「咸臨丸」、「開陽丸」、そして五稜郭

Posted By 秋山孝二
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 7月のこの欄にも書きましたが(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=4431)、今年私は船にこだわっています。 

 道内には歴史に名を残した船とゆかりの深い場所が幾つかあります。まずは、道南の木古内町サラキ岬、咸臨丸座礁・沈没の碑です(http://www.town.kikonai.hokkaido.jp/kankoujouhou/rekishibunkazai/kanrinmaru.htm)。先日は函館からのレンタカーで一本道を木古内町へまっしぐら、思わず通り過ぎてしまい、Uターンで戻りました。

木古内沖:咸臨丸遭難の碑

木古内沖:咸臨丸遭難の碑

   今年は咸臨丸が太平洋を渡って150年の記念の年で、全国でいろいろなイベントが催されていますね(http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/usa/kanrinmaru150.html)。帰国後は、軍艦から物資運搬船となりました。その後、戊辰戦争で敗れ、北海道移住を余儀なくされた仙台藩片倉小十郎家臣団401名を乗せて仙台の寒風沢を出港した咸臨丸は、箱館経由で小樽に向かう途中、1871年(明治4年)9月20日、木古内町のサラキ岬沖で座礁・沈没しました。乗客は現地の人の懸命の救助により生還し、札幌で現在の「白石区」に移住しました。名前もその仙台藩白石からの由来によるものです。太平洋を渡った乗組員の親族は、現在、「咸臨丸子孫の会(http://www.kanrin-maru.org/)」として東京で元気に活動中です。

 二つ目は開陽丸(http://www.kaiyou-maru.com/)です。こちらは戊辰戦争最後の戦い・箱館戦争の最中に冬の強風により、日本海側・江差沖で沈没しました。軍艦でしたので、沢山の武器・弾薬他が海中に眠り、それらが引き上げ復元されて、現在は江差港に博物館としてその勇姿を現わしています。沢山の砲弾を化学処理で修復する技術等の説明も面白かったです。

復元された江差町の開陽丸

復元された江差町の開陽丸

甲板で

甲板で

 そして、「五稜郭:http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/board_of_edu/lifelong_learning/cultural_assets/goryokaku/goryokaku.html」です。先月、公園内の江戸幕府の「箱館奉行所」が4年間の復元工事を終えて、庁舎全体のおよそ三分の一に当たる部分が完成して、一般公開となりました。全国から結集した宮大工などの職人による日本伝統建築の匠の技により、再現されていました。140年の時を経て、幕末・維新の激動の時期をしのばせる空間でした。

五稜郭タワーから函館奉行所を望む

五稜郭タワーから箱館奉行所を望む

復元技術の粋を集めて

復元技術の粋を集めて

 安政元年(1854年)の日米和親条約により、箱館と下田が開港され、当初は奉行所が箱館山麓に設置されていたそうです。防備上の理由から内陸にその後移設し、ヨーロッパの城塞都市を参考にしながら、西洋式土塁を考案し、星型五角形となりました。ちなみにこの「五角形:ペンタゴン」は多くの謎を秘めているようです(https://aspara.asahi.com/blog/science/entry/Zm7vA8rWXp)。

 艦船も城も、幕末の諸外国に学ぶ姿勢の象徴であり、当時の日本人の心意気を知ることができますね。開陽丸の展示にもありましたが、今とは比較にならない年月をかけて海外へ渡り、滞在し、学び、持ち帰って新しい日本の礎を築いた多くの志ある人々の軌跡に、歴史の重さを感じました。

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