映画「キャタピラー」の迫力!

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  若松孝二(http://www.wakamatsukoji.org/blog/)監督、映画「キャタピラー:http://www.wakamatsukoji.org/」は大変な迫力でした。すでにご承知のように、寺島しのぶは、2010年ベルリン国際映画祭コンペティション部門・銀熊賞最優秀女優賞を受賞しています。み終わって、夫役・大西信満(しま:http://www.stereosound.co.jp/hivi/detail/feature_843.html)にも何か賞を差し上げたい気持です、「ド迫力」とはこのことでしょうね。久しぶりにスクリーンの映像に釘づけになりました。

 ちなみにベルリン国際映画祭は、ドイツのベルリンで毎年2月に開催される国際映画製作者連盟 (FIAPF) 公認の国際映画祭。カンヌ国際映画祭(http://www.festival-cannes.com/jp.html、ヴェネツィア国際映画祭(http://www.labiennale.org/it/Home.html?back=trueと並び、世界三大映画祭のひとつに数えられています。

 ラストの歌、元ちとせ(http://www.hajimechitose.com/)の「死んだ女の子:http://www.youtube.com/watch?v=EmsRNQ57f1M」も実に素晴らしい。この歌は坂本龍一がプロデュースを手掛け、原爆投下から60年にあたる2005年8月6日に広島の原爆ドームの前で行われたパフォーマンスで一躍有名になり、今回主題歌に取り上げられたとか。どちらも個性あふれるメッセージに打たれます。

寺島しのぶの迫力

寺島しのぶの迫力

  若松孝二監督は、学生時代から同じ「孝二」で気にはなっていましたが、当時は何となく暑苦しく、独善的な印象という思い込みも私にあり、作品もほとんど見てはいませんでした。2年前の彼の作品「実録・連合赤軍あさま山荘への道程:http://www.indierom.com/dengei/secret/gin_navi/48.htm」は、そんな私の思い込みを払しょくし、同時代を生きた私に違和感なく染み入りました。そして今回のこの「キャタピラー」、映画祭の賞を取った話題作だからではなく、戦争の現実、生き残って祖国に戻った人間・家族の苦しみみたいな新しい切り口で、今を生きる人間への痛烈な問題提起でした。正義のための戦争などないという若松監督の強い思いは十分伝わってきましたし、狭い薄暗い部屋での胸に突き刺さる夫婦の会話から、「生きる」、「生きている」ことの現実も明快でした。

 映画を封切直後に観た知人は、2時間前に行ってもかなり混んでいたと言っていましたので少々心配しましたが、先日は何とか待ち時間も無く観ることが出来ました。ただ、観る側の体調も万全にしておかないと、強烈なメッセージを受け止めきれない気もしました。とにかく、「映像の力」を感じた凄い映画でした。

もう一つの25周年記念

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 秋山物流サービス(株)(http://www.suzuken.co.jp/company/group/info02.html)の創業25周年記念社員大会が札幌で開催され、ご招待を受けて出席しました。CSRの一環で秋山財団にも記念寄附を頂き、感謝に堪えません。

 この集会は、 川口敏史・新社長が新しく就任し、新体制のキックオフの意味も含めて、160名を越える社員、スズケン本社(http://www.suzuken.co.jp/)幹部、スズケンロジコム(http://www.suzukenlogicom.com/)幹部が一堂に会して、大変気迫の溢れる雰囲気でした。私にとっても久しぶりの「企業系モード」で、30分程お祝のメッセージも述べさせて頂きました。これまでの25年間を振り返ると、当日直前まで次から次へとたくさんの想い出が私の頭を駆け巡り、この間創り上げてきた価値の大きさを再確認した次第です。

私の伝えたかったメッセージは以下の通りです~~~

 * 25周年お祝い――過去を懐かしむだけでは、ただの「ノスタルジア」

 * 2002年11月に私はスズケン退社:以後も気持は常にスズケングループとともに

 * 「物流」への着目:スズケン社内報8月号「SMILE」――構造改革:MS力と物流力で勝負する

           川口社長は「物流管理・企画力とお得意さまとの信頼関係」
           私は蘇る記憶:医薬品卸業の「安定・安全供給」―――差別優位性ある機能
 
 * これまでの功労者: 最初に井戸を掘った人は誰か?

       ――’85 (有)総健物流 旭運輸武田社長ご夫妻 

       ――’91 秋山物流サービス(株)としてステップアップ

           大成建設エンジニアリング部(http://www.taisei.co.jp/index.html)木村さん、井上さん他

           :「配送効率」、「積載率」、「ABC分析」等

       ――猪股淑郎さん:組織基盤の整備、社員のモチベーション向上

 

 * 「愛生舘」のこころ: 愛生済民――広く庶民の生命をいとおしみ、いのちを救うこと

 
 * リーダーシップはフォロワーシップがあって初めて発揮されること

 

~~~~~~~~~~~

 「会社のあゆみ」を説明された村上理恵さんは、冒頭に25年前に大曲の物流センター建設着工直前、三代目秋山康之進が日記につづった文面を引用して、「物流」の原点を見つめ直す素晴らしい内容でした。

 

 スローガン表彰で今年度「最優秀賞」に選ばれた苫小牧の西島さんも、センスの良さとストレートなメッセージが印象的でした。「基本」がキーワードでしたでしょうか。今、契約社員・パートを含めて全道合わせて460名にもならんとする大所帯、新しい川口社長の陣頭指揮の下で、更なる飛躍をしてくれると期待しています。

 

 久しぶりにお会いした若いスズケン本社幹部のみなさま、難しい時代ですがどうか「勇気」を持って思いっきり活躍して下さいね。あなた方ならきっと成し遂げられますし、この業界、スズケングループの他に誰がやり遂げる力を持っているでしょうか!今日、沢山の元気をくれた皆さまに、心から感謝申し上げます。 

 

愛生舘の「こころ」 (12)

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 秋山財団の設立25周年プレ企画講演会(http://www.akiyama-foundation.org/what/index.php?year=2010&mon=08&day=06#27)で、「幕末・維新、いのちを支えた先駆者の軌跡~松本順と『愛生舘』事業~」と題して、青山学院大学名誉教授・片桐一男(http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/%95%D0%8B%CB%81@%88%EA%92j/list.html)先生が大変興味深いお話をされました。当日配布された資料も極めて貴重なものばかり、もしご必要な方は、秋山財団事務局までご連絡頂ければ、折り返し郵送か、PDFファイルでメール添付致します。

年譜を含めて全8枚の貴重な資料

年譜を含めて全8枚の貴重な資料

  1年半前に今回の講演を依頼して実現しました。素晴らしい内容で、あらためて「松本順」の波乱の人生を追いかけることが出来ました。当日会場には、自然科学系研究者の方々も多かったのですが、古文書を一字一字読み解いていくアプローチは、大変新鮮な印象を受けたと口々に語っていました。人生そのものへの興味を持った方のご参加は勿論大変嬉しいのですが、理系研究者と日頃接することの少ない人文科学分野との出会いも今回目論んだ意図でしたので、意義があったのかと喜んでいます。

 片桐先生は冒頭、「世界の中で新しい国家建設が迫られている時期、必要とされていたのは『海軍力』で、それも緊急性を帯びていた。日本が独立国家として成り立っていく思想・技術、そしてそれを担う人材、すなわち『体力』をつける目的で長崎海軍伝習があった」、とおっしゃいました。そもそも蘭学が江戸時代に静かに研究されていたのは、北方ロシアの東方進攻・南下の脅威に対してその対抗的思想・哲学の必要性からと、先生から伺ったことがありました。

 以前にも書きましたが(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=1096)、その第二次海軍伝習(実質的な「医学伝習」)で松本順は中心的役割を担いました。ポンぺからのオランダ語を介した伝習を、集まった全国各藩の弟子たちに伝えることで、それ以降の近代医学・医療の基礎を築きました。

 松本順の功績のまとめとして

1) 持って生まれた資質を生涯を掛けて伸ばし続けた:ポンぺの伝習から総合的技術を取得、実践――野戦病院・衛生思想等

2) 人との出会い、ポイント3人:松本良甫(ポンぺからの伝習)、山県有朋(陸軍病院等の基準策定)、高松保郎(愛生舘事業)

3) 彼のしなかったこと:オランダに留学等で行かなかった、制度が出来るとバトンタッチ・チャンスの移譲

4) 彼の目指したこと:庶民への眼差し「愛生済民」――愛生舘三十六方、衛生思想の徹底、アジア・世界の体力向上

5) 彼の日常生活――身の回りをいつも「楽」にしておくこと

 最後のまとめで、片桐先生は、「松本順の活きた人間像が把握されていない、激動の歴史の中で埋もれていた原因は、激変する維新から明治時代では文字を通してのメッセージの伝達が難しかったのではないか、それは庶民の教育レベルが江戸時代よりもむしろ劣化していたことを意味している」、と看破されていました。

 牛乳の効用、海水浴の普及等、今では常識になっている健康増進・普及に関して最初の井戸を掘った人物、それが「初代陸軍軍医総監」等の評価以上の歴史的意味を、彼の人生から読み取ることが出来るのでしょう。

 翌日、私の手元に「松本順と北海道」という3部にわたる小論文を届けて頂いた札幌在住の医師・宮下舜一先生とお話をしました。講演会にもご出席頂き、先生の論文には、何と明治24年6月に、松本順が北海道(函館・小樽・札幌)に20日間程度来ている記録が、小樽では道内に在住していた弟子たちと一緒に撮影した記念写真まで掲載されていました。

 (株)秋山愛生舘が「愛生舘北海道支部」から独立したのが明治24年11月ですので、この時にどこかで初代秋山康之進と再会していた可能性は大変高いと思いました。引き続き調査・研究の必要がありますね、また一つ目の前に解き明かす課題が見つかりました。

 今回、私は片桐先生に敢えて「秋山愛生舘」ではなく、「愛生舘」についてお話をして頂きたいと事前にお願いを致しました。講演会に参加された道内の「シンパ」の方々には、「愛生舘事業をしっかり今の時代にも受け継いできたのは、唯一この北海道の地ではないか、どうしてもっとそれに言及しないのか!」と叱られそうですが、21世紀の今、広い意味で「愛生舘事業のこころざし:愛生済民」の原点回帰を、秋山財団的には記念すべき25周年を機に目指す、そう是非ご理解を頂きたいと思います。

 この講演会をキックオフとして、今後「愛生文庫」を軸とした資料室の創設も企画する予定です。ご関心のある方の率直なご意見もお待ちしています。

富山、話題の「ライトレール」ほか

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  富山はこれまで通過を含めて3回程訪問しています。ただ、いずれもそれぞれの目的の為だけに行きましたので、いわゆる「観光スポット」にはほとんど足を運べずにいました。今回は、言わば初めての観光でしたね。妻のいとこが二家族、富山市内で暮らしていて、それぞれと久しぶりに再会する目的もあり、背中を押してくれました。

称名滝を臨む

称名滝を臨む

  新千歳空港から神通川の河川敷にある富山空港に到着して、すぐに南東の立山・室堂(むろどう)方面を目指しました。富山地鉄立山線・終点の立山駅を過ぎて行くと、「称名滝(しょうみょうだき):http://www.tate-yama.com/travel/syou/syou.htm」を臨む展望台に着きました。その先から滝下までの遊歩道は通行止めでしたので、この展望台からしばし眺めていました。3000メートル級の山々を源流とし落差350メートルの大量の水は、「落差日本一」とのことです。当日は、真夏の渇水期でしたが、それでも滝の水は勢いよく落ちて周囲の空間と共に大自然の迫力でした。見学後の帰り道、ものすごい落雷・雷雨でしたので、一挙に落ちる滝の水・沢の水かさも増していたことでしょう。

 翌日は朝から町なか観光です。富山といえば、今有名なのは「セントラム(CENTRAM):http://www7.city.toyama.toyama.jp/topics/20091208.html」、「ポートラム(PORTRAM):http://portram.zening.info/index.htm」ですね。

 「環状線:セントラム(http://kttri.jp/wadai/?p=412)」は一周25分くらいで料金は一律200円です。正確にはこの路線を「富山地方鉄道富山都心線」と言うようで、市内中心部を一方通行ですが循環しています。時節柄、「おわら風の盆」のラッピングで走っていました。

セントラム「風の盆」ラッピング車両

セントラム「風の盆」ラッピング車両

 今、札幌でも路面電車が延長の方向で検討されていて、「SAPPORP CITY TRAM」の議論が深まりつつあります。先日のある研究会では市の部長が、富山、諸外国の事例等を紹介していましたし、一カ月前の私が属する本府(ほんぷ)連合町内会・役員会では、市の担当課長らが来て、延長について説明しました。ただニュアンスは少し違っていて、札幌オリジナルの「札幌スタイル:http://www.city.sapporo.jp/keizai/sapporo-style/gaiyou.html」にこだわった路面電車の延長を検討中と語っていましたが。私が18歳まで育ったこの連合町内会のど真ん中を、昔から、そして今も路面電車が走っていますので、自ずから関心は高いですね。

 もう一つの「ポートラム」は、正式名称は「富山港線(廃止JR線の再利用)」で、2006年までJR西日本の路線を第三セクター・富山ライトレール(株)(http://www.t-lr.co.jp/)が譲り受けて路面電車化して、ライトレール(LRT)を走らせて話題になっています(http://www.youtube.com/watch?v=Sx71h_16F-U)。バスの乗り換えもホームの向かいで移動距離も更に拡がり、利便性に富んでいます。

JR路線のライトレール(右)と隣接するバス停

旧JR路線を活用したライトレール(右)と隣接するバス停

  ライトレールで富山駅北口から乗ると終着駅「岩瀬浜」に着きます。岩瀬は、江戸時代から明治にかけて、北前船交易での回船問屋が隆盛を誇り、日本海有数の港町として発展しました。今も北前船の文化が香るお屋敷が多く残っています。

北前船・豪商森家

北前船回船問屋・森家

 そう言えば、1918(大正7)年7月22日の夜から始まった「米騒動」は、米の値段が高騰する中、ここから少し東の魚津港での出来事で、北海道へ運ぶ米の輸送を阻止する目的でした。翌月上旬に大阪朝日新聞が、「越中女一揆」と大々的に報道し全国的に知られる所となり、歴史的転換点となりました。米を運んで行った北前船は、帰りは北海道から昆布等の海産物を持ち帰り、それらを使った様々の地場名産品を世に出しました。

 富山は、路面電車、日本海物流と、北海道と歴史的にも深い関係性を感じます。

越中八尾、おわら風の盆

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  「越中八尾、おわら風の盆(http://www.yatsuo.net/kazenobon/)」は印象的でした。毎年9月1・2・3日に開催され、私としては10数年ぶりの2回目となります。「かくも叙情豊かに、気品高く、唄い踊り継がれる・・・」とあるように、笛・太鼓なしの胡弓・三味線のゆったりした「越中おわら節:http://www.youtube.com/watch?v=wfrMDksk8u0」と優雅な踊りは、坂道を夜遅くまで11の地区で続いてました。1985年に高橋治の小説「風の盆恋歌」で一躍全国版になったと聞いています。石川さゆりの「風の盆恋歌:http://www.youtube.com/watch?v=YCwYc0s-Gg0&feature=related」、咲いてはかない酔芙蓉(すいふよう)、のフレーズもいいですね。

有名な灯篭

小路を飾る灯り

 前回はツアーの一員として、観光バスで富山市内からコンパクトに見学。あまりに効率的で「はい次、はい次!」の世界、かえって印象の薄いものでしたね。今回は妻がインターネットで検索して、「エコロの森:http://www.ecolonomori.com」による新しい企画への参加申し込み、滞在時間もたっぷり取っての素晴らしい体験で、代表の森田由樹子さんは札幌出身で親近感もあり、新しいタイプのツアー企画に意欲を燃やされていました。ただ「見て来ましたの消費」ではなく、時間を掛けて初めての人ともお話が出来て、「体験としての資産」となりました。

独特の踊り

独特の踊り

 午後3時くらいから、夕食をはさんで夜10時過ぎまで町なかに滞在し、その間たくさんの場で踊りを楽しみ、一方、長い階段を登って高台の城ヶ山(じょうがやま)公園から町のパノラマ、八尾観光会館(http://www.yatsuo.net/kankou/KAIKAN/index.html)では曳山展示館・カイコの伝統産業等の展示で、歴史的にも町の経済の底力を理解できました。JR越中八尾駅のすぐ前に、現在、店舗を予定している「AGRIひばり」代表・長谷川充さんのスペースを休憩拠点とさせて頂き、長谷川さんは若者の人材育成の場にしたいと今年秋完成後の夢も語っていました。またそこのスタッフでお手伝いをされていた南砺市商工会・利賀村事務所(http://www.shokoren-toyama.or.jp/~toga/)の松岡幸治さんとも、「演劇によるまちおこし」について貴重なお話をすることが出来ました。お忙しい中、感謝致します。

城ヶ山公園から諏訪町方面の展望

城ヶ山公園から諏訪町方面の展望

  札幌に帰ってみると新聞にはこんな記事もありました(http://www.asahi.com/national/update/0903/TKY201009030217.html)。ただ忙しく「観に行く」から不平・不満も出るのでしょうね、その土地の芸術・文化にゆっくり触れる・学ぶ気持が少しでもあれば、旅行会社に文句は言っても、地元の方への批判は明らかに筋違いでしょう。でも多いですね、最近この種の観光客が、「安くて美味いものが食いたい」という都会の消費者(?)みたいな。

 夜中に八尾から50分の山の道を他のお客さんと一緒にジャンボタクシーで移動し、南砺市利賀(とが)村、民宿「中の屋:http://toga-nakanoya.com/index.html」に到着しました。オーナーの中西邦康さんは、「百姓」を続けながら若者の「農的くらし」プランによる体験実習にも情熱を傾け、地元の多くの団体の代表もつとめていらっしゃいます。マスターズ陸上の1500メートル・駅伝でも現役で優勝を重ねて、玄関・居間には数多くの賞状・メダル・写真も掲載されていました。

 家の前には「古代米」、「地元米」、「酒米」が有機栽培で元気に生育中です。有機栽培は今年から挑戦とのことでしたが、長い間の豊富な経験を持った「百姓」でも、技術は全く別物とそのご苦労を語っていました。翌日はゆっくり中西さんの「農への思い」をお聴きしながら朝食、そして近くを散策です。演劇でも大変有名な利賀村(http://www1.tst.ne.jp/togapk/)ですので、関連施設も見学したかったのですが、距離もあり、また次の機会にしました。

八幡宮境内:杉の巨大な御神木

八幡宮境内:坂上・杉の巨大な御神木

  「中の屋」さんから近くの参道を通り、八幡宮境内、「8.4メートルの木の周り」と記されている「坂上の杉の御神木(http://www.hitozato-kyoboku.com/sakaue-oosugi.htm)」に到着です。遠くの山並みも朝日に照らしだされて美しく、清々しい午前でした。昼前に、八尾へ帰る昨夜通った道を戻りましたが、何と何と大変な山道だったことが分かりました。崖あり、湖の横あり、連続のS字カーブありで、随分山を登っていたのです。

 二日間、八尾での夕食、利賀村での朝食では、地元高原野菜を使った料理が大変美味しかったですね。特にみょうが、独特の歯ごたえのある豆腐、手造り味噌による味噌汁、元祖スイカ、とにかく新鮮で素材の味が素晴らしかったです。

 「越中おわら節」、「風の恋盆歌」を聴きながら、八尾の町並み、利賀の山並みを繰り返し思い出すでしょう。森田さん、中西さん、長谷川さん、松岡さん、お会い出来て嬉しかったです。皆さま大変お世話になりました、ありがとうございます!

「棟梁展」、堂宮大工の世界

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  「竹中大工道具館(http://www.dougukan.jp/)25周年記念巡回展:棟梁」が札幌でも開催されました。私の永年の友人・Mさんがメールで「今日午後7時まで」と連絡をしてくれたので、足を延ばしてじっくり見て来ました。

展示会入口で

展示会入口で

  「鍛え抜かれた技と心をもって職人集団を束ね、数百年の風雪に耐える寺院や神社を築きあげる堂宮(どうみや)の大工棟梁。千年の伝統を受け継ぎ、難事業に信念を持って立ち向かうその姿は、変動の激しい現代社会において、より魅力的に映ります・・・」、この棟梁展に寄せて、主催者が挨拶で述べていましたが、まさにその通りの素晴らしい内容でした。

 時代を超えて受け継ぐ「堂宮大工」の歴史的価値と実像を目の前にして、「修行の人生」、「人材育成の極意」等を、西岡常一(http://eco.goo.ne.jp/life/eco/tanbouki/tanbouki021225_2.html)と小川三夫(http://www.city.yaita.tochigi.jp/tannki-keisai/simineiyosyou-taidan-toryo.htm)の活動から知ることが出来ました。

 いわゆる今風の、設計と施工が別れている「大工」の頭とは違い、昔は設計・積算(見積)・施工をすべて棟梁が仕切っていました、「棟梁は何でもやる」ですね。堂宮の棟梁は、技術の伝承ばかりではなく、弟子をはじめ材木屋・石工・建具師・左官・瓦師・葺師など様々な職人をまとめ上げる統率力も必要とされていたようです。

 展示では、時代を超えて建つ歴史的建造物も、一つ一つの地道な仕事の積み重ねから成っていることがよく理解出来ました。原寸図を描く作業、様々な曲線の型板づくり、刃物を研ぐ作業、木組み、そして式祭。技術の軌跡と同時に、歴史と伝統文化を強く感じました。

 最後のコーナーの映像作品では、「唐招提寺・金堂の平成大修理の記録集:http://www.toshodaiji.jp/shuri_gaiyou.html」、「平城宮跡・第一次大極殿の復元工事の記録:http://www.nabunken.go.jp/site/daigoku.html」、そしてつい先月訪問した「函館奉行所の復元の記録:http://www.hakodate-bugyosho.jp/」もじっくり見ました。とにかく、「技術の伝承」を超えた棟梁の実像に感動を受けました。

市ヶ谷台は、今

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  全国的に猛暑が続きますが、防衛省・市ヶ谷台ツアー(http://www.mod.go.jp/j/publication/events/ichigaya/tour/index.html)に参加しました。なぜ今、私がこのツアーに行ったか、それは後日ゆっくり書き留めます。

市ヶ谷に復元:三島由紀夫でも有名

市ヶ谷に部分的に復元:三島由紀夫でも有名

  このツアー、それ程混んではいないかと思っていましたが、事前申し込みをして当日防衛省玄関前に行くと2団体の多くの方々がすでに待機、個人は私だけでしたが、総勢50名以上でしたでしょうか。後でインターネットの検索を見ると、実にたくさんの方々がこのツアーの解説をされていましたので、私はツアー自体の説明は省略します。

 最も印象に残ったのは、やはり部分的に復元された市ヶ谷記念館(旧1号館)の一階、東京裁判法廷現場と、二階総監室でした。昭和45年(1970年)11月25日、三島由紀夫によるバルコニーでの演説(http://www.youtube.com/watch?v=1a4Wy5QTymU&feature=related)、後日新聞一面トップの総監室内の写真は、当時大学生だった私にとっても大きな衝撃でした。今回あらためて三島由紀夫の檄文(http://www.geocities.jp/kyoketu/61052.html)を読み返しましたが、彼の強い思いは昔よりも理解出来たような気がします。ニュース録音によると、演説途中に「お前ら聴け、よく聴け!」と何回も繰り返す彼の言葉から、当初の準備していたメッセージと現実とのギャップを、彼はバルコニーの上から感じていたのではないか、と今私は彼の心中に思いをはせます。

東京裁判の場としても有名な大講堂

東京裁判の場としても歴史に残る大講堂(当時の2階傍聴席から)

  一方一階大講堂、本来は陸軍士官学校建物で正面が「玉座」でしたが、その後大本営、終戦後、昭和21年5月から23年11月までの間、極東国際軍事裁判(東京裁判)のA級戦犯の法廷となり、左側が裁判長他判事席、右が被告席、正面は連合国VIP、手前が傍聴席だったとか。180度逆向きがそもそもの建物の位置と説明がありました。今ある施設は移設・部分復元ですので、率直に言って何となく臨場感は薄かったですね。

 実は私、今、東京裁判のB・C級戦犯の記録をたどる作業を始めています。私の身近な所で、私の知らない事実が間違いなく起こっていたことを最近知りました。もう少し事実確認をはっきりさせた所で、この欄に記録として留めようと思っています。そんな意味からも、今回の市ヶ谷台ツアーは、大変興味深かったです。

世界へ羽ばたけ、山﨑葵さん!

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 我が後輩、高校2年生の山崎葵(http://pksp.jp/yamazakiaoi38/?o=0)さんのライブ(http://www.concarino.or.jp/2020/12/yamazakiaoi/)が、札幌琴似・コンカリーニョ(http://www.kotoni-works.co.jp/company/06/shop/B11035/B11035.shtml)であり、200名を越えて満員の盛況でした。若い観客が多く、私ともう一人の同期生・篠崎正明くんは、最高齢に近い部類だったでしょうか。

発売中のアルバムから

発売中のアルバムから

続々と入場するお客さん

続々と入場するお客さん

  彼女は昨年12月に、自分の曲「ユメノナカ」で第3回ヤマハ・ミュージックレボルーションでグランプリ受賞に輝きました(http://www.youtube.com/watch?v=1_Vr38fAaNo)。

 今年6月に続いて2回目(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=4447)の間近のライブ演奏で、今回3部構成の中で、私は正直、最後の静かな「弾き語り」が心地よかったですね。しかし一部・二部のバンドと一緒の演奏も、若さあふれるエネルギーがまぶしく、今後の無限の可能性を感じもしました。サプライズで終わりに歌った彼女の仲間の女性は、何というかとてつもなく上手でしたね。

 トークでは、狸小路の路上ライブも時々やっているとか。午後8時過ぎの狸小路では、沢山の若者たちがそれぞれにライブを披露しています。韓国・中国からの観光客と思われる方々にもアピールする「何か」があるのでしょう。昔の狸小路には、そんな爆発するエネルギーみたいな力がありました。彼女もアジア系の方々の反応を受け止めているようです。

 このライブ、34期の同窓生が中心となってこの間の準備をされて、当日は朝から舞台の設定他、仕込みも手造りでやり遂げました。そんな40代前半パワーにも心から拍車を送ります。これからどんどん活躍する姿を楽しみにしていると同時に、私たちの世代も応援しています。当日買ったCDは、早速家で聴きましたよ。

 まぶしい程のエネルギーに感謝します!

今年も、生ごみは宝だ!

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 「生ごみは宝だ!日本農業再生への道を探る」と題して、シンポジウムが開催されました。「NPOたい肥化協会:http://www.taihika-kyokai.or.jp/」が主催で、今年で第18回目の「生ごみリサイクル交流会2010:http://www.taihika-kyokai.or.jp/kouryu/18th/18th.htm」です。昨年はこんな感じでしたhttp://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=2018)。

大変熱の入ったシンポジウム

大変熱の入ったシンポジウム

 今年のシンポジウムは、パネラーそれぞれが永年きっちりとしたご自身のフィールドで活動されている方々ばかり、実に説得力のあるお話で、活動報告を越えての大いなる感動を500名の聴衆に与えました。

 

<ご出席のパネリスト:コーディネーターは「NPOたい肥化協会」理事長:瀬戸昌之先生>

 ――長井市レインボープラン推進協議会(http://samidare.jp/rainbow/)委員:菅野芳秀氏  

    テーマ「台所と農業をつなぐ生ごみ堆肥――土はいのちのみなもと」

 ――戸田市環境クリーン室クリーン推進担当(http://www.city.toda.saitama.jp/8/7002.html)副主幹:吉田美枝氏 

    テーマ「生ごみがお花になって還ってきた――農地のない都会の挑戦」

 ――NPO法人・大地といのちの会(http://www13.ocn.ne.jp/~k.nakao/)理事長:吉田俊道氏

    テーマ「土の元気は野菜の元気、人の元気――生命はつながっている」

 

<以下はキーワード>

瀬戸: *家庭ごみ――いわゆる「専門家」には難しい題材、政財界人はお金をかけることばかり考えている

             ――幅広い視野から「循環型」の実践交流が重要

     *「生物多様性」を語る多くの人々は、なぜ「土壌の重要性」を語らないのか!

     *これまで土を「育む」のではなく、「略奪」してきた

菅野:  *レインボープランの取り組みは、「8年間の検討期 + 13年間の実践期 = 21年間の歴史」

     *私たちは「土」を食っている――「土」の弱りは、生命力の低い人間の「体」しか創らない

     *将来の「まち」を語るなら、「土」を語らなければならない、私たちは「土」の化身

     *可能な「土」の力をどうやって復活するのか!!農水省の政策では全くなし、生ごみは素晴らしい栄養バランス

     *「循環:消費者は生産者、生産者は消費者」、「ともに:このちで世代交代する為に」、「土はいのちのみなもと

     *「新しい『土』との関係づくり」、まず「土」への謝罪から始めるべきではないか、壮大な「循環」への取り組みへ

     *堆肥を入れること――>土の中の「生態系の回復」に他ならない

     *経済効果がいのちよりも上回る筈はない

     *「森の循環」を「まちづくり」に

吉田:  *「生ごみはお金がかかる」ではなく、「生ごみはお金に‘なる’」――生ごみがお花になって還ってきた取り組み

     *環境と福祉の連携、そしてエコポイント獲得・地域通貨へと

吉田:  *皮(バリア)と芽(成長点)を観察する重要性

     *生ごみが発酵して熱く感じた所からの教育  「生ごみリサイクル + 農業体験 =食育 」

     *「土づくり」は「血」づくりから

 

 とにかくいずれも大変な迫力のプレゼンでした。文字にするとあの場の熱気をお伝えできないのが残念です。「円高」、「不況」と騒がれていますが、新しい日本の「成長戦略」が、これら「農」分野に沢山あるような気がします。問題は「哲学の欠如」、「現在を大きな歴史の転換点と認識できないこと」、ではないかと思います。

 今、重要なのは、まず身近な「大地」、或いは自分の「庭と」しっかり向き合い、観察して、真摯に耕すことではないでしょうか。

岡田武史と我喜屋優に見る監督像

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 今年のサッカーW杯南アフリカ大会、海外でW杯初勝利、自国開催以外で初のベスト16進出の輝かしい成績に日本代表を導いた岡田武史監督が、幾つかの新聞に率直な気持を吐露しています。昨年の8月にこの欄で、私は高校野球の香田誉士史監督に感謝の気持を書きました(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=1904)。素晴らしい成績の裏には、必ずそのチームの監督の突き抜けた努力と哲学がありますね。今年の春・夏連覇の高校野球、沖縄県代表の興南高校(http://senior.konan-h.ed.jp/)・我喜屋優監督も全く同様です。

 新聞によれば、岡田監督は鳩山首相から菅首相に代わったことを知らないほど、W杯へのチームづくりに集中していたようです。また、一時、大会終了後は農業に従事したいとの報道も流れましたが、あれは外国メディアに「晴耕雨読:せいこううどく」を英語で説明した所、「晴れた日には土を耕す」の部分だけが報道されたと自分の英語力の不足も語っていました、聞いてみないと分からない、面白い話ですね。

 「自分の理想としては『美しい』だけではだめ。確かに戦術的にはバルセロナ(バルサ:http://www.fcbarcelona.jp/)のようなサッカーが好きだけど、必死にプレーする選手を見て、なんでこんなに必死になってボールを追っているのかという感動がプラスされないとダメだと思う。理想のサッカーを問われれば、戦術的なことよりも、まず感動だと考える」

 パラグアイ戦の直後のコメント、「もう一試合やらせてやりたかった」。そして後日、「選手たちは代表として無心になっていた。しかし、何だかんだ言いながら、ベスト16になって周囲からすごいと言われて、どこか満足している自分がいたのだと思う。それを何とか追い払おうと選手にも強いことを言ったりしたが、あそこで勝てず、最後の自分に執着心が足りなかった。経験が無いから最後のハングリー精神がなかったと、負けた瞬間に直感的に感じた」と振り返っていました。

 我喜屋優監督は、春の選抜大会で優勝した翌日から、「優勝チームはすでに終わり、またゼロから夏に向かって新しいチームをつくろう!」と生徒たちに厳しく語り、基礎練習からやり直したそうです。夏の優勝直後のインタビューでは、「夢がかないました、沖縄県民の!」。いずれも修行僧のような自己に対する厳しい姿勢、そして哲学、まさに勝つべくして勝った、そんな気がしますね。

 岡田監督、我喜屋監督とは比べものにはなりませんが、30数年前の私の監督経験(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=27)でも、似たようなことを感じました。忘れもしません、都大会準々決勝でした。私が教員だった中学校の女子チームは、江戸川区新人戦で優勝、夏の地区大会でも準優勝、そして区代表として全都560校の代表チームで戦う都大会に出場して次々と勝ち上がり、準々決勝に進みました。1セットを取り、2セット目も7-0と圧倒的にリード、監督の私は次の準決勝のこと、更に全国大会への出場を一瞬考えたのです。そんな集中力を欠いた雰囲気が瞬間選手たちに伝わったのか、あれよあれよという間に追い上げられて、追いつかれて、逆転され、セットを失い、変わった流れを元に戻すことが出来ずに、結局次のセットも失って敗戦となりました。

 試合後、私は無言で選手と一緒に遠い学校に戻って、反省会で子供たちに謝りました。「君達にはまだまだ試合をさせてやりたかった。先生の油断と志の低さで申し訳ないことをした」と。心のどこかで都大会ベスト8で満足していた自分が居たのだと思います。本当にあの時の子供たちは、控えの選手も含めて1年間363日練習に明け暮れて、良く努力しました。自分にもう少し経験があれば・・・・、人生であまり後悔というのはないのですが、今でも悔いの残る試合でした。「自分自身がしっかり目指していなかった」、そんな自らの甘さを誰よりも自分が感じていましたね。

 その後経営者として全責任を負う立場に就いた時、私はこの監督経験から学んだことを肝に銘じていました。強い信念を持ち、しっかり構想して、集中力を持続し諦めずにやり抜くこと、それが組織責任者のあるべき姿だと。

 この数カ月、素晴らしいチームを育て率いた監督から、沢山のメッセージを受け取りました。岡田武史監督、我喜屋優監督、本当にお疲れさまでした。

「咸臨丸」、「開陽丸」、そして五稜郭

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 7月のこの欄にも書きましたが(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=4431)、今年私は船にこだわっています。 

 道内には歴史に名を残した船とゆかりの深い場所が幾つかあります。まずは、道南の木古内町サラキ岬、咸臨丸座礁・沈没の碑です(http://www.town.kikonai.hokkaido.jp/kankoujouhou/rekishibunkazai/kanrinmaru.htm)。先日は函館からのレンタカーで一本道を木古内町へまっしぐら、思わず通り過ぎてしまい、Uターンで戻りました。

木古内沖:咸臨丸遭難の碑

木古内沖:咸臨丸遭難の碑

   今年は咸臨丸が太平洋を渡って150年の記念の年で、全国でいろいろなイベントが催されていますね(http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/usa/kanrinmaru150.html)。帰国後は、軍艦から物資運搬船となりました。その後、戊辰戦争で敗れ、北海道移住を余儀なくされた仙台藩片倉小十郎家臣団401名を乗せて仙台の寒風沢を出港した咸臨丸は、箱館経由で小樽に向かう途中、1871年(明治4年)9月20日、木古内町のサラキ岬沖で座礁・沈没しました。乗客は現地の人の懸命の救助により生還し、札幌で現在の「白石区」に移住しました。名前もその仙台藩白石からの由来によるものです。太平洋を渡った乗組員の親族は、現在、「咸臨丸子孫の会(http://www.kanrin-maru.org/)」として東京で元気に活動中です。

 二つ目は開陽丸(http://www.kaiyou-maru.com/)です。こちらは戊辰戦争最後の戦い・箱館戦争の最中に冬の強風により、日本海側・江差沖で沈没しました。軍艦でしたので、沢山の武器・弾薬他が海中に眠り、それらが引き上げ復元されて、現在は江差港に博物館としてその勇姿を現わしています。沢山の砲弾を化学処理で修復する技術等の説明も面白かったです。

復元された江差町の開陽丸

復元された江差町の開陽丸

甲板で

甲板で

 そして、「五稜郭:http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/board_of_edu/lifelong_learning/cultural_assets/goryokaku/goryokaku.html」です。先月、公園内の江戸幕府の「箱館奉行所」が4年間の復元工事を終えて、庁舎全体のおよそ三分の一に当たる部分が完成して、一般公開となりました。全国から結集した宮大工などの職人による日本伝統建築の匠の技により、再現されていました。140年の時を経て、幕末・維新の激動の時期をしのばせる空間でした。

五稜郭タワーから函館奉行所を望む

五稜郭タワーから箱館奉行所を望む

復元技術の粋を集めて

復元技術の粋を集めて

 安政元年(1854年)の日米和親条約により、箱館と下田が開港され、当初は奉行所が箱館山麓に設置されていたそうです。防備上の理由から内陸にその後移設し、ヨーロッパの城塞都市を参考にしながら、西洋式土塁を考案し、星型五角形となりました。ちなみにこの「五角形:ペンタゴン」は多くの謎を秘めているようです(https://aspara.asahi.com/blog/science/entry/Zm7vA8rWXp)。

 艦船も城も、幕末の諸外国に学ぶ姿勢の象徴であり、当時の日本人の心意気を知ることができますね。開陽丸の展示にもありましたが、今とは比較にならない年月をかけて海外へ渡り、滞在し、学び、持ち帰って新しい日本の礎を築いた多くの志ある人々の軌跡に、歴史の重さを感じました。

アジア太平洋の連携とは?

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  今日は、韓国併合条約(http://www.archives.go.jp/ayumi/kobetsu/m43_1910_01.html)・締結100年の記念すべき日です。「日韓併合100年」の今年は、歴史認識に関わる重要な節目としなければなりません。

 先日来、「将来のアジアの中の日本」を展望する幾つかの会合に参加しています。6月大阪で「ナレッジ・キャピタル・トライアル:http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=4441」、更に続いて「API・リレー講座4・5回:http://apipc.org/2010/08/post-14.html」で、主催はアジア太平洋研究所推進会議(APIPC:http://apipc.org/-forum/)です。

APIの構想図

APIの構想図

 リレー講座の4回目は、慶応大学・村井純(http://vu9.sfc.keio.ac.jp/faculty_profile/cgi/f_profile.cgi?id=859452959bdc256a)教授でした。「アジア太平洋のネットワーク型発展における情報と次世代ICT」と題して、ICT(情報通信技術)からみたアジア太平洋地域の変遷について、多国間交渉を含めた大変興味深いお話でした。インターネット等を、外交的・経済的枠組みづくりの視点から位置付けた戦略を垣間見た気がします。

 今年1月21日、ヒラリー・クリントン長官が、ルーズベルト大統領の「4つの自由:http://aboutusa.japan.usembassy.gov/j/jusaj-majordocs-freedoms.html」にプラス「接続の自由」を演説で表明して、中国のグーグル問題に対して「Internet Freedom」を提唱しました。私たちが自覚するかしないかは別として、この間のアメリカの最大の関心事は、やはり中国との対話だったようです。「自由」は裏を返すと、全て「恐怖」と読み替えられます。

 そして今年6月16日、「インターネット・エコノミー」について原口総務大臣は、「日米政策協力の決定:http://www.soumu.go.jp/menu_news/s-news/02tsushin06_02000027.html」を発表しました。振り返るとクリントン政権では、「情報スーパーハイウェー」といってデジタルインフラの促進でしたが、現在の主たるテーマはその第2ラウンド、「グローバルな空間で経済がそこにのっている時に、各国の責任をどう持つか」で、ヒラリー国務長官のメッセージもそこにありました。

以下、幾つかのキーワード:

* 2001年の「IT基本法:http://www.kantei.go.jp/jp/it/kihonhou/honbun.html」の制定――日本国民がインターネットのようなデジタル情報基盤を使って、知識や情報を誰もが共有・交換出来る社会を作る、と書かれている

* デジタル・コミュニケーションのユニバーサル・サービス化というのは、今や「医療」や「教育」といった知識に対するアクセスになり、政治に対する参加にすら関わってくる

* アメリカのインターネット・ビジネスの主戦場は、中国マーケット

* 日本における重要なメディアは「電話」と「テレビ」、日本では「新聞」と「テレビ」が内容的に同期しているのが世界的に例外

* グローバルな社会がインターネットで出来るが、その時に「文化」はすり減るのか、それとも力強くなるのか、インターネット始まって以来の課題

* 「Twitter」という技術は侮れない

* 「クラウド・コンピューティング」で出てくる課題は、データを盗まれた時、どの国の法律で裁くのかである

 オンラインでの授業・HPを介した大学の進化、グローバル空間のガバナンスをどう行うか、国際的課題について日本での議論も活発にする必要があるようです。メディアを先頭に、そんな時代のリーダーシップを期待したいですね。

 

第5回目は、ケント・カルダー教授で、テーマは「太平洋パートナーシップの将来の鍵とは何か」でした。ケント・E・カルダー(Kent  E. Calder )教授は1948年生まれ、専門は日本政治、日韓の比較政治、東アジアの国際関係等です。現在はジョンズホプキンス大学http://www.thepath.jp/archives/2006/04/11/johns_hopkins_university.html教授、同高等国際問題研究大学院(SAIS)付属エドウィン・ライシャワー東アジア研究センター長を務めています。久しぶりに先生とお会いし、講演後に札幌での想い出話でしばし懇談することが出来ました(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=2510)。

 日米両国は今、新しい時代を迎えていること、すなわち「直接投資」、「文化交流」、「技術投資」、「安全保障」分野で積極的な協力を推進していくべきと力説しました。沢山の人脈を形成しているこれまでの日米関係に関わってきた人々、そんな財産を大切にしつつ、これからの新しい日米関係を新しい担い手によって前向きに構築していきたいものだと痛感しました。

芸術・文化の夏が続きます!

Posted by 秋山孝二
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 道立近代美術館(http://www.aurora-net.or.jp/art/dokinbi/)では、「古代ローマ帝国の遺産:http://www.aurora-net.or.jp/art/dokinbi/exhi/special/special_new.html」と題して、「栄光の都ローマ」と「悲劇の街ポンペイ」を軸とした貴重な展覧会が開催されています。特にポンペイは、ご存じのようにヴェスヴィオ火山の噴火により周辺の街が一瞬にして火山灰や土石流に埋まり、逆に18世紀から今日まで続く発掘により、まさにタイムカプセルとして当時の街をほぼ完全な姿で、私たちは見ることができます。

北海道立近代美術館で

北海道立近代美術館で

  私が特に印象に残ったのは、古代ローマ帝国の上下水道等の生活基盤・インフラ設備の充実です。浮ついた栄華ではなく、広く民の暮らしへの身近な応用技術は、当時の指導者の見識を見る思いです。ギリシア芸術・文化に接して、自らの貧弱さを意識した一連の記述、国とリーダーの力も、説得力が抜群です。そして日本の大学を含めた今もなお続く発掘作業が、歴史の連続性を伝えてくれます。これからもまだまだ新しい発掘による発見が期待出来ます。

 

 同じ日の午後、今度は演劇です。毎年暑い夏に札幌にいらっしゃる楠美津香(http://kusunoki-mituka.com/index.html)さんの「超訳シェークスピア:夏の夜の夢」です。「格闘技系シェークスピア」ともいわれ評判ですが、とりわけプロレスをする訳ではありません。

楠美津香さんの「超訳一人シェークスピア」

楠美津香さんの「超訳シェークスピア」

 冒頭に難解なシェークスピア劇の登場人物の分かりやすい説明と関係性の解説があり、そのボードを横に置いての一人芝居なので、休憩をはさんだ約2時間もあっという間です。どうやってあの膨大なセリフと複雑な関係性を覚え、再現するのか、ただただ驚きですね。「ひとりシェークスピアシリーズ」も面白いですが、数年前の「東京美人シリーズ」も素晴らしかったです。

 先月、美輪明宏さんのHPから次のように引用しました。

~~~~~~~~~人間は肉体と精神とでできています。
肉体を維持するためのビタミン剤や栄養補助食品は過剰なくらい出回っているし、
それらのものに関しては、あなた方もとても敏感に反応する。
なのに、もう一方の精神を健やかに維持するものに対して、あまりに無頓着です。

では、精神におけるビタミン剤や栄養補助食品に匹敵するものは何か?
それこそが「文化」なのです。・・・・・・・ ~~~~~~~~~~

 古代遺産が発する芸術・文化の香り、そしてプロフェッショナルの舞台、まさに暑い夏のひと時、そんな時間・空間でした。

「Bandoneon solo」の夕べ

Posted by 秋山孝二
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  札幌市西区琴似のレッドベリースタジオ(http://www.akai-mi.com/)で、開設10周年記念特別企画・「Bandoneon solo:小川紀美代(http://www5c.biglobe.ne.jp/~kimiyo/)」ライブがありました。会場は冷房設備も今年から完備され、ひと時バンドネオンの音色で溢れました。

ライブのチラシより

ライブのチラシより

世界で活躍する小川紀美代さんの演奏

世界で活躍する小川紀美代さんの演奏

 バンドネオン(Bandoneon:http://www.yk.rim.or.jp/~msda/1%20%20gakki.html )は、アルゼンチンタンゴで有名ですが、生まれはドイツとのことです。アストル・ピアソラ(Astor Piazzola:http://www2s.biglobe.ne.jp/~cama/tango/piazzola/piazzola.html)は何といっても第一人者です。日本人のプロで海外でも活躍する女性は、彼女以外ほとんどいません。毎年南米アルゼンチンへ演奏旅行に出かけて、本場のミュージシャンとのコラボレーションで腕を磨いているようです。オリジナル曲、「リベルタンゴ:http://www.todotango.com/spanish/las_obras/grabacion.aspx?id=1307」、「忘却(Oblivion):http://www.youtube.com/watch?v=0adwx5hDcVs&feature=related」等、多彩な演奏で素晴らしかったです。

 巷では、Yo-Yo-Ma(http://www.yo-yoma.com/)のリベルタンゴ(http://www.youtube.com/watch?v=z_exd6U1ubY&feature=related)が有名ですね、先日彼を「若手」と書きましたが、彼もすでに55歳でした。映像にもありますがタンゴの踊りも、音楽とともに情熱的で魅力的です。

 小川紀美代さんのバンドネオンの奏でる音楽で、タンゴの舞いも想像し、普段使わない私の脳ミソも刺激を受けました。これからも益々ご活躍を期待しています、素晴らしい演奏をありがとうございます!

私にとっての「沖縄」

Posted by 秋山孝二
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  戦後65回目の今日です。「私にとっての『沖縄』」と題してこの欄の下書きを始めて、一カ月があっという間に経ってしまいました。こんな状態が私にとっての「沖縄」なのでしょう。

 私はこれまで2回沖縄に行ったことがあります。最初は今から20年ほど前に、スキューバダイビングを目的として「万座毛:http://kankou.e-pon.jp/manzamou/」周辺で数日、その間、嘉手納基地(http://www.kadena.af.mil/)に知人にご案内をして頂きました。昔、千歳のクマ基地の想い出がおぼろげにあった私ですが、嘉手納基地は比較にならない程広大な「コミュニティー」でした。この時は基本的には観光目的で、戦跡等とは無縁でした。

 2回目は10年くらい前、医薬品卸会社の営業担当副社長として、全国の営業部訪問の一環で沖縄を訪問しました。会議終了後に会社関係者に案内して頂き、摩文仁の平和祈念公園、慰霊碑、ひめゆりの塔、地下壕、首里城等を、かなり時間を掛けて回りました。当時、私は名古屋に単身赴任でしたが、摩文仁の北海道関係者の慰霊碑で、24万人のうち1万人以上の戦没者の名前を見て、あらためてその犠牲の大きさに胸を痛めました。先日8月13日NHK総合:北海道プラス「北海道民の沖縄戦:http://cgi4.nhk.or.jp/hensei/program/p.cgi?area=700&date=2010-08-13&ch=21&eid=52764」で、詳細に報道されていました。

2010.6.23札幌での慰霊祭

2010.6.23札幌での慰霊祭

 今、藻岩山の麓にある慰霊碑の前での式典は、今年が最後とのこと、来年には慰霊碑を札幌市中央区の市営地下鉄幌平橋からほど近い札幌護国神社(http://www3.ocn.ne.jp/~gokoku30/)に移転することになったそうです。

 更に沖縄を一層近いものにしたのは、経営者で尊敬する浦崎さん(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=1152)とのお付き合いからです。沖縄の家族の強い絆について、貴重なお話の数々をお聴きしました。

 それ以降沖縄に関するニュースには、特に沖縄戦に象徴されるように、第二次世界大戦後の日本本土との関係、沖縄返還他、新しい事実も知ることにより、自分なりに意識をあらたにしています。メディア報道でも、今年に入ってかなり放映されていますね。

 例えば、W杯サッカー・南アフリカ大会の最中に、沖縄返還時の密約に絡む貴重な番組がありました(その後再放送もされました)。沖縄返還時の外務省の若泉敬さんに関して、NHKテレビ(http://www.nhk.or.jp/special/onair/100619.html)、地元・琉球新報の記事(http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-2174-storytopic-1.html)。沖縄戦に関しては、 NHK教育テレビ・ETV特集第318回(6月27日)「よみがえる戦場の記憶~新発見沖縄戦600本のフィルム~http://www.nhk.or.jp/etv21c/backnum/index.html」、昨年から今年の日米安保条約に絡む米軍基地問題(第310回(4月25日) 「本土に問う~普天間移設問題の根底~http://www.nhk.or.jp/etv21c/backnum/index.html」)等です。

 このシリーズではまた、第285回(昨年8月23日)「シリーズ戦争とラジオ第2回:日米電波戦争~国際放送は何を伝えたのか~http://www.nhk.or.jp/etv21c/backnum/index.html」といった、貴重な報道もされています。

 密約の存在が明らかになったのもそうですが、一連の報道の情報源が、ことごとくアメリカであること、その辺りに先進国(?)としての日本の構造的課題が今も存在していると思います。「歴史の記録」の価値、資料の焼却等の処分により、歴史的事実そのものの削除は、検証を困難にし責任を曖昧にする姑息な手段ですし、日本国民の人権に対する甚だしい冒涜だと思います。「情報公開」の法的整備は、「情報機密」の法的整備にも通じる大切な社会基盤整備です。

 日米関係においては、新政権には冷戦構造後の新しい関係構築に向けた「場」の設定を、基地・核兵器削減を含めた安全保障分野を始め、多くの分野で一歩踏み出して貰いたいと思います。

芸術文化都市・札幌に向けて

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 「『演劇文化は街の活力』~徹底討論:演劇人が活躍する街をめざして~」と題してフォーラムが開催され、私もパネラーの一人として参加しました。

当日チラシ

当日チラシ

  第一部は「リーディングドラマ:札幌賛歌Ⅴ・ジャームがささやいたー札幌の板状土偶譚ー」でした。詩人の原子修さん(http://www.city.sapporo.jp/shimin/geijutsu/award_73.html)の原作を、斉藤雅彰さん(http://www.concarino.or.jp/npo/supporter/)、吉田直子さん(http://www.happy-tealife.com/blog/)が演じ読み、音楽はムックリ他で石井ポンぺ(http://www.sapporoyu.org/modules/sy_myevent/index.php?id_ev_topic=5&indicate=en&event=f)さんでした。

第一部:アイヌ伝統楽器演奏と詩劇

第一部:アイヌ伝統楽器演奏と詩劇

 第二部がパネルディスカッションです。「演劇文化は街の活力~演劇人が活躍する街をめざして~」と題して、横浜でご活躍だった蔵隆司さん(演劇による創造都市札幌プロジェクト代表幹事:http://www.jafra.or.jp/j/library/letter/118/)の基調講演で始まり、平田修二さん(札幌劇場連絡会会長:http://www.s-artstage.com/)、それに私、コーディネートは竹津宣男さん(ハイメス副理事長:http://www.plaza-sapporo.or.jp/citizen/meikan/051.html)でした。

 竹津さんは、札幌交響楽団(http://www.sso.or.jp/)の創設から中心的にご尽力された方で、PMF(http://www.pmf.or.jp/)の立ち上げ・発展にも大変なご功績です。つい先月の北海道新聞夕刊に15回連載でその人生が掲載されていて、大変興味深く読ませて頂きました。私のチェロの恩師・上原与四郎先生(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=4859)とは、竹津さんがホルン奏者として札響でも長い間ご一緒でした。パネルディスカッションの冒頭で、私の過分なるご紹介をして頂きました。

 今、演劇環境にはいくつかの大変前向きな動きが出ています(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=4704http://d.hatena.ne.jp/sapporo_performing_arts_project/20100630/1271735677)。そんな中で、札幌をもっと芸術・文化のあふれるまちにしたい、そんな想いから「芸術・文化フォーラム(ACF)」も3年前に立ちあがりました。

 まちの個性として、演劇による創造都市により担い手育成・鑑賞価値を高め、芸術の香り高いまちづくりをして世界に発信していきたいものです。

広島・長崎から「核なき世界」へ

Posted by 秋山孝二
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 6日広島、9日長崎での原爆慰霊祭は、今年は殊のほかメディアの注目度も高かったような気がします。昨年、私は広島・長崎に行ってきましたhttp://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=1602

 潘国連事務総長はじめ、アメリカ合衆国のルース駐日大使、フランス・イギリスの大使も初めて参加し、「核なき世界」に向けた新たな時代の到来を感じました。昨年4月にチェコ・プラハで、オバマ大統領が「核廃絶」に向けた歴史的演説(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=1100)を行い、その2ヶ月後に私自身、演説が行われたプラハ・フラッチャニ広場周辺に立っていました。子供連れでその場に参加された地元の方は、オバマ大統領の勇気に感動したと語っていました。その後の報道では、「そうは言っても難しい」等のコメントも散見され、相変わらず志の低い日本国内メディアの論調と従来型のコメンテイター群です。

 式典での菅総理大臣とそれぞれの市長のメッセージに、かなりの落差があったのも印象的でした。国際社会の大きな変動の中、この時期に記者会見で「引き続き核の傘の下」をことさら明言する日本のリーダーのセンスに失望します。現実的実践は勿論一歩一歩の交渉であるのは間違いありませんが、この時代の変わり目のこの日にこそ、これからの日本の目指すべき理想をしっかり国際社会に発信する責務があると思います。今言わずして、一体いつ語るのか!

 各国政府代表ばかりではなく、米国人作家のチャールズ・ペレグリーノ(http://www.charlespellegrino.com/)氏も、9日の長崎の平和祈念式典に参列したようです。原爆投下をめぐる著作「ザ・ラスト・トレイン・フロム・ヒロシマ」を1月に出版しましたが、虚偽証言が含まれていたため出版停止になったそうですね。「大きなミスを犯した」と釈明したうえで、「新たに聞いた被爆者の話を加え、書き直した」と再出版への意欲を示してもいるようです。

 この所、テレビではNHK各局を中心に、二重被爆者、被爆者二世等の活動も例年になく報道されています。若い世代の「受け継いでいく責任」等、以前は被爆体験者の高齢化とかネガティブな話に終始していましたが、ここでも時代の変化を感じ取れます。

 そう言えば、先日、NHKテレビ番組で、「核兵器不拡散条約:NPT(Nuclear Non-Proliferation Treaty)http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/kaku/npt/gaiyo.html」について分かりやすく解説していました。相変わらず説明では、兵器の場合の「核」と、エネルギーの「原子力」を意図的に分けていましたが、国際社会的にはいずれも「Nuclear開発」です。日本も国際社会的には十分「核の原材料保有国」となります。

 日米安全保障条約改定に絡む「密約」も明らかになった今、時間をかけてアメリカと軍事同盟だけでなく、本来の日米関係の今後を議論する「場」の設定を創設したいですね。それにしても、過去の歴史的資料もメディア報道も、ことごとくアメリカからの情報をきっかけとして明らかになっている現状は、到底自主自立の先進国とは思えません。

 毎年、「戦争」を深く考えさせられる夏ですが、今年もまた重い8月です。

「北海道モビリティカフェ2010」、開催!

Posted by 秋山孝二
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  北海道モビリティデザイン研究会(http://poro-cle.jp/hmd/)主催で、「北海道モビリティカフェ2010~札幌からはじまる新しい道づくり」が2日間にわたり開催されました。

パネルディスカッション

パネルディスカッション(2日目)

 豊かで魅力的な札幌のマチを持続していく上で、モビリティ(移動に関わるすべてのこと)とはどのようにあるべきでしょうかという問いかけで、様々な視点からモビリティ・デザインを考え、新しい道づくりの提案を試みています。

 全国的に活躍されているNPO法人・自転車活用推進研究会(http://www.cyclists.jp/)の小林成基事務局長の基調講演、多様な方々により、「自転車を巡る新しい風」と題して熱心なパネルディスカッションも繰り広げられました。

 今年の6月からは昨年に続いて、社会実験も行われています(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=4348)。近々新しいモデルの自転車も導入されて、9月末まで貴重なデータが得られそうです。

新しい{Poroco自転車モデル」

新しい{Porocle自転車モデル」の発表も

 「“与景”なことをしよう」、ヨーロッパに根付いている「道は自分たちのもの」という哲学、自転車と自動車の間の未熟な法整備、歩いて暮らせるマチづくり、自転車を「交通手段」として正しく位置づけるべき、道路交通法(http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S35/S35HO105.html)をもっとシンプルに(例外だらけ)、筋の通らない法律は廃止・改訂すべき等、キーワードの連続でした。

「道はだれのもの?、札幌21:http://www.ne.jp/asahi/michiwa/sapporo21/」の10年以上の活動にもあるように、これまで「道路を整備する」というのは、自動車がどうスムーズに走れるかの意味でしたが、本来はどう’人の流れ’をスムーズにするかのはずです。同時にヨーロッパの基盤となっている交通政策の2大軸、「弱者優先」、「公共優先」からもあらためて学ぶ必要があると思います。日本全国各地の交通政策には、「いのち」への哲学が欠如しているではないでしょうか。

 今、札幌都心部で行われている、 ドーコン(http://www.docon.jp/)とNTTドコモ(http://www.nttdocomo.co.jp/)のサイクルシェアリング実証実験「POROCLE(ポロクル):http://poro-cle.jp/」の結果に期待し、自転車の「レンタル」ではなく、「シェアリング」の意味にこだわりたいですね。

変わる、札幌市長公宅・公館跡

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 先月に札幌市中央区北1条西28丁目にある札幌市長公邸・公館の解体が始まり、現在ほぼ更地になりました。昨年下記の議論があったようです。

札幌市の上田文雄市長は3日、市長公宅(同市中央区北1西28)を今年度で廃止し、既に廃止された市長公館とあわせて来年度に解体する方針を表明した。「多額の維持管理費用をかけてまで行政が保有する時代ではない」として、解体後は隣接する円山公園と一体化する。 市議会で公明党の芦原進氏(豊平区)の質問に答えた。上田市長は初当選の03年5月~05年5月に公宅に住んでいたが、その後は自宅に移り、公宅は空き家になっていた。 公宅は1962年建設で86年に建て替えられた。鉄筋コンクリート2階建て延べ256・72平方メートル。公館とあわせて光熱費や警備費などの維持費が年間約100万円かかっていた。市によると、政令指定都市で公宅があるのは、札幌、横浜、広島の3市のみ。 公宅とともに建設された公館は鉄筋コンクリート2階建て延べ355・15平方メートル。賓客の歓迎パーティーなどの会場として使われたが、市内中心部にホテルが増えたため利用が減り、06年7月からは一般市民に貸し出した。維持費が年間1000万円以上かかったことから08年3月に廃止した。

解体がほぼ終わった札幌市長公邸

解体がほぼ終わった札幌市長公宅・公館

 解体後は隣地に接する円山公園と一体化とのこと。実は今、来年に向けてこのコーナーに芸術性の高い公園プロジェクトが検討されています。もう少し時間が経てば明らかになってくるかと思いますので、乞うご期待!!

円山公園と一体化した空間へと変身!

円山公園と一体化した空間へと変身!

  この場所は、私にとっても大変思い出深い場所です。1959年に札幌市長に初当選した原田與作さんがここ(旧公宅)にお住まいの時に、当時小学生だった私は、公宅裏庭の芝生の上でゆっくりお話を伺う機会がありました。丁度、札幌市が「1968年第10回冬季オリンピック大会」の誘致運動の渦中でした。第二次世界大戦前に、一度開催が決まっていた「第5回冬季オリンピック大会」が中止になった経過、それまでの招致運動の苦労話をお聴きしたような気がします。芝生の上で向かい合いながら、小学生の私と同じ目線で長時間丁寧に教えて頂いたことは忘れられません。

 1964年1月のIOC総会では惜しくも落選しましたが、その後の再招致立候補を経て、「1972年第11回大会」の招致に成功しました。原田與作市長は1971年に3期12年の任期を終えられ、大会開催時は次の板垣武四市長が就任、しかし招致のご功績は今も札幌の歴史に刻まれています。その他に1963年 「札幌市民憲章:http://www.city.sapporo.jp/shimin/kensho/」制定、1964年「市民の歌」、「市旗」制定と、今の札幌の礎を築きました。

札幌冬季オリンピック・公式ロゴ

札幌冬季オリンピック・公式ロゴ

  この札幌冬季オリンピック大会では、70M級ジャンプで日本が金・銀・銅メダル獲得、女子フギァスケートでアメリカのジャネット・リンが話題となり、アルペンの滑降競技で男子はスイス:ベルンハルト・ルッシ、女子では17歳の無名の学生、スイス:マリテレーゼ・ナディヒが優勝し、ナディヒは大回転でも優勝して2冠に輝きました。「虹と雪のバラード:http://www.youtube.com/watch?v=Ep1gedXb8ZU&feature=related」も歌い続けられて、札幌市民には忘れられない大会でした。

公式アルバムから「スイス旋風」:優勝したルッシとナディヒ

公式アルバムから「スイス旋風」:優勝したルッシ(左上)とナディヒ(右)

  1994年に、(株)秋山愛生舘が札証上場後に、スイスフラン建ワラント債発行の調印式をスイス・チューリッヒで行った時、開会に先立ち私の挨拶で、この優勝した二人のスイス人のフレーズを紹介した所、その場に集ったスイスの金融機関の皆さまが満面の笑みで、大きな拍手も頂きました。スイスと札幌との距離が一挙に近づいた、そんな感動的な瞬間でしたね。ルッシはその後、実業家として成功しており、ナディヒは子供も生まれて、ともにスイスに住んでいらっしゃると現地の方から聞きました。

 振り返ってみても、札幌というマチの国際化の歴史は、地方都市の中でも抜きん出ていますね。戦後の「さっぽろ雪まつり:http://www.snowfes.com/」、今年はつい先日終わった「PMF:http://www.pmf.or.jp/」、多くの姉妹都市交流等、市民と国際社会の交流は、スポーツ・芸術・文化と幅広く札幌の宝(財産)だと思います。この価値ある「市長公宅・公館」跡に、あらたな国際交流といのちのモニュメントが出来るのは楽しみですね。

ぶどう畑にチャレンジ、三笠・岩見沢で!

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
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 先日お誘いがあって、札幌近郊の三笠・岩見沢のワイン用ぶどう畑を見学してきました。 

 温暖化の影響(?)なのでしょうか、北海道でのワイン用ぶどう栽培がこの所大変人気のようです。特に「ソーヴィニオン・ブラン(Sauvignon Blanc)」、「ピノ・ノワール(Pinot Noir)」の栽培に注力されています。

カヴェルネ・ソーヴィニオンの畑

ソーヴィニオン・ブランの畑

今年は良さそうです

ピノ・ノワール、今年は良さそうです

チャレンジは続きます

チャレンジは続きます

 三笠と言えば「山崎ワイナリー(http://www.yamazaki-winery.co.jp/index.html)」、岩見沢と言えば「宝水ワイナリー(http://www6.ocn.ne.jp/~housui/)」が話題になりますが、その他にも個人的に栽培にチャレンジされている方々が何人もいらっしゃいます。先日も本州から入植されたお二人の方にお会いして、これまでのご苦労話をお聞きしました。まだぶどう栽培のステージで、いずれは醸造も手掛けて、将来的には独自ブランドのワイナリーを目指すのでしょうね。

 私はシャンペン・ワインの特別なオタクではありませんが、これまで外国旅行の時には、数か所で見学・テイスティングの機会がありました。まず印象的な所では、フランスの最高級シャンペン「ドン・ペリニオン」でも有名なモエ・エ・シャンドン(Moët & Chandon:http://www.moet.com/)ですね、一連の工場、ひっそりと時を刻んだ樽が並ぶ倉庫の見学も忘れられません。旅行中はバスで足の確保も出来ているので、試飲も思いっきり出来ます。

 次はアメリカ・カリフォルニア州ナパのオーパス・ワン・ワイナリー(Opus One Winery:http://www.opusonewinery.com/)です。フィリップ・ド・ロスチャイルド男爵 (Baron Philippe de Rothschild) とロバート・モンダヴィ(Robert Gerald Mondavi)の合弁事業として1978年に設立され、二人の横顔がシルエットで描かれている有名なロゴです。ナパバレーというのでいわゆる渓谷かと思いきや、ぶどう畑が連なる平原の中にワイナリーがあり、赤ワインの味は素晴らしかったです。さすが試飲の値段も高く、一杯25米ドルでしたが、係の男性がお釣りを間違えて15米ドルで飲んだことになりました。その時の「顧客満足度」は最高でした!お釣りの間違いも計算された(?)演出だとしたら、「恐れ入りました」ですね。

 そして一番直近では、今年3月の南アフリカ最古のワイナリー、ケープタウンのグルート・コンスタンティア(Groot Constantia:http://www.grootconstantia.co.za/)です。ここは10数種類の中から5種類を選んでのテイスティングで、しかも安く、帰り際にここのぶどう畑から一粒をつまんで口に入れましたが、大変濃厚な甘みでした。歴史があるだけに落ち着いた雰囲気を感じました。

 普段ワインを飲んでいると、勝手な物語でワイワイやっていますが、ぶどう生産で苦労する現場をしばし自分の目で見てしまうと、またその価値の奥行きを噛みしめながら飲まねばと、少々かしこまった気持になります。ぶどう畑で笑顔いっぱいで夢を語り、北海道の新しい土地で挑戦する方々のご健闘を祈念致します。