特集 HAWAII 2017 (1)

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comments: 0

 JTB企画の「プライド・オブ・アメリカで航くハワイ4島周遊クルーズ10日間(http://ebook.jtb.co.jp/book/?A2212#3」、四島巡りは天候にも恵まれて素晴らしい旅となりました。

 この船「プライド・オブ・アメリカ」は、1966年設立の「NORWEGIAN CRUISE LINE(NCL)(https://www.ncl.com/jp/ja/」所有、就航が2005年7月、総トン数が80,439トン、乗客定員は2,186名、乗組員数917名のアメリカ船籍の客船です。これから何回になるか分かりませんが、「特集 HWAII 2017」と題してご紹介致します。

* プライド・オブ・アメリカ号 https://www.ncl.com/jp/ja/cruise-ship/pride-of-america

ハワイ島コナ沖の停泊中のPOA

ハワイ島コナ沖に停泊中のPOA

上部にはサンデッキ、プール、ジャグジー

上部デッキにはサンデッキ、プール、ジャグジー

船首横

桟橋に停泊中、船首横

船内・デッキ5のフロントデスク&ロビー

船内・デッキ5のフロントデスク&ロビー

 この企画、実は数回チャレンジしても実現せず、今回4回目で。札幌からのハワイアン航空直行便でかないました。私にとって船旅と言えば、大きく以下の2回の体験があります。今回はこれまでで一番大きな船でしたが、今、世界中で就航しているのはさらに大型の22万トン級と聞いていますから、時代は変わってきていますね。もう一つ、今回は「ハワイ四島巡り」、私にとってはハワイの思い出は奥深いものがあり、最初は1971年の北アメリカ一人旅、それから新婚旅行、そして「JAIMS(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=18767)」での6か月研修等、人生のエポックメイキングな場となっています。

 1971年に横浜から乗った船は、1848年に設立された「アメリカン・プレジデント・ライン(APL:http://www.apl.com/wps/portal/apl/apl-home/about-us)」の船舶「プレデント・クリーブランド(http://yelec.web.fc2.com/ELEC8-2/ship/President-Cleveland/President-Cleveland.htm」で、アメリカで1948年に建造された16,000トンの貨客船。

 2012年に小樽港から乗った船は、運行会社「ロイヤル・カリビアン・インターナショナル(RCI:http://www.royalcaribbean.jp/cruise/rci/info/contents.do?contentsId=8)は、1969年に設立された世界最大規模の客船会社で、本社は米国マイアミにあり、2011年11月現在22隻の客船を保有しているそうです。船舶は「レジェンド・オブ・ザ・シーズ:http://www.royalcaribbean.jp/cruise/rci/ship/ship_detail.do?classCode=VI&shipCode=LG」、1995年就航の70,000トンの客船。しかし、残念ながら、2011年3月11日の日本での大震災、その後の原発事故による放射線の影響を考慮して、この時のクルージングを最後に、日本の港に寄港することはないとのことです、あまり日本では報道されてはいませんが。

’71 北アメリカへの一人旅

http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E5%8C%97%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA

* 小樽港から日本海へ

http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E5%B0%8F%E6%A8%BD%E6%B8%AF

ブログ、1,000本目です!!!

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comments: 0

 2008年10月16日から始めたこのブログ「秋山孝二の部屋」が、今回、めでたく6年目で1,000本を迎えました。量の問題よりもまずは良く続いたなと、率直に思います。

深まりゆく秋・札幌 2014

深まりゆく秋・札幌 2014

 スタートは、ちょうど「G8北海道洞爺湖サミット(http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/summit/toyako08/」が終了して、リーマンショック直後でした、何か残したいなとの自然な気持から。

 第一回はこちら――> http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=24

 最初は何も分からずにおっかなびっくり、ただただ文字だけを書き連ねていましたが、読まれた方が「写真もあったらいいね」とおっしゃったので、6か月経って初めて写真を挿入してみました、その第一回がこちら――> http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=799

 「予めのカテゴリー分けもままならず、最初からしばらくはアトランダムに垂れ流しになりますが、そのうちに整理していこうと思っています。取りあえずスタートを前に、『決意表明!』です。」と始めたのですが、今もってカテゴリー分けもできずに、垂れ流しです。途中、一時「コメント可」にした時期もあったのですが、スパムがひどくて今は「不可」にしています。ただ、Facebookも途中から活用し始めたので、時々はそちらにも投稿したり・・・。この6年間でインターネットの世界は格段に拡がり・奥行きを見せていますね、同時に少々忙しくなったりもして・・・。

 Facebookはメッセージのやり取りのスピードがかなり速く、ある環境系のオピニオンリーダーは、「内圧が上がらない内にアップするので、思考が浅くなるような気がします」とおっしゃっていましたが、私も全く同感です。ロジック以前の反射・反応のレベルでメッセージのやり取りが成立している、ノリのいい方向き(?)、そんな場と感じられます。

 自分のブログの中で、私的に「連載」で気に入っているものは以下の二つでしょうか。

* 愛生舘の「こころ」

http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E6%84%9B%E7%94%9F%E8%88%98%E3%81%AE%

’71 北アメリカへの一人旅

http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E5%8C%97%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA

 この間、「2011.3.11」が起こり、原発事故報道ではマスメディアへの不信でいっぱいでしたが、私はブログのお陰でインターネットの大海から検索機能で世界の知恵と出会う機会も多く、かなり正確な状況を把握できました。関西の新聞社の方、メディアの方から「写真を使わせて頂いて宜しいでしょか」とか、検索でアクセスし、引用で使って頂いた時もありますし、ご連絡がありその後も何回もお会いしている方もいらっしゃいます。一方、私の場合は未だにありませんが、特定のブログへのヘイトスピーチ、品の無い誹謗中傷も頻発し、情報社会の裏面、社会の病んでいる様子も垣間見ます。

 いつまでとか、出来るだけ長くとか、何も特段の目標は持ち合わせてはいません、自然体で書けなくなった時には静かに消えたいと思っています。今では書くことが「日常」になっているので、それまではお時間のある時にご覧い頂ければ大変嬉しいです、これからもよろしくお願いします!!

‘71 北アメリカへの一人旅 (5)

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comments: 2

 気がついてみると、もう7月です。昨夕、W杯サッカー岡田ジャパンが日本に戻り、記者会見の様子も昨晩・今朝のニュースでみましたが、岡田武史監督の心配りと懐の深さに、あらためて感動致しました。徹頭徹尾選手を主役に位置づける姿勢に、彼のリーダーシップと選手たちのフォロワーシップを感じました。最後まで素晴らしいパフォーマンスに感謝です!

 この表題シリーズの第一回目(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=2626)で私は、太平洋航路・APL(アメリカン・プレジデント・ライン)所属、「プレジデント・クリーブランド号:http://teikisen.blog84.fc2.com/blog-category-166.html」に乗船して、横浜大桟橋からハワイ・オアフ島ホノルル経由でサンフランシスコに行った、と書きました。

 当時は丁度、ボーイング747(ジャンボジェット)機が就航して間もなくで、人々の関心が大型旅客機に集まっていた時でしたが、「時間のある今、是非、船で太平洋を渡る経験をすべき」とアドバイスしてくれた方がいらっしゃいまして、貨客船の旅となりました。料金的には、片道では若干船(二等船室)の方が安かったような気がします。船旅は等級が厳格で、一等と二等ではデッキも食堂も全く別でした。ハワイで一時船を下りる時に、それまで船内では見なかった一等船客のインド人大富豪一行と初めて出合いました。

 一日が23時間、8日間でハワイ・オアフ島ホノルル港ピア10に到着、ここはあの1941年12月8日未明の日本海軍奇襲攻撃、真珠湾(パールハーバー)からもすぐ近くでした。入国手続きはここで行われるので、事前情報として、「怪しげで貧乏くさい人は、入国管理官から滞在期間を多く貰えない」と聞いていましたので、髪はしっかり分けて髭を剃り、下はバミューダ、上はスーツジャケットにネクタイという不思議な出で立ちで、着席の係官の前に向かったのを鮮明に覚えています。作戦は見事に成功し、6か月間の長期滞在日数を貰いました。

 横浜を出港してすぐ、台風を避ける為に予定航路から南下したので、丸1日余計にかかりました。遅れも半端ではありませんね。台風接近時は、船が数メートルも繰り返し上下し、部屋の丸い窓には鉄製のふたがはめられて緊張感も高まり、更に狭い室内は一晩中きしむ音で寝られませんでした。20数年前のアリューシャンもこんな海だったのかと、キスカ撤退作戦(http://ww31.tiki.ne.jp/~isao-o/battleplane-16kisuka.htm)に旗艦「阿武隈」の通信長として従事した父を思い出し、北と南の違いはあれ、「太平洋の嵐」を実感した貴重な体験でした。

アルバムから:台風接近の海上で

アルバムから:台風接近の海上で

 ホノルル一泊の後に、サンフランシスコに向けて出港しましたが、こちらは一転して気温は低いのですが穏やかな(退屈な?)海が続きました。一週間後の早朝にサンフランシスコ金門橋の下をくぐり、ベイブリッジを通過して湾の奥の桟橋に到着でした。朝もやの金門橋のライトとサンフランシスコのマチの灯を船のデッキから眺めた時、感動というよりも「アメリカに来てしまった」みたいな、震えのくるような不安な気持の方が強かったような気がします。

 一方今年1月に、幕末史研究会に参加した時、「咸臨丸子孫の会:http://www.kanrin-maru.org/」の方々とお話をする機会がありました。今年は咸臨丸が太平洋を渡って150周年の記念すべき年であり、自分たちの祖先が勇敢に太平洋を渡って、生きて帰って来たからこそ今の自分たちがある、そんな趣旨の自己紹介を聞き感動しました。咸臨丸(http://www.d9.dion.ne.jp/~senaun/pageBT11.html)は、アメリカから戻った後も、北海道とは大変縁の深い歴史を辿っています。そして更に、その研究会・交流会で、榎本武揚さんの曾孫で東京農業大学客員教授の榎本隆充さんとお会いして、リアルなお話を聞くことが出来て、幕末維新を身近に感じました。

 4月下旬に、榎本さんから、今度は「開陽丸(http://www.h6.dion.ne.jp/~kaiyou/)子孫の会」総会で、青山学院大学の片桐一男先生が特別講演をされる旨の連絡があり、1月に続き片桐先生のお話を伺いました。1月は「勝海舟と坂本龍馬」、今回は「榎本武揚と開陽丸」、いずれも幕末維新の激動期を生きた人々ですね。開陽丸も北海道とは縁が深く歴史に刻まれています。

 そして先日の「大和ミュージアム:http://www.yamato-museum.com/concept/」、何か今年は「船」、「太平洋」、「日本海軍」、「歴史」の縁が続き、ついでに私の太平洋横断の記憶もたどることができました。

 この2週間の船旅で、多くのカルチャーショックを受けた体験は、今も私の宝となっています。

‘71 北アメリカへの一人旅 (4)

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comment: 1

  一人旅での人と出会いは、時として砂漠の中のオアシスのように印象深いですが、長い年月を経ると次第に記憶も薄れてきます。そんな時に当時の写真が残っていると、辛くもその場面を頭の隅に留めてくれるから有り難いですね。

 そんな中で今でも鮮明に覚えている幾つかを書き留めましょう。最初の出会いは、横浜からハワイ・オアフ島経由サンフランシスコ行きの貨客船の中、アメリカ人ジニーです。まだ中学生くらいの女の子でしたか、船上で誕生日を迎えて数人で「ハッピー・バースデー」の歌でお祝いをしたような気がします。次がグレイハウンドバスのサンフランシスコからロスアンゼルス行の車内で、メキシコ系の男の子です。名前は忘れましたが、休憩のバス停で撮った写真がこれです。なぜかこんなポーズを自然に取ってカメラに収まりました。英語はほとんど通じなかった記憶があります。

シスコからロスのグレイハウンドで

シスコからロスのグレイハウンドで

  続いて記憶に鮮明なのは、アメリカンインディアンとの出会いです。バスは確かワイオミング州辺りだったかと思いますが、まずは体の大きい60歳くらいのおじさん、トーマス・ホワイトベアさん。アメリカンインディアンの歴史と言葉「ハオ・ニジ!(やあ、こんにちは)」を教えて貰いました。彼が別れ際に握手した時のグローブのようなごつい大きな手は忘れられません。もう一人名前は忘れましたがアメリカ・インディアンの当時同じくらいの女性でした。席が隣になり少しの時間でしたが、日本の説明を一生懸命した記憶があります。彼女は理解したのかどうか、ずっとケラケラ笑っていましたね。

 ニューヨークからカナダ・モントリオールまでのバスの便では、夜に終点のモントリオールに着く手前からはお客が私一人になり、運転手さんが「前においでよ」と言って、ずっと話をしていました。そして市内に入るとルートを変更してバスステーションではなくて直接バスの車庫に入り、そこから一緒に遅い夕食に行きました。彼は私に家族の写真も見せて、「これからも元気でよい旅を!」とYMCAまで送ってくれました。

 カナダでは秋も深まっていて、すでに気温もかなり下がっている時期でした。観光地でも有名なバンフで車道を歩いていると、下の写真にあるイギリス人に出合いました。名前は忘れましたが、日本人と知ると「日英同盟」の歴史も関係するのか(?)、大変親しく話しかけてきて、初めて会ったような気がしませんでした。

カナダ・バンフで英国人

カナダ・バンフで英国人

 更に別れた後に帰り路を歩いていると、トラックを運転する現地の夫婦が声をかけてきて、特にヒッチハイクをした訳ではないのですが、バンフ市内まで私を乗せてくれました。アメリカとは違った人の心の「優しさ」に、カナダの雄大な自然とともに感動したひと時でした。

‘71 北アメリカへの一人旅 (3)

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comments: 2

 一人旅をされた方は良くお分かりかと思いますが、旅の道中での人との出会いは、良くも悪くも印象に残るものです。一人気持が沈んでいる時には予期せぬ会話で大いに励まされ、或いはとんでもない状況の中で恐怖を感じる場合もあったりと。今年の冬季オリンピックが開催されたカナダ・バンクーバーという名を耳にすると、私は忘れられない旅の思い出があります。良いのか悪いのか、「不思議」という表現が一番ぴったりですね。勿体ぶるわけではありませんが、それを語る前に二つほどのストーリーを紹介しておかなければなりません。

 その1) この旅行、宿泊はYMCAが多く、大きな都市の施設では男性用フロアーと女性用フロアーがはっきり分かれていました。サンフランシスコのYMCAでは女性用フロアーとは知らずに(本当に知らずにです)歩いていて、ガードマンの大きな男に退去させられました。東海岸フィラデルフィアのYMCAだったと思います。路線パスで到着してチェックイン、その後部屋の外にある共同シャワー室(となりとの仕切りも何もなし)から帰って少しすると、部屋の電話が鳴りました。男の優しそうな声で「How are you?」に始まり、私の名前を聞き出し、それ以来「Koji」のはずなのになぜか「Kijo」と発音してしばし会話の後、私の部屋にやって来ました。アラブ系の若い大柄な男で、今では何を話したかは覚えてはいませんが、何回も「Kijo」を繰り返し部屋を出ていったのです。ここは、ただそれだけです。

 その2) 2週間後位でしょうか、ボストンの有名な公園、「ボストンコモン:http://www.cityofboston.gov/FreedomTrail/bostoncommon.asp」の池のほとりで、秋の昼に一人でベンチに座っていると、「・・・・boy?」とか何とか言って横の方から近づいてきた中年の黒人男性がいました。私は突然ではあり、咄嗟に「I am a boy!」と訳のわからない返事をした所、私の隣に座り、にじり寄ってくるではありませんか。私はその場を離れましたが、その瞬間は今でも忘れられません。周辺にはかなりの人がいた様な気がします。

 その3) そして、いよいよバンクーバーです。旅も2ヶ月半を過ぎて北アメリカ大陸を東から西へ、カナダを大陸横断バスで移動しながら、西海岸のバンクーバーまで到着。大陸を往復した高揚感と、カナダの雄大さに感動していた自分がいます。市内の有名な公園、「スタンレーパーク:http://vancouver.ca/PARKS/parks/Stanley/」で、晴天の日中に一人何となくベンチに座っていると、30歳前後の白人男性がニコニコしながら近寄ってきて、自然な話で楽しく会話をしていました。すると「もし良かったら、自分の家に来ないか?」と言われ、過去の経験もあるので、「もしや?」と思いはしましたが、多少の好奇心もあり車に乗って橋を渡り、高台の一軒家に一緒に行ったのです。家のリビングルームからは海も見えて、しばし日本の話とか、久しぶりに会話らしい会話で過ごしていると、しだいに彼(?)がソファーの私の横に近寄ってきて、何やら耳元で語りかけてくるではありませんか。これも経験かと、暫くリスニングのテストのようによく聞こえる英語を聴いていましたが、やはり自分の人生を考えて(?)、「I have to leave now !」で立ち上がりました。彼は変わらぬ優しい笑顔で分かったという感じで、私と最初に会った公園の場所まで送り届けてくれましたよ。私は立ち上がる時、ピストルか何かでも出てくるか、或いは多少の格闘も覚悟はしましたが、そんなことも無く公園に戻り、「不思議な体験」としてバンクーバーの名前とともに、今でも遠い記憶に残っています。

 その後、バンクーバーには数度行く機会があり、今ではそれ以降の新しい思い出に上書きされている部分もあり、時の流れを感じています。たわいの無い話、ここまでお読みいただいた方には、心から感謝致します。

‘71 北アメリカへの一人旅 (2)

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comment: 1

 第一回目で、「いつまでという予めの計画もなく、2・3人のアメリカに住む方々の連絡先と、ただ一人だけに訪問する旨を伝えていた以外は全くの行き当たりばったりで、・・・」と書きました。計画は無かったのですが、別に漂流していた訳ではありません、目的は持っていました。連絡先を貰ったアメリカに住む方のお一人は、ロスアンゼルスの日系二世Nさん。私は直接お会いしたことはなく、日本でお世話になっていた方の遠縁にあたる方でした。沢山の貴重なお話を伺った記憶があります。アメリカの日系人の方々のご苦労は、別の機会にしっかり書き留めたいと思っています。

 「ただ一人だけに」というのが、写真の女性M.Lです。日本に留学している時に札幌で会い、彼女とのやり取りで英会話の魅力を初めて知りました。違う世界が一気に拡がるというのか、「活きた英語」というのか、思いっきり表現出来ない苛立ちも同時にありながら、新しい世界に入るきっかけを貰いましたね。1年間の留学の後にアメリカに戻り、当時彼女はニューヨーク州オスウェゴ市にある州立大学の学生でしたhttp://www.oswego.edu/about/index.html。キャンパスの裏には五大湖の一つ、オンタリオ湖畔が広がっている素晴らしい景観の大学でした。ご承知のように、「ニューヨーク」と言った場合、「State」と「City」で場所が違います。いわゆる「9.11」のあったのは「New York City:NYC」です。

40年前、州立大学キャンパスで

40年前、州立大学キャンパスで

 この旅では、大学キャンパスで3日間程、一か月後に彼女の自宅のある小さな町で3日間程それぞれ滞在しました。現在二人の男の子の母で、今はバーモント州で暮らしていて、プロの画家・教室・ユニークな芸術品作成を続けていますhttp://www.meryllebowitz.com./bio.html。、数年前に上の子・ベンジャミンがガールフレンドと共に東京に来た時、私の長男を含めて昼食を一緒にしました。ガールフレンドが根っからの「ベジタリアン」で、日本食の「鰹だし」もダメとのことで苦労しました。お店の方によると、その様な場合は前の日までに言うと「昆布だし」に代えて出せますとのことでした、昨今のお店も対応力が問われているのですね。

 今、思い出しました。当時大陸をバスで移動していた時、宿泊先のYMCA館内でも、ラジオから流れていたのが’Mamy Blue (http://www.youtube.com/watch?v=nwVfci-YtMM&feature=related)’ でした。当初は曲の題名も分からず、その名を知ったのはずっと後ではありました。

 

‘71 北アメリカへの一人旅 (1)

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comments: 6

 先日の早稲田大学での上映会、後日掲載予定の「新渡戸国際塾」のフォーラムで、それぞれ若い方々がご自身の学生時代にヨーロッパ、アメリカに一人旅をされた経験を語り、その時の体験が後に大きな糧になったお話を聴いていて、私は永い間思い出すことのなかった19歳の時の「北アメリカ一人旅」を振り返るきっかけを得たような気がします。

 今からほぼ40年前、1971年9月10日、私は横浜港大桟橋からAPL(アメリカン・プレジデント・ライン)の貨客船プレジデント・クリーブランド号で、ハワイ経由で取り敢えずサンフランシスコを目指しました。大学の2年間(教養課程)を終了して休学届を出し、それ以前からホテル等でのアルバイトで貯めたお金を持っての出発でした。いつまでという予めの計画もなく、2・3人のアメリカに住む方々の連絡先と、ただ一人だけに訪問する旨を伝えていた以外は全くの行き当たりばったりで、不安でいっぱいでした。今考えると「勢い」というか、当時のしがらみのなさが自分の背中を押してくれた、それまでの19年間に何か区切りをつけたいみたいな、そんな気持ちだったのかもしれないですね。

 これから何回掛かるか分かりません。時間のある時にこの旅を思い起こしてみようかと、展望もなく初回をスタート致します。この旅ではほぼ毎日日記をつけていたのですが、今どこを探してもそれが見当たりません。ただほんの少しの写真はアルバムに残っていますので、それを手立てに思い出せれば良いのですが・・・。

APL:貨客船プレジデント・クリーブランド号

APL:貨客船プレジデント・クリーブランド号

 なんだかんだで結局はこの旅行、私は12月20日に日本に戻って来たのです。北アメリカ大陸(アメリカ・カナダ)では全て当時人気のあったグレイハウンド・バス(Greyhound Bus:http://www.greyhound.com/home/en/NewBuses.aspx)を使ってで、辿った道筋は大陸横断2回を含めて、下の地図の黒線となりました。