸ばして、以前から一度行きたかった東大阪の「司馬遼太郎記念館:http://www.shibazaidan.or.jp/」を訪問しました。

 地元ボランティアの方々が管理・運営されていました。多様な植物の茂るお庭を通り、圧巻は記念館内の天井までの大書架に収納されている数多い著書の存在、地下ホールのビデオも彼の立ち位置を理解する手立てとなります。

「沖縄に住む人は原倭人の姿」、「時空の旅人」、「可視的な過去」、「本土が沖縄に復帰する」、「土地は社会のもの」等、印象に残る言葉の数々、心に沁みます。

庭から書斎を眺める

庭から書斎を眺める

記念館のエントランス

記念館のエントランス

   地下1階の壁に掛けられた「21世紀を生きる君たちに:http://gogodiet.net/Forkids.htm」の全文、素晴らしい文章ですね。分かりやすく、眼差しが優しく、率直に訴えるメッセージ、司馬遼太郎の原稿と校正の過程が分かる資料も挿入された著書を、記念に買いました。

 パンフレットには、「見ていただくと同時に、この空間で、司馬作品との対話あるいは自分自身との対話を通じて何かを考える、そんな時間をもっていただければ、と思います。この記念館は、展示品を見るというより何かを感じ取ってただく場所でありたいと念じています。・・・・」と書かれています。資料のメモ書き、付箋のついたそのままの状態の本は、司馬遼太郎の取材・執筆に対する真摯な姿勢を感じます。
 
 この記念館のそばに、実はもう一つ尋ねてみたい場所がありました。今年7月に美瑛町に行った時、砦のような「新星館」を訪問し、大島館長にお会いしました(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=4855)。その大島館長の本業が、東大阪の司馬遼太郎記念館近くのお好み焼き屋「伊古奈」と聞いていました。先日、少し探して見つけましたが、残念ながら今年1月で閉店し、隣で喫茶店として新たなスタートのようです。 

「伊古奈」は1月に閉店していました

「伊古奈」は1月に閉店していました

 なぜ、司馬遼太郎記念館が「愛生舘の『こころ』(13)」か?彼の著書「胡蝶の夢:http://webkohbo.com/info3/bakumatu_menu/turedure03.html」に、松本良順(順の前の名)が登場するからです。良順の人生について、長崎での医学伝習、第14代将軍徳川家茂の臨終に大阪城で立ち会ったこと、新撰組土方歳三との出会い等、臨場感いっぱいです。

 書斎の前庭に立つと、司馬遼太郎さんが戸の向こうから現れて来るような気がする程、「そのまま」でした。

中国:ハルピンで

Posted by 秋山孝二
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 昨年6月、プラハ・アウシュヴィッツ他を訪問したグループで、今年は中国に「検証の旅」です。

 韓国・仁川(インチョン)空港、香港空港はアジアのハブとして目を見張りますが、15年ぶりに行った北京空港もそれを上回る広大な敷地・建物で、まさに中国の勢いを象徴するかのようでしたね、オリンピック・万博を目標に国家的プロジェクトで整備したのでしょう。でも、訪れるお客にとって、必ずしも「大きいことは良いことだ」ではない辺りが、難しい所ですね。空港でのインターネット・アクセスは大変便利ではありますが。

国内線のロビー:面としての広大さを感じます

国内線のロビー:面としての広大さを感じます

 深夜にハルビン市内のホテルに到着して、早速部屋でインターネットに接続しましたが、日本では見られる幾つかのサイトがアクセスを拒否されました。事前に多少は聞いていましたが、何かのスクリーニングが掛っている様子です。

 

 旧関東軍731部隊(http://sakura4987.exblog.jp/4958898/)の本部が置かれていた場所は、ハルピンから約1時間の場所です。広大な敷地は今も残されて陳列館となり、その周辺には関連施設で終戦直前に自ら破壊した発電所跡、凍傷研究所等跡もそのまま、訪問当日は高校生・大学生と思われる団体も見学に来ていました。部隊が建設した発電所は実に頑丈で、自ら破壊する時も爆破では困難だったようで、3本の煙突のうち1本だけの破壊で退却したようです。裏に回って建物の壁を見ると太い鉄筋が何本も入っていて、皮肉にも「耐震偽装建築」とは比較にならない当時の軍関係建築への予算を測り知ることが出来ます。インターネット検索では、様々な立場からのコメントも読むことが出来ますので、ここで掲載することは省略します。

旧陸軍731部隊本部入口で
旧関東軍731部隊本部入口で

敷地併設の発電所跡:自ら破壊して撤退

敷地併設の発電所跡:自ら破壊して撤退

凍傷実験所

凍傷実験所

 すでにこの部隊の目的等は、1997年アメリカ政府の膨大な情報公開により明らかになっています、今回あらためて衝撃を受けたのは、昨年のアウシュヴィッツと同様に、「政策」として明確な意図を持って軍と医学会が組織的にかなりの期間実践したこと、そしてその間多大な犠牲をもたらして得た膨大な「医学的(?)情報」が、戦後戦争責任を裁く裁判における免罪の取引として、すべてアメリカに提出されていたことです。数年前から、関わった方々が80歳に近くなってきたからか、この件に関する証言も数多く世に公開されています。

 「政策」としてという意味は、例えば「対ソ戦」を想定した寒地での人間対応力実験、資源の少ない日本が戦争に勝利する戦略としての大量破壊兵器として「細菌兵器」の開発、自国内では出来ない「医学的」臨床実験等です。

 8月のNHKドキュメンタリーシリーズで放映された「広島・長崎への原爆投下」に関する番組で、誰よりも早く爆弾投下直後(2日後?)に日本の軍医師団が、診療目的ではなく調査目的で現地入りして、放射線障害等の貴重なデータを取得し分析し、それを731部隊同様に占領軍に提出したとの証言でした。 そしてその意図が、終戦後少しでも占領軍の心証を良くしようとの思惑からだった、とも。

 更に731部隊に責任を負う幹部たちの終戦後に就いた役職も展示されていましたが、皆戦後日本の要職が実に多く、彼らの戦争責任に対する認識、許す社会の民度の低さ等、アウシュヴィッツとは違い、同じく戦後日本を生きてきている自分自身との関係性から一層重たいものがあります。戦後の数多くの戦争裁判の検証でも、アメリカ他の連合国の思惑等、しっかり認識していく必要性を感じます。

 もう一つ、資料とかデータに関する日本人の独特の考え方ですね。国際社会では、「資料が無い」というのは、その後の検証・交渉では致命的に不利になるのは常識にもかかわらず、ただひとえに自らの「保身」、「責任回避」の為に、それを焼却・破壊して無かったことにしようとするメンタリティ、その程度の責任感・覚悟での仕事の遂行というのでしょうか。何だか何で言って、「国」、「国民」の為になどという言葉は全くみられません。これは今の社会でも、全く変わっていないから更に課題は重いですね。戦争中の様々な残虐行為、安保・沖縄密約、事実を無かったことにしようとするそのことが、歴史に対する冒とくですし、それを乗り越えて進化しようとする力をそぐものです。私たちの世代の責任は、とにかく事実を事実として認識して、二度と同じような過ちを繰り返さない社会づくりを日頃から地道にすることしかないのでしょう。

 もう一つ、ハルピン市内の「東北烈士紀念館:http://www.mediabahn.co.jp/china/tiiki/tohokud7.html」では、抗日戦争で戦った女性戦士「趙一曼」に関する展示・説明が印象的でした。信念に生きる一人の女性の姿、また一人の子供へ託す自らの意思といのちの連鎖、今、中国・ハルピンに居ることを忘れて、無言でしばしたたずむばかりでした。

岡田武史と我喜屋優に見る監督像

Posted by 秋山孝二
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 今年のサッカーW杯南アフリカ大会、海外でW杯初勝利、自国開催以外で初のベスト16進出の輝かしい成績に日本代表を導いた岡田武史監督が、幾つかの新聞に率直な気持を吐露しています。昨年の8月にこの欄で、私は高校野球の香田誉士史監督に感謝の気持を書きました(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=1904)。素晴らしい成績の裏には、必ずそのチームの監督の突き抜けた努力と哲学がありますね。今年の春・夏連覇の高校野球、沖縄県代表の興南高校(http://senior.konan-h.ed.jp/)・我喜屋優監督も全く同様です。

 新聞によれば、岡田監督は鳩山首相から菅首相に代わったことを知らないほど、W杯へのチームづくりに集中していたようです。また、一時、大会終了後は農業に従事したいとの報道も流れましたが、あれは外国メディアに「晴耕雨読:せいこううどく」を英語で説明した所、「晴れた日には土を耕す」の部分だけが報道されたと自分の英語力の不足も語っていました、聞いてみないと分からない、面白い話ですね。

 「自分の理想としては『美しい』だけではだめ。確かに戦術的にはバルセロナ(バルサ:http://www.fcbarcelona.jp/)のようなサッカーが好きだけど、必死にプレーする選手を見て、なんでこんなに必死になってボールを追っているのかという感動がプラスされないとダメだと思う。理想のサッカーを問われれば、戦術的なことよりも、まず感動だと考える」

 パラグアイ戦の直後のコメント、「もう一試合やらせてやりたかった」。そして後日、「選手たちは代表として無心になっていた。しかし、何だかんだ言いながら、ベスト16になって周囲からすごいと言われて、どこか満足している自分がいたのだと思う。それを何とか追い払おうと選手にも強いことを言ったりしたが、あそこで勝てず、最後の自分に執着心が足りなかった。経験が無いから最後のハングリー精神がなかったと、負けた瞬間に直感的に感じた」と振り返っていました。

 我喜屋優監督は、春の選抜大会で優勝した翌日から、「優勝チームはすでに終わり、またゼロから夏に向かって新しいチームをつくろう!」と生徒たちに厳しく語り、基礎練習からやり直したそうです。夏の優勝直後のインタビューでは、「夢がかないました、沖縄県民の!」。いずれも修行僧のような自己に対する厳しい姿勢、そして哲学、まさに勝つべくして勝った、そんな気がしますね。

 岡田監督、我喜屋監督とは比べものにはなりませんが、30数年前の私の監督経験(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=27)でも、似たようなことを感じました。忘れもしません、都大会準々決勝でした。私が教員だった中学校の女子チームは、江戸川区新人戦で優勝、夏の地区大会でも準優勝、そして区代表として全都560校の代表チームで戦う都大会に出場して次々と勝ち上がり、準々決勝に進みました。1セットを取り、2セット目も7-0と圧倒的にリード、監督の私は次の準決勝のこと、更に全国大会への出場を一瞬考えたのです。そんな集中力を欠いた雰囲気が瞬間選手たちに伝わったのか、あれよあれよという間に追い上げられて、追いつかれて、逆転され、セットを失い、変わった流れを元に戻すことが出来ずに、結局次のセットも失って敗戦となりました。

 試合後、私は無言で選手と一緒に遠い学校に戻って、反省会で子供たちに謝りました。「君達にはまだまだ試合をさせてやりたかった。先生の油断と志の低さで申し訳ないことをした」と。心のどこかで都大会ベスト8で満足していた自分が居たのだと思います。本当にあの時の子供たちは、控えの選手も含めて1年間363日練習に明け暮れて、良く努力しました。自分にもう少し経験があれば・・・・、人生であまり後悔というのはないのですが、今でも悔いの残る試合でした。「自分自身がしっかり目指していなかった」、そんな自らの甘さを誰よりも自分が感じていましたね。

 その後経営者として全責任を負う立場に就いた時、私はこの監督経験から学んだことを肝に銘じていました。強い信念を持ち、しっかり構想して、集中力を持続し諦めずにやり抜くこと、それが組織責任者のあるべき姿だと。

 この数カ月、素晴らしいチームを育て率いた監督から、沢山のメッセージを受け取りました。岡田武史監督、我喜屋優監督、本当にお疲れさまでした。

私にとっての「沖縄」

Posted by 秋山孝二
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  戦後65回目の今日です。「私にとっての『沖縄』」と題してこの欄の下書きを始めて、一カ月があっという間に経ってしまいました。こんな状態が私にとっての「沖縄」なのでしょう。

 私はこれまで2回沖縄に行ったことがあります。最初は今から20年ほど前に、スキューバダイビングを目的として「万座毛:http://kankou.e-pon.jp/manzamou/」周辺で数日、その間、嘉手納基地(http://www.kadena.af.mil/)に知人にご案内をして頂きました。昔、千歳のクマ基地の想い出がおぼろげにあった私ですが、嘉手納基地は比較にならない程広大な「コミュニティー」でした。この時は基本的には観光目的で、戦跡等とは無縁でした。

 2回目は10年くらい前、医薬品卸会社の営業担当副社長として、全国の営業部訪問の一環で沖縄を訪問しました。会議終了後に会社関係者に案内して頂き、摩文仁の平和祈念公園、慰霊碑、ひめゆりの塔、地下壕、首里城等を、かなり時間を掛けて回りました。当時、私は名古屋に単身赴任でしたが、摩文仁の北海道関係者の慰霊碑で、24万人のうち1万人以上の戦没者の名前を見て、あらためてその犠牲の大きさに胸を痛めました。先日8月13日NHK総合:北海道プラス「北海道民の沖縄戦:http://cgi4.nhk.or.jp/hensei/program/p.cgi?area=700&date=2010-08-13&ch=21&eid=52764」で、詳細に報道されていました。

2010.6.23札幌での慰霊祭

2010.6.23札幌での慰霊祭

 今、藻岩山の麓にある慰霊碑の前での式典は、今年が最後とのこと、来年には慰霊碑を札幌市中央区の市営地下鉄幌平橋からほど近い札幌護国神社(http://www3.ocn.ne.jp/~gokoku30/)に移転することになったそうです。

 更に沖縄を一層近いものにしたのは、経営者で尊敬する浦崎さん(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=1152)とのお付き合いからです。沖縄の家族の強い絆について、貴重なお話の数々をお聴きしました。

 それ以降沖縄に関するニュースには、特に沖縄戦に象徴されるように、第二次世界大戦後の日本本土との関係、沖縄返還他、新しい事実も知ることにより、自分なりに意識をあらたにしています。メディア報道でも、今年に入ってかなり放映されていますね。

 例えば、W杯サッカー・南アフリカ大会の最中に、沖縄返還時の密約に絡む貴重な番組がありました(その後再放送もされました)。沖縄返還時の外務省の若泉敬さんに関して、NHKテレビ(http://www.nhk.or.jp/special/onair/100619.html)、地元・琉球新報の記事(http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-2174-storytopic-1.html)。沖縄戦に関しては、 NHK教育テレビ・ETV特集第318回(6月27日)「よみがえる戦場の記憶~新発見沖縄戦600本のフィルム~http://www.nhk.or.jp/etv21c/backnum/index.html」、昨年から今年の日米安保条約に絡む米軍基地問題(第310回(4月25日) 「本土に問う~普天間移設問題の根底~http://www.nhk.or.jp/etv21c/backnum/index.html」)等です。

 このシリーズではまた、第285回(昨年8月23日)「シリーズ戦争とラジオ第2回:日米電波戦争~国際放送は何を伝えたのか~http://www.nhk.or.jp/etv21c/backnum/index.html」といった、貴重な報道もされています。

 密約の存在が明らかになったのもそうですが、一連の報道の情報源が、ことごとくアメリカであること、その辺りに先進国(?)としての日本の構造的課題が今も存在していると思います。「歴史の記録」の価値、資料の焼却等の処分により、歴史的事実そのものの削除は、検証を困難にし責任を曖昧にする姑息な手段ですし、日本国民の人権に対する甚だしい冒涜だと思います。「情報公開」の法的整備は、「情報機密」の法的整備にも通じる大切な社会基盤整備です。

 日米関係においては、新政権には冷戦構造後の新しい関係構築に向けた「場」の設定を、基地・核兵器削減を含めた安全保障分野を始め、多くの分野で一歩踏み出して貰いたいと思います。

「大和ミュージアム」のメッセージ

Posted by 秋山孝二
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 広島県呉市にある戦艦大和の情報集積施設「大和ミュージアム:http://www.yamato-museum.com/concept/」は、正式には「呉市海事歴史科学館」と言います。

一階ホールにある全長26.3メートル(10分の1)モデル

一階ホールにある全長26.3メートル(10分の1)モデル

科学技術の集積

科学技術の集積

  「沖縄戦」、「海軍」等との関係からも、私は以前からこの施設を機会があれば訪問したいと思っていました。呉市の施設として(現在は指定管理者制度により民間企業コンソーシアムが運営)今年は開設5周年を迎え、戦争武器の戦艦「大和」というよりも、日本の科学技術の結集「大和」の視点から展示が企画されていて、地元に根差す科学・製造技術の伝統他、予想を上回る貴重なメッセージを受け取りました。先日の佐倉の国立博物館(http://www.rekihaku.ac.jp/)、東京九段の靖国神社・遊就館(http://www.yasukuni.jp/~yusyukan/)とは、かなり趣を異にしています。

 日本海軍の礎として、愛生舘シリーズでも掲載した「長崎海軍伝習所」、勝海舟、小栗上野介(おくりこうづけのすけ:http://www.cocoyoko.net/history/h100000074.html)にも言及されていました。

長崎海軍伝習所

長崎海軍伝習所

  呉は海軍工廠のまちとして栄え、戦後は伝統的技術と新しい技術のコラボレイトでタンカー製造等も含めて経済成長を支えてきました。パンフレットにもあるように「呉の歴史」は、良かれ悪しかれ明治以降の日本の近代化の歴史でもあります。大上段からただ評論するのではなく、地域の教育、文化、観光への寄与を目的として、科学技術創造立国を目指す日本の将来に向けて、その担い手の子供たちにも科学技術の価値を届けたいという意図を感じました。

  向かいの「海上自衛隊呉史料館(http://www.jmsdf-kure-museum.jp/index.php):通称てつのくじら館」にも寄りました。日本の潜水艦製造技術の歴史、機雷除去を主とする掃海活動の歴史等、技術的側面からの説明・展示が興味深かったですね。

海上自衛隊呉資料館・入口

海上自衛隊呉史料館・入口(展示用潜水艦「あきしお」)

  「いつも反戦とか叫んでいるお前が、なぜ戦艦大和、潜水艦なんだ!」と言われそうですが、私にとって「日本海軍」の歴史は、父の影響もあり幼い頃から興味深く感じており、幕末・維新に始まった基礎から、日本海海戦、ロンドン・ワシントン軍縮会議、太平洋戦争、、海軍解体、戦後の海上自衛隊設立等、引き続き歴史の脈絡として注目をしています。

 これまで江田島の旧海軍兵学校(http://www.mod.go.jp/msdf/mocs/mocs/index.htm)には2回程足を運んでいますが、呉はいつも通過でした。今回しばし滞在できて、呉というまちが、戦後「平和産業港湾都市」として再生してきた歴史も知り、新鮮な視座を与えてくれました。

沖縄「慰霊の日」、ほか

Posted by 秋山孝二
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 今日は、沖縄「慰霊の日」です。1945年4月1日にアメリカ軍が沖縄本島上陸で開始された「沖縄戦」は、6月23日、日本軍第32軍司令官・牛島満中将他指令部の自決をもって組織的戦闘が終結されたと言われています。現地沖縄本島ではその後も悲惨な戦いが続き、多くの民間人が犠牲になったことは周知の事実です。1962年から毎年沖縄県が主催する「沖縄全戦没者慰霊祭」が執り行われる一方、1974年制定の県条例によって、この日が「慰霊の日」の休日となりました。「沖縄戦」については、後日私なりにここで記述しようと思っています。

 

 出張の合間に、面談する相手の都合により時間がポッカリ開く時もあり、先日も映画「グリーン・ゾーン」、「孤高のメス」を相次いで観る機会をもてました。

 ポール・グリーングラス監督、マット・デイモン主演の映画「グリーン・ゾーン:http://green-zone.jp/」は、徹底的に現場に固執していて面白かったですね。「面白い」と表現するのは不謹慎かもしれませんが、アメリカが始めた戦争をアメリカ人が映画製作して世界で上映する、そんな国としての懐(ふところ)の深さを感じるのです。

 イラク戦争開戦から4週間後、ロイ・ミラーと彼の部隊は、砂漠地帯に隠された大量破壊兵器の行方を追う極秘任務で、イラクの首都バグダードを駆けずり回りますが、空振りが続きます。国防総省の動きに不信感を覚えた彼は、同じ疑念を抱いていたCIA調査官ブラウンと共闘することに。部隊を離れ単独で調査を開始し、様々な妨害工作に苦しみながら、更に、ウオール・ストリート・ジャーナル紙の記者も絡んで、核心に迫っていきます。結論は「大量破壊兵器は存在しなかった」です。バグダッド市内の「グリーン・ゾーン」の際立った違和感も含めて、誰が味方で誰が敵なのかが混とんとして進む映像の迫力は、映画の魅力です。ただ、これがほぼ歴史の真実ですから、開戦以来マスメディアによる上空から私たちの目に届いていたイラク戦争の報道とは、一体何だったのでしょうか。この映画では、私には イラク人フレディの役回りが注目でした。

 もう一つ、話題の邦画、成島出監督の「孤高のメス:http://www.kokouno-mes.com/」です。「字幕付き上映」と切符売り場で言われて、「あれっ、外国語映画なの?」と一瞬戸惑いましたが、勿論日本語の映画でした。

 「生体肝移植」、「地域医療」等の課題を正面から扱い、そこに繰り広げられる人間の恨み・つらみ・妬み等、意欲的な映画でした。手術場の臨場感も素晴らしい迫力でしたし、臓器移植(http://www.jotnw.or.jp/)の法的環境の変遷も勉強になりました。更に、北海道演劇財団(http://www.h-paf.ne.jp/)でチーフディレクターを創立以来つとめている斉藤歩さんが、悪い(?)医師役で出演していました。舞台の俳優・演出、そして映画に頑張っていますね。

 この数年、比較的お年寄りの観客の多い映画では、2時間を越えて来るとトイレに立つ方々が目立ちます。行く時は良いのですが、戻って来た時にご自分の席を見つけられない方も複数いらっしゃる様子は昔は無かった光景だけに、高齢社会を実感します。

 「いのち」を巡る多方面からのメッセージの数々、平和な時代に感謝しつつ、なお課題と向き合い解決を模索する世代の責任も感じます。

千葉大学・西千葉キャンパス周辺は?

Posted by 秋山孝二
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  「6・15」を忘れる訳にはいきません、1960年6月15日、国会議事堂前で当時東大生だった樺(かんば)美智子さんが日米安保条約改定反対デモ参加中に亡くなった日ですhttp://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/kannba.htm

 私が千葉大学(http://www.chiba-u.ac.jp/)の学生だった(1969年入学)頃、毎年この日は西千葉キャンパスから東京の明治公園等に行き、追悼集会に参加しました。また、西千葉キャンパスには樺美智子さんのご両親・俊雄さま、光子さまもいらっしゃって講演会も開催され、追悼著書の「人しれず微笑まん」は心に残るメッセージでした。

 先日、たまたま時間があったので、昨年に続いて千葉大学・西千葉キャンパスに行ってきました。現在は1万5千人の学生数とのことで、40年前は土が舞い埃っぽかったキャンパスが、見違えるようなうっそうとした木々の並木道へと変貌し、風格を感じ嬉しくなりました。

40年前は小さな木々でしたが、立派になりました!

40年前は小さな木々でしたが、立派になりました!

  しばしゆっくり散策していると、今でも通りの向こうから笛の音とアジ演説の声が聞こえて来そうです。それにしても平穏です、立て看板も同好会イベントみたいなものばかり、米軍の沖縄・普天間飛行場等を糾弾するような立て看板は一枚もありません。

 そして40年前に時々通った東門斜め前の中国料理店「北京亭」は、今も健在でした。それどころか、丁度昼時だったので中に入って見ると、当時は楕円形のカウンターだけだった場が随分広がっていて、テーブルも入り、倍くらいの座席数となっていました。そこで私は、思い出の「レバニラ炒め」を注文して、マスター風の男性にお尋ねしましたら、何とその方が私が学生時代にも主人としてお店をやっていたことが分かりました。何とも懐かしく、レバーの味は全く変わりなく格別でしたよ。

「北京亭」も拡張して元気でした!

「北京亭」も拡張して元気でした!

絶品のレバーは今も健在!

絶品のレバーは今も健在!

  懐かしくて愛おしくて、良くこの間お店をお続けになっていたと感動しながら店を出て見ると、その出口の取っ手付近にステッカーが貼っていました。「底力宣言!千葉大学を応援しています:We support Chiba University」とありました。

地域から愛される大学へと!

地域から愛される大学へと!

 「変わるキャンパス」と「変わらぬ門前のお店」、ともに現在の姿に感動致しました。

 これまで私は自分の卒業した大学をそれ程「懐かしく」思ったことはありませんが、妻と出会った場も大学の臨海実習所、その後様々な場面で千葉大学卒業の方々ともお会いする度に、今キャンパス周辺がどうなっているのかと気になるから不思議です。

「パーソナルサポーター」実現に向けて

Posted by 秋山孝二
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  「構想日本:http://www.kosonippon.org/」が主催の「JIフォーラム第155回」が開催されました。今回のテーマは、「日本から無縁・孤立・貧困・閉塞感をなくそう『パーソナルサポーター』特区実現に向けて」でした。

 代表の加藤秀樹さんがコーディネーターで、前半・後半の二部構成の企画、パネラーは以下の通りです。先月、釧路のフォーラムにパネラーで参加頂いた日置真世さん、札幌に講演でお招きした湯浅誠さんも、キーメンバーのお一人で活躍です。別々の場面での人のネットワークが、様々な場でまさに「つながって」いきますね。

NPO法人ユースポート横濱http://www.youthport.jp/:岩永牧人、鈴木晶子
社会福祉法人いきいき福祉会http://www.rapport.or.jp/:小川泰子
NPO法人アクションポート横浜http://actionport-yokohama.org/:川崎あや

内閣府行政刷新会議事務局http://www.cao.go.jp/sasshin/:重徳和彦
NPO法人地域生活支援ネットワークサロンhttp://n-salon.org/:日置真世
NPO法人ライフリンクhttp://www.lifelink.or.jp/hp/top.html:清水康之
NPO法人北九州ホームレス支援機構http://www.h3.dion.ne.jp/~ettou/npo/:奥田和志
財団法人沖縄県労働者福祉基金協会http://www.rofuku-okinawa.jp/index.html:玉城勉
反貧困ネットワークhttp://www.k5.dion.ne.jp/~hinky/:湯浅誠

全国各地で課題解決に活動する人たち

全国各地で課題解決に活動する人たち:前半

  今、横浜を拠点に活動する各種NPOがプラットホームを形成して、特区申請を行っていますhttp://www.kosonippon.org/temp/20100517personalsupporter.pdf。主たる目的は「若者の就労支援」ですが、その本質は、ホームレス、高齢者等でも同様で、社会のつながりをなくした「貧困」でもあります。

 「絆(きずな)の取り戻し」、「行政の限界」、「伴走支援体制の確立」、「生活課題の解決」、「家族とは何だったのか」、「就労という言葉のワナ」、「家族が家族でいられる支援」等、キーワードが次々と活動されている方々から出てきていました。

 縦割りの行政、諸制度、そして市民活動も同様に縦割りになっている弊害。それらを突破して、「いのちをつなぐ」、次の世代へ、行政と、民間同士で・・・・。取り敢えず横浜の特区申請に注目ですが、全国各地で「パーソナルサポーター」の概念と取り組みはスタート出来そうです。今、確実に日本社会は変わり、それへの課題解決が急務ですね。

検証・昭和報道

Posted by 秋山孝二
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  先日、朝日新聞シンポジウム「検証・昭和報道」が開催されました。2年間の現場記者20名程を含めた事前検討会議の後、2009年4月から2010年3月まで朝日新聞夕刊に250回連載された「検証・昭和報道」の取り組みに対する総括シンポジウムでした。

当日配布資料:朝日新聞夕刊連載記事より

当日配布資料:朝日新聞夕刊連載記事より

  取材班から上丸(じょうまる)洋一氏の報告、基調講演として入江昭(ハーバード大学名誉教授)氏、討論(前・後)では船橋洋一(朝日新聞)、入江昭、劉傑(りゅう・けつ:早稲田大学教授)、バラック・クシュナー(ケンブリッジ大学准教授)の各氏がパネラーでした。

<船橋>

*時間が経ってから分かることがある――記事の「検証」機能が必要、現在に鏡をつくること、「調査報道」が無かった

<入江>

*今回の「検証」は、知的に正直な試み

*国内の記事:市民の目をどこまで貫いたか、国家権力の手先となっていなかったか、 国外の記事:欧米大国中心の報道、国際関係の記事:国家権力からの情報・関係性が多い、最近は「交流と共生の昭和史」が書かれるようになってきた

*20世紀の流れ:前半はナショナリズムの台頭、後半は国境を越えた「つながり」(経済・ITネットワーク・移民・避難民・人権・環境・宗教・民族等)

<劉傑>

*歴史の分かれ目をどう理解するか:ロンドン軍縮会議、満州事変

*新聞は「時代の空気を伝える」もの、「流れを読む」、「先を展望する」は別のこと

*戦後は平和を手に入れた:時代の空気は「平和を守る」であり、しばらくは「アメリカの政策に従う」ことであった、80年代に入って、「市民」、「グローバル」等のあらたな視点が生まれてきたのではないか

*「中国報道」をどう行ってきたか:評価の分かれ目、「1945年」は東アジアの多くの国にとって「戦争の終わり」ではない

<クシュナー>

*戦前の日本では、新聞は「第4の権力」ではなく、「政府の一部」だった

*アメリカでは、新聞は200年以上前から「政府を批判する」ことを求められた

*沖縄返還に絡む「密約事件」で、「報道されなかったことの意味」が再認識されるべき、同じ時期のアメリカ・ペンタゴン
ペーパーズ(http://www.mtholyoke.edu/acad/intrel/pentagon/pent1.html)におけるランド研究所ダニエル・エルスバーグは、極秘書類をニューヨークタイムズに掲載、日米を巡る状況の違いは象徴的、「The Most Dangerous Man in America」は、NHK-BS世界のドキュメンタリーで2回にわたり放映された(http://www.nhk.or.jp/wdoc/backnumber/detail/100301.htmlhttp://www.nhk.or.jp/wdoc/backnumber/detail/100302.html

*映画「大統領の陰謀(http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD5664/story.html)」、「フロスト×ニクソン:http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=1064」、このような映画が日本で制作されるだろうか

<その他>

*戦前の新聞は、「上からの目線」で国民の教育機能、国民と国家の間に位置した、調査報道が無かった、「報道」が「宣伝」に変わった、国際秩序をどこまで報道出来たか、昭和の報道は明治以降の「日本」をどう総括するかである

*戦後の報道では、「占領」をどう書けたのか、「東京裁判」で多くの知らない事実が明るみになった

*「冷戦構造」にとらわれ過ぎたのではないか、世界各地では多様な動きが進行していた、特に中国の台頭等

*調査報道は、情報公開法に基づいた「情報公開」活動により実現可能性が高まった

 

最後に、「ジャーナリズムは検証報道・調査報道ができるかどうかが生命線である」と結ばれました。聴衆は400名を越えていたでしょうか、平均年齢はかなり高かったですね、学生は20名程度だったような気がします。このシンポジウムの詳細は、6月21日朝刊特集面として掲載予定とのことです。

今あらためて問う、映画「密約」の意味

Posted by 秋山孝二
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 民放テレビで政治問題がまだタブーだった1978年の作品、映画「密約」を観ました(http://www.mitsuyaku.jp/)。札幌では、5月15日から、シアターキノ(http://theaterkino.net/:狸小路6丁目)で28日まで1日一回の上映予定です。

リアルでした

リアルでした

  この作品ははノンフィクション作家の澤地久枝さんが裁判を傍聴し続けて書いた原作を、千野皓司監督がテレビ朝日開局20周年記念番組として1978年に製作した力作です。当時、「原作者の女性の視点から、深く政治問題を掘り下げた質の高い秀作ドラマ」と評判になりました。日本テレビ大賞優秀賞を受賞しましたが、その後一度も放映されることはありませんでした。

 10年後のバブル真っ盛りの時、1988年に一部の劇場で映画として公開され、モスクワ国際映画祭にも正式出品されました。その後アメリカ側の文書が発見されて政府の密約の存在が表に出始めました。「国民の知る権利か」、それとも「国家の秘密保護か」、激しく意見が対立した裁判の息詰まる描写を通じて、権力の存在を問いかける渾身の作品です。後半部分には、澤地久枝さんの女性としての鋭い人物評を感じました。

 昨年、山崎豊子さんが別の視点で書いたフィクション「運命の人」がベストセラーになるなど、日米の密約問題は国民の一大関心事になっていて、つい先日は画期的判決も出ました(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=3888)。政権交代と関係者の証言によって明らかにされた一連の密約の存在について、真に一人一人の市民が主権者としての情報開示による新しい歴史認識は、日本に本当に民主主義が根差すかどうかの重要な岐路ですね。今改めて外交を問い直し、国民全体で情報開示の本質的意味について考えるべき大事な時期です。未だに「密約は無かった」と証言してはばからない元官僚たちを、許してはならないと思います。歴史に対する真摯な姿勢、それは同時に国民に対しての誠実な証言により成し遂げられるに違いありません、今後の為にもですね。

 折からの沖縄・普天間基地問題、まさに日米安全保障としての「日本の問題」という認識が私たちに足りな過ぎます。そして連日のメディアの「騒ぎ屋」としての喧騒は何なのでしょうか。3月25日の現地沖縄での9万人集会を含めて、一連の琉球新報(http://ryukyushimpo.jp/)、沖縄タイムス(http://www.okinawatimes.co.jp/top/)の報道姿勢に、メディアのあるべき姿を見る気がします。

地元2社の3月25日「9万人県民集会」の号外

地元2社の3月25日「9万人県民集会」の号外

画期的判決、「情報開示」への新たな時代

Posted by 秋山孝二
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  沖縄返還時の日米政府間の密約を巡る情報公開訴訟は、先日東京地裁で画期的判決が出ました。

http://www.asahi.com/national/update/0409/TKY201004090506.html

http://mainichi.jp/select/opinion/closeup/

 山﨑豊子著「運命の人:http://bunshun.jp/pick-up/unmeinohito/#character」でも、リアルに表現されています。長い戦いの末に獲得した「判決」と言えましょうか。控訴するかどうかはまだ分かりませんが、戦後生まれの私としては特段に重要な今後の動きであり、引き続き注目して参ります。

 今年2月2日、北海道新聞朝刊に掲載された私の「新聞評」の原稿です(太文字はこの欄用に編集)。 ————–

 日韓併合100年、日米安保条約改定50年、冷戦終結20年、2010年をどう位置付け認識するのか、転換点として期待と不安を抱きながら、私は選挙による政権交代後の新年を迎えた。

 「新春四季対談:時代を開く」(4日朝刊)の歴史学者加藤陽子氏・川島真氏の対談、「小樽商大生と記者座談会」(11日朝刊)は、新鮮な視座を提供して、時代の変化をそれぞれの立場で実に的確に指摘している。特に昨年の衆院選での出口調査の経験から時代を読みとる若い感性に、メディアは大いに学ぶべきではないか。対談では説得力ある史料公開の重要性を語っていたが、モスクワ・ロンドンからの「北海道の独立・英米が警戒」(5日朝刊)、冤罪根絶を語る「徹底した証拠開示を」(18日朝刊)にもあるように、「情報公開」により時代認識を変え、新しい方向性を見出せる。モスクワからの記事は、昨年5月の連載「シェワルナゼの証言」とともに興味深かった。

 新政権誕生によりメディアの自由度は高まり、政権・検察ばかりでなく、権力とメディアの新たな緊張関係が生まれて、本来の監視機能が問われる。情報文書は国民のものであり、「情報公開」への扉を是非こじ開けて頂きたい。         

 特集「多極化すすむ世界」(18日朝刊)は、寺島実郎氏の枠組み論議の構想力が際立つ。軍事同盟としてだけの日米関係は片肺であり、21世紀の日本の安全保障という視点から、日中米関係、及びグローバル社会での気候変動等、日本の果たすべき役割の企画も期待する。「COP15に参加して」(7日夕刊)は、全員参加型秩序の時代とはいえ衝撃の結末で、結果的にG8・G20の枠組みでも間に合わない「転換期」を印象づけた。

 経済分野では経営破たんとなった日本航空の会社更生法適用、すでに十数年前から利用者としてその体質を感じていた私は他社を選択していたが、今回は膨大な税金投入による再建で、納税者として注視せざるを得ない。「信奉者多い起業家」(14日朝刊)、この時期に日航CEOに就任した稲盛和夫氏の「覚悟」と「勇気」に対して、この程度の記載では全く物足りない

 一方北海道との関係性で、「地域主権改革勝負の年」(6日朝刊)が具体的で分かりやすかった。同じく地元に根付いた地道な活動の連載「変える変えたい2010」(3-9日朝刊7回)は、キーワードの解説も毎回コンパクトに含まれて、担い手達の力を実感した。

 未来は予測するものではなく創り出すものであり、激変期にありながら「従来型」の視座に固執では感動はない。特に「東アジア共同体」構想の国際社会での意味、4つの密約等について、編集には座標軸と原点を示す「覚悟」と「勇気」を期待したい。

——————-

  判決後の記者会見で西山さんがおっしゃっていましたが、この判決は「情報開示に対する『革命』だ」と。昨年の政権交代後、時代は少しずつ変わってきているのでしょう。メディアの情報開示に対する姿勢も転換して貰いたいものです。

 

何なんだ、日本のメディア!

Posted by 秋山孝二
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  昨日の鳩山首相の施政方針演説を、メディアは「13,600字」、「いのち24回?」と報道していましたが、何ですか国民をバカにしたこのメディアの報道姿勢は!

 昨年の選挙で政権交代となった後のマスメディアの姿勢は、一層目を覆いたくなる見識の低さだとは思いませんか。場当たり的沖縄の米軍基地問題、検察からのリークに依拠するフライングの常習化、単なる騒ぎ屋へなり下がったかと思いきや、今度は自国のリーダーの演説をその内容ではなく、またゾロ、斜に構えての1面の見出しと記事。国民を最もないがしろにしているのはマスメディアではありませんか。「あなた達には明日は無い」ですね。

 今を生きる私達には、それらに代わるメディアが実に多様に存在します。真面目な月刊誌、市民メディア等は、インターネットという手段を媒介に、迅速に正確にそのまま明らかにします。時には優れた論文の掲載も行いますね。最近注目した幾つかを記載します。

 まずは、岩波書店月刊誌「世界2月号http://www.iwanami.co.jp/sekai/2010/02/directory.html」の特集、「普天間移設問題の真実」です。21世紀の日本の安全保障を軸に、新しい日米関係の確立に関して、大変見識のある論文の数々です。

次は、検察とメデァアについて二つ注目しました。

http://diamond.jp/series/uesugi/10110/

http://toriiyoshiki.blogspot.com/2010/01/blog-post_21.html

お二人とも大変な勇気の持ち主だと思いますし、日本のメディアの現状をよくご存じですね。こういった現状に蓋をする「マス・メディア」こそが、旧態依然のままで、、改革をする勇気のないひどい姿を露呈しています。

家族の絆、「浦崎信子をめぐる人たち」

Posted by 秋山孝二
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 昔、テレビドラマで「ルーツ」http://www.superdramatv.com/line/roots/という番組がありましたね、そうです、クンタ・キンテの物語です。家族のよって来たる所以を明らかにする事は、今を生きる人間の立ち位置を明確にします。経営者の最大の喜びは、ビジネスを通して沢山の素晴らしい方々とお会い出来る事であり、ここでご紹介する浦崎さんも私の尊敬する経営者のお一人です。

ご親族がそのルーツを丹念に時間を掛けて調査し、部外者の私にも、たくましく生きた時代、とりわけ沖縄・与那国・鹿児島・福岡のあらたな歴史の軌跡を知りました。まさに激動の中を、地域社会での確かな担い手としての証し、それぞれの「家系図」を根気よく追跡する事により、脈々と続く家族の絆に感動致します。そう子供たちを育てた親たちの世代のしっかりした教育にも敬意を表します。

平成17年4月1日発行

平成17年4月1日発行

この本の表紙を飾る与那国富士と呼ばれる「宇良部岳」、そして浦崎さんのあとがきも印象的でした。「母・信子のルーツ尋ねに始まるこの作業を経て、祖父と母、そしてふたりをめぐる人たちについて書いたが、いつの日か、父の足跡や私どもに大きな影響を与えた兄の足跡についても書き残せたら、と密かに念じている。また、若い親族の皆さんが、この小冊子に接して、自分の生まれ、育ちについて思いを深め、さらに自分と先祖について究めることができたら、望外の喜びである。・・・」

これを読まれる次の世代への期待も膨らみますね。起業してから短期間で株式公開を成し遂げて経営を担ってきた方と、こういうテーマでお話が出来る事、それ自体が私にとっては大変幸せでした。ほぼ同時代をこれまで生きながら、かなり違った人生の歩みにも大変興味いものがありました。貴重な本をお送り頂き、心から感謝申し上げます。