今年2月に設立されたメディア・アンビシャスhttp://media-am.org/主催の「裁判員制度とメディア」が開催されました。今回は1)制度に対する提言、2)裁判員になる人への提言、3)メディアに対する期待と提言、を目的としたパネルディスカッションでした。
今月5月21日から実施される日本の裁判員制度は、アメリカ型の「陪審制」ともヨーロッパ型の「参審制」とも違った独自の制度とのことです。http://www.saibanin.courts.go.jp/introduction/
制度に対する課題の提起、期待する事等、パネラーの方から発言があり、その後フロアーからの質問に対してのコメントもありました。「市民感覚」をどう刑事裁判に取り入れるか、制度開始以降も慎重に推移を見極めて、制度の修正に対しても真剣な議論が必要な気がしました。また、メディアのこの制度に与える重要性も指摘され、昨今の一連の過剰報道に対する不信感も強く指摘されていました。以下、幾つかのキーワードを書きとめておきます。
*本来は、「小さな政府」=「小さな権力」、と思いこんでいたが、実は「責任のアウトソース化」に過ぎず、権力は保持するという グロテスクな姿の一つが、今回の裁判員制度である
*現在の絶望的裁判の改革に別の方法がないのか、という素朴な疑問。検察有利には変わりはない
*「量刑の判断」を裁判員に課すのは、過大な負担ではないか
*迅速な裁判の手段としてこの制度導入があるとすれば、拙速な裁判への懸念の方が重要。国家が行う人権侵害に対しては慎重であるべき
*「公判前審議」に市民を入れなくて良いのか
*自由に辞退できないのは、「苦役の強要」ではないか: 参加する権利とすべき
*守秘義務があまりにも広すぎるのは、むしろプロセスの検証が出来ずに密室化する
*メディアの立場としては、取材できる部分がほとんどない
*この制度がなぜ必要なのか、国民に説明できていない――棚上げして導入したのではないか
*裁判のワイドショー化に拍車をかける危険性とメディアの裁判員判断への影響力
*当局の“ほのめかす供述”という発表について、本来の意味を捜査側・メディア側は承知しているが、国民は理解していない
*国民・メディアは検察の正当性を注視し、裁く対象は被告人ではなく、検察そのものである
*捜査中心から公判中心の報道へ
*被疑者の人権、犯罪者の社会復帰等の更生保護が重要
*これまでのようなメディアと世論の熱狂の中で、どこまで「市民感覚」が理性的でいられるのか
*権力の質的変化を促すのではないか: すなわち刑罰の質が変化し、国家のあり方が変わる
一生に一度とは言え、量刑判断までに及ぶ新しい「裁判員制度」、どんな分野においても新しい社会制度導入には、念入りの慎重な周知徹底と時間が必要であったと思います。そして今となっては、「仕方がない」ではなく、導入後も改革すべきは速やかに発言し行動する責任が、国民にはあると思います。「思考停止」であってはなりません。これまで私は裁判の傍聴には何回も足を運んでいますが、あの場の強い違和感は「タコ壺」の雰囲気です。分かる人が分かれば良いと言ったメッセージが法廷から発信されています。今回の新しい制度が、これまでの裁判官の市民への姿勢、及び裁判そのものの改革の風穴となる事を願ってやみません。