身内の高齢者を看取った何人かの方からお話を聴いていると、今の日本で高齢者への医療・看護・介護の研究および臨床例の蓄積が、本気で為されているのかどうか、強い疑問を抱く時が多いですね。急性疾患に対する治療については、沢山の臨床医師が興味を持ち、研究も進化しているのでしょう。また昨今では、慢性疾患についての研究にも大きな進歩が見られます。ただ、高齢者に対する医療・看護の現場、介護の現場は、それらに比べると余りに画一的であり、死にいたる過程への寄り添いがないと思うのです、特に病院内では。こうすると良かった、ああいう最期で本当に良かったのだろうか、と葬儀の後も自分を責め続ける数多くの残された家族の方々のお話に、日本の高齢社会の未熟さを感じます。残された家族の納得性に欠けるとでも言うのでしょうか、医療に従事する人々ばかりではく、宗教と日常生活の関係性とか、沢山の課題が山積しています。
日本のように、これ程のスピードで社会に占める高齢者の比率が増加した国は、歴史上にありません。従ってまだまだ本当に高齢者の幸せな最期、あるいは理想的な家族の看取りが実現するには、これから数十年の歳月が必要なのかも知れません。それまでは「諦め:あきらめ」と共に,気持の整理をつけなければならない辛い日々なのでしょう。
人生の終わりは百人百様です。病気によってもその過程が大きく変わりますし、家族の意向として命を長らえる事よりも、むしろ手術等は出来るだけ行わずに、自然体の最期を希望する場合もあるでしょう。ガンなどの場合は痛みの除去を最優先にして貰いたいとする場合も多いかと思います。その人の人生の終末は、究極の自主自立的意思かも知れません。自分の身内の経験からも感じるのですが、生前に何回もそんな人生の終局部分について、自然な形で明るく語り合える時間を持っていたいものと思いますね。
病院内で人工呼吸器等の人為的な方法で「生き延びさせられている」場合は別でしょうが、あらかじめの意思により自然体で最期を迎える高齢者というのは、亡くなる直前まで、想像以上に意識ははっきりしている気がします。ごく普通に会話をしていた、と看取った方から伺う場合が多いです。より長く生きるばかりではなく、その人らしい最期をどう遂げさせてあげるか、そんな事も「Quality of Life」の一環で、真剣に研究する価値があると思います。
「Quality of Life」で思い出しましたが、普通「生活の質」と多くの方が訳していますが、今から約28年前に、アメリカのビジネススクールで日本企業の人事政策を研究している大学教授が、これを「生き甲斐」と訳すのが最も適切であると私に語っておりました。アメリカ人の研究者から、「生き甲斐」という言葉が出てきて、あらためて精神的領域での奥行きを教わったような気がしました。