時事通信社週二回発行の『厚生福祉』に表紙の巻頭言を書いて2年で10回目、私の文章です(第6912号)。「寄り添う姿を求めて」と題して、財団運営で肝に銘じている点も含めて自戒を込めての文面です。
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寄り添う姿を求めて
今年5月1日に熊本県水俣市で開催された水俣病被害者・支援団体と環境相の懇談で、被害者側の発言中に環境省職員がマイクの音を切った事件、私は時を経た今も被害者の方々の表情を忘れることができません。戦後、高度経済成長の時代を経て、わが国は水俣病・イタイイタイ病などの公害問題に直面し、1971(昭和46)年に環境庁が設立した経緯があります。そしてこの日は、68年前に水俣病が公式確認された日です。大臣はこの記念すべき日、犠牲者慰霊式に出席した後、8団体との懇談に臨み、職員は予め設定したシナリオ「1人3分」を超過したとしてマイクの音を切って発言を遮りました。更に驚くべきことに、懇談の後、大臣は「音が切られたことは認識していなかった」と釈明したのです。そこに居た発言者のお一人は、その後、記者に対して「かつてのチッソの社長と同様、傲慢で儀礼的で切り捨ての姿勢は当時から何も変わっていない、これが行政の本質!」とおっしゃっていました。2011年の東日本大震災での原発事故を「放射能公害」と表現した方がいましたが、その後の企業・行政の対応をみても、以前の公害と同様の体を成している気がします。
以上のように憤りは収まらないのですが、今一度足元の自分の活動を振り返ると、自らにもその矢は向けられることに気が付きます。日々「生命科学」を名乗る財団活動上、中間支援、助成財団として常に「託す」思いで寄り添っていくことを肝に銘じています。資金的に応援するだけでなく、研究者・市民の活動にエールを送り続ける、大変難しい立ち位置ですが、そんな姿勢と言えましょうか。ほぼ40年この財団活動に携わりながら、「心に寄り添う」姿勢って、実に微妙で難しいと感じています。
子供たちの世代に、多大な国の負債、放射線汚染物質を付け回さない努力、それは戦後日本を生きた我々の世代の責任なのだと思います。「個人の尊厳」、「自由」と言っていたものはただの安っぽい「私生活主義」に過ぎなかったのではないか、そば打ちと旅行三昧の定年後の生活で本当にいいのか、1960年後半・70年代に主張したメッセージを今どう考えるのか、与えられ恵まれた環境をただ消費してきた世代等、若い世代からの厳しい問いかけに応えなければなりません。
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